January 2011アーカイブ

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 東京大学社会科学研究所で2005年度から進められている希望学プロジェクトというものにどうも個人的に首肯できない部分がある。例えば、玄田有史氏の「これまでの経済において希望は前提だった」、「今の若い人たちの問題などを考えると、希望があるという前提自体が崩れているように見える」というポイント自体には問題はないし、その通りだと思う。しかし、希望を社会の文脈で捉える中で、誰もの"個別な体験"をフレームとして希望内で括ると、個々の自由度や不安度の測量を曖昧にしてしまうところがあり、希望という大文字を修整した上で、一般論に落とし込む際の強引さがある。勿論、グローバリゼーションが進捗し、砂粒化した個々が艱難に生きることを要求されるこの世において、希望の質に関して議論するのは意味があることとは思うが、そのような抽象論では追いつかないくらい、現実は押し迫っているという側面もあり、その細部への降下、目配せが行き届かない点が気になってしまう。

 もはや、「希望的な何か」が失われてきているという憂慮は当たり前であり、今更、識者に語られるまでもなく、共通だった「通気孔」や「言語」がなくなり、誰もが息詰まることが増えた。だからこそ、構造論として上部から下部へと流れる空気は澱み、滞った結果として、スラヴォイ・ジジェクが今、装置化された近代的暴力への批判を積極的に行うことになったという所作は繋がる。それでも、ジジェクも指摘するように、主観的な暴力と"真正面"で向き合うと、自分自身がそこからの避難の意志を示そうが、その現象自体を生み出す「システム」としての暴力に関与している者たちの偽善にも「連結」されるという葛藤も発生してしまう。"希望的な何かの欠如の欠如"を補填するための導線付けは現代だと非常に困難であるというコンテクストも踏まえないといけない。

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 そんな中、ロンドンから現れた21歳の気鋭、ジェームズ・ブレイク(JAMES BLAKE)は"希望的な何かの欠如の欠如"に対して向き合った象徴的なサウンド・メイカーと言える。マシュー・ハーバートの「One」シリーズでもそうだが、大文字の物語と神話化の解体が積極的に行われるようになり、島宇宙化が進んだシーンにおいて、現前する音楽("音"自体の"楽"しみ)に無邪気にフォーカスを当てるという行為が逆説的に政治的だというのを示したからだ。

 現代のジャン・ジュネとでも言えるだろうか、「剽窃」に対する行為を敬虔なものではなく、造作なく取り入れる貪欲さの背景にあるセンシティヴなまでに現代に依拠するセンスは新しく、それでいて、アンチ・ヒロイズムの空気感さえあり、クールなところも似ている。しかし、その「新しさ」を語る言葉を持つ人が極端に少なかったのも事実で、YouTube、Facebook、口コミ、フロアーを通じて、増殖してゆく評価はグローバリゼーションが仕掛けた情報の均質化に対して差異ベースの企図が予め含まれているようで、興味深かった。個人的にも、例えば、全世界のクラブ・シーンでパワースピンされた「Cmyk」など、いまだによく「分からない」曲でもあるのは確かだ。隙間を活かしたサウンド・ワーク、ダブステップが帯びるメランコリアとロマンティシズムを承継しながらも、別種のエレガンスの属性、また、IDMに近い観念的な音とも捉えることもできること―。但し、そこで「素材」にされるのはアメリカのヒップなR&Bであり、アリーヤやケリスの「声」がいつかのアクフェンのような所作で「解体」されているという捌き方は新しいと言えばいいのか、どうなのか、分からない。それでも、この曲がもたらす昂揚感は大きかった。ジュネに関してもサルトルやコクトーに代表される救済の手が差し伸べられ、多くの言葉が費やされたが、どれも彼の核心を精確には射抜けなかったように、ジェームズ・ブレイクもジャイルス・ピーターソン、ピッチフォーク辺りから過度の期待が寄せられ、フック・アップがはかられたが、まるでそのテクストや評価とは別物というかのように、シングル毎に展開される音世界はより実験性を強めていきながら、独自の音世界を創造しているのは周知だろう。

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 来年に控えるというデビュー・フル・アルバムに向けて、先行となる10インチ・ヴァイナル・シングル「Limit To Your Love」では、馴染み易いポップな曲に「している」。この曲は、2007年にファイストがリリースしたセカンド・アルバム『The Reminder』に収録された曲のカヴァーだが、オリジナル曲にもあった清冽で静謐な美しさは保持されながらも、彼特有のウイットに富んだ解釈がなされている。ピアノの旋律が美しく響きながら、沈み込むようなトーンはまるでポーティスヘッド『Dummy』やトリッキー『Maxinquaye』辺りの作品が持っていたシリアスで深みのある音像を彷彿とさせる。そして、その低音とダークな美しさはダブステップの次を見渡すような「何か」を秘めている要素も伺える。とはいえど、そのような切実さと重さに注視するよりもまずはこの音自体が持つ政治性と強度に感応すべきだと思う。何より、「今、ここ」で鳴っている音という意味において、批評的な作品でもあるからだ。

 今年のビート・ミュージックの極北でもあったフライング・ロータスがビートのビット数を上げた傍で、ジェームズ・ブレイクはR&B、ヒップホップ、ジャズ、ファンクまでをメタに折衷させ、"揺らぎ"を加える。その"揺らぎ"の中にクラウドが踊ることができるスペースが用意されるというのは美しく、勇気の出る事柄だった。彼の作る音には、トゥーマッチな叙情性もドラマティック性もなく、どちらかというと、ストイックでもあるが、そのストイシズムが突き詰められた美意識からは針の穴ほどの希望的な何かを視ることができる。

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 1982年のSF映画『トロン』。電脳世界を描いた、ある意味早すぎるプロットの導入で知られている。ちなみに数年後に制作された円谷プロの特撮テレビ番組『グリッドマン』のアイディア/基本プロットの源流とも思われるのだが、『グリッドマン』でさえ「時代の先を行きすぎていた」ものだけに、『トロン』がいかに「早すぎた」か、わかってもらえるだろう(ただ、『トロン』もマイナーだけど『グリッドマン』もマイナーだからなあ:笑)。インターネットが普通のものとなった...30年前にはSFの世界でしかありえなかった世界が現実となった今、かつては「B級」の一言で片づけられていたその映画の28年ぶりの続編『トロン:レガシー』を、ディズニーが制作することも、まあうなずける行為だ。

 特撮ファンである筆者は是非見たい映画であるけれど、まだ行けずにいる。そんな自分がなぜこのサウンドトラック盤のレヴューを? といえば、大好きなダフト・パンクが音楽を担当しているから。

 ストリングスなどをポップに大量導入していた『Discovery』(2001年)から、次作の『Human After All』(2005年)では一転してエレクトロニック・ミュージックの骨格のみというパンキッシュな作風にふれただけに、当然ストリングスが大量導入されるであろうサウンドトラック盤がどのようなものになるのか? どきどきしつつ購入し、聴いてみた。

 結果から言えば、その期待が裏切られることはなかった。聴きこむうちにおもしろさがつのる...にしても、やはり「サウンドトラック盤」の域は超えていないというか、彼らの「(ダフト・)パンク」な部分にとりわけ興味をひかれる筆者としては、正直肩すかしを食らった気分ではある。

 『Discovery』の最も深い部分にあるコンセプトにのっとって松本零士をフィーチャー、『インターステラ5555』を作った(それについては、クッキーシーン・ムック第一弾にも掲載したインタヴュー原稿でくわしくふれたので、どうかご参照いただければ、と...)という地点から、「音楽と他メディアの関係」については少々後退してしまったようだ。いや、だから「ああ、サウンドトラックだな...」という作品になっているということは、「映像と混ざれば素晴らしいだろうな...」「映像がほしい(映像が見たい)」と感じてしまったわけであり、音楽が「負けて」いる? いや彼らは「やるべきこと」をきっちりと、それも並ではないクオリティーでやった。文句を言われる筋合いはない、とは思うけど(笑)。

 ダフト・パンクは仕事...宿題(彼らの1997年のデビュー・アルバムのタイトルが『Homework』だったことを思いだす...)をやりとげた。この『Tron: Legacy』の展開で、次のオリジナル・アルバムがますます楽しみになったことは間違いない。

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 正直言うと、最初は神聖かまってちゃんに興味はなかった。もっと言うと好きではなかった。大昔に(と言ったら偏屈なパンクスに怒られそうだが)セックス・ピストルズがやった、「ノー」を突きつけ未来をこじ開けようとしたことのクリシェにしか見えなかったからだ。現在の複雑な時代において、ピストルズを「まんま」演じているかのような姿には吐き気がしたし、初期マニックスのような計算されたセンセーショナリズムも見られなかった。しかし、インタヴューやライヴを追いかけていくうちに、神聖かまってちゃんに対する僕の見方は変わっていった。ただの駄々っ子にしか見えなかったの子の言動に見え隠れする批評精神や知性。発言や歌詞で発露される真面目さ。様々なイメージや装飾を取り払い神聖かまってちゃんそのものに焦点を当てたとき、正統派なロックンロール・ヒーローの系譜に連なるの子の姿が現れた。

『つまんね』『みんな死ね』を聴いていると、本当に心の底からの言葉を歌っているんだなと感じる。この世界を生きるうえでのイライラや劣等感を「真っ直ぐな皮肉」という言語感覚でもって、ポジティブで溌剌としたエネルギーに変換されているのには驚いた。たぶんこの言語感覚は同世代でないと理解しづらいものだし、決して誰もが分かり合えるというものではない。でも、神聖かまってちゃんの目的は同時代性を歌うことにあるわけだから、寧ろ多くの上の世代に渋い顔で素通りされるほうが嬉しいのかも知れない。

 だが、『つまんね』の厄介なところはどこまでも「かまってちゃん」なところである。『つまんね』は「チルウェイヴ?」と思ってしまうような目配せすら感じるポップな1枚となっている。の子もソングライターとして優れた能力と魅力を発揮していて、その魅力を生かした曲の構成もよくできているし、演奏もメンバー全員バンドとしてのグルーヴを意識しているかのような一体感もある。僕はどんなに時代とマッチしていたとしても、音そのものがつまらなかったら興味が持てないのだけど(神聖かまってちゃんが好きじゃなかった一因もこれにある)、アルバム全体に試行錯誤の跡が見られる。そして、この試行錯誤に「かまってちゃん」としての本音が表れているから厄介なのだ。『つまんね』『みんな死ね』というタイトルは、聴く者に唾を吐きかけるためのものではない。『つまんね』の後には「だろ?」という言葉が続く。つまり、神聖かまってちゃんはコミュニケーションを求めている。そのコミュニケーションの相手は、この世界に生きるすべての人々だ。『つまんね』を聴き終えたとき、僕は「何が?」と答えた。すると、僕の中で歯車が噛み合う音がした。「つまんね」と呟きながらも、神聖かまってちゃんの音に心が揺さぶられる僕が居たのだ。

《なるべく楽しいフリをするさ誰だって / 憂鬱になると気づけば誰もいないんだ》(美ちなる方へ)

 このフレーズは見事にロックの本質を言い当てている。ロックとは虚構である。その虚構の積み重ねによって、「現実」を抉り出すのがロックなのだ。そういう意味では、今もっともロックな存在なのは神聖かまってちゃんであるのは間違いない。もちろん、こうした姿勢を維持したまま神聖かまってちゃんとして活動していくのは厳しいかも知れない。ピストルズは消滅してしまったし、マニックスはリッチーという尊い犠牲を払った。「リスク・コミュニケーション」というのは大きな力をもたらしてくれるが、欺瞞がない分とても傷つきやすい。だから僕は、常にこの言葉を問いかけながら神聖かまってちゃんを応援していきたい。

「お前ら生き抜く覚悟あんのかよ?」

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『つまんね』『みんな死ね』は、どちらも神聖かまってちゃんの「今」と「本音」がしっかり刻み込まれているアルバムだ。本当なら、2枚を抱き合わせ2枚組としてリリースすべきだったと思う。まあ、結果的にインディだろうがメジャーだろうが変わらないということを示しているからいいけど。 

『みんな死ね』というタイトルは、「死んだように生きるくらいなら死んでしまえ」ということだと思う。でなければ、《さんざんな目にあっても、忘れ方を知らなくても、僕は行くのだ》(怒鳴るゆめ)と歌うような曲を『みんな死ね』なんていう名のアルバムに入れる必要はない。そして、「死んだように生きるくらいなら死んでしまえ」という言葉は神聖かまってちゃん自身にも向けられている。 

《僕だけどあたしもいる、嫌われても人間らしく、素直に今を歌いたいのです》(自分らしく) 

 神聖かまってちゃんは、「死なないため」にロックを鳴らした。だが、「死なないため」のロックがバンド自身だけではなく人々に「生きるため」のアンセムとして広まったとき、神聖かまってちゃんは人々に覚悟を見せなければいけなくなった。『みんな死ね』には、そんな覚悟が垣間見れる。行き過ぎた言葉の表現に隠れがちだけど、神聖かまってちゃんが言いたいことは「生きさせろ」というすごくシンプルなことだ。『みんな死ね』というタイトルには、「みんな死んだとしても俺達は生きてやる!」という意味があって、聴いてると刹那的なものではなく「未来」を感じるのもだからだと思う。「僕のブルース」は自暴自棄な歌詞だけど、これは誰もが遭遇する「すべてを投げ出してしまいたい」という瞬間をの子なりに表現しただけ。「自殺する日も近いと思うから」というフレーズだけを切り取って、「過激で物騒なアルバム」なんて評する人もいるだろうけど、アルバム全体で聴くとポジティブな印象を抱くはず。ただ、このアルバムをポジティブなものとして受け取るには条件がある。それはリスナーの「依存」だ。神聖かまってちゃんがリスナーに「依存」を求めるのは、自分達だけでは「弱い」と認識しているからで、「弱い」と認識できる強さがゆえに『みんな死ね』という言葉が輝くのだ。

『つまんね』『みんな死ね』というのは、神聖かまってちゃんが未来を考えるうえでの自問自答の末に生まれたものだと思う。『つまんね』は自分達に「お前ら生き抜く覚悟あんのかよ?」と問いかけるアルバムだとしたら、『みんな死ね』は自分達に対する返答だ。だけど、決して内省的になっていないのは、その自問自答をロックというエンターテイメントとして発信しているからだ。そしてなぜロックを選んだのかというと、神聖かまってちゃんはロックの力を(というか音楽の力を)信じているからだと思う。時代を切り取る際に発揮される鋭い批評眼とは裏腹に、その批評眼によって見つけた膿に立ち向かう方法は感情的でロマンティックなものだ。こういった観念先行型の行動パターンは具体的な事実から離れやすいものだし、抽象度が上がって伝わりにくくなることもあるけれど、我慢できずに頭の中の考えを吐き出してしまうの子には軽いシンパシーを覚えてしまう。正直、まだ「事件としての神聖かまってちゃん」からは完全に脱皮しているとは言えないが、僕はクラッシュのような存在になる気がする。アティチュードとしてのパンクを抱きつつ、音楽的な進化をしていくようなバンド。『みんな死ね』は、神聖かまってちゃんが未来への扉を抉じ開けたことを証明する感動的なアルバム。

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<希望と絶望>

 エドウィン・コリンズは、ずっと聴いてきて個人的にもとても大事なアーティストだ。そのせいか脳溢血から本格的に復帰した今作のレビューを書くのも、いろいろ思いがありすぎて書くのに時間がかかってしまった(某ネオアコ/ギターポップのBBSでのハンドル名を'Edwyn'にしていたこともある)。

 エドウィン・コリンズ(以下、エドウィン)との出会いは、リアルタイムで聴いたオレンジ・ジュースのセカンドからだ。当時、「シティロード」の音楽欄でオススメ盤の大枠で取り上げられていたのが聴くきっかけだった。同世代的な歌詞として意識したアーティストのかなり始めの一つだった。《世界は君の敵じゃない》(「Hokoyo」)など、印象に残る歌詞がいくつもあった。その後、すぐにファーストは馬場の中古レコード屋のタイムで輸入盤の中古を買った(音源で買ったり、アマゾンで買ったりしている今の人は、こういう買ったお店の記憶もないのに今気付いた)。このファーストは聴いた当初と変わらぬ新鮮な音楽で、今も聴きつづけている。その後のミニアルバムとラストのサード(フールズ・メイトの伊藤英嗣さんのレビューが買うきっかけだった)もリアルタイムで輸入盤で買った。
 
 ソロでは、ファーストは特に愛聴している。タイトルトラックの「Hope & Despair」で《You were offered hope. But you chose despair.》と歌われているが、仕事としての映画や音楽をやめていった友人や仲間を思い出す。このことに関連して書くと、今年2010年は10年というキリのいい年だからだけでなく、「今年何をしたかで今後数年が決まる。同じことをやっていたら漸次下がっていくだろうし、新たに何かを始めたり、きちっと結果を出したことは起点になるだろう」と近しい人には言っていた。それぐらいのメディアや人の気持ちの転換点になると、どこか肌で感じていた。
 
 だからこそ、このエドウィンの復活は象徴的だったし、今作を聴いてエドウィンの正直さに改めて気付いた。いや、今まであまり歌われていない一歩踏み込んだ感情を表現していると言ってもいいかもしれない。冒頭のタイトルトラックの「Losing Sleep」で《眠れない/自分にはなんの価値もないような気がしてくる/恩義を感じるものすべてが目の前に並んでいる/それがぼくを落ちこませる》と歌いながら《信じたほうがいい/取りもどすべきだ/自分が知っているものを/正しいと思うものを/大切だと感じるものを/必要なものを/それが欠けている/ぼくの人生には》と前向きな固い決意を歌う。そう、本能的に必要と思うものを掴みとるべきなのだ。諦めかけている人が、こちらの周りにも何人かいるが今こそやりたいことをやるべき時で、今することが如実に今後につながってくるのだから。
 
 次の曲「What Is My Role?」では《あまりに考えすぎたら 自分にはなにも似合わないような気分になってしまう/わかってる ぼくらは「悩むことそれ自体」のために悩んでいるんだ》と生きる不安を吐露する。でも、これらの曲は驚くほどアッパーでシンプルなチューンだ。後遺症でギターは弾けなくなったが、再び歌う喜びをリトル・バーリー、クリブス、マジック・ナンバーズ、フランツ・フェルディナンドのメンバーやポール・クック、ロディ・フレイムなどの仲間と演奏する。最新号の「Uncut」のインタビューでも、エドウィンは「今は希望と喜びに満ちている。後ろ向きな人生観から脱け出したんだ。今作はオレンジ・ジュースのファーストのようだと感じている」と語っている。そして、同じインタビューで奥さんのグレイス・マクスウェルは「入院しているときは本当に暗い気分だった。他の入院患者の命がわたしたちの周りにあるようだった」、その返答で「本当につらかった」とエドウィンは答えている。これらのことはYouTubeにもアップされているエドウィンの闘病記のドキュメンタリー「Edwyn Collins - Home again」を見れば分かる。
 
 上記と同じく「Uncut」誌の今年の号の回顧インタビューでオレンジ・ジュースのサードを作るときに、どれだけ新しいことをしようとしていて、それまでの自分たちのアルバムのアイデアがヘアカット100やブルーベルズに盗まれているかを辛辣に話していて、当時、情報のあまり入ってこない日本では、同じような音楽として楽しんでいた身としては驚かされたが、それぐらい道を切り開いてきた自負があるのだとも強く感じた(そのことは今年、ドミノから出たオレンジ・ジュースのボックス『Coals To Newcastle』を聴いてもよく分かる)。
 
 アルバム最後の曲(ボーナストラックを除く)である「Searching For The Truth」のカントリーミュージックのテイストにOJのセカンドのラストの曲「Tenderhook」に通じるものを感じ、とても嬉しくも思った。

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 カニエ・ウェストが負った亡き母親と別離した当時の恋人への痛みを隠すためにオートチューンで「歌いまくった」センチメンタルな08年の『808s & Heartbreak』において、彼のエゴ・オリエンティッドな要素(新作では見事に露悪的なまでにそれに回帰したが)はE.H.エリクソンの言うアイデンティティの拡散意識に依拠していた部分があった。あらゆるアイデンティティへの同一化を拒否して、敢えてアイデンティティ拡散の状況を選び守り、モラトリアム的なエゴに無期限にとどまろうとする所作。三部作できっちり大学を「卒業」したはずの彼はやはり、まだ宙ぶらりんな自我同一性を持っていた訳であり、それが形成される途中で実験的同一化を統合していく社会的遊びが阻害されて、社会的な自己定義を確立することが出来ないという状態が露呈したからこそ、あの作品は多くの人たちの心を素直に打った。

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 そのアルバムにも客演していたキッド・カディの09年の作品『Man On The Moon:The End Of Moon』における多彩なエレクトロ・サウンドをベースにしたスペイシーで浮遊感のあるトラックの上で歌うようなラップのような、また、どっちともつかない鼻歌的な歌唱法で言葉を乗せてゆくスタイルは当のカニエ自身に大きく影響も与えたことだろうし、カニエのレーベルから出たとはいえ、カニエは彼の存在にかなり引っ張られた形で『808s & Heartbreak』を作った背景は想像に難くない。また、メランコリアの強さも彼の特徴だったが、更に突き詰められた形でセカンドのこの作品『Man On The Moon 2: The Legend Of Mr. Rager』に繋がる。彼自身が「今までで作ってきた中でもっとも暗い作品」と言うのも頷ける重みのある作品になっている。

 ストリングスやギターを用いながらも、基本は前作の延長線上のエレクトロニクスを駆使し、巧みなサンプリングのセンスを活かしたサウンド・ワークもかなり「締まった」ものになっており、尚且つ、《はじめからひとりになる定めだったのさ》など翳りのあるフレーズが要所にある。ダークな通奏低音が貫かれた結果、ヒップホップの持つパーティー、マチズモ、エゴ・オリエンティッド、拝金性といった要素群よりもっとロック・コンシャスな疎外感やドラッグ(「マリファナ」という曲もある)にフォーカスをあてたオルタナティヴな作品になったのは興味深い。

 また、以前に彼が麻薬所持で捕まったとき、「俺は黒人が27歳で死ぬと知っている。俺は今26歳だが、その歳まで生き延びることを約束する。」と言っていた事も自然と作品の後景に浮かぶ(ちなみに、彼は来年の一月で27歳になる)。「27歳」にこだわっているのはいかにも"彼らしい"感覚だろう。27歳で亡くなったロック・アーティストに、ジム・モリソン、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ブライアン・ジョーンズ、カート・コバーンと居るように、「鬼門の年齢」でもあるからだ。

 カニエ・ウェストが客演したロック・チューン「Erase Me」のPVにおけるジミ・ヘンドリックス、酒や女性といったモティーフに溢れる典型的なロック・ストーリーのパスティーシュからしても、「27歳」を意識している面がこのアルバムにも散見しており、自信に溢れていた男がドラッグに耽溺してゆく過程で「独り」になってしまうという繊細なナラティヴをシーロー、メアリー・J・ブライジ、セイント・ヴィンセントなど多彩な客演で丁寧に紡いでいる。しかし、ドープで重厚な作品でもなく、キッド・カディという人が現今のヒップホップ・シーンで如何に「異端」な場所に居るのかを証左する作品にもなっている。その「異端さ」とは「内側への遠心力」に準拠する。(自意識の)内側への遠心力によるエネルギー変換装置としてのシフト・ポイント、つまり、高次元のエネルギーが収斂する場所というのは、想念の位相の間の結合する場所であり、それは中心でありながらも、「空(から)」であり、そこからエネルギー変換されることで、ある種の「かたち」として発現するようになり、それをしてこの作品内の別人格「Mr.Rager」と名付けることができる。つまり、その発現のあり方が「空」としての「中心へ投げ出される」ということで、そこでこそ、この作品のダイナミクスは視える。

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 最後に、確認しておくと、前作にあった浮遊感と無邪気な要素が極端に減り、彼のヒポコンデリーがより深く刻まれていることが感じやすいように、エレクトロニカのような不規則で不穏なビート、自棄気味な70年代のビッグ・ロックのようなサウンド、ダヴィーで沈んでゆくようなトラックといったサウンド・メイキングと陰鬱なリリック、「マン・オン・ザ・ムーン」という前作から地続きのコンセプトがリプレゼントするのは実はそのままの「等身大の暗さ」ではない。彼自身の抱える切実な、しかし、届くかわからない想いのこもった宛名のない手紙を、郵便箱に投函する行為の表れでもあり、そういう意味では周到な孤独主義者なのかもしれないという要素もある点は留意が必要だろう。そうでないと、このモダンでクールなサウンド・ワークが示す「空っぽさ」は説明出来ないからだ。

 ここで呈示される世界観もまた、厳然たるリアリティーに立脚した「捩れたファンタジー」でもあるとしたならば、蓋然的なのか、カニエ・ウェストの『My Beautiful Dark Twisted Fantasy』とコインの裏表のような作品に"なってしまった"気もする。

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 「お祈りなさい 病気のひとよ--ああこのまつ黒な憂鬱の闇の中で/おそろしい暗闇の中で--ああ なんといふはげしく陰鬱なる感情のけいれんよ」(萩原朔太郎『青猫』より「黒い風琴」抜粋)

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 思えば00年代的な「浮遊の時代」にフィットしたのが「空を飛ぶような」、ネオ・サイケデリアの運ぶユーフォリアだったとしたならば、10年代に入って「波へ乗りに」出て行ったユース達はでは今、何処に居るのだろうかと周囲に目を遣ると、「パーティーの喧噪」を遠目に見送って(Glo-Fi/ Chillwave)、彼らはどうも「祖父の」すすけた(Grimy)地下室で神経質なダンスを踊っているようだ。

 人間は自身が不安定な状況下にはノスタルジアを求めるきらいがあるそうだが(事実、911以降のアメリカではベティ・ホワイトといった往年の俳優が度々フィーチャーされていた)、インディ・レーベルに於いて少しずつ浸透しつつある、生産量が頭打ちされたバイナル盤限定というリリース形態を見る限り、前述した陳腐な比喩も強ち全くの見当はずれというわけでもないように思える。

 漆黒のオフビートに乗る沸点の低いベース、不明瞭な人間の呟き。叫喚のようなエフェクトを掛けられて唸るギター、クラップの音--そんな不安を煽るように、「神経症の子供」があやされる訳なのである。

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「今回のアルバムでは単純なリフか、或いはキーボードのループから始めて--そう、各要素を小さく限定して、それを可能な限りエクスパンデットするようにしたんだ。」--ラオス語でゼロを表す"suun"を冠したサンズはカナダはモントリオール出身の4人組のバンドであり、本作は彼らのデビュー・アルバムに当たる。

 スロッピング・グリッスル直系、フロント・ライン・アッセンブリー、スキニー・パピー然としたアグレッシブで隙間の無いビートにボディ・ミュージックの要素を挿みつつ、数々のアートロック、或いは同郷モントリオールのミニマル音楽から影響を受けたという彼らの音楽は、そのアプローチはトータル・セリエズムを踏襲しつつ十二音技法的な無調の音楽と繰り返しの否定からの「音楽/非=音楽」に関するコンフリクトから「作品」と対峙した例のノイズ・ミュージックの鱗片も感じさせるからして、なるほど洞窟を蝋燭の明かりを便りに彷徨するようなある種独特の空気感が認められる。--「例えば...「Pie Ⅸ」という曲は同じことを何度も何度も繰り返すんだけど、でもリピートの中に少しずつ要素を加えていって、緊張感を保つようにしたんだ」(Ben Shemie/ Vo)

 ブレイクグラス・スタジオのジェイス・ラセックを共同プロデューサーに迎え、『Zeroes QC』で彼らは、USインディらしい「如何にも」ヘイト・アシュベリー然としたアシッド・ロックから、「ロマンティックな」フロア対応のダンサブルなシンセポップ(「Arena」)、そして或いは、しばしば「スコール」と称される深く歪ませたギターの創出するフロウティングな空間に「俯き加減の」ロウファイなダーク・ポップといったジャンルの「可能性」を示唆しつつ、一つ一つスロウに躱して行く。

「君は君自身になっちゃいけない/君は君じゃない、他の誰かなんだから」(「Gaze」)、「君は自分自身のことがわからないのかい?」(「Organ Blues」)―そう、この「不穏な」エレクトロ・トラックは「ゆっくりと滴る血液」のように、明確に呪詛的な狙いを以て展開されるのだが、これらの迂闊に「迷い込ん」だ意識を攪乱させるような曲群は或いは、ガントレット・ヘアー(Gauntlet Hair)、WU LYFといった気鋭のインダストリアル勢との共振さえも確認することが出来るのだ。

 付則すると、配信元であるシークレットリー・カナディアン(Secretly Canadian)は1996年発足のインディアナのレーベルで、アニマル・コレクティヴ、イェイセイヤー、アントニー・アンド・ザ・ジョンソンズの新譜などがまだ記憶に新しいと思うが、この辺りは現在アリエル・ピンク、リアル・エステイトらのフォレスト・ファミリー、若しくはスリープ・オーヴァー(Sleep∞Over)、ガントレット・ヘアーらが所属するブルックリンのメキシカン・サマーと並び「最も信頼できるレーベル」として、「シーン」を牽引しているインディ・レーベルの一つである。

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思えば10年代始めの一年は「センチメンタルでナイーヴな感性」に多く触れたような気がするが、嘗てのジョニー・マーのように「雨の降る11月の水曜の朝」はダブルデッカーに乗り込み、或いはただ、「頭を窓におしつけて」いるだけで良かったのかも知れない―「過去」を縫い付けて、バスは動き続ける。

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 デリダの考案した「差延」という概念においては自ら、自らの名において書かれたように思われるものを遠ざけ、固有名は、自ら変容(プロテアン)し、多かれ少なかれ匿名の多様性の内へと他化することがある。これこそが、エクリチュールの舞台において「主体」に起こることである。要するに、表現は常に先行する表現の平面の位相座標の組み合わせから再現前する。違う表現をするならば、引用符の「 」で、誰の引用元から引用したと指摘される表現以外においても、作者は常に無意識に多様な引用装置を表現の平面に取り込んでいると言える。これをデリダは「相互汚染」と表現している。つまり、「固有名を持つ作者は存在しない」。存在しているのは、署名され、脱固有化された匿名性の内に帰属する主体である。この主体がペンを握るとき、ひとは「人がものを書く」というのだ。

 学生時代からの仲というブランドン・ウェルチェズ、チャールズ・ローウェルのユニット、クロコダイルズがサンディエゴから出てきたとき、あまりにその匿名性の強い佇まいと音に興味を持った。ユニット名はエコー・アンド・ザ・バニーメンの1980年の名盤のタイトルそのままから取っただろうと思われるし、2009年のファースト・アルバム『Summer Of Hate』では、ヴェルヴェッツ~ザ・キルズに繋がるアート・ロックの鋭度、ジーザス・アンド・ザ・メリーチェインのような轟音の中に浮上する甘い旋律、更にはスーサイドのエッジまでも彷彿とさせるクールでフリーキーな音を孕んでいた。そして、浮遊感の漂う甘美なサイケデリアにはスペースメン3、スピリチュアライズドの影響も伺えた。しかし、兎に角、エッジばかりの音楽を束ね上げてみせる力技は、如何せん無理をしている部分もあり、同時に、センスだけが先走った音楽と言えたのも否めない。また、ニューゲイザーというブームにも攫われることにもなり、音楽誌やファッション誌の評価と称賛も受け、ヒップな存在として台頭した反面、エスケーピズムが過ぎるとか、過去の遺物を寄せ集めてそのミームの解析に長けたオリジナリティのないデュオでしかない、などの批判を多く受けることになってしまった。

 そういった批判を受けながらも、ザ・ホラーズ、ホーリー・ファックのツアー・サポート、ダム・ダム・ガールズとのスプリット・ツアー等を経る過程で、確実に知名度もライヴ・パフォーマンスも認められるようになってきた中、この本作『Sleep Forever』が届けられた。結論から言うと、前作はデモ・トラック集だったと思えるくらい、非常にスマートでシェイプされた音になっており、コンパクトに纏まっているアルバムである。また、シミアン・モバイル・ディスコのジェームス・フォードがプロデューサーとして参加したことも関係しているのか、80年代後半のUKインディーシーンに犇めいていた音への傾注が露わになっているのも面白い。メロディーだけを取り出すと、アノラック・バンドのようなものもあったり、マッドチェスター的な要素も強くあり、ザ・ストーン・ローゼズ、ハッピー・マンデーズなどが一時期に持っていた煌めきから、『スクリーマデリカ』時のプライマル・スクリームも参照されている。そういう意味では、ファーストにあったジャンクなムードは減り、よりダルにメロウになりながらも、クリアーに整頓されたサイケデリアが現前するようになった。特に、1曲目の「Mirrors」はクラウト・ロックのような反復するビートに対して、じわじわと真っ白なノイズが曲を覆ってゆくダイナミクスが美しい。その他も、ライドやスロウダイヴを思わせる曲から、ザ・ホラーズやジーズ・ニュー・ピューリタンズのセカンドと共振するダークさを孕んだ曲、マーキュリー・レヴのような幽玄なサウンドスケイプが映えた曲など、ファースト時からアップデイトされたセンスも垣間伺え、好感が持てる。

 想えば、10年代に入って、MGMTやイェーセイヤーなどの主たるアクトがセカンド・アルバムにおいて、80年代のポスト・パンク、ニュー・ウェイヴの音を参照点にしたというのは興味深い変化だったが、クロコダイルズの場合は彼らよりもっと自覚裡にファーストのサウンド・モデルを変えるためにこのような音を選んだと思える。そして、この「視界」の絞り込み自体は間違っていない方向性だと言えるだろう。

 オリジナリティという意味ではまだまだ努力が要るかもしれない。しかし、表現という面での反復可能性に従うと、クロコダイルズは最初からミメーシスではなく、「ノイズ(寄生)」に生起点を持った「偽装」だったともいえる。自己同一性を失って他化し、その他化において再度、自己同一化するプロセスを経て、「署名(オリジナリティ)」をしたためようとした際、「偽装的形式」が再現前されることにもなる。勿論、"非・偽装的な表現"などはないゆえに、反復なき引用はなく、引用が反復を含意するとしたならば、彼らの既聴感のある音を誰が否定できると言えるのだろうか。少なくとも、僕にはできない。

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 CDショップで見つけてからプレーヤーのトレイに載せるまで、こんなにワクワクしたアルバムは本当に久しぶり。そしてスタートボタンを押してから聞こえてきた音楽は、想像以上にカッコよくて、楽しくて、自由だった。つまり最高だってこと! タイトルは『コンゴトロニクス世界選手権』。その名のとおり、世界各国からインディ・ロック、テクノ、ハウス、現代音楽などの気鋭アーティスト26組が"コンゴトロニクス"のもとに大集結。以前、僕が紹介させてもらったコノノNo.1やキンシャサ在住で25人ものメンバーを擁するカサイ・オールスターズの楽曲を独自のセンスと手腕でカヴァー/リミックスしている。コンゴトロニクスは自分たちを「トラディ・モダン=伝統的かつ現代的」と位置づけ、26組の参加アーティストたちを"ROCKERS"と呼ぶ。オリジナル・タイトルは『TRADI-MODS VS ROCKERS』。国内盤の解説でも言及されているとおり、元ネタは映画『さらば青春の光』にも描かれていたモッズとロッカーズの対立。今や時代は10年代。音楽の真剣勝負はルール無用で、楽しくて、僕たちの耳と心をとことん刺激する。

 2枚組アルバムの冒頭を飾るのはディアフーフ。どうやって演奏しているのかさえ謎だと思われるカサイ・オールスターズのカヴァーに挑戦! 親指ピアノ(リケンベ)やパーカッションのパートを従来のバンド・フォーマットに置き換えるアプローチとサトミさんのメロディーが素敵。そう言えば、彼らの新作は『Deerhoof Vs. Evil』だったっけ。対TRADI-MODS戦も大健闘でしょう! インディー/オルタナティヴ・ロックからは、ディアフーフの他にもアニマル・コレクティヴやアンドリュー・バード、ウィルコのグレン・コッチェ、ボアダムスの山塚アイなどが参加。どれも自分たちのカラーを残しながらも、コンゴトロニクスが大放出するグルーヴの渦の中で自由に暴れている。遊んでいる。アンドリュー・バードの口笛は、いつになく楽しそう! 山塚アイのトラックは、リケンベを増幅させた極太ベース・ラインが最高にカッコいい! 

 このアルバムを企画したクラムド・ディスクスのマーク・オランデルのセンスにも注目しよう。81年、ポスト・パンク黎明期から現在まで多国籍な音楽を発信してきたクラムド・ディスクス。最近ではやはり、この"コンゴトロニクス"と呼ばれるコノノNo.1やカサイ・オールスターズを熱心にリリースし続けてきたことは特筆に値する。グラミー賞にまでノミネートされるようになった彼らの音楽には、普段からリミックスの依頼が絶えないという。それでも彼は、それを断り続けてきた。このアルバムに参加できたのは、レーベル側から"選ばれた"アーティストだけ。コンゴトロニクスへの愛着と理解こそが、そのオファーの理由だという。

 先述のインディー/オルタナティヴ・ロック勢に加え、90年代にベーシック・チャンネル名義でミニマル・ダブを定義したマーク・アーネスタス、現在のクラブ・シーンで大きな注目を集めるシャックルトン、そして初めて耳にする現代音楽のアーティストまでが名を連ねるこのアルバムには、マークの目論見どおり"コンゴトロニクス"への愛情がいっぱい。2枚組なのに1枚分の値段(税込2,520円!)で買える国内盤にも愛を感じる。自動車やラジオの廃品から生み出されたグルーヴは、新しいイマジネーションとアイデアを得て、どこまでも自由に広がってゆく。国境も、音楽のジャンルも飛び越えて。

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 ああ、なんて素晴らしいメロディーの洪水...。決しておしつけがましくない、アコースティックな空間を活かしたアレンジ/サウンドともども、普通にずっと流れていてほしいと感じる。「2010年の隠れた名盤...になってしまいそうだけど、それは残念、ひとりでも多くの人に聴いてもらいたい」アルバムのひとつ。それも最上級の。

 キーンのメイン・ソングライターでありキーボード奏者でもあるティム・ライトオクスリーと、サポート・メンバーであるジェス・クインによるスペシャル・バンドのデビュー・アルバム。ノア&ザ・ホエール(Noah & The Whale)やキラーズのメンバーも参加している。

 昨年リリースされたキーンのミニ・アルバムも素晴らしかったけれど、そっちのほうはバリバリにエレクトロニック・ポップな作品だった(だから、OMDもかくや、という感じの)。こちらは一転して、初期イーグルスや80年代のUSインディー・バンドの一部(当時はカレッジ・バンド、などとも言われていたあたりとか)にも通じるような(もちろんあくまで今っぽくポップでオルタナティヴな)カントリー・テイストもあって、ティムの旺盛な表現意欲に感心されられつつ、どこかなごめる。セカンドでちょっと別のほうに行ってしまったノア&ザ・ホエールって、こういう感じになってくれればよかったのに、などとも思いつつ、愛聴してます。

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