マリオ・バルガス=リョサ『世界終末戦争』書籍(新潮社)

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 ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、「すばらしい詩や美しい物語が、何の役に立つのかと尋ねることは、愚かなことだ。たとえば、カナリアの歌声や夕映えが生活に不可欠かどうかを、日常の言葉で立証しようとするようなものだ。」と言っていたが、言葉によって説明できない対象の先に空虚な仕掛けが持ち上がったことを、今、ポストモダンの作法に沿って、名称化するには時代が早すぎる。何故ならば、今は、もはやポストモダンですらないからであり、逆回った近代の下に大文字の感性論が収斂していると言えるかもしれないからだ。だからこそ、生活の中に埋め込まれることすら無くなりかけている文学やナラティヴが持つ文字の羅列は決して、人間自体を幸福にも善き方向へと運びはしないが、自由にはさせることができるということ自体を、改めてメタ的に喧伝しないといけない(表現)行為性に対してはどう対峙すればいいのだろうか、と考える。意味があることを求める行為自体が、意味がないとされるのならば、意味がないことは最初から「諦めてしまう」しかないのかもしれない。または、モーリス・ブランショのように「読書空間」を設定して、完全に日常空間と切り隔ててしまうべきなのか、時折、混乱してしまう。

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 ナラティヴとは、一種の装置としての暴力を加速、増幅させ、同時に救済に似た何かを個々にもたらす。例えば、人間の人間に対する馬鹿げた行為、愚行といったものは凡庸な暴力の形式(コード)の一つであり、そのコードに沿い、様々な偏見や悪意や謀略が巡らされることになる。そして、コードから演繹された景色が背景となり、自分の理想や想いを切断する現実の世界とは違った世界への渇望を照射するために、ナラティヴは用意されるという可能性が出てくる。そのナラティヴの仮構化を試みることで、荒れ果てたリアリティと幻惑的な未来の間隙を縫い、虚無だけを避けることができる。

 昨年、ノーベル文学賞を受賞したペルー出身のマリオ・バルガス=リョサは、大きなナラティヴと文学の復権に常に挑み続けている作家であり、人間に纏わる不条理や虚無に対峙し続けてきた。出世作となった1966年の『緑の家』では、サンタ・マリーア・デ・ニエーバという街に建つ売春宿「緑の家」を中心にして、五つのストーリーがほぼ切り替えなしで語られるというもので、ここで用いられたそれぞれの人物のモノローグの巧みなスイッチのオンとオフの仕方、シーンの改変、緻密な情景描写がカオティックにドライヴしてゆく「構成」こそが、いわゆる、マジック・リアリズムの醍醐味と言われるべき点かもしれない。ラテン文学におけるマジック・リアリズムとは、代表作とされるガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』の印象もあり、どうも誤解されているところもあるが、細部は厳然たる現実的なもので生活に密着したものであり、語られていることの全体像が幻想的だという特徴を持っており、『緑の家』に関しても、細部のリアリズムは徹底されている。

 また、彼といえば、1973年の『パンタレオン大尉と女たち』、1977年の『フリオとシナリオライター』などユーモア溢れる作品やゴーギャンとその祖母で革命家のフローラ・トリスタンの生涯を壮大に紡ぎ上げた2003年の『楽園の道』のような作品も面白いが、個人的には、1981年の『世界終末戦争』でのシリアスで重厚な内容に潜む人間の尊厳性を再定義するような視座こそが彼の本懐だと思っている。

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 このナラティヴの下地になっているのは、ブラジル内陸部の奥地で19世紀末に実際に起こったカヌードスの叛乱である。貧しい奥地セルタンゥに、コンセリェイロと呼ばれる流浪の説教師が現れ、不思議な威厳と福音で貧しい人々の心を掴んでいく。貧者ばかりでなく、身体障害者、盗賊、犯罪者など、さまざまな人間たちが彼の周りに集う。やがて彼らは、カヌードスという村に共同体を構え、神の教えだけに従って生きていこうとするが、共和国政府はこれを反乱とみなし、制圧のために軍を差し向け、衝突する。この貧しいクリスチャンたちとブラジル軍の闘いをカヌードスの叛乱と言う。そして、このカヌードスの叛乱を全体の物語の軸に沿えながら、無数の人々の輪郭が丁寧に描かれる。少年信者ベアチーニョ、高い知性と巨大な頭を持ち、四足歩行するナトゥーバのレオン、黒人奴隷ジョアン・グランジ、などそれぞれの登場人物に付随する幾つもの挿話、背景が鋳型を成していった結果、読み手が感情移入できる余地ができる。しかし、その余地はまた伏線のナラティヴによって想わぬ形で回収されてしまう。

 同じ国に居ながらも、全く違った価値観と時間を生きている彼らはお互いを理解することは決して出来ないが、それぞれの「正義」や「信心」を持っており、それらがリョサ特有の筆致で平等に拾い上げられる。時系列が交差し、それぞれの人物の精神描写が複雑に絡み合いながら、カヌードスでの闘いは終末に向けてよりシビアな展開になってゆくが、"カヌードスというのは一つの物語ではなく、沢山の枝分かれする物語が集まった樹木のようなもの"と記すように、そこには総てがあったが、なにもなく、カヌードスの闘いを巡って呈示される人間の尊厳(dignity)に関してこそ、読み手側の思慮がはかられることになる。

 グローバル化が進捗し、中心と非中心、支配と被支配、個の阻害という社会的矛盾が顕わになっている今こそ、この作品が総体的に投げ掛けるものは意味深長である。

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