January 2011アーカイブ

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 エイ・リリーとはイギリス人ミュージシャンのジェームス・ヴェラのソロ・プロジェクトである。デビュー作となる前作『Wake:Sleep』は、ラップトップをベースにした美麗なエレクトロニカで世界中でもブレイクしたが、4年振りとなる『Thunder Ate The Iron Tree』ではドラスティックな変化が起きている。まず、作詞・作曲・レコーディングをほぼ一人で受け持ったというジェームス・ヴィラが扱った楽器の多さに驚かされる。試しにブックレットに記載しているクレジットを羅列してみよう。

《singing, electric guitar, bass guitar, cello, marimba, glockenspiel, banjo, drum kit, pistachio shell shaker, rice shaker, djembe, gamelan bells, zheng, steel drums, kalimba, accordion, piano, organ, casio miniatures, yamaha miniatures, wooden frog, wooden cricket drum machine, synthesizer, all other percussion, lapsteel, autoharp, mellotron, tone chimes miniature harp, programming, acoustic guitar》

 オーソドックスな楽器からジャンベやバンジョー、メロトロンまでその幅の広さは、現代を代表するマルチ・インストゥルメンタリストであるトクマルシューゴに勝るとも劣らない。楽器の音同士を重ね、その隙間を活かしながら、且つ、歌も一つの楽器として的確に配置して、マジカルで上品なサウンドスケープを描き上げる彼の音世界には、芳醇な活きた音に充ち溢れており、玩具箱を引っ繰り返したかのような楽しさにも守られている。前作からはよりカラフルになり、EFTERKLANGのブラス・セクションも要所で活き、ポスト・クラシカルな音楽としては申し分のないサウンドスケープが拡がっているだけに、ここに、クリティークすべき言葉を置く意味があるのかどうか、とも考えてしまう。"既に音楽の中で、自分の音楽が語られてしまっている"と思えるところがあるからだ。

 我々が考えることが出来ないものや語ることが出来ないものの限界という言い方をするとき、空間的な表象を用いることを回避することはできない、といえる。となると、「トートロジー」という概念を持ち込むと、それは実は空間的表象形式としての別名かもしれなくなる。だからこそ、空間的ではない表象形式があれば、「トートロジー」の自家撞着形式から抜け出ることができる可能性もある。しかし、デリダの思想も関係させるならば、彼の解釈ではトートロジー的論理に取り込まれているがゆえに、それを自覚している自身の思想すら、己を裏切り、己から「ズレ」ることになる。そして、理性によって「ズレ」た他者の排除を、理性のトートロジー的言説の中から察知し、それを告発する自分の言説自体が自身に含む「ズレ」をも嗅ぎ分けるという鋭敏さを帯びてくるということになってくる。では、「エイ・リリーの音楽は、エイ・リリーの音楽だ。」(エイ・リリーの音楽は、エイ・リリーの音楽でしかない。)という凡庸なトートロジーは、この作品を前にどういった意味を持つのか、となると、僕は言葉より先立つ前提条件が幾つも見受けられるという点からして、開かれた他者性に向けられた特権を帯同した「差異」としての内容を孕んでくるように思える。形式の縁をなぞりながら、起こり得るエラーやバグも組み込まれている音楽として、既に音楽の中で存分に自分の音楽を語っているが、だからこそ、「内部」ではない外部から覗き込める隙間もあり、聴き手側に解釈の機微を預けられている要素も汲み取れる。

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 簡単に各曲に触れてみる。幾つもの楽器が鮮やかに重ねられ、多重コーラスが被さる「Joy」にはポリフォニック・スプリ―や『The Soft Bulletin』前後のユーフォリックなザ・フレーミング・リップスの影も見ることができる。メロウなトーンで始まる「Your Collarbone」は、生楽器の妙な組み合わせのため、コミカルな奥行きが生まれ、そこにアイスランド人女性シンガーEMILIANA TORRINIの気怠いボーカルが入り、彼の分厚い多重コーラスと行き来するというかなりエクスペリメンタルな曲。エフェクト処理されたピアノの旋律が美しい「Cheryl Cole」、『Tnt』期のトータスのような「Arc Hugo」、ラストの8分を越える「Rain Islands」は静謐な始まりから楽器と声が重ねられていき、荘厳な昂揚感をもたらす。といったように、10曲の中で、同じようなタイプの曲がない。

 このドリーミーで甘美な音像からは個人的につい、コリーンやマイス・パレード、またはタウン・アンド・カントリー、近作のフォー・テット辺りの音を思い出してしまうが、それらの名前よりも更にギャヴィン・ブライアーズやモートン・フェルドマンといった偉大なる現代音楽家の血筋も見て取ることもできる。ジェームス・ヴェラという人のポテンシャルと実験精神を見せつけた快作である。

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 あら? なんか微妙じゃないか、ホワイト・ライズの待望のセカンド。いや、ぜんぜん悪くはないし、特に目立った路線変更もないし、むしろアンセミックにはなってるし、ちゃんと暗いし。私の期待が過剰だったか。しかしその過剰な期待にも余裕で応えてくれるバンドじゃないか、ホワイト・ライズ! というわけでやっぱりこのアルバムに満点をつけることはできない。私はまえにクッキーシーンでホワイト・ライズのファーストをレビューしたとき、「キラーズ、エディターズに続く逸材だ!」と絶賛していたが、その二バンドのセカンドに比べると、やはり停滞感を感じてしまう。もうすこし前のめりで冒険してもよかったのでは? 

 具体的に言えば、キラーズはセカンドで果敢にもアメリカン・ロックへの接近を試みたし、エディターズはファーストからは想像できないほどの壮大なスケールをセカンドで獲得した。逆に考えれば、ホワイト・ライズの「Ritual」は手堅い成長作ともとれるし、本人たちも「キングス・オブ・レオンのようなキャリアが欲しい」とインタビューで語っていたくらいなので、私が「聴いた瞬間に叫びたくなるような大アンセム」を期待していたのがそもそもの間違いかも。どちらにしろ、もうサードが楽しみ。だってキングス・オブ・レオンだったらサードは「Because Of The Times」だからね。うむ、そう考えるとこのセカンドも良いぞ。ゴシックな英国ロックの系譜を引き継いでいるぞ。わくわくしてきたぞ。何だかよく分かりませんが、けっして変な方向に走ったわけではないので、ファーストが気に入った人なら聴いてみるべきだと思います。

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 キャレキシコというバンド名の由来が「カリフォルニア」と「メキシコ」を合わせた造語という部分からして、彼らの描く音というのは最初から、例えば、ルーツ・ミュージックやトラディショナル・ミュージックなどとの「距離感」によって図られるものであった。初期の『Spoke』や『The Black Light』といったアルバムでは、エンニオ・モリコーネが手掛けたマカロニ・ウェスタンの音楽のパスティーシュのような曲からマリアッチ、フォルクローレ、間に挟まれるインスト・ナンバーは緻密な音響工作が活きた浮遊感溢れるものになっていたり、とにかく、"Shady"な音楽であり、その印象から一部の人は架空映画のサウンドトラックという評をしてもいたが、実際、60年代や70年代の西部劇やB級映画に合いそうな雰囲気には溢れていた。

 しかし、03年の『Feast Of Wire』では歌の要素が増え、遊びの部分が減り、少しシリアスな様相を呈するようになっていた。それは、9.11以降の地平で無邪気な音楽をアメリカの中でそのままやるという難しさを孕んでいたかのようで、散文詩的な歌詞にふと挟まれるダークなトーンは、『Yankee Hotel Foxtrot』以降のウィルコやサドル・クリーク周辺のアーティストたちの温度ともシンクロしており、良質なアメリカン・ミュージックの担い手として注目を浴びることになったというのは、そもそもの彼らの起点からすると不思議なものだと思う。そういった流れを受けてのことか、05年のアイアン・アンド・ワインとの共作EP「In The Reins」ではオルタナ・カントリーへ接近し、06年の『Garden Ruin』、08年の『Carried To Dust』では、それまでにあった捩れたセンスが少なくなり、衒いのない良質な歌ものの要素が強くなった。バンドとしては「成長」していったのだろうが、その過程は、初期から追いかけている自分のような者からしたら、彼ら特有のウィットが欠けてゆくようにも思え、若干、寂寥も感じてしまったのも否めない。それでも、キャレキシコの主要メンバーでもあり、元・ジャイアント・サンドのジョーイ・バーンズのプロダクション能力とジョン・コンヴァティーノの持つサウンド・メイキングの巧みさには常に魅力を感じていた。

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 エイモス・リーの4作目となる『Mission Bell』では、ジョーイ・バーンズがプロデュースを手掛けているのだが、近年のキャレキシコの路線とエイモス・リーというモダンとルーツを行き来する正当なシンガーソングライターのアティチュードが健康的な形で融和し、良質でディーセントな音楽を結実させることに成功している。より表情豊かになったエイモスのボーカリゼーションを主軸に、ゴスペル、ソウル、フォーク、カントリー、ブルーズといった音楽的背景が叮嚀に束ね上げられ、オーセンティックなアレンジメントの下、ホーン、スライド・ギター、ピアノなどの楽器が有機的に絡み合う。

 同じブルーノートのノラ・ジョーンズが近作で多彩なアーティストとコラボレーションするなど自由度を高めた活動をしているのと比して、端整な佇まいとシルキーヴォイスでもってシーンに鮮やかにデビューし、その後もブルーノートの看板アーティストとしてポップの優等生的な道を歩んでいた彼が、深化の方向に歩みを進め、その成果がこうして出ているというのは頼もしく、映る。また、時にルーツ・ミュージックを求道するアーティストが陥りがちな「視野の狭さ」や聴き手を選ぶ「狭さ」はここにはなく、ソフィスティケティッドされた洒脱な空気を感じさせるものになっているというのは、ジョーイ・バーンズのプロデュースに拠るところも大きいのかもしれない。カントリー・ミュージックの重鎮であるウィリー・ネルソンの参加やソウルフルな歌声で独自の道を堅実に切り拓いているルシンダ・ウィリアムズとのデュエットなども活きている。

 余談になるが、今作を聴いていると、ルーツ・ミュージックを今の音に再構築する腕に長けたジョー・ヘンリーがプロデュースを手掛けていたら、どういったものになっていただろうか、ふと考えてしまうところがあった。もしも、エイモス・リーとジョー・ヘンリーが組むことがあっても面白いことになると思う。加え、例えば、ベックが行なっているレコード・クラブみたいな形で、エイモスが他のアーティストの曲をカバーしてゆくというのも良いかもしれない、とも思った。何故ならば、こうして作品を重ねることで、最初の頃のエイモスに付いてまわっていた匿名性の高い品の良さよりも、記名性の強いアクの強さが見えるようになってきたからこそ、もっと新しい試みを聴いてみたいという願望も出てきたからだ。

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 この『Mission Bell』は、今の渾沌したアメリカの音楽シーンの中で目立つ内容では決してないが、凛と背筋の通った志の高い作品である。同時に、ここでの「アメリカ」とは幻視されるべき旧き良きアメリカであるのかもしれない。そう考えてゆくと、「キャレキシコ」というバンドの存在とシンクロし、フィラデルフィア出身のエイモスがルーツを巡る過程で、幻像としてのアメリカが持ち上がったというのは興味深い。

 デビューからの流れがここで極まったような気もするだけに、今後、更に大いなるアメリカの歴史と向き合うのか、オルタナティヴに振れるのか、注目していきたい。

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 全2曲で約50分、ノンビート。アンダーグラウンドなシーンの中でも異端とされる存在であるVampilliaの最新作。1曲目の「sea」ではスワンズの女帝ジャーボウが美しい音像の中、ヴォーカルやポエトリー・リーディングで参加している(このアルバム・タイトルの名付け親でもある)。禍々しいオーラに満ちた彼らのヴィジュアルや音楽に触れた事がある人の中には意外と呆気にとられるかもしれないアンビエンスで幕開ける。正に楽曲タイトルを想起させ、壮大な空間を演出するストリングスを用いた美しい情景。ピアノが齎すセンシティヴでしっとりとした音が寄り添いながら、確実に生命の息吹を感じさせ原始的とすら感覚出来る時間。やがてピアノの独奏が中盤支配しこれからの暗黒展開を予見させるかの如く冷ややかな空気が張り詰め、その予感が的中。後半一転してへヴィなギターが畳み掛けてドローン・メタルな展開へと派生するが、冒頭のアンビエント・パートで披露した美麗な旋律は輪郭を暈したまま引き継いでいる。決して安らかなる幻想のみで終わることのない厳格な超自然を感覚させられ、悲哀を帯びた厳しさにただ蹲るだろう。"叙情的な"という形容もシチュエーション次第で当て嵌まるかも知れないが、この音楽そのものに「"都合の良い"物語性」は感じられない。荘厳なフィードバック・ノイズの中で舞うオペラ・ヴォイスや、鳴りやまぬ鍵盤の高らかな響きは、ドゥームやドローン、ノイズ音楽と称される類として聴けばメロディアスな要素を多分に含んでいて、ノンビートものはちょっと苦手という食わず嫌いなリスナーにも体感して欲しい。

 2曲目「Land」は、1曲目「sea」の録音時に使用した膨大な素材を元にメルツバウが自身のノイズを交えてミキシングした楽曲で、「sea」とは対照的に現代音楽のアプローチをもって心身に沁み込んで来る。ギシギシと軋む狂気を孕んだ抽象的なコラージュに脳内がジワジワと冒されて...やがて気が付くのは冒頭の「sea」と同じく2部構成というデジャヴ。後半はギターの轟音がドゥーミーに沈み、散り散りになった細かいノイズの欠片と共に夢の底へと堕ちていく...。ブラックメタルの持つダークネスは確りとルーツの一部として抱き、上っ面の流行やシーンとは一切迎合しない独自の姿勢と同時に、普遍的な美を追求した音楽を作り上げようとする志が窺えるからこそ目指している高みが他とは違うのだろうと感覚出来るのだ。メルツバウやアシッド・マザーズ・テンプルなど、数々のアンダーグラウンドシーンに於ける重要アーティストのリリースを引き受けるアメリカのImportantから全世界への発信となる今作。勿論世界での反応も気になる所だが、こういう問題作(話題性が強いという意味でも)になるべき作品を先ず日本国内がどういうリアクションを返すのだろう?という試金石でもあると感じる。つまりは、非常に素晴らしい作品を前にして真摯に受け入れられる"シーン"であるかどうか。

「よう考えたら最近居らんで、こんなマジなん」という自分のファースト・インプレッションは4回リピートした後の今も変わる事はない。今後の活動も益々精力的な大所帯な彼らは最早、数々の大物との共演を重ねた過去を武器にせずとも十二分に飛躍してみせるに違いない。ポストロックやシューゲイザ―ともリンクするサウンドは更に確信を突き、これを「マニアック」だなんて片付けていては、いよいよ日本も終わりだろう。

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 Humming Conchや12Kあたりのドローン系のレーベルからアルバムをリリースしているトーマス・フィリップスと、京都のアーティスト、マリヒコ・ハラによる共作。アンビエントでエクスペリメンタルでポスト・クラシカル的である――と、音楽性の説明こそ簡単だが、このアルバムの今にも掻き消されそうなほどに淡い旋律は、上記3つの音楽性が絶妙に織り交ぜられており、一言では言い表せない。
 
 ドローン、アンビエント、環境音が仄かに散りばめられつつ、長く響くピアノの音が印象的。限りなく静寂に近い音楽であり、しっとりしたピアノやドローンには主張性が全くなく、鍵盤に触れる音さえ聴こえてきそうなデリケートさである。2008年から制作をスタートさせたそうだが、変な話、音数と日数を対比して考えてみると、一つ一つの音に何日もの濃密な歳月を費やしていることになりかねない。かといって、本盤にそういった責任臭さや説得力といったものはない。あたかも数カ月で作成しているような、良い意味での軽やかさがある。
 
 ついでに本盤がリリースされたtenchというレーベルにも軽く触れておくと、tenchはWords On Musicの姉妹レーベルにあたり、ボルチモアに拠点を置く。本盤がレーベルからの2枚目のリリースとなる。いずれもHome Normalや12Kらの路線と同様でありつつ、美しさを避け、より穏やかな方面へ向かっている印象がある。

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 昨年、2010年の春に、大阪でフリーティング・ジョイズ、ディア・トラックス、レディオ・デプトの3組の来日公演を観る機会に恵まれたのだが、その夜のハイライトは大方が、ディア・トラックスの「Yes This Is My Broken Shield」を挙げるのではないだろうか。打ち込みを楽曲の中心に据えるバンドは、ことライブにおいてダイナミクスを損なってしまうリスクも背負っているが(その日観たレディオ・デプトに若干のそれを感じてしまったので...)、彼らの音は1つ1つに緩急のついた表情を感じさせる、多幸感に満ちたものだった。ラストの 「Yes~」の音の洪水には思わず涙がこぼれた。
 
 音源でもそれは窺い知ることができる。ひとくちに生楽器を組み合わせたエレクトロ・ミュージックといっても、とりわけ彼らの音は立体的かつ有機的だ。それは、聴き手の感情を想起させる余地を多分に含んでいると言い換えてもいい。温度を感じさせるという意味では、ラリ・プナを初めて聴いたときにも似たような印 象を受けた。が、それよりももっとスケールの大きい、まさしく北欧をイメージさせるような、澄んだ空気のなかで鳴らされている世界観がそこにはある。 
 
 彼らの日本盤としては2作目にあたるこのディア・トラックスの『THE ARCHER TRILOGY PT.1』は、基本的に前作の流れの延長線上にあり、前作で確立させた世界観をより推し進めた内容である。より光が濃くなった感じだろうか。まるで白昼夢をみているかのような、とにかく美しい...。「RAM RAM」「MIO」は高揚感が否応なしに掻き立てられる名曲。ライブでのまばゆい光景が浮かんでくるよう。後者はシガーロスをも思わせたりもする。タイトルからするに3部作の1作目ということで、今後の音源が早くも気になる。何故だかそんな期待は裏切られないだろうという確信がある。北欧ときて反応するような人はぜひ。
 

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 ライアン・フランチェスコーニによる、本人名義での第2弾作品。前作同様、彼の並々ならぬほどに豊かな表現力に感服。アカデミックなテクニックに裏付けされている、いわゆる超絶系の演奏でありながら、胡散臭さやプレイヤーのドヤ顔を浮かび上がらせない。純粋に物語として楽しめるようなアルバムである。
 
 本人名義での第1弾作品である『Parables』は、アコースティック・ギター一本による独奏であり、静謐で内省的なアルバムであった。本盤はウード奏者のケーン・マティスとのデュオ編成の作品である。ライアンはアコースティック・ギターから手を離し、彼の十八番ともいえる楽器、タンブーラ(ブルガリアで言うシタール的な弦楽器)に持ち替えている。
 
 前作で見られたフォークさや穏やかさは消え失せ、流麗なアルペジオは、かなりアグレッシブでプログレッシブなものに変容している。クロマチックな旋律はどこか東洋的でもある。それでもなお、彼独特の世界観は健在しており、ほんの少し耳にしただけでも、ライアン・フランチェスコーニの音楽だなと瞬時に判別できてしまうのは、私だけではないだろう。エレクトロニカを経由したアーティストとは到底思えない、圧倒的な存在感を誇るタンブーラ。帯に書いてある通り、杉の香りがしている。

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 去年の10月に行われた日本ツアーもそうだけど、ダレン・エマーソンが抜けた後のアンダーワールドは明らかにライヴからのフィードバックを重視している。それはダレンが抜けたことで、クラブからのフィードバックを得られなくなったことも関係しているんだろうけど、ライヴとアルバムは別というよりも、ライヴがアルバムの世界観を表現する上での集大成となっている。だからこそ、盤という形でライヴを真空パックするのには無理がある。もちろんそこらのライヴ盤よりははるかに聴いていて楽しいし、何度も聴きたくなる。「Born Slippy Nuxx」での抗えない高揚感はさすがの一言だし、ライヴ・バンドとしてのアンダーワールドの魅力を確認できるという意味では、すごく最適な1枚だと思う。

 ただ、アーティストとしてのアンダーワールドという視点でもって聴くと、どうしても寂しくなってしまう僕がいる。『Barking』からは「Always A Loved Film」と「Scribble」が収録されているが、正直他の4曲と比べると、観客を熱狂させるパワーは落ちる。もちろん「Born Slippy Nuxx」のようなアンセムを生み出せとは言わないし、もしアンダーワールドが過去の焼き直しなんてやり始めたら僕は本気で怒るだろう。でも、ライヴでアルバムの集大成を表現するのが現在のアンダーワールドだと思っている僕からすれば、『Live from The Roundhouse』は何かが足りない。どうせなら『Everything Everything』のように、アンダーワールド自身の手が隅々まで行き届いているライヴ・アルバムをリリースしてほしかった。はっきり言って、『Live from~』は「10年経った『Everything Everything』」に過ぎない。それでも繰り返し聴いているのは、やはりアンダーワールドのライヴがもたらす快楽が忘れられないからで、『Live from~』にもその快楽の欠片が収録されているからだ。『Everything Everything』ほどアルバムとしての個性や存在意義はないけど、アンダーワールドのライヴの興奮を記録出来ているという意味ではなかなか良いアルバム。僕にとっては愛憎入り乱れる複雑なアルバムだ。

(近藤真弥)

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*ストーリー: 熱帯魚店を営んでいる社本(吹越満)と妻の関係はすでに冷え切っており、家庭は不協和音を奏でていた。ある日、彼は人当たりが良く面倒見のいい同業者の村田(でんでん)と知り合い、やがて親しく付き合うようになる。だが、実は村田こそが周りの人間の命を奪う連続殺人犯だと社本が気付いた。

 園子温監督がこの作品を書いた頃は恋人が家から出て行ってかなりボロボロで新宿でホストにケンカ売ってわざと殴られたり「クランクイン前には警官に捕まえてと言っていた。人を殺してしまう前に」と言ってしまうぐらいに落ちていて、一緒に脚本を書いた高橋ヨシキさんにも同じようなことをしようとしても彼の方が大人で「一緒に映画やろう」と言われたらしい。 

 雑誌『CUT』の園監督のインタビューではこの映画を作ることで自分自身が救われたと。ラース・フォン・トリアー監督『アンチクライスト』でラースも同じような事を言っていたとのこと。そのインタビューではみんなが『愛のむきだし』ばっかり言うから嫌になったと。だから新しいスタートを切る『冷たい熱帯魚』は第二のデビュー作のようなものでジョン・レノンでいうとソロになった『ジョンの魂』だと言う事を園監督は述べている。 

 作品としては巻き込まれ型である。主人公・社本の家庭は崩壊している。後妻と娘の関係は最悪、その妻と自分の関係も冷えている。それがギリギリのラインで保たれながら日々が過ぎている。そして出会ってしまった男・村田により彼はその平穏な人生から転がり堕ちていく。村田は殺人の後始末に社本を連れて行く。村田の妻(黒沢あすか)と彼は手慣れたやり方で殺した相手をどんどん解体していく。社本は泣きながら吐く事しかできない。しかしこの時点で彼は車で死体を運んでいる、彼は知らぬ間に巻き込まれ共犯者になっていく。死体を細切れのからあげサイズにそして焼いて骨を粉になるまで、肉は途中の川に。そうやってその死体は透明になる。村田は社本を殴りつけたりしながら殴ってこいよと言うが社本にそれはできず、昔の俺みたいだなと言う。村田はこの作品における象徴的な父である。そしてこの作品はオイディプス・コンプレックスを扱っている作品になってしまっている。去年の東京フィルメックスでは無意識にそうなってしまったと園監督は言っていた。 

 園子温作品を何作か観ればわかるが園さんは家族というものを否応なく描いてしまうし題材というか大きな軸として展開する。それは大抵崩壊した家庭だったりするのだが。それが顕著なのは吉高由里子が世に出る事になった『紀子の食卓』だろう。『愛のむきだし』での主要キャラの三人の若者の家庭には問題があった。時にはそれらを置き去りにし、崩壊しかかっているものを完全にぶち壊す。家族という最も最小単位の社会。それが壊れている時点でそこにいる子供はそこから出て行くかそれを破壊し進むことでしか自分を殺さないですむのかもしれない。 

 この作品は『愛犬家殺人事件』をリサーチしその他何種類かの殺人事件から発想を得ながらも園監督の個人的なものをつぎ込んで作られた実話を基にしたフィクションだ。とても過剰な狂気に満ちあふれながらも極限状態の人間が放つ言葉や行動は不謹慎ながらも笑いを誘ってしまう。 

 例えば絶対に笑ってはいけない葬式でふいに目に入った事で笑ってしまいそうになるのを堪えながらも耐え切れずに吹き出すようなある種の不謹慎。それはなんというか見えている現実が自分の中の平凡さを突き抜けて過剰過ぎてタガが外れてしまうような、コメディと悲劇が紙一重だというそういうもの。社本が転がり堕ちていく悲劇は他者であるからこそ笑えるのだが、当事者だったらとてもじゃないが耐え切れない。 

 そういう堕ちていく彼はオイディプス・コンプレックスの先に何をするのか。そして最後の終わり方。彼の最後の行動は僕にとっては彼が唯一娘にできる事を父親としてしたんだと思う。彼女に語りかける言葉と彼がする行動は娘をある意味では孤独にそして自由にする。それ以外に彼には方法がなかったとも言えるし、彼が選べた最良の事かもしれない。それを娘がどう思うかはまた違う問題だとしても。 

 園子温作品というか園子温という人物が放つ作品は驚喜=狂気=凶器だ、しかもそれを一度でも自分の中に受け入れてしまえば麻薬だ。この魅力からはもはや逃れる事はできない。この驚喜=狂気=凶器はその人の中にあるラインを踏み越えさせてしまう、いいかい、これは簡単な話だ。踏み越えると同時に踏みとどまるのだから。この意味は難しいようで易しい。君が死まで抱えていくこの生きるという時間と生命の宿命である生殖=性が園子温作品にはあり、あなたがもしどうしようもなく誰かを殺したいのならばそれを踏み留める、救ってくれる可能性だ。 

 人を殺したいと思っている人の全てがこれで救われるわけではないが、届く作品というものにはその作用とやはりそこから飛び越えてしまうものが出てしまう問題は絶えず存在する。 

 日本が誇る映画、宮崎駿作品もといジブリの作品を観ていれば人を殺さなくてすむのだろうか? もちろんそんな事はない。連続幼女殺害犯として死刑になった宮崎勤の六千のビデオテープの山の中でラベルに唯一「さん」付けさけていたのは宮崎駿だったのは有名な話だし、『魔女の宅急便』を観た後に睡眠薬を飲んで数人の少女が自殺未遂を起こした事だってある。 

 表現が届くというのはそのプラスもマイナスも起きる。その表現が表現としての強度や精度、スピードがあれば。単純な消費だけの表現ではそこには辿り着けない何かが潜んでしまう。僕はそれを園子温という才能に出会って身にしみてわかったんだ。園さんという人に実際に会って話をして酒を飲んで感じた事はこの人は映画を撮らなきゃダメな人なんだ。そしてそれをわかり支える人がいる。だからこそ映画は世の中に出て行くのだけども。 

 どうしようもなく選ばれてしまった側の人だと寂しくもなる。三池崇史さんが「狂人が作るべきなんですよ映画は」と言うのはわかる。どこかが欠落しているのだ、それを埋めようと作り続けて壊しては作る。園さんの作るペースはかなり速い、『冷たい熱帯魚』の次の作品もクランクアップして待機している。 

 『ゼロからの脚本術』で園さんが語っている「やっちゃいけないことは、ひとつもない。これは映画に限らずだけど、そういうものを破っていくのが快感だし、破るべきだと思う」と。 


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*ストーリー:阪神・淡路大震災で子どものころに被災するも、現在は東京で暮らす勇治(森山未來)と美夏(佐藤江梨子)は、追悼の集いが行われる前日に神戸で偶然知り合う。震災が残した心の傷に向き合うため、今年こそ集いに参加する決意をした美夏に対して、勇治は出張の途中に何となく神戸に降り立っただけだと言い張るのだが......。 


 2010年1月17日にNHKで放送されたドラマに新たな映像を加え、再編集バージョンとして公開。

 この『その街のこども』の脚本の渡辺あやさんの作品と言えば『ジョゼと虎と魚たち』『メゾン・ド・ヒミコ』『天然コケッコー』『ノーボーイズ、ノークライ』などの映画作品に、NHKで放送され『火の魚』とこの『その街のこども』で、今年の秋から始まるNHK朝の連続ドラマ小説『カーネーション』(デザイナーコシノ三姉妹の母親が主人公の作品)で脚本を書く事が発表された。 

 『ジョゼと虎と魚たち』『メゾン・ド・ヒミコ』『天然コケッコー』『ノーボーイズ、ノークライ』『火の魚』『その街のこども』にある渡辺あや脚本で描かれる人と人の間にある距離。人間というものが最小単位である個と個が触れ合う事を丁寧に描いている。だからこそ観終わった後の余韻が振るわせる。 

 わかりあえるかもしれないという可能性あるいは希望が人の間にはある。だけども僕らは100%わかりあえるはずもない。溶け合う心が君を僕を壊すように、『エヴァ』(旧劇場版)でシンジがその世界を拒否したように君と僕が溶け合う、同じ意識の集合体になれば個は消えて全体が大きな個の中に閉じられる。触れ合って同じ時間を共有しても全てはわかりあえない。わかりあえたような気はするけども最終的な部分は個と個とだから。彼女の作品は主要の登場人物の二人の触れ合いと許有する時間の中でのわかりあえるかもしれない希望ととそこからはみ出してしまうディスコミュニケーションという他者であるという事を描く。 観ている僕らには立場や環境が違えども彼らや彼女たちに感情移入する、それは僕らがずっと生きてきた中で感じていた、体験してきた事だから。 

 『ジョゼと虎と魚たち』において恒夫(妻夫木聡)とジョゼ(池脇千鶴)の関係性で恒夫は若い男性にありがちな今を見ていて未来を見据えれなかった。だからこそ彼は彼女の元を去っていく。それをジョゼは受け入れるのは付き合い出した当初からこの人はいずれ私の元を去っていくだろうと哀しい達観をしていた。その事に気付けない男とそれについてずっと一緒にいてとは言えない女。恒夫は彼女との家を出て他の女(上野樹里)と歩き出すが歩いている途中に別れたら一生会う事ができない女の元から逃げ出した自分についての嫌悪感とこれまでの彼女との想い出がごっちゃになり泣きながら嗚咽する。ジョゼは車いすを押してくれた恒夫がいなくなり電動車いすで町に出て行くという対比が強さと弱さとどうにもならないものを感じさせた。 

 シネクイントで観た後に僕は一人で落ち込んでしまった。その時は恒夫に感情移入してしまって、でも何度も観る度に彼らの関係性と諦める事でしか人生を生きてこれなかったジョゼの哀しみ故の強さを描いてしまったこの作品に増々惹かれてしまった。 

 『その街のこども』は勇治(森山未來)と美夏(佐藤江梨子)の震災15年目の前の日からの出会いとその追悼の時間までを描く。震災にあった当時子供だったひとの絵や当時の映像も使われているが、この二人が話す事で震災からどう生きて来たのか、価値観の違う二人がたまたま出会い、巻き込まれるように同じ時間を共有し共感し反発する。そこにはやはりわかりあえるかもしれない事とわかりあえない事が描かれている。 

 モキュメンタリー(フェイクドキュメンタリー)風に撮られているので彼らの息づかいもリアルなものに感じられる。どこまで台詞でどこからかアドリブなのかわからない。二人の役者は実際に震災にあっているだけに役と本人の境界線が薄れている。それを編集し一つの物語に構築している。 

 震災という同じ体験をしているというある種の共有。しかしそれは当然ながら個人個人で細部は異なり抱く感情も違う。共通の友人がいてその人がいない時にさほど仲の良くない者同士がその人を語ることはできる。共有している話題や体験、しかしその人に抱いている思いや感情は二人の中で同じ部分もあるが細部は当然異なる。そういうものが一つの対象について語られる、そこから見えてくるもの。 

 映画では神戸という街が彼らには違って見えるだろうし、僕のような関係のないものにもその場所は「物語」のある風景として刻まれる。 

 彼らの息づかいが伝わるような感じがする。何気ないシーンや光景でも僕は涙ぐんでしまった。僕ら個人がどうしようもできない巨大な出来事に対して僕らの内面とそれを繋げる想像力や装置が必要なのかもしれない。 

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