ジンボユウキ

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まつきあゆむ『1億年レコード』*画像
放課後ティータイム『放課後ティータイムⅡ』
KIMONOS『Kimonos』
七尾旅人『Billion Voices』
トクマルシューゴ『ポート・エントロピー』
THE NOVEMBERS『Misstopia』
WASHED OUT『Life Of Leisure』
レミ街『MusicaMusica』
TEASI『Sando』
雅 -MIYAVI-『What's My Name?』






 私的なベストアルバム10選を、と書かれていたので「きっとみなさんこんなアルバムを選ぶだろうな」というあれこれを考えずに選んだら9枚が邦楽になってしまった。ライヴに関してはペイヴメント、ウィルコ、フレーミング・リップス、ルーファス・ウェインライトにヴァン・ダイク・パークスといったUSものばっかり行ってました。

 思い返せば、2009年は『Remix』や『Studio Voice』の休刊に代表されるような、終わりのムードが色濃く覆っていたような気がする。それぞれの活動の、なんらかの事情による終焉(の連続)を、まるで世界の終わりのように感じてしまうこと。あるいは、そう感じたくなってしまうこと。むりやり社会情勢にこじつけていえば、「失われた10年」がいつの間にか「失われた20年」に更新されてしまったような、国全体の無意識が終わりをゆるやかに志向し続ける、ある種の破滅願望のようなものを抱いているからかもしれない。

 とはいえ"終わりの終わり"なんてそう簡単にやってきてくれるはずもなく、打って変わって2010年は覚えているだけでも
・まつきあゆむが『1億年レコード』のリリースを直接配信のみというスタンスで行い成功を収める
・dommune開局
・ネットレーベルのマルチネレコーズがコンピレーションCD『MP3 Killed The CD Star』をリリース
・『nau』や『DIY Stars』といったアーティスト寄りの配信サイトが開設
といった"何かのはじまり"を予感させるトピックが多かった。上で挙げたアルバムの半分ぐらいは関係ない状況論をこれから少し長く続けるけれど、例えばこれまで多くて数百人規模の会場でライヴを行っていた七尾旅人がdommuneに出演すると、2000人以上の観客がそれを観ている。今となっては常識レベルの話ではあるけれど、それが日常になるなんて去年までは思いもよらなかったし、重要なトピックかつ希望として受け入れられていたことは記録として記しておきたいのである。

 これらはすべてインターネットを媒介とした活動であり、インディ音楽シーンでも(であるからこそ?)利用可能なあらゆるリソースを駆使して活動を行う、総力戦のような状況に移行したのではないだろうか。相変わらず既存メディアでは、テレビをつければAKB48やK-Popグループが映り、雑誌を開けば神聖かまってちゃんのインタビューが載っているような、いつもの焼き畑農業のような光景があった。けれどひとたびインターネットに接続すれば、今日もどこかでTwitter上の討論やUstream・ニコニコ生放送の配信が飛び交い、リアル現場でもおもしろいトークイベントやライヴも開催されている。それは多様性の増幅というより情報過多な傾向がますますヒートアップしたといえなくもない。あるいは小さなタコツボが増えただけだよ、とあなたは捉えているかもしれない。というかみなさんは一体どうやってこの状況と日常生活の折り合いをつけているんだろうか。365日朝から晩までおもしろイベント尽くしで心身共にへとへとになってませんか?ぼくは行けない・見られないのが悔しすぎるので、自分に入ってくる情報を少しシャットダウンするきらいもありました。どうせ後で誰かがtsudaりをtogetterに載せておいてくれてるでしょ? みたいな。うーむ。実際に雑誌を読む、リアル現場に行くといった機会が激減した1年だったような気もする。

 多様性の増幅といえば、2010年はアニメ『けいおん!!』の劇中歌アルバムとしてスーパーカー『スリーアウトチェンジ』以来と言っても過言ではないほどみずみずしいギター・ポップ作品をリリースした放課後ティータイムや、54-71のドラマーであるBOBOをサポートに招き、ブランキー・ジェット・シティを彷彿とさせるロックアルバムを作り上げた雅-MIYAVI-がとてもよかった。アニメソングとビジュアル系。未だに音楽雑誌、あるいは"音楽ファン"の半分ぐらいから無視され続けるこの2ジャンルにおいて、既存のポップス・ロックと売上だけでなく内容でも十二分に渡りあえる作品が出現した、そして今後も出現するであろうことは、もっと意識されてもいいんじゃないか。歓迎すべき変革ないしはじまりは、既に知らない場所で起こっているのかもしれない。これは2010年に限った話ではないけど、少なくとも「レディ・ガガに勝てない日本のロック」(『Snoozer』2010年6月号)だなんてグチをこぼしている場合ではない。ぼくらがその気になれば、いつだって・どこだってそれにアクセスできる。

 また、ZEPP東京の巨大スクリーンに投影された、初音ミクによるライヴが3000人を熱狂させた「Project DIVA presents 初音ミク・ソロコンサート~こんばんは、初音ミクです。~」や、渋谷のライヴハウス「WWW」のこけら落とし公演であり、スペースシャワーTV、dommune、ニコニコ生放送で同時中継された神聖かまってちゃんのライヴなど、リアルとネットの空間差がより曖昧になるパフォーマンス手法が確立してきたのもこの年のできごとだ。移り気なリスナーの注目を集め続けるために、彼(女)らはあらゆるメディア上に登場し、その痕跡を残していく。正直なところ、追いかけるぼくらもたいへんである。けれど、やっぱりそれは喜ぶべきことだ。

 2010年を振り返ってみると、この文章がそうであったように、特定のコンテンツ=作品よりも、文脈=状況であるコンテキストについて語る・語られることが多かったようにおもう。めまぐるしく移り変わる文脈・状況を押さえるのは大事だけれど、それをつくりだす個々の作品論がより重要になる(状況を読み解くのではなく、文脈をつくる側に立つということ)のではないか。すでに色々な人が指摘していることではあるけれど、それができなかった自分への課題設定として。

 というわけで最後に、上で触れられなかったアルバム評を。dip、ブラッドサースティブッチャーズの流れを組む正統派オルタナ・ギター・バンド、ノーベンバーズ(THE NOVEMBERS)はUK/USオルタナ要素の個性的なミックスぶりがさらに進化を遂げてディアハンターに対抗できる国内バンドは彼らだけでしょとおもうし、トクマルシューゴは次回作で一体なにするんすかと余計な心配をしたくなるほどのキャリア最高傑作を生み出し、空気公団 meets ハー・スペース・ホリデイとでもいうべきレミ街や、時間軸を自在にあやつりますます無音の比率が増える魔術師集団、TEASIといった地方インディ勢も目が離せない。キモノズはニューウェーブの硬質ビートと日本語・英語のちゃんぽん歌詞が織りなす無国籍感がすばらしかったし、七尾旅人のポップスへの帰還とポップアイコンたらんとする姿勢を自ら背負いこもうとする覚悟は感動的だったし、年末によく聴いたGlo-Fi系から選んだウォッシュト・アウトは、音楽という芸術表現はほとんど"半径5メートルのセカイ"からの想像力でしか強度を持ち得ないという個人的な諦めというか「それは音楽でなくてはいけないのだろうか?」という疑問もあり、退行と言われようが引きこもりと言われようが「あえて抵抗しない」(ゆらゆら帝国)戦術で踊らせてくれること、またその場所を提供してくれることが第一の役割だとぼくは考えているので肯定したい。表現手法は音楽だけではないし、膨大な選択肢からアーティストたちが何を放つのか。"総力戦時代"の幕開けが2010年だったとすれば、今年はそのリアクション、つまり個別の(作品)論が問われる年になるとおもう。

 そんなこんなで、今年も良い音楽にたくさん出会えますように!

(ジンボユウキ)
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