踊ってばかりの国「アタマカラダ」CDS(Mini Muff)

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 90年代後半にぽっかりと空いたエア・ポケットとは何だったのか、考えることがある。バブル後の沈滞と経済的に"失われた20年"になってしまう途中過程の終末思想と大きな言葉が行き交った状況下で、当時のユースは、リチャード・ブローティガンの言うような"人生とは、カップ一杯のコーヒーがもたらす暖かさの問題"の周縁を巡り、途方に暮れていたからこそ、フィッシュマンズの「ロング・シーズン」が完璧に描写した退屈の精度に魅せられてしまい、そのまま「そこ」に釘打ちされてしまった幻像も視える気がするのだ。例えば、小室系、オウム事件、酒鬼薔薇、終わりなき日常、戦争論、という記号群が次々と当時の現在進行形の若者たちの自意識群に値札を張り、コロニアル化してゆく市場側の要請の中で、上手く踊らされず、踊るには、「重力の虹」を周到に避けるステップが必要だった。そうなると、98年の東浩紀氏の『存在論的、郵便的』におけるアメリカの文学者ポール・ド・マンの読み換えたコンスタティヴ/パフォーマティヴという難渋な概念に依拠して、状況論的な意味と状況論的な機能について意識を向ける「べき」だという指針を示すことくらいしかできなかったという事例が、一つの象徴にもなって来ざるを得なかった。「退屈で、戦争でも起きないかな。」というコンスタティヴな意味ではなく、「退屈過ぎて、どうにもならない。」というパフォーマティヴな機能がシェアリングされることで、漸く共通の言語を持って、喋ることができるという地平へ"戻らなければならなかった"という証左が90年代の後半のエア・ポケットを過ごした人たちの儀礼であった。そして現在、似たようで全く違う、「退屈」という倦んだ命題に対して、ユースが真正面から向かっている表現が産まれてきているのは面白いと思う。
 
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 ハバナ・エキゾチカのアルバム・タイトルと同じ名を持つ、踊ってばかりの国は08年に神戸にて結成されたボーカル/アコースティック・ギター、ベース、ツイン・ギター、ドラムからなる平均年齢20歳そこそこの5人組。ポスト・フィッシュマンズのようなダルな空気を忍ばせながらも、ジャックスやゆらゆら帝国にあったようなアンダーグラウンド性を孕んでいる"よく分かっている"バンドとして周囲から注視されているが、実はボ・ガンボスやRCサクセションなどもちゃんとは聴いていないと公言しており、デヴェンドラ・バンハートや髭(HiGE)の影響があり、こともなげに自分たちの音楽を「スピッツみたいな(ポップな)ことをやっているつもり。」とも言う、ストレートなバンドである。また、演奏におけるローファイネス、歌詞でのサーカズム、スカスカのサウンドの隙間から匂い立つタナトスにはどちらかというと、整然と組み立てられた作為性さえ感じる。

 思えば、シーンに注目されることになった2010年のセカンド・ミニ・アルバム「グッバイ、ガールフレンド」にはアシッド・フォーク、ネオ・サイケといった背景に渦巻く強烈なブルージーさが特徴的だった。その後、活動のベースを神戸から東京へ移し、多くのライヴをこなした中でのシングル「悪魔の子供/ばあちゃん」ではカントリー調の不穏な軽快さと、ボトムが少しドッシリとしたブルーズ、同シングルにエクストラ・トラックの様な役割で収められていた「バケツの中でも」(ハンバーグハンバーグver.)の21分にも渡るミニマリズムの反復とじわじわとしたトリップを起こさせるサウンド・メイキングといい、多彩なボキャブラリーを増やしていることが伺え、同時に、よりドラッギーな音世界・詞世界にも向かっていたのも興味深かった。歌詞にしても、《何回生きても何回死んでも 人間て奴は同じ》(「あんたは、変わらない」)という退却観から、《始まりの唄じゃない 若い子にゃ届かない》(「ばあちゃん」)という諦念に行き着き、彼岸からハローと手を振るその速度は、鮮やかでもあった。

 今回のシングル「アタマカラダ」では、ミドル・テンポで始まり、アウトロではギターのノイズと不穏なコーラスがサイケデリックに投げ捨てられるように終わるという、『Sung Tongs』前後のアニマル・コレクティヴを彷彿させるほど、かなりアシッドな曲になっている。また、歌詞内では濃厚に立ち込める「息一つするのも怖くなるほど、自分がダメになってしまう」感覚が見事にリプレゼントしており、今、希望のようなものに向かって歌うことや建設的に表現すること、逆に退廃的に自意識の中に憂鬱に籠ってしまうほど"詰まらないことは、ない"という真っ当さを彼らは持っていることを立証する。
 
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 90年代後半のエア・ポケットとは似て非なる空虚性が現在にはある。それは明らかに、前者が経済的にはまだ恵まれている状況で自意識内の退屈に潜り込むことができた、というコンスタティヴな意味と、後者が確定的に茫漠とした霧の中に未来が埋もれている中での体感的な退屈を、「退屈としか言いようがないから、言わない」という捻じれから始めているパフォーマティヴな機能を帯びているとするならば、踊ってばかりの国が示す無為性は"カップ一杯のコーヒーが冷めた後の問題"について言及しており、確実に同時代性を帯びたものと言えるだろう。彼らの生きる未来は暗いかもしれないが、彼らの描く瞬間の表現はこれだけ明瞭だというのが何より頼もしい。


*1月19日リリース予定です。【編集部追記】

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