February 2011アーカイブ

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1月におこなわれ大盛況だったスーパー・ファンタスティックなDJイベント、ラウンジ・クッキーシーン。第2回の開催がいよいよ間近に迫って参りました。最終確定したDJ陣などの詳細をお伝えします!

日時:3月12日(土)21:00~翌朝5:00

場所:渋谷 Bar&Cafe 特異点

チャージ:500円(プラス・ワン・ドリンク・オーダーがマストになります)
*クッキーシーン最新ムック『Pop & Alternative '00s』を当日ご持参の方はチャージ無料!
*会場で販売される上記ムックをご購入いただけた方は、ドリンク引換券を1枚進呈!

DJs
Cookie Scene Staffs

伊藤英嗣  twitter→@hidetsugu_ito
小熊俊哉  twitter→@kitikuma3
Cookie Scene Contributors
犬飼一郎  twitter→@roro1656
ekatokyo  twitter→@ekatokyo
黒田隆憲  twitter→@otoan69
近藤真弥  twitter→@TBotaku
Special Guests
@K     twitter→@AAA_3
Kawanishi  twitter→@kawanishi_JUKE
深水光洋  twitter→@satsumagenjine

前回にひきつづきクッキーシーン編集部から伊藤と小熊が、そしてコントリビューター陣から上野(功平:ekatokyo)と近藤(TBotaku)が! 今回はさらに後者から、犬飼(roro1656)と黒田(otoan69:『シューゲイザー・ディスク・ガイド』監修者のひとり)が駆けつけてくれます!

スペシャル・ゲストとして、オール・ミックス・パーティーJUKEBOXで青山の夜を熱くめらめらと燃やしている、ミスターKawanishiが! さらには、なんと深水光洋が! 後者は活動休止中のポップ・バンドTotosのリーダーとして、もしくはThistimeレコーズの斬りこみ隊長として知られています(深水はかつてビート・クルセイダースのオリジナル・メンバーとともにBrokenspaceという超人気バンドをやっていました。2009年に復活した「バンド演奏あり」のクラブ・イヴェント、クッキーシーン・ナイトでは伊藤とふたりで運営も担当しています)。

そして、前回および今回の運営に関わってくれた@K(青木:マイブラ・ナイトなどさまざまなパーティーを都内で主催)も、もちろんDJで参加!

上記ムックと同じセレクション基準(1990年以降にファースト・アルバムを発表したアーティストによる、2000年1月から2009年12月までにリリースされた作品)で、最高の曲がかかりまくり!

また、今回はちょっとした新しい試みも...。それについて詳しいことは開催直前に発表しますが、まあ、それはたいしたことじゃないといえば、たいしたことじゃない...。とにかく「現場」がいちばん楽しいことは間違いない。その場にいなければわからないおもしろさが確実にあります。

ご来場者全員が楽しめるよう、一同、萌えます...いや、間違った。燃えます!

可能な方は、是非遊びにきてくださいねー! よろしくです!

2011年3月6日5時6分(HI)

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 ロンドンの中心街から地下鉄で20分ほど北東へ向かった「Old Street」駅より徒歩10分くらいのところに、今回の会場「Hoxton Square Bar & Kitchen」はある。いわゆるイヴェント・スペースで、カフェ&レストラン、ギャラリー、小さめのライヴハウスなどが一緒になった、日本で言えば「渋谷アップリンク」のような場所だ。今夜はここで、モグワイのライヴが行なわれる。言うまでもなくモグワイはUKを代表するインストゥルメンタル・ロック・バンドであり、日本でも「恵比寿Liquid Room」や「新木場Studio Coast」を満員にしてしまうほどの人気と実力を誇っている。そんな彼らが、200人も入ればギチギチになってしまうようなハコに出演するのだ。

 実はこれ、2月中旬からベルファストの「Mandela Hall」を皮切りにスタートする彼らのUKツアーに先駆けた、言わば「リハーサル・ギグ」のようなもの。All Tomorrow's Partiesの粋なはからいによって実現したこの滅多にないチャンスにロンドンでは壮絶なチケット争奪戦が巻き起こり、あっという間に完売となったようだ(そりゃそうだろう)。地元に住む友人たちにも羨ましがられたこの一夜限りのショウを、幸運にも筆者は観戦することが出来た。

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周知のとおり、来たる2月27日にAll Tomorrow's Parties(以下ATP)の姉妹イヴェントとでもいうべきI'll Be Your Mirror(以下IBYM)が新木場スタジオコーストにて開催される。

ATPといえば、開催ごとにアーティスト/バンドがキュレーターとなり、出演者を決定するというコンセプトで知られている。過去にもモグワイ、オウテカ、トータス、マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン、果てはシンプソンズの作者として知られるマット・グレイニングetc...、錚々たる面々がそのホスト役を務め、どの面々も自分たちの趣味性を存分に発揮した味のあるブッキングを披露。商業主義に中指を突き付けるかのような(実際、ATPは一切の企業スポンサーを受け付けていないことでも知られる)挑戦的かつイマジナティブなラインナップに毎回圧倒させられる。このフェスの創立者であるバリー・ホーガンや(ソニック・ユースの)サーストン・ムーアは過去にATPを「究極のミックステープ」と形容しているが、まさにアーティストも含めた音楽ファンの夢を具現化した理想的なパーティーと呼べるであろう。

世に数多ある音楽フェスのなかでも、「DIY」とか「オルタナティヴ」とかという観点でいえばぶっちぎりなこのイヴェントが、ついに日本でも開催されるというのは実に興奮させられる(残念ながら、最初ということで上記のキュレーター・システムは今回採用されていないが、たとえば選ばれた出演者は世間でのATPのイメージとかなり近いものがあるし、そのなかでもトリを務めるゴッドスピード・ユー!ブラックエンペラーの演奏枠が2時間もあるのは実に"らしい"といえるだろう)。

一方で、どうせ観るなら本場の空気を直に体感したい...そう考える人もいるはずだ。IBYMは基本的な部分はATPとは変わらないものの、都会の町中で開催することで手軽に楽しめるようにすることをコンセプトとしており、それなりの準備をしてド田舎のリゾート施設で宿泊もしながらノビノビと満喫する本家ATPとは若干様相が異なる。またATPに限らず、コーチェラやロラパルーザ、グラストンベリーなど、海外の有名フェスのラインナップをながめるたびに、悔しくてハンカチを噛む思いをした音楽ファンはたくさんいるはず。

しかし、やっぱり海外に足を運ぶとなるといろいろ心配になってしまうのも事実。言葉も通じない、勝手もわからない。費用は? 交通手段は? 未経験者からしてみたら、どうしても敷居が高くて遠い世界に感じてしまうのも無理のない話だ。

そこで今回は<ATP NY 2010レポート対談>と題して、昨年9月3日~5日に開催された同イベント(このときのキュレーターは1日目と2日目をATP、3日目はつい最近ユニクロTシャツ化もされた、偉大な映画監督ジム・ジャームッシュ!)について、黒田隆憲さんと上野功平さんの両コントリビューターがその目で見聞きしてきた感想や体験談を、パスポートすら未所持なわたくし小熊が聞き手となり、対談形式で掲載することにした。IBYMへ臨む前にこれを読めばテンションも上がること必至だし、日本での常識では考えられない魅力的な目ウロコ話の連続で、海外渡航のノウハウにいたるまでを実体験込みで語っていただいているので、これから海外に"冒険"してみるつもりの方にもぜひとも参考にしてほしい内容になっている。

ちなみに、この対談自体はイヴェントの終わった数日後(昨年の9月中旬ぐらい)に収録されていたものである。そのときはまさか日本でも開催されることになるとは誰も予想だにしておらず、アナウンスを知ったとき三人一様に驚いてしまったことを本文に入る前に追記しておく。今回のIBYMはチケットも無事にソールドアウトしたそうだし、日本でもこのまま定着していってほしい! 

また今後のATPは、イギリスにて5月にアニマル・コレクティヴ、12月にジェフ・マンガム(ニュートラル・ミルク・ホテル)、またIBYMのほうはロンドンで7月、ニュージャーシーで9~10月にともにポーティスヘッドとATPが、いずれもキュレーターとなり開催される予定となっている。

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去る1月、渋谷の夜をおおいに盛りあげた(笑)スーパー・ファンタスティックなDJイヴェント、ラウンジ・クッキーシーン。第2回の開催が決定しました! というか、ちょっと前に決定していたんですが、発表が遅くなってしまいましたー!

日時は、3月12日(土)21時〜29時。前回同様、チャージは500円(ワン・ドリンク・オーダーがマストとなります)。クッキーシーンの最新ムックを当日ご持参の方はチャージ無料! 会場で販売されるムックをご購入いただけた方は、ドリンクとの引換券を1枚進呈します。

場所は前回と同じく、渋谷のBar&Cafe 特異点。DJ陣など詳細は最終確定し次第発表します。

都内近郊のみなさん、遊びにきてくださいねー! よろしくです!

2011年2月26日1時22分(HI)

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クッキーシーン編集長伊藤英嗣(って、文末の署名から推測されるとおり、これを書いてる本人なんですが...。すみません:恥&笑)による「歌詞対訳講座」が、音楽配信サイト、オトトイで開講します。

サブ・タイトルは「ポップ・ミュージックが歌ってきたもの」。講座とはいっても決して堅苦しいものではなく、わりとフランクな講師を中心とした「ゼミ」みたいなものと考えていただければ...(というか、ぼくは大学生時代「ゼミなしっ子」だったので、推測で話しております:笑)。

くわしくは、こちらをご覧ください。

上記リンク先に講座の予定が書いてありますが「内容」はあくまで仮。メンバーの希望を受けつつ、とりあげるアーティストのセレクションは、ある程度フレキシブルに変えていく可能性ありです。

ぼくがこれまで絡んだ「商品」としては最も高額なものとなっており恐縮ですが、よくある「教養講座」みたいなものよりはたぶん安いと思いますし、その価格にみあったものにしたいと強く思っております。月1回、半年間、ともに学んでいければ幸いです!

基本的に、英語がそれほど得意ではない方も歓迎です!

ちなみに、ぼくは父親が(そして、なぜか妻も偶然)高校教師...。「教師」的なものにさからって(笑)今もこういうことをやっているわけですが、ついにぼくもそれっぽいことを...。うー、悔しいので、ますますそうじゃなくふるまうよう努力したい...です...。

なにかご質問がございましたら、ツイッターのぼくのアカウント(@hidetsugu_ito)まで「アットマーク・ツイート」をとばしてください。なるべく早めにお返事さしあげるようにします(ツイッターをやっていない方、すみません...。ただメールだと、なかなかお返事できない可能性もあるので...)。

よろしくお願いします!

2011年2月24日2時55分(HI)

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bright_eyes.jpg 「ブライト・アイズの新作が出た!」ってことで、僕がツイッターでフォロワーさんと交わした会話に「あの手コキの歌、好きですよ!」という言葉があった。僕はもちろん激しく同意。その歌は2004年に「Lua」と同時にリリースされたシングル「Take It Easy(Love Nothing)」のこと。"最初は手でやってもらって、その次は..."って、いきなり歌い出すあたりが素敵。この2曲は全米チャートで1位と2位を独占した。ブライト・アイズは当時、ブッシュ政権の再選を阻止することを目的とした"VOTE FOR CHANGE"ツアーに参加。スプリングスティーンやR.E.M.とステージを共にしているが結局、そのときはブッシュが再選を果たしている。ブライト・アイズはその直後、ブッシュ政権を批判する「When The President Talks To God」をiTunesからリリースした。手コキの歌のあとに、真摯なプロテスト・ソングで国家に楯突く。僕はその時からブライト・アイズを本気で好きになった。僕たちにとっては両方とも切実な問題だから。

 前作『CASSADAGA』がリリースされたのは、ブッシュ政権下の2007年。荘厳ともいえるオーケストラ・アレンジと緻密なリズム・アプローチ(ジョン・マッケンタイアも参加)が印象的だった。カントリー/フォーク・ミュージックを現代へと継承するソング・ライティングも本当に素晴らしかったけれど、かつてのような「叫び」は抑えられている。安定感のあるサウンドは、ブライト・アイズがコナー・オバーストのソロ・ユニットからバンドへと変貌したことを印象づけた。その後、ブライト・アイズはデビュー以来初めてコンスタントなリリースを休止し、コナー・オバーストのソロやモンスターズ・オブ・フォークとしての活動へと移ってゆく。そしてブッシュが表舞台から姿を消すまでに、僕たちは2年も待たされることになる。

 2009年のオバマ政権誕生から、さらに2年。ようやくブライト・アイズとしての新作が届けられた。タイトルの『THE PEOPLE'S KEY』とは、クラシックやポピュラー・ミュージックで"Gメジャー"を表す言葉だという。ギターやキーボードを持っている人は、ポロンと鳴らしてみよう。"人々のキー"と呼ばれる理由がわかるかもしれない。アルバムはSF調のスポークン・ワードに導かれて幕を開ける。燃え上がるジャングルのようなアートワークも意味深だ。バンドは前作と同様にコナー・オバースト、マイク・モギス、そしてネイト・ウォルコットを中心に編成されている。曲ごとにカーシヴやザ・フェイント、ナウ・イッツ・オーヴァーヘッドなどから、気心の知れた仲間たちが参加。サウンドは前作よりもシンプルでタイトだ。カントリー/フォーク・ミュージックへと連なるフィーリングは希薄で、ミュートを効かせたギターのカッティングとシンセはむしろニュー・ウェーヴっぽくもある。そして震えるようなあの叫びは、ひと言ひと言を噛みしめる強い歌声へと完全に生まれ変わっている。

 その歌声には、古代の神話、近未来のヴィジョン、ヒトラーとエヴァ・ブラウン、そしてラスタファリアニズム(!)などの象徴的なキーワードがたくさん散りばめられている。特にラスタファリアニズムからの引用が興味深い。「Firewall」では、"Lions Of Judah"や"I And I"という言葉が使われ、「Haile Selassie(ハイレ・セラシエ)」というタイトルの曲もある。でも、不思議なことにサウンドとしてレゲエを取り入れたアプローチの曲はひとつもない。

 エチオピアには、「アフリカをひとつにするのは、黒人の王が即位する時だ」という予言どおりに、ハイレ・セラシエ1世が皇帝に即位したという歴史がある。ラスタファリアニズムの起源となったエピソードだ。その姿をバラク・オバマの登場になぞらえているって思うのは、深読みのしすぎかな。それでも僕はこのアルバムを聞いた後に、ボブ・マーリィの「Redemption Song」を思い出した。アコースティック・バラードとして永遠ともいえる力強さを持った名曲だ。前半では搾取されてきた人々の歴史が歌われ、後半では現代の核兵器を中心とする軍事的な科学へ懐疑的な眼差しが向けられている。過去と未来の真ん中に立った人々の歌だ。それは2011年の今、この世界そのものでもある。そしてブライト・アイズは「A Machine Spiritual (In The People's Key)」(Gメジャーの機械霊歌)で、こんなふうに歌っている。

《歴史がお辞儀をして、脇にどいた/ジャングルの中には紫の光の円柱がある/僕たちはやり直すんだ》

 少しだけ時は流れた。残念ながらもう手コキの歌はないけれど、ブライト・アイズが帰ってきた。きっかけは外国人の違法滞在を取り締まるアリゾナ州法SB1070号への抗議団体"THE SOUND STRIKE"の結成だった。異議を唱えよう。そしてまた、前へ進もう。僕は今、ギターを抱えて"人々のキー"を鳴らしてみる。「Redemption Song」もGメジャーだった。

(犬飼一郎)

*日本盤は3月2日リリース予定です。【編集部追記】

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radiohead.jpg 2月14日、レディオヘッドのニュー・アルバム『The King Of Limbs』が週末にリリースされることが突如発表になった。僕はそれをTwitterで知った。その後、彼らのtwitter公式アカウントから、日本語で「渋谷 ハチ公広場 金曜日18時59分」とツイートされ、様々な憶測が流れた。

 結局のところ、渋谷駅前を占拠する3基の巨大ビジョンで、ニュー・アルバムから「Lotus Flower」のPVが世界で最初に流されるということだったらしい。しかし、ライブ・パフォーマンスがおこなわるかもしれないなどといった憶測が流れ、そのことを否定するも渋谷のハチ公前に人が集まり混乱になる可能性が高いということで、日本のレーベル、ホステスから企画自体が中止になった事が発表された。 

 僕自身は午後六時に仕事が終わり、中止になった事を知らぬまま渋谷に向かっている電車の中でその発表について知った。とりあえず様子だけ見ようと思いハチ公広場に向かった。金曜日だった事もありたくさんの人が待ち合わせしていたが、なんとなく普段よりも欧米系の外人の姿が多かったように思えた。何も起こらないのならばと僕は家路を急いだ。 

 その後、もともと予定されていた時間ぐらいに『Lotus Flower』のPVがYouTube上にアップされ、一日前倒しでニューアルバムが「今すぐ発売」となって配信開始された。僕もTwitterのTLを眺めながら予約していたのでダウンロードを開始した。トラフィックがあまりに混みあっていたせいか最初はうまくいかずにいたが、数分後にはダウンロードできた。一通り全八曲を聴いた時に二曲目『Morning Mr Magpie』と七曲目『Give Up The Ghost』と八曲目『Separator』が特にいいなと思い、その後も何度も繰り返してアルバムを通して聴いた。 

 全体的にはなんというかしなやかなダンスを見ている体験を聴いたようなリズムというのだろうか、僕の中にゆっくりと溶け込んでいくような音だった。『Lotus Flower』のPVでトム・ヨークがダンスしているせいかもしれないがそんなイメージ。ちなみにそんなPV監督はブラー「Coffee & TV」などでも有名で、以前に僕もレヴューを書いた『リトル・ランボーズ』のガース・ジェニングス。 

 このアルバムに付属するもの全てがこのアルバム『The King of Limbs』ではないかと何度も聴きながら思う。そこで思い出したのが大塚英志著『定本物語消費論』だった。 

「1980年代の終わりに、子供たちは『ビックリマンチョコレート』のシールを集め、『人面犬』などの都市伝説に熱狂した。それは消費者が商品の作り手が作りだした物語に満足できず、消費者自らの手で物語を作り上げる時代の予兆であった。1989年に於ける「大きな物語」の終焉を出発点に、読者が自分たちが消費する物語を自分たちで捏造する時代の到来を予見した幻の消費論」(本の裏面の紹介文より)

「『ビックリマン』において子供たちは、一枚一枚のシールという目に見える商品を購入することを通じて、実はその背後にある『ビックリマン神話』を手に入れようとしていた。商品の実体はシールでも、ましてやチョコレートでもなく、<神話>そのものだったのである。『ドラクエ』や『ファイブスター物語』でもそれは変わらない。消費者は<神話>や<歴史>の全体像を知る手段として、その断片であるソフトやコミックを買うのだといえる」(文庫版 P66より) 

 音源のダウンロードではシールのような実物ではなくデータであるので目には見えないが、ネット上でリリースされることやTwitterでの告知やそれにまつわるツイートなどが可視化される。そして中止になっても知らないでハチ公前に集まった人達が期待していたのは<神話>や<歴史>をニューアルバムについての何かがハチ公前で起きる事が目の前で起こるだろうという期待、それは一種の<祭り>であった。大規模なものではないにしても、リアルタイムで流され拡散される情報によりレディオヘッドに期待する人、洋楽ロックに興味ある人がネットを通じてその祭りに参加しようと期待値を膨らませていた。その流れも今回のアルバムには付随してしまうものだった。 

 中止になったからこそすぐに前倒しでダウンロードを始める事で、この祭りは不満で潰される事なく哀しみの後の喜びのように届けられた。現実において彼らの音は届いた。だが、彼らが今まで作りだしてきた音楽にあるリズムとそのメッセージ性が、現実の中において、聴けば聴くほどにある種の形を僕の中で作りだして行く。 

 僕がそうやって<祭り>だったり<祝祭性>という言葉を使うようになったのは社会学者・鈴木謙介著『カーニヴァル化する社会』を読んでからだが、彼は本文を始める最初の「ふたつの「祭り」+1/お祭り化する日常」において、  こう書いている。

「夢を語る/騙ることが問題なのではなく、こうも容易くたくさんの夢を見ることができる時代に、なぜ私たちは夢から醒めることができないでいる、あるいは醒めようとしないでいるのかについて考えるのが、本書の役割であるのだから」(P12より) 

 さきほど引用した『定本物語消費論』の著者である大塚英志は、かつて『MADARA』という漫画の原作を手がけている。その作品はメディアミックスされ、今の角川書店におけるメディアミックスの基になっていると彼は主張しているのだが、そこにあった一筋縄ではいかない顛末の結果として『MADARA』という言葉をタイトルからはずし、"終わらす為に書いた"作品『僕は天使の羽を踏まない』の文庫後書きにて、こう書いている。 

「ぼくは中途でしばしば物語ることを放棄するし、読者に小説の外側の世界をいつも突きつけようとする。なるほど、しばしの間、夢を見ていた読者にとってぼくは迷惑で無責任な小説家なのだろうが、しかし、ぼくにとって小説は夢を見せるためではなく、醒めさせることのためにある」(文庫版 P282より) 

 僕がずっとレディオヘッドに感じていた事は、彼らの音楽は夢を見せるものではなく醒まさせる事にある音楽という事だ。ラストの八曲目『Separator』の最後で「wake me up」とトムが何度も歌っているように。

(碇本学) 

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radiohead.jpg「作者」が表現の全体を把握し、「読者」は作者の唯一のメッセージを読み取る「解読」を行っていた時代では、その主従関係のバランスとともに表現の隷属者であったのは作者なのか読者なのか、曖昧であった。しかし、今や「作者」がその特権的な位置を消失した現在において、読者はどのような視角を持って「作者」に対峙すればよいのだろうか? ミスリーディングされた道をそのまま辿り、適度な場所で自戒すればいいのか、複数の意味を見出せばいいのか、幾つでも選択肢は「拡がった」中で、審美眼は読者側に預けられることになった。これが、所謂、「作者の死」を巡る基礎概念だ。

 読者とは、あるエクリチュ-ルを構成するあらゆる引用が、一つも失われることなく記入される空間にほかならない。あるテクストの統一性は、テクストの起源ではなく、テクストの宛て先にある。(略)読者とは、歴史も、伝記も、心理ももたない人間である。彼はただ、書かれたものを構成している痕跡のすべてを、同じ一つの場に集めておく、あの誰かに過ぎない。(ロラン・バルト『テクストの快楽』より)

「誰か」は「僕」かもしれないし、「君」かもしれない。そうだとしたら、『Kid A』とはまさに「誰も」であった。それはレディオヘッド自身を映した鏡面であったのかもしれないし、今更、新しい装置としてのロックを起動させるという意味を避ける為の潜航だったような気もする。

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 2月14日にオフィシャル・サイトでふとポストされた新しいアルバム『The King Of Limbs』のリリース告知と、その後の過度な盛り上がりと、レディオヘッド側のまどろっこしいマーケティング手法には個人的に少し消耗するものがあった。『In Rainbows』のときも、急遽、買い手側の言い値方式のリリースを敢行し、話題になったが、それは彼らがレコード・レーベルの契約に振り回されていない身分であるということよりも、セールス・ポテンシャルが強い自分たちを用いた実験のような、遊びのようなものが見えた。「システムとして新しい」、「既存のリリース・スタイルを変えた」など多くの賛美の声も寄せられたが、それは部分的な変化であり、全体様式としての影響とはまたセパレートして語られる知的な蛮行だったと思う。その"知的な蛮行"というイロニカルな要素がレディオヘッドの良い要素でもあった訳だが、今回の彼らの「仕掛け」はどうにも野暮ったく、"物語なき時代"における謎解きとしての面白さ以上の付加的要素を見ることができなかった。

 現代の状況においては、パラダイムに忠実であるか、パラダイムから自由であるか、といったことはもはや重要な問題ではないだろう。社会・経済的環境の変化、とりわけコンピュータやそのネットワークの加速度的な発達は、科学研究のスタイルにも、その中身にも大きな影響を与えている。すなわち、科学研究も含めた知識生産の様式(Mode)が大きく変化しつつある。というより部分的には、すでに変化してしまったのである。(M・ギボンズ、1998年)

 例のレディオヘッドのオフィシャル・ツイッターで2月17日にツイートされた「渋谷 ハチ公広場 金曜日 18時59分」を受けて、渋谷で大々的に流れるはずだったかもしれない(※企画が中止されたので、もはや真偽は分からないが。)トム・ヨークがダンスする「Lotus Flower」のモノクロームのPVは鮮やかで、また、曲も以前からライヴでは発表されていたものの、ダブ・ステップ経由のビート・メイクと幾層ものエレクトロニクスが神経症気味に絡みつく優美なアレンジに着地していたのは流石だと感じた。DEAD AIR SPACE(彼らのウェブサイト)のオフィス・チャートでAPPARAT「King Of Clubs」、ブリアル「South London Boroughs」、ローン(LONE)「Angel Brain」などの曲をポストしていたことからの影響も伺える音の肌理細やかさをそこには感じることが出来たからだ。そこに、《I'll set you free》、《Listen your heart》といったフレーズがトムのか細い声で紡がれる。個人的には、この曲を聴く分には、『Kid A』以上にバンド・サウンドとしてのダイナミクスを感じないのに不安になったが、アルバム自体はよりサウンド・テクスチャーの面で明らかに「細部に降りてゆく」ことは何となく想像していた。

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 このアルバムに至るまでの最近の経緯を簡単に追ってみよう。

 09年には、第一次大戦を戦った最後の元英陸軍兵、ハリー・パッチ氏の05年のTODAYのインタヴューをトム・ヨークが聞き、インスパイアされて作ったという「Harry Patch(In Memory Of)」と、「These Are My Twisted Words」という今回のアルバムに向けてなのか、レコーディングを行っていた最初期に録り終えた曲をダウンロード・リリースするものの、ストリングスが優雅な前者、ブレイクビーツに「Palo Alto」のような不穏なサウンドが被さるラフで実験性の高い後者といい、どちらも具体的なアルバムへの道筋を付けるという曲ではなく、単体としての意味が大きかった。2010年の1月にはLAでナイジェル・ゴドリッチとレコーディングを行なっているとの情報が入り、その後も、各々メンバーのコメントはどうにも歯切れが悪いものが多く、「出来上がっている」、「殆ど完成しそうなんだ」と、ファンはその都度、振り回されたまま、2010年内のリリースは無かった。しかし、周知の通り、トム・ヨークのフライング・ロータスの作品への客演やレッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーなどと組んだアトムス・フォー・ピース名義でのバンド活動、ドラマーのフィル・セルウェイの滋味深いソロ・アルバム、ジョニー・グリーンウッドの手掛けた『ノルウェイの森』のサウンドトラック等の課外活動は盛んだった。

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 昨年、フジロックで観たアトムス・フォー・ピースのライヴで、トム・ヨークのソロ・パートで、弾き語りで今回の『The King Of Limbs』にも入っている「Give Up The Ghost」を聴いたとき、メロディーオリエンティッドなものをより離れ、全体の音像として聴かせるようなミュジーク・コンクレート(Musique Concrète)へより接近してゆくのではないか、という想いも少し抱いていた。その想いは半分、当たっていたような気もするものの、半分は外れていた。何故ならば、『King Of Limbs』の8曲、40分にも満たない内容の中で、展開されるミニマルに刻まれたリズムとより精度が極められたビートはまるで、ドナルド・ジャッドの『無題』の絵を見ているかのような気分にもなったからだ。

 例えば、音楽としての進歩体系の一つかもしれない「トータル・セリエズム」とは、音楽家サイドからは知的な音楽の構築姿勢として捉えることも出来たかもしれないが、大半の「保守」的な聴衆には、無規則な音の羅列に対して距離を置いてしまったのではないか、という疑念は歴史上、何度も検討されてきた。トータル・セリエズムの起点としては、「人間が聴くことが出来る情報処理能力の有限性」への懐疑があった。初期のトータル・セリエリズム楽曲の演奏は誤りが多く、それを聴く聴衆側の耳も誤解が多かったゆえに深刻化した問題を克服するために、「ポスト・セリエル」へとモードが転回されていく訳だが、ここで大きな点として、こういった音楽の発展らしき何かと比して「聴衆不在の音楽」としての背景も忖度せざるを得ない憂慮があった。今回、レディオヘッドの作品は『Kid A』とは違った形での(つまり、"拒絶"ではない)「聴衆不在」の音楽のような気もする。ミニマル・ミュージックがときに「ニュー・シンプリシティ」と言われるのに対して、彼らの音はより複雑になっているからこそ、この複雑さが何を規定してくるのか、今の僕には見えないのだ。

 前半4曲までには、ヨーロッパのディープ・ミニマル・シーンとの共振を感じさせるとともに、クラウト・ロック、つまりカンやノイ!辺りの60年代末から70年代初めにかけて西ドイツに登場した実験的バンド群のリズムからの影響も垣間見える。2曲目の「Morning Mr.Maggie」は、前作の「15 Step」がよりリズムを細かく刻まれ、音響的な"含み"を持たせたという印象も持ったが、ドラスティックな曲展開が「起こらない」という点で、カタルシスのポイントがサウンドのダイナミクスではなく、緻密に編まれた電子音そのものへの意識付けによって為されるとしたら、この書簡は届けられるのか、疑念を呈さざるを得ない。アドルノが言うような、「誰かが拾ってくれることを祈って、真摯に書かれる音楽には、音楽家と聴衆との間に、偶然と言っても良い出会いによってミメーシスが行われることへの希望が込められている」としたならば、『King Of Limbs』の描く希望とは何なのか。それは、これまでの彼らのサウンド・ヴォキャブラリーが今の形で再構築された佳曲「Lotus Flower」や柔和なピアノ・バラッド「Codex」などが入る後半の4曲を聴いても、よく分からない。

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 この作品は、大文字の「ロック」を別に進化させるものでも、再定義を迫るものでもないが、音楽が音楽そのものとして語られるべき強度を持っているのは興味深い。そして、映画『ソーシャル・ネットワーク』の予告編でベルギーの少女合唱団スカラ(Scala & Kolacny Brothers)が朗々と歌っていた彼らの初期の代表曲「Creep」を対象化させる「速度」に溢れた作品である。この作品が「過ぎた」跡に、蓮花(Lotus Flower)が咲くとしたならば、それはそれで何て救いのないことだろう、と思いもするが、レディオヘッドというバンド体としての名義で音楽を「音楽」に戻そうとした意味で、今回は「聴衆の不在」ではなく、「非在」の場所を目指したのかもしれない。そう考えると、ライヴではどんな形で再現されるかどうかの観点は別にして、バンドとしてのダイナミクスや力学を感じないのも納得がいく。

 08年のダン・ル・サック vs スクルービアス・ピップ(Dan Le Sac Vs Scroobius Pip、UKのヒップホップ・エレクトロ・デュオ)のシニカルな歌詞を改めて噛み締めてみるにはいい時期なのかもしれない。この作品が「批評」される磁場に僕は興味がある。

《No matter how great they are, or were.Radiohead, just a band.》
(ダン・ル・サック vs スクルービアス・ピップ「Thou Shalt Always Kill」より)

(松浦達)

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frankie.jpg 彼らの何が素晴らしいって、まずはEPからジャケットに使い続けているモノクロの写真。今回はいかにもやんちゃそうなガキどもがカメラに向かって無邪気な笑顔を浮かべたり、ぜんぜん無邪気じゃない笑顔を浮かべたり、憂いのある表情を浮かべたりしている。これを見ただけで「2011年は楽しくなりそうだ」という気がしてくる。2010年後半に彼らがデビューして、イギリスではいよいよバンド・サウンドの復権が叫ばれるようになった。といってもヴァクシーンズやブラザーのようなラッディズムとはすこし違って、彼らの場合(特にヴォーカルのフランキーは)根はノーブルだ。フランキーのステージでの動きを見て真っ先に連想したのはモリッシーだが、週末のパブで野朗が大合唱していそうな曲の大衆性もまた、彼らを積極的にプッシュしたくなる理由のひとつである。
 
 そしてリリック。もう女々しくて、ウジウジしてて、後悔してて、開き直ってて、ほんま最高。自分から別れを切り出した相手に向かって、「なぜそんなことを言ったのか、自分でも分からない。君を取り戻したい」とか。恋人との倦怠期に「これはただの肉欲なのか」とか。「お前が泣こうがわめこうが、ちっとも気にならない」とか。全部同じ1人の相手に向けられているのではないか、というほどリアルで、勝手にセンチメンタルで、情けない。だって、どれもこれも恋愛においてぜったいに優位に立てない男の話でしょ。恋人がいないとまともに生きて行けない究極の寂しがり屋でしょ。それを男4人のバンドで思いっきり歌い上げることで、また人生の同じところをグルグルまわるんでしょ。
 
 今回リリースされたファースト・フル・アルバム「Hunger」はEPからとくにサウンド面での変化はなく、いかにも彼ららしい強烈なフックを持った「ど」キャッチーな楽曲が並ぶ。構成もメロディの運び方も、どうやら彼らはぶれない芯をひとつすでに持っているようだ。今回もプロデューサーは元オレンジ・ジュースのエドウィン・コリンズ。ちなみに「Want You Back」のアレンジが変わって、もっと名曲になった(「Ungrateful」を除く既発曲はすべて再レコーディングされている)は全てアルバム用に再レコーディング)。良いアルバムだ。空前のリリース・ラッシュですこし埋もれてしまった感のあるこのアルバムだけど、たぶん7作目くらいで「相変わらず良いね」と言われるようなバンドになると思う。

(長畑宏明)

*昨年来日時のインタヴューはこちらに掲載されています。【編集部追記】

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james_blake_a.jpg これはダブステップ・アルバムではない。これはジェームズ・ブレイクというノース・ロンドン出身の青年が作り上げた、美しくもメランコリックな「ただのアルバム」だ。ジェームズ・ブレイクは、主に「ポスト・ダブステップ」というタームの中で語られている。昨年は素晴らしいファースト・アルバムを上梓してくれたゴールドパンダ。他にもマウント・キンビーやフローティング・ポインツなど、今やポスト・ダブステップは大きな一大勢力となって、我々の耳と心を賑やかにしてくれる。しかし、『James Blake』はポスト・ダブステップの中でも浮いた存在だし、寧ろ孤高に近い存在感を放っている。
 
『James Blake』は、良い曲が詰まったSSWアルバムに過ぎない。こう書くとあまり褒めていないように思われるかも知れない。だが、ダブステップが日常に侵食していることを証明するアルバムではあっても、「ダブステップ・アルバム」と片付けられるほど単純なアルバムではないはずだ。「Limit To Your Love」などはダブステップのトラックとしても機能しているが、その他の曲は歌そのものだ。

 僕自身の話になってしまうけど、クラブやライブハウスで様々な人に話を訊く限り、『James Blake』はダンス・ミュージックよりもインディー・ロックを好んでいる人が多く聴いている気がする。それは、何百人と集まる場所のアンセムとして鳴るタイプのような曲が多いわけでもないし、一人部屋で音楽と向き合って聴くような、謂わば聴き手と1対1の会話を求めてくるアルバムだからかも知れない。

 しかし、なぜジェームズ・ブレイクはここまでアルバムを待望されたアーティストなのか? それは、これでもかと心の中をさらけ出し、それを音楽という芸術として表現したからだろう。機械的に加工され、もはや中性的ですらある歌声や、ひんやりと冷淡な音とビート。その音やビートも「歌声」として機能させているプロダクション。どこか近未来的なヴィジョンと、現実的な匂いや呼吸を混ぜ合わせたようなハイブリット・ソウル。ジェームズ・ブレイクは、本質的な音楽の役割に忠実だっただけに過ぎない(「自己を表現する」というのは音楽だけではなく、小説や映画など「芸術」と呼ばれるすべての行為に言えることだが)。その役割を前提とした上での表現が、多くの人の琴線に触れたのだ。「自己を表現すること自体が」コンセプトとなってしまっている音楽が多いなか、『James Blake』の音楽的表現(芸術的表現)はかなり飛び抜けている。

「自己を表現することを前提とし、その自己をどうやって多くの人に届けるか?」

 ジェームズ・ブレイクはいま、こうした次元でポップ・ミュージックを鳴らしている。

(近藤真弥)

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anna_calvi.jpg 風が吹きすさぶ不穏なパノラマ――、それはまさに幕開けにふさわしい。オープニングのインスト曲、「Rider In The Storm」は、そんなヴィジョンを脳裏に焼き付ける。この曲が示唆するとおり、このロンドンの新星、アンナ・カルヴィ(Anna Calvi)のセルフタイトル・デビュー・アルバムはあまりに映像的でドラマチックだ。

 このアルバムは、全体を通してひとつの物語が展開されるコンセプト・アルバムではない。だが、ひとつひとつのシーンを克明に語りつくすような歌詞や、オーケストラ風の音のとり方で壮大さを表現したサウンドスケープは、彼女自らデヴィッド・リンチの作品を目指しただけあり、悪魔や欲望をテーマとした映画と呼ぶに相応しい。

 ジミ・ヘンドリックスに影響を受けたというギターは言葉より巧みにストーリーのディティールを語り、ニーナ・シモンやマリア・カラスの歌唱法を取り入れたヴォーカルは堂々と存在感を示す。プロデューサーはPJハーヴェイの仕事で知られるロブ・エリス。彼が、無駄を削ぎ落としたサウンドを煌びやかに輝くよう組み立てている。また、バックを支えるマルチ・インストゥルメンタリストのマリー・ハーペズとドラマーのダニエル・メイデン・ウッドの腕も確か。スキルの高さが、スト-リーの陰影を際出させ、迫真の演技を想起させるようだ。

 ここ数年、フローレンス・アンド・ザ・マシーンやマリーナ・アンド・ザ・ダイアモンズといった、非日常的な世界観を提示するポップ・アイコンが台頭してきた。彼女たちの音楽には、繰り返される貧しく苦しい日常を一瞬でも忘れさせるための妙薬、という側面があるといえるだろう。そして、このアンナ・カルヴィ。音楽的にはかけ離れているが、ひとときの夢にリスナーを浸らせてくれる、という役目においては同じだろう。

 確かに、BBC SOUND OF 2011のリストに選出されたことや、ブライアン・イーノが熱烈な援助を行なっているなど、熱心なリスナーなら食いつかずにいられない話題が彼女には尽きない。だが、何よりこのアンナ・カルヴィは、そういった余計な情報を一切排除して耳を傾ければ感じられる、類まれなる物語性によって真価をはかってほしい。

(角田仁志)

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