『冷たい熱帯魚』映画(日活)

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*ストーリー: 熱帯魚店を営んでいる社本(吹越満)と妻の関係はすでに冷え切っており、家庭は不協和音を奏でていた。ある日、彼は人当たりが良く面倒見のいい同業者の村田(でんでん)と知り合い、やがて親しく付き合うようになる。だが、実は村田こそが周りの人間の命を奪う連続殺人犯だと社本が気付いた。

 園子温監督がこの作品を書いた頃は恋人が家から出て行ってかなりボロボロで新宿でホストにケンカ売ってわざと殴られたり「クランクイン前には警官に捕まえてと言っていた。人を殺してしまう前に」と言ってしまうぐらいに落ちていて、一緒に脚本を書いた高橋ヨシキさんにも同じようなことをしようとしても彼の方が大人で「一緒に映画やろう」と言われたらしい。 

 雑誌『CUT』の園監督のインタビューではこの映画を作ることで自分自身が救われたと。ラース・フォン・トリアー監督『アンチクライスト』でラースも同じような事を言っていたとのこと。そのインタビューではみんなが『愛のむきだし』ばっかり言うから嫌になったと。だから新しいスタートを切る『冷たい熱帯魚』は第二のデビュー作のようなものでジョン・レノンでいうとソロになった『ジョンの魂』だと言う事を園監督は述べている。 

 作品としては巻き込まれ型である。主人公・社本の家庭は崩壊している。後妻と娘の関係は最悪、その妻と自分の関係も冷えている。それがギリギリのラインで保たれながら日々が過ぎている。そして出会ってしまった男・村田により彼はその平穏な人生から転がり堕ちていく。村田は殺人の後始末に社本を連れて行く。村田の妻(黒沢あすか)と彼は手慣れたやり方で殺した相手をどんどん解体していく。社本は泣きながら吐く事しかできない。しかしこの時点で彼は車で死体を運んでいる、彼は知らぬ間に巻き込まれ共犯者になっていく。死体を細切れのからあげサイズにそして焼いて骨を粉になるまで、肉は途中の川に。そうやってその死体は透明になる。村田は社本を殴りつけたりしながら殴ってこいよと言うが社本にそれはできず、昔の俺みたいだなと言う。村田はこの作品における象徴的な父である。そしてこの作品はオイディプス・コンプレックスを扱っている作品になってしまっている。去年の東京フィルメックスでは無意識にそうなってしまったと園監督は言っていた。 

 園子温作品を何作か観ればわかるが園さんは家族というものを否応なく描いてしまうし題材というか大きな軸として展開する。それは大抵崩壊した家庭だったりするのだが。それが顕著なのは吉高由里子が世に出る事になった『紀子の食卓』だろう。『愛のむきだし』での主要キャラの三人の若者の家庭には問題があった。時にはそれらを置き去りにし、崩壊しかかっているものを完全にぶち壊す。家族という最も最小単位の社会。それが壊れている時点でそこにいる子供はそこから出て行くかそれを破壊し進むことでしか自分を殺さないですむのかもしれない。 

 この作品は『愛犬家殺人事件』をリサーチしその他何種類かの殺人事件から発想を得ながらも園監督の個人的なものをつぎ込んで作られた実話を基にしたフィクションだ。とても過剰な狂気に満ちあふれながらも極限状態の人間が放つ言葉や行動は不謹慎ながらも笑いを誘ってしまう。 

 例えば絶対に笑ってはいけない葬式でふいに目に入った事で笑ってしまいそうになるのを堪えながらも耐え切れずに吹き出すようなある種の不謹慎。それはなんというか見えている現実が自分の中の平凡さを突き抜けて過剰過ぎてタガが外れてしまうような、コメディと悲劇が紙一重だというそういうもの。社本が転がり堕ちていく悲劇は他者であるからこそ笑えるのだが、当事者だったらとてもじゃないが耐え切れない。 

 そういう堕ちていく彼はオイディプス・コンプレックスの先に何をするのか。そして最後の終わり方。彼の最後の行動は僕にとっては彼が唯一娘にできる事を父親としてしたんだと思う。彼女に語りかける言葉と彼がする行動は娘をある意味では孤独にそして自由にする。それ以外に彼には方法がなかったとも言えるし、彼が選べた最良の事かもしれない。それを娘がどう思うかはまた違う問題だとしても。 

 園子温作品というか園子温という人物が放つ作品は驚喜=狂気=凶器だ、しかもそれを一度でも自分の中に受け入れてしまえば麻薬だ。この魅力からはもはや逃れる事はできない。この驚喜=狂気=凶器はその人の中にあるラインを踏み越えさせてしまう、いいかい、これは簡単な話だ。踏み越えると同時に踏みとどまるのだから。この意味は難しいようで易しい。君が死まで抱えていくこの生きるという時間と生命の宿命である生殖=性が園子温作品にはあり、あなたがもしどうしようもなく誰かを殺したいのならばそれを踏み留める、救ってくれる可能性だ。 

 人を殺したいと思っている人の全てがこれで救われるわけではないが、届く作品というものにはその作用とやはりそこから飛び越えてしまうものが出てしまう問題は絶えず存在する。 

 日本が誇る映画、宮崎駿作品もといジブリの作品を観ていれば人を殺さなくてすむのだろうか? もちろんそんな事はない。連続幼女殺害犯として死刑になった宮崎勤の六千のビデオテープの山の中でラベルに唯一「さん」付けさけていたのは宮崎駿だったのは有名な話だし、『魔女の宅急便』を観た後に睡眠薬を飲んで数人の少女が自殺未遂を起こした事だってある。 

 表現が届くというのはそのプラスもマイナスも起きる。その表現が表現としての強度や精度、スピードがあれば。単純な消費だけの表現ではそこには辿り着けない何かが潜んでしまう。僕はそれを園子温という才能に出会って身にしみてわかったんだ。園さんという人に実際に会って話をして酒を飲んで感じた事はこの人は映画を撮らなきゃダメな人なんだ。そしてそれをわかり支える人がいる。だからこそ映画は世の中に出て行くのだけども。 

 どうしようもなく選ばれてしまった側の人だと寂しくもなる。三池崇史さんが「狂人が作るべきなんですよ映画は」と言うのはわかる。どこかが欠落しているのだ、それを埋めようと作り続けて壊しては作る。園さんの作るペースはかなり速い、『冷たい熱帯魚』の次の作品もクランクアップして待機している。 

 『ゼロからの脚本術』で園さんが語っている「やっちゃいけないことは、ひとつもない。これは映画に限らずだけど、そういうものを破っていくのが快感だし、破るべきだと思う」と。 


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