January 2011アーカイブ

retweet

portishead_third_cover.jpg
THE THE 「Nakedself」(2000)
ROBERT WYATT「Cuckooland」(2003)
WILCO 「Ghost Is Born」(2004)
ARCADE FIRE「Funeral」(2004)
RICHARD THOMPSON「From Parlour Ballads」(2005)
PORTISHEAD「Third」(2007)*画像
サイプレス上野とロベルト吉野「ドリーム」(2007)
PHOENIX「Wolfgang Amadeus Phoenix」(2009)
THEM CROOKED VULTURES「Them Crooked Vultures」(2009)
MORRISSEY「Years Of Refusal」(2009)





 今思いつく盤10枚です。ザ・ザはこの盤以降、オリジナル・アルバムは止まってしまいますが、個人的に外せないアーティスト。ポーティスヘッド、サイプレス上野とロベルト吉野、フェニックス、ゼム・クルークト・ヴァルチャーズは聴いた回数が特に多い盤です。この10枚に共通しているのは聴いた1回目から最高と思った盤だということです。

retweet

新宿ロフトプラスワンで80回以上の開催実績を誇る「サエキけんぞうのコアトーク」。その黎明期(=クッキーシーン創刊当時)に「音楽雑誌を作ろう!」というサブ・タイトルのもと不定期ゲスト出演していた伊藤英嗣をフィーチャーした新しいイベントが、阿佐ヶ谷ロフトAで始まります!

題して「サエキけんぞう×クッキーシーン presents 洋楽トーク」。

不定期ながら継続的な開催が予定されている本トーク・イベントは、サエキ&伊藤を司会に、さまざまなアーティストや評論家が見る"洋楽"の魅力や面白さ、つまらなさや疑問点などを、ざっくばらんに語っていく内容となります。"洋楽"という言葉が徐々に廃れていく感のある今だからこそ、あらためて"洋楽"の魅力に向き合おうという企画。

その第1回となる2月8日のイベントでは、モノブライトのリーダー桃野陽介と、昨年末そのモノブライトに電撃加入した元ビート・クルセイダーズのヒダカトオルのゲスト出演が決定!

大の"洋楽"ファンとして知られるこのふたりから、どんな話が飛びだすか? こうご期待!

2月8日(火)
東京 Asagaya Loft A
開場 18:30  開演 19:30
前売¥1,500  当日¥2,000(共に飲食代別)

【出演】
サエキけんぞう(ミュージシャン)
伊藤英嗣(クッキーシーン主宰)
【ゲスト】
ヒダカトオル+桃野陽介(MONOBRIGHT)


前売はAsagaya Loft A予約フォーム
もしくはローソンチケット【L: 36122】まで!

モグワイ

|

retweet

MOGWAI

いろんな意味で、変化する時期にあったんだと思うよ

モグワイのニュー・アルバム『Hardcore Will Never Die, But You Will』が素晴らしい。彼らは今も類い稀なるインスト・バンドだが、ここ数枚は歌入りの曲もあって、徐々に親しみやすさを増していた。今回もそう。無理をしているとかは全然感じない範疇で、ポップとさえ言えるアルバムとなっている。モグワイが? いや、本当なんです(笑)。もちろん彼ら独特の「人間的なヘヴィーさ」は存分に発揮されている。でもいい意味でライトな部分もある。明らかに最高傑作、と思う。

2月初頭の来日ライヴから数週間前、モグワイの中心人物である、おなじみの禿男ことスチュアート・ブレイスウェイトに電話をかけて、ショート・インタヴューを試みた。

mogwai_201101_A1main.jpg

ジョニー

|

retweet

JONNY

自分たちが楽しむ音楽を
自由にやろうっていう、それがジョニーだね

ティーンエイジ・ファンクラブのノーマン・ブレイクと元ゴーキーズ・ザイゴティック・マンキのユーロス・チャイルドがスーパー・デュオ、ジョニーを結成! 共にポップなメロディー・メイカーとして知られる2人がデビュー作『Jonny』で聴かせるサウンドとは? デュオ結成のいきさつや2人の共同作業の過程、バンドの命名秘話までをノーマン・ブレイクに聞いた(2010年にリリースされた、ティーンエイジ・ファンクラブのアルバム『Shadows』リリース時の、ノーマンのインタヴューは、こちらにあります!)。

jonny_201101_A1.jpg

ハーツ

|

retweet

HURTS

僕達は「それ以外」のことを強調した
音楽を作っているんだ


1月13日から15日にかけて、大阪と東京で計3公演をこなしたハーツ。僕は15日のライヴを観たんだけど、残念ながらアダムが病欠で不在だった。しかし、それでもハーツというバンドの本質の一端を垣間見ることができたと思う。その本質とは、ハーツというバンドが持つ「確固たるポップ観」だ。

『Happiness』のレヴュー
でも書かせてもらったけど、ハーツはすごく誠実にポップというものに向き合っている。でも、海外や日本国内のインタヴュー記事やレヴューを見てみると、80年代ニュー・ウェイヴやポストパンクとの比較論を基にしたものばかりで、正直うんざりしていた。そうした比較論でハーツを語る人達は、歴史性的文脈という過去の亡霊にとりつかれたアホです。いまや歴史性なんて無くなったも同然だし、だからこそ思いもよらない土地や国から素晴らしい音楽がたくさん生まれているというのに...。もちろん音楽的文脈が無くなったわけじゃないけど、それは「歴史」ではなく「人それぞれ」に存在しているのが「今」だと思うのだけど、どうだろうか? ただ、「人それぞれの文脈」は昔からあるものだ。でも、その「人それぞれの文脈」が多くの人に共有されるようになったのはゼロ年代以降の特徴だと思う。

そういう意味でハーツは「時代の寵児」としてポップ・スターになりえる資質を秘めた存在だと思う。それはインタヴューを読んでもらえば分かるけど、セオはあくまで「自分にとってのポップ・ミュージック」を語っているからだ(僕もそこを訊きたくて、そうした類の質問を多くしてみた)。前置きが長くなってしまったけど、とにかく読んでください。ハーツが真のアーティストであることが分かるはずだ。ちなみに、セオは美しかった。久々にノンケであることを悔しく思ってしまった。

hurts_201101_A1.jpg

retweet

destroyer.jpg デストロイヤーの新譜を聴いているはずだった。確かにコンポに入れたのはデストロイヤーの新譜であり、彼らにとって9枚目のアルバムである『Kaputt』であったはずだ。しかし、耳に入ってきたのは「コズミックな音像!」を身に纏い、流麗なアコースティックギターに乗った、デヴィッド・ボウイ(ルー・リードかな?)を思わせるダニエル・ベイジャーのヴォーカルであった。ひたすらにドリーミーである。サックスやトランペットの響きがまたひたすらにロマンティックだ。このコズミックなアレンジはこのアルバムにおける共通低音となって鳴り響いている。ほぼ全編に渡り、80sにおける緻密なロマンティシズム(それはピッチフォークが言うようにロキシ―・ミュージックであり、スティーリー・ダンでもある)を存分に取り入れつつ、浮遊感のあるシンセのループや、リヴァーブが深くかけられた幻想的な音像は2010年に大きな盛り上がりを見せ、今もその盛り上がりが持続しているチル・ウェイヴを思わせもする。

 話がそれるが、僕は今、昨年のアリエル・ピンクのアルバムについてノスタルジアなどという言葉はふさわしくないと思っている。無論、アリエル・ピンク登場以前でも、様々なアクトが過去から降り注いできた音をその身に受け、現代のものとしてそれを再創造してきた。だから、アリエルをノスタルジア云々ということに意味はないと言ってもそれはあたりまえだろうと思うかもしれない。だが、やはり昨年のアメリカのインディー・ミュージックシーンはあまりにもベタに「幸福であった過去」の音楽を無批判にトレースしているものが多かった。それはやはり肯定的にしろ、否定的にしろ、「ノスタルジア」と呼んでしかるべきであった。しかし、アリエル・ピンクのそれはあまりに破壊的・暴力的であった。それこそ、ポップ・ミュージック史全てを漁ろうとしているかのようだった。そして、これはもしかしたら、今後のスタンダードとなる姿勢なのかもしれない。そこには「ノスタルジア」は存在せず、ひたすら暴力的で無機質な「引用」と「配列」が繰り返されるのみであるのかもしれない。デストロイヤーのこのアルバムにも、アリエルと同様の過去の破壊願望が(このアルバムはコンセプチュアルだし、あそこまで極端ではないにしろ)ちらついて見える。ダニエル・ベイジャーはデストロイヤーの音楽性を「ヨーロピアン・ブルース」と評したことがあったが、これが彼らにとってのそれなのだろうか?

 1995年にカナダのバンクーバーでダニエル・ベイジャーはひっそりとデストロイヤーを誕生させた。セルフプロデュースによるデビュー作『We'll Build Them A Golden Bridge』で、バンドはバンクーバーのミュージックシーンにおいて一躍有名になった。ホームスタジオで録音されたそれはペイヴメントやガイデッド・バイ・ヴォイシズなどのアメリカのいわゆるローファイ勢と比較された。彼らはそこから休むことなく、ほぼ2年に1作のペースでアルバムを出し続けている。いわゆるMIDI(Musical Instrument Digital Interface)に触発されたオーケストラルでシンフォニックな『Your Blues』(2004年)はピッチフォークを始めとしたメディアから絶賛され、続く『Destroyer's Rubies』ではビルボードで最高位24位とヒットを記録。癖のあるヴォ―リゼーションはそのままに、スワンプなどアメリカ南部の土着的な要素を強く打ち出してきたことが功を奏した。そして前作『Trouble In Dreams』ではお得意のローファイサウンドを基調としながらも性急なドラムスとグラム風ギターでずたずたに引き裂いたものだった。

 さて、ここまで駆け足で彼らのキャリアを俯瞰したのは良いが、こう振り返ってみると、デストロイヤーというバンドは随分とその音楽スタイルに一貫性が無く、現役当時のデヴィッド・ボウイがそうであったようにまるでカメレオンのようにその音色を変え続けていることがわかる。この性質は100%、フロントマンであるダニエル・ベイジャーから来ている。彼はデストロイヤーのほかにもカール・ニューマンやニーコ・ケースとともに、ザ・ニュー・ポルノグラファーズ(アルバム『Together』ではベイルートのザック・コンドン、オッカヴィル・リヴァーのウィル・シェフ、セイント・ヴィンセントが客演していてびっくりした)というひねくれた遊び心が溢れるギターロックバンドをやったり、フロッグ・アイズやウルフ・パレードのメンバーとともにスワン・レイクというカナダのスーパーグループにも参加している(他にもハロー、ブルー・ローゼズなどにも参加)。このような多岐にわたる彼の活動、創作意欲がデストロイヤーの変貌し続ける音楽性の原動力となっていることは間違いない。

どこまでも不明瞭で、詩的、そしてなにより遊び心に満ちている歌詞もまた素敵である。

「Sounds, Smash Hits, Melody Maker, NME / All sound like a dream to me」

 例えばこの「女の子やコカインを追っかける」ようなミュージシャンを皮肉った曲、「Kaputt」。タイトルはイタリアのジャーナリスト/作家であるクルツィオ・マラパルテによって書かれた『Kaputt(壊れたヨーロッパ)』から来ているそうだ。そして、ダニエル・ベイジャーは、一度もその小説を読んだことがないらしい。なんだそれ。

 と思いきや、「Song for america」では、「I wrote a song for America. They told me it was clever. Jessica's gone on vacation on the dark side of town forever.」と歌いもする。彼はアーケイド・ファイアのようにアメリカについて言及するわけではないし(それどころか、上のラインはそれに対する皮肉も含むだろう)、それでもこのアルバムにはどこか、かの大国に対するそこはかとない想いがふと過る瞬間があるように思える。何とも言えないアンヴィヴァレントな心情がそのアイロニーでかつ、スピリチュアルな詞世界から、ふと零れ落ちる瞬間があり、非常に独特な彼の世界観を構成している。

 そして彼はこのアルバムで最も素晴らしい曲「Bay Of Pigs」において、こう歌う。

「Oh world!,you fucking explosion that turns us around.(中略)You travel light,all night,every night,to arrive at the conclusion of the world's inutterable secret.....And you shut your mouth....」

 どこにでもある景色、どこにでもある自然を描写し、彼はそこに何かを投影する。そして、最後に、世界について歌う。「世界の言い表しがたい秘密にたどり着く」ことによって「君」は沈黙する。「それの全てを見てしまった」せいで、沈黙せざるを得ないのだ。

 無論、全てを語ることなど誰にもできないし、全てを見ることなど誰にもできない。言うまでも無いことだ。だからこそ、彼のこのラインは非常に興味深い。おそらく「世界の言い表しがたい秘密」などは「存在しない」。また、それを全て見たと言っているがそこに広がっているのはブラックホールのような空間だろう。つまり、これも言うまでも無いことだが、「世界など無い」のだ。その「無い」ことへの想いが彼の口を閉ざす。だが、「無い」という答えを彼は知っているがゆえに彼は軽やかに、皮肉っぽく、言葉を紡ぎ続ける。誰よりもクレバ―であるからこそ、彼は対象の輪郭が明瞭な何かについて言葉を紡ぐことはしない。そこに向かってもあるのは袋小路だけだからだ。何かについて歌うということの困難さを彼は誰よりも知っている。これがデストロイヤーにとっての「ヨーロピアン・ブルース」なのかもしれない。

retweet

david_lynch.jpg
 ゲーテが概念としての、デモーニッシュなものに触れるときは一般的な歴史における自然的なものを示唆した。特に、彼の自伝である『詩と真実』の中で、デモーニッシュなものに関して多く述べられている。そこでは、デモーニッシュなものはただ矛盾においてのみ運動し、顕現され、従ってどのような概念、如何なる言葉の下にも捉えられ得ないものであり、「主として人間と最も不思議な関係をもち、そして、道徳的世界秩序と相対立しないまでも、それと相交差する力を形作っている」という文脈を敷く。即ち、ゲーテによれば、デモーニッシュなものとは、寧ろ自然的なものであり、偶然的なものでありながら、尚且つ必然的なものであるという訳だ。また、彼によれば、デモーニッシュなものは先ずは「個人」に結び付いて現われるが、総ての個性的、特性的なものがデモーニッシュなのではなく、それは歴史的に重要なものにおいて出会うという形が常である、としている。ならば、いつの時代もデモーニッシュなものは社会的なものとして「経験」されるのが常なのかもしれない。

 09年の後半辺りからUSの早耳のブロガーの間で「ウィッチ・ハウス」という造語が行き交いだしたのは知っている人も多いと思う。その後、チルウェイヴとの繋がりを持つことにもなったが、どちらかというと、その奇妙なネーミングが示しているとおり、ジャンル、カテゴライズによって音楽そのものが帯びる不自由さへのアイロニーの姿勢を最初から含んでいた。昨年、ウィッチ・ハウスの代表格としてシーンを席巻したミシガンのセーラム(SALEM)に関しても目新しい音という訳ではなく、ゴシックな音に80年代風のニューウェーヴ要素を加えたダークな意匠が強いもので、その不気味なムードと幽玄的な女性ボーカルと沈鬱なラップが醸す「空気」こそが、ウィッチ・ハウス≒魔女のハウスという名称を体現していたと言える。一部では、UKのダブステップへの一つのリアクションと評されもしたが、どちらかというと、90年代初頭のトリップ・ホップを思わせる「低音」と「旧さ」が今、新しく解釈し直された上で、より現代的な閉塞を加えたという印象が個人的に強い。それでも、ブルックリンの若き俊才、バラム・アカブ(BALAM ACAB)辺りの人気も合わさって、ウィッチ・ハウスの周縁の暗渠に求心力を帯びてきたとも言える今、その源流を辿れば行き着くかもしれない映画監督デヴィッド・リンチが64歳にして本格的に「歌手」デビューするということは興味深い。
 
>>>>>>>>>>

『イレイザーヘッド』、『ツイン・ピークス』などで如何なくビザールなヴィジュアル・イメージを突き詰めていた彼の美意識、そして、ノイズを基調にしたサウンド・デザインとウィッチ・ハウスの親和度は高い気がしたが、この『Good Day Today/I Know』での「I Know」というオリジナル曲は、ポーティスヘッドの雰囲気を思わせるBPMが遅めのダークでヘビーな質感を持ったものになっており、仄かな共振さえも感じさせる。といえど、まずは皆が吃驚するのは、「Good Day Today」と思われる。リンチのヴォコーダー・ヴォイスが"軽快に"重なるシンプルなダンス・チューンだからだ。ちなみに、このシングルには表題の2曲のオリジナル曲以外に8曲のリミックスが収められており、「Good Day Today」のアンダーワールドのリミックスではカール・ハイドが全編歌い直したのもあり、ほぼアンダーワールドの曲になってしまっている。また、「I Know」のリミックスに関しては、サシャはリンチの持つ本来の世界観をよりスペイシーに広げたものに、スクリームは彼らしく強烈な低音が効いたスモーキーなものに、など各々の解釈が面白いものが揃っているが、白眉はベースメント・ジャックスのサイモン・ラトクリフの手によるものだろう。リンチの美学に対峙した上で、新しい不穏な美しさを付加することに成功しているだけでなく、しっかりと体を揺らせることができる緩やかなビートが心地良いトラックにしている。本体のベースメント・ジャックスの近曲の「Dracula」とも似ている要素があり、次作への展開の萌芽もここに見ることができるのではないだろうか。

>>>>>>>>>>

 なお、気になるジャケット・デザインはデモーニッシュなものにはなっているが、リンチの手によるものではなく、ピクシーズ、コクトー・ツインズや4ADレーベルなどのアートワークを手掛けたヴォーン・オリヴァーによるものであり、レーベルもUKのクラブ・ミュージックを主体にしているSunday Bestからというところからして、リンチが全面的にコントロール・フリークを発揮した作品ではなく、どちらかというと、これから軽やかな一歩を踏み出すために、自分にかかる期待やバイアスを敢えて避けたようにも思える。振り返ってみると、06年の『インランド・エンパイア』のサントラの時点で、リンチは「Ghost Of Love」を歌い、その後もポーランドのピアニスト、マレック・ゼブロフスキー、そして、スパークルホース、デンジャー・マウスと組んだりしていた訳で、音楽活動に興味が傾いでいたのは要所で伺えていた訳だが、こうしてデビューされてしまうと、様々な想いも巡る。

 例えば、ウィッチ・ハウスと呼ばれるものが召喚するデモーニッシュな何かが必然的に今、リンチ自身を「音像化」している過程内にあるとしたならば、ゲーテの示唆したように、歴史軸の中でこそ攪拌される遠心力を持つような気もしてくる。そう考えてゆくと、リンチの「個人的な欲求」が向かうべくして向かった部分と、歴史が呼んだ部分が合わさった意義深い作品なのかもしれない。だからこそ、完全なるセルフ・プロデュースによる"音楽家デヴィッド・リンチのアルバム"というのもそう遠い日ではないことを願ってやまない。

retweet

tennis.jpg
 2011年に入ってここまで夢中になって聴いたアルバムは、いまのところテニスの『Cape Dory』だけだ。60年代のオールライトな空気と、いまのUSインディのハンドメイドな感触と、グラスゴーっぽい温もりのあるメロディがすべて見事に融合して、この『Cape Dory』というアルバムにはパッキングされている。全曲にシックスペンス・ノン・ザ・リッチャーの「Kiss me」なみの甘酸っぱさがあって、愛せずにはいられない。ちなみにデンバー出身だって。360日中300日が晴天なんだって。ビーチ・ハウスの『Teen Dream』が天上の音楽だとしたら、Tennisは夕暮れ時の砂浜で永遠にかけていたくなる音楽。問答無用の傑作です。

 音楽的要素だけなら目新しいものはないなーとか思うでしょ。普通に良さそうだけどなーとか思うでしょ。だけどテニスはほとんどのバンドが手にできなかった特別な空間をアルバムのなかに作り出したのです。心の底から大絶賛したいです。

retweet

asian_dub_foundation.jpg
 凄い。やっぱりエイジアン・ダブ・ファウンデイションは凄い。結成が93年だから今年で18年目になるわけだけど、UKエイジアンとしてのアイデンティティを維持しながら、ここまで世界を刺激し続けることができる存在もなかなか居ない。93年にジャングルという当時の最先端にアプローチしながらシーンに現れたエイジアン・ダブ・ファウンデイションだが、『A History Of Now』でもグライムやダブステップのエッセンスを巧みに取り込んでいて、持ち味のひとつである咀嚼の上手さは微塵も衰えてはいない。しかも作品を重ねるごとに大人の余裕というか、説教臭くならずに主張を伝える術にも磨きがかかっている印象だ。かつての、エゴが前面に出ていたエイジアン・ダブ・ファウンデイションの姿はここにはない。代わりに、見つめるべき問題にしっかり指を指しながら対話を求める姿が窺える。

 銃声みたいな音がした後に「俺は銃を持っている。死にたくなきゃ従うんだ」と言われたら、みんな従うのだろうか? 誰かが「銃を見た」と言ったら、その銃は存在すると思ってしまうのだろうか? しかし、その従う者や存在すると信じている人達は、実際に銃を見たのだろうか? 存在するとしたら、自分の目で確かめろよ。そしてもしその銃があったら、どうすりゃいいか考えようぜ。と、少々乱暴な例えになってしまったけど、今作でエイジアン・ダブ・ファウンデイションが言いたいことは、「自分の目で見つめ、考えて生きろよ」ということ。結構当たり前のように聞こえるかも知れないけど、現代を生きる人でこうした生き方を実践出来ている人は少ないと思う。もし実践出来ている人が多かったら、民主党政権がここまで続くことはなかった...なんてね。でも、情報に脚色を加え、良くも悪くも情報を扱っていたはずの我々が、いつの間にか情報によって逆に脚色されているというのは事実だろう。

 音楽的進化と変化を重ねながら、時代に蔓延る問題を浮かび上がらせることも忘れない。しかも快楽的なノリまである。シリアスと快楽は水と油のようにも見えるが、エイジアン・ダブ・ファウンデイションは戦うために踊るのだ。今作ではストリングスを上手く取り入れていることもあって、どこまでも広がるようなスケール感と、「体ではなく心を踊らせる」音も手に入れている。洗練とエッジを両立させた理想的なアルバムであるのは確かだけど、ひとつ気がかりなのはライナーノーツにおけるチャンドラソニックの発言だ。

「誰かから与えられた考えじゃなくて、自分の頭で考えるようになってほしいね。自分を取り巻く物事の背景とプロセスをちゃんと把握して、理解してほしい。このアルバムを聴いて、世界を別の角度から見て、考えてほしいんだ。俺はそれで十分満足だよ」

 僕にとってのエイジアン・ダブ・ファウンデイションはこんな軟な存在ではなかった。少なくとも「十分満足」なんて言葉は吐かなかったはずだ。世界が混乱すればするほど輝くバンドで、だからこそ『Enemy Of The Enemy』という傑作が生まれたのだから。もちろん世界が安定へと向かっているなら話は別だが、残念ながら世界は複雑になり混迷を極めている。エイジアン・ダブ・ファウンデイションはそんな世界を音楽の力でもって変えようとしていたはずだし、僕もそこが好きなところでもあった。言葉の揚げ足取りと言われたらその通りかも知れないけど、興味深くエイジアン・ダブ・ファウンデイションを追っていた僕にとっては、「十分満足」という言葉が出てくるだけで、少なくないショックを覚えるのもまた事実なのだ。

retweet

the_sonic_executive_sessions.jpg
 いきなり私事で恐縮だが、今年に入って職場が変わり、そこで流れるラジオ局もJ-WaveからInter FMに。JUJUや平井堅の番組もちょっと好きだったが、岡村有里子さんのDJがやっぱり素敵ぃ~♪ と聴き惚れていたら、頻繁にプレイされているある曲が耳につく。あまりに流麗なコーラスワークっぷりに一発でノックアウトされ、声質と音づくりのオタクっぷりからしてロジャー・マニングjr.の新曲かな...? と思ったらそうではなかったが、調べたら過去にジェリーフィッシュのカヴァーもしている人たちみたいで、そんなに間違えてもなかった...どころか、そのカヴァーのあまりの出来のよさに本人たちのお墨付きまでいただいているみたい。すごいな。

 ウェールズ出身の三人組、ザ・ソニック・エグゼクティヴ・セッションズ(The Sonic Executive Sessions)。スタジオのオーナーとセッション仕事やTV音楽などをこなすミュージシャンによるユニットで、楽曲の完成度のあまりの高さにアルバム発表前からMySpace経由で一部では大変話題になっていたそうだ。待望となるアルバムのほうも、期待を裏切らなかったろう文句なしのポップ・アルバムだ。スティーリー・ダンとジェリーフィッシュのドリーム・ユニットによる巧みかつハッピーで活き活きとした演奏に乗せて、疾走感あるサーフィン期と夢見心地なペット・サウンズ期が融合したビーチ・ボーイズ風の甘いコーラスが気持ちよすぎる...とまで書いても大袈裟でなさそうな「You'll Never Happy」(ラジオで大プッシュされている曲だ)を筆頭に、多少ウェットな憂いを帯びたり、とびきりチャーミングだったりしながら、甘美なメロディが全編に詰め込まれている。メリーゴーラウンド的な多幸感はロジャー・マニングjr.のソロ近作にも通じるものがあるし、冴えわたるソングライティングとピアノ・ポップぶりはベン・フォールズやルーファス・ウェインライトを彷彿とさせる。パワーポップ然ともしながらAOR的な音づくりの丹精かつ端正な職人気質で、クイーンから初期のキリンジまで、日本の音楽ファンのツボを押しまくる展開の連続だ。フックの強さは実にラジオ・フレンドリーだし、どの世代が耳にしても郷愁に襲われるに違いない。

 似たような作風でもMIKAのようなキャラクターのアクの強さは望むべくもなく、技巧派スタジオ・バンドだけあってライブの予定も特にないそうだが、だからといって地味な印象は微塵も受けない。どうやら筋金入りのポップ職人らしく、メイン・ヴォーカルであり作曲も手がけているChristian Phillipsはあのコリン・ブランストーンの近年のアルバム制作にまで携わっていたとのこと。日本盤ボーナストラックにはStack-O-Vocalsバージョン(ビーチ・ボーイズがよくやっていた、ヴォーカルのみのミックス)も収録。スゴ腕コーラスっぷりを堪能できる一方、これを聴くことで改めて彼らの録音技術/芸術の精巧さを再発見できる。ここまで書いて、誰がこの作品を賛辞しても似たりよったりな文面になりそうなことに気づいたが、それだけ広いストライクゾーンに対応している証拠で、音の魅力が誰にでもわかりやすく伝えられるというのもポップの世界においてはすばらしい長所だと開き直れるほどミラクルな瞬間に満ちている。雨の日も笑顔になれそうな、しかめっ面した人々の耳にイヤフォンを捻じ込んででも聴かせたくなる好盤だ。

retweet

a_lily.jpg
 エイ・リリーとはイギリス人ミュージシャンのジェームス・ヴェラのソロ・プロジェクトである。デビュー作となる前作『Wake:Sleep』は、ラップトップをベースにした美麗なエレクトロニカで世界中でもブレイクしたが、4年振りとなる『Thunder Ate The Iron Tree』ではドラスティックな変化が起きている。まず、作詞・作曲・レコーディングをほぼ一人で受け持ったというジェームス・ヴィラが扱った楽器の多さに驚かされる。試しにブックレットに記載しているクレジットを羅列してみよう。

《singing, electric guitar, bass guitar, cello, marimba, glockenspiel, banjo, drum kit, pistachio shell shaker, rice shaker, djembe, gamelan bells, zheng, steel drums, kalimba, accordion, piano, organ, casio miniatures, yamaha miniatures, wooden frog, wooden cricket drum machine, synthesizer, all other percussion, lapsteel, autoharp, mellotron, tone chimes miniature harp, programming, acoustic guitar》

 オーソドックスな楽器からジャンベやバンジョー、メロトロンまでその幅の広さは、現代を代表するマルチ・インストゥルメンタリストであるトクマルシューゴに勝るとも劣らない。楽器の音同士を重ね、その隙間を活かしながら、且つ、歌も一つの楽器として的確に配置して、マジカルで上品なサウンドスケープを描き上げる彼の音世界には、芳醇な活きた音に充ち溢れており、玩具箱を引っ繰り返したかのような楽しさにも守られている。前作からはよりカラフルになり、EFTERKLANGのブラス・セクションも要所で活き、ポスト・クラシカルな音楽としては申し分のないサウンドスケープが拡がっているだけに、ここに、クリティークすべき言葉を置く意味があるのかどうか、とも考えてしまう。"既に音楽の中で、自分の音楽が語られてしまっている"と思えるところがあるからだ。

 我々が考えることが出来ないものや語ることが出来ないものの限界という言い方をするとき、空間的な表象を用いることを回避することはできない、といえる。となると、「トートロジー」という概念を持ち込むと、それは実は空間的表象形式としての別名かもしれなくなる。だからこそ、空間的ではない表象形式があれば、「トートロジー」の自家撞着形式から抜け出ることができる可能性もある。しかし、デリダの思想も関係させるならば、彼の解釈ではトートロジー的論理に取り込まれているがゆえに、それを自覚している自身の思想すら、己を裏切り、己から「ズレ」ることになる。そして、理性によって「ズレ」た他者の排除を、理性のトートロジー的言説の中から察知し、それを告発する自分の言説自体が自身に含む「ズレ」をも嗅ぎ分けるという鋭敏さを帯びてくるということになってくる。では、「エイ・リリーの音楽は、エイ・リリーの音楽だ。」(エイ・リリーの音楽は、エイ・リリーの音楽でしかない。)という凡庸なトートロジーは、この作品を前にどういった意味を持つのか、となると、僕は言葉より先立つ前提条件が幾つも見受けられるという点からして、開かれた他者性に向けられた特権を帯同した「差異」としての内容を孕んでくるように思える。形式の縁をなぞりながら、起こり得るエラーやバグも組み込まれている音楽として、既に音楽の中で存分に自分の音楽を語っているが、だからこそ、「内部」ではない外部から覗き込める隙間もあり、聴き手側に解釈の機微を預けられている要素も汲み取れる。

***

 簡単に各曲に触れてみる。幾つもの楽器が鮮やかに重ねられ、多重コーラスが被さる「Joy」にはポリフォニック・スプリ―や『The Soft Bulletin』前後のユーフォリックなザ・フレーミング・リップスの影も見ることができる。メロウなトーンで始まる「Your Collarbone」は、生楽器の妙な組み合わせのため、コミカルな奥行きが生まれ、そこにアイスランド人女性シンガーEMILIANA TORRINIの気怠いボーカルが入り、彼の分厚い多重コーラスと行き来するというかなりエクスペリメンタルな曲。エフェクト処理されたピアノの旋律が美しい「Cheryl Cole」、『Tnt』期のトータスのような「Arc Hugo」、ラストの8分を越える「Rain Islands」は静謐な始まりから楽器と声が重ねられていき、荘厳な昂揚感をもたらす。といったように、10曲の中で、同じようなタイプの曲がない。

 このドリーミーで甘美な音像からは個人的につい、コリーンやマイス・パレード、またはタウン・アンド・カントリー、近作のフォー・テット辺りの音を思い出してしまうが、それらの名前よりも更にギャヴィン・ブライアーズやモートン・フェルドマンといった偉大なる現代音楽家の血筋も見て取ることもできる。ジェームス・ヴェラという人のポテンシャルと実験精神を見せつけた快作である。

retweet

White_lies.jpg
 あら? なんか微妙じゃないか、ホワイト・ライズの待望のセカンド。いや、ぜんぜん悪くはないし、特に目立った路線変更もないし、むしろアンセミックにはなってるし、ちゃんと暗いし。私の期待が過剰だったか。しかしその過剰な期待にも余裕で応えてくれるバンドじゃないか、ホワイト・ライズ! というわけでやっぱりこのアルバムに満点をつけることはできない。私はまえにクッキーシーンでホワイト・ライズのファーストをレビューしたとき、「キラーズ、エディターズに続く逸材だ!」と絶賛していたが、その二バンドのセカンドに比べると、やはり停滞感を感じてしまう。もうすこし前のめりで冒険してもよかったのでは? 

 具体的に言えば、キラーズはセカンドで果敢にもアメリカン・ロックへの接近を試みたし、エディターズはファーストからは想像できないほどの壮大なスケールをセカンドで獲得した。逆に考えれば、ホワイト・ライズの「Ritual」は手堅い成長作ともとれるし、本人たちも「キングス・オブ・レオンのようなキャリアが欲しい」とインタビューで語っていたくらいなので、私が「聴いた瞬間に叫びたくなるような大アンセム」を期待していたのがそもそもの間違いかも。どちらにしろ、もうサードが楽しみ。だってキングス・オブ・レオンだったらサードは「Because Of The Times」だからね。うむ、そう考えるとこのセカンドも良いぞ。ゴシックな英国ロックの系譜を引き継いでいるぞ。わくわくしてきたぞ。何だかよく分かりませんが、けっして変な方向に走ったわけではないので、ファーストが気に入った人なら聴いてみるべきだと思います。

retweet

amos_lee.jpg
 キャレキシコというバンド名の由来が「カリフォルニア」と「メキシコ」を合わせた造語という部分からして、彼らの描く音というのは最初から、例えば、ルーツ・ミュージックやトラディショナル・ミュージックなどとの「距離感」によって図られるものであった。初期の『Spoke』や『The Black Light』といったアルバムでは、エンニオ・モリコーネが手掛けたマカロニ・ウェスタンの音楽のパスティーシュのような曲からマリアッチ、フォルクローレ、間に挟まれるインスト・ナンバーは緻密な音響工作が活きた浮遊感溢れるものになっていたり、とにかく、"Shady"な音楽であり、その印象から一部の人は架空映画のサウンドトラックという評をしてもいたが、実際、60年代や70年代の西部劇やB級映画に合いそうな雰囲気には溢れていた。

 しかし、03年の『Feast Of Wire』では歌の要素が増え、遊びの部分が減り、少しシリアスな様相を呈するようになっていた。それは、9.11以降の地平で無邪気な音楽をアメリカの中でそのままやるという難しさを孕んでいたかのようで、散文詩的な歌詞にふと挟まれるダークなトーンは、『Yankee Hotel Foxtrot』以降のウィルコやサドル・クリーク周辺のアーティストたちの温度ともシンクロしており、良質なアメリカン・ミュージックの担い手として注目を浴びることになったというのは、そもそもの彼らの起点からすると不思議なものだと思う。そういった流れを受けてのことか、05年のアイアン・アンド・ワインとの共作EP「In The Reins」ではオルタナ・カントリーへ接近し、06年の『Garden Ruin』、08年の『Carried To Dust』では、それまでにあった捩れたセンスが少なくなり、衒いのない良質な歌ものの要素が強くなった。バンドとしては「成長」していったのだろうが、その過程は、初期から追いかけている自分のような者からしたら、彼ら特有のウィットが欠けてゆくようにも思え、若干、寂寥も感じてしまったのも否めない。それでも、キャレキシコの主要メンバーでもあり、元・ジャイアント・サンドのジョーイ・バーンズのプロダクション能力とジョン・コンヴァティーノの持つサウンド・メイキングの巧みさには常に魅力を感じていた。

>>>>>>>>>>

 エイモス・リーの4作目となる『Mission Bell』では、ジョーイ・バーンズがプロデュースを手掛けているのだが、近年のキャレキシコの路線とエイモス・リーというモダンとルーツを行き来する正当なシンガーソングライターのアティチュードが健康的な形で融和し、良質でディーセントな音楽を結実させることに成功している。より表情豊かになったエイモスのボーカリゼーションを主軸に、ゴスペル、ソウル、フォーク、カントリー、ブルーズといった音楽的背景が叮嚀に束ね上げられ、オーセンティックなアレンジメントの下、ホーン、スライド・ギター、ピアノなどの楽器が有機的に絡み合う。

 同じブルーノートのノラ・ジョーンズが近作で多彩なアーティストとコラボレーションするなど自由度を高めた活動をしているのと比して、端整な佇まいとシルキーヴォイスでもってシーンに鮮やかにデビューし、その後もブルーノートの看板アーティストとしてポップの優等生的な道を歩んでいた彼が、深化の方向に歩みを進め、その成果がこうして出ているというのは頼もしく、映る。また、時にルーツ・ミュージックを求道するアーティストが陥りがちな「視野の狭さ」や聴き手を選ぶ「狭さ」はここにはなく、ソフィスティケティッドされた洒脱な空気を感じさせるものになっているというのは、ジョーイ・バーンズのプロデュースに拠るところも大きいのかもしれない。カントリー・ミュージックの重鎮であるウィリー・ネルソンの参加やソウルフルな歌声で独自の道を堅実に切り拓いているルシンダ・ウィリアムズとのデュエットなども活きている。

 余談になるが、今作を聴いていると、ルーツ・ミュージックを今の音に再構築する腕に長けたジョー・ヘンリーがプロデュースを手掛けていたら、どういったものになっていただろうか、ふと考えてしまうところがあった。もしも、エイモス・リーとジョー・ヘンリーが組むことがあっても面白いことになると思う。加え、例えば、ベックが行なっているレコード・クラブみたいな形で、エイモスが他のアーティストの曲をカバーしてゆくというのも良いかもしれない、とも思った。何故ならば、こうして作品を重ねることで、最初の頃のエイモスに付いてまわっていた匿名性の高い品の良さよりも、記名性の強いアクの強さが見えるようになってきたからこそ、もっと新しい試みを聴いてみたいという願望も出てきたからだ。

>>>>>>>>>>

 この『Mission Bell』は、今の渾沌したアメリカの音楽シーンの中で目立つ内容では決してないが、凛と背筋の通った志の高い作品である。同時に、ここでの「アメリカ」とは幻視されるべき旧き良きアメリカであるのかもしれない。そう考えてゆくと、「キャレキシコ」というバンドの存在とシンクロし、フィラデルフィア出身のエイモスがルーツを巡る過程で、幻像としてのアメリカが持ち上がったというのは興味深い。

 デビューからの流れがここで極まったような気もするだけに、今後、更に大いなるアメリカの歴史と向き合うのか、オルタナティヴに振れるのか、注目していきたい。

retweet

vampillia.jpg
 全2曲で約50分、ノンビート。アンダーグラウンドなシーンの中でも異端とされる存在であるVampilliaの最新作。1曲目の「sea」ではスワンズの女帝ジャーボウが美しい音像の中、ヴォーカルやポエトリー・リーディングで参加している(このアルバム・タイトルの名付け親でもある)。禍々しいオーラに満ちた彼らのヴィジュアルや音楽に触れた事がある人の中には意外と呆気にとられるかもしれないアンビエンスで幕開ける。正に楽曲タイトルを想起させ、壮大な空間を演出するストリングスを用いた美しい情景。ピアノが齎すセンシティヴでしっとりとした音が寄り添いながら、確実に生命の息吹を感じさせ原始的とすら感覚出来る時間。やがてピアノの独奏が中盤支配しこれからの暗黒展開を予見させるかの如く冷ややかな空気が張り詰め、その予感が的中。後半一転してへヴィなギターが畳み掛けてドローン・メタルな展開へと派生するが、冒頭のアンビエント・パートで披露した美麗な旋律は輪郭を暈したまま引き継いでいる。決して安らかなる幻想のみで終わることのない厳格な超自然を感覚させられ、悲哀を帯びた厳しさにただ蹲るだろう。"叙情的な"という形容もシチュエーション次第で当て嵌まるかも知れないが、この音楽そのものに「"都合の良い"物語性」は感じられない。荘厳なフィードバック・ノイズの中で舞うオペラ・ヴォイスや、鳴りやまぬ鍵盤の高らかな響きは、ドゥームやドローン、ノイズ音楽と称される類として聴けばメロディアスな要素を多分に含んでいて、ノンビートものはちょっと苦手という食わず嫌いなリスナーにも体感して欲しい。

 2曲目「Land」は、1曲目「sea」の録音時に使用した膨大な素材を元にメルツバウが自身のノイズを交えてミキシングした楽曲で、「sea」とは対照的に現代音楽のアプローチをもって心身に沁み込んで来る。ギシギシと軋む狂気を孕んだ抽象的なコラージュに脳内がジワジワと冒されて...やがて気が付くのは冒頭の「sea」と同じく2部構成というデジャヴ。後半はギターの轟音がドゥーミーに沈み、散り散りになった細かいノイズの欠片と共に夢の底へと堕ちていく...。ブラックメタルの持つダークネスは確りとルーツの一部として抱き、上っ面の流行やシーンとは一切迎合しない独自の姿勢と同時に、普遍的な美を追求した音楽を作り上げようとする志が窺えるからこそ目指している高みが他とは違うのだろうと感覚出来るのだ。メルツバウやアシッド・マザーズ・テンプルなど、数々のアンダーグラウンドシーンに於ける重要アーティストのリリースを引き受けるアメリカのImportantから全世界への発信となる今作。勿論世界での反応も気になる所だが、こういう問題作(話題性が強いという意味でも)になるべき作品を先ず日本国内がどういうリアクションを返すのだろう?という試金石でもあると感じる。つまりは、非常に素晴らしい作品を前にして真摯に受け入れられる"シーン"であるかどうか。

「よう考えたら最近居らんで、こんなマジなん」という自分のファースト・インプレッションは4回リピートした後の今も変わる事はない。今後の活動も益々精力的な大所帯な彼らは最早、数々の大物との共演を重ねた過去を武器にせずとも十二分に飛躍してみせるに違いない。ポストロックやシューゲイザ―ともリンクするサウンドは更に確信を突き、これを「マニアック」だなんて片付けていては、いよいよ日本も終わりだろう。

retweet

tomas_phillips.jpg
 Humming Conchや12Kあたりのドローン系のレーベルからアルバムをリリースしているトーマス・フィリップスと、京都のアーティスト、マリヒコ・ハラによる共作。アンビエントでエクスペリメンタルでポスト・クラシカル的である――と、音楽性の説明こそ簡単だが、このアルバムの今にも掻き消されそうなほどに淡い旋律は、上記3つの音楽性が絶妙に織り交ぜられており、一言では言い表せない。
 
 ドローン、アンビエント、環境音が仄かに散りばめられつつ、長く響くピアノの音が印象的。限りなく静寂に近い音楽であり、しっとりしたピアノやドローンには主張性が全くなく、鍵盤に触れる音さえ聴こえてきそうなデリケートさである。2008年から制作をスタートさせたそうだが、変な話、音数と日数を対比して考えてみると、一つ一つの音に何日もの濃密な歳月を費やしていることになりかねない。かといって、本盤にそういった責任臭さや説得力といったものはない。あたかも数カ月で作成しているような、良い意味での軽やかさがある。
 
 ついでに本盤がリリースされたtenchというレーベルにも軽く触れておくと、tenchはWords On Musicの姉妹レーベルにあたり、ボルチモアに拠点を置く。本盤がレーベルからの2枚目のリリースとなる。いずれもHome Normalや12Kらの路線と同様でありつつ、美しさを避け、より穏やかな方面へ向かっている印象がある。

retweet

deer_tracks.jpg
 昨年、2010年の春に、大阪でフリーティング・ジョイズ、ディア・トラックス、レディオ・デプトの3組の来日公演を観る機会に恵まれたのだが、その夜のハイライトは大方が、ディア・トラックスの「Yes This Is My Broken Shield」を挙げるのではないだろうか。打ち込みを楽曲の中心に据えるバンドは、ことライブにおいてダイナミクスを損なってしまうリスクも背負っているが(その日観たレディオ・デプトに若干のそれを感じてしまったので...)、彼らの音は1つ1つに緩急のついた表情を感じさせる、多幸感に満ちたものだった。ラストの 「Yes~」の音の洪水には思わず涙がこぼれた。
 
 音源でもそれは窺い知ることができる。ひとくちに生楽器を組み合わせたエレクトロ・ミュージックといっても、とりわけ彼らの音は立体的かつ有機的だ。それは、聴き手の感情を想起させる余地を多分に含んでいると言い換えてもいい。温度を感じさせるという意味では、ラリ・プナを初めて聴いたときにも似たような印 象を受けた。が、それよりももっとスケールの大きい、まさしく北欧をイメージさせるような、澄んだ空気のなかで鳴らされている世界観がそこにはある。 
 
 彼らの日本盤としては2作目にあたるこのディア・トラックスの『THE ARCHER TRILOGY PT.1』は、基本的に前作の流れの延長線上にあり、前作で確立させた世界観をより推し進めた内容である。より光が濃くなった感じだろうか。まるで白昼夢をみているかのような、とにかく美しい...。「RAM RAM」「MIO」は高揚感が否応なしに掻き立てられる名曲。ライブでのまばゆい光景が浮かんでくるよう。後者はシガーロスをも思わせたりもする。タイトルからするに3部作の1作目ということで、今後の音源が早くも気になる。何故だかそんな期待は裏切られないだろうという確信がある。北欧ときて反応するような人はぜひ。
 

retweet

ryan_francesconi.jpg
 ライアン・フランチェスコーニによる、本人名義での第2弾作品。前作同様、彼の並々ならぬほどに豊かな表現力に感服。アカデミックなテクニックに裏付けされている、いわゆる超絶系の演奏でありながら、胡散臭さやプレイヤーのドヤ顔を浮かび上がらせない。純粋に物語として楽しめるようなアルバムである。
 
 本人名義での第1弾作品である『Parables』は、アコースティック・ギター一本による独奏であり、静謐で内省的なアルバムであった。本盤はウード奏者のケーン・マティスとのデュオ編成の作品である。ライアンはアコースティック・ギターから手を離し、彼の十八番ともいえる楽器、タンブーラ(ブルガリアで言うシタール的な弦楽器)に持ち替えている。
 
 前作で見られたフォークさや穏やかさは消え失せ、流麗なアルペジオは、かなりアグレッシブでプログレッシブなものに変容している。クロマチックな旋律はどこか東洋的でもある。それでもなお、彼独特の世界観は健在しており、ほんの少し耳にしただけでも、ライアン・フランチェスコーニの音楽だなと瞬時に判別できてしまうのは、私だけではないだろう。エレクトロニカを経由したアーティストとは到底思えない、圧倒的な存在感を誇るタンブーラ。帯に書いてある通り、杉の香りがしている。

retweet

underworld_live.jpg
 去年の10月に行われた日本ツアーもそうだけど、ダレン・エマーソンが抜けた後のアンダーワールドは明らかにライヴからのフィードバックを重視している。それはダレンが抜けたことで、クラブからのフィードバックを得られなくなったことも関係しているんだろうけど、ライヴとアルバムは別というよりも、ライヴがアルバムの世界観を表現する上での集大成となっている。だからこそ、盤という形でライヴを真空パックするのには無理がある。もちろんそこらのライヴ盤よりははるかに聴いていて楽しいし、何度も聴きたくなる。「Born Slippy Nuxx」での抗えない高揚感はさすがの一言だし、ライヴ・バンドとしてのアンダーワールドの魅力を確認できるという意味では、すごく最適な1枚だと思う。

 ただ、アーティストとしてのアンダーワールドという視点でもって聴くと、どうしても寂しくなってしまう僕がいる。『Barking』からは「Always A Loved Film」と「Scribble」が収録されているが、正直他の4曲と比べると、観客を熱狂させるパワーは落ちる。もちろん「Born Slippy Nuxx」のようなアンセムを生み出せとは言わないし、もしアンダーワールドが過去の焼き直しなんてやり始めたら僕は本気で怒るだろう。でも、ライヴでアルバムの集大成を表現するのが現在のアンダーワールドだと思っている僕からすれば、『Live from The Roundhouse』は何かが足りない。どうせなら『Everything Everything』のように、アンダーワールド自身の手が隅々まで行き届いているライヴ・アルバムをリリースしてほしかった。はっきり言って、『Live from~』は「10年経った『Everything Everything』」に過ぎない。それでも繰り返し聴いているのは、やはりアンダーワールドのライヴがもたらす快楽が忘れられないからで、『Live from~』にもその快楽の欠片が収録されているからだ。『Everything Everything』ほどアルバムとしての個性や存在意義はないけど、アンダーワールドのライヴの興奮を記録出来ているという意味ではなかなか良いアルバム。僕にとっては愛憎入り乱れる複雑なアルバムだ。

(近藤真弥)

retweet

coldfish.jpg
*ストーリー: 熱帯魚店を営んでいる社本(吹越満)と妻の関係はすでに冷え切っており、家庭は不協和音を奏でていた。ある日、彼は人当たりが良く面倒見のいい同業者の村田(でんでん)と知り合い、やがて親しく付き合うようになる。だが、実は村田こそが周りの人間の命を奪う連続殺人犯だと社本が気付いた。

 園子温監督がこの作品を書いた頃は恋人が家から出て行ってかなりボロボロで新宿でホストにケンカ売ってわざと殴られたり「クランクイン前には警官に捕まえてと言っていた。人を殺してしまう前に」と言ってしまうぐらいに落ちていて、一緒に脚本を書いた高橋ヨシキさんにも同じようなことをしようとしても彼の方が大人で「一緒に映画やろう」と言われたらしい。 

 雑誌『CUT』の園監督のインタビューではこの映画を作ることで自分自身が救われたと。ラース・フォン・トリアー監督『アンチクライスト』でラースも同じような事を言っていたとのこと。そのインタビューではみんなが『愛のむきだし』ばっかり言うから嫌になったと。だから新しいスタートを切る『冷たい熱帯魚』は第二のデビュー作のようなものでジョン・レノンでいうとソロになった『ジョンの魂』だと言う事を園監督は述べている。 

 作品としては巻き込まれ型である。主人公・社本の家庭は崩壊している。後妻と娘の関係は最悪、その妻と自分の関係も冷えている。それがギリギリのラインで保たれながら日々が過ぎている。そして出会ってしまった男・村田により彼はその平穏な人生から転がり堕ちていく。村田は殺人の後始末に社本を連れて行く。村田の妻(黒沢あすか)と彼は手慣れたやり方で殺した相手をどんどん解体していく。社本は泣きながら吐く事しかできない。しかしこの時点で彼は車で死体を運んでいる、彼は知らぬ間に巻き込まれ共犯者になっていく。死体を細切れのからあげサイズにそして焼いて骨を粉になるまで、肉は途中の川に。そうやってその死体は透明になる。村田は社本を殴りつけたりしながら殴ってこいよと言うが社本にそれはできず、昔の俺みたいだなと言う。村田はこの作品における象徴的な父である。そしてこの作品はオイディプス・コンプレックスを扱っている作品になってしまっている。去年の東京フィルメックスでは無意識にそうなってしまったと園監督は言っていた。 

 園子温作品を何作か観ればわかるが園さんは家族というものを否応なく描いてしまうし題材というか大きな軸として展開する。それは大抵崩壊した家庭だったりするのだが。それが顕著なのは吉高由里子が世に出る事になった『紀子の食卓』だろう。『愛のむきだし』での主要キャラの三人の若者の家庭には問題があった。時にはそれらを置き去りにし、崩壊しかかっているものを完全にぶち壊す。家族という最も最小単位の社会。それが壊れている時点でそこにいる子供はそこから出て行くかそれを破壊し進むことでしか自分を殺さないですむのかもしれない。 

 この作品は『愛犬家殺人事件』をリサーチしその他何種類かの殺人事件から発想を得ながらも園監督の個人的なものをつぎ込んで作られた実話を基にしたフィクションだ。とても過剰な狂気に満ちあふれながらも極限状態の人間が放つ言葉や行動は不謹慎ながらも笑いを誘ってしまう。 

 例えば絶対に笑ってはいけない葬式でふいに目に入った事で笑ってしまいそうになるのを堪えながらも耐え切れずに吹き出すようなある種の不謹慎。それはなんというか見えている現実が自分の中の平凡さを突き抜けて過剰過ぎてタガが外れてしまうような、コメディと悲劇が紙一重だというそういうもの。社本が転がり堕ちていく悲劇は他者であるからこそ笑えるのだが、当事者だったらとてもじゃないが耐え切れない。 

 そういう堕ちていく彼はオイディプス・コンプレックスの先に何をするのか。そして最後の終わり方。彼の最後の行動は僕にとっては彼が唯一娘にできる事を父親としてしたんだと思う。彼女に語りかける言葉と彼がする行動は娘をある意味では孤独にそして自由にする。それ以外に彼には方法がなかったとも言えるし、彼が選べた最良の事かもしれない。それを娘がどう思うかはまた違う問題だとしても。 

 園子温作品というか園子温という人物が放つ作品は驚喜=狂気=凶器だ、しかもそれを一度でも自分の中に受け入れてしまえば麻薬だ。この魅力からはもはや逃れる事はできない。この驚喜=狂気=凶器はその人の中にあるラインを踏み越えさせてしまう、いいかい、これは簡単な話だ。踏み越えると同時に踏みとどまるのだから。この意味は難しいようで易しい。君が死まで抱えていくこの生きるという時間と生命の宿命である生殖=性が園子温作品にはあり、あなたがもしどうしようもなく誰かを殺したいのならばそれを踏み留める、救ってくれる可能性だ。 

 人を殺したいと思っている人の全てがこれで救われるわけではないが、届く作品というものにはその作用とやはりそこから飛び越えてしまうものが出てしまう問題は絶えず存在する。 

 日本が誇る映画、宮崎駿作品もといジブリの作品を観ていれば人を殺さなくてすむのだろうか? もちろんそんな事はない。連続幼女殺害犯として死刑になった宮崎勤の六千のビデオテープの山の中でラベルに唯一「さん」付けさけていたのは宮崎駿だったのは有名な話だし、『魔女の宅急便』を観た後に睡眠薬を飲んで数人の少女が自殺未遂を起こした事だってある。 

 表現が届くというのはそのプラスもマイナスも起きる。その表現が表現としての強度や精度、スピードがあれば。単純な消費だけの表現ではそこには辿り着けない何かが潜んでしまう。僕はそれを園子温という才能に出会って身にしみてわかったんだ。園さんという人に実際に会って話をして酒を飲んで感じた事はこの人は映画を撮らなきゃダメな人なんだ。そしてそれをわかり支える人がいる。だからこそ映画は世の中に出て行くのだけども。 

 どうしようもなく選ばれてしまった側の人だと寂しくもなる。三池崇史さんが「狂人が作るべきなんですよ映画は」と言うのはわかる。どこかが欠落しているのだ、それを埋めようと作り続けて壊しては作る。園さんの作るペースはかなり速い、『冷たい熱帯魚』の次の作品もクランクアップして待機している。 

 『ゼロからの脚本術』で園さんが語っている「やっちゃいけないことは、ひとつもない。これは映画に限らずだけど、そういうものを破っていくのが快感だし、破るべきだと思う」と。 


retweet

sonomati.jpg
*ストーリー:阪神・淡路大震災で子どものころに被災するも、現在は東京で暮らす勇治(森山未來)と美夏(佐藤江梨子)は、追悼の集いが行われる前日に神戸で偶然知り合う。震災が残した心の傷に向き合うため、今年こそ集いに参加する決意をした美夏に対して、勇治は出張の途中に何となく神戸に降り立っただけだと言い張るのだが......。 


 2010年1月17日にNHKで放送されたドラマに新たな映像を加え、再編集バージョンとして公開。

 この『その街のこども』の脚本の渡辺あやさんの作品と言えば『ジョゼと虎と魚たち』『メゾン・ド・ヒミコ』『天然コケッコー』『ノーボーイズ、ノークライ』などの映画作品に、NHKで放送され『火の魚』とこの『その街のこども』で、今年の秋から始まるNHK朝の連続ドラマ小説『カーネーション』(デザイナーコシノ三姉妹の母親が主人公の作品)で脚本を書く事が発表された。 

 『ジョゼと虎と魚たち』『メゾン・ド・ヒミコ』『天然コケッコー』『ノーボーイズ、ノークライ』『火の魚』『その街のこども』にある渡辺あや脚本で描かれる人と人の間にある距離。人間というものが最小単位である個と個が触れ合う事を丁寧に描いている。だからこそ観終わった後の余韻が振るわせる。 

 わかりあえるかもしれないという可能性あるいは希望が人の間にはある。だけども僕らは100%わかりあえるはずもない。溶け合う心が君を僕を壊すように、『エヴァ』(旧劇場版)でシンジがその世界を拒否したように君と僕が溶け合う、同じ意識の集合体になれば個は消えて全体が大きな個の中に閉じられる。触れ合って同じ時間を共有しても全てはわかりあえない。わかりあえたような気はするけども最終的な部分は個と個とだから。彼女の作品は主要の登場人物の二人の触れ合いと許有する時間の中でのわかりあえるかもしれない希望ととそこからはみ出してしまうディスコミュニケーションという他者であるという事を描く。 観ている僕らには立場や環境が違えども彼らや彼女たちに感情移入する、それは僕らがずっと生きてきた中で感じていた、体験してきた事だから。 

 『ジョゼと虎と魚たち』において恒夫(妻夫木聡)とジョゼ(池脇千鶴)の関係性で恒夫は若い男性にありがちな今を見ていて未来を見据えれなかった。だからこそ彼は彼女の元を去っていく。それをジョゼは受け入れるのは付き合い出した当初からこの人はいずれ私の元を去っていくだろうと哀しい達観をしていた。その事に気付けない男とそれについてずっと一緒にいてとは言えない女。恒夫は彼女との家を出て他の女(上野樹里)と歩き出すが歩いている途中に別れたら一生会う事ができない女の元から逃げ出した自分についての嫌悪感とこれまでの彼女との想い出がごっちゃになり泣きながら嗚咽する。ジョゼは車いすを押してくれた恒夫がいなくなり電動車いすで町に出て行くという対比が強さと弱さとどうにもならないものを感じさせた。 

 シネクイントで観た後に僕は一人で落ち込んでしまった。その時は恒夫に感情移入してしまって、でも何度も観る度に彼らの関係性と諦める事でしか人生を生きてこれなかったジョゼの哀しみ故の強さを描いてしまったこの作品に増々惹かれてしまった。 

 『その街のこども』は勇治(森山未來)と美夏(佐藤江梨子)の震災15年目の前の日からの出会いとその追悼の時間までを描く。震災にあった当時子供だったひとの絵や当時の映像も使われているが、この二人が話す事で震災からどう生きて来たのか、価値観の違う二人がたまたま出会い、巻き込まれるように同じ時間を共有し共感し反発する。そこにはやはりわかりあえるかもしれない事とわかりあえない事が描かれている。 

 モキュメンタリー(フェイクドキュメンタリー)風に撮られているので彼らの息づかいもリアルなものに感じられる。どこまで台詞でどこからかアドリブなのかわからない。二人の役者は実際に震災にあっているだけに役と本人の境界線が薄れている。それを編集し一つの物語に構築している。 

 震災という同じ体験をしているというある種の共有。しかしそれは当然ながら個人個人で細部は異なり抱く感情も違う。共通の友人がいてその人がいない時にさほど仲の良くない者同士がその人を語ることはできる。共有している話題や体験、しかしその人に抱いている思いや感情は二人の中で同じ部分もあるが細部は当然異なる。そういうものが一つの対象について語られる、そこから見えてくるもの。 

 映画では神戸という街が彼らには違って見えるだろうし、僕のような関係のないものにもその場所は「物語」のある風景として刻まれる。 

 彼らの息づかいが伝わるような感じがする。何気ないシーンや光景でも僕は涙ぐんでしまった。僕ら個人がどうしようもできない巨大な出来事に対して僕らの内面とそれを繋げる想像力や装置が必要なのかもしれない。 

retweet

liars.jpg
「俺たちはダークなレコードを作りたかった。最近は楽観的で花飾りしたような音楽が増えてるよね。まるで祝い事のようなさ...いったいアイツら何を祝うってんだよ!」

 ピッチフォークによる2010年のインタヴューで、背丈が2mを越すことで知られるバンドのフロントマン、アンガス・アンドリューはこんな発言をしている。NYで猛威をふるうサーフ・ロック勢に向けられた言葉である。気がつけば結成から10年が経ち、いつも変わらずダークな音楽を作り続けてきたが、それとともに常にシリアスに構え、その勤勉さをおかしな方向に向けたまま突っ走ってきた。ライアーズはそんなバンドだ。

 かのバンドによる2010年のアルバム『Sisterworld』は、アメリカ人らしい陽気なポジティブ・シンキングに背を向けた人たちの作りだした住処をテーマにしたというコンセプト作となっている。彼らは00年代の半ばに活動拠点としたベルリンを離れ、かつてバンドが学生時代を過ごしたロサンゼルスに移り住んだ。アルバムの特設ページを開くと、画面上に木々や海が静かに広がる。ここに映るロサンゼルスにはグット・バイブレーションした爽やかな波風は存在しない。倒壊したホテル・カリフォルニアの瓦礫が淘汰されたあとの、絶望的な桃源郷とでもいうべき景色。上記のインタヴューでも、LAで連想する面々としてドアーズやラヴ、そしてデヴェンドラ・バンハートを挙げている彼ららしい世界観だ。

 仰々しくおどろおどろしいコーラスのあとに、暴力的でけたたましいバンド演奏と絶叫が鳴り響く「Scissor」でアルバムは幕を開け、そのあとは背筋が凍りそうなストリングスとクラウトロック的なミニマル・ビートがアルバムを支配している。ときにシューゲイザー的なギター・サウンドに目配せしながら(「Scarecrows On A Killer Slant」)、ディーヴォを彷彿とさせる得意の痙攣ビートも披露(「The Overachievers」)する。どことなく『Another Green World』のころのイーノやアトラス・サウンドの近作を思わせるドリーミーな曲(「Proud Evolution」)も含め、アルバムはドラマチックな躁鬱状態を繰り返すが、安易なポップに走る瞬間は一秒も用意されていない。各アルバム・レヴューごとにジャンルや類似アーティストをわかりやすく整理している律儀な音楽サイトTiny Mix Tapeも、本作に関しては「STYLES: rock? Liars?」と匙を投げるほど、ある意味で集大成的な作品ともなっている。

 ムックのほうでも触れたが、"ポストパンクはサウンドではなくアプローチの言葉"という概念を彼らは誰よりも生真面目に体現してきた。結成後初となる01年の『They Threw Us All In A Trench And Stuck A Monument On Top』では時代に適合したNYダンス・パンク勢の一味として名を売り、あのストレイテナーも当時、ライブの入場時にこのアルバムの収録曲を使っていたというほどキャッチーな仕上がりだったが、すでにこの時点で、ラスト・トラックには20分超に及ぶエクスペリメンタル・サウンドが仕込まれていた。次の『They Were Wrong, So We Drowned』でポップなスタイルを簡単に捨て去り、ドイツの魔女物語をコンセプトに騒音ギターと電子音、壊れたリズムによる狂騒的でジャンクな闇鍋サウンドを展開。あまりの悪趣味ぶりにほとんどの媒体から理解されずボロクソにけなされたものの、それをまったく意にも介さず、ベルリン移住後の06年『Drum's Not Dead』ではドローン・サウンドとともにタイトルどおりに太鼓の音を乱舞させ、呪術的でアブストラクトなそのサウンドは過去にも類を見ない強烈すぎる個性を放つ。アーティスト性をこじらしたすえに咲いた大輪の花のようなこのアルバムでバンドは地位を確立させた。今こそ改めて聴かれるべき、鬱蒼とした暗黒ダンス・ミュージックだ。

 黒魔術的なモチーフや一見ポップさの欠片もないサウンドのせいか、この頃から日本では無視されがちになるが、4作目の『Liars』は、アメリカン・ニューシネマ的なPVも印象的な名曲「Plaster Casts Of Everything」を筆頭に、ソニックス~プライマル・スクリーム的なロックンロール作になっている。難解なアート・バンドと思われがちだけども、見るからに野蛮人なルックスそのままのフィジカルな躍動感はどの作品にも溢れているし、聴けば聴くほど感覚的でシンプルに作られてあることに気づかされる。00年代初期に現れた多くのポストパンク・リヴァイヴァル勢が袋小路にはまって消えていったなかで、唯我独尊状態でクレイジーな舵取りとともに音の変遷を重ねつつも、うまい具合に時代に適応しながら追求する快楽性には首尾一貫したものも見える。10年の長きに渡って絶好調ぶりをキープしているバンドなんて、80年代のオリジナル・ポストパンク・バンドでも数えるほどしかいない。ここまでオンリーワンな存在である彼らがまもなく来日するというのは、個人的には大事件なのですが...どうでしょう。

 招へい元のContraredeがご丁寧にライブ映像をまとめてくれているので、もちろん全部観てみた。ここまでくると、難しい言葉を使って語るのはもはやバカらしくなってくる。ノイズと汗を撒き散らしながら、大男が全身をしならせる。ヤバい。カッコいい。優等生が増えてきて、見せものとしてのロック文化が衰退していくなかで、それこそ"化け物"を観察しに行く感覚でライブに足を運べる機会なんていまやそうそうないはず。ヤー・ヤー・ヤーズとともに来日した03年から今日までの空白は日本の音楽ファンにとって確実に損失だった。トム・ヨークもブラッドフォード・コックスも憧れるこのバンド。見逃してしまうのはあまりにもったいない。

retweet

過去クッキーシーンは、00年代初頭からバンドをフィーチャーしたDJイベント、クッキーシーン・ナイトをおこなってきました。今回、バンドをフィーチャーしないDJイベント、ラウンジ・クッキーシーンをやってみたわけですが、おかげさまで大盛況! とても楽しい時間をすごすことができました。会場に来てくださったみなさんも、楽しんでいただけたのであれば幸いです。そして、ありがとうございました!

ラウンジ・クッキーシーン、今後もつづけていきたいと思っています。その際は、ここで告知していきます。よろしくお願いします!

2011年1月23日21時55分(HI)

2011年1月

|

retweet

  • R.E.M.

    伝えたかったのは"困難な変化が訪れても怖れないで自分のプラスに変えよう"ってこと

  • ザ・ヴァクシーンズ

    バンドとして有名になることに抵抗はないけれど、セレブリティーと呼ばれる存在にはなりたくない

  • モグワイ

    いろんな意味で、変化する時期にあったんだと思うよ

  • ハーツ

    僕達は「それ以外」のことを強調した 音楽を作っているんだ

  • ジョニー

    自分たちが楽しむ音楽を自由にやろうっていう、それがジョニーだね

retweet

今週のカヴァーは、キャロラインです(「萌え...」 by 編集長伊藤)。彼女のニュー・アルバムに関するレヴュー記事は、こちら

「DLすると横幅が1500pixel」となる画像をアップしました。あなたのPCの壁紙に使えるかも、って感じです!

2011年1月18日20時45分 (HI)

2011年1月18日

|

retweet

retweet

GLENN TILLBROOK
 
バンドという感覚は始めてすぐに手に入るものではなくて
時間をかけて培っていくものだ

「80年代のレノン/マッカートニー」と謳われ、ビートリーな曲調とひねたユーモアで一世を風靡した80~90年代の英国ロック・シーンを代表するニューウェーヴ・バンド、スクイーズ。歌詞担当のクリス・ディフォードとともに、バンドのソングライティングの中心を担っていたのがメイン・シンガーでもあるグレン・ティルブルックだ。スクイーズが99年に活動を停止したあともソロ活動を熱心につづけ、これまで三枚のアルバムをリリース。いずれも良作だが、とりわけ"グレンのポップ・ソング集"というよりは"バンドの作品"と位置付けるべき09年の三作目『Pandemonium Ensues』はペット・サウンズ風のジャケもあいまって、勢いあるグッド・メロディーが次々飛び出す傑作だ。ソロでの弾き語りや、みずからのバンドであるフラッファーズ(The Fluffers)を従えてのライヴも定評があり、日本にも何度も来日している。
 
昨年にはセルフ・カヴァー集『Spot The Difference』もリリースし、絶好調である再結成スクイーズのツアーが(日本にいるとイマイチ想像しづらいが)英米で爆発的な人気を誇り多忙を極めているなか、今年1月に(つまり、本当にまもなく!)グレンは5度目となる来日公演を控えている(*日程はコチラ)。瑞々しさを保った歌声と、表現力とサービス精神がたっぷり詰まったステージングは必見! なのだが、彼はその前にも昨年8月に来日している。癌患者支援のためのチャリティ団体Love Hope and Strength(以下LH&S)の参加者のひとりとして、富士山を登るために真夏の日本を訪れていたのだ。LH&Sは自身も2度の癌を克服した(これまた80年代を代表するバンドである)ザ・アラームのマイク・ピーターズが設立した団体であり、多くの有名ミュージシャンを含めた支援者たちは過去にもエヴェレストやキリマンジャロなどの名峰を登り、山頂ライブなどの活動を通じて基金を募ってきた。
 
このインタヴューはその8月来日時に行われたものである。今回はスクイーズの大ファンである方々に質問作成協力をいただき、その甲斐あってマニアックな部分まで訊くことができた。一方で、グレンの発言には昨今の再結成ブーム時代をサヴァイヴするひとりのミュージシャンの現実も含まれており、文中で語られる原盤権についてなど多くのベテランが抱える問題や、ザ・ルーツのクエストラブとの意外な関係など、グレンのことを知らない若い音楽ファンにもぜひ興味をもっていただけたらと思い、註釈を多めにつけてある。

gt_1.jpg

retweet

直前の告知になってしまい申し訳ありませんが、来たる1月22日(土)、渋谷の「Bar&Cafe 特異点」で、クッキーシーン・ムック第一弾『Cookie Scene Essential Guide: POP & ALTERNATIVE '00s: 21世紀ロックへの招待』の発売記念DJイベントを行います。題して「ラウンジ・クッキーシーン」。

チャージ500円プラス・ワン・ドリンク・オーダー・マスト、合計1000円程度で朝まで楽しめちゃう(ちなみに、スタンプを押してもらえば入退場自由)。

そのうえ、すでに上記ムックをご購入の方は、入り口で現物を提示していだたければ、チャージがただになります。また会場でも上記ムックを販売しますが、そこでご購入いただいた方にはワン・ドリンク・サービス!

どちらにしても、それをご入手された方は、最低500円程度でワン・ドリンクをゲットしつつ、かっこいい音楽を聴きながら朝まで遊べる...というわけだ!

豪華ゲストありのDJラインアップは以下のとおり。上記ムックのピックアップ基準(1990年以降にファースト・アルバムを発表したアーティストの、2000年1月から2009年12月までにリリースされた音源)でDJたちがセレクトした素晴らしい音楽がかかりまくり。きっと楽しい夜になると思います。よろしければ、是非遊びにきてください!

場所:Bar&Cafe 特異点

日時:1/22(土) 21:00〜翌朝5:00くらい

DJ's ...do you think they're 2 many? :-)
伊藤英嗣

小熊俊哉

上野功平
近藤真弥

しょう子&ゆか子

@K(マイブラ・ナイト, DAVI)

YANAGAWA(CAUCUS)
KATO(CAUCUS)
TWEE GIRRRLS CLUB

クッキーシーン編集部から伊藤と小熊が、そして上記ムック執筆者から上野と近藤が、そして「Bar&Cafe 特異点」でおなじみの素敵な女性DJデュオ、しょう子&ゆか子が参加! このイベントを仕切ってくれている(マイブラ・ナイトや、昨年2月のクリエイション・ナイトの主催者でもある)@Kが珍しく00年代ものをスピン! さらにはスペシャル・ゲストDJ陣も豪華だ。期待の若手バンド、コーカスから柳川くんとカトちゃんが! そして、泣く子も微笑むトップ女性DJグループ、トゥイー・ガールズ・クラブのフィーチャリングも急遽決定! まさに最強のラインアップ...かも!

2011年1月14日9時18分(HI)

2011年1月7日

|

retweet

2011年1月7日更新分レヴューです。

ディーヴォ『サムシング・フォー・エヴリバディ』
2011年1月7日 更新
マムフォード・アンド・サンズ『サイ・ノー・モア』
2011年1月7日 更新
JAMES BLAKE「Limit To Your Love」10"
2011年1月7日 更新
ダフト・パンク『トロン:レガシー』
2011年1月7日 更新
神聖かまってちゃん『つまんね』
2011年1月7日 更新
神聖かまってちゃん『みんな死ね』
2011年1月7日 更新
エドウィン・コリンズ『ルージング・スリープ』
2011年1月7日 更新
キッド・カディ『マン・オン・ザ・ムーン2:ザ・レジェンド・オブ・ミスター・ラジャー』
2011年1月7日 更新
SUUNS『Zeroes, QC』
2011年1月7日 更新
クロコダイルズ『スリープ・フォーエヴァー』
2011年1月7日 更新
VARIOUS ARTISTS『コンゴトロニクス世界選手権』
2011年1月7日 更新
マウント・デソレーション『マウント・デソレーション』
2011年1月7日 更新
ザ・ブライダル・ショップ「イン・フラグメンツ」EP
2011年1月7日 更新
DESERTSHORE『Drifting Your Majesty』
2011年1月7日 更新
フランキー・アンド・ザ・ハートストリングス「アングレイトフル」EP
2011年1月7日 更新
TALONS『Hollow Realm』
2011年1月7日 更新
CARLINHOS BROWN『Diminuto』
2011年1月7日 更新
ダイレクターサウンド『トゥー・イヤーズ・トゥデイ』
2011年1月7日 更新
MUSEUM OF BELLAS ARTES 「Days Ahead」10"
2011年1月7日 更新
磯部正文『Sign In To Disobey』
2011年1月7日 更新
MOTORCITYSOUL「Ushuaia」EP
2011年1月7日 更新
ボブ・ディラン『ザ・ブートレッグ・シリーズ 第9集:ザ・ウィットマーク・デモ』
2011年1月7日 更新

retweet

caroline.jpg
 アメリカ人と日本人のハーフ、キャロライン・ラフキン。彼女のライブは僕も一度観たことがある(本作の日本盤解説を書いている上野功平さんといっしょに行った)。2010年4月の代官山UNIT。現在は日本を拠点に活動しているという彼女だが、ソロ名義としての日本でのライブは意外にもこれが初だったという。深夜のイベントで、他にはハー・スペース・ホリデイがアコースティック・セットで心地いい音楽を鳴らし、KIMONOSが素晴らしかったLEO今井も熱いパフォーマンスを見せてくれた。

 で、肝心の彼女だが、僕は...ごめんなさい。正直に告白すれば、まずは愛くるしいルックスの虜になってしまった。萌え画像きわまりない今回の表紙や、本作のジャケットをご覧になっていただければ同意もいただけると思うが、それはまあチャーミングなのである。華奢な体躯に凛とした表情。妖精のような佇まい。これは仕方がない。ミュージシャンだって人間。リスナーもまた人間。恋も人間関係もいつだって第一印象は見た目から判断し、スタートするものだ。いわゆる一目惚れ。見た目にイイものをもってるミュージシャンの音楽にハズレなし。そろそろしつこいが、しかし、その次の瞬間には彼女の歌声に耳を奪われ、涼しげでやさしさのこもったエレクトロニクス・サウンドと生楽器演奏の端正な融合ぶりに足も硬直し、背景に映されたアニメーションに視界を潤され、才気走ったオーラを放つ彼女のステージングに気がつけば見入ってしまっていた。

 自身もそこで生活し、収録された楽曲のほとんどが作られたというロサンゼルスの都市バーバンク(ヴァン・ダイク・パークスなどで知られる"バーバンク・サウンド"などで聞き馴染みがあるかもしれない)を囲む山々を名に冠した5年ぶりのアルバム『Verdugo Hills』は、日本でも人気のあるマイス・パレードのメンバーとして世界中を飛び回った経験から、特異な環境で育った彼女のプライベートな心情まで広く反映された充実作となっている。サンプリングやドラムマシーンを駆使した電子音を中心に、ハンドクラップから生活雑貨による音まで隠し味として含まれる気配りの利いた音響が、さえずりを思わせるキャンディー・テイストな歌声を穏やかに彩り、その音はポップな浮遊感に包まれている。昔のディズニー・ソングも意識したというドリーミーなムードが一貫して流れる一方、マーチング・ドラムやホーンを大きくフィーチャーした楽曲やアップビートな楽曲を後半に配したことで、糖分過剰摂取な単調さに陥ることを見事に回避しつつ、豊かな物語性まで生まれている。かと思えば、音楽同様に丁寧に紡がれた、英語による歌詞世界で謳われるテーマが悲恋についてなのだから、これまたおもしろい。

《わたしのハートを壊したいの?/こんなシーソーみたいな愛がいいの?》(「Seesaw」)《わたしはどうなるのだろう/もしあなたに会えないなら》(「Waltz」)など、「私自身の経験や、ライフスタイルが反映されている」という歌詞は、シンプルな単語の並ぶトラックリスト同様に言葉も最小限に抑え込まれ、過去の苦難を偲ばせる痛切な吐露が並ぶ。安易で安っぽい回復は決して訪れないが、アルバム最後の曲(日本盤ボーナストラックを除く)である「Gone」で、"あなた"が去ってしまったことを暗に仄めかしつつ、《何かを探し求めているわ/穴を埋めてくれるものを/わたしのハートは妥協できない》と、どこかポジティブな気分を思わせる方向に収束していくのもいい。簡素なセンテンスは音楽と相まって映像喚起力を生みだし、ヘッドホンでこのアルバムを聞き進めると心の奥まで溶け落ちそうになる。

 個人的に、本作を聴いて連想した作品はふたつ。まずはここを読んでいる人の大半はご存じであろう、ムームの02年作『Finally We Are No One』(もうすぐ、この作品が出て10年ですよ...)。もうひとつは、80年代から90年代にかけて、多くの耽美寄りでクレイジーなNW作品や環境音楽を輩出し、最近ではコノノNo.1などのリリースで知られるベルギーの多国籍ポップ・レーベル、クラムド・ディスクから発表された日本人女性SONOKOによる87年の隠れた傑作『La Debutante』だ。

 前者の作品を中心に、北欧エレクトロニカ・シーンが共通してもつ絵本を思わせる世界観や手作り感覚と彼女はずっと比較され続けてきたが、それらの音楽と彼女を絶対的に区別しているのは、後者の作品と共通する、ほんのりと香る東洋的でエキゾチックなムードだ。これは沖縄で生まれ、日本とアメリカを行き来しながら育ってきた彼女のインターナショナルな境遇が大きく反映されていることの顕われだろう。「自分のなかの日本人っぽい細く高いヴォーカルが、自然と出てしまうみたい」と本人も認めているが、名門であるバークリー音楽大学で学んだという音楽的素養の高さとともに、良質なJ-POPや日本の童歌を想起させる人懐っこい感性が節々に見てとれる。そして、先に挙げたふたつの作品と同様に、本作にも日差しに照らされているかのような明るさと、枕を濡らしたアンニュイな陰が同居している。

『La Debutante』をプロデュースした(ワイアーの)コリン・ニューマンはその作品を「純粋で特別な音楽だ」と評したそうだが、この『Verdugo Hills』にも、思わず同様の言葉で形容せずにはいられない甘美な魔力が秘められている。日本盤には彼女の狂信者であろうディンテル(Dntel)とハー・スペース・ホリデイによるリミックスも収録。今ではオールドスクールと括られそうな、この10年を振り返らずにはいられない懐かしく味のあるエレクトロニカ作品に仕上がっており、この作品の魅力をささやかに膨らませている。

retweet

goteam.jpg
 今考えても、デビュー作『サンダー・ライトニング・ストライク』の衝撃は凄まじかった。ザ・ゴー!チームの天衣無縫な音楽性と個性を鮮烈に印象付けたのだから。サンプリングを多用した何でもアリなビートに、60'sポップやヒップホップなどを加えてにぎやかなトラックに仕上げ、そして、ニンジャのアクの強いラップが曲のインパクトを倍増される。彼ら以外には作りえないトラック群には度肝を抜かれた。ソニック・ユースmeetsジャクソン5という例えも、突拍子もない組み合わせでありながら、何とうまく彼らを言い表したものだろう、と思ってしまう。その後、セカンド『プルーフ・オブ・ユース』では黒いグルーヴを全面的に導入し、バンドのポテンシャルの高さを見せ付けた(そういえば、パブリック・エネミーのチャック・Dも参加していたなあ)。

 だが、この3作目でも僕らに予想以上の驚きをもたらしてくれるとは! ロックにファンクにクラシックなポップ、ヒップ・ホップ、はたまたJ-POPまで・・・縦横無尽に他ジャンルを横断するにぎやかさは健在。しかもメロディの自由度は一層増しているようだ。特筆すべきが豪華なゲスト・ヴォーカリスト陣。ベスト・コーストのベサニーやディアフーフのサトミ、元ボンヂ・ド・ホレのマリナ、タンパの新人ラッパーDominique Young Uniqueなど、実に個性豊かな面々が揃っている。更に、各人のためにアレンジされたのでは? と思うほど、トラックと彼らの相性がいい。特に、「Buy Nothing Day」は本人との共作では?と思えるほど、ベスト・コースト風の甘いメロディが印象的だ。

 だが、その一方でザ・ゴー!・チームを特徴付けていたニンジャのラップが消えている。収録曲中、彼女だけがマイクを握るトラックはオープニングの「T.O.R.N.A.D.O」くらい。その上で、聴けば一発で彼らとわかる、ファンキーでハッピーなヴァイブがいたるところからあふれ出す。自らのトレード・マークを1つ捨てたにも拘らず、DIY精神を貫く彼らのコアは一切ぶれていない。そこにただただ驚かされる。

 ジャケット通り、想起するのは各トラックごとにまったく別の風景。中心人物イアン・パートンは映画から曲のインスパイアを得るというが、だとしたられほどカラフルな映像を網膜の裏側に映し出すアルバムもないだろう。このアルバムをひっさげて、どれだけのパフォーマンスをするのか、何としても見てみたい。

retweet

susan.jpg
 すごく風通しがいいアルバムだ。一般的な括り方としては「インディ・ロック」なんだろうけど、ザ・スーザンが鳴らす音はどこまでも開放的で自由を謳歌する喜びがある。祭り的なトライバル・ビートもすごく楽しくて、シンプルなガレージ・スタイルに隠された素晴らしいメロディと幅広い音楽性。様々な音楽がフラット化され、そのフラットな状態から最適な音を選ぶのに四苦八苦している姿が浮かぶアルバムも目立つなか、シンプルな音のなかに音楽的振れ幅の大きさを落とし込むことができているし、そうした音を選ぶ審美眼もかなり高い。『Golden Week For The Poco Poco Beat』というのは、アーケイド・ファイア『The Suburbs』みたいに何かを背負っているわけでもなく、ただひたすら「どこまでも良いアルバム」だ。誤解を恐れずに言えば、ザ・スーザンは「自分達が面白いと思う音楽」を作っていると思う。つまり、クリエイティブな目的のみで音楽を鳴らしているし、だからこそ『Golden Week For The Poco Poco Beat』のようなアルバムが欧米で評価されていることにすごく感動してしまう。

 ザ・スーザンの凄いところは、「日本的なるもの」を振りかざさずに評価を得たところだ。日本にも海外に進出しようとするバンドはたくさんいるけれど、欧米というマーケットは自分達にとっての文化的他者性というものを中心化して評価したがるし、そのせいで「日本的なるもの」を強要されるという一面もあったと思う。もちろんザ・スーザンにも固有の文化的背景というのはあるだろう。音にもそれは滲み出ているのだけど、それはアメリカで本格的に活動するようになってから、自分達は日本人であることを自然と自覚せざるえない状況にあったわけで、そこに不自然さはない。だが、「違和感」というのは存在する。しかしその違和感というのはあくまでザ・スーザンとしての個性が違和感を創出しているのであって、それは極めて音楽的な違和感なのだ。つまり、『Golden Week For The Poco Poco Beat』というアルバムは、「ザ・スーザンというバンドの美しい音楽が詰まっている」という点でのみによって傑作に成り得ている。しかも世界というマーケットでそれを実現している。

「コーラスワークが面白い」その通り。「クラシカルな曲調もある」その通り。「アジアや中東の独特なメロディを取り込んでいる」その通り。他にも様々な音楽的指摘があるだろう。その全てがその通りだ。何故なら、ザ・スーザンが鳴らしているのは「音楽」だから。でも、そんな後付けの指摘なんか無視して、まずは聴いてみてほしい。僕は基本的に「聴けばわかる」というスタンスだから、なるべく聴く前の人に説明や解説などはしたくないのだけど、ここまで「聴けばわかる」と自信を持って紹介できるアルバムは久々だ。そして「聴けばわかる」と自信を持って紹介できるのは、先に述べたように「ザ・スーザンというバンドの美しい音楽が詰まっている」からで、それは「それしか必要としない」ということでもある。情報が神様となったこの世界において、ここまで純度が高いアルバムが生まれるのは凄いと思うのだが、どうだろうか?


*日本盤は1月26日リリース予定です。【編集部追記】

retweet

okapi_horn.jpg
 フォー・ボンジュールズ・パーティーズの新作には、奇妙な楽しさが満ちている。この作品では、青空の下の明るさも深い森の中の暗さも併せて描かれている。それぞれの曲がそれぞれに異なる複雑な展開を見せるのだが、それでいて、アルバム全体を通して聴くと不思議と統一感がある。

 一見相反する要素が自然に同居しているというのは、リーダーのハイタニ氏がインタヴューでコンセプトとして挙げている夢を表現していることに成功しているのだと思う。そして夢は儚いものであるが、彼らが紡ぐ夢は生命力に満ちた逞しいものだ。ライヴでは、フルート、クラリネット、トランペット、ホルン、トロンボーン、ヴィブラフォンetc...と、メンバーが楽器をとっかえひっかえ演奏し(なにせ1曲で演奏される楽器の方がメンバーより多い!)、視覚的にも楽しいのだが、このアルバムでは音だけでもその楽しさを表現している。実に多くの音が使われており、カラフルな印象を受ける。ジャケットに描かれたオカピの角のように。

 そして、アンサンブルの妙こそがこのバンドの重要な核のひとつだと改めて思う。溢れる音からは、混沌ではなく、メンバー達が笑いながら音でコミュニケートしている様を感じ、それが何とも心地よい。とても濃密で愛おしい作品。蛇足だが、これでストリングスを使いこなしたら恐ろしいバンドになるのではないだろうか?


*インタヴューはこちらに掲載されています。【編集部追記】

retweet

Mind_Party.jpg
《模倣ですら実体は
どうして誰でもないだろう》
(「Call Me」)

 カントは、私たちの「現象」の世界の観念性を主張したが、それは同時にその背後に広がる、知ることができない「物自体」の存在を容認するということでもあった。思うに、カントが"所謂、観念論者"であったならば、物自体のようなものの「存在」を残したはずがないだろう。「物自体」を巡る意図は他にあると思われるのは、物体を観念化することによって精神の中に入れ込むということではなく、現象の背後にたしかに存在する"それ"は人間の知のソトにあり、沈黙をしている"それ"に過ぎないということだ。となると、問題は、沈黙する存在とは、この日常世界として現前するのかどうかということに漂着する。そこに、「存在」が"木をして"いたり、"コップになって"いたりする中で、前景化される約束事とは一体、何なのか―その「循環構造」の中に入ってしまうと「存在」が「自分をしている」という状況下で観念がメビウスの輪のように捩れ、存在体自体の輪郭線を曖昧にする。そして、曖昧に耐え切れなくなった存在自体が恐慌を起こす。

>>>>>>>>>>

 工藤鴎芽のファースト・フルアルバム『Mind Party!』にはそのような恐慌寸前の観念論者の神経症的な鋭さに溢れている。行き交う電子音、フィールド・レコーディングされた日常の音、時折、ヒステリックに響くギター、ふと持ち上がる甘美なメロディー、しかし、その全体像が接点として見出すリアリティは実は「あって、ない」ものであり、もしかしたら、"創り手さえ此処にはいない"という錯視を催させるようなマジカルな奇妙な熱が帯びている。作風としては、これまで通り、ポスト・ロックのマナーに縁取られた印象が強く、大文字の《昨日を厭い 明日が恐い》、《その憧憬はかすむ》、《ずっと続いてく不安が欲しい》、《明日も生きていけるかな》というフレーズが並び、如何にも現代的な閉塞感も漂う。そういう意味では、いささかトゥーマッチなところもある。それでも、先にリリースされたファーストEP「I Don't Belong Anywhere」やセカンドEP「すべて失えば君は笑うかな」にはなかったアグレッシヴでノイジーな「モンスター」、前衛的なアレンジと浮遊感が印象的な「Question」、トム・ヨークのソロ・ワークを思わせるようなエレクトロニカ「日常」、スピッツのような"うたごころ"を感じさせる「波乗り」、「春と言う」など曲の幅が明らかに広がっており、まだ模索途中とも言えるが、次の視界を見渡すために色んな音楽要素を取り込んでいこうとしている手応えが感じられる。
 
>>>>>>>>>>

 個人的に、このアルバムを最初に聴いたときに思い浮かんだのは、くるりの『The World Is Mine』、スーパーカー『Futurama』、スピッツ『三日月ロック』といった日本のものからPrefuse73『One Word Extinguisher』、Harmonic313『When Machines Exceed Human Intelligence』といった作品群だった。それぞれの作品群に共通項はないが、敢えて挙げるとしたならば、キャリアの中途における、前にも後ろにも進まない(進めない)、中空に浮かんだ過渡期と言える音像を結んだものと言えるだろうか。斯く言う工藤鴎芽自身も、前進のバンドのSeagullを経てのソロという流れを踏まえると、決してキャリアが短いアーティストではない。キャリアを重ねる中で必然的に陥る創作意欲の壁の前で、前進でも後退でもない道を行かざるを得ないとき、その作品は曖昧とした美しさを帯びる。この『Mind Party!』もその意味では始まりも終わりもない、ぼんやりとした輪郭を残す。だからこそ、次はあるのだろうし、これは過去の作品群の橋渡しをする意味を帯びてくるだろう。
 
>>>>>>>>>>

目立った曲に触れていこう。

 冒頭の「Mind Party!」、加工された声で始まり、電子音とギターノイズの中に引き込まれていく従来のスタイルに近い曲と言える。そのムードを断ち切るような攻撃的な「モンスター」は、例えば、プライマル・スクリームが各アルバムに潜ませる「Rocks」や「Accelerator」のようなアクセントになっている。3曲目の「Question」は英語詞のエクスペリメンタルな曲。LとRに飛ばされたボーカルに絡むサウンドスケープはカオティックで、後半はそのボーカルさえも加工されて、最後は深いエフェクトの中に沈んでゆく。前半のハイライトともいえる曲だろう。4曲目の「再生」はファースト・シングル「虚構ガール」に収められていた過去曲。軽快な打ち込みとジャジーなムードが心地良く、アルバムでのブレスのような役割になっている。8曲目の「日常」は英語詞による沈み込むトーンが印象的な曲で、独特の浮遊感がある。インタルードのような1分にも満たない10曲目の「波乗り」から11曲目「春と言う」にかけては、これまでにはあまり見られなかったメロディー・オリエンティッドなものが前面に押し出されている。そして、《思い描いて抱えた縁日の前日 忘れかけた声は今熱と成って》(「春と言う」)といった印象深い歌詞も、面白い。実質上のアルバムの最終曲の「蜜柑」から少しの静寂を挟んで、エクストラ・トラックと言ってもいいだろう、最後の「Call Me」はダルでローファイな感触が心地良いギターロック。これがあることで冒頭に還ることができる。

>>>>>>>>>>

 このアルバムは、タイトル自体が象徴しているように、まず「観念の中での舞踏会」を始めるところが基点になっており、途中、夢遊病者のようなモノローグや不安が添えられるが、それもリアルかどうか判らない。また、バスの音など日常に溢れる音も取り込まれ、観念ではない現実としての通気孔の意味も発現しかけるが、それも自分が「乗ることがない」バスなのかもしれなく、即ち、「誰も乗ることができないバス」なのかもしれないのだ。

 となると、ここで拡げられる世界観は決して完結せず、どこかに開けている。開けた表現は間テクスト空間への溶解としてではなく、表現=手紙の一部が配達過程で行方不明になったり、あるいは一部損傷したり他の手紙と混同されたりする可能性として捉えられてしまうことになる。一部損傷した中にリアリティがあったのだろうか、それとも、他の手紙にこそ、見つけることができる「言葉の破片」はあったのだろうか。このアルバムは最後に、「Call Me(私を呼んで)」と捩れることになる。観念内の自分が、"ソト"に声を求める訳だが、その"ソト"とは自分の観念内の想像でもあるかもしれないのだ。となると、ラカン的に言えば、「想像界」をそのまま認証し、象徴的平面での再認の代わりに、想像的平面での再認がこのアルバム内で行なわれていると言える。そこで、誤認を図った人たちはリアリティからも「逸れる」ことになる。つまり、ここで展開される音世界の中では誰も招待を受けていないパーティーかもしれず、また、誰もが招かれるべきパーティーなのかもしれないのだ。そこで、呼べる"それ"がこのアルバムの全体像を持ち上げ、更に暈す。


*現在 Monster FMでDL購入可能
*パッケージ盤は1月23日よりセルフ・リリース(詳しくは彼女のMySpaceまたはホームページを参照とのこと)【筆者追記】

retweet

odottebakarinokuni.jpg
 90年代後半にぽっかりと空いたエア・ポケットとは何だったのか、考えることがある。バブル後の沈滞と経済的に"失われた20年"になってしまう途中過程の終末思想と大きな言葉が行き交った状況下で、当時のユースは、リチャード・ブローティガンの言うような"人生とは、カップ一杯のコーヒーがもたらす暖かさの問題"の周縁を巡り、途方に暮れていたからこそ、フィッシュマンズの「ロング・シーズン」が完璧に描写した退屈の精度に魅せられてしまい、そのまま「そこ」に釘打ちされてしまった幻像も視える気がするのだ。例えば、小室系、オウム事件、酒鬼薔薇、終わりなき日常、戦争論、という記号群が次々と当時の現在進行形の若者たちの自意識群に値札を張り、コロニアル化してゆく市場側の要請の中で、上手く踊らされず、踊るには、「重力の虹」を周到に避けるステップが必要だった。そうなると、98年の東浩紀氏の『存在論的、郵便的』におけるアメリカの文学者ポール・ド・マンの読み換えたコンスタティヴ/パフォーマティヴという難渋な概念に依拠して、状況論的な意味と状況論的な機能について意識を向ける「べき」だという指針を示すことくらいしかできなかったという事例が、一つの象徴にもなって来ざるを得なかった。「退屈で、戦争でも起きないかな。」というコンスタティヴな意味ではなく、「退屈過ぎて、どうにもならない。」というパフォーマティヴな機能がシェアリングされることで、漸く共通の言語を持って、喋ることができるという地平へ"戻らなければならなかった"という証左が90年代の後半のエア・ポケットを過ごした人たちの儀礼であった。そして現在、似たようで全く違う、「退屈」という倦んだ命題に対して、ユースが真正面から向かっている表現が産まれてきているのは面白いと思う。
 
>>>>>>>>>>

 ハバナ・エキゾチカのアルバム・タイトルと同じ名を持つ、踊ってばかりの国は08年に神戸にて結成されたボーカル/アコースティック・ギター、ベース、ツイン・ギター、ドラムからなる平均年齢20歳そこそこの5人組。ポスト・フィッシュマンズのようなダルな空気を忍ばせながらも、ジャックスやゆらゆら帝国にあったようなアンダーグラウンド性を孕んでいる"よく分かっている"バンドとして周囲から注視されているが、実はボ・ガンボスやRCサクセションなどもちゃんとは聴いていないと公言しており、デヴェンドラ・バンハートや髭(HiGE)の影響があり、こともなげに自分たちの音楽を「スピッツみたいな(ポップな)ことをやっているつもり。」とも言う、ストレートなバンドである。また、演奏におけるローファイネス、歌詞でのサーカズム、スカスカのサウンドの隙間から匂い立つタナトスにはどちらかというと、整然と組み立てられた作為性さえ感じる。

 思えば、シーンに注目されることになった2010年のセカンド・ミニ・アルバム「グッバイ、ガールフレンド」にはアシッド・フォーク、ネオ・サイケといった背景に渦巻く強烈なブルージーさが特徴的だった。その後、活動のベースを神戸から東京へ移し、多くのライヴをこなした中でのシングル「悪魔の子供/ばあちゃん」ではカントリー調の不穏な軽快さと、ボトムが少しドッシリとしたブルーズ、同シングルにエクストラ・トラックの様な役割で収められていた「バケツの中でも」(ハンバーグハンバーグver.)の21分にも渡るミニマリズムの反復とじわじわとしたトリップを起こさせるサウンド・メイキングといい、多彩なボキャブラリーを増やしていることが伺え、同時に、よりドラッギーな音世界・詞世界にも向かっていたのも興味深かった。歌詞にしても、《何回生きても何回死んでも 人間て奴は同じ》(「あんたは、変わらない」)という退却観から、《始まりの唄じゃない 若い子にゃ届かない》(「ばあちゃん」)という諦念に行き着き、彼岸からハローと手を振るその速度は、鮮やかでもあった。

 今回のシングル「アタマカラダ」では、ミドル・テンポで始まり、アウトロではギターのノイズと不穏なコーラスがサイケデリックに投げ捨てられるように終わるという、『Sung Tongs』前後のアニマル・コレクティヴを彷彿させるほど、かなりアシッドな曲になっている。また、歌詞内では濃厚に立ち込める「息一つするのも怖くなるほど、自分がダメになってしまう」感覚が見事にリプレゼントしており、今、希望のようなものに向かって歌うことや建設的に表現すること、逆に退廃的に自意識の中に憂鬱に籠ってしまうほど"詰まらないことは、ない"という真っ当さを彼らは持っていることを立証する。
 
>>>>>>>>>>

 90年代後半のエア・ポケットとは似て非なる空虚性が現在にはある。それは明らかに、前者が経済的にはまだ恵まれている状況で自意識内の退屈に潜り込むことができた、というコンスタティヴな意味と、後者が確定的に茫漠とした霧の中に未来が埋もれている中での体感的な退屈を、「退屈としか言いようがないから、言わない」という捻じれから始めているパフォーマティヴな機能を帯びているとするならば、踊ってばかりの国が示す無為性は"カップ一杯のコーヒーが冷めた後の問題"について言及しており、確実に同時代性を帯びたものと言えるだろう。彼らの生きる未来は暗いかもしれないが、彼らの描く瞬間の表現はこれだけ明瞭だというのが何より頼もしい。


*1月19日リリース予定です。【編集部追記】

retweet

rovo.jpg
 96年に結成され、現在は勝井祐二、山本精一、芳垣安洋、岡部洋一、原田仁、益子樹の6人組のバンド、ROVO。彼らは「何か宇宙っぽい、でっかい音楽」をコンセプトにし(このコンセプトは半分冗談のようだが)、フジロックや朝霧JAMなど多くのフェスに出演している。毎年5月には「宇宙の日」と呼ばれるROVO主催のフェス、MAN DRIVE TRANCEの本拠地、日比谷野外音楽堂を満員にし続けている。音楽の素晴らしさはもちろんのこと、異国の音楽性を貪欲に取り入れる姿勢や様々な音楽家との交流にも積極的でアルゼンチン音響派と呼ばれる音楽家とライヴを行なったことは記憶に新しい。キセルやポラリス、エンヴィーなど、多くのミュージシャンからの信頼も厚い。ROVOの音楽性はグレイトフル・デッドや再始動したデートコース・ペンタゴン・ロイヤル・ガーデンと比較され、また、なぜかポスト・ロックの文脈で捉えられることもあった。それはROVOの音楽的多面性があってこそ。生楽器主体にダンス・ミュージックを意識しているROVOは人力トランスと評される。
 
 海外では前衛音楽だと評されたこともあるようだが、たとえ前衛的だとしても、ROVOの姿勢として「分かる奴にだけ分かればいい」という妙なアーティスト気質がないことを挙げられる。ROVOはとことんアヴァンギャルド的な音楽をやろうと思えば平気な顔でいくらでもやれるとは思う。が、絶対にやらない。あらゆる種の嗜好のリスナーも虜にしてしまう包容力がある。だからこそポピュラー・ミュージックとして大きく羽ばたいているのだろうし、ファンは村社会化せず、特別ROVOに熱心ではないリスナーにも支持されているのだろう。そもそも「ライヴ・バンドだ」と自ら宣言している彼らだ。決して独りよがりにならず、オーディエンスをリスペクトする姿勢は崩さない。媚びているところもない。
 
 ROVOに関して前述したことは言わずもがな、かもしれない。ただ、ライヴで感じられるカタルシスがCDからも十分感じられるのかと問われたら、ライヴ盤を聴いても僕は首を縦に振れなかった。ライヴとCDを完全に別けて聴けばいい、という話になってしまうが、それでもだ、ROVOのライヴ体験は圧倒的過ぎるゆえに作品を聴いていて、僕は、わがままにも歯がゆさを感じていた。おそらく同じ思いをしているリスナーは多い。しかし、2年ぶり9作目のオリジナル・アルバムとなる本作『Ravo』にはライヴにも負けないカタルシスがある。
 
 ミニマル・ミュージックを意識している彼らの音楽は同じフレーズを反復することで永続性を醸し出し、徐々に沸点までもっていき、爆発させることが特徴としてあった。それは過去の作品同様、貫かれているのだが、本作ではツイン・ドラムのドラミングや攻撃的とも言えるヴァイオリン、ギターなど、全ての楽器が高揚する沸点の瞬間を瞬間的に、ではなく、常に反復させている。いわばライヴで感じられる最高潮の瞬間が本作に詰まっている。しかも瑞々しく、浮遊感があり、ヘッドホンで聴けば否応なしにトリップする。それは外から与えられているというよりも、体の中から瞬時に湧き出てくる高揚感だ。プログレッシヴ・ロックを愛する勝井祐二の変拍子に対する解釈も抜群で、より音楽を盛り上げるものとして働いている。インプロヴィゼーションも違和感なく楽曲にはまるところではまっている。ROVOの最も魅力的なところに満ちている作品だ。
 
 しかし単に「ROVOの魅力」の寄せ集めではない。スウィング感がどのスタジオ録音盤よりも増しているし、ライヴ以上の迫力がある。それはCDという「作品」にメンバーがこだわったことの表れでもあるのだろう。作品でしか表現できない細かなアレンジが、立体的な空間の中で音響をひとつ残らず聴かせるものになっていて、いくつものグルーヴが次々と一体となっていくさまは怒濤。だが圧倒的に清々しい。聴いていて音楽と分かち合えていると感じられるほどに親密性が高く開放感がたっぷりある。ROVOは感情を呼び起こし発散させる音楽をやっていると思っていたが、発散ではなく解放させる音楽をやろうとしていることに本作を聴いて気付いた。そしてそれを本作でやってのけた。感情の発散は空になるだけだが感情の解放は自由を生みだす。自由は人と人との繋がりを生み出し続ける。そんな空気を含む音楽が、閉塞感に溢れていると言われる時代にあって、堂々と響き渡っているのは爽快だ。数百年前に西洋で音楽は宇宙だということが本気で信じられていた時代があったが、「宇宙っぽい音楽をやろう」というROVOはポピュラー・ミュージックとして、曖昧だとしても宇宙を音で呼び起こしている。聴いていると彼らの宇宙とは音楽と聴き手の、そして人と人との繋がりだと思え、頼もしく、嬉しい。人との繋がりも宇宙と同じで無限だ。その可能性を音楽で突破した感がある。本作を聴き、ライヴに行くもよし、ライヴをまず体験して本作を聴くもよし、ROVOを聴く最初の一枚としても最適。

retweet

mario_vargas_llosa.jpg
 ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、「すばらしい詩や美しい物語が、何の役に立つのかと尋ねることは、愚かなことだ。たとえば、カナリアの歌声や夕映えが生活に不可欠かどうかを、日常の言葉で立証しようとするようなものだ。」と言っていたが、言葉によって説明できない対象の先に空虚な仕掛けが持ち上がったことを、今、ポストモダンの作法に沿って、名称化するには時代が早すぎる。何故ならば、今は、もはやポストモダンですらないからであり、逆回った近代の下に大文字の感性論が収斂していると言えるかもしれないからだ。だからこそ、生活の中に埋め込まれることすら無くなりかけている文学やナラティヴが持つ文字の羅列は決して、人間自体を幸福にも善き方向へと運びはしないが、自由にはさせることができるということ自体を、改めてメタ的に喧伝しないといけない(表現)行為性に対してはどう対峙すればいいのだろうか、と考える。意味があることを求める行為自体が、意味がないとされるのならば、意味がないことは最初から「諦めてしまう」しかないのかもしれない。または、モーリス・ブランショのように「読書空間」を設定して、完全に日常空間と切り隔ててしまうべきなのか、時折、混乱してしまう。

>>>>>>>>>>

 ナラティヴとは、一種の装置としての暴力を加速、増幅させ、同時に救済に似た何かを個々にもたらす。例えば、人間の人間に対する馬鹿げた行為、愚行といったものは凡庸な暴力の形式(コード)の一つであり、そのコードに沿い、様々な偏見や悪意や謀略が巡らされることになる。そして、コードから演繹された景色が背景となり、自分の理想や想いを切断する現実の世界とは違った世界への渇望を照射するために、ナラティヴは用意されるという可能性が出てくる。そのナラティヴの仮構化を試みることで、荒れ果てたリアリティと幻惑的な未来の間隙を縫い、虚無だけを避けることができる。

 昨年、ノーベル文学賞を受賞したペルー出身のマリオ・バルガス=リョサは、大きなナラティヴと文学の復権に常に挑み続けている作家であり、人間に纏わる不条理や虚無に対峙し続けてきた。出世作となった1966年の『緑の家』では、サンタ・マリーア・デ・ニエーバという街に建つ売春宿「緑の家」を中心にして、五つのストーリーがほぼ切り替えなしで語られるというもので、ここで用いられたそれぞれの人物のモノローグの巧みなスイッチのオンとオフの仕方、シーンの改変、緻密な情景描写がカオティックにドライヴしてゆく「構成」こそが、いわゆる、マジック・リアリズムの醍醐味と言われるべき点かもしれない。ラテン文学におけるマジック・リアリズムとは、代表作とされるガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』の印象もあり、どうも誤解されているところもあるが、細部は厳然たる現実的なもので生活に密着したものであり、語られていることの全体像が幻想的だという特徴を持っており、『緑の家』に関しても、細部のリアリズムは徹底されている。

 また、彼といえば、1973年の『パンタレオン大尉と女たち』、1977年の『フリオとシナリオライター』などユーモア溢れる作品やゴーギャンとその祖母で革命家のフローラ・トリスタンの生涯を壮大に紡ぎ上げた2003年の『楽園の道』のような作品も面白いが、個人的には、1981年の『世界終末戦争』でのシリアスで重厚な内容に潜む人間の尊厳性を再定義するような視座こそが彼の本懐だと思っている。

>>>>>>>>>>

 このナラティヴの下地になっているのは、ブラジル内陸部の奥地で19世紀末に実際に起こったカヌードスの叛乱である。貧しい奥地セルタンゥに、コンセリェイロと呼ばれる流浪の説教師が現れ、不思議な威厳と福音で貧しい人々の心を掴んでいく。貧者ばかりでなく、身体障害者、盗賊、犯罪者など、さまざまな人間たちが彼の周りに集う。やがて彼らは、カヌードスという村に共同体を構え、神の教えだけに従って生きていこうとするが、共和国政府はこれを反乱とみなし、制圧のために軍を差し向け、衝突する。この貧しいクリスチャンたちとブラジル軍の闘いをカヌードスの叛乱と言う。そして、このカヌードスの叛乱を全体の物語の軸に沿えながら、無数の人々の輪郭が丁寧に描かれる。少年信者ベアチーニョ、高い知性と巨大な頭を持ち、四足歩行するナトゥーバのレオン、黒人奴隷ジョアン・グランジ、などそれぞれの登場人物に付随する幾つもの挿話、背景が鋳型を成していった結果、読み手が感情移入できる余地ができる。しかし、その余地はまた伏線のナラティヴによって想わぬ形で回収されてしまう。

 同じ国に居ながらも、全く違った価値観と時間を生きている彼らはお互いを理解することは決して出来ないが、それぞれの「正義」や「信心」を持っており、それらがリョサ特有の筆致で平等に拾い上げられる。時系列が交差し、それぞれの人物の精神描写が複雑に絡み合いながら、カヌードスでの闘いは終末に向けてよりシビアな展開になってゆくが、"カヌードスというのは一つの物語ではなく、沢山の枝分かれする物語が集まった樹木のようなもの"と記すように、そこには総てがあったが、なにもなく、カヌードスの闘いを巡って呈示される人間の尊厳(dignity)に関してこそ、読み手側の思慮がはかられることになる。

 グローバル化が進捗し、中心と非中心、支配と被支配、個の阻害という社会的矛盾が顕わになっている今こそ、この作品が総体的に投げ掛けるものは意味深長である。

retweet

Sviib_1.jpg
photo by Takanori Kuroda

retweet

『Cookie Scene Essential Guide: POP & ALTERNATIVE 00's: 21世紀ロックへの招待』におきまして、以下の誤りがございました。

雑誌時代に比べてかなり念入りに校正したのですが、ミスが生じてしまい、申し訳ありません。

お詫びのうえ、訂正させていただきます。

-----------------------------------------------------------

P019 中段 29行目~
【誤】ベルギーにあるピアスというヨーロッパ最大のインディー・レーベル/ディストリビューター
 ↓
【正】ベルギーにあるPIASというヨーロッパ最大のインディー・レーベル/ディストリビューター

P079 右段 10行目~
【誤】ライヴ自体は個人による招聘で、彼らはあるバンドのサポートとして来日したとのこと。
 ↓
【正】そのライヴは個人による招聘だった。

P135 +/- {PLUS/MINUS} 左段1行目
【誤】エド・バリュヤット
 ↓
【正】リチャード・バリュヤット

P139 GORILLAZ 右段7行目
【誤】本作的
 ↓
【正】本格的

-----------------------------------------------------------

本日の日付を入れて、ロックをかけたPDFファイルをこちらにアップしました。大変お手数ですが、ダウンロードしてプリントアウトのうえ、切り抜いてご購入いただきましたムックにはさんで保存していただければ幸いです...。

2010年12月27日19時58分 (HI)

retweet

devo.jpg
 新年あけましておめでとうございます。さて、あなたが昨年とりわけ気に入ったアルバムはなんでした? クッキーシーンのサイトでは、コントリビューター諸氏による「Private Top 10s of 2010」を近々発表する予定ですが、それのみならず読者のみなさんからも「Private Top 10s of 2010」の投稿を受けつけています。こちらをご参照のうえ、ふるってご応募ください!

 ぼくの場合、昨年のトップはザ・ドラムスのファースト・アルバム。LCDサウンドシステムのサードとMGMTのセカンドが、それにつづく感じ。このあたりは(ぼくにとっては)順当なセレクションと思える一方、愛聴度ってことで言えばライトスピード・チャンピオンのセカンド、そしてこのディーヴォによる20年ぶりのニュー・アルバムも絶対はずせない(これで、すでに5枚が決まってしまった:笑)。

 00年代におけるポスト・パンク・リヴァイヴァルの風にのって再結成して来日も果たした彼らだが、その時期には新譜をリリースしなかった。でもって、この『サムシング・フォー・エヴリバディ』、まさに「満を持して」と言える作品となっている。ディーヴォといえば、ひとを食ったセンスに関して「冷笑的」などと評されることも(彼らがデビューした70年代後半には)少なくなかった。たしかに、彼らのブラック・ユーモアの「黒さ」は並大抵じゃない。「人類の進化」といったコンセプトにつばを吐きかけるバンド名(evolutionの反対語としてのdevolutionの略)からして、明らかに「いいひと」の対極にある批評性を含有していることは間違いないのだが、その音楽は最高にポップ。ライヴは見事な(痙攣した、もしくはひきつった)ロックンロール。『あらゆるひとのための、なにか』というアルバム・タイトルどおりだ。

 彼らはこのアルバムに先駆け、彼ら自身のウェブ・サイトで収録予定曲を全部ファンに試聴してもらい、どれをアルバムに入れるべきか投票してほしいと呼びかけていた。アーティスト至上主義の放棄? インターネット時代にふさわしいポップ・バンドの在り方? どちらにしても、すごくディーヴォっぽい行為だと思う。

 その初期において、自主制作ショート・ムーヴィーも積極的に制作していた。MTVが全米を席巻する何年も前の話だ。1979年の初来日ライヴでは、演奏の前にそれが上映され、当時高校生になったばかりのぼくは完全に度肝を抜かれてしまった(ちなみに、ぼくが初めて見た外国人アーティストのライヴだった:笑)。徹頭徹尾ブラック・ユーモアに貫かれたショート・ムーヴィーの内容もさることながら、音楽とその他のメディアを同等にとらえる姿勢に、完全にぶっとばされた(それに影響されて高校時代には中学のときに始めたバンドを辞め8ミリ映画制作に没頭してしまった:笑)。インターネットというメディアの使い方ひとつをとっても、彼らの感覚が一切にぶっていないことがよくわかる。インターネットの発達は人間にとって「evolution」なのか、それとも「devolution」なのか、という問いかけも含めて(そう考えると、『サムシング・フォー・エヴリバディ』などというタイトルもブラック・ユーモアっぽく見えてきてしまう:笑)。

 音楽/ソニック的にも、今の時代にふさわしい、ジャストなものとなっている。00年代には、もう本当に(ぼくなどには)ディーヴォを思いださせる素晴らしいレコードが次から次へとリリースされていた(そのピークはLCDサウンドシステムの『Sound Of Silver』だったかも)。クラブDJをするとき、それらと並べてディーヴォをときどきかけてみたのだが、どうもしっくりこない。70~80年代のものなので多少古びた感じがするというか、当時を知らないひとには盛りあがれないという雰囲気がどうしてもこびりついていた。リマスターされたCDでも同じこと。そこに染みこんだ時代性は消せない、ということだったのだろう。しかし、このアルバムは全然大丈夫だ。ソウルワックスやダフト・パンクやLCDサウンドシステムと、実に心地よくつながる。

 実際、最初はLCDサウンドシステム(ジェームズ・マーフィー)やファットボーイ・スリム(ノーマン・クック)もプロデューサー候補に挙がっていたらしい。しかし、それをやらなくてよかったと思う。彼らは(とりわけジェームズは)おそらくディーヴォが好きすぎる(笑)。それでは自家中毒を起こしてしまうかもしれない。このアルバムには、そうではない客観的視点もある。

 メイン・プロデューサーはグレッグ・カースティン。ザ・バード・アンド・ザ・ビーの頭脳としても知られている彼だが、5歳のときにドゥイージル・ザッパ(もちろん、フランク・ザッパの息子)のバンド・メンバーとしてデビューしたL.A.オルタナティヴ音楽業界の鬼っ子である彼であれば、いくら若くともディーヴォを前にしておじけづいてしまうようなことは決してないだろうし、実際そうだったと思える。ほかにも、サンティゴールドことサンティ・ホワイトおよび彼女と組んで素敵な作品を残してきたジョン・ヒル、ザ・ダスト・ブラザーズ(ケミカル・ブラザーズじゃなくて、ビースティーとかの仲間だったほう。ぼくは彼らのほうがより好きだった)のジョン・キング、さらにマニー・マークことマーク・ニシタらが絡んでいる。

 今回からエナジー・ドーム(日本人には巻きグソのようにも見える帽子)の色が赤から青に変わったことを「彼らって、昔からイメージ先行だよね」とか冷笑的に語るひともいるようだが、もともとエナジー・ドームなんてものを彼らが導入する前からのファンとしては、そっちのほうがむしろこざかしいとしか言いようがない。彼らはイメージも音楽も最高なんだよ! 「我々は人間ではないのか? 我々はディーヴォ!」と昔から叫んでいたぼくのような人間...いやディーヴォはもとより、そうでないひと...エヴリバディに是非とも聴いておいてほしい1枚だ。リリースから数ヶ月たっているが、その程度では(当然ながら)古びることはない。

retweet

mumford&sons.jpg
 エヴリシング・エヴリシング『マン・アライヴ』のレビューでも少し触れたが、2010年の英国ではフォーク・サウンドが大衆的な人気を得ていた。なんとなくの推測だが、たとえば90年代におけるオアシスのような国民的なビッグ・バンドが生まれづらくなった(それはつまり、誰でも口ずさめるキャッチーな曲を書ける人間が減ったということかもしれないし、そういう曲を書いても誰もが耳にできる環境が衰退したのかもしれない)状況下のロック・シーンで、トラディショナルなメロディーやサウンドへと聴衆が惹かれ、回帰したくなるのもわからない話ではない。

 アメリカから数年遅れで00年代初頭あたりに勃興したイギリスのアンチ・フォーク・シーン(最近は"アンタイ"・フォークと表記することのほうが一般的みたいだ。ややこしい)も、エミー・ザ・グレイトやデヴィッド・クローネンバーグズ・ワイフ(改めて素晴らしいバンド名)のような捻くれた才能を輩出してきたが、これまた代表格バンドであるノア・アンド・ザ・ホエールの元メンバー、ローラ・マーリングの2010年作『I Speak Because I Can』は、ときおりハードな展開を見せつつも、蜃気楼や森のなかを縫って歩くような英国フォーク・サウンドの伝統を継承した、"アンチ"と形容するのも憚れる威風堂々としたアルバムで、とても20歳の女の子が作ったとは思えぬその音からはシーンの成熟さえ垣間見ることができた。彼女を中心に、イギリスのこのシーンはアメリカのそれとの交流も活発なようで、彼女もジェフリー・ルイスや元モルディ・ピーチズのアダム・グリーンらともステージを共にしていたみたいだ。

 で、そのシーンがそこまでの注目を浴びるに至った起爆剤となったのが、07年デビューであるマムフォード&サンズの登場と、彼らのつくった09年のアルバム『Sigh No More』である。全英チャートに55週間に渡りトップ40圏内にランクインするという、大ヒットにしてロングラン作となったこのアルバムとライブの評判で彼らはいちやく人気者となり、フェスやアワードにも引っ張りだこに。フリート・フォクシーズのようなバンドが歓迎されたとはいえ、この手の音が受けづらい印象のあるアメリカでさえも好評を集め、いよいよ日本でも一年遅れで国内盤がリリースされた。

 ブルーグラスやカントリーの影響を受けたバンドはエレキ・ギターの代わりにバンジョーを中心に据え、ライブ盤もかくやのエネルギッシュなサウンドが全編に漲っている。"フォーク"と聞いて想像しがちな静謐さとは違う、地響きまで起きそうなダイナミックな演奏による高揚感はアイリッシュ・フォーク譲りのメロディーにも起因している(実際、アイルランドのチャートでも1位を獲得)。フェアポート・コンヴェンションよりはポーグスやゴーゴル・ボルデロの音楽に遥かに近いと思う。イントロから徐々に熱を帯び、演奏の一体感が生みだすドラマチックな展開はヒット・シングル「Little Lion Man」に特に顕著。野太い声に重なる土臭いハーモニーも美しい。

 この作風で地味な方向に陥らなかったのはバンドのオリジナリティもさることながら、ビョークの『ヴェスパダイン』やアーケイド・ファイアなどを手掛けたプロデューサーであるマーカス・ドラヴスの功績も大きかったのだろう。足踏みやジャンプをしたくなる彼らの熱演はフェスでも大合唱の渦を巻き起こし、一方でレイ・デイヴィスもセルフ・カヴァーのお伴として起用、グレン・ティルブルックも最近のお気に入りに挙げるなど、老若男女に愛されるのも頷けるエポック・メイキングな作品だ。アルバム全体をとおしてやや一本調子というか朴訥なところも目立つが(それでいて、歌詞にはシェークスピアやスタインベックの影響が色濃いという!)、かつて英国パンクの先陣をきったクラッシュやダムドのファースト・アルバムがそうだったように、荒削りながら多大な可能性を秘めたサウンドが歓迎され、新たな道を切り開いているのはとても健全な証拠。正直、日本でもウケそうかと言われたら素直にウンと頷けないところもあるが、きっと彼らのステージを見たら圧倒されてグウの音も出なくなるだろう。気の利いていることに、国内盤には新曲のほかにライブCDも付属されている。

retweet

james_blake.jpg
 東京大学社会科学研究所で2005年度から進められている希望学プロジェクトというものにどうも個人的に首肯できない部分がある。例えば、玄田有史氏の「これまでの経済において希望は前提だった」、「今の若い人たちの問題などを考えると、希望があるという前提自体が崩れているように見える」というポイント自体には問題はないし、その通りだと思う。しかし、希望を社会の文脈で捉える中で、誰もの"個別な体験"をフレームとして希望内で括ると、個々の自由度や不安度の測量を曖昧にしてしまうところがあり、希望という大文字を修整した上で、一般論に落とし込む際の強引さがある。勿論、グローバリゼーションが進捗し、砂粒化した個々が艱難に生きることを要求されるこの世において、希望の質に関して議論するのは意味があることとは思うが、そのような抽象論では追いつかないくらい、現実は押し迫っているという側面もあり、その細部への降下、目配せが行き届かない点が気になってしまう。

 もはや、「希望的な何か」が失われてきているという憂慮は当たり前であり、今更、識者に語られるまでもなく、共通だった「通気孔」や「言語」がなくなり、誰もが息詰まることが増えた。だからこそ、構造論として上部から下部へと流れる空気は澱み、滞った結果として、スラヴォイ・ジジェクが今、装置化された近代的暴力への批判を積極的に行うことになったという所作は繋がる。それでも、ジジェクも指摘するように、主観的な暴力と"真正面"で向き合うと、自分自身がそこからの避難の意志を示そうが、その現象自体を生み出す「システム」としての暴力に関与している者たちの偽善にも「連結」されるという葛藤も発生してしまう。"希望的な何かの欠如の欠如"を補填するための導線付けは現代だと非常に困難であるというコンテクストも踏まえないといけない。

>>>>>>>>>>

 そんな中、ロンドンから現れた21歳の気鋭、ジェームズ・ブレイク(JAMES BLAKE)は"希望的な何かの欠如の欠如"に対して向き合った象徴的なサウンド・メイカーと言える。マシュー・ハーバートの「One」シリーズでもそうだが、大文字の物語と神話化の解体が積極的に行われるようになり、島宇宙化が進んだシーンにおいて、現前する音楽("音"自体の"楽"しみ)に無邪気にフォーカスを当てるという行為が逆説的に政治的だというのを示したからだ。

 現代のジャン・ジュネとでも言えるだろうか、「剽窃」に対する行為を敬虔なものではなく、造作なく取り入れる貪欲さの背景にあるセンシティヴなまでに現代に依拠するセンスは新しく、それでいて、アンチ・ヒロイズムの空気感さえあり、クールなところも似ている。しかし、その「新しさ」を語る言葉を持つ人が極端に少なかったのも事実で、YouTube、Facebook、口コミ、フロアーを通じて、増殖してゆく評価はグローバリゼーションが仕掛けた情報の均質化に対して差異ベースの企図が予め含まれているようで、興味深かった。個人的にも、例えば、全世界のクラブ・シーンでパワースピンされた「Cmyk」など、いまだによく「分からない」曲でもあるのは確かだ。隙間を活かしたサウンド・ワーク、ダブステップが帯びるメランコリアとロマンティシズムを承継しながらも、別種のエレガンスの属性、また、IDMに近い観念的な音とも捉えることもできること―。但し、そこで「素材」にされるのはアメリカのヒップなR&Bであり、アリーヤやケリスの「声」がいつかのアクフェンのような所作で「解体」されているという捌き方は新しいと言えばいいのか、どうなのか、分からない。それでも、この曲がもたらす昂揚感は大きかった。ジュネに関してもサルトルやコクトーに代表される救済の手が差し伸べられ、多くの言葉が費やされたが、どれも彼の核心を精確には射抜けなかったように、ジェームズ・ブレイクもジャイルス・ピーターソン、ピッチフォーク辺りから過度の期待が寄せられ、フック・アップがはかられたが、まるでそのテクストや評価とは別物というかのように、シングル毎に展開される音世界はより実験性を強めていきながら、独自の音世界を創造しているのは周知だろう。

>>>>>>>>>>

 来年に控えるというデビュー・フル・アルバムに向けて、先行となる10インチ・ヴァイナル・シングル「Limit To Your Love」では、馴染み易いポップな曲に「している」。この曲は、2007年にファイストがリリースしたセカンド・アルバム『The Reminder』に収録された曲のカヴァーだが、オリジナル曲にもあった清冽で静謐な美しさは保持されながらも、彼特有のウイットに富んだ解釈がなされている。ピアノの旋律が美しく響きながら、沈み込むようなトーンはまるでポーティスヘッド『Dummy』やトリッキー『Maxinquaye』辺りの作品が持っていたシリアスで深みのある音像を彷彿とさせる。そして、その低音とダークな美しさはダブステップの次を見渡すような「何か」を秘めている要素も伺える。とはいえど、そのような切実さと重さに注視するよりもまずはこの音自体が持つ政治性と強度に感応すべきだと思う。何より、「今、ここ」で鳴っている音という意味において、批評的な作品でもあるからだ。

 今年のビート・ミュージックの極北でもあったフライング・ロータスがビートのビット数を上げた傍で、ジェームズ・ブレイクはR&B、ヒップホップ、ジャズ、ファンクまでをメタに折衷させ、"揺らぎ"を加える。その"揺らぎ"の中にクラウドが踊ることができるスペースが用意されるというのは美しく、勇気の出る事柄だった。彼の作る音には、トゥーマッチな叙情性もドラマティック性もなく、どちらかというと、ストイックでもあるが、そのストイシズムが突き詰められた美意識からは針の穴ほどの希望的な何かを視ることができる。

retweet

daft_punk.jpg
 1982年のSF映画『トロン』。電脳世界を描いた、ある意味早すぎるプロットの導入で知られている。ちなみに数年後に制作された円谷プロの特撮テレビ番組『グリッドマン』のアイディア/基本プロットの源流とも思われるのだが、『グリッドマン』でさえ「時代の先を行きすぎていた」ものだけに、『トロン』がいかに「早すぎた」か、わかってもらえるだろう(ただ、『トロン』もマイナーだけど『グリッドマン』もマイナーだからなあ:笑)。インターネットが普通のものとなった...30年前にはSFの世界でしかありえなかった世界が現実となった今、かつては「B級」の一言で片づけられていたその映画の28年ぶりの続編『トロン:レガシー』を、ディズニーが制作することも、まあうなずける行為だ。

 特撮ファンである筆者は是非見たい映画であるけれど、まだ行けずにいる。そんな自分がなぜこのサウンドトラック盤のレヴューを? といえば、大好きなダフト・パンクが音楽を担当しているから。

 ストリングスなどをポップに大量導入していた『Discovery』(2001年)から、次作の『Human After All』(2005年)では一転してエレクトロニック・ミュージックの骨格のみというパンキッシュな作風にふれただけに、当然ストリングスが大量導入されるであろうサウンドトラック盤がどのようなものになるのか? どきどきしつつ購入し、聴いてみた。

 結果から言えば、その期待が裏切られることはなかった。聴きこむうちにおもしろさがつのる...にしても、やはり「サウンドトラック盤」の域は超えていないというか、彼らの「(ダフト・)パンク」な部分にとりわけ興味をひかれる筆者としては、正直肩すかしを食らった気分ではある。

 『Discovery』の最も深い部分にあるコンセプトにのっとって松本零士をフィーチャー、『インターステラ5555』を作った(それについては、クッキーシーン・ムック第一弾にも掲載したインタヴュー原稿でくわしくふれたので、どうかご参照いただければ、と...)という地点から、「音楽と他メディアの関係」については少々後退してしまったようだ。いや、だから「ああ、サウンドトラックだな...」という作品になっているということは、「映像と混ざれば素晴らしいだろうな...」「映像がほしい(映像が見たい)」と感じてしまったわけであり、音楽が「負けて」いる? いや彼らは「やるべきこと」をきっちりと、それも並ではないクオリティーでやった。文句を言われる筋合いはない、とは思うけど(笑)。

 ダフト・パンクは仕事...宿題(彼らの1997年のデビュー・アルバムのタイトルが『Homework』だったことを思いだす...)をやりとげた。この『Tron: Legacy』の展開で、次のオリジナル・アルバムがますます楽しみになったことは間違いない。

retweet

shinsei_kamatte-chan_tsumanne.jpg
 正直言うと、最初は神聖かまってちゃんに興味はなかった。もっと言うと好きではなかった。大昔に(と言ったら偏屈なパンクスに怒られそうだが)セックス・ピストルズがやった、「ノー」を突きつけ未来をこじ開けようとしたことのクリシェにしか見えなかったからだ。現在の複雑な時代において、ピストルズを「まんま」演じているかのような姿には吐き気がしたし、初期マニックスのような計算されたセンセーショナリズムも見られなかった。しかし、インタヴューやライヴを追いかけていくうちに、神聖かまってちゃんに対する僕の見方は変わっていった。ただの駄々っ子にしか見えなかったの子の言動に見え隠れする批評精神や知性。発言や歌詞で発露される真面目さ。様々なイメージや装飾を取り払い神聖かまってちゃんそのものに焦点を当てたとき、正統派なロックンロール・ヒーローの系譜に連なるの子の姿が現れた。

『つまんね』『みんな死ね』を聴いていると、本当に心の底からの言葉を歌っているんだなと感じる。この世界を生きるうえでのイライラや劣等感を「真っ直ぐな皮肉」という言語感覚でもって、ポジティブで溌剌としたエネルギーに変換されているのには驚いた。たぶんこの言語感覚は同世代でないと理解しづらいものだし、決して誰もが分かり合えるというものではない。でも、神聖かまってちゃんの目的は同時代性を歌うことにあるわけだから、寧ろ多くの上の世代に渋い顔で素通りされるほうが嬉しいのかも知れない。

 だが、『つまんね』の厄介なところはどこまでも「かまってちゃん」なところである。『つまんね』は「チルウェイヴ?」と思ってしまうような目配せすら感じるポップな1枚となっている。の子もソングライターとして優れた能力と魅力を発揮していて、その魅力を生かした曲の構成もよくできているし、演奏もメンバー全員バンドとしてのグルーヴを意識しているかのような一体感もある。僕はどんなに時代とマッチしていたとしても、音そのものがつまらなかったら興味が持てないのだけど(神聖かまってちゃんが好きじゃなかった一因もこれにある)、アルバム全体に試行錯誤の跡が見られる。そして、この試行錯誤に「かまってちゃん」としての本音が表れているから厄介なのだ。『つまんね』『みんな死ね』というタイトルは、聴く者に唾を吐きかけるためのものではない。『つまんね』の後には「だろ?」という言葉が続く。つまり、神聖かまってちゃんはコミュニケーションを求めている。そのコミュニケーションの相手は、この世界に生きるすべての人々だ。『つまんね』を聴き終えたとき、僕は「何が?」と答えた。すると、僕の中で歯車が噛み合う音がした。「つまんね」と呟きながらも、神聖かまってちゃんの音に心が揺さぶられる僕が居たのだ。

《なるべく楽しいフリをするさ誰だって / 憂鬱になると気づけば誰もいないんだ》(美ちなる方へ)

 このフレーズは見事にロックの本質を言い当てている。ロックとは虚構である。その虚構の積み重ねによって、「現実」を抉り出すのがロックなのだ。そういう意味では、今もっともロックな存在なのは神聖かまってちゃんであるのは間違いない。もちろん、こうした姿勢を維持したまま神聖かまってちゃんとして活動していくのは厳しいかも知れない。ピストルズは消滅してしまったし、マニックスはリッチーという尊い犠牲を払った。「リスク・コミュニケーション」というのは大きな力をもたらしてくれるが、欺瞞がない分とても傷つきやすい。だから僕は、常にこの言葉を問いかけながら神聖かまってちゃんを応援していきたい。

「お前ら生き抜く覚悟あんのかよ?」

retweet

shinsei_kamatte-chan_minna_shine.jpg
『つまんね』『みんな死ね』は、どちらも神聖かまってちゃんの「今」と「本音」がしっかり刻み込まれているアルバムだ。本当なら、2枚を抱き合わせ2枚組としてリリースすべきだったと思う。まあ、結果的にインディだろうがメジャーだろうが変わらないということを示しているからいいけど。 

『みんな死ね』というタイトルは、「死んだように生きるくらいなら死んでしまえ」ということだと思う。でなければ、《さんざんな目にあっても、忘れ方を知らなくても、僕は行くのだ》(怒鳴るゆめ)と歌うような曲を『みんな死ね』なんていう名のアルバムに入れる必要はない。そして、「死んだように生きるくらいなら死んでしまえ」という言葉は神聖かまってちゃん自身にも向けられている。 

《僕だけどあたしもいる、嫌われても人間らしく、素直に今を歌いたいのです》(自分らしく) 

 神聖かまってちゃんは、「死なないため」にロックを鳴らした。だが、「死なないため」のロックがバンド自身だけではなく人々に「生きるため」のアンセムとして広まったとき、神聖かまってちゃんは人々に覚悟を見せなければいけなくなった。『みんな死ね』には、そんな覚悟が垣間見れる。行き過ぎた言葉の表現に隠れがちだけど、神聖かまってちゃんが言いたいことは「生きさせろ」というすごくシンプルなことだ。『みんな死ね』というタイトルには、「みんな死んだとしても俺達は生きてやる!」という意味があって、聴いてると刹那的なものではなく「未来」を感じるのもだからだと思う。「僕のブルース」は自暴自棄な歌詞だけど、これは誰もが遭遇する「すべてを投げ出してしまいたい」という瞬間をの子なりに表現しただけ。「自殺する日も近いと思うから」というフレーズだけを切り取って、「過激で物騒なアルバム」なんて評する人もいるだろうけど、アルバム全体で聴くとポジティブな印象を抱くはず。ただ、このアルバムをポジティブなものとして受け取るには条件がある。それはリスナーの「依存」だ。神聖かまってちゃんがリスナーに「依存」を求めるのは、自分達だけでは「弱い」と認識しているからで、「弱い」と認識できる強さがゆえに『みんな死ね』という言葉が輝くのだ。

『つまんね』『みんな死ね』というのは、神聖かまってちゃんが未来を考えるうえでの自問自答の末に生まれたものだと思う。『つまんね』は自分達に「お前ら生き抜く覚悟あんのかよ?」と問いかけるアルバムだとしたら、『みんな死ね』は自分達に対する返答だ。だけど、決して内省的になっていないのは、その自問自答をロックというエンターテイメントとして発信しているからだ。そしてなぜロックを選んだのかというと、神聖かまってちゃんはロックの力を(というか音楽の力を)信じているからだと思う。時代を切り取る際に発揮される鋭い批評眼とは裏腹に、その批評眼によって見つけた膿に立ち向かう方法は感情的でロマンティックなものだ。こういった観念先行型の行動パターンは具体的な事実から離れやすいものだし、抽象度が上がって伝わりにくくなることもあるけれど、我慢できずに頭の中の考えを吐き出してしまうの子には軽いシンパシーを覚えてしまう。正直、まだ「事件としての神聖かまってちゃん」からは完全に脱皮しているとは言えないが、僕はクラッシュのような存在になる気がする。アティチュードとしてのパンクを抱きつつ、音楽的な進化をしていくようなバンド。『みんな死ね』は、神聖かまってちゃんが未来への扉を抉じ開けたことを証明する感動的なアルバム。

retweet

edwin_collins_losing.jpg
<希望と絶望>

 エドウィン・コリンズは、ずっと聴いてきて個人的にもとても大事なアーティストだ。そのせいか脳溢血から本格的に復帰した今作のレビューを書くのも、いろいろ思いがありすぎて書くのに時間がかかってしまった(某ネオアコ/ギターポップのBBSでのハンドル名を'Edwyn'にしていたこともある)。

 エドウィン・コリンズ(以下、エドウィン)との出会いは、リアルタイムで聴いたオレンジ・ジュースのセカンドからだ。当時、「シティロード」の音楽欄でオススメ盤の大枠で取り上げられていたのが聴くきっかけだった。同世代的な歌詞として意識したアーティストのかなり始めの一つだった。《世界は君の敵じゃない》(「Hokoyo」)など、印象に残る歌詞がいくつもあった。その後、すぐにファーストは馬場の中古レコード屋のタイムで輸入盤の中古を買った(音源で買ったり、アマゾンで買ったりしている今の人は、こういう買ったお店の記憶もないのに今気付いた)。このファーストは聴いた当初と変わらぬ新鮮な音楽で、今も聴きつづけている。その後のミニアルバムとラストのサード(フールズ・メイトの伊藤英嗣さんのレビューが買うきっかけだった)もリアルタイムで輸入盤で買った。
 
 ソロでは、ファーストは特に愛聴している。タイトルトラックの「Hope & Despair」で《You were offered hope. But you chose despair.》と歌われているが、仕事としての映画や音楽をやめていった友人や仲間を思い出す。このことに関連して書くと、今年2010年は10年というキリのいい年だからだけでなく、「今年何をしたかで今後数年が決まる。同じことをやっていたら漸次下がっていくだろうし、新たに何かを始めたり、きちっと結果を出したことは起点になるだろう」と近しい人には言っていた。それぐらいのメディアや人の気持ちの転換点になると、どこか肌で感じていた。
 
 だからこそ、このエドウィンの復活は象徴的だったし、今作を聴いてエドウィンの正直さに改めて気付いた。いや、今まであまり歌われていない一歩踏み込んだ感情を表現していると言ってもいいかもしれない。冒頭のタイトルトラックの「Losing Sleep」で《眠れない/自分にはなんの価値もないような気がしてくる/恩義を感じるものすべてが目の前に並んでいる/それがぼくを落ちこませる》と歌いながら《信じたほうがいい/取りもどすべきだ/自分が知っているものを/正しいと思うものを/大切だと感じるものを/必要なものを/それが欠けている/ぼくの人生には》と前向きな固い決意を歌う。そう、本能的に必要と思うものを掴みとるべきなのだ。諦めかけている人が、こちらの周りにも何人かいるが今こそやりたいことをやるべき時で、今することが如実に今後につながってくるのだから。
 
 次の曲「What Is My Role?」では《あまりに考えすぎたら 自分にはなにも似合わないような気分になってしまう/わかってる ぼくらは「悩むことそれ自体」のために悩んでいるんだ》と生きる不安を吐露する。でも、これらの曲は驚くほどアッパーでシンプルなチューンだ。後遺症でギターは弾けなくなったが、再び歌う喜びをリトル・バーリー、クリブス、マジック・ナンバーズ、フランツ・フェルディナンドのメンバーやポール・クック、ロディ・フレイムなどの仲間と演奏する。最新号の「Uncut」のインタビューでも、エドウィンは「今は希望と喜びに満ちている。後ろ向きな人生観から脱け出したんだ。今作はオレンジ・ジュースのファーストのようだと感じている」と語っている。そして、同じインタビューで奥さんのグレイス・マクスウェルは「入院しているときは本当に暗い気分だった。他の入院患者の命がわたしたちの周りにあるようだった」、その返答で「本当につらかった」とエドウィンは答えている。これらのことはYouTubeにもアップされているエドウィンの闘病記のドキュメンタリー「Edwyn Collins - Home again」を見れば分かる。
 
 上記と同じく「Uncut」誌の今年の号の回顧インタビューでオレンジ・ジュースのサードを作るときに、どれだけ新しいことをしようとしていて、それまでの自分たちのアルバムのアイデアがヘアカット100やブルーベルズに盗まれているかを辛辣に話していて、当時、情報のあまり入ってこない日本では、同じような音楽として楽しんでいた身としては驚かされたが、それぐらい道を切り開いてきた自負があるのだとも強く感じた(そのことは今年、ドミノから出たオレンジ・ジュースのボックス『Coals To Newcastle』を聴いてもよく分かる)。
 
 アルバム最後の曲(ボーナストラックを除く)である「Searching For The Truth」のカントリーミュージックのテイストにOJのセカンドのラストの曲「Tenderhook」に通じるものを感じ、とても嬉しくも思った。

retweet

kid_cudi.jpg
 カニエ・ウェストが負った亡き母親と別離した当時の恋人への痛みを隠すためにオートチューンで「歌いまくった」センチメンタルな08年の『808s & Heartbreak』において、彼のエゴ・オリエンティッドな要素(新作では見事に露悪的なまでにそれに回帰したが)はE.H.エリクソンの言うアイデンティティの拡散意識に依拠していた部分があった。あらゆるアイデンティティへの同一化を拒否して、敢えてアイデンティティ拡散の状況を選び守り、モラトリアム的なエゴに無期限にとどまろうとする所作。三部作できっちり大学を「卒業」したはずの彼はやはり、まだ宙ぶらりんな自我同一性を持っていた訳であり、それが形成される途中で実験的同一化を統合していく社会的遊びが阻害されて、社会的な自己定義を確立することが出来ないという状態が露呈したからこそ、あの作品は多くの人たちの心を素直に打った。

>>>>>>>>>>

 そのアルバムにも客演していたキッド・カディの09年の作品『Man On The Moon:The End Of Moon』における多彩なエレクトロ・サウンドをベースにしたスペイシーで浮遊感のあるトラックの上で歌うようなラップのような、また、どっちともつかない鼻歌的な歌唱法で言葉を乗せてゆくスタイルは当のカニエ自身に大きく影響も与えたことだろうし、カニエのレーベルから出たとはいえ、カニエは彼の存在にかなり引っ張られた形で『808s & Heartbreak』を作った背景は想像に難くない。また、メランコリアの強さも彼の特徴だったが、更に突き詰められた形でセカンドのこの作品『Man On The Moon 2: The Legend Of Mr. Rager』に繋がる。彼自身が「今までで作ってきた中でもっとも暗い作品」と言うのも頷ける重みのある作品になっている。

 ストリングスやギターを用いながらも、基本は前作の延長線上のエレクトロニクスを駆使し、巧みなサンプリングのセンスを活かしたサウンド・ワークもかなり「締まった」ものになっており、尚且つ、《はじめからひとりになる定めだったのさ》など翳りのあるフレーズが要所にある。ダークな通奏低音が貫かれた結果、ヒップホップの持つパーティー、マチズモ、エゴ・オリエンティッド、拝金性といった要素群よりもっとロック・コンシャスな疎外感やドラッグ(「マリファナ」という曲もある)にフォーカスをあてたオルタナティヴな作品になったのは興味深い。

 また、以前に彼が麻薬所持で捕まったとき、「俺は黒人が27歳で死ぬと知っている。俺は今26歳だが、その歳まで生き延びることを約束する。」と言っていた事も自然と作品の後景に浮かぶ(ちなみに、彼は来年の一月で27歳になる)。「27歳」にこだわっているのはいかにも"彼らしい"感覚だろう。27歳で亡くなったロック・アーティストに、ジム・モリソン、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ブライアン・ジョーンズ、カート・コバーンと居るように、「鬼門の年齢」でもあるからだ。

 カニエ・ウェストが客演したロック・チューン「Erase Me」のPVにおけるジミ・ヘンドリックス、酒や女性といったモティーフに溢れる典型的なロック・ストーリーのパスティーシュからしても、「27歳」を意識している面がこのアルバムにも散見しており、自信に溢れていた男がドラッグに耽溺してゆく過程で「独り」になってしまうという繊細なナラティヴをシーロー、メアリー・J・ブライジ、セイント・ヴィンセントなど多彩な客演で丁寧に紡いでいる。しかし、ドープで重厚な作品でもなく、キッド・カディという人が現今のヒップホップ・シーンで如何に「異端」な場所に居るのかを証左する作品にもなっている。その「異端さ」とは「内側への遠心力」に準拠する。(自意識の)内側への遠心力によるエネルギー変換装置としてのシフト・ポイント、つまり、高次元のエネルギーが収斂する場所というのは、想念の位相の間の結合する場所であり、それは中心でありながらも、「空(から)」であり、そこからエネルギー変換されることで、ある種の「かたち」として発現するようになり、それをしてこの作品内の別人格「Mr.Rager」と名付けることができる。つまり、その発現のあり方が「空」としての「中心へ投げ出される」ということで、そこでこそ、この作品のダイナミクスは視える。

>>>>>>>>>>

 最後に、確認しておくと、前作にあった浮遊感と無邪気な要素が極端に減り、彼のヒポコンデリーがより深く刻まれていることが感じやすいように、エレクトロニカのような不規則で不穏なビート、自棄気味な70年代のビッグ・ロックのようなサウンド、ダヴィーで沈んでゆくようなトラックといったサウンド・メイキングと陰鬱なリリック、「マン・オン・ザ・ムーン」という前作から地続きのコンセプトがリプレゼントするのは実はそのままの「等身大の暗さ」ではない。彼自身の抱える切実な、しかし、届くかわからない想いのこもった宛名のない手紙を、郵便箱に投函する行為の表れでもあり、そういう意味では周到な孤独主義者なのかもしれないという要素もある点は留意が必要だろう。そうでないと、このモダンでクールなサウンド・ワークが示す「空っぽさ」は説明出来ないからだ。

 ここで呈示される世界観もまた、厳然たるリアリティーに立脚した「捩れたファンタジー」でもあるとしたならば、蓋然的なのか、カニエ・ウェストの『My Beautiful Dark Twisted Fantasy』とコインの裏表のような作品に"なってしまった"気もする。

retweet

Suuns.jpg
 「お祈りなさい 病気のひとよ--ああこのまつ黒な憂鬱の闇の中で/おそろしい暗闇の中で--ああ なんといふはげしく陰鬱なる感情のけいれんよ」(萩原朔太郎『青猫』より「黒い風琴」抜粋)

>>>>>>>>>>

 思えば00年代的な「浮遊の時代」にフィットしたのが「空を飛ぶような」、ネオ・サイケデリアの運ぶユーフォリアだったとしたならば、10年代に入って「波へ乗りに」出て行ったユース達はでは今、何処に居るのだろうかと周囲に目を遣ると、「パーティーの喧噪」を遠目に見送って(Glo-Fi/ Chillwave)、彼らはどうも「祖父の」すすけた(Grimy)地下室で神経質なダンスを踊っているようだ。

 人間は自身が不安定な状況下にはノスタルジアを求めるきらいがあるそうだが(事実、911以降のアメリカではベティ・ホワイトといった往年の俳優が度々フィーチャーされていた)、インディ・レーベルに於いて少しずつ浸透しつつある、生産量が頭打ちされたバイナル盤限定というリリース形態を見る限り、前述した陳腐な比喩も強ち全くの見当はずれというわけでもないように思える。

 漆黒のオフビートに乗る沸点の低いベース、不明瞭な人間の呟き。叫喚のようなエフェクトを掛けられて唸るギター、クラップの音--そんな不安を煽るように、「神経症の子供」があやされる訳なのである。

>>>>>>>>>>

「今回のアルバムでは単純なリフか、或いはキーボードのループから始めて--そう、各要素を小さく限定して、それを可能な限りエクスパンデットするようにしたんだ。」--ラオス語でゼロを表す"suun"を冠したサンズはカナダはモントリオール出身の4人組のバンドであり、本作は彼らのデビュー・アルバムに当たる。

 スロッピング・グリッスル直系、フロント・ライン・アッセンブリー、スキニー・パピー然としたアグレッシブで隙間の無いビートにボディ・ミュージックの要素を挿みつつ、数々のアートロック、或いは同郷モントリオールのミニマル音楽から影響を受けたという彼らの音楽は、そのアプローチはトータル・セリエズムを踏襲しつつ十二音技法的な無調の音楽と繰り返しの否定からの「音楽/非=音楽」に関するコンフリクトから「作品」と対峙した例のノイズ・ミュージックの鱗片も感じさせるからして、なるほど洞窟を蝋燭の明かりを便りに彷徨するようなある種独特の空気感が認められる。--「例えば...「Pie Ⅸ」という曲は同じことを何度も何度も繰り返すんだけど、でもリピートの中に少しずつ要素を加えていって、緊張感を保つようにしたんだ」(Ben Shemie/ Vo)

 ブレイクグラス・スタジオのジェイス・ラセックを共同プロデューサーに迎え、『Zeroes QC』で彼らは、USインディらしい「如何にも」ヘイト・アシュベリー然としたアシッド・ロックから、「ロマンティックな」フロア対応のダンサブルなシンセポップ(「Arena」)、そして或いは、しばしば「スコール」と称される深く歪ませたギターの創出するフロウティングな空間に「俯き加減の」ロウファイなダーク・ポップといったジャンルの「可能性」を示唆しつつ、一つ一つスロウに躱して行く。

「君は君自身になっちゃいけない/君は君じゃない、他の誰かなんだから」(「Gaze」)、「君は自分自身のことがわからないのかい?」(「Organ Blues」)―そう、この「不穏な」エレクトロ・トラックは「ゆっくりと滴る血液」のように、明確に呪詛的な狙いを以て展開されるのだが、これらの迂闊に「迷い込ん」だ意識を攪乱させるような曲群は或いは、ガントレット・ヘアー(Gauntlet Hair)、WU LYFといった気鋭のインダストリアル勢との共振さえも確認することが出来るのだ。

 付則すると、配信元であるシークレットリー・カナディアン(Secretly Canadian)は1996年発足のインディアナのレーベルで、アニマル・コレクティヴ、イェイセイヤー、アントニー・アンド・ザ・ジョンソンズの新譜などがまだ記憶に新しいと思うが、この辺りは現在アリエル・ピンク、リアル・エステイトらのフォレスト・ファミリー、若しくはスリープ・オーヴァー(Sleep∞Over)、ガントレット・ヘアーらが所属するブルックリンのメキシカン・サマーと並び「最も信頼できるレーベル」として、「シーン」を牽引しているインディ・レーベルの一つである。

>>>>>>>>>>

思えば10年代始めの一年は「センチメンタルでナイーヴな感性」に多く触れたような気がするが、嘗てのジョニー・マーのように「雨の降る11月の水曜の朝」はダブルデッカーに乗り込み、或いはただ、「頭を窓におしつけて」いるだけで良かったのかも知れない―「過去」を縫い付けて、バスは動き続ける。

retweet

crocodiles.jpg
 デリダの考案した「差延」という概念においては自ら、自らの名において書かれたように思われるものを遠ざけ、固有名は、自ら変容(プロテアン)し、多かれ少なかれ匿名の多様性の内へと他化することがある。これこそが、エクリチュールの舞台において「主体」に起こることである。要するに、表現は常に先行する表現の平面の位相座標の組み合わせから再現前する。違う表現をするならば、引用符の「 」で、誰の引用元から引用したと指摘される表現以外においても、作者は常に無意識に多様な引用装置を表現の平面に取り込んでいると言える。これをデリダは「相互汚染」と表現している。つまり、「固有名を持つ作者は存在しない」。存在しているのは、署名され、脱固有化された匿名性の内に帰属する主体である。この主体がペンを握るとき、ひとは「人がものを書く」というのだ。

 学生時代からの仲というブランドン・ウェルチェズ、チャールズ・ローウェルのユニット、クロコダイルズがサンディエゴから出てきたとき、あまりにその匿名性の強い佇まいと音に興味を持った。ユニット名はエコー・アンド・ザ・バニーメンの1980年の名盤のタイトルそのままから取っただろうと思われるし、2009年のファースト・アルバム『Summer Of Hate』では、ヴェルヴェッツ~ザ・キルズに繋がるアート・ロックの鋭度、ジーザス・アンド・ザ・メリーチェインのような轟音の中に浮上する甘い旋律、更にはスーサイドのエッジまでも彷彿とさせるクールでフリーキーな音を孕んでいた。そして、浮遊感の漂う甘美なサイケデリアにはスペースメン3、スピリチュアライズドの影響も伺えた。しかし、兎に角、エッジばかりの音楽を束ね上げてみせる力技は、如何せん無理をしている部分もあり、同時に、センスだけが先走った音楽と言えたのも否めない。また、ニューゲイザーというブームにも攫われることにもなり、音楽誌やファッション誌の評価と称賛も受け、ヒップな存在として台頭した反面、エスケーピズムが過ぎるとか、過去の遺物を寄せ集めてそのミームの解析に長けたオリジナリティのないデュオでしかない、などの批判を多く受けることになってしまった。

 そういった批判を受けながらも、ザ・ホラーズ、ホーリー・ファックのツアー・サポート、ダム・ダム・ガールズとのスプリット・ツアー等を経る過程で、確実に知名度もライヴ・パフォーマンスも認められるようになってきた中、この本作『Sleep Forever』が届けられた。結論から言うと、前作はデモ・トラック集だったと思えるくらい、非常にスマートでシェイプされた音になっており、コンパクトに纏まっているアルバムである。また、シミアン・モバイル・ディスコのジェームス・フォードがプロデューサーとして参加したことも関係しているのか、80年代後半のUKインディーシーンに犇めいていた音への傾注が露わになっているのも面白い。メロディーだけを取り出すと、アノラック・バンドのようなものもあったり、マッドチェスター的な要素も強くあり、ザ・ストーン・ローゼズ、ハッピー・マンデーズなどが一時期に持っていた煌めきから、『スクリーマデリカ』時のプライマル・スクリームも参照されている。そういう意味では、ファーストにあったジャンクなムードは減り、よりダルにメロウになりながらも、クリアーに整頓されたサイケデリアが現前するようになった。特に、1曲目の「Mirrors」はクラウト・ロックのような反復するビートに対して、じわじわと真っ白なノイズが曲を覆ってゆくダイナミクスが美しい。その他も、ライドやスロウダイヴを思わせる曲から、ザ・ホラーズやジーズ・ニュー・ピューリタンズのセカンドと共振するダークさを孕んだ曲、マーキュリー・レヴのような幽玄なサウンドスケイプが映えた曲など、ファースト時からアップデイトされたセンスも垣間伺え、好感が持てる。

 想えば、10年代に入って、MGMTやイェーセイヤーなどの主たるアクトがセカンド・アルバムにおいて、80年代のポスト・パンク、ニュー・ウェイヴの音を参照点にしたというのは興味深い変化だったが、クロコダイルズの場合は彼らよりもっと自覚裡にファーストのサウンド・モデルを変えるためにこのような音を選んだと思える。そして、この「視界」の絞り込み自体は間違っていない方向性だと言えるだろう。

 オリジナリティという意味ではまだまだ努力が要るかもしれない。しかし、表現という面での反復可能性に従うと、クロコダイルズは最初からミメーシスではなく、「ノイズ(寄生)」に生起点を持った「偽装」だったともいえる。自己同一性を失って他化し、その他化において再度、自己同一化するプロセスを経て、「署名(オリジナリティ)」をしたためようとした際、「偽装的形式」が再現前されることにもなる。勿論、"非・偽装的な表現"などはないゆえに、反復なき引用はなく、引用が反復を含意するとしたならば、彼らの既聴感のある音を誰が否定できると言えるのだろうか。少なくとも、僕にはできない。

retweet

alternative_takes_on_congotronics.jpg
 CDショップで見つけてからプレーヤーのトレイに載せるまで、こんなにワクワクしたアルバムは本当に久しぶり。そしてスタートボタンを押してから聞こえてきた音楽は、想像以上にカッコよくて、楽しくて、自由だった。つまり最高だってこと! タイトルは『コンゴトロニクス世界選手権』。その名のとおり、世界各国からインディ・ロック、テクノ、ハウス、現代音楽などの気鋭アーティスト26組が"コンゴトロニクス"のもとに大集結。以前、僕が紹介させてもらったコノノNo.1やキンシャサ在住で25人ものメンバーを擁するカサイ・オールスターズの楽曲を独自のセンスと手腕でカヴァー/リミックスしている。コンゴトロニクスは自分たちを「トラディ・モダン=伝統的かつ現代的」と位置づけ、26組の参加アーティストたちを"ROCKERS"と呼ぶ。オリジナル・タイトルは『TRADI-MODS VS ROCKERS』。国内盤の解説でも言及されているとおり、元ネタは映画『さらば青春の光』にも描かれていたモッズとロッカーズの対立。今や時代は10年代。音楽の真剣勝負はルール無用で、楽しくて、僕たちの耳と心をとことん刺激する。

 2枚組アルバムの冒頭を飾るのはディアフーフ。どうやって演奏しているのかさえ謎だと思われるカサイ・オールスターズのカヴァーに挑戦! 親指ピアノ(リケンベ)やパーカッションのパートを従来のバンド・フォーマットに置き換えるアプローチとサトミさんのメロディーが素敵。そう言えば、彼らの新作は『Deerhoof Vs. Evil』だったっけ。対TRADI-MODS戦も大健闘でしょう! インディー/オルタナティヴ・ロックからは、ディアフーフの他にもアニマル・コレクティヴやアンドリュー・バード、ウィルコのグレン・コッチェ、ボアダムスの山塚アイなどが参加。どれも自分たちのカラーを残しながらも、コンゴトロニクスが大放出するグルーヴの渦の中で自由に暴れている。遊んでいる。アンドリュー・バードの口笛は、いつになく楽しそう! 山塚アイのトラックは、リケンベを増幅させた極太ベース・ラインが最高にカッコいい! 

 このアルバムを企画したクラムド・ディスクスのマーク・オランデルのセンスにも注目しよう。81年、ポスト・パンク黎明期から現在まで多国籍な音楽を発信してきたクラムド・ディスクス。最近ではやはり、この"コンゴトロニクス"と呼ばれるコノノNo.1やカサイ・オールスターズを熱心にリリースし続けてきたことは特筆に値する。グラミー賞にまでノミネートされるようになった彼らの音楽には、普段からリミックスの依頼が絶えないという。それでも彼は、それを断り続けてきた。このアルバムに参加できたのは、レーベル側から"選ばれた"アーティストだけ。コンゴトロニクスへの愛着と理解こそが、そのオファーの理由だという。

 先述のインディー/オルタナティヴ・ロック勢に加え、90年代にベーシック・チャンネル名義でミニマル・ダブを定義したマーク・アーネスタス、現在のクラブ・シーンで大きな注目を集めるシャックルトン、そして初めて耳にする現代音楽のアーティストまでが名を連ねるこのアルバムには、マークの目論見どおり"コンゴトロニクス"への愛情がいっぱい。2枚組なのに1枚分の値段(税込2,520円!)で買える国内盤にも愛を感じる。自動車やラジオの廃品から生み出されたグルーヴは、新しいイマジネーションとアイデアを得て、どこまでも自由に広がってゆく。国境も、音楽のジャンルも飛び越えて。

retweet

mt_desolation.jpg
 ああ、なんて素晴らしいメロディーの洪水...。決しておしつけがましくない、アコースティックな空間を活かしたアレンジ/サウンドともども、普通にずっと流れていてほしいと感じる。「2010年の隠れた名盤...になってしまいそうだけど、それは残念、ひとりでも多くの人に聴いてもらいたい」アルバムのひとつ。それも最上級の。

 キーンのメイン・ソングライターでありキーボード奏者でもあるティム・ライトオクスリーと、サポート・メンバーであるジェス・クインによるスペシャル・バンドのデビュー・アルバム。ノア&ザ・ホエール(Noah & The Whale)やキラーズのメンバーも参加している。

 昨年リリースされたキーンのミニ・アルバムも素晴らしかったけれど、そっちのほうはバリバリにエレクトロニック・ポップな作品だった(だから、OMDもかくや、という感じの)。こちらは一転して、初期イーグルスや80年代のUSインディー・バンドの一部(当時はカレッジ・バンド、などとも言われていたあたりとか)にも通じるような(もちろんあくまで今っぽくポップでオルタナティヴな)カントリー・テイストもあって、ティムの旺盛な表現意欲に感心されられつつ、どこかなごめる。セカンドでちょっと別のほうに行ってしまったノア&ザ・ホエールって、こういう感じになってくれればよかったのに、などとも思いつつ、愛聴してます。

retweet

the_bridal_shop.jpg
 スウェーデンのバンドたちが鳴らす音...特に打ち込みの音色などその音自体が、どこかノスタルジアを宿しているような感覚に陥るのは僕だけだろうか。レディオ・デプト然り、クラブ8然り。このブライダル・ショップも、一聴して近い感想をもった。この作品『In Fragments』は 彼らのEPオムニバスに提供された曲で編集された日本デビュー盤である。
 
 1曲目から東洋的なアプローチのストリングスが印象的な「Fragments」、おそらくアルバム中最もポップでニュー・オーダーを彷彿とさせる「Ideal State」、また「While It Slept」で女性ボーカル、アイダの歌声がサンデイズのハリエット嬢に激似なのに少し驚く。この曲に限れば曲調もどこか共通するものがあるような感もある。編集盤でもあるためかアルバムとしては統一感やまとまりに欠ける印象も否めないが、そこを全体にわたって霞みがかったような淡い音響処理がうまく支えている。
 
 今にも消え入りそうな、でも確かに煌めいている音。人生を、価値観を大きく捻じ曲げられるような力をもった1枚ではないだろう。ただ、知らないあいだに心の一部に染み込んでいるような(もしかしたら通り過ぎてしまうかも...)、そんなさりげないエレクトロ・ポップバンドだなと思った。タイトルは『In Fragments』=断片的。なるほど。

retweet

desertshore.jpg
 サンフランシスコを拠点とする3人組のインストバンド、Desertshoreの1stアルバム。バンドの主軸となるフィル・カーニーは、サッドコアやスロウコア周辺の最重要バンドの一つである、Red House PaintersやSun Kil Moonのサポート・ギタリストを務める人物である。それら二つのバンドといえば、フロントマンであるマーク・コゼレクの存在感があまりにも大きい(Sun Kil Moonはマーク・コゼレクのソロ・プロジェクトなので当然ではあるが)。彼の贖罪するようなヴォーカルは強烈すぎる。Desertshoreでは、そういった暗澹とした音楽性は抜け落ち、良い意味でマーク・コゼレクの影を感じさせない。
 
 基本的には、ロウなテンポとギターによる繊細なアルペジオを重ねる、スタンダードなポストロックである。サッドからノスタルジーな方向へシフトしている。ピアノを用いた荘厳な曲や、アコースティック・ギターによるフォーキーな曲(洗練されたSun Kil Moonのようで、非常に良い)も散りばめられているが、ドラムのミキシングの雰囲気がスティーブ・アルビニのそれに酷似しており、アルバムの全体像はやはりポストロック的だ。
 
 ヴォーカルのないRed House Paintersの作品ではなく、一つのバンドとして地に足がついている。この楽器群を背景にコゼレクが唄う姿は、ちょっと想像できない。アンビエント、ポストロック寄りのギターインスト作品として、高いクオリティを誇っていることを断言したい。

retweet

frankie&the_heartstrings_Ungreatful.jpg
 エドウィン・コリンズがプロデュースしたタイトルソング「アングレイトフル」が話題の、Wichitaが送り出すイギリスのサンダーランド出身で5人組のフランキー&ザ・ハートストリングスのミニ・アルバム。今まで出しているシングルはどれも限定の7インチなので、まとめて音源が聴ける盤になっている。タイトル曲に顕著なように荒削りながらも光るものを持つバンドで、80sのポップさも持ち合わせているのが特徴。ザ・ドラムスが好きなら気に入るだろう。5曲目はブライアン・イーノの「ニードルズ・イン・ザ・キャメルズ・アイ」をカヴァーしていて、あまりカヴァーされない曲で新鮮だ。このカバーや歌詞からも「あからさまにスタイリッシュで残忍なほどに文学的」とNMEが絶賛したのも分かる。10月に来日し、11月のエドウィン・コリンズのツアーサポートもしているとのことだが、今作収録のライブテイクからも、今後もライブも含めて期待できる新鋭だし、エドウィンが目をつけたバンドには外れがないので(以前のフランク&ザ・ウォルターズ、ア・ハウスから最近のクリブスやリトル・バーリーまで)フルアルバムを楽しみにしている。

retweet

talons.jpg
 怒涛怒涛怒涛!! アタマ真っ白!! 65daysofstaticの「Await Rescue」を初めて聴いてエレクトリカルな衝撃を全身に浴びた時の様な。デジャヴとはまた違う、全く別物として受け入れざるを得ない性急な感覚。自分の中の閉まっている扉という扉を、急いで全開にしなければと奔走する興奮。突如として現れたイギリスはヘレフォードの6人の若者による濃密な野心、基、野望の塊を音楽にして我々を一網打尽にする。その破壊的衝動性はリスナーに「お前らのそんな音楽観をブチ壊して狂わせてやる!」と言った様な、ともすれば幼稚にも受け取れるようなメッセージを見事なまでに真っ直ぐ届けてくれる。楽曲はポスト・クラシカルを通過したハードコアなインスト・サウンドに他ならない。彼らが結成して間もない頃から注視していたのだが(前身のバンドKitesから改名し、ヴォーカリストを排したのが成り立ち)ちょうど3年前ほどか、マイスペースで初音源を上げた頃は今のこの姿とは違って、エモティヴなアーケード・ファイアにシガー・ロスやエクスプロージョン・イン・ザ・スカイを足した感じで、ともすればモグワイなんて名前が出てくる位のポスト・ロック然としたサウンドを鳴らしていたのだが、その頃から比べてもこの飛躍は完全に大気圏を突破している程の進化なのだ。間違いなく進化だ。メタリックなへヴィ・リフも突発的に飛び出してくるが、それは聴き終えると全てが完璧な作品のピースとして必要不可欠なものとして描かれたものであると感覚出来る。但し、この絶妙な調和は理屈で"計算"されているというよりも感性で"設計"されていると表したい。

 そしてこれはあくまで個人的な感覚だが、国内のネオ・フューネラル・メタル・バンドの夢中夢に欲していたリズムの緩急やサウンド・ヴォリュームの大小によって生まれる波形で生み起こされるグルーヴ感も素晴らしく、加えてマスロック的なアプローチで複雑に刻まれるリズム・ワークにも関わらず身体を動かせる余地を作っているのは驚異の一言である。さらに多様な展開をハイ・スピードで駆け抜け、静かなパートで溜を効かせてバーストと言った安易な展開は先ず無いという彼らの心意気を大きく取り上げ称賛したい。残響レコードが本格的にメジャーなシーンに進出し、世界の攻撃的なポスト・ロックもここ数年で大きく取り沙汰されたが、65daysofstaticの登場以降はここまでセンセーショナルなサウンドを放つバンドはハッキリって居なかったように思う。と言うか、色々音楽をそれなりに聴いてきても忘れさせてしまう程に強烈。ストリングス×2による物悲しげなフレーズや大仰さも嫌味なく説得力があり、今の時代ともリンクしたフレッシュなギターのフレーズが満載で非常にエネルギッシュ。不定形だったバンド・メンバーも現在はガッチリ固定され、やきもきさせながらもようやくアルバム・リリースも実現し、これからの活躍がきっと明るい新星の登場だ!

retweet

Carlinhos_Brown.jpg
―象徴は、それが象徴化するものよりも現実的なものである。シニフィアンはシニフィエに先立ち、それを規定する。(『マルセル・モース論文への序文』レヴィ=ストロース)

 レヴィ=ストロースの『野生の思考』によれば、野生の人々の中に、ブリコルール(ブリコラージュする人)がいる。彼らは日常「何の役にたつか分からないが、きっと何かの役にたつもの」を収集しており、何らかの問題に直面すると、計画されたものではなく、拾ってきた素材、使い回された破片など「ありあわせの物」で解決する。

 ブリコラージュについて考えると、1960年前後に起こったフランスのヌーヴォー・レアリスムにおけるアッサンブラージュとの接合点は見つけることができるのか、つい夢想してしまう。例えば、ジャン・ティンゲリーの廃物機械によるジャンク・アートや、レイモン・アンスのアフィシェ・デシレなどのように、ある一定の体系の中の部分として機能する「概念」ではなく、体系を無視して使われる「記号」としての意味。そこには、既存の文脈からスライドして、"新しい意味が発現した「作品」の無意味さ"が明滅する。ブリコルールは「それ」を道具としての「記号」でしか見ないが、"ディスクールとしてのブリコルール"はいまだ汎的に拡がりを増す。

 今、ポストモダニズムの彼岸では、"「ありあわせの物」で決して意味はないが、存在するものを作るという所作"は実はとても有意義な行為である。そこから、先行された「テクスト」の誤差分を読み解ければ、という文脈は必要になってくるが、カルリーニョス・ブラウンの新作『Diminuto』がまさしくそういった観点を要求されるものになっているのが興味深い。道端で空き缶を叩いていた彼は、トラディショナルなモードに帰一するために、旧態的なモダンネスを帯びた作品(『Adobró』)を並存させながら、音楽としての純度の高い作品(『Diminuto』)を「忍び込ませた」ことで、あらゆるブリコルールがディスクールに回収されるのを堰き止めたとも思えるからだ。

>>>>>>>>>>

 カルリーニョス・ブラウンが出たバイーアという地域は、ブラジル内でも最もアフリカ系移民の多い土地であり、アフリカから伝承された文化も残っている。例えば、「サンバ・ヂ・ホーダ(Samba de Roda)」と呼ばれるダンスはブラジルの文化に対し、最も大きな影響を与えたと言えるかもしれない。これは人々が輪になって歌い、その中に順番に入って踊るというもので、カーニヴァルにおけるダンスの元になったと言われている。そして、バイーアからは優秀なアーティストが輩出されていることでも有名である。ボサノヴァの始祖ジョアン・ジルベルト、サンバ界の大御所であるドリヴァル・カイーミ、トロピカリズモの主軸を占めたカエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジル、ガル・コスタ、マリア・ベターニャなど数多くいる。

 彼はパーカッショニストとして頭角をあらわし、カエターノ・ヴェローゾのアルバムにも参加し、ツアーにも同行するなどして名前をあげていった。また、地元のカンジアルに住む若者たちを集めて、ストリート・パーカッション集団「チンバラーダ」を結成するなど、バイーアという地域の町興しにも積極的に関わる中、1996年に『バイーアの空のもとで(ALFAGAMABETIZADO)』でソロとしてデビューしてからの活躍は目まぐるしいものがあった。例えば、フェルナンダ・アブレウ(FERNANDA ABREU)『Raio X』、カエターノ・ヴェローゾ『Livro』でのゲスト参加、シルヴィア・トーレス(SILVIA TORRES)のアルバム・プロデュース、THE BOOMの宮沢和史氏のセカンド・ソロ・アルバム『Afrosick』での3曲の作詩、演奏、共同プロデュースなどで、彼の名前を見ることができる。加え、ブラジル国内のみならず、欧米でのライヴ活動も行ない、そのライヴ・パフォーマンスの素晴らしさも浸透していった。その流れを経て、伝統とモダンが相克しながらも、高い摩擦の熱量を保った1998年の傑作のセカンド『Omelete Man』に繋がることになる。この作品では、MPBからファンク、サンバ、レゲエといった幅広い音楽要素をウェルメイドなポップネスで纏め上げるのに成功していた。当時は、「あまりに洗練され過ぎている」という声も上がったが、ワールドワイドに打ち出していくにはこれだけの広さを持たないといけないのは、近年のタラフ・ドゥ・ハイドゥークスが体現する大文字の「ジプシー」、ティナリウェンの「砂漠のブルーズ」といった位相と同じで、「ブラジル音楽」というものが決して、イメージの先にあるボサノヴァやMPBのようなものだけではない、ということを逆手に取り、モダナイズをはかった作品だという文脈は踏まえないといけないだろう。その後、2002年にマリーザ・モンチ(MARISA MONTE)と元ムタンチスのアルナルド・アントゥネス(ARNALDO ANTUNES)と組んだトゥリバリスタス(TRIBALISTAS)がブラジル音楽という枠を越えて、世界的にブレイクした。

 ただし、ライヴ・パフォーマンスは別として、近作の彼のソロ・アルバムが決して期待を越えてくるようなものではなかったのが気にかかっていた。個人的に、どうにも精彩が欠けた感じを受けてしまうときもあり、2005年のカンドンブレのビートと地元の人々が歌う声を拾い上げ、音響処理した『Candombless』も発想も内容も悪いものではなかったが、『Omelete Man』にあったようなパッションとインテリジェンスが程好く混ざり合った作品をもう一度、聴きたいと思っているような自分からしたら、歯痒かった。

>>>>>>>>>>

 前作『A Gente Ainda Não Sonhou』から約三年振りに二枚同時にアルバムが出たが、これがなかなか面白いことになっている。

『Adobró』は、エレクトロニクス要素を大胆に取り入れた意欲作になっており、キレのあるパーカッシヴなリズムも活きているが、全体を通底するのは洒脱な空気だ。ブラジルの多彩なビートをよりクリアーに鳴らすことに意識を高めた結果、新しい音響美を手に入れており、嬉しいことに『バイーアの空の下で』、『Omelete Man』にあった生命力もしっかり感じることができる。2010年の9月にリード・シングルとしてリリースされた「Tantinho」は、彼のバイタル溢れる声が女声コーラスの絡みとシャープに刻まれるパーカッシヴなリズムが映えたやわらかな佳曲だったが、アルバム全体の印象としては、よりスペーシーな拡がりを感じさせる。

 片や、『Diminuto』はピアノやギター、弦楽器の音の響きが美しく全編を覆い、アコースティックでオーガニックなサウンドを基調に、ボサノヴァやサンバのリズムの上に言葉遊びのような歌詞と抑制気味の彼のボーカルが乗ってくる静謐な作品だ。派手な意匠もなく、近年の世界のシーンの隆盛の一つであるジャック・ジョンソン、ドノヴァン・フランケンレイターなど程好く肩の力の抜けたシンガーソングライターの作品の持つ緩さと共振する部分もあり、えもいわれぬサウダージ(切なさ)も孕んでいる。ギターとピアノだけの始まりから緩やかに音が増え、鮮やかにサウンド・タペストリーが紡がれてゆく繊細なサンバ「Você Merece Samba」、リオのロック・グループ、オス・パララマス・ド・スセッソ(OS PARALAMAS DO SUCESSO)が参加した「Verdade, uma Ilusão」は白眉と言えるだろう。

 実験的な試みと彼の意欲を鑑みるならば、『Adobró』になる。しかし、カルリーニョス・ブラウンという人の才能のポテンシャルを見せつけるのは『Diminuto』に他ならない。衝撃のデビューから長い旅路を経て、彼がこのような穏やかな成長をしていることが何より頼もしい。

retweet

directorsound.jpg
 イギリス人のニック・パーマーによる、宅録ソロ・プロジェクト、ダイレクターサウンドの2ndフルアルバム。波の音でメロウに始まりつつ、鍵盤楽器やアコースティック・ギター、バンジョー、その他多彩な楽器が鳴る、色彩豊かでトロピカルなインスト作品となっている。アルバムが進むにつれて、次第に陽が沈んでいくようなノスタルジーさも漂わせており、特にアコーディオンの存在は、作品にシネマティックでロマンティックな香りを漂わせている。
 
 晴れた空と青い海というポップなコンセプトを、できるだけ穏やかなテンションで料理している。軽快かつ朴訥で優しいが、どこかポップに振り切れていない。良い意味で、完成に7年の歳月を費やした大作とは思えない、聴きやすいアルバムに仕上がっている。
 
 1stアルバムは、Geographic(パステルズが主宰)からのリリースであったが、本盤は、スウェーデンのtona serenadよりリリース。同レーベルから昨年リリースされた、ミュゼットの『ダートゥム』が比較の対象にされているが(2009年内、私の中では最高の名盤)、ダイレクターサウンドの方がより開放的で、太陽を感じさせるポップさをまとっている(ダートゥムはよりノスタルジー)。ただ、似通った作風のアルバムであるのに、一方は、完成に7年の歳月を費やし、もう一方は、曲名が日付になってしまうほどに即興的で日記的であるというのは、正反対で面白い。

retweet

museum_of_bellas_artes.jpg
 このスウェディッシュ・ガール・ユニット最高。これは7"でリリースされた「Watch The Glow」も収録された新作EP。音はチルウェイヴの文脈で評価されそうな気もするけど、潮流なんて気にしてない感じがツボ。イタロ・ディスコ色が強いエレ・ポップで、ジョルジオ・モロダーの影もチラホラ見えてくる。最先端というわけでもないし、流行に乗ったイヤらしさもない。じゃあ実験的な前衛音楽なのか? というと、そうでもない。たぶん彼女達は音楽的な野心がなくて、「暇つぶしでやってみたら上手くいっちゃった」という空気がぷんぷんする。ある意味今っぽい佇まいです。リンドストロームやロイクソップもそうだけど、北欧系のアーティストは秘境的な音を鳴らすような気がする。今挙げた2つは「どこかへ連れて行ってくれる」けど、この娘達の音楽からは日常のちょっと過激な部分が見えてくる。初めてセックスをした日が青春映画的な場面として飛び込んでくる感覚というか、童貞・処女喪失をした(若しくはする)瞬間に似たような疼きが、自分のピュアな部分を刺激してくれる。「Days Ahead」は、ハッキリしないムズムズとした感情が鳴らされていて、その感情が僕の失われた部分を突いてくる。だからこそ、ここまでピュアな音を鳴らせるのだろう。

retweet

isobe_masafumi.jpg
 例えば恋愛において、長いこと友人関係だった人が恋愛対象に変わる、ということがある。ずっと知り合い程度だった人と時間が経ってから付き合うことになった、ということもある。相手の見方が変わるようなきっかけがあったり、長い時間をかけてその人の良さに気付いたり、様々な偶然やめぐり合わせがあって「ただの友人」や「単なる知り合い」から、いつしか「大切な存在」に変わる...らしい。残念ながらこれまでの経験上そのようなことはなかったので、そんな話を聞いても何のリアリティも感じなかった。が、ついに私にもそんなお相手が現れた。

 その人こそ、イッソンこと磯部正文。出会いは10年以上前になる。ハスキング・ビーの1stから良く知っていたはずで、見に行ったライブやフェスに出演していたり、ゲット・アップ・キッズやジミー・イート・ワールドと共演していたり、当時レコード店で働いていた私は彼らの新譜を漏らさず聴いていたし、見る機会も聴く機会も多くて、本当はとてもとても近くにいた。音楽性が徐々に変化していったことも、メンバーが4人になった時のことも、早くから「エモ」と呼ばれていたことも、日本語の歌詞が増えていったことも、解散後のそれぞれの活動も、とてもよく知っていた。はずなのに、なんとなく近くを通り過ぎながら「単なる知り合い」状態をずっと続けて来た。

 イッソン(と、あえて呼ばせていただきます)の音楽を、ちゃんと、もう一度聴いてみよう、という熱が高まり始めたのが今年のこと。彼がハスキンの後に組んだマーズ・リトミックが活動休止すると知り、いつもなんとなく近くで音楽を鳴らしていた彼がまたひとつの決断をしたことが気にかかっていた。並行してバンドの休止前から不定期的に一人での弾き語りライブを続けていて、会場では宅録したCDを売っていたりと、音楽と離れることなく活動していることに安心もした。けれど、いつでも近くにいるわけじゃないのだ。とにかく彼の歌を聴きに行かなくちゃ。活動の形がどう変わっても、彼の歌う姿を見に行かなくちゃ。日に日にその想いは強くなっていった。

 私にとってそんな絶妙なタイミングでリリースされた本作は、磯部正文ソロ名義での第1作。きっとハスキン後期~マーズ・リトミック、一人弾き語り等々の流れを汲んだ音なのだろうと勝手に想像していたけれど、その予想はまるで的外れで、またそれは嬉しい外れ具合だった。まるでおもちゃ箱を開けたように、ポップでカラフルで前向きでまっすぐ。疾走感溢れる楽曲に彼の声とギターが加われば思わず懐かしさが込み上げるけど、そこへ新しいリズムを土台に、キーボードが重なり、アコギが重なり、歌声は様々に表情を変え、懐かしさだけじゃない「今」の音へと繋がってゆく。しっかりと過去と今が結びついて大きな広がりを持ったサウンドは、「鳴っていることこそが全て」といわんばかりの爽快な気持ちよさがあって、そこには何の思惑も衒いもなくて、彼の音楽を通り過ぎて来てしまった私の長年の後悔も軽く吹き飛ばしてしまった。これまでと違うことをやらなきゃいけないとか、あるいはこれまでと違いすぎることをやっちゃいけないとか、そういうしがらみが一切無く、なにか吹っ切れたようなすがすがしさと、ソロ名義ではあるけれど新しいバンドを思いっきり楽しんでいるようなワクワク感が伝わって来る。「Sound in the glow」や「花の咲く日々に」、「Spontaneous」のサビで聴かせるハイトーンはイッソンそのものだし、2ビートで駆け抜ける「Paper airplane」や「Magic scene」のような曲を待ってた人はきっと多いだろう。加えて英詞が多いことも昔を連想させるけど、歌詞に描かれた空や風や花や鳥たちはいつでもイッソンが歌って来たこと。彼らしい独特の目線と言葉選びはいつだって変わらない。手書きの歌詞カードも。

 プロデューサーを務めたのは元ビート・クルセイダーズ/現モノブライトのヒダカトオル。彼流のポップさを散りばめながらも、前面に打ち出されているのはイッソン節ともいえるメロディーと変わらぬギターサウンド。そこへ、會田茂一(ex.エルマロ/髭(HiGE))、田渕ひさ子(ブラッドサースティー・ブッチャーズ)、原直央(アスパラガス)、中尾憲太郎(ex.ナンバーガール)、戸川琢磨(カムバックマイドーターズ)、有松益男(ポンティアックス)、伊地知潔(アジアンカンフージェネレーション)、柏倉隆史(toe)、恒岡章(キュビズモグラフィコファイヴ)といった現在の日本の音楽シーンに欠かせない個性溢れる面々とバンドサウンドを作り上げていくことで、イッソンらしさと新しさが見事に同居した作品となった。特に印象的なのはキーボード/シンセが自由自在に彩りを添えていること。ほぼ全曲でキーボードを担当しているシモリョーこと下村亮介(シェフクックスミー)は、元々彼の大ファンで終演後にサインをもらいに行くほどだったというから、プラスに作用しないわけがない。(ちなみにソロでライブを行う際のバンド「磯部正文BAND」でもキーボードを担当しており、とにかく嬉しそうにはしゃぎながら演奏してるのが最高です。)

 ハスキング・ビーというバンドがファンやミュージシャンにとても愛されていたこと、今でも彼らの曲を大事に思っている人がたくさんいることをよく知っている。バンドが変化していく時、知らないどこかへ行ってしまうような不安感に駆られることや、好きだったバンドが解散し新しく個々の活動が始まる時、かつての音と似ているものを聴きたくない、けれどかけ離れてしまうのは淋しい、という気持ちがごちゃまぜになることもよく知っている。ハスキンの音楽性は、いわゆる「メロコア」と呼ばれていたものから、テンポを落とし、日本語が増え、叙情的であったり、日本的であったり、時に切なかったり暖かかったり、と変化を遂げていった。その変化の渦中にあった曲「後に跡」が印象的で、私はその曲を幾度となく思い出しては、その大胆な楽曲の変化と言葉遊びのような歌詞の面白さに魅了され、「どう変わったか」よりも「新たな方向性を打ち出したこと」にハスキンというバンドの強い意志みたいなものを感じた。彼らの軌跡はとても実直で不器用にも思えたけれど、それが彼らが愛された最大の理由だとも思っている。きっとあの大きな変化を受け入れられなかったファンもいただろうし、変化の後に好きになったという人もいるだろう。それはどんなバンドにも起こりうることで、変化の前と後に線を引いてしまうのもよくあること。けれど本当は線引きなど出来はしない。いつだって音の中にはその人の全てが、例え隠れていようとも存在している。この作品はイッソンのどの時代も全て入った、「これまで」と「これから」がとても肯定的に結びついた作品だ。「これまで」を隠すことなく盛り込んで、その音全てが「これから」の未来に向いている。だから懐かしくもあり新しくもあり、とてもすがすがしいのだ。

 彼の今の音楽との付き合い方、リスナーとの距離感や信頼関係、「これまで」と「これから」の音楽活動に対する思いを最も象徴している「符思議なチャイム」は、このアルバムの要と言えると思う。この曲は、彼が音楽を生み出す時、符(不)思議なチャイムが鳴っているような気がする、という感覚を歌ったものだ。頭の中に散らばっていた音符が一つに繋がる時、あるいは降ってくるようにメロディが流れる時、チャイムが鳴っているようだと思うのだという。

《キミの手が僕の手に つながったらメロディーが 咲き誇って流れる
キミの目が僕の目に 合わさってラプソディーが 舞い踊って溢れる》

 そう歌い出されるこの曲は、「キミ」が彼の音楽を聴いているリスナーを指すとしても、一緒に音を奏でるメンバーを指すとしても、どちらにしても「キミ」がいなければ音は響かないという、今のイッソンの思いが凝縮されているように思う。音楽を作り出す時に鳴るチャイムは、自分以外の「キミ」にも鳴っていなければ響き合えないことを、一人でやっていくと決めたからこそ強く感じているのではないかと思う。だからこそ過去も今も隔てることなく、鳴らしたい音、鳴らすべき音を奏でているのだろう。思いがけなく素敵な音楽に出会った時、理由も無く何かに惹かれてしまう時、きっとチャイムが鳴っている。そのチャイムが響き合ってこそミラクルは生まれる。それは誰にでも起こりうる奇跡の瞬間。

 熱心に見に行っていたわけではなかったハスキンだけれど、解散ツアー直前のライブを見る機会があった。好きや嫌いとは別のところでハスキンのことは「いいバンド」だと思っていたから、「もうこれが彼らを見る最後か」と思ったら淋しくないわけはなかった。その日イッソンは多くを語らない中で、「いつか、音楽で」と言った。しばしのお別れの挨拶として、さよならの代わりに言われたその言葉を、私はずっとずっと覚えていた。ライブが終わりに向かうにつれ、これほどのいいバンドを見逃してきてしまった後悔が大きくなっていくのを感じながらも、その言葉のおかげでまた会えると思えた。2つのバンドを休止した後、彼は音楽を辞めることも考えたという。私にはあの言葉がずっと残っていたから、そんな選択肢があったなんて驚きだった。でも今こうして、また音楽で出会うことが出来て、あの言葉は本物になった。

 どんなに「もっと早く出会っていれば」「もっと早く好きになっていれば」と思っても、それは違うのだと思う。私にとっては今がタイミングだったのだと思う。まぁ...本当言うとすっごくすっごく悔やんでいるけれど...、でもそれは違うのだ。きっと私にもチャイムが鳴ったのだ。先日のライブでイッソンはハスキンのことを「一生懸命やっていたバンド」と言った。結果的にバンドは解散したけれど、彼にとって今でも大切なのだと、それは私達となんら変わらない気持ちだとわかって嬉しかった。実際にイッソンはハスキンの曲をとても大切に演奏している。それを複雑な思いで聴くファンもいるかもしれない。その気持ちもよくわかる。けれど過去を悔やむのではなく懐かしむだけでなく、そこから今に繋がる音や思いを紡いでいくことで、これから先の未来を素晴らしいものに変えていくことは出来るはずだ。少し先から振り返ったとき、過去は悔やむべきものではなくなっているかもしれない。だから過去を悔やむことはしないと決めた。(実際はとても難しいことだけれど)

 恋愛も音楽も一目惚れが全てではない。出会いの瞬間だけではわからないことだってある。時間がかかったとしても、自分にとって大切ならば必ず辿り着く。必ず。決して聞き逃さないよう耳を澄ましていれば、きっとチャイムが鳴っているのが聞こえるはず。どうかこの先も奇跡のチャイムが、素敵な音楽が、たくさん鳴り響く世界でありますように。

retweet

motorcitysoul.jpg
 マティアスとシー・ロックというドイツのベテラン2人組によるモーターシティソウルの新曲。それぞれが長いキャリアを持っているんだけど、それらのなかでも1番この名義が好き。硬質でストイックなビートながらも、不思議と柔らかいジャジーな雰囲気がある。グルーヴとしては典型的なダンス・トラックだし、音もバキバキでひんやりとしているのにすごくオーガニック。たまにオリエンタルな空気を覗かせることさえある。最近こうした剛と柔を両立させたトラックが増えてきたけど、「Ushuaia」は頭ひとつ飛び抜けた出来だと思う。さすがのトラック・メイキング。

 そして、ディートロンによる「Ushuaia」のリミックスも素晴らしい。正直、僕はこっちの方が好きなんだけど、原曲の良い所だけを抽出してよりフロア向けに仕上げている。すごくエモーショナルで、大胆かつ繊細なトラック・メイキングと展開はかなりツボ。クラブでスピンされた日には、ふわふわ体が浮かび上がることになるアンセム。少なくとも、このEP上ではディートロンに軍配が上がるんじゃないでしょうか?
 
 モーターシティソウルの曲にはポップが宿っていると思うし、カスケイドみたいなブレイクをしないかなと密かに思ってる。来年はアルバムもリリースされるようだから、そういう意味でも、まずはこのEPを是非聴いてみてほしい。

retweet

bob_dylan.jpg
 ボブ・ディランの未発表音源をどんどん発掘していく『ザ・ブートレッグ・シリーズ』もこれで第9集。これまでにも、ロック/ポップ・ミュージックの枠を超えてサブ・カルチャー史全体においても貴重な音源がリリースされてきた。66年にアコースティック・ギターからテレキャスターへ持ち替えた瞬間を捉えた第4集『ロイヤル・アルバート・ホール』では、ディランに「ユダ(裏切り者)!」と野次を飛ばす観客の声が聞こえる。「お前こそ嘘つきだ」と答えるディラン。ロビー・ロバートソンの「Get Fuckin' Loud!」を合図に「ライク・ア・ローリング・ストーン」がプレイされる。僕はこんな異様なテンションの演奏を他に聞いたことがない。マーティン・スコセッシが監督したドキュメンタリー『ノー・ディレクション・ホーム』は、そのサウンド・トラックが第7集としてリリースされた。デビュー前(最古のオリジナル録音)から『ブロンド・オン・ブロンド』期までのライヴ音源や別テイク、TVパフォーマンスなどが数多く収められている。

 ボブ・ディランは登場から現在まで、様々なキャラクターを演じてきた。そのキャラクターは、デヴィッド・ボウイの『ジギー・スターダスト』のようにアルバム・コンセプトを伴ったものではなく、その時に影響された音楽や思想、ライフスタイルなどから生まれたものだ。そもそも"ボブ・ディラン"という名前の由来やデビュー期のプロフィール(実家は電器屋なのに「家族はいない」と言っていた)などは、ほとんど自分自身によるでっち上げ。限りなく思いつきに近い。ディランの半生をポップに描いたトッド・ヘインズ監督(『ベルベット・ゴールドマイン』も必見!)の『アイム・ノット・ゼア』では、黒人の少年から女性(ケイト・ブランシェット)までが、ディランを演じている。でも、そこに違和感はない。"ボブ・ディラン"という人物こそが架空のキャラクターかもしれない、そんな解釈が面白い。たった一人で、時には多くの人たちを巻き込みながら進み続ける謎の男。伝承のフォーク・ミュージックからエレクトリック・ロック、ブルース、カントリー、そしてゴスペルまでを飲み込む音楽性。イマジネーションが炸裂する詩情は言うまでもない。音楽ファンはもちろん、デヴィッド・ボウイもビートルズの4人もディランに魅了されてきた。

 この『ザ・ブートレッグ・シリーズ第9集:ザ・ウィットマーク・デモ』は、すべてモノラル録音。1962年から1964年にかけて音楽出版社 M.ウィットマーク&サンズでレコーディングされた47曲(!)を収録している。ちょうどデビュー前から2nd『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』発表の前後。すべての歌がディランのギター1本とブルースハープ、またはピアノだけで演奏されている。「風に吹かれて」「くよくよするなよ」「はげしい雨が降る」「ミスター・タンブリンマン」など、おなじみの歌と初登場となる15曲を収録。他のアーティストへの楽曲提供と自作曲の著作権管理のために、数人のレコーディング・スタッフとディランだけで録音された。まるでディランが目の前にいるみたいにリラックスした歌声が聞こえる。アーティスト契約とアルバム制作を経て、彼自身が"ボブ・ディラン"として歩んでいく自信を深めたのかもしれない。

 1800年代後半から"ティン・パン・アレー"と呼ばれていた音楽業界は、音楽出版社と作曲者、演奏者がそれぞれ分業で音楽を制作していた。やがて50年代にはロックンロールが誕生する。そして60年代初期には全米に波及する公民権運動と共にフォークがブームになる。そんな時代に飲み込まれながら、まさにその時代の寵児となるディラン。彼はアコースティック・ギターとピアノで美しい曲を書いた。そして、たった一人で演奏した。"フォーク/プロテスト・シンガー"として時代を書き換える前に、ここでもひとつの時代に終止符を打ち、未来を描いていたのだ。大げさな言い回しではなく、ボブ・ディランの登場とこのアルバムに収められた歌により、ティンパンアレー方式の音楽ビジネスが終わったという。オリジナル曲を演奏するミュージシャンの台頭により、分業制の音楽制作は静かに終焉を迎えた。

 時代を担わされる重圧は、まだない。いくつものキャラクターを演じ分ける必要もない。まず最初に彼自身が発明した"ボブ・ディラン"になりきること。カッコいいウディ・ガスリーみたいに、たった一人で音楽の旅を始めること。その喜びと自信に満ちあふれた素晴らしい歌がたくさん入っている。ミュージック・シーンを一変させる前に、ミュージック・ビジネスを変革させたドキュメントとしても貴重だと思う。この時、ディランは24歳。世界が彼の歌に耳を奪われる、ほんの少し前の出来事だ。

 1  |  2  |  3  |  4  |  5  |  6  | All pages>