クロコダイルズ『スリープ・フォーエヴァー』(Fat Possum / Hostess) 

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 デリダの考案した「差延」という概念においては自ら、自らの名において書かれたように思われるものを遠ざけ、固有名は、自ら変容(プロテアン)し、多かれ少なかれ匿名の多様性の内へと他化することがある。これこそが、エクリチュールの舞台において「主体」に起こることである。要するに、表現は常に先行する表現の平面の位相座標の組み合わせから再現前する。違う表現をするならば、引用符の「 」で、誰の引用元から引用したと指摘される表現以外においても、作者は常に無意識に多様な引用装置を表現の平面に取り込んでいると言える。これをデリダは「相互汚染」と表現している。つまり、「固有名を持つ作者は存在しない」。存在しているのは、署名され、脱固有化された匿名性の内に帰属する主体である。この主体がペンを握るとき、ひとは「人がものを書く」というのだ。

 学生時代からの仲というブランドン・ウェルチェズ、チャールズ・ローウェルのユニット、クロコダイルズがサンディエゴから出てきたとき、あまりにその匿名性の強い佇まいと音に興味を持った。ユニット名はエコー・アンド・ザ・バニーメンの1980年の名盤のタイトルそのままから取っただろうと思われるし、2009年のファースト・アルバム『Summer Of Hate』では、ヴェルヴェッツ~ザ・キルズに繋がるアート・ロックの鋭度、ジーザス・アンド・ザ・メリーチェインのような轟音の中に浮上する甘い旋律、更にはスーサイドのエッジまでも彷彿とさせるクールでフリーキーな音を孕んでいた。そして、浮遊感の漂う甘美なサイケデリアにはスペースメン3、スピリチュアライズドの影響も伺えた。しかし、兎に角、エッジばかりの音楽を束ね上げてみせる力技は、如何せん無理をしている部分もあり、同時に、センスだけが先走った音楽と言えたのも否めない。また、ニューゲイザーというブームにも攫われることにもなり、音楽誌やファッション誌の評価と称賛も受け、ヒップな存在として台頭した反面、エスケーピズムが過ぎるとか、過去の遺物を寄せ集めてそのミームの解析に長けたオリジナリティのないデュオでしかない、などの批判を多く受けることになってしまった。

 そういった批判を受けながらも、ザ・ホラーズ、ホーリー・ファックのツアー・サポート、ダム・ダム・ガールズとのスプリット・ツアー等を経る過程で、確実に知名度もライヴ・パフォーマンスも認められるようになってきた中、この本作『Sleep Forever』が届けられた。結論から言うと、前作はデモ・トラック集だったと思えるくらい、非常にスマートでシェイプされた音になっており、コンパクトに纏まっているアルバムである。また、シミアン・モバイル・ディスコのジェームス・フォードがプロデューサーとして参加したことも関係しているのか、80年代後半のUKインディーシーンに犇めいていた音への傾注が露わになっているのも面白い。メロディーだけを取り出すと、アノラック・バンドのようなものもあったり、マッドチェスター的な要素も強くあり、ザ・ストーン・ローゼズ、ハッピー・マンデーズなどが一時期に持っていた煌めきから、『スクリーマデリカ』時のプライマル・スクリームも参照されている。そういう意味では、ファーストにあったジャンクなムードは減り、よりダルにメロウになりながらも、クリアーに整頓されたサイケデリアが現前するようになった。特に、1曲目の「Mirrors」はクラウト・ロックのような反復するビートに対して、じわじわと真っ白なノイズが曲を覆ってゆくダイナミクスが美しい。その他も、ライドやスロウダイヴを思わせる曲から、ザ・ホラーズやジーズ・ニュー・ピューリタンズのセカンドと共振するダークさを孕んだ曲、マーキュリー・レヴのような幽玄なサウンドスケイプが映えた曲など、ファースト時からアップデイトされたセンスも垣間伺え、好感が持てる。

 想えば、10年代に入って、MGMTやイェーセイヤーなどの主たるアクトがセカンド・アルバムにおいて、80年代のポスト・パンク、ニュー・ウェイヴの音を参照点にしたというのは興味深い変化だったが、クロコダイルズの場合は彼らよりもっと自覚裡にファーストのサウンド・モデルを変えるためにこのような音を選んだと思える。そして、この「視界」の絞り込み自体は間違っていない方向性だと言えるだろう。

 オリジナリティという意味ではまだまだ努力が要るかもしれない。しかし、表現という面での反復可能性に従うと、クロコダイルズは最初からミメーシスではなく、「ノイズ(寄生)」に生起点を持った「偽装」だったともいえる。自己同一性を失って他化し、その他化において再度、自己同一化するプロセスを経て、「署名(オリジナリティ)」をしたためようとした際、「偽装的形式」が再現前されることにもなる。勿論、"非・偽装的な表現"などはないゆえに、反復なき引用はなく、引用が反復を含意するとしたならば、彼らの既聴感のある音を誰が否定できると言えるのだろうか。少なくとも、僕にはできない。

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