工藤鴎芽『Mind Party!』(Self-Released)

|
Mind_Party.jpg
《模倣ですら実体は
どうして誰でもないだろう》
(「Call Me」)

 カントは、私たちの「現象」の世界の観念性を主張したが、それは同時にその背後に広がる、知ることができない「物自体」の存在を容認するということでもあった。思うに、カントが"所謂、観念論者"であったならば、物自体のようなものの「存在」を残したはずがないだろう。「物自体」を巡る意図は他にあると思われるのは、物体を観念化することによって精神の中に入れ込むということではなく、現象の背後にたしかに存在する"それ"は人間の知のソトにあり、沈黙をしている"それ"に過ぎないということだ。となると、問題は、沈黙する存在とは、この日常世界として現前するのかどうかということに漂着する。そこに、「存在」が"木をして"いたり、"コップになって"いたりする中で、前景化される約束事とは一体、何なのか―その「循環構造」の中に入ってしまうと「存在」が「自分をしている」という状況下で観念がメビウスの輪のように捩れ、存在体自体の輪郭線を曖昧にする。そして、曖昧に耐え切れなくなった存在自体が恐慌を起こす。

>>>>>>>>>>

 工藤鴎芽のファースト・フルアルバム『Mind Party!』にはそのような恐慌寸前の観念論者の神経症的な鋭さに溢れている。行き交う電子音、フィールド・レコーディングされた日常の音、時折、ヒステリックに響くギター、ふと持ち上がる甘美なメロディー、しかし、その全体像が接点として見出すリアリティは実は「あって、ない」ものであり、もしかしたら、"創り手さえ此処にはいない"という錯視を催させるようなマジカルな奇妙な熱が帯びている。作風としては、これまで通り、ポスト・ロックのマナーに縁取られた印象が強く、大文字の《昨日を厭い 明日が恐い》、《その憧憬はかすむ》、《ずっと続いてく不安が欲しい》、《明日も生きていけるかな》というフレーズが並び、如何にも現代的な閉塞感も漂う。そういう意味では、いささかトゥーマッチなところもある。それでも、先にリリースされたファーストEP「I Don't Belong Anywhere」やセカンドEP「すべて失えば君は笑うかな」にはなかったアグレッシヴでノイジーな「モンスター」、前衛的なアレンジと浮遊感が印象的な「Question」、トム・ヨークのソロ・ワークを思わせるようなエレクトロニカ「日常」、スピッツのような"うたごころ"を感じさせる「波乗り」、「春と言う」など曲の幅が明らかに広がっており、まだ模索途中とも言えるが、次の視界を見渡すために色んな音楽要素を取り込んでいこうとしている手応えが感じられる。
 
>>>>>>>>>>

 個人的に、このアルバムを最初に聴いたときに思い浮かんだのは、くるりの『The World Is Mine』、スーパーカー『Futurama』、スピッツ『三日月ロック』といった日本のものからPrefuse73『One Word Extinguisher』、Harmonic313『When Machines Exceed Human Intelligence』といった作品群だった。それぞれの作品群に共通項はないが、敢えて挙げるとしたならば、キャリアの中途における、前にも後ろにも進まない(進めない)、中空に浮かんだ過渡期と言える音像を結んだものと言えるだろうか。斯く言う工藤鴎芽自身も、前進のバンドのSeagullを経てのソロという流れを踏まえると、決してキャリアが短いアーティストではない。キャリアを重ねる中で必然的に陥る創作意欲の壁の前で、前進でも後退でもない道を行かざるを得ないとき、その作品は曖昧とした美しさを帯びる。この『Mind Party!』もその意味では始まりも終わりもない、ぼんやりとした輪郭を残す。だからこそ、次はあるのだろうし、これは過去の作品群の橋渡しをする意味を帯びてくるだろう。
 
>>>>>>>>>>

目立った曲に触れていこう。

 冒頭の「Mind Party!」、加工された声で始まり、電子音とギターノイズの中に引き込まれていく従来のスタイルに近い曲と言える。そのムードを断ち切るような攻撃的な「モンスター」は、例えば、プライマル・スクリームが各アルバムに潜ませる「Rocks」や「Accelerator」のようなアクセントになっている。3曲目の「Question」は英語詞のエクスペリメンタルな曲。LとRに飛ばされたボーカルに絡むサウンドスケープはカオティックで、後半はそのボーカルさえも加工されて、最後は深いエフェクトの中に沈んでゆく。前半のハイライトともいえる曲だろう。4曲目の「再生」はファースト・シングル「虚構ガール」に収められていた過去曲。軽快な打ち込みとジャジーなムードが心地良く、アルバムでのブレスのような役割になっている。8曲目の「日常」は英語詞による沈み込むトーンが印象的な曲で、独特の浮遊感がある。インタルードのような1分にも満たない10曲目の「波乗り」から11曲目「春と言う」にかけては、これまでにはあまり見られなかったメロディー・オリエンティッドなものが前面に押し出されている。そして、《思い描いて抱えた縁日の前日 忘れかけた声は今熱と成って》(「春と言う」)といった印象深い歌詞も、面白い。実質上のアルバムの最終曲の「蜜柑」から少しの静寂を挟んで、エクストラ・トラックと言ってもいいだろう、最後の「Call Me」はダルでローファイな感触が心地良いギターロック。これがあることで冒頭に還ることができる。

>>>>>>>>>>

 このアルバムは、タイトル自体が象徴しているように、まず「観念の中での舞踏会」を始めるところが基点になっており、途中、夢遊病者のようなモノローグや不安が添えられるが、それもリアルかどうか判らない。また、バスの音など日常に溢れる音も取り込まれ、観念ではない現実としての通気孔の意味も発現しかけるが、それも自分が「乗ることがない」バスなのかもしれなく、即ち、「誰も乗ることができないバス」なのかもしれないのだ。

 となると、ここで拡げられる世界観は決して完結せず、どこかに開けている。開けた表現は間テクスト空間への溶解としてではなく、表現=手紙の一部が配達過程で行方不明になったり、あるいは一部損傷したり他の手紙と混同されたりする可能性として捉えられてしまうことになる。一部損傷した中にリアリティがあったのだろうか、それとも、他の手紙にこそ、見つけることができる「言葉の破片」はあったのだろうか。このアルバムは最後に、「Call Me(私を呼んで)」と捩れることになる。観念内の自分が、"ソト"に声を求める訳だが、その"ソト"とは自分の観念内の想像でもあるかもしれないのだ。となると、ラカン的に言えば、「想像界」をそのまま認証し、象徴的平面での再認の代わりに、想像的平面での再認がこのアルバム内で行なわれていると言える。そこで、誤認を図った人たちはリアリティからも「逸れる」ことになる。つまり、ここで展開される音世界の中では誰も招待を受けていないパーティーかもしれず、また、誰もが招かれるべきパーティーなのかもしれないのだ。そこで、呼べる"それ"がこのアルバムの全体像を持ち上げ、更に暈す。


*現在 Monster FMでDL購入可能
*パッケージ盤は1月23日よりセルフ・リリース(詳しくは彼女のMySpaceまたはホームページを参照とのこと)【筆者追記】

retweet