松浦達

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JAMES BLAKE「Cmyk」EP
MARGARET DYGAS『How Do You Do』
FLYING LOTUS『Cosmogramma』
HAUSCHKA『Foreign Landscapes』*画像
MATTHEW HERBERT『One Club』
SUFJAN STEVENS『The Age Of Adz』
THESE NEW PURITANS『Hidden』
KID CUDI『Man On The Moon Ⅱ:The Legend Of Mr.Rager』
ANTONY AND THE JOHNSONS『Swanlights』
RUFUS WAINWRIGHT『All Days Are Nights: Songs For Lulu』






 僕が2010年に夢想していた音楽風景の一つには「郊外のフロアー」がありました。それは島田雅彦氏の『忘れられた帝国』のようなイメージを帯びてきます。主観世界が、郊外という場を得て、ナラティヴとして成立している中に、切り詰まったグローバリズムの痕の景色が「内在化」されていると言えるでしょうか。そこには、希望も絶望的な何かもなく、ただ平坦で無機的な熱がぼんやりと浮かんでは消えているだけです。だからこそ、例えば、アーケイド・ファイアの提示した「郊外」はすぐそこの僕の生きている生活と密接に結びついていたがゆえに、そこには、普遍性よりも特殊性を見出すことが早いとも言えたかもしれないのです。

 マグネティック・マンが、フロアー及び日常のアンセムに結ばれるようなビッグネスを持った隣で、ロンドンの気鋭、ジェームズ・ブレイクのトラックでは引きの美学と、ネプチューンズやティンバランド以降のヒップホップ、R&Bのセンスとともに、メタメタに記名性が解体されていましたが、これでこそ、踊れる(これでないと踊れない)というユースの感性は頼もしかったと言えます。マーガレット・ディガスも然り、ドープながら、オーディエンス側を揺さぶったフル・アルバムが持つ低温火傷しそうな音像は、宙ぶらりんな時代の空気感に合致したという気がしますし、今年は兎に角、ビートが人を求めていた気がします。例えば、フライング・ロータスのあのスピリチュアルに内側に潜航していきながら、メビウスの輪のようにねじれ、一気に外に拓けてゆくというカタルシスは象徴性が高く、「外密(extimité)」、「現実界(Le réel)」という概念を静態的にしか語り得ていない作品が多い中、現場的な分節過程を表象していた一枚と言えるかもしれません。その音像から零れたビートを受け止めるようにハウシュカ、マックス・リヒター、フランチェスコ・トリスターノのようなポスト・クラシカルなアーティストたちの作品はこれまで以上に柔らかさと懐の深さを見せてきました。

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 シーンという意味では、ニューエキセントリック勢からはヴァンパイア・ウィークエンド、MGMT、フォールズといった面々がセカンド・フェイズに入り、ニューレイヴの代表格のクラクソンズも模索の中で新しいアルバムを作りました。どれもの作品のキーワード、参照点となるのは"80年代、ニューウェーヴ"であり、意図的にサウンドのレイヤーがその時代のような平板なものになっている代わりに、少しロマンティックでホープフルな、真摯な音になっていました。あのブルックリンのフリーキーだったバンド、イェーセイヤ―も、ティアーズ・フォー・フィアーズやピーター・ガブリエルの仕事で有名なジェリー・マロッタのホーム・スタジオを三ヶ月借り、録音を試みるなど、作品自体も洗練化されたものだったからして、90年代以降、続いたオルタナティヴ(代案)の趨勢の果てで、"まだポップ・ミュージックは、みんなのものだった時代(本案)"に、代案を出す側も巡り流れていたと言えるかもしれません。

 そこで、「代案」はグロファイ・チルウェイヴといった音楽潮流に回収されていったのかもしれませんが、その渦中に居ながら、ガレージにローファイに抜けたディアハンターは時代の要請と合っていたせいか、悲痛に重苦しく思える部分があり、どちらかというと、ブラッドフォード・コックスのアトラス・サウンドにおける『Bedroom Databank』のような音こそが、「大きな時代」への柔らかなカウンター、シーンへの批評行為にもなっていたような気がします。あくまで、グロファイ・チルウェイヴの一部としても、現実逃避型のドリーミーな音楽が求められるようになればなるほどに、個々の無意識が示唆する現実における閉塞はより峻厳に現前します。そこで、現前した声を掻き集めたマシュー・ハーバートの『One Club』はやはり美しかったと思います。

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 また、"都市の真ん中の郊外"ではパラノイアックな一大ポップ絵巻を作り上げたスフィアン・スティーヴンスが世界の不全を言及し、ジーズ・ニュー・ピューリタンズは「私は戦争が欲しい」と暗渠から不穏に呟いていたのは印象的でした。そう、都市の真ん中の郊外では憂鬱にならざるを得ないのです。その憂鬱は別に、都市が「在る」訳ではなく、自分たちの過大に膨れ上がったメガロマニアが指し示す幻像だからかもしれない、という要因に依拠します。そうなると、カニエ・ウェストがエゴをあそこまで肥大させたシステムの構造論よりもキッド・カディが何故に深甚なヒポコンデリーを抱え込まざるを得なかったのか、ということを考える方が意味はあるのかもしれません。

 最後に、個人的に2010年は「声の政治性」に自覚的にもなり、特に、アントニーやルーファスが発した"声の小ささ"には救われました。

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