CARLINHOS BROWN『Diminuto』(Sony BMG)

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―象徴は、それが象徴化するものよりも現実的なものである。シニフィアンはシニフィエに先立ち、それを規定する。(『マルセル・モース論文への序文』レヴィ=ストロース)

 レヴィ=ストロースの『野生の思考』によれば、野生の人々の中に、ブリコルール(ブリコラージュする人)がいる。彼らは日常「何の役にたつか分からないが、きっと何かの役にたつもの」を収集しており、何らかの問題に直面すると、計画されたものではなく、拾ってきた素材、使い回された破片など「ありあわせの物」で解決する。

 ブリコラージュについて考えると、1960年前後に起こったフランスのヌーヴォー・レアリスムにおけるアッサンブラージュとの接合点は見つけることができるのか、つい夢想してしまう。例えば、ジャン・ティンゲリーの廃物機械によるジャンク・アートや、レイモン・アンスのアフィシェ・デシレなどのように、ある一定の体系の中の部分として機能する「概念」ではなく、体系を無視して使われる「記号」としての意味。そこには、既存の文脈からスライドして、"新しい意味が発現した「作品」の無意味さ"が明滅する。ブリコルールは「それ」を道具としての「記号」でしか見ないが、"ディスクールとしてのブリコルール"はいまだ汎的に拡がりを増す。

 今、ポストモダニズムの彼岸では、"「ありあわせの物」で決して意味はないが、存在するものを作るという所作"は実はとても有意義な行為である。そこから、先行された「テクスト」の誤差分を読み解ければ、という文脈は必要になってくるが、カルリーニョス・ブラウンの新作『Diminuto』がまさしくそういった観点を要求されるものになっているのが興味深い。道端で空き缶を叩いていた彼は、トラディショナルなモードに帰一するために、旧態的なモダンネスを帯びた作品(『Adobró』)を並存させながら、音楽としての純度の高い作品(『Diminuto』)を「忍び込ませた」ことで、あらゆるブリコルールがディスクールに回収されるのを堰き止めたとも思えるからだ。

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 カルリーニョス・ブラウンが出たバイーアという地域は、ブラジル内でも最もアフリカ系移民の多い土地であり、アフリカから伝承された文化も残っている。例えば、「サンバ・ヂ・ホーダ(Samba de Roda)」と呼ばれるダンスはブラジルの文化に対し、最も大きな影響を与えたと言えるかもしれない。これは人々が輪になって歌い、その中に順番に入って踊るというもので、カーニヴァルにおけるダンスの元になったと言われている。そして、バイーアからは優秀なアーティストが輩出されていることでも有名である。ボサノヴァの始祖ジョアン・ジルベルト、サンバ界の大御所であるドリヴァル・カイーミ、トロピカリズモの主軸を占めたカエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジル、ガル・コスタ、マリア・ベターニャなど数多くいる。

 彼はパーカッショニストとして頭角をあらわし、カエターノ・ヴェローゾのアルバムにも参加し、ツアーにも同行するなどして名前をあげていった。また、地元のカンジアルに住む若者たちを集めて、ストリート・パーカッション集団「チンバラーダ」を結成するなど、バイーアという地域の町興しにも積極的に関わる中、1996年に『バイーアの空のもとで(ALFAGAMABETIZADO)』でソロとしてデビューしてからの活躍は目まぐるしいものがあった。例えば、フェルナンダ・アブレウ(FERNANDA ABREU)『Raio X』、カエターノ・ヴェローゾ『Livro』でのゲスト参加、シルヴィア・トーレス(SILVIA TORRES)のアルバム・プロデュース、THE BOOMの宮沢和史氏のセカンド・ソロ・アルバム『Afrosick』での3曲の作詩、演奏、共同プロデュースなどで、彼の名前を見ることができる。加え、ブラジル国内のみならず、欧米でのライヴ活動も行ない、そのライヴ・パフォーマンスの素晴らしさも浸透していった。その流れを経て、伝統とモダンが相克しながらも、高い摩擦の熱量を保った1998年の傑作のセカンド『Omelete Man』に繋がることになる。この作品では、MPBからファンク、サンバ、レゲエといった幅広い音楽要素をウェルメイドなポップネスで纏め上げるのに成功していた。当時は、「あまりに洗練され過ぎている」という声も上がったが、ワールドワイドに打ち出していくにはこれだけの広さを持たないといけないのは、近年のタラフ・ドゥ・ハイドゥークスが体現する大文字の「ジプシー」、ティナリウェンの「砂漠のブルーズ」といった位相と同じで、「ブラジル音楽」というものが決して、イメージの先にあるボサノヴァやMPBのようなものだけではない、ということを逆手に取り、モダナイズをはかった作品だという文脈は踏まえないといけないだろう。その後、2002年にマリーザ・モンチ(MARISA MONTE)と元ムタンチスのアルナルド・アントゥネス(ARNALDO ANTUNES)と組んだトゥリバリスタス(TRIBALISTAS)がブラジル音楽という枠を越えて、世界的にブレイクした。

 ただし、ライヴ・パフォーマンスは別として、近作の彼のソロ・アルバムが決して期待を越えてくるようなものではなかったのが気にかかっていた。個人的に、どうにも精彩が欠けた感じを受けてしまうときもあり、2005年のカンドンブレのビートと地元の人々が歌う声を拾い上げ、音響処理した『Candombless』も発想も内容も悪いものではなかったが、『Omelete Man』にあったようなパッションとインテリジェンスが程好く混ざり合った作品をもう一度、聴きたいと思っているような自分からしたら、歯痒かった。

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 前作『A Gente Ainda Não Sonhou』から約三年振りに二枚同時にアルバムが出たが、これがなかなか面白いことになっている。

『Adobró』は、エレクトロニクス要素を大胆に取り入れた意欲作になっており、キレのあるパーカッシヴなリズムも活きているが、全体を通底するのは洒脱な空気だ。ブラジルの多彩なビートをよりクリアーに鳴らすことに意識を高めた結果、新しい音響美を手に入れており、嬉しいことに『バイーアの空の下で』、『Omelete Man』にあった生命力もしっかり感じることができる。2010年の9月にリード・シングルとしてリリースされた「Tantinho」は、彼のバイタル溢れる声が女声コーラスの絡みとシャープに刻まれるパーカッシヴなリズムが映えたやわらかな佳曲だったが、アルバム全体の印象としては、よりスペーシーな拡がりを感じさせる。

 片や、『Diminuto』はピアノやギター、弦楽器の音の響きが美しく全編を覆い、アコースティックでオーガニックなサウンドを基調に、ボサノヴァやサンバのリズムの上に言葉遊びのような歌詞と抑制気味の彼のボーカルが乗ってくる静謐な作品だ。派手な意匠もなく、近年の世界のシーンの隆盛の一つであるジャック・ジョンソン、ドノヴァン・フランケンレイターなど程好く肩の力の抜けたシンガーソングライターの作品の持つ緩さと共振する部分もあり、えもいわれぬサウダージ(切なさ)も孕んでいる。ギターとピアノだけの始まりから緩やかに音が増え、鮮やかにサウンド・タペストリーが紡がれてゆく繊細なサンバ「Você Merece Samba」、リオのロック・グループ、オス・パララマス・ド・スセッソ(OS PARALAMAS DO SUCESSO)が参加した「Verdade, uma Ilusão」は白眉と言えるだろう。

 実験的な試みと彼の意欲を鑑みるならば、『Adobró』になる。しかし、カルリーニョス・ブラウンという人の才能のポテンシャルを見せつけるのは『Diminuto』に他ならない。衝撃のデビューから長い旅路を経て、彼がこのような穏やかな成長をしていることが何より頼もしい。

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