アジアン・カンフー・ジェネレーション at 京都 磔磔 2010/12/4

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《悲しみよ、此処に集まれ
/君だけに罪はないみたい
/踊るしかないや、夜明けまで》

(「ラストダンスは悲しみを乗せて」より)

 10年代に入ってからの彼らは「地上」と「地下」、「電子上」と「現実」を行き来するオルタナティヴな実験と大胆な提案を同時に進めた。先ずは、メジャー・レーベルに属している関係上、制約もされるだろう中でのボーカルとギター担当の後藤氏の積極的なツイッターの利用。それによって、すぐに神話的な要素を孕んでしまうアーティストという偶像性から「個」へ降りてゆき、内面や日々の他愛ない感情を吐露する所作は例えば、長尺の自らの来し方を話すインタビューなどで解析される自意識の尖りの先に別に音楽がそのままで設定されている訳ではない、という一部の潮流に対して明確なカウンターを示した。また、USTREAMを使ってツアーの一公演をリアルタイムで提供するという試みも有機的に働いたのも記憶に新しいところだろう。

 思えば、今年の新作『マジックディスク』というアルバムは、これまでのパワーポップを主体に置いた形式から、多様性に富んだ内容になっていた。独特のラップ的なラインが印象的な「新世紀のラブソング」、ホーンを入れたユーフォリックな高揚感がある「迷子犬と雨のビート」、ポスト・パンク的な意匠を持ったダンス・チューン「ラストダンスは悲しみを乗せて」、独白的な歌詞の意味が深く刺さる「さよならロストジェネレイション」など新機軸に軽快に歩みを進めた要素が増え、新しいアジアン・カンフー・ジェネレーション像の輻射を企図した。そこにはこれまでの作品群に必然的に孕んだ「みんなのため」に「絶望的な何か」を見つめる姿勢や「悲しみを背負う」というスタンスよりは、「自分はこう思っているけど、みんなはどう?」という投げ掛けのスタイルへの変化があったように思えた。集合的無意識が彼らを定義した窓枠から外れて、主客転倒を試みるように、逆説的にアーティスト側がファンやオーディエンスの個の一人ひとりに向き合ったと言えるのかもしれない。だから、それぞれのマジックディスクを募集したり、と、兎に角、「個」が持つ感情や想いのフックアップにも意識的であった。

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 彼らはメジャー・バンドとして大きいフェスを主催してしまうレベルでもあり、ホール・サイズでもフルハウスにしてしまうファンの信望も厚いバンドだが、今年は、敢えて意図的に「帝国概念の解剖」を試みようとしていたのはでないか、と個人的に思ってしまう。「帝国」を、恒常システムのパターンに含めて再定義し、分析概念として脱イデオロギー化を図ろうとする所作と換言できるだろうか。また、「例外としての帝国」から「常態としての帝国」へのパラダイム・シフトの背後にあるのは、世界の脱相対主義化である。相対主義は、他者への干渉を抑制する自己懐疑の規範であるが、「自由」などの価値の普遍性が疑われ得ない世界では、その機能は低下してしまうことになる。そこで、「帝国」の必然性が浮上する。だがしかし、その帝国について考えるための概念の嶮しさは必然ではない。では、アメリカ同時多発テロの際、当時のアメリカ大統領ジョージ・ブッシュが「新しい戦争」と言ったようなコンテクストで、非対称的な戦時下で音楽は何に向き合うべきなのか、を考えなければならないとしたならば、今、ライヴで繰り返し演奏される「新世紀のラブソング」はもはやポスト・セカイ、帝国概念の解剖の射程を睨んでいるとも言える部分はある。

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 今回のTour 2010-2011「VIBRATION OF THE MUSIC」の中でも小さいサイズに入るのだろうか、キャパ400人規模の酒蔵を改造した京都の老舗のライヴハウス磔磔(たくたく)で、彼らはまだ出たてのインディーバンドのような瑞瑞しさで愉しそうに演奏していた。実際、後藤氏(ライヴ後、"磔磔、最高だな。"とツイートしていた。)含め他のメンバーも楽しそうな表情が現場で見て取れた。フジファブリックの金澤氏もサポート・キーボードとして入っての5人体制でのライヴだったが、音響のバランスも良い訳ではない分、それが音自体のロウ(生)でラフな質感をダイレクトに示していて、曲の骨組みだけが鮮明に見える中で、既存の曲でも新発見があるものも少なくなかった。『マジックディスク』からの曲を主にしながらも、「Re:Re:」から「リライト」へ繋ぎ、「君という花」のイントロに雪崩れる磐石な後半パートもあり、終始、高い熱量が保持されていた。要所に挟まれたMCでもフレンドリーに皆に話しかけるように、自分のサラリーマン時代を振り返り、バンドと平行してやっていた時期に、直行でスタジオ練習しに行っていたこと、京都の三十三間堂には驚いたこと、仏像や土偶の話など、徒然に喋っていて、ここ(ステージ)とそこ(フロアー)の差もないかのような穏やかな空気があってまた良かった。

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 ライヴという場所は「生モノ」として部分もあるが、グレン・グールド独自の用語に「ノン・テイク・ツーネス(Non-Take-Twoness)」というものがあり、それを援用することもできる。「ノン・テイク・ツーネス」とはその字面通り、コンサートという場では演奏を「やり直す」こと、即ちテイク2を行うことができないことを表す言葉で、コンサートにおける演奏の一回性とほぼ同義であると考えてもいいかもしれない。しかし、この用語には一回性という用語よりも、「より否定的な意味合い」が込められている。より良い演奏を目指すためには幾つものテイクを重ねるということが不可欠であると考えていたグールドは、「テイク・ツーネス」をステージでも求めようとしていた。ライヴでふと表出する「通常の解釈」や「レコード録音されたもの」からは大きく外れているようなアレンジや一聴では間違いかも、と取られ易いインプロヴィゼーション。ここでの「誤解」を巡っての細かい機微はグールドとジョン・マックルーアとの対話『コンサート・ドロップアウト』に見ることができる。

 彼らの場合はロック・バンドだからという矜持もあるのだろう、「一回性」の音楽として「ノン・テイク・ツーネス」を恐れない。だから、ステージ上で臨機応変にアレンジを加え、自由に曲を繋ぐようにその瞬間の熱を大事にするという様は非常に刺激的だった。その様をアドルノがシェーンベルグに寄せた言葉を嚥下した上で定義してみるならば、同時進行の多重性に対する最も鋭い注意、次に何が来るかいつも既に分かっている聴き方という凡庸な補助物の断念、一回的な、特殊なものを捉える張り詰めた知覚、そして時折、ごく僅かの間に入れ替わる様々な「性格」と二度と繰り返されないそれらの「歴史」を正確に掴む能力などを、それ(ステージ)は要求していた、と言えた箇所があったのは紛うことない。

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 今回、まだ僕自身が彼らに根深く持っていた「断層」が少し埋まったように思うことができた一夜になった。その「断層」とは説明するに、ニーチェのルサンチマンという概念の「周縁」を廻っていたものだった。社会的弱者が抱く恨みや劣等感のような屈折した感情が社会への攻撃に向かうときに、運動や宗教という形ではなく、「人生に意味はない」というニヒリズムに行き着きがちな瀬に彼らの「弱者たちのための歌」の数々が僕にはどうにも面映かったのだ。しかし、《何もないです、それならそうで、拗ねていないで、この檻を出よう》(「さよならロストジェネレイション」)と歌う彼らはやはり、生真面目過ぎるロック・バンドであり、それ以上でも以下でもなかった。それが何故か個人的に、嬉しく思えた。

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