郊外のゆくえ~アーケイド・ファイア『The Suburbs』論~

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ようやくPrivate Top 10s of 2010も第一弾を掲載完了し、編集部側としてもやれやれひと段落(「遅ぇよ!」って声も聞こえてきそうですが、そこはまぁ...)。

いろんな人たちの年間ベストがずらりと並んでいるのを見ると、本当にいろんな観方(聴き方)があって、数多くの作品がリリースされているのだなと思う。もちろん、知らない作品も正直多い。リスナーが横並びになって同じものを聴く時代はとっくの昔に終わったのだなと改めて実感させられた(まあ、20代中盤の僕にとってはそんなのとっくの昔から当たり前の感性ではあるのだが...)。

そんな時代に、各メディアやリスナーから圧倒的な支持を集めたのがアーケイド・ファイアの三枚目のアルバム『The Suburbs』である。あらゆる年間ベストのたぐいに顔を出し、CD不況のこのご時勢にインディとしては破格のセールスを記録。つい先日にはグラミーのなかでも最高賞にあたる最優秀アルバム賞まで受賞してしまった。2007年にモデスト・マウスが『We Were Dead Before The Ship Even Sank』でビルボード・チャートの1位に輝いたときも相当話題になったが、カナダのこの大所帯バンドが成し遂げたことはそれをさらに上回る歴史的快挙だ。

彼らのグラミー受賞が決まったとき、所属先であるマージ・レコーズ社長兼スーパーチャンクのリーダーであるマック・マッコーハンが日本でジブリの森を満喫していたエピソードにも顕著だが、(欧米の)インディー・ロックが基本スタンスを妥協することなく、名実ともに市民権を獲得したことについては今後大いに議論の余地があることだろう(残念ながら、日本国内では彼らの快挙はまるで話題になっていないし)。正直にいえば僕は彼らの熱心なファンではないけれど、テリー・ギリアムが監督を務めて世界中に中継された8月のライブには身振るいしたし、ここまで露骨に強い物語性と意志を有する音楽がポップ・ミュージックの世界で広く賞賛されるのは喜ばしいことだと思う。

今回お届けするのは、そのアルバムをテーマに書かれた八木皓平さんの原稿だ。現役の学生である彼は過去にもこのコーナーに登場し、ツイッター上でも日々熱い議論を交わしている。つい最近、クッキーシーンのコントリビューターをお願いすることになり、アーケイド・ファイアと同じカナダのこれまた素晴らしい才人、デストロイヤーの作品についてのレヴューで先ごろ無事デビューを果たしていただいた。

実は原稿自体は9月(だから、コントリビューターをお願いするずっと前)にいただいていたのだが、ドタバタしたまま宙ぶらりんとなってしまい、この時期の掲載となってしまった。本人にはごめんなさいとしか言いようがないが、アーケイド・ファイアのこのアルバムはレコード屋さんに並んだ時点ですでにクラシックとしての風格を讃えており、今後なんども繰り返し語られ、事あるごとに参照点となるべき作品である。ウェブ媒体にもっとも求められるのは情報の量とスピードなのかもしれないが、すぐれたポップ・ミュージックは発売日を過ぎても簡単には風化するものではなく、むしろ時間を置くことでより強い魅力を発するようになるものだ(そして奇しくも、この原稿も"時間"を切り口に書かれている!)。

アーケイド・ファイアについて(昨今のインディー・ロック全般でもいいけど)語る人々は総じて文学/哲学的でシリアスな論調に陥りがちであることの理由をむしろ僕は分析したくなったりもするが、文章の感想から作品論、こういった考えに対する意見まで、いろいろな反響があると嬉しいです(こちらからどうぞ)。そういった声も今後はもう少し早くサイトにアップできると思います。

というわけで、どうぞ。

(小熊俊哉)


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 いつだってポップ・ミュージックは「時間」を舞台に歌ってきた。それは「僕」についての、「国」についての、「世界」についての「時間」であり、様々な形をとりながら「時間」はポップ・ミュージックというカルチャーの中心的役割を担ってきた。

 ジョン・ライドンは「英国に未来は無い」、「俺たちこそが未来」と己の国の「未来」を皮肉り、モリッシーは上司に向かって「今のこの仕事 おかげさまで食べるには困らないんですけど 魂が腐りそうなんです」と軽快なメロディに乗せて「現在」を歌い、ポール・マッカート二―は自分を捨てた女のことを頭に浮かべながら「昨日=過去」のことを想う。少し考えれば、これを読んでいる方々の脳裏にもポップ・ミュージックにおいて「時間」が生き生きと表現されている例が即座に浮かぶことだろう。「時間」がポップミュージックの中心テーマとなるのは言うまでもなくそれが我々の意識に絡みついているからだし、そこから逃れられることができ得るはずもないし、イマヌエル・カントが「時間は直観の形式であり、全ての認識の前提条件である」と言うまでもなく「時間」という地平は我々があらゆる物事を認識する基準となっているからだ。

 ベルグソンは「真の時間」である「純粋な持続」をこう言い表している。

「わたしたちは多くの場合、自己に対して外的に生きている。そして自我の色あせた幽霊、純粋な持続が等質的な空間に投げる影しか認識していない。わたしたちの生は、時間のうちではなく、空間のうちに展開されているのである。・・・・しかし自由に行動するとは、自己を取り戻すことである。純粋の持続のうちに自己を置き戻すことである。」

 彼にとって生命とは「真の時間を生きる」存在であり、二度と同じ時間を生きることができない一回性のものであった。確かに我々は「時間」ではなく「空間」でしか生きることはできないのだけれど、「空間化」によって(数値化など)断片となる「時間」では到底計り知れない、一回性の「純粋な持続」=「真の時間」のうちに、自己を置くことによってはじめて自由になると彼は考えた。つまり主体の自由の根拠を彼は「時間」に設定したのだ。これが真実ならば、ポップ・ミュージックは「時間」について歌うことによって彼らにとっての「自由」、もっと言えば「生」について歌ったのだと考えることができる。

 アーケイド・ファイアも「時間」という概念をポップ・ミュージックを用いて表現するアクトの一つだ。ピッチフォークなどのメディアや多くのレジェンド級アーティストから絶賛を浴びたデビュー作のタイトルは『Funeral(葬式)』だった。「葬式」と一言で言ってもその言葉が内包する意味合いは多種多様に存在するが、アーケイド・ファイアにおける「葬式」とは「残された者たち」が「死」をいかにして自分の身に位置付け、対象化できるかというものである。彼らの作品内において「死」んだのはまさしく「過去」であった。そして「残された者たち」とは「現在」のことである。そう、彼らのデビューアルバムは「時間」についての物語であり、「現在」が死んでゆく「過去」を対象化してゆく際に生じる苦悩と葛藤を描いているのである。その証拠に1stアルバムの一曲目「Neighborhood # 1 (Tunnels)」で彼らはこう歌う。

≪かつて知っていたことを みんな忘れてしまおう≫

 全ての記憶の忘却を彼らはこのアルバムの冒頭にて早々と宣言している。そしてここから彼らはその忘却の先に新たに開かれているであろう未来を希望と共に歌っているのかと言えばそうではない。このアルバムはその冒頭から終わりにかけてまで延々と「現在」からの「過去」へのまなざしに満ちている。そのまなざしは「希求」と「決別」の二者に大きく引き裂かれ、彼らの表現の中核を担っている。

≪手持ちの写真の中の/僕らの姿を破り捨て/手元の手紙の中の/僕らの名前をみんな消してしまった≫(「Neighborhood # 2 (Laika)」)

 ロラン・バルトは写真とは歴史を免れているものであり、写真というメディアが確立するものとは、そこに写っているものが「そこにかつてあった」という意識であると主張する。アーケイド・ファイアはそこに我慢がならない。写っている過去の「僕ら」を破り捨て、そしてあろうことか、己が己である証である名前までも消し去ってしまう。彼らの過去への「決別」の意思は強固である。しかし、彼らは「Crown Of Love」でこうも歌う。

≪僕は君の名前を目蓋に彫り込んだ/きみは雨よ降れと祈り、僕は目よ見えなくなれと祈る≫

「僕」は「君」の名前を目蓋に彫り込む。ここには「僕」の「過去」に対する痛々しいまでの希求が感じられる。しかし、すぐさま「僕」はその目が見えなくなるように祈る。ここにアーケイド・ファイアの「過去」に対する態度が見事に表れている。この「過去」に対するアンヴィヴァレントなまなざしが彼らの表現に覆いかぶさっている。

 しかし、彼らは2nd『Holy Bible』において、「過去」という主題から少しばかり距離を置く。

≪僕が彼らに教えたから、彼らは僕の名前を知っている。車を走らせ続けるんだ≫(「Keep The Car Running」)

 この「僕」は「彼ら」に「名前」を教えている。己の「名前」を保持し、「彼ら」にそれを認識させることによって己の「現在」を登録している。そして何かに駆り立てられるようにその車を走らせ続けることを選択している。もちろん、彼らが「過去」から視点を遠ざけ、「現在」に集中的に視点を向ける理由の一つとして、彼らのこのアルバムにおける一つの主題である「宗教戦争」があるだろう。そこでは「今」を生き抜くことが大事であり、「過去」はそこではその「存在」が問題にならなくなってしまっている。そう言った理由からか、1 stにおける高揚感溢れるメランコリアはこのアルバムでは陰鬱なムードに取って代わられている。唯一と言ってよいほどこのアルバムの中で高揚感を持っている楽曲が彼らのレコード・デビュー作である7曲入り自主制作EP「The Arcade Fire」においてすでに収録されていた「No Cars Go」だが、この高揚感はアルバムにおけるコンテクストにおいてはむしろ「浮いて」おり、「車の行けない場所」の宛先は宙に浮いたままそれが可視化されることは無かった。

 1stにおける「現在」から「過去」に向けたアンヴィヴァレントなまなざしが与えた色彩は、2ndにおいては「現在」をサヴァイヴすることの困難がもたらすモノクロームへとシフトした。そして彼らは、新譜『The Suburbs』を上梓する。

「"郊外"っていうのは、その友達と無駄に過ごした時間とか、あの頃とも繋がってる言葉なんだ。そう、人とどういう風に時間を過ごすのか、みたいな意味もあって。」

 アーケイド・ファイアのフロントマン、ウィン・バトラーがこう言うまでもなく、このアルバムではまた、彼らの「過去」との再戦が始まったことを告げている。そう、「郊外」とは「過去」という「時間」が「空間化」されたもののことなのだ。だからこの「郊外」というワードに「現在」における何かを表象する必要はない。これはアーケイド・ファイアが生真面目に、愚直なまでに「現在」から「過去」へまなざしを注いでいるアルバムなのである。

≪きみはいつだって確信していた/いつか僕らは郊外戦争で戦うんだと≫

 1曲目「The Suburbs」における登場人物である聡明な「きみ」は「人間」が「現在」と「過去」が争うこと=「郊外戦争」は人間の宿命であると歌っているのである。9 曲目「Suburban War」で「過去はずっと静まらない 彼はそう言った」と歌うのもそう言った理由からである。

 それではこのアルバムは1stアルバムと同一の主題のもとに作られたアルバムなのだろうか。確かに「現在」から「過去」への視線がテーマになっているという点では同一であろう。しかし、このアルバムと1stが決定的に異なる部分がある。それはこのアルバムが2ndを通過しているという点である。これがどのような結果をこのアルバムにもたらしたのであろうか。それは「現在」というファクターの大々的な導入である。2ndで彼らが背負った「現在」がここに流れ込んできているのだ。そしてその「現在」は無論、「負」を背負っているのだ。

≪まるで自分が...何か間違っている まるでレコードの針が飛ぶような感じで 僕は現代人(中略)僕たちは数少ない選ばれし者 だけどそれを無駄にしている、と言う≫(「Modern Man」)

 このアルバムに存在する「現在」から「現在」へのメタ的な批判(めいたもの)に特に注意すべきことはなにもないし、目新しい表現もない。むしろそのような「現在」へのまなざしが何をもたらしたのかの方がはるかに重要である。それは2ndにおける「現在」へのまなざしの単色性がもたらした「陰り」である。これが1stにおける「過去」へのアンヴィヴァレントなまなざしがもたらした色彩と相まって奇妙な色合いに仕上がっている。1stにおけるニューウェーヴを通過したうえでのサイケデリックなオーケストラ・ポップ、2ndにおける荘厳でクラシカルな意匠の両方を纏いつつも、このアルバムの音はどこかすっきりしている。これはアーケイド・ファイアの音が前景化されているというのも理由の一つであろうが、先ほど述べたような1stと2ndの交雑による「奇妙な色合い」がもたらしたものではないだろうか。1stほど豊潤でもないが、2ndほど陰鬱でもない、「現在」から「過去」へのまなざしの描写にさらに「現在」への描写が加えられたこの3rdの「奇妙さ」は彼らの「郊外戦争」において、今後どのような展開をもたらすのであろうか。

≪時間が僕たちを支配すると言ってたよね/ここから脱出したいと君は言う/自分の人生が目の前で消えていくのを眺め/僕は気づいたんだ/今でも僕たちは自由を夢見ながらバスに乗るキッズなんだ≫(「Wasted Hours」)

 彼らの「過去」に対するアンヴィヴァレントなまなざしは健在である。そして、批判的なまなざしを送りつつも「現在」に絶望してはおらず、未だ夢をみているキッズなのである。アーケイド・ファイアはまだまだこの「郊外戦争」をやめるつもりは無いらしい。僕らは時間に支配され、目をつむると「過去」がちらつき、それは僕らを悲しませもすれば、喜ばせもし、「現在」を規定してゆく。しかし、その「時間」という「純粋な持続」の中にこそ、人が生きてゆくことの自由が存在している。ぼくらもまた、「郊外戦争」を戦っている。

「われわれはつねに現在にいたためしがない。来るのがとても待ちどおしくて、その歩みを早めさせようとするかのように未来を待ちこがれているか、あるいは、あまりすみやかに過ぎ去るので、その歩みを引きとめておこうとするかのように、過去を呼び返している。」(パスカル「パンセ」)

(八木皓平)

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