January 2011アーカイブ

retweet

the_bridal_shop.jpg
 スウェーデンのバンドたちが鳴らす音...特に打ち込みの音色などその音自体が、どこかノスタルジアを宿しているような感覚に陥るのは僕だけだろうか。レディオ・デプト然り、クラブ8然り。このブライダル・ショップも、一聴して近い感想をもった。この作品『In Fragments』は 彼らのEPオムニバスに提供された曲で編集された日本デビュー盤である。
 
 1曲目から東洋的なアプローチのストリングスが印象的な「Fragments」、おそらくアルバム中最もポップでニュー・オーダーを彷彿とさせる「Ideal State」、また「While It Slept」で女性ボーカル、アイダの歌声がサンデイズのハリエット嬢に激似なのに少し驚く。この曲に限れば曲調もどこか共通するものがあるような感もある。編集盤でもあるためかアルバムとしては統一感やまとまりに欠ける印象も否めないが、そこを全体にわたって霞みがかったような淡い音響処理がうまく支えている。
 
 今にも消え入りそうな、でも確かに煌めいている音。人生を、価値観を大きく捻じ曲げられるような力をもった1枚ではないだろう。ただ、知らないあいだに心の一部に染み込んでいるような(もしかしたら通り過ぎてしまうかも...)、そんなさりげないエレクトロ・ポップバンドだなと思った。タイトルは『In Fragments』=断片的。なるほど。

retweet

desertshore.jpg
 サンフランシスコを拠点とする3人組のインストバンド、Desertshoreの1stアルバム。バンドの主軸となるフィル・カーニーは、サッドコアやスロウコア周辺の最重要バンドの一つである、Red House PaintersやSun Kil Moonのサポート・ギタリストを務める人物である。それら二つのバンドといえば、フロントマンであるマーク・コゼレクの存在感があまりにも大きい(Sun Kil Moonはマーク・コゼレクのソロ・プロジェクトなので当然ではあるが)。彼の贖罪するようなヴォーカルは強烈すぎる。Desertshoreでは、そういった暗澹とした音楽性は抜け落ち、良い意味でマーク・コゼレクの影を感じさせない。
 
 基本的には、ロウなテンポとギターによる繊細なアルペジオを重ねる、スタンダードなポストロックである。サッドからノスタルジーな方向へシフトしている。ピアノを用いた荘厳な曲や、アコースティック・ギターによるフォーキーな曲(洗練されたSun Kil Moonのようで、非常に良い)も散りばめられているが、ドラムのミキシングの雰囲気がスティーブ・アルビニのそれに酷似しており、アルバムの全体像はやはりポストロック的だ。
 
 ヴォーカルのないRed House Paintersの作品ではなく、一つのバンドとして地に足がついている。この楽器群を背景にコゼレクが唄う姿は、ちょっと想像できない。アンビエント、ポストロック寄りのギターインスト作品として、高いクオリティを誇っていることを断言したい。

retweet

frankie&the_heartstrings_Ungreatful.jpg
 エドウィン・コリンズがプロデュースしたタイトルソング「アングレイトフル」が話題の、Wichitaが送り出すイギリスのサンダーランド出身で5人組のフランキー&ザ・ハートストリングスのミニ・アルバム。今まで出しているシングルはどれも限定の7インチなので、まとめて音源が聴ける盤になっている。タイトル曲に顕著なように荒削りながらも光るものを持つバンドで、80sのポップさも持ち合わせているのが特徴。ザ・ドラムスが好きなら気に入るだろう。5曲目はブライアン・イーノの「ニードルズ・イン・ザ・キャメルズ・アイ」をカヴァーしていて、あまりカヴァーされない曲で新鮮だ。このカバーや歌詞からも「あからさまにスタイリッシュで残忍なほどに文学的」とNMEが絶賛したのも分かる。10月に来日し、11月のエドウィン・コリンズのツアーサポートもしているとのことだが、今作収録のライブテイクからも、今後もライブも含めて期待できる新鋭だし、エドウィンが目をつけたバンドには外れがないので(以前のフランク&ザ・ウォルターズ、ア・ハウスから最近のクリブスやリトル・バーリーまで)フルアルバムを楽しみにしている。

retweet

talons.jpg
 怒涛怒涛怒涛!! アタマ真っ白!! 65daysofstaticの「Await Rescue」を初めて聴いてエレクトリカルな衝撃を全身に浴びた時の様な。デジャヴとはまた違う、全く別物として受け入れざるを得ない性急な感覚。自分の中の閉まっている扉という扉を、急いで全開にしなければと奔走する興奮。突如として現れたイギリスはヘレフォードの6人の若者による濃密な野心、基、野望の塊を音楽にして我々を一網打尽にする。その破壊的衝動性はリスナーに「お前らのそんな音楽観をブチ壊して狂わせてやる!」と言った様な、ともすれば幼稚にも受け取れるようなメッセージを見事なまでに真っ直ぐ届けてくれる。楽曲はポスト・クラシカルを通過したハードコアなインスト・サウンドに他ならない。彼らが結成して間もない頃から注視していたのだが(前身のバンドKitesから改名し、ヴォーカリストを排したのが成り立ち)ちょうど3年前ほどか、マイスペースで初音源を上げた頃は今のこの姿とは違って、エモティヴなアーケード・ファイアにシガー・ロスやエクスプロージョン・イン・ザ・スカイを足した感じで、ともすればモグワイなんて名前が出てくる位のポスト・ロック然としたサウンドを鳴らしていたのだが、その頃から比べてもこの飛躍は完全に大気圏を突破している程の進化なのだ。間違いなく進化だ。メタリックなへヴィ・リフも突発的に飛び出してくるが、それは聴き終えると全てが完璧な作品のピースとして必要不可欠なものとして描かれたものであると感覚出来る。但し、この絶妙な調和は理屈で"計算"されているというよりも感性で"設計"されていると表したい。

 そしてこれはあくまで個人的な感覚だが、国内のネオ・フューネラル・メタル・バンドの夢中夢に欲していたリズムの緩急やサウンド・ヴォリュームの大小によって生まれる波形で生み起こされるグルーヴ感も素晴らしく、加えてマスロック的なアプローチで複雑に刻まれるリズム・ワークにも関わらず身体を動かせる余地を作っているのは驚異の一言である。さらに多様な展開をハイ・スピードで駆け抜け、静かなパートで溜を効かせてバーストと言った安易な展開は先ず無いという彼らの心意気を大きく取り上げ称賛したい。残響レコードが本格的にメジャーなシーンに進出し、世界の攻撃的なポスト・ロックもここ数年で大きく取り沙汰されたが、65daysofstaticの登場以降はここまでセンセーショナルなサウンドを放つバンドはハッキリって居なかったように思う。と言うか、色々音楽をそれなりに聴いてきても忘れさせてしまう程に強烈。ストリングス×2による物悲しげなフレーズや大仰さも嫌味なく説得力があり、今の時代ともリンクしたフレッシュなギターのフレーズが満載で非常にエネルギッシュ。不定形だったバンド・メンバーも現在はガッチリ固定され、やきもきさせながらもようやくアルバム・リリースも実現し、これからの活躍がきっと明るい新星の登場だ!

retweet

Carlinhos_Brown.jpg
―象徴は、それが象徴化するものよりも現実的なものである。シニフィアンはシニフィエに先立ち、それを規定する。(『マルセル・モース論文への序文』レヴィ=ストロース)

 レヴィ=ストロースの『野生の思考』によれば、野生の人々の中に、ブリコルール(ブリコラージュする人)がいる。彼らは日常「何の役にたつか分からないが、きっと何かの役にたつもの」を収集しており、何らかの問題に直面すると、計画されたものではなく、拾ってきた素材、使い回された破片など「ありあわせの物」で解決する。

 ブリコラージュについて考えると、1960年前後に起こったフランスのヌーヴォー・レアリスムにおけるアッサンブラージュとの接合点は見つけることができるのか、つい夢想してしまう。例えば、ジャン・ティンゲリーの廃物機械によるジャンク・アートや、レイモン・アンスのアフィシェ・デシレなどのように、ある一定の体系の中の部分として機能する「概念」ではなく、体系を無視して使われる「記号」としての意味。そこには、既存の文脈からスライドして、"新しい意味が発現した「作品」の無意味さ"が明滅する。ブリコルールは「それ」を道具としての「記号」でしか見ないが、"ディスクールとしてのブリコルール"はいまだ汎的に拡がりを増す。

 今、ポストモダニズムの彼岸では、"「ありあわせの物」で決して意味はないが、存在するものを作るという所作"は実はとても有意義な行為である。そこから、先行された「テクスト」の誤差分を読み解ければ、という文脈は必要になってくるが、カルリーニョス・ブラウンの新作『Diminuto』がまさしくそういった観点を要求されるものになっているのが興味深い。道端で空き缶を叩いていた彼は、トラディショナルなモードに帰一するために、旧態的なモダンネスを帯びた作品(『Adobró』)を並存させながら、音楽としての純度の高い作品(『Diminuto』)を「忍び込ませた」ことで、あらゆるブリコルールがディスクールに回収されるのを堰き止めたとも思えるからだ。

>>>>>>>>>>

 カルリーニョス・ブラウンが出たバイーアという地域は、ブラジル内でも最もアフリカ系移民の多い土地であり、アフリカから伝承された文化も残っている。例えば、「サンバ・ヂ・ホーダ(Samba de Roda)」と呼ばれるダンスはブラジルの文化に対し、最も大きな影響を与えたと言えるかもしれない。これは人々が輪になって歌い、その中に順番に入って踊るというもので、カーニヴァルにおけるダンスの元になったと言われている。そして、バイーアからは優秀なアーティストが輩出されていることでも有名である。ボサノヴァの始祖ジョアン・ジルベルト、サンバ界の大御所であるドリヴァル・カイーミ、トロピカリズモの主軸を占めたカエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジル、ガル・コスタ、マリア・ベターニャなど数多くいる。

 彼はパーカッショニストとして頭角をあらわし、カエターノ・ヴェローゾのアルバムにも参加し、ツアーにも同行するなどして名前をあげていった。また、地元のカンジアルに住む若者たちを集めて、ストリート・パーカッション集団「チンバラーダ」を結成するなど、バイーアという地域の町興しにも積極的に関わる中、1996年に『バイーアの空のもとで(ALFAGAMABETIZADO)』でソロとしてデビューしてからの活躍は目まぐるしいものがあった。例えば、フェルナンダ・アブレウ(FERNANDA ABREU)『Raio X』、カエターノ・ヴェローゾ『Livro』でのゲスト参加、シルヴィア・トーレス(SILVIA TORRES)のアルバム・プロデュース、THE BOOMの宮沢和史氏のセカンド・ソロ・アルバム『Afrosick』での3曲の作詩、演奏、共同プロデュースなどで、彼の名前を見ることができる。加え、ブラジル国内のみならず、欧米でのライヴ活動も行ない、そのライヴ・パフォーマンスの素晴らしさも浸透していった。その流れを経て、伝統とモダンが相克しながらも、高い摩擦の熱量を保った1998年の傑作のセカンド『Omelete Man』に繋がることになる。この作品では、MPBからファンク、サンバ、レゲエといった幅広い音楽要素をウェルメイドなポップネスで纏め上げるのに成功していた。当時は、「あまりに洗練され過ぎている」という声も上がったが、ワールドワイドに打ち出していくにはこれだけの広さを持たないといけないのは、近年のタラフ・ドゥ・ハイドゥークスが体現する大文字の「ジプシー」、ティナリウェンの「砂漠のブルーズ」といった位相と同じで、「ブラジル音楽」というものが決して、イメージの先にあるボサノヴァやMPBのようなものだけではない、ということを逆手に取り、モダナイズをはかった作品だという文脈は踏まえないといけないだろう。その後、2002年にマリーザ・モンチ(MARISA MONTE)と元ムタンチスのアルナルド・アントゥネス(ARNALDO ANTUNES)と組んだトゥリバリスタス(TRIBALISTAS)がブラジル音楽という枠を越えて、世界的にブレイクした。

 ただし、ライヴ・パフォーマンスは別として、近作の彼のソロ・アルバムが決して期待を越えてくるようなものではなかったのが気にかかっていた。個人的に、どうにも精彩が欠けた感じを受けてしまうときもあり、2005年のカンドンブレのビートと地元の人々が歌う声を拾い上げ、音響処理した『Candombless』も発想も内容も悪いものではなかったが、『Omelete Man』にあったようなパッションとインテリジェンスが程好く混ざり合った作品をもう一度、聴きたいと思っているような自分からしたら、歯痒かった。

>>>>>>>>>>

 前作『A Gente Ainda Não Sonhou』から約三年振りに二枚同時にアルバムが出たが、これがなかなか面白いことになっている。

『Adobró』は、エレクトロニクス要素を大胆に取り入れた意欲作になっており、キレのあるパーカッシヴなリズムも活きているが、全体を通底するのは洒脱な空気だ。ブラジルの多彩なビートをよりクリアーに鳴らすことに意識を高めた結果、新しい音響美を手に入れており、嬉しいことに『バイーアの空の下で』、『Omelete Man』にあった生命力もしっかり感じることができる。2010年の9月にリード・シングルとしてリリースされた「Tantinho」は、彼のバイタル溢れる声が女声コーラスの絡みとシャープに刻まれるパーカッシヴなリズムが映えたやわらかな佳曲だったが、アルバム全体の印象としては、よりスペーシーな拡がりを感じさせる。

 片や、『Diminuto』はピアノやギター、弦楽器の音の響きが美しく全編を覆い、アコースティックでオーガニックなサウンドを基調に、ボサノヴァやサンバのリズムの上に言葉遊びのような歌詞と抑制気味の彼のボーカルが乗ってくる静謐な作品だ。派手な意匠もなく、近年の世界のシーンの隆盛の一つであるジャック・ジョンソン、ドノヴァン・フランケンレイターなど程好く肩の力の抜けたシンガーソングライターの作品の持つ緩さと共振する部分もあり、えもいわれぬサウダージ(切なさ)も孕んでいる。ギターとピアノだけの始まりから緩やかに音が増え、鮮やかにサウンド・タペストリーが紡がれてゆく繊細なサンバ「Você Merece Samba」、リオのロック・グループ、オス・パララマス・ド・スセッソ(OS PARALAMAS DO SUCESSO)が参加した「Verdade, uma Ilusão」は白眉と言えるだろう。

 実験的な試みと彼の意欲を鑑みるならば、『Adobró』になる。しかし、カルリーニョス・ブラウンという人の才能のポテンシャルを見せつけるのは『Diminuto』に他ならない。衝撃のデビューから長い旅路を経て、彼がこのような穏やかな成長をしていることが何より頼もしい。

retweet

directorsound.jpg
 イギリス人のニック・パーマーによる、宅録ソロ・プロジェクト、ダイレクターサウンドの2ndフルアルバム。波の音でメロウに始まりつつ、鍵盤楽器やアコースティック・ギター、バンジョー、その他多彩な楽器が鳴る、色彩豊かでトロピカルなインスト作品となっている。アルバムが進むにつれて、次第に陽が沈んでいくようなノスタルジーさも漂わせており、特にアコーディオンの存在は、作品にシネマティックでロマンティックな香りを漂わせている。
 
 晴れた空と青い海というポップなコンセプトを、できるだけ穏やかなテンションで料理している。軽快かつ朴訥で優しいが、どこかポップに振り切れていない。良い意味で、完成に7年の歳月を費やした大作とは思えない、聴きやすいアルバムに仕上がっている。
 
 1stアルバムは、Geographic(パステルズが主宰)からのリリースであったが、本盤は、スウェーデンのtona serenadよりリリース。同レーベルから昨年リリースされた、ミュゼットの『ダートゥム』が比較の対象にされているが(2009年内、私の中では最高の名盤)、ダイレクターサウンドの方がより開放的で、太陽を感じさせるポップさをまとっている(ダートゥムはよりノスタルジー)。ただ、似通った作風のアルバムであるのに、一方は、完成に7年の歳月を費やし、もう一方は、曲名が日付になってしまうほどに即興的で日記的であるというのは、正反対で面白い。

retweet

museum_of_bellas_artes.jpg
 このスウェディッシュ・ガール・ユニット最高。これは7"でリリースされた「Watch The Glow」も収録された新作EP。音はチルウェイヴの文脈で評価されそうな気もするけど、潮流なんて気にしてない感じがツボ。イタロ・ディスコ色が強いエレ・ポップで、ジョルジオ・モロダーの影もチラホラ見えてくる。最先端というわけでもないし、流行に乗ったイヤらしさもない。じゃあ実験的な前衛音楽なのか? というと、そうでもない。たぶん彼女達は音楽的な野心がなくて、「暇つぶしでやってみたら上手くいっちゃった」という空気がぷんぷんする。ある意味今っぽい佇まいです。リンドストロームやロイクソップもそうだけど、北欧系のアーティストは秘境的な音を鳴らすような気がする。今挙げた2つは「どこかへ連れて行ってくれる」けど、この娘達の音楽からは日常のちょっと過激な部分が見えてくる。初めてセックスをした日が青春映画的な場面として飛び込んでくる感覚というか、童貞・処女喪失をした(若しくはする)瞬間に似たような疼きが、自分のピュアな部分を刺激してくれる。「Days Ahead」は、ハッキリしないムズムズとした感情が鳴らされていて、その感情が僕の失われた部分を突いてくる。だからこそ、ここまでピュアな音を鳴らせるのだろう。

retweet

isobe_masafumi.jpg
 例えば恋愛において、長いこと友人関係だった人が恋愛対象に変わる、ということがある。ずっと知り合い程度だった人と時間が経ってから付き合うことになった、ということもある。相手の見方が変わるようなきっかけがあったり、長い時間をかけてその人の良さに気付いたり、様々な偶然やめぐり合わせがあって「ただの友人」や「単なる知り合い」から、いつしか「大切な存在」に変わる...らしい。残念ながらこれまでの経験上そのようなことはなかったので、そんな話を聞いても何のリアリティも感じなかった。が、ついに私にもそんなお相手が現れた。

 その人こそ、イッソンこと磯部正文。出会いは10年以上前になる。ハスキング・ビーの1stから良く知っていたはずで、見に行ったライブやフェスに出演していたり、ゲット・アップ・キッズやジミー・イート・ワールドと共演していたり、当時レコード店で働いていた私は彼らの新譜を漏らさず聴いていたし、見る機会も聴く機会も多くて、本当はとてもとても近くにいた。音楽性が徐々に変化していったことも、メンバーが4人になった時のことも、早くから「エモ」と呼ばれていたことも、日本語の歌詞が増えていったことも、解散後のそれぞれの活動も、とてもよく知っていた。はずなのに、なんとなく近くを通り過ぎながら「単なる知り合い」状態をずっと続けて来た。

 イッソン(と、あえて呼ばせていただきます)の音楽を、ちゃんと、もう一度聴いてみよう、という熱が高まり始めたのが今年のこと。彼がハスキンの後に組んだマーズ・リトミックが活動休止すると知り、いつもなんとなく近くで音楽を鳴らしていた彼がまたひとつの決断をしたことが気にかかっていた。並行してバンドの休止前から不定期的に一人での弾き語りライブを続けていて、会場では宅録したCDを売っていたりと、音楽と離れることなく活動していることに安心もした。けれど、いつでも近くにいるわけじゃないのだ。とにかく彼の歌を聴きに行かなくちゃ。活動の形がどう変わっても、彼の歌う姿を見に行かなくちゃ。日に日にその想いは強くなっていった。

 私にとってそんな絶妙なタイミングでリリースされた本作は、磯部正文ソロ名義での第1作。きっとハスキン後期~マーズ・リトミック、一人弾き語り等々の流れを汲んだ音なのだろうと勝手に想像していたけれど、その予想はまるで的外れで、またそれは嬉しい外れ具合だった。まるでおもちゃ箱を開けたように、ポップでカラフルで前向きでまっすぐ。疾走感溢れる楽曲に彼の声とギターが加われば思わず懐かしさが込み上げるけど、そこへ新しいリズムを土台に、キーボードが重なり、アコギが重なり、歌声は様々に表情を変え、懐かしさだけじゃない「今」の音へと繋がってゆく。しっかりと過去と今が結びついて大きな広がりを持ったサウンドは、「鳴っていることこそが全て」といわんばかりの爽快な気持ちよさがあって、そこには何の思惑も衒いもなくて、彼の音楽を通り過ぎて来てしまった私の長年の後悔も軽く吹き飛ばしてしまった。これまでと違うことをやらなきゃいけないとか、あるいはこれまでと違いすぎることをやっちゃいけないとか、そういうしがらみが一切無く、なにか吹っ切れたようなすがすがしさと、ソロ名義ではあるけれど新しいバンドを思いっきり楽しんでいるようなワクワク感が伝わって来る。「Sound in the glow」や「花の咲く日々に」、「Spontaneous」のサビで聴かせるハイトーンはイッソンそのものだし、2ビートで駆け抜ける「Paper airplane」や「Magic scene」のような曲を待ってた人はきっと多いだろう。加えて英詞が多いことも昔を連想させるけど、歌詞に描かれた空や風や花や鳥たちはいつでもイッソンが歌って来たこと。彼らしい独特の目線と言葉選びはいつだって変わらない。手書きの歌詞カードも。

 プロデューサーを務めたのは元ビート・クルセイダーズ/現モノブライトのヒダカトオル。彼流のポップさを散りばめながらも、前面に打ち出されているのはイッソン節ともいえるメロディーと変わらぬギターサウンド。そこへ、會田茂一(ex.エルマロ/髭(HiGE))、田渕ひさ子(ブラッドサースティー・ブッチャーズ)、原直央(アスパラガス)、中尾憲太郎(ex.ナンバーガール)、戸川琢磨(カムバックマイドーターズ)、有松益男(ポンティアックス)、伊地知潔(アジアンカンフージェネレーション)、柏倉隆史(toe)、恒岡章(キュビズモグラフィコファイヴ)といった現在の日本の音楽シーンに欠かせない個性溢れる面々とバンドサウンドを作り上げていくことで、イッソンらしさと新しさが見事に同居した作品となった。特に印象的なのはキーボード/シンセが自由自在に彩りを添えていること。ほぼ全曲でキーボードを担当しているシモリョーこと下村亮介(シェフクックスミー)は、元々彼の大ファンで終演後にサインをもらいに行くほどだったというから、プラスに作用しないわけがない。(ちなみにソロでライブを行う際のバンド「磯部正文BAND」でもキーボードを担当しており、とにかく嬉しそうにはしゃぎながら演奏してるのが最高です。)

 ハスキング・ビーというバンドがファンやミュージシャンにとても愛されていたこと、今でも彼らの曲を大事に思っている人がたくさんいることをよく知っている。バンドが変化していく時、知らないどこかへ行ってしまうような不安感に駆られることや、好きだったバンドが解散し新しく個々の活動が始まる時、かつての音と似ているものを聴きたくない、けれどかけ離れてしまうのは淋しい、という気持ちがごちゃまぜになることもよく知っている。ハスキンの音楽性は、いわゆる「メロコア」と呼ばれていたものから、テンポを落とし、日本語が増え、叙情的であったり、日本的であったり、時に切なかったり暖かかったり、と変化を遂げていった。その変化の渦中にあった曲「後に跡」が印象的で、私はその曲を幾度となく思い出しては、その大胆な楽曲の変化と言葉遊びのような歌詞の面白さに魅了され、「どう変わったか」よりも「新たな方向性を打ち出したこと」にハスキンというバンドの強い意志みたいなものを感じた。彼らの軌跡はとても実直で不器用にも思えたけれど、それが彼らが愛された最大の理由だとも思っている。きっとあの大きな変化を受け入れられなかったファンもいただろうし、変化の後に好きになったという人もいるだろう。それはどんなバンドにも起こりうることで、変化の前と後に線を引いてしまうのもよくあること。けれど本当は線引きなど出来はしない。いつだって音の中にはその人の全てが、例え隠れていようとも存在している。この作品はイッソンのどの時代も全て入った、「これまで」と「これから」がとても肯定的に結びついた作品だ。「これまで」を隠すことなく盛り込んで、その音全てが「これから」の未来に向いている。だから懐かしくもあり新しくもあり、とてもすがすがしいのだ。

 彼の今の音楽との付き合い方、リスナーとの距離感や信頼関係、「これまで」と「これから」の音楽活動に対する思いを最も象徴している「符思議なチャイム」は、このアルバムの要と言えると思う。この曲は、彼が音楽を生み出す時、符(不)思議なチャイムが鳴っているような気がする、という感覚を歌ったものだ。頭の中に散らばっていた音符が一つに繋がる時、あるいは降ってくるようにメロディが流れる時、チャイムが鳴っているようだと思うのだという。

《キミの手が僕の手に つながったらメロディーが 咲き誇って流れる
キミの目が僕の目に 合わさってラプソディーが 舞い踊って溢れる》

 そう歌い出されるこの曲は、「キミ」が彼の音楽を聴いているリスナーを指すとしても、一緒に音を奏でるメンバーを指すとしても、どちらにしても「キミ」がいなければ音は響かないという、今のイッソンの思いが凝縮されているように思う。音楽を作り出す時に鳴るチャイムは、自分以外の「キミ」にも鳴っていなければ響き合えないことを、一人でやっていくと決めたからこそ強く感じているのではないかと思う。だからこそ過去も今も隔てることなく、鳴らしたい音、鳴らすべき音を奏でているのだろう。思いがけなく素敵な音楽に出会った時、理由も無く何かに惹かれてしまう時、きっとチャイムが鳴っている。そのチャイムが響き合ってこそミラクルは生まれる。それは誰にでも起こりうる奇跡の瞬間。

 熱心に見に行っていたわけではなかったハスキンだけれど、解散ツアー直前のライブを見る機会があった。好きや嫌いとは別のところでハスキンのことは「いいバンド」だと思っていたから、「もうこれが彼らを見る最後か」と思ったら淋しくないわけはなかった。その日イッソンは多くを語らない中で、「いつか、音楽で」と言った。しばしのお別れの挨拶として、さよならの代わりに言われたその言葉を、私はずっとずっと覚えていた。ライブが終わりに向かうにつれ、これほどのいいバンドを見逃してきてしまった後悔が大きくなっていくのを感じながらも、その言葉のおかげでまた会えると思えた。2つのバンドを休止した後、彼は音楽を辞めることも考えたという。私にはあの言葉がずっと残っていたから、そんな選択肢があったなんて驚きだった。でも今こうして、また音楽で出会うことが出来て、あの言葉は本物になった。

 どんなに「もっと早く出会っていれば」「もっと早く好きになっていれば」と思っても、それは違うのだと思う。私にとっては今がタイミングだったのだと思う。まぁ...本当言うとすっごくすっごく悔やんでいるけれど...、でもそれは違うのだ。きっと私にもチャイムが鳴ったのだ。先日のライブでイッソンはハスキンのことを「一生懸命やっていたバンド」と言った。結果的にバンドは解散したけれど、彼にとって今でも大切なのだと、それは私達となんら変わらない気持ちだとわかって嬉しかった。実際にイッソンはハスキンの曲をとても大切に演奏している。それを複雑な思いで聴くファンもいるかもしれない。その気持ちもよくわかる。けれど過去を悔やむのではなく懐かしむだけでなく、そこから今に繋がる音や思いを紡いでいくことで、これから先の未来を素晴らしいものに変えていくことは出来るはずだ。少し先から振り返ったとき、過去は悔やむべきものではなくなっているかもしれない。だから過去を悔やむことはしないと決めた。(実際はとても難しいことだけれど)

 恋愛も音楽も一目惚れが全てではない。出会いの瞬間だけではわからないことだってある。時間がかかったとしても、自分にとって大切ならば必ず辿り着く。必ず。決して聞き逃さないよう耳を澄ましていれば、きっとチャイムが鳴っているのが聞こえるはず。どうかこの先も奇跡のチャイムが、素敵な音楽が、たくさん鳴り響く世界でありますように。

retweet

motorcitysoul.jpg
 マティアスとシー・ロックというドイツのベテラン2人組によるモーターシティソウルの新曲。それぞれが長いキャリアを持っているんだけど、それらのなかでも1番この名義が好き。硬質でストイックなビートながらも、不思議と柔らかいジャジーな雰囲気がある。グルーヴとしては典型的なダンス・トラックだし、音もバキバキでひんやりとしているのにすごくオーガニック。たまにオリエンタルな空気を覗かせることさえある。最近こうした剛と柔を両立させたトラックが増えてきたけど、「Ushuaia」は頭ひとつ飛び抜けた出来だと思う。さすがのトラック・メイキング。

 そして、ディートロンによる「Ushuaia」のリミックスも素晴らしい。正直、僕はこっちの方が好きなんだけど、原曲の良い所だけを抽出してよりフロア向けに仕上げている。すごくエモーショナルで、大胆かつ繊細なトラック・メイキングと展開はかなりツボ。クラブでスピンされた日には、ふわふわ体が浮かび上がることになるアンセム。少なくとも、このEP上ではディートロンに軍配が上がるんじゃないでしょうか?
 
 モーターシティソウルの曲にはポップが宿っていると思うし、カスケイドみたいなブレイクをしないかなと密かに思ってる。来年はアルバムもリリースされるようだから、そういう意味でも、まずはこのEPを是非聴いてみてほしい。

retweet

bob_dylan.jpg
 ボブ・ディランの未発表音源をどんどん発掘していく『ザ・ブートレッグ・シリーズ』もこれで第9集。これまでにも、ロック/ポップ・ミュージックの枠を超えてサブ・カルチャー史全体においても貴重な音源がリリースされてきた。66年にアコースティック・ギターからテレキャスターへ持ち替えた瞬間を捉えた第4集『ロイヤル・アルバート・ホール』では、ディランに「ユダ(裏切り者)!」と野次を飛ばす観客の声が聞こえる。「お前こそ嘘つきだ」と答えるディラン。ロビー・ロバートソンの「Get Fuckin' Loud!」を合図に「ライク・ア・ローリング・ストーン」がプレイされる。僕はこんな異様なテンションの演奏を他に聞いたことがない。マーティン・スコセッシが監督したドキュメンタリー『ノー・ディレクション・ホーム』は、そのサウンド・トラックが第7集としてリリースされた。デビュー前(最古のオリジナル録音)から『ブロンド・オン・ブロンド』期までのライヴ音源や別テイク、TVパフォーマンスなどが数多く収められている。

 ボブ・ディランは登場から現在まで、様々なキャラクターを演じてきた。そのキャラクターは、デヴィッド・ボウイの『ジギー・スターダスト』のようにアルバム・コンセプトを伴ったものではなく、その時に影響された音楽や思想、ライフスタイルなどから生まれたものだ。そもそも"ボブ・ディラン"という名前の由来やデビュー期のプロフィール(実家は電器屋なのに「家族はいない」と言っていた)などは、ほとんど自分自身によるでっち上げ。限りなく思いつきに近い。ディランの半生をポップに描いたトッド・ヘインズ監督(『ベルベット・ゴールドマイン』も必見!)の『アイム・ノット・ゼア』では、黒人の少年から女性(ケイト・ブランシェット)までが、ディランを演じている。でも、そこに違和感はない。"ボブ・ディラン"という人物こそが架空のキャラクターかもしれない、そんな解釈が面白い。たった一人で、時には多くの人たちを巻き込みながら進み続ける謎の男。伝承のフォーク・ミュージックからエレクトリック・ロック、ブルース、カントリー、そしてゴスペルまでを飲み込む音楽性。イマジネーションが炸裂する詩情は言うまでもない。音楽ファンはもちろん、デヴィッド・ボウイもビートルズの4人もディランに魅了されてきた。

 この『ザ・ブートレッグ・シリーズ第9集:ザ・ウィットマーク・デモ』は、すべてモノラル録音。1962年から1964年にかけて音楽出版社 M.ウィットマーク&サンズでレコーディングされた47曲(!)を収録している。ちょうどデビュー前から2nd『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』発表の前後。すべての歌がディランのギター1本とブルースハープ、またはピアノだけで演奏されている。「風に吹かれて」「くよくよするなよ」「はげしい雨が降る」「ミスター・タンブリンマン」など、おなじみの歌と初登場となる15曲を収録。他のアーティストへの楽曲提供と自作曲の著作権管理のために、数人のレコーディング・スタッフとディランだけで録音された。まるでディランが目の前にいるみたいにリラックスした歌声が聞こえる。アーティスト契約とアルバム制作を経て、彼自身が"ボブ・ディラン"として歩んでいく自信を深めたのかもしれない。

 1800年代後半から"ティン・パン・アレー"と呼ばれていた音楽業界は、音楽出版社と作曲者、演奏者がそれぞれ分業で音楽を制作していた。やがて50年代にはロックンロールが誕生する。そして60年代初期には全米に波及する公民権運動と共にフォークがブームになる。そんな時代に飲み込まれながら、まさにその時代の寵児となるディラン。彼はアコースティック・ギターとピアノで美しい曲を書いた。そして、たった一人で演奏した。"フォーク/プロテスト・シンガー"として時代を書き換える前に、ここでもひとつの時代に終止符を打ち、未来を描いていたのだ。大げさな言い回しではなく、ボブ・ディランの登場とこのアルバムに収められた歌により、ティンパンアレー方式の音楽ビジネスが終わったという。オリジナル曲を演奏するミュージシャンの台頭により、分業制の音楽制作は静かに終焉を迎えた。

 時代を担わされる重圧は、まだない。いくつものキャラクターを演じ分ける必要もない。まず最初に彼自身が発明した"ボブ・ディラン"になりきること。カッコいいウディ・ガスリーみたいに、たった一人で音楽の旅を始めること。その喜びと自信に満ちあふれた素晴らしい歌がたくさん入っている。ミュージック・シーンを一変させる前に、ミュージック・ビジネスを変革させたドキュメントとしても貴重だと思う。この時、ディランは24歳。世界が彼の歌に耳を奪われる、ほんの少し前の出来事だ。

 1  |  2  |  3  |  4  |  5  |  6  | All pages