January 2011アーカイブ

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 すごく風通しがいいアルバムだ。一般的な括り方としては「インディ・ロック」なんだろうけど、ザ・スーザンが鳴らす音はどこまでも開放的で自由を謳歌する喜びがある。祭り的なトライバル・ビートもすごく楽しくて、シンプルなガレージ・スタイルに隠された素晴らしいメロディと幅広い音楽性。様々な音楽がフラット化され、そのフラットな状態から最適な音を選ぶのに四苦八苦している姿が浮かぶアルバムも目立つなか、シンプルな音のなかに音楽的振れ幅の大きさを落とし込むことができているし、そうした音を選ぶ審美眼もかなり高い。『Golden Week For The Poco Poco Beat』というのは、アーケイド・ファイア『The Suburbs』みたいに何かを背負っているわけでもなく、ただひたすら「どこまでも良いアルバム」だ。誤解を恐れずに言えば、ザ・スーザンは「自分達が面白いと思う音楽」を作っていると思う。つまり、クリエイティブな目的のみで音楽を鳴らしているし、だからこそ『Golden Week For The Poco Poco Beat』のようなアルバムが欧米で評価されていることにすごく感動してしまう。

 ザ・スーザンの凄いところは、「日本的なるもの」を振りかざさずに評価を得たところだ。日本にも海外に進出しようとするバンドはたくさんいるけれど、欧米というマーケットは自分達にとっての文化的他者性というものを中心化して評価したがるし、そのせいで「日本的なるもの」を強要されるという一面もあったと思う。もちろんザ・スーザンにも固有の文化的背景というのはあるだろう。音にもそれは滲み出ているのだけど、それはアメリカで本格的に活動するようになってから、自分達は日本人であることを自然と自覚せざるえない状況にあったわけで、そこに不自然さはない。だが、「違和感」というのは存在する。しかしその違和感というのはあくまでザ・スーザンとしての個性が違和感を創出しているのであって、それは極めて音楽的な違和感なのだ。つまり、『Golden Week For The Poco Poco Beat』というアルバムは、「ザ・スーザンというバンドの美しい音楽が詰まっている」という点でのみによって傑作に成り得ている。しかも世界というマーケットでそれを実現している。

「コーラスワークが面白い」その通り。「クラシカルな曲調もある」その通り。「アジアや中東の独特なメロディを取り込んでいる」その通り。他にも様々な音楽的指摘があるだろう。その全てがその通りだ。何故なら、ザ・スーザンが鳴らしているのは「音楽」だから。でも、そんな後付けの指摘なんか無視して、まずは聴いてみてほしい。僕は基本的に「聴けばわかる」というスタンスだから、なるべく聴く前の人に説明や解説などはしたくないのだけど、ここまで「聴けばわかる」と自信を持って紹介できるアルバムは久々だ。そして「聴けばわかる」と自信を持って紹介できるのは、先に述べたように「ザ・スーザンというバンドの美しい音楽が詰まっている」からで、それは「それしか必要としない」ということでもある。情報が神様となったこの世界において、ここまで純度が高いアルバムが生まれるのは凄いと思うのだが、どうだろうか?


*日本盤は1月26日リリース予定です。【編集部追記】

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 フォー・ボンジュールズ・パーティーズの新作には、奇妙な楽しさが満ちている。この作品では、青空の下の明るさも深い森の中の暗さも併せて描かれている。それぞれの曲がそれぞれに異なる複雑な展開を見せるのだが、それでいて、アルバム全体を通して聴くと不思議と統一感がある。

 一見相反する要素が自然に同居しているというのは、リーダーのハイタニ氏がインタヴューでコンセプトとして挙げている夢を表現していることに成功しているのだと思う。そして夢は儚いものであるが、彼らが紡ぐ夢は生命力に満ちた逞しいものだ。ライヴでは、フルート、クラリネット、トランペット、ホルン、トロンボーン、ヴィブラフォンetc...と、メンバーが楽器をとっかえひっかえ演奏し(なにせ1曲で演奏される楽器の方がメンバーより多い!)、視覚的にも楽しいのだが、このアルバムでは音だけでもその楽しさを表現している。実に多くの音が使われており、カラフルな印象を受ける。ジャケットに描かれたオカピの角のように。

 そして、アンサンブルの妙こそがこのバンドの重要な核のひとつだと改めて思う。溢れる音からは、混沌ではなく、メンバー達が笑いながら音でコミュニケートしている様を感じ、それが何とも心地よい。とても濃密で愛おしい作品。蛇足だが、これでストリングスを使いこなしたら恐ろしいバンドになるのではないだろうか?


*インタヴューはこちらに掲載されています。【編集部追記】

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《模倣ですら実体は
どうして誰でもないだろう》
(「Call Me」)

 カントは、私たちの「現象」の世界の観念性を主張したが、それは同時にその背後に広がる、知ることができない「物自体」の存在を容認するということでもあった。思うに、カントが"所謂、観念論者"であったならば、物自体のようなものの「存在」を残したはずがないだろう。「物自体」を巡る意図は他にあると思われるのは、物体を観念化することによって精神の中に入れ込むということではなく、現象の背後にたしかに存在する"それ"は人間の知のソトにあり、沈黙をしている"それ"に過ぎないということだ。となると、問題は、沈黙する存在とは、この日常世界として現前するのかどうかということに漂着する。そこに、「存在」が"木をして"いたり、"コップになって"いたりする中で、前景化される約束事とは一体、何なのか―その「循環構造」の中に入ってしまうと「存在」が「自分をしている」という状況下で観念がメビウスの輪のように捩れ、存在体自体の輪郭線を曖昧にする。そして、曖昧に耐え切れなくなった存在自体が恐慌を起こす。

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 工藤鴎芽のファースト・フルアルバム『Mind Party!』にはそのような恐慌寸前の観念論者の神経症的な鋭さに溢れている。行き交う電子音、フィールド・レコーディングされた日常の音、時折、ヒステリックに響くギター、ふと持ち上がる甘美なメロディー、しかし、その全体像が接点として見出すリアリティは実は「あって、ない」ものであり、もしかしたら、"創り手さえ此処にはいない"という錯視を催させるようなマジカルな奇妙な熱が帯びている。作風としては、これまで通り、ポスト・ロックのマナーに縁取られた印象が強く、大文字の《昨日を厭い 明日が恐い》、《その憧憬はかすむ》、《ずっと続いてく不安が欲しい》、《明日も生きていけるかな》というフレーズが並び、如何にも現代的な閉塞感も漂う。そういう意味では、いささかトゥーマッチなところもある。それでも、先にリリースされたファーストEP「I Don't Belong Anywhere」やセカンドEP「すべて失えば君は笑うかな」にはなかったアグレッシヴでノイジーな「モンスター」、前衛的なアレンジと浮遊感が印象的な「Question」、トム・ヨークのソロ・ワークを思わせるようなエレクトロニカ「日常」、スピッツのような"うたごころ"を感じさせる「波乗り」、「春と言う」など曲の幅が明らかに広がっており、まだ模索途中とも言えるが、次の視界を見渡すために色んな音楽要素を取り込んでいこうとしている手応えが感じられる。
 
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 個人的に、このアルバムを最初に聴いたときに思い浮かんだのは、くるりの『The World Is Mine』、スーパーカー『Futurama』、スピッツ『三日月ロック』といった日本のものからPrefuse73『One Word Extinguisher』、Harmonic313『When Machines Exceed Human Intelligence』といった作品群だった。それぞれの作品群に共通項はないが、敢えて挙げるとしたならば、キャリアの中途における、前にも後ろにも進まない(進めない)、中空に浮かんだ過渡期と言える音像を結んだものと言えるだろうか。斯く言う工藤鴎芽自身も、前進のバンドのSeagullを経てのソロという流れを踏まえると、決してキャリアが短いアーティストではない。キャリアを重ねる中で必然的に陥る創作意欲の壁の前で、前進でも後退でもない道を行かざるを得ないとき、その作品は曖昧とした美しさを帯びる。この『Mind Party!』もその意味では始まりも終わりもない、ぼんやりとした輪郭を残す。だからこそ、次はあるのだろうし、これは過去の作品群の橋渡しをする意味を帯びてくるだろう。
 
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目立った曲に触れていこう。

 冒頭の「Mind Party!」、加工された声で始まり、電子音とギターノイズの中に引き込まれていく従来のスタイルに近い曲と言える。そのムードを断ち切るような攻撃的な「モンスター」は、例えば、プライマル・スクリームが各アルバムに潜ませる「Rocks」や「Accelerator」のようなアクセントになっている。3曲目の「Question」は英語詞のエクスペリメンタルな曲。LとRに飛ばされたボーカルに絡むサウンドスケープはカオティックで、後半はそのボーカルさえも加工されて、最後は深いエフェクトの中に沈んでゆく。前半のハイライトともいえる曲だろう。4曲目の「再生」はファースト・シングル「虚構ガール」に収められていた過去曲。軽快な打ち込みとジャジーなムードが心地良く、アルバムでのブレスのような役割になっている。8曲目の「日常」は英語詞による沈み込むトーンが印象的な曲で、独特の浮遊感がある。インタルードのような1分にも満たない10曲目の「波乗り」から11曲目「春と言う」にかけては、これまでにはあまり見られなかったメロディー・オリエンティッドなものが前面に押し出されている。そして、《思い描いて抱えた縁日の前日 忘れかけた声は今熱と成って》(「春と言う」)といった印象深い歌詞も、面白い。実質上のアルバムの最終曲の「蜜柑」から少しの静寂を挟んで、エクストラ・トラックと言ってもいいだろう、最後の「Call Me」はダルでローファイな感触が心地良いギターロック。これがあることで冒頭に還ることができる。

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 このアルバムは、タイトル自体が象徴しているように、まず「観念の中での舞踏会」を始めるところが基点になっており、途中、夢遊病者のようなモノローグや不安が添えられるが、それもリアルかどうか判らない。また、バスの音など日常に溢れる音も取り込まれ、観念ではない現実としての通気孔の意味も発現しかけるが、それも自分が「乗ることがない」バスなのかもしれなく、即ち、「誰も乗ることができないバス」なのかもしれないのだ。

 となると、ここで拡げられる世界観は決して完結せず、どこかに開けている。開けた表現は間テクスト空間への溶解としてではなく、表現=手紙の一部が配達過程で行方不明になったり、あるいは一部損傷したり他の手紙と混同されたりする可能性として捉えられてしまうことになる。一部損傷した中にリアリティがあったのだろうか、それとも、他の手紙にこそ、見つけることができる「言葉の破片」はあったのだろうか。このアルバムは最後に、「Call Me(私を呼んで)」と捩れることになる。観念内の自分が、"ソト"に声を求める訳だが、その"ソト"とは自分の観念内の想像でもあるかもしれないのだ。となると、ラカン的に言えば、「想像界」をそのまま認証し、象徴的平面での再認の代わりに、想像的平面での再認がこのアルバム内で行なわれていると言える。そこで、誤認を図った人たちはリアリティからも「逸れる」ことになる。つまり、ここで展開される音世界の中では誰も招待を受けていないパーティーかもしれず、また、誰もが招かれるべきパーティーなのかもしれないのだ。そこで、呼べる"それ"がこのアルバムの全体像を持ち上げ、更に暈す。


*現在 Monster FMでDL購入可能
*パッケージ盤は1月23日よりセルフ・リリース(詳しくは彼女のMySpaceまたはホームページを参照とのこと)【筆者追記】

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 90年代後半にぽっかりと空いたエア・ポケットとは何だったのか、考えることがある。バブル後の沈滞と経済的に"失われた20年"になってしまう途中過程の終末思想と大きな言葉が行き交った状況下で、当時のユースは、リチャード・ブローティガンの言うような"人生とは、カップ一杯のコーヒーがもたらす暖かさの問題"の周縁を巡り、途方に暮れていたからこそ、フィッシュマンズの「ロング・シーズン」が完璧に描写した退屈の精度に魅せられてしまい、そのまま「そこ」に釘打ちされてしまった幻像も視える気がするのだ。例えば、小室系、オウム事件、酒鬼薔薇、終わりなき日常、戦争論、という記号群が次々と当時の現在進行形の若者たちの自意識群に値札を張り、コロニアル化してゆく市場側の要請の中で、上手く踊らされず、踊るには、「重力の虹」を周到に避けるステップが必要だった。そうなると、98年の東浩紀氏の『存在論的、郵便的』におけるアメリカの文学者ポール・ド・マンの読み換えたコンスタティヴ/パフォーマティヴという難渋な概念に依拠して、状況論的な意味と状況論的な機能について意識を向ける「べき」だという指針を示すことくらいしかできなかったという事例が、一つの象徴にもなって来ざるを得なかった。「退屈で、戦争でも起きないかな。」というコンスタティヴな意味ではなく、「退屈過ぎて、どうにもならない。」というパフォーマティヴな機能がシェアリングされることで、漸く共通の言語を持って、喋ることができるという地平へ"戻らなければならなかった"という証左が90年代の後半のエア・ポケットを過ごした人たちの儀礼であった。そして現在、似たようで全く違う、「退屈」という倦んだ命題に対して、ユースが真正面から向かっている表現が産まれてきているのは面白いと思う。
 
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 ハバナ・エキゾチカのアルバム・タイトルと同じ名を持つ、踊ってばかりの国は08年に神戸にて結成されたボーカル/アコースティック・ギター、ベース、ツイン・ギター、ドラムからなる平均年齢20歳そこそこの5人組。ポスト・フィッシュマンズのようなダルな空気を忍ばせながらも、ジャックスやゆらゆら帝国にあったようなアンダーグラウンド性を孕んでいる"よく分かっている"バンドとして周囲から注視されているが、実はボ・ガンボスやRCサクセションなどもちゃんとは聴いていないと公言しており、デヴェンドラ・バンハートや髭(HiGE)の影響があり、こともなげに自分たちの音楽を「スピッツみたいな(ポップな)ことをやっているつもり。」とも言う、ストレートなバンドである。また、演奏におけるローファイネス、歌詞でのサーカズム、スカスカのサウンドの隙間から匂い立つタナトスにはどちらかというと、整然と組み立てられた作為性さえ感じる。

 思えば、シーンに注目されることになった2010年のセカンド・ミニ・アルバム「グッバイ、ガールフレンド」にはアシッド・フォーク、ネオ・サイケといった背景に渦巻く強烈なブルージーさが特徴的だった。その後、活動のベースを神戸から東京へ移し、多くのライヴをこなした中でのシングル「悪魔の子供/ばあちゃん」ではカントリー調の不穏な軽快さと、ボトムが少しドッシリとしたブルーズ、同シングルにエクストラ・トラックの様な役割で収められていた「バケツの中でも」(ハンバーグハンバーグver.)の21分にも渡るミニマリズムの反復とじわじわとしたトリップを起こさせるサウンド・メイキングといい、多彩なボキャブラリーを増やしていることが伺え、同時に、よりドラッギーな音世界・詞世界にも向かっていたのも興味深かった。歌詞にしても、《何回生きても何回死んでも 人間て奴は同じ》(「あんたは、変わらない」)という退却観から、《始まりの唄じゃない 若い子にゃ届かない》(「ばあちゃん」)という諦念に行き着き、彼岸からハローと手を振るその速度は、鮮やかでもあった。

 今回のシングル「アタマカラダ」では、ミドル・テンポで始まり、アウトロではギターのノイズと不穏なコーラスがサイケデリックに投げ捨てられるように終わるという、『Sung Tongs』前後のアニマル・コレクティヴを彷彿させるほど、かなりアシッドな曲になっている。また、歌詞内では濃厚に立ち込める「息一つするのも怖くなるほど、自分がダメになってしまう」感覚が見事にリプレゼントしており、今、希望のようなものに向かって歌うことや建設的に表現すること、逆に退廃的に自意識の中に憂鬱に籠ってしまうほど"詰まらないことは、ない"という真っ当さを彼らは持っていることを立証する。
 
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 90年代後半のエア・ポケットとは似て非なる空虚性が現在にはある。それは明らかに、前者が経済的にはまだ恵まれている状況で自意識内の退屈に潜り込むことができた、というコンスタティヴな意味と、後者が確定的に茫漠とした霧の中に未来が埋もれている中での体感的な退屈を、「退屈としか言いようがないから、言わない」という捻じれから始めているパフォーマティヴな機能を帯びているとするならば、踊ってばかりの国が示す無為性は"カップ一杯のコーヒーが冷めた後の問題"について言及しており、確実に同時代性を帯びたものと言えるだろう。彼らの生きる未来は暗いかもしれないが、彼らの描く瞬間の表現はこれだけ明瞭だというのが何より頼もしい。


*1月19日リリース予定です。【編集部追記】

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 96年に結成され、現在は勝井祐二、山本精一、芳垣安洋、岡部洋一、原田仁、益子樹の6人組のバンド、ROVO。彼らは「何か宇宙っぽい、でっかい音楽」をコンセプトにし(このコンセプトは半分冗談のようだが)、フジロックや朝霧JAMなど多くのフェスに出演している。毎年5月には「宇宙の日」と呼ばれるROVO主催のフェス、MAN DRIVE TRANCEの本拠地、日比谷野外音楽堂を満員にし続けている。音楽の素晴らしさはもちろんのこと、異国の音楽性を貪欲に取り入れる姿勢や様々な音楽家との交流にも積極的でアルゼンチン音響派と呼ばれる音楽家とライヴを行なったことは記憶に新しい。キセルやポラリス、エンヴィーなど、多くのミュージシャンからの信頼も厚い。ROVOの音楽性はグレイトフル・デッドや再始動したデートコース・ペンタゴン・ロイヤル・ガーデンと比較され、また、なぜかポスト・ロックの文脈で捉えられることもあった。それはROVOの音楽的多面性があってこそ。生楽器主体にダンス・ミュージックを意識しているROVOは人力トランスと評される。
 
 海外では前衛音楽だと評されたこともあるようだが、たとえ前衛的だとしても、ROVOの姿勢として「分かる奴にだけ分かればいい」という妙なアーティスト気質がないことを挙げられる。ROVOはとことんアヴァンギャルド的な音楽をやろうと思えば平気な顔でいくらでもやれるとは思う。が、絶対にやらない。あらゆる種の嗜好のリスナーも虜にしてしまう包容力がある。だからこそポピュラー・ミュージックとして大きく羽ばたいているのだろうし、ファンは村社会化せず、特別ROVOに熱心ではないリスナーにも支持されているのだろう。そもそも「ライヴ・バンドだ」と自ら宣言している彼らだ。決して独りよがりにならず、オーディエンスをリスペクトする姿勢は崩さない。媚びているところもない。
 
 ROVOに関して前述したことは言わずもがな、かもしれない。ただ、ライヴで感じられるカタルシスがCDからも十分感じられるのかと問われたら、ライヴ盤を聴いても僕は首を縦に振れなかった。ライヴとCDを完全に別けて聴けばいい、という話になってしまうが、それでもだ、ROVOのライヴ体験は圧倒的過ぎるゆえに作品を聴いていて、僕は、わがままにも歯がゆさを感じていた。おそらく同じ思いをしているリスナーは多い。しかし、2年ぶり9作目のオリジナル・アルバムとなる本作『Ravo』にはライヴにも負けないカタルシスがある。
 
 ミニマル・ミュージックを意識している彼らの音楽は同じフレーズを反復することで永続性を醸し出し、徐々に沸点までもっていき、爆発させることが特徴としてあった。それは過去の作品同様、貫かれているのだが、本作ではツイン・ドラムのドラミングや攻撃的とも言えるヴァイオリン、ギターなど、全ての楽器が高揚する沸点の瞬間を瞬間的に、ではなく、常に反復させている。いわばライヴで感じられる最高潮の瞬間が本作に詰まっている。しかも瑞々しく、浮遊感があり、ヘッドホンで聴けば否応なしにトリップする。それは外から与えられているというよりも、体の中から瞬時に湧き出てくる高揚感だ。プログレッシヴ・ロックを愛する勝井祐二の変拍子に対する解釈も抜群で、より音楽を盛り上げるものとして働いている。インプロヴィゼーションも違和感なく楽曲にはまるところではまっている。ROVOの最も魅力的なところに満ちている作品だ。
 
 しかし単に「ROVOの魅力」の寄せ集めではない。スウィング感がどのスタジオ録音盤よりも増しているし、ライヴ以上の迫力がある。それはCDという「作品」にメンバーがこだわったことの表れでもあるのだろう。作品でしか表現できない細かなアレンジが、立体的な空間の中で音響をひとつ残らず聴かせるものになっていて、いくつものグルーヴが次々と一体となっていくさまは怒濤。だが圧倒的に清々しい。聴いていて音楽と分かち合えていると感じられるほどに親密性が高く開放感がたっぷりある。ROVOは感情を呼び起こし発散させる音楽をやっていると思っていたが、発散ではなく解放させる音楽をやろうとしていることに本作を聴いて気付いた。そしてそれを本作でやってのけた。感情の発散は空になるだけだが感情の解放は自由を生みだす。自由は人と人との繋がりを生み出し続ける。そんな空気を含む音楽が、閉塞感に溢れていると言われる時代にあって、堂々と響き渡っているのは爽快だ。数百年前に西洋で音楽は宇宙だということが本気で信じられていた時代があったが、「宇宙っぽい音楽をやろう」というROVOはポピュラー・ミュージックとして、曖昧だとしても宇宙を音で呼び起こしている。聴いていると彼らの宇宙とは音楽と聴き手の、そして人と人との繋がりだと思え、頼もしく、嬉しい。人との繋がりも宇宙と同じで無限だ。その可能性を音楽で突破した感がある。本作を聴き、ライヴに行くもよし、ライヴをまず体験して本作を聴くもよし、ROVOを聴く最初の一枚としても最適。

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 ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、「すばらしい詩や美しい物語が、何の役に立つのかと尋ねることは、愚かなことだ。たとえば、カナリアの歌声や夕映えが生活に不可欠かどうかを、日常の言葉で立証しようとするようなものだ。」と言っていたが、言葉によって説明できない対象の先に空虚な仕掛けが持ち上がったことを、今、ポストモダンの作法に沿って、名称化するには時代が早すぎる。何故ならば、今は、もはやポストモダンですらないからであり、逆回った近代の下に大文字の感性論が収斂していると言えるかもしれないからだ。だからこそ、生活の中に埋め込まれることすら無くなりかけている文学やナラティヴが持つ文字の羅列は決して、人間自体を幸福にも善き方向へと運びはしないが、自由にはさせることができるということ自体を、改めてメタ的に喧伝しないといけない(表現)行為性に対してはどう対峙すればいいのだろうか、と考える。意味があることを求める行為自体が、意味がないとされるのならば、意味がないことは最初から「諦めてしまう」しかないのかもしれない。または、モーリス・ブランショのように「読書空間」を設定して、完全に日常空間と切り隔ててしまうべきなのか、時折、混乱してしまう。

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 ナラティヴとは、一種の装置としての暴力を加速、増幅させ、同時に救済に似た何かを個々にもたらす。例えば、人間の人間に対する馬鹿げた行為、愚行といったものは凡庸な暴力の形式(コード)の一つであり、そのコードに沿い、様々な偏見や悪意や謀略が巡らされることになる。そして、コードから演繹された景色が背景となり、自分の理想や想いを切断する現実の世界とは違った世界への渇望を照射するために、ナラティヴは用意されるという可能性が出てくる。そのナラティヴの仮構化を試みることで、荒れ果てたリアリティと幻惑的な未来の間隙を縫い、虚無だけを避けることができる。

 昨年、ノーベル文学賞を受賞したペルー出身のマリオ・バルガス=リョサは、大きなナラティヴと文学の復権に常に挑み続けている作家であり、人間に纏わる不条理や虚無に対峙し続けてきた。出世作となった1966年の『緑の家』では、サンタ・マリーア・デ・ニエーバという街に建つ売春宿「緑の家」を中心にして、五つのストーリーがほぼ切り替えなしで語られるというもので、ここで用いられたそれぞれの人物のモノローグの巧みなスイッチのオンとオフの仕方、シーンの改変、緻密な情景描写がカオティックにドライヴしてゆく「構成」こそが、いわゆる、マジック・リアリズムの醍醐味と言われるべき点かもしれない。ラテン文学におけるマジック・リアリズムとは、代表作とされるガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』の印象もあり、どうも誤解されているところもあるが、細部は厳然たる現実的なもので生活に密着したものであり、語られていることの全体像が幻想的だという特徴を持っており、『緑の家』に関しても、細部のリアリズムは徹底されている。

 また、彼といえば、1973年の『パンタレオン大尉と女たち』、1977年の『フリオとシナリオライター』などユーモア溢れる作品やゴーギャンとその祖母で革命家のフローラ・トリスタンの生涯を壮大に紡ぎ上げた2003年の『楽園の道』のような作品も面白いが、個人的には、1981年の『世界終末戦争』でのシリアスで重厚な内容に潜む人間の尊厳性を再定義するような視座こそが彼の本懐だと思っている。

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 このナラティヴの下地になっているのは、ブラジル内陸部の奥地で19世紀末に実際に起こったカヌードスの叛乱である。貧しい奥地セルタンゥに、コンセリェイロと呼ばれる流浪の説教師が現れ、不思議な威厳と福音で貧しい人々の心を掴んでいく。貧者ばかりでなく、身体障害者、盗賊、犯罪者など、さまざまな人間たちが彼の周りに集う。やがて彼らは、カヌードスという村に共同体を構え、神の教えだけに従って生きていこうとするが、共和国政府はこれを反乱とみなし、制圧のために軍を差し向け、衝突する。この貧しいクリスチャンたちとブラジル軍の闘いをカヌードスの叛乱と言う。そして、このカヌードスの叛乱を全体の物語の軸に沿えながら、無数の人々の輪郭が丁寧に描かれる。少年信者ベアチーニョ、高い知性と巨大な頭を持ち、四足歩行するナトゥーバのレオン、黒人奴隷ジョアン・グランジ、などそれぞれの登場人物に付随する幾つもの挿話、背景が鋳型を成していった結果、読み手が感情移入できる余地ができる。しかし、その余地はまた伏線のナラティヴによって想わぬ形で回収されてしまう。

 同じ国に居ながらも、全く違った価値観と時間を生きている彼らはお互いを理解することは決して出来ないが、それぞれの「正義」や「信心」を持っており、それらがリョサ特有の筆致で平等に拾い上げられる。時系列が交差し、それぞれの人物の精神描写が複雑に絡み合いながら、カヌードスでの闘いは終末に向けてよりシビアな展開になってゆくが、"カヌードスというのは一つの物語ではなく、沢山の枝分かれする物語が集まった樹木のようなもの"と記すように、そこには総てがあったが、なにもなく、カヌードスの闘いを巡って呈示される人間の尊厳(dignity)に関してこそ、読み手側の思慮がはかられることになる。

 グローバル化が進捗し、中心と非中心、支配と被支配、個の阻害という社会的矛盾が顕わになっている今こそ、この作品が総体的に投げ掛けるものは意味深長である。

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photo by Takanori Kuroda

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『Cookie Scene Essential Guide: POP & ALTERNATIVE 00's: 21世紀ロックへの招待』におきまして、以下の誤りがございました。

雑誌時代に比べてかなり念入りに校正したのですが、ミスが生じてしまい、申し訳ありません。

お詫びのうえ、訂正させていただきます。

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P019 中段 29行目~
【誤】ベルギーにあるピアスというヨーロッパ最大のインディー・レーベル/ディストリビューター
 ↓
【正】ベルギーにあるPIASというヨーロッパ最大のインディー・レーベル/ディストリビューター

P079 右段 10行目~
【誤】ライヴ自体は個人による招聘で、彼らはあるバンドのサポートとして来日したとのこと。
 ↓
【正】そのライヴは個人による招聘だった。

P135 +/- {PLUS/MINUS} 左段1行目
【誤】エド・バリュヤット
 ↓
【正】リチャード・バリュヤット

P139 GORILLAZ 右段7行目
【誤】本作的
 ↓
【正】本格的

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本日の日付を入れて、ロックをかけたPDFファイルをこちらにアップしました。大変お手数ですが、ダウンロードしてプリントアウトのうえ、切り抜いてご購入いただきましたムックにはさんで保存していただければ幸いです...。

2010年12月27日19時58分 (HI)

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 新年あけましておめでとうございます。さて、あなたが昨年とりわけ気に入ったアルバムはなんでした? クッキーシーンのサイトでは、コントリビューター諸氏による「Private Top 10s of 2010」を近々発表する予定ですが、それのみならず読者のみなさんからも「Private Top 10s of 2010」の投稿を受けつけています。こちらをご参照のうえ、ふるってご応募ください!

 ぼくの場合、昨年のトップはザ・ドラムスのファースト・アルバム。LCDサウンドシステムのサードとMGMTのセカンドが、それにつづく感じ。このあたりは(ぼくにとっては)順当なセレクションと思える一方、愛聴度ってことで言えばライトスピード・チャンピオンのセカンド、そしてこのディーヴォによる20年ぶりのニュー・アルバムも絶対はずせない(これで、すでに5枚が決まってしまった:笑)。

 00年代におけるポスト・パンク・リヴァイヴァルの風にのって再結成して来日も果たした彼らだが、その時期には新譜をリリースしなかった。でもって、この『サムシング・フォー・エヴリバディ』、まさに「満を持して」と言える作品となっている。ディーヴォといえば、ひとを食ったセンスに関して「冷笑的」などと評されることも(彼らがデビューした70年代後半には)少なくなかった。たしかに、彼らのブラック・ユーモアの「黒さ」は並大抵じゃない。「人類の進化」といったコンセプトにつばを吐きかけるバンド名(evolutionの反対語としてのdevolutionの略)からして、明らかに「いいひと」の対極にある批評性を含有していることは間違いないのだが、その音楽は最高にポップ。ライヴは見事な(痙攣した、もしくはひきつった)ロックンロール。『あらゆるひとのための、なにか』というアルバム・タイトルどおりだ。

 彼らはこのアルバムに先駆け、彼ら自身のウェブ・サイトで収録予定曲を全部ファンに試聴してもらい、どれをアルバムに入れるべきか投票してほしいと呼びかけていた。アーティスト至上主義の放棄? インターネット時代にふさわしいポップ・バンドの在り方? どちらにしても、すごくディーヴォっぽい行為だと思う。

 その初期において、自主制作ショート・ムーヴィーも積極的に制作していた。MTVが全米を席巻する何年も前の話だ。1979年の初来日ライヴでは、演奏の前にそれが上映され、当時高校生になったばかりのぼくは完全に度肝を抜かれてしまった(ちなみに、ぼくが初めて見た外国人アーティストのライヴだった:笑)。徹頭徹尾ブラック・ユーモアに貫かれたショート・ムーヴィーの内容もさることながら、音楽とその他のメディアを同等にとらえる姿勢に、完全にぶっとばされた(それに影響されて高校時代には中学のときに始めたバンドを辞め8ミリ映画制作に没頭してしまった:笑)。インターネットというメディアの使い方ひとつをとっても、彼らの感覚が一切にぶっていないことがよくわかる。インターネットの発達は人間にとって「evolution」なのか、それとも「devolution」なのか、という問いかけも含めて(そう考えると、『サムシング・フォー・エヴリバディ』などというタイトルもブラック・ユーモアっぽく見えてきてしまう:笑)。

 音楽/ソニック的にも、今の時代にふさわしい、ジャストなものとなっている。00年代には、もう本当に(ぼくなどには)ディーヴォを思いださせる素晴らしいレコードが次から次へとリリースされていた(そのピークはLCDサウンドシステムの『Sound Of Silver』だったかも)。クラブDJをするとき、それらと並べてディーヴォをときどきかけてみたのだが、どうもしっくりこない。70~80年代のものなので多少古びた感じがするというか、当時を知らないひとには盛りあがれないという雰囲気がどうしてもこびりついていた。リマスターされたCDでも同じこと。そこに染みこんだ時代性は消せない、ということだったのだろう。しかし、このアルバムは全然大丈夫だ。ソウルワックスやダフト・パンクやLCDサウンドシステムと、実に心地よくつながる。

 実際、最初はLCDサウンドシステム(ジェームズ・マーフィー)やファットボーイ・スリム(ノーマン・クック)もプロデューサー候補に挙がっていたらしい。しかし、それをやらなくてよかったと思う。彼らは(とりわけジェームズは)おそらくディーヴォが好きすぎる(笑)。それでは自家中毒を起こしてしまうかもしれない。このアルバムには、そうではない客観的視点もある。

 メイン・プロデューサーはグレッグ・カースティン。ザ・バード・アンド・ザ・ビーの頭脳としても知られている彼だが、5歳のときにドゥイージル・ザッパ(もちろん、フランク・ザッパの息子)のバンド・メンバーとしてデビューしたL.A.オルタナティヴ音楽業界の鬼っ子である彼であれば、いくら若くともディーヴォを前にしておじけづいてしまうようなことは決してないだろうし、実際そうだったと思える。ほかにも、サンティゴールドことサンティ・ホワイトおよび彼女と組んで素敵な作品を残してきたジョン・ヒル、ザ・ダスト・ブラザーズ(ケミカル・ブラザーズじゃなくて、ビースティーとかの仲間だったほう。ぼくは彼らのほうがより好きだった)のジョン・キング、さらにマニー・マークことマーク・ニシタらが絡んでいる。

 今回からエナジー・ドーム(日本人には巻きグソのようにも見える帽子)の色が赤から青に変わったことを「彼らって、昔からイメージ先行だよね」とか冷笑的に語るひともいるようだが、もともとエナジー・ドームなんてものを彼らが導入する前からのファンとしては、そっちのほうがむしろこざかしいとしか言いようがない。彼らはイメージも音楽も最高なんだよ! 「我々は人間ではないのか? 我々はディーヴォ!」と昔から叫んでいたぼくのような人間...いやディーヴォはもとより、そうでないひと...エヴリバディに是非とも聴いておいてほしい1枚だ。リリースから数ヶ月たっているが、その程度では(当然ながら)古びることはない。

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 エヴリシング・エヴリシング『マン・アライヴ』のレビューでも少し触れたが、2010年の英国ではフォーク・サウンドが大衆的な人気を得ていた。なんとなくの推測だが、たとえば90年代におけるオアシスのような国民的なビッグ・バンドが生まれづらくなった(それはつまり、誰でも口ずさめるキャッチーな曲を書ける人間が減ったということかもしれないし、そういう曲を書いても誰もが耳にできる環境が衰退したのかもしれない)状況下のロック・シーンで、トラディショナルなメロディーやサウンドへと聴衆が惹かれ、回帰したくなるのもわからない話ではない。

 アメリカから数年遅れで00年代初頭あたりに勃興したイギリスのアンチ・フォーク・シーン(最近は"アンタイ"・フォークと表記することのほうが一般的みたいだ。ややこしい)も、エミー・ザ・グレイトやデヴィッド・クローネンバーグズ・ワイフ(改めて素晴らしいバンド名)のような捻くれた才能を輩出してきたが、これまた代表格バンドであるノア・アンド・ザ・ホエールの元メンバー、ローラ・マーリングの2010年作『I Speak Because I Can』は、ときおりハードな展開を見せつつも、蜃気楼や森のなかを縫って歩くような英国フォーク・サウンドの伝統を継承した、"アンチ"と形容するのも憚れる威風堂々としたアルバムで、とても20歳の女の子が作ったとは思えぬその音からはシーンの成熟さえ垣間見ることができた。彼女を中心に、イギリスのこのシーンはアメリカのそれとの交流も活発なようで、彼女もジェフリー・ルイスや元モルディ・ピーチズのアダム・グリーンらともステージを共にしていたみたいだ。

 で、そのシーンがそこまでの注目を浴びるに至った起爆剤となったのが、07年デビューであるマムフォード&サンズの登場と、彼らのつくった09年のアルバム『Sigh No More』である。全英チャートに55週間に渡りトップ40圏内にランクインするという、大ヒットにしてロングラン作となったこのアルバムとライブの評判で彼らはいちやく人気者となり、フェスやアワードにも引っ張りだこに。フリート・フォクシーズのようなバンドが歓迎されたとはいえ、この手の音が受けづらい印象のあるアメリカでさえも好評を集め、いよいよ日本でも一年遅れで国内盤がリリースされた。

 ブルーグラスやカントリーの影響を受けたバンドはエレキ・ギターの代わりにバンジョーを中心に据え、ライブ盤もかくやのエネルギッシュなサウンドが全編に漲っている。"フォーク"と聞いて想像しがちな静謐さとは違う、地響きまで起きそうなダイナミックな演奏による高揚感はアイリッシュ・フォーク譲りのメロディーにも起因している(実際、アイルランドのチャートでも1位を獲得)。フェアポート・コンヴェンションよりはポーグスやゴーゴル・ボルデロの音楽に遥かに近いと思う。イントロから徐々に熱を帯び、演奏の一体感が生みだすドラマチックな展開はヒット・シングル「Little Lion Man」に特に顕著。野太い声に重なる土臭いハーモニーも美しい。

 この作風で地味な方向に陥らなかったのはバンドのオリジナリティもさることながら、ビョークの『ヴェスパダイン』やアーケイド・ファイアなどを手掛けたプロデューサーであるマーカス・ドラヴスの功績も大きかったのだろう。足踏みやジャンプをしたくなる彼らの熱演はフェスでも大合唱の渦を巻き起こし、一方でレイ・デイヴィスもセルフ・カヴァーのお伴として起用、グレン・ティルブルックも最近のお気に入りに挙げるなど、老若男女に愛されるのも頷けるエポック・メイキングな作品だ。アルバム全体をとおしてやや一本調子というか朴訥なところも目立つが(それでいて、歌詞にはシェークスピアやスタインベックの影響が色濃いという!)、かつて英国パンクの先陣をきったクラッシュやダムドのファースト・アルバムがそうだったように、荒削りながら多大な可能性を秘めたサウンドが歓迎され、新たな道を切り開いているのはとても健全な証拠。正直、日本でもウケそうかと言われたら素直にウンと頷けないところもあるが、きっと彼らのステージを見たら圧倒されてグウの音も出なくなるだろう。気の利いていることに、国内盤には新曲のほかにライブCDも付属されている。

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