December 2010アーカイブ

retweet

今週のカヴァーは、フォー・ボンジュールズ・パーティーズからの特別な贈り物...「ウィンター・ホリデイズ・ヴァージョン」です! 彼らのインタヴュー記事は、こちら

「DLすると横幅が1500pixel」となる画像をアップしました。あなたのPCの壁紙に使えるかも、って感じです!

クッキーシーン・サイトの、2010年中の更新はここまで。2011年は1月5日くらいから更新開始。フォー・ボンジュールズ・パーティーズの素敵なカヴァーで、2010年のしめくくりと2011年のスタートを祝いたいと思います。

2010年はお世話になりました。2011年も、よろしくお願いします!

2010年12月28日00時30分 (HI)


retweet

4 BONJOUR'S PARTIES

コンセプトは夢、つじつまが合わないような
見た後に不思議な感じがするような


日本を代表するチェンバー・ポップ・バンド。もしくは、東京発手作りオーケストラル・ポップ楽団。07年に発表されたファースト・アルバム『Pigments Drift Down To The Brook』を最初に聴いた時は思わずそんな印象を抱いたものだったが、あれから3年、フォー・ボンジュールズ・パーティーズ(4 bonjour's parties)はさらなる高みに辿り着いたようだ。リーダーの灰谷歩がオーストラリアはメルボルンに留学するなどマイ・ペースの限りを尽くした末にようやく完成させた2作目『Okapi Horn』は、視界がグッと広がり、価値観も柔軟になった新たな8人の姿をクッキリと浮き彫りにする象徴的な1枚だ。

ファーストではまだどこか神秘的な翳りをも秘めていた曲調はブライトになり、演奏にも躍動感と覇気が備わっただけではなく、メンバーそれぞれが何より楽しんで音楽と向き合っているのが伝わってくる。灰谷と矢作美和がメルボルン在住のた最終的にデータの交換などでアルバムを完成させたそうだが、そうした"物理的距離"を逆に生かしたような、想像力溢れる曲構成には何度聴いてもハッとさせられるし、聴くたびに新たな発見も多い。前作に引き続きTsuki No Wa/マヘル・シャラル・ハシュ・バズの庄治広光がミックスとマスタリングを担当。チェンバー・ポップという枠を超えたところで、「エッシャーなどの騙し絵の影響も大きかった」という灰谷らがいかに自由自在に音楽に向き合い、その迷宮を楽しんでいるかがわかる実に開かれたこの新作について、久々に日本に"里帰り"した灰谷が熱く語る。

4bon_2010_A1.jpg

retweet

manics_1011_live_1.jpg
photo by Mitch Ikeda

retweet

残念なお知らせです...と大袈裟なことを言ってしまって、すみません。このコーナー、読者のみなさんはもとより、根っからの音楽ファンである我々スタッフ/コントリビューターにとっても、是非存続させたいものではあるのですが、残念ながら現在のクッキーシーンの体制/態勢では、ちょっとつづけられない感じになってきました(これはこれで、「メディア」としてのバランスを考えつつちゃんとやるには、結構時間と労力がかかるんですよ...:汗&笑)。

というわけで、しばらく(短くて1年くらい、長くて数年くらい?)お休みさせていただきます。

すみません!

2010年12月16日

|

retweet

retweet

CSM_H1_226.jpg
1997年3月から2009年12月まで「雑誌」という形で機能していたクッキーシーン(Cookie Scene)が、ウェブ・マガジンとして再起動したのにつづき、ついに「ムック(紙媒体)」としても復活。その第1弾が発売されました! 題して...「CDジャーナルムック『Cookie Scene Essential Guide: POP & ALTERNATIVE '00s: 21世紀ロックへの招待』」。

発行元はCDジャーナルでおなじみ(株)音楽出版社で2010年12月16日発売。判型などは「B5判変形、160ページ」、定価は税込1,500円になります。

キャッチ・コピーは以下のとおり。

ロックそしてポップ・ミュージックは、常に「オルタナティヴ」な存在であった。激動の時代だからこそ、その真価が発揮される。そんな視点のもと、00年代にUS、UK、欧州でリリースされた素晴らしきポップ&オルタナティヴな音楽(日本人アーティストのものを除く)を集約したエッセンシャル・ガイド。

校了寸前に「TOP 150 Albums (of the bands, whose debut albums were released after 1990) 2000-2009」というサブ・タイトルを思いついたのですが、時すでに遅し(汗)。まえがきページと奥付のみに入れこむことにしました(笑)。

同時代性にこだわるべく、「1990年代以降にファースト・アルバムをリリースしたアーティスト」にターゲットをしぼり、2000年1月から2009年12月までに発表されたディスクを150点(1組につき1点)厳選。

それぞれをリリースしたアーティスト計150組の(関連盤も含む)ディスコグラフィーを完備!

トップ42までの主なアーティストに関しては、クッキーシーンの過去の取材をとおして入手した彼ら自身の発言も原稿中に(アーティストによっては大量に)フィーチャー!

「00年代のベスト150アルバム」。さらに記事部分や(関連盤も含む)ディスコグラフィーの内容、執筆者の「プライヴェート・トップ10」コーナーなどもあわせれば、この本は200を軽く超えるアーティストたちの音楽への入り口に!

登場アーティスト:MGMT、アークティック・モンキーズ、ザ・ストロークス、2メニーDJ'S/ソウルワックス、ベル・アンド・セバスチャン、ディアハンター、フェニックス、デス・キャブ・フォー・キューティー、ファウンテインズ・オブ・ウェイン、フランツ・フェルディナンド、ダフト・パンク、オアシス、LCDサウンドシステム、アニマル・コレクティヴ、TV・オン・ザ・レディオ、ザ・ホワイト・ストライプス、アーケイド・ファイア、アントニー&ザ・ジョンソンズ、ヴァンパイア・ウィークエンド、オブ・モントリオール、クラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤー、ザ・リバティーンズ and a lot more!

2010年12月16日13時00分 (HI)

retweet

今週のカヴァーはリトル・バーリー。彼らの最新アルバムのレヴュー(インタヴューじゃなくて、すみません)は、ここに!

「DLすると横幅が1500pixel」となる画像をアップしました。あなたのPCの壁紙に使えるかも、って感じでーす!

2010年12月11日19時51分 (HI)

retweet

 秋が終わり、既にそれなりの冷え込みをみせてきている12月のシアトルで、ヴェニューこそ違ったがマッドハニーとパフューム・ジーニアス(Perfume Genius)という2組のローカル・アーティストを同じ夜に観ることができた。グランジ世代の最大の生き残りバンドの一つと、今年の夏に突然現れた、そんなグランジの残り香をかき消すような素朴なアンビエントを同時に味わうことで、ここシアトルの街の今昔を生々しく感じることができた。そんな一夜をレポートしたい。

retweet

 結論から言うと、すごくキラキラしていた。ヴォーカル/キーボードを務める蒼山幸子の声が出ていなかったことを考慮しても、彼女達が鳴らすロックは輝きに満ちていた。

retweet

 ヴェニュー(ライヴ会場)に入った途端、度肝を抜かされてしまった。会場全体、ステージ上だけでなくオーディエンスのスペースまでも、深いスモークに包まれているのだ。目をこらしてステージをみると、背面に多数の金色のパラボラアンテナのような反射鏡がこっちを向いており、それが天井や壁に設置されている小さな紅いライトを照らされて怪しげな色彩を会場全体にもたらしている。一般的なライヴより、幾分に濃い人工の霧と不気味に光る人工の光によって、ブロンド・レッドヘッド(Blonde Redhead)がステージに現れる前から、既に妖艶な雰囲気になっていた。

retweet

先日もお伝えしたクッキーシーンのムック第1弾「CDジャーナルムック『Cookie Scene Essential Guide: POP & ALTERNATIVE 00's: 21世紀ロックへの招待』」(内容の詳細はここ参照)、先日ようやく校了しました!

B5版変形サイズ(B5版の左右を3mmのばした、雑誌時代30〜60号と同じ判型)の本文160ページにぎっしり情報がつめこまれて、定価は税込1500円。来週木曜...12月16日にはお店に並びます。

CSM_H1H4_400.jpgまだプレス・リリースもできていませんが(汗&笑)、とりあえず表紙はこんな感じ...ということで!

イラストを描いてくださった中尾(旧姓杉田)あきさんは、In-Cというデザイン・オフィス(雑誌時代の28〜54号、61〜78号のデザインを担当。クローバー・レコーズというインディー・レーベルもやっているので、創刊直後からおつきあいがありました:笑)に所属していた時期に、クッキーシーンの現在のロゴを作ってくださった方でもあります。

クッキーシーンは今から10年前...2000年に『US Indie Pop Map』というA5版のディスク・ガイド本を出しています。そのときの表紙はラジカセのラフな線画イラストを使用していました(ちなみに、当時はIn-Cさんがデザインを担当するより前の時代)。あれみたいなノリで、今回の素材はノート・パソとギターかな...などと中尾さんに発注していたところ、実は彼女、当時のデザイナーさんの友だちでもあって、そのラジカセ・イラスト作成のお手伝いもしていた...と判明! びっくりしましたー(笑)。

デザインのみならず、内容も最高に充実していると思います。来週以降に、どうか是非一度チェックを...!

2010年12月9日8時15分 (HI)

2010年12月

|

retweet

  • フォー・ボンジュールズ・パーティーズ

    コンセプトは夢、つじつまが合わないような見た後に不思議な感じがするような

retweet

everything_everything_man_alive.jpg
 (もちろん今年の)サマソニ出演の翌日、渋谷DUO MUSIC EXCHANGEでエヴリシング・エヴリシングのライヴをお目にかかれたんだけども、なにより感心してしまったのは息の合ったコーラスワークの豊かさだった。ラップトップも含めた楽器を持ちかえたりしつつ、複雑に入り組んだバンド・サウンドを鳴らすのと同時に、横一直線に並んだドラム以外のメンバー三人が重ねていく歌声のハーモニーにウットリ。アメリカ人らしく牧歌的で土の香りがするローカル・ネイティヴスのそれとは違う、いかにも西欧的な神経質で厳かな響きは、ああ、クイーンじゃん、10ccじゃん、とも思ったし、バトルスとテイク・ザットの作業量をたった4人でこなしてしまう濃密/緻密で情報過多なパフォーマンスに圧倒させられた。クール・リストのトップにローラ・マーリン選んだ英NMEによると2010年のイギリスはフォーク・イヤーだったらしいが(極論?)、僕は彼らに待ち焦がれていた("ひねくれポップ"という文脈における)英国ロックの理想形を見た気がした。理想は言い過ぎかもしれないけど、こういう音楽をずっと聴きたかったんですよ。

 既に今年のUK新人勢でも筆頭格といえる人気を日本でも獲得しつつある彼らの、待望のファースト・フルアルバムが『Man Alive』である。インテリ然とした実験精神や創意工夫もさることながら、"マーシャルアーツを極めたゴスペル・シンガー"なんて無茶振りな形容をしたくなるほど、抜群の跳躍力と内省的なメンタリティが高いレベルで融合し、そして先述のとおり"古き良き英国"の香りまで漂わせる、すばらしい作品に仕上がっている。

 アルバムの起爆剤となっているのは過去にリリースされていたキャッチーなシングル曲だ。煌びやかなシンセのフレーズとともにラップさながらにファルセットを小気味よく乱射する、ボーイズ・アイドル・ポップスの奇形みたいな冒頭の「MY KZ, UR BF」、つんのめるビートと変拍子の嵐が生みだすファンクネスが痛快なマス・ロックのポップス解釈「Schoolin'」。XTCの「Life Begins At The Hop」をパラノイアックにかき乱したような、バスドラムの躍動感も気持ちいい「Photoshop Handsome」は今回の発売に合わせてPVも一新され、一筋縄でいかない彼らのユーモアがより具現化されている(スパークスの「Photoshop」につづくPhotoshopソングだ! と興奮し、彼らにその曲について尋ねたら、一言「知らない」と返ってきました)。

 他の収録曲については、「以前は完璧に作り込もうとするところが多かったけど、今回はインプロヴィゼーションの一発録りみたいなことにも挑戦した」というベース/キーボード担当であるジェレミーの発言どおりで、やや詰め込み方がトゥーマッチな構築美が印象的だったEP「Schoolin'」と比較して、よりラフでスペーシーに、やわらかい曲調なものが目立ち、起伏とダイナミズムに富んだ楽曲と交互につづくことで、アルバムを彩り豊かなものにしている。「Leave The Engine Room」では広大な宇宙を思わせる音響空間のなかでヴォーカルのジョナサンは得意のハイトーンをアカペラで聴かせ、「Tin (The Manhole)」はポスタル・サーヴィスを思わせるミニマルなエレポップを展開。壮大かつ少しクラシカルで、オーケストラを従えてもこのとおり様になる。音を詰め込みすぎずに複雑な要素をコントロールできるようになったのはバンドの成長の賜物だろうし、ビヨンセをはじめとしたR&Bやクワイア・ミュージックも愛する彼らの嗜好がより前面に出たともいえるかもしれない。「Two For Nero」ではゲーム・ギアや世界大戦に言及しながら、次の世代の子どもたちに向けてビーチ・ボーイズ調の讃美歌を披露する。真っ当な父親になれよ、子どもをつくれよ、と。他の楽曲も、躁鬱のギャップが激しい視座によるエキセントリックなサイエンス・フィクション風の歌詞がどれもイチイチおもしろいし、挟まれるシリアスで批判的な問題提起はこのご時世、たいへん貴重といえる(だからこそ、国内盤がリリースされて本当に嬉しい!)。

 ダブステップなどのクラブ・ミュージックや、レイトバックしたフォーク/ポップスに圧され気味だったイギリスのロック界において、レディオヘッド以降の"バンド・サウンドに固執しないバンド・サウンド"の在り方に、何年か越しで明確な回答を示したバンドとも位置づけられるかもしれない。卓越した演奏能力をもちながらテクニカルな部分ばかりを誇示するのでなく、自由に伸び伸びと息をしながら、よりメジャー感のあるスケールを獲得したこの作品は、保守的で重苦しいムードを吹き飛ばし、これから控えるエジプシャン・ヒップホップら新世代のUKバンドより一足早く、新しい感性の到来を知らせるファンファーレを鳴らし、種蒔きの地ならしをしたという点でもとても価値がある。「オプティミスティックで肯定的で、どこにでも行けるような無限の可能性」が込められているというバンド名のとおり、貪欲に過去の音楽遺産を吸収しながら、あくまで自分たちの文脈を信じ、自分たちらしい筆致で歴史を塗り替えアップデートさせていく。音そのものは幾重にもネジレながら、愚直なまでのシリアスな決意と力強さにみちた快作だ。

retweet

wavves.jpg
 ウェイヴスことネイサン・ウィリアムズは、間違いなくシット・ゲイズやニュー・ゲイザーの文脈で注目されたし、評価もされていた。実際昨年リリースされた2枚のアルバムは、シット・ゲイズ/ニュー・ゲイザーが持つ精神性を分かりやすく表現していたし、今後このシーンが語られていくとしたら、間違いなくマスターピース的な存在として挙がる傑作だ。

 でも、僕はシット・ゲイズ/ニュー・ゲイザーを好きになれないところもある。何故かというと、「自由にやっていいんだよ」というすごく現代的なメッセージを、あえて閉鎖的なコミュニティを作り上げると共に「内省的な趣味性」という退屈な堂々巡りとすり替えたバンドが多く生みだしてしまったから。産業としての音楽が崩壊し、音楽そのものもジャンルという檻から開放されたのに、「内省的な趣味性」という枷をジャンルとして自らに課すこともないだろう? と思うのだ。

 僕が思うに、これは「シット・ゲイズ/ニュー・ゲイザー」という名前に原因がある。シューゲイザーは、甘美で「ここではないどこか」へと誘ってくれるものだけど、シット・ゲイズ/ニュー・ゲイザーと呼ばれているバンドの多くは日常的な美しさに興味があると思う。だからこそ、剥き出しのざらざらとしたノイズを放っているのだ。ほとんどの人が、シューゲイザーに対するイメージをシット・ゲイズ/ニュー・ゲイザーに引継ぎ過ぎている。乱暴な言い方をすると、シューゲイザーは、「クソなものはクソ」だから逃避する。一方のシット・ゲイズ/ニュー・ゲイザーは、「クソなものこそ最高」。つまり、「最高なクソ音楽」ということになる。クソな日常を変えるために、クソな日常を描き出す(ついでに言うと、アトラス・サウンドのフリーDLアルバムのタイトルが『Bedroom Databank』なのも象徴的だ。ベッドルームは、日常が始まり終わる場所だから)。

 そして、『King Of The Beach』も最高にクソだ。『King Of The Beach』や「Post Acid」というタイトルに込められた皮肉。ノイジーでサンシャイン・ソウル的ですらあるサイケデリック・サウンドは、聴く者をトリップさせる。しかしそのトリップは、「どこかへ行く」というものではなく、我々が生きる日々のちょっとした横道に存在する「開かずの扉」を開けただけの、日常に根ざした「視点を変える」類のものだ。前2作のアルバムはすべて宅録だが、今回はモデスト・マウスなどで有名なデニス・ヘリングをプロデューサーに据えスタジオ・レコーディングを行っている。そのせいか、ポップなガレージ・ロックという音になっている。カート・コバーンとジョン・ライドンを合わせたようなネイサン・ウィリアムズのヴォーカルも面白い。そういう意味では、前2作にあった異端的な雰囲気はないし、人によってはそこが気に入らないかも知れない。でも、僕みたいに極度の内輪ノリが好きじゃない者にとって、開放的なエネルギーに溢れているこのアルバムはすごく意欲的なものとなっている。ひたすら実験的な音を出したいのか、それとも「ポップこそが実験的な音楽なのだ」と言いたいのか、そこがはっきりしないという意味では過渡期なアルバムかも知れないけど、『King Of The Beach』が多くの人に訴えかけようとしているアルバムなのは間違いない。

retweet

warpaint.jpg
 人は他人との距離を測りながら生きている。そのなかで失うものもたくさんある。これが「大人になる」ということで、だからこそ「若いうちにやっておけ」なんて言葉も聞こえてくるわけだけど、僕みたいに、本来失うはずのものに執着しているような人間は、「大人」という集団から疎外され孤独に生きるしかない。でも、愛というものがある限り、人間は孤独になりきれないわけで、だからこそ自由や快楽を求めてしまうのかも知れない。LAの4人組によるこのデビュー・アルバムは、孤独のなかで自由や快楽を謳歌している。ちなみに、彼女達のデビューEPは「Exquisite Corpse(=素晴らしき死体)」という。つまり、彼女達は「死」から始めているのだ。それでもなお、自ら求めるものを鳴らしながらどこまでも堕ちていく。そんな彼女達が鳴らす音を聴いていたら、不思議と涙が出てきた。

 初めてこのバンドを聴いたとき、ちょっと昔の懐かしい思い出が蘇ってきた。周りの景色が捻れ、色彩感覚が狂っていく。地上から数センチ浮き、体が花開くような覚醒感。こんな感覚を音楽で体験したのはかなり久しぶり。シット・ゲイズ/ニュー・ゲイザー以降の流れを意識した音になっていると思うし、ジ・エックスエックスもお気に入りと公言するのもよく分かるダークな雰囲気もある。でも一番すごいのは、雰囲気だけの凡百シューゲイズ・バンドと違って、しっかり音楽的な冒険と好奇心があるところ。プロダクションも凝っているんだけど、これはトム・ビラーとアンドリュー・ウェザオールの影響というよりも(トムとウェザオールはミックスを務めていて、トムはプロデューサーでもある)、彼女達自身が音作りの段階でかなり作り込んでいる思われる。それでも「理性的な本能」ではなく「本能そのもの」として聞こえるのは、理性と本能が共にレッドゾーンを超えているからだと思う。それは、最早どっちかだけで生き抜くことは難しい(時代的にも音楽的にも)ということを図らずも証明しているようだ。そういう意味で言うと、まさに「今」でなければ生まれなかったアルバムだと思うし、だからこそ多くの人に聴いてほしい。癒しや救いとは相反する死と隣り合わせの陶酔をもたらしてくれる『The Fool』は、間違いなく現代のサウンドトラックだ。「ただの良いアルバム」として片付けてはいけないし、片付けられないアルバムだと思う。

retweet

margaret_dygas.jpg
 日本盤は彼女自身が撮り下ろした写真が収められたフォト・ブック仕様になっている。陰翳を活かした写真、ぶれた人間が写ったもの、反面、明瞭に切り取られた青空の下の海、自然の緑をメインに、あくまで輪郭を結ばないアート・コンシャスな構図を保つ。しかし、クレジット前の一枚の写真では何処かのレコード・ショップのヴァイナル・コーナーであろうショットが採用されている。そこには、敢えて目立つように「MICHAEL JACKSON」というレコードを区分けするタグにピントが当てられている作為性もある(インタヴューを読むと、昔から彼のことが好きだったようだ)。
 
>>>>>>>>>>

 マーガレット・ディガス(Margaret Dygas)が「今のような音」に辿り着くまでにどれだけの歳月と試行が費やされたのか、想像するに難くない。

 2006年からベルリンを拠点にDJや活動の主体を移すまでの長い紆余曲折―。ポーランドでの出生、ドイツでの生活、その後の1980年代後半のアメリカのカリフォルニア、1990年代初頭のニューヨーク、1999年のロンドンでの暮らし、と都度、オールドスクール・ヒップホップやハウス、テクノといったシーンの持つ音楽の歴史的背景に引っ張られる形で、場所を固定せず、デラシネ的に動き続けた。その中で、現在にも繋がる「ダヴとミニマルテクノのエクレクティズム」を見出したオンリーワンのサウンドを探し当てることになるのはロンドン滞在時のことだ。Fabric、The Keyといったロンドンの主要クラブでレジデントDJとして名を馳せ、その「名前」を持ったままで、ベルリンでより実験を進めた結果、よりドープによりミニマルな音に意識が向いていった事は推察できる。
 
 ベルリンに移ってからは、ドイツの各地のクラブでのプレイのみならず、Crosstown RebelsやCadenzaという著名なレーベルに招かれる形でツアーにも出ることになり、そして、PERLON、OSTGUT TON、CONTEXTERRIORなどのベルリンの名門のミニマル・レーベルから作品もリリースすることになり、世界的にも彼女の名前が知られるようになった。そんな状態の下で、日本でも汎的に知られる事になるだろうこのアルバム『How Do You Do』はそのタイトル通り、彼女がワールドワイドに展開する為の"改めての挨拶状"のようなものでありながら、また、キャリアを一旦、総括した節もあり、現在のミニマル・テクノ、クリック・ハウス、テクノ・シーンに一石を投じる内容にもなっている。徹頭徹尾、ストイックなまでに切り詰められたダヴィーなサウンド。そして、巷間のダブ・ステップなどの流行りの音に一瞥だにしないかのような彫刻美のようにシェイプされた最小限の音と隙間を活かした音響工作。

 トム・ヨークも好きなモードセレクター(Modeselektor)などが属する、レーベルBpitch Controlのオーナーにしてベルリンを拠点にするDJ/プロデューサーのエレン・エイリアン(Ellen Allien)の最新DJミックス『Watergate 05』の中でルチアーノ(Luciano)やロイクソップ、そして、アフィなどとともに選ばれている彼女の曲の「Hidden From View」(今回のアルバムにもミックス違いで入っている)もフロアー・コンシャスで良かったが、アルバム総体を鑑みたときに白眉なのは電子音が細かく刻まれ、時折、漆黒の闇へと吸い込まれるような展開を見せながら、9分強の間にじわじわと熱を持ち、盛り上がってゆく「Salutation」になるだろうか。何にせよ、このアルバムでは、今までにないオーガニックな要素も伺え、ダークながら風通しの良いトラックも増えたせいか、自然とハーバート、マウス・オン・マーズ、リカルド・ヴィラロボス、リッチー・ホウティンの影までちらつくのが微笑ましくもある。しかし、それらのどの音とも違う彼女特有の美意識に貫かれた「重さ」があるのも流石だと思う。その「重さ」はこれまでの来し方を示したものなのか、昨今の表層的に高機能化したクラブ・シーンへの直訴状のようなものなのか、様々な思慮が巡るが、アルバムを聴き通して、インタールードの意味も含む鳥の囀りや自然音を含んだアルバム冒頭の小品「Note Note Note」に戻ったときに、新たな時間の"捻じれ"が起こり、これまでの音の流れが全部、繋がっているような感覚になる。
 
 彼女のこの突き詰められたミニマルな音世界とは、元来、フィリップ・グラスやスティーヴ・ライヒなどのミニマル・ミュージックで既に雛型が作られてきた。それが、テクノロジーの進歩により、何の誤差もなく"反復"することが可能になり、その反復を活かしたのがクラフトワークであり、更に機能性を突き詰めた骨組みだけにしたものの多くが「ミニマル・テクノ」というジャンル内に犇く。彼女もミニマルテクノの"手続き"を取りながらも、しかし、規律的な反復を選ばず、微妙なフレーズの"揺らぎ"によって対象を捉える。そこにピアノの断片や差異を示す電子音のフレーズが多彩に転がる。その"揺らぎ"がトランシーに受け手の五感に「効く」。
 
 このアルバム自体、1時間程の尺に纏められたコンセプチュアルな側面も見えるものの、それほどの「永さ」も感じさせず、また、それだけの「瞬間性」も無い。つまり、このサウンドスケープ内で永遠と刹那の狭間を彷徨する亡霊は、ドイツの歴史が孕むミニマルテクノの"それ"かもしれないし、世界中を廻った彼女が拾い上げたクラウドの切り詰まった"感性"の集成なのかもしれないのだ。そう考えてゆくと、マーガレット・ディガスという人が何を音に仮託しようとしているのか、明確になるかもしれない。

retweet

duffy.jpg
 ウェールズの片田舎から登場し、『Rockferry』が大ヒットしてから早くも2年が経つ。その後、「Rain On Your Parade」なんてグリッターさフルスロットルなシングルもあったけど、ダフィーにはオールド・ファッションかつソウルフルなポップが良く似合うことを、あのデビュー・アルバムは雄弁に語っていた。その彼女の適性を更に推し進めたのがこの2nd『Endlessly』だ。

 ほとんどの曲を、アルバート・ハモンド(そう、あのザ・ストロークスのギタリストの父!)が共に書き上げ、プロデュースまて手がけ、全編を通してオーケストラが使用されている。しかも、数曲では、スチュアート・プライス(ザ・キラーズ、シザー・シスターズ等)の名前も登場するし、更に、シングル「Well, Well, Well」ではザ・ルーツのクエストラヴによるドラムがビートを刻む・・・という豪華な布陣。ここで彼女の本領が発揮されないはずがない。

 オーディエンスのざわめきをインサートしたオープニングの「My Boy」は、グルーヴ感と溢れるモータウン風ポップに仕上がっているし、「Too Hurt To Dance」や「Don't Forsake Me」では洗練されたストリングスをバックに切なく歌い上げる。その一方、「Lovestruck」や「Girl」ではエレクトロを導入しているものの、彼女の魅力を損なうような過剰な演出は避けられているのがいい。その結果、セピア色のノスタルジアをまとっていた1st時とうってかわり、彼女の声の表情は曲ごと豊かな変化を見せている。そこからは、彼女の確かな成長が垣間見られるはずだ。

 まるで、この2年間の変化は『マイ・フェア・レディ』を見ているよう。彼女が現代のダスティ・スプリングフィールドと呼ばれるのにも改めて納得だ。

retweet

francesco_tristano_schlime.jpg「演技」という概念が音楽に付き纏うのは周知だろう。

 例えば、いまだ未熟だった頃のヴァーグナーに対してアドルノは「王になるのではなく、指揮者のように立つのだ」という発言をしているが、この場合は「演技」という言葉が否定的な意味を含んでいる。元来、「演技」とは、演技を披露するものと鑑賞するものに相互性によって自覚される「社会的」な行為である。だからこそ、状況論として共犯関係が生まれるほどにアーティスト側は演技力を要求され、より状況主義への依存性を孕み、また、それによって喪われてしまうものも多々ある。だからこそ、ホッブズ、ルソーやロックといった思想家は「自然状態」を仮置することで、一定の実験装置側からのパースペクティヴも備えた。社会形式の上で演技を巡って取り交わされることによる本質主義から逸れてしまうディレンマは現代においても枚挙にいとまがない。

 考えてみるに、演技としての「ダンス」という行為は身体的な側面だけではなく、思索的側面があり、多義的な意味を含んでくる。ダンス自体を「娯楽」として解釈するだけでは事足りず、例えば、マイノリティと呼ばれる人たちが「ダンスを希求する」のはフロアーの中でこそ、"名前を失う"ことができる参加証を取る行為と近似する。と同時に、フーコー的な現代的な一望監視社会が持ち上がってくる中で、フロアーでもIDチェックなどで身分が囲い込まれ、トライヴが各々の身分を策定し合う中、その差異を策定し続ける社会的な「戦略の場」としても用いられてしまう事実にも自覚的でなければならなくなっているのも自明の理だろう。一方で、仮構化された身体性の起源を掘り起こす試みとしてのダンスもあり、文化的なものに回収することができない一回性の現場感覚への帰納する際には「演技」としてのダンスの概念はどうしても必要にもなってくる。

 ならば、デトロイトにおけるチャールズ・ジョンソンの影は現在では何処に視えるのだろうか。人種や国に関係なく、ジョージ・クリントン、クラフトワーク、YMOまでを跨いだ選曲センスが掬いあげた「声なき声」。振り返ってみると、1980年代の初頭、日本の自動車業界のアメリカ進出のあおりを受け、デトロイトは主たる産業とする自動車分野が落ち込み、失業や犯罪が増えるようになった中で、ラジオDJのチャールズ・ジョンソンは国境を越えた選曲を呈示し、それらの曲群にフック・アップされたユースの中にデトロイト・テクノの軸となるホアン・アトキンス、デリック・メイ、ケヴィン・サンダーソンが居たという事実は周知だろう。その中のデリック・メイが1987年に生み出した「Strings Of Life」はヨーロッパのレイヴ・シーンとも「共振」し、フロアーアンセムとなり、遂には時代を越えるクラシックとなった史実としても重い意味を持つ曲だ。

 その重い意味を持つ「Strings Of Life」を純粋な藝術的感性でもって優美に大胆にピアノで演奏してみせた現代音楽界の俊英、フランチェスコ・トリスターノ・シュリメ(Francesco Tristano Schlimé)の存在は当初は異端として、また訝しくも目に映ったのも当然かもしれない。しかし、彼の「Strings Of Life」をかのマッド・マイク、カール・クレイグやジェフ・ミルズといった面々が称賛をしたというのは興味深かった。そして、クラシック界からのテクノへの回答とも言われた2007年の『Not For Piano』ではオリジナル曲以外に、デリック・メイのみならず、オウテカやジェフ・ミルズまでもピアノで再構築した。そのディーセントなワークには毀誉褒貶も付き纏う事になってしまうが、それでも、彼はクラシック・ピアニストとしての矜持を保ったまま、バッハ、ハイドン、ストラヴィンスキーなど古典に挑むのと同じような位相でそれらの曲を同じプログラムの中で演奏してみせた。また、クラシック・ピアニストのラーミ・ハリーフェ(Rami Khalife)、ドラマー等をつとめるエイメリック・ヴェストリヒ(Aymeric Westrich)との3人でのAufgangではエレクトロニック・ミュージックへの求心性も高めた。

 その流れから想定できたことかもしれないが、カール・クレイグをプロデューサーに招聘して作品を作っているとの情報が入り、出来上がったのがこの『Idiosynkrasia』になる。意味深長なタイトルは、古代ギリシャ語から取ったものであり、"Idiosynkrasia"には、"自身への正しいやり方"といった意味があるという。2年もの歳月をかけ、カールのレーベル・スタジオであるデトロイトのPLANET Eで、レコーディングやミックス、エディットの作業を行ない、リアルタイムでレコーディングした音をエフェクトなどで加工したり、その上にシンセサイザーやドラムマシン、シーケンサーを乗せていく方法が功を奏したのか、全体を通底するスペイシーなムードは独自のものを帯びることになった。シュリメの崩れ落ちそうな繊細なタッチが映える「Lastdays」、軽快に跳ねるピアノをベースに打ち込みが入り、じわじわと盛り上がってゆく展開が印象的なフロアー・コンシャスなタイトル・トラック「Idiosynkrasia」、IDM的な雰囲気も感じさせる「Single and doppio」など、幅広いレンジを保持しながらも、不思議な音の訴求力がある。

 これは、彼が子供の頃に母親のLPで、クラフトワーク、ジャン・ミシェル・ジャール、ジョー・ザヴィヌルなど多くのアーティストを聴き、ニューヨークでの学生時代にデトロイト・テクノに出会ったという「来し方」を残す(巷間に示す)ための作品であり、また、バッハを始めとしたクラシック音楽は博物館に置かれているような鑑賞用の芸術品ではなく、今も生きていて、テクノやジャズとも"シームレス"に繋がっていると言う彼の貪欲な冒険心の現在進行形の一端を示す作品と位置付けるのが相応しい気がする。また、「生の音楽」としてこれはあまりに現代的であり、現代的であるがゆえに、この作品は「演技」としてのダンス・ミュージック的性格も帯びる。何故ならば、ダンスというものは、それを通じて"対話"をはかる空間を創出する要素もあるからだ。この作品の中でおこなわれるダイアローグは差異を画定し続けようとする社会的なシステムを迂回する内密さを帯びる可能性もあるだろう。

 しかし、一点、苦言を呈すと、現代音楽界の才人の歴史への敬意とデトロイト・テクノの要人の現代音楽への怜悧な視点がぶつかり合ったにしては、音像が存外、淡白でもあるのが個人的に残念でもあった。多くの人たちに届くべき挑戦的な作品と思うだけに、もっとジャンルの垣根や国境を越える何かを孕むものになって欲しかったという気持ちは否定できない。

(松浦達)

retweet

dragon_ash.jpg 前作『FREEDOM』から一年九ヶ月後に発表された、Dragon Ashのフルアルバムとしては九作目になる『MIXTURE』は彼らの誇りであるミクスチャー・ロック・バンドとしての今を鳴らしている。ボーカルであるKj(降谷健志)はライブやフェスでミクスチャー・バンドである事を誇りであると言っているし、ミクスチャーバンドとして出てライブハウスもやらせてくれなかったり出演する機会がなかったデビュー時のこと。その中でずっと続けてきた仲間だったミクスチャーバンドも次々と解散してしまったりしている事を語る。しかし自分たちは辞めないと意思表示している。解散してしまった仲間たちの想いはアルバムに先行されて発売された「SPIRIT OF PROGRESS E.P.」にも収録されている『ROCK BAND』という曲の中に歌われている。

 表現者は最初の作品に全てが集約されているという。ずっと同じテーマを違った見方や表現でしているともいう。それは村上春樹がずっと「父親」になれない問題を何十年も描くように、それは『1Q84』BOOK3にてようやくその先を描き出したように。Dragon Ashはバンドスタート時の三人から現在は七人に増えている。彼らのライブを観た事のない人はロックバンドになぜダンサーが二人もいるのと聞いてくるのだが、それはライブを見て体感してほしいとしか言えない。ミクスチャーロックとは様々なジャンルの音楽を混ぜ合わせた音楽だからそこにダンサーによる身体性が加わる事でさらにハイブリット化する。それを体現しているのが彼らだ。しかも第一線でずっとそれを続けてきたロックバンドだ。

《出る杭になればいい 笑いたい奴は笑えばいい
修練後ケツ蹴ってやんな 10年後お前がベテランだ》

 上記は「SKY IS THE LIMIT」という曲の歌詞だが、これは彼らの新しいバンドや次世代の人に、今何かをがんばっている人へのメッセージであり、彼らが体験した事だ。フェスなどでずっと聴いてましたと若いバンドに言われるような立場になってしまったベテランのロックバンドとしての想い。そんなものがこのアルバムには感じられる。

 ZEEBRAによる公開処刑の後に音楽を辞めようとし、発売予定だったアルバムも中止し、最低の状態まで落ちたKjはそれでも音楽がやりたいと復活し彼らはラップとのミクスチャーからラテンとのミクスチャーに変化し新しい形を得たのがこの数年間であり、前作『FREEDOM』はラテン・ミクスチャー・ロックの一つの到達点だった。そんな彼らが次に作り上げたのは初期衝動を思い出すかのようなミクスチャー・ロックを鳴らす事だった。アルバムを通して聴くと初期のアルバムに近いものを感じる。が、もちろん同じではない。

 さきほど書いた事でいうと永遠に同じループをする表現者と螺旋階段を上っていくタイプがいると思うのだがDragon Ashのニューアルバムに感じられる初期衝動のようなものは13年前にデビューした場所から延々にループしたのではなく色んな階を見ながら自らに取り入れて上がった螺旋階段的なものだという感じ。表現方法やパフォーマンスが上がった事でできるものをアルバムの中に取り入れているから、どことなく初期の作品のニュアンスを感じられて嬉しく思いながらはっきり進化した形を今のバンドの状態で表している。

 日本の音楽シーンでヒットチャートに入るラップやレゲエで家族愛や仲間の事を歌うのが広まったのはKjの責任が大きい。正直、歌で家族に向けての想いを歌うなら直接言えよと思う、歌って伝えるのは違うだろと。あなたにとって一番大事なものは何ですかという質問で今や「家族」は一位だ。世界が変化し、日本社会の旧来の制度が崩壊し、会社も社会も信じられなくなったら家族しかなくなった。でもその家族もとっくの昔に崩壊しているのに。最後に残された家族という幻想に日本人はすがる。
 
 Kj本人も家族愛などを歌うのが広まっているレゲエやラップが広まった責任も自覚していると雑誌のインタビューなどでも語っていた。だがそれだけミクスチャーバンドとして彼らの影響は大きかった。その責任の代償としてか彼は尊敬するミュージシャンからディスられ暗い穴に落ちて沈んだ。そこからの復活からの音楽の方が僕は好きだ。
 
 アルバム『Harvest』以降は祈りにも似たロックサウンドだと思う。神に届かない祈りでもリスナーに届き彼らの内面を鼓舞する優しさがある。Dragon Ashをしばらく聴いてないという人にもお薦めできるアルバムだし、初めて聴き始めるにも彼らの魅力が伝わりやすいものだと思う。父親になっても初期衝動を忘れないKjと、彼と共に進むこのバンドがこれからも色んなものを取り込んでミクスチャーして独自の進化を続けるハイブリッドな存在になっていく、そして轍ができる。まずはアルバムを。そしてライブで。ライブに行ったら飛び跳ねて重力を振り切って舞い上がってほしい。

《まるで街角のポスター 一つ張られ一つ消えるロックスター
路地裏で生まれた名曲 星空のようにシーンをmake up
夢見た理想と現実 あらがい鳴らすディストーションと旋律
洗い流す胸の中 そう"未来は僕らの手の中》
(「ROCK BAND」より)

(碇本学)

retweet

Fellini.jpg 蓮實重彦が以前に言っていた映画のイデオロギー的な"再編"とはどういう意味だったのか、今こそ考えてみるべき余地はあると思う。

 例えば、1920年代のソ連での、セルゲイ・エイゼンシュテインやジガ・ヴェルトフらが視覚的効果を利用して製作していた実験的な前衛映画作品が批判され、1930年代に、それと代替されるように「社会主義リアリズム」と呼ばれるような民衆受けするナラティヴを丁寧に敷いた映画がスターリン政権によって推奨されることになり、本流を歩むようになったことは象徴的な史実の一つだろう。また、映画領域ではないが、後に「ジダーノフ批判」として有名になる、社会主義リアリズムに反したヴァノ・ムラデリに対しての処置も似たようなものだ。ソーシャリズムに相応しい主体的契機とは何なのか、考えてみると、それは、他者と共感する、他者の差異性を肯定する主体性でなくてはならない(はず)だろう。近代的な合理主義はだからこそ、対照的である。この「共感性」は、優れた芸術に満ちており、繋がっているものであるからだ。そうなると、ソーシャリズムが仕掛けたイメージ枠の中に「政治的メッセージ」が組み込まれ、観客が求めるのではなく、「求めさせられる」観念性自体の幅広い共有がメディアからのコロニアル化を迫られるということだ。こういった例は、イデオロギーの周縁を巡って枚挙にいとまがない。惟うに、フランスのルネ・クレールの転回もそういった映画のイデオロギー的"再編"の一環に組み込まれるだろう。『巴里の屋根の下』以前の彼はもっとエクスペリメンタルだった。

 しかし、蓮實重彦のこのような主張を、ハリウッド手製の古典的な物語映画への政治面での批判として読む手順をなぞるのは得策なのか、考える必要がある。つまり、己自身を観念的な物語を伝達するための透明な「メディア」の地位にまで落ちていったハリウッドの大型の娯楽映画とは、その装置性をしてナイーヴに批判できるだけの意味文脈があるのか。現代の高度情報化社会での「メディア」や「コミュニケーション」のヘゲモニーを創出しているのは、マスメディア機能として不全状態に陥った凡庸な物語映画である要素は看過することはできない。
 
>>>>>>>>>>
 
『8 1/2』は初めから映画のメディア機能としての不全の状態から始まっている。それでいて、『道』のような丹念に編まれた物語映画や難解と言われながらも、実は骨子は明瞭な『甘い生活』から「退却」している点も面白い。周知の通り、1960年時点で、フェリーニは映画界の頂点には君臨しながらもカオスの真っ只中にもあり、「美しき混乱」と名称付けられた"それ"は、スタッフ、脚本人の迷妄もありながら、それまでの彼が撮った映画のうちの『寄席の脚光』はアルベルト・ラットゥアーダとの共作だったので、1/2とも換算した通算映画の本数とも言えたり、その他の数多のエピソード(それは映画雑誌や探せば幾らでも出てくるだろう)、結果的に『8 1/2』と曰くつきの表題に至った。そして、彼の生涯で最後のモノクロームに縁取られた退屈な貴美さは撮影監督のジャンニ・ディ・ヴィナンツォの手腕もあったのか、コントラストが鮮やかで、カラフルな色彩よりも雄弁な麗しさを画面そのものが帯びている。

 ストーリー自体は多くは語るまでもなく、映画監督が映画監督自身の苦悩をモティーフにした「メタ映画」だ。マルチェロ・マストロヤンニが演じる43歳の映画監督グイド・アンセルミは、映画監督という職業上の苦悩、「女性たち」を巡っての溢れ出る感情、想い出、回想、幻惑と夢と混沌を行き来しながら、点は線を結ばず、伏線は断線を呼び寄せるかのように、次のイメージの奔流に飲まれ、消滅してしまう。

 温泉地に逗留しにきたグイドは、愛人のサンドラ・ミーロ演じる豊満な白人女性カルラ、従順で美しいアヌーク・エーメ演じる妻ルイザ、また、職業上での知人たちとの煩わしい関係性から逃れることはできず、疲弊する。カルラは美しい女性だが、肉体的関係で結ばれている存在であり、今のグイドにとっては面倒な感情も持っている。妻のルイザとの関係も倦怠性を帯び、別居することを考えはするものの、結局は必要にもなってしまう。そんなグイドの心に願望の「象徴」として若くて綺麗な女性のクラウディア・カルディナーレ演じるクラウディアがよぎる。そして、そういった女性たちを巡る幻念から思索は、今は亡きグイドの母親へと行き着き「循環」する。あまたの女性「性」の発現とそれに対する無意識裡からのアディクト、あるいは抗い。ユングは男性の中にある無意識の女性的な資質を「アニマ」と称し、男性はこれを「現実」の女性に投影し、そこで新たな(再)発見すると言ったが、ユングを敬愛していたフェリーニの想いはこの映画でこそ、歴然と発火している。
 
>>>>>>>>>>

 ラスト・シーンの「出演者たち全員が輪になって踊る」構図は映画に疎い人でも散見したことがあるとは思う。しかし、これは「予告編の為」のシーン割りであって、本当は「失われた結末(ロスト・エンディング)」があった。実は、この映画のエンディングとして登場人物達が白装束を着て、列車に乗ってどこかに向かうというシーンが撮影されていたのだが、それは結局は使われなかった。作品として、"チネ・チッタ"という「虚構の国」の規律するタナトスとエロスの絡み合う祭祀性へ捧げる形を取る為には当時は「輪になって踊るシーン」で終わる必然があったとも言える。

>>>>>>>>>>

 最後に言及しておこう。ニーノ・ロータの音楽が全編を麗しく彩りながら、個人的に、フェリーニの作為と、映画のイデオロギーが帰一する"再編"への明確な縄抜けとも言えるシーンがある。それは、湯治場でのマダム達の登場と喫茶のシーンでかかりつづけるヴァーグナーの「ヴァルキューレの騎行」なのだが、なぜ、この曲がこんな何気ない場所、シーンで選ばれたのか、判らない。「ヴァルキューレの騎行」といえば、例のコッポラの『地獄の黙示録』での使い方が象徴的だったが、ああいったベタな作用ではなく、ここでのヴァーグナーはもっと鼻歌のようなものである。その鼻歌を口ずさむように現代においては「輪になって踊る祭祀性」ではなく、「ロスト・エンディング」として用意された肥大したモダニズムに対してのフューネラルの記号のような白装束で列車に乗りこむべきシーンの方が「合っている」というのは少し悲観が過ぎるかもしれないが、どうだろうか。

 政治的に映画が再編されることが増え、グローバリゼーションの手の上で「平板な映画」が溢れるなかで(それは、3D映画の台頭という事象とリンクした形なのも興味深い。)、この混沌としたイメージ片が散らばった『8 1/2』が提示する意味はいまだ大きいと思う。もし、フェリーニが今、生きていたら、どのような想いで二つのエンディングを位置付けるのか、知りたくもなる。もしかしたら、「その先」もあったのかもしれないと夢想するのも悪くない所作だと思うのだ。

(松浦達)

2010年12月11日

|

retweet

2010年12月8日

|

retweet

retweet

1_Little_Barrie_101211.jpg
 いわゆるガレージ・ロックというタームがある。「比較的住宅状況に恵まれており一家に少なくとも一台は自家用車を持っていたアメリカ郊外のキッズたちが、60年代に両親のガレージを勝手に占拠して見よう見まねで(もしくはD.I.Y.的に)始めた、がしゃがしゃうるさいロックンロール」をさす言葉として登場した。

 70年代にレニー・ケイが編纂したコンピレーション『Nuggets』は、プレ・パンクの象徴とも60年代サイケのエッセンスを凝縮した名盤とも言われているのだが、それはそのままいわゆるガレージ・ロック・サウンドの原型ともいえるものだった。リトル・バーリー待望のサード・アルバム『KIng Of The Waves』には、そこに入っていた素晴らしいトラックの数々にも決してひけをとらない、熱い初期衝動が凝縮されている。

 中心人物バーリー・カドガン(ギター、ヴォーカル)は、プライマル・スクリームのギタリストとして彼らのツアーなどに参加するのみならず、モリッシーのギタリスト&ソングライターとしても活躍、ポール・ウェラーやスピリチュアライズドのレコーディングにも力を貸した。さらには今回から新ドラマーとしてヴァージル・ハウ(イエスのギタリスト、スティーヴ・ハウの息子:笑)がメンバーに加わった...といった情報からは、なんか「セレブ」っぽい、どこが「ガレージ・ロック」だ...と思うかもしれない。

 しかし、ここで聴ける彼らの音楽には、これまで以上に(いい意味での)「クズ」っぽさが強烈に漂っている。バーリーがギタリストおよびソングライターとして玄人筋の高い評価を受けるようになったのは、あくまでファースト・アルバム(『ウィー・アー・リトル・バーリー』:2005年)リリース以降のこと。あの時点での「どこの馬の骨か知らんけど、こいつらかっこよすぎ!」という衝撃は並じゃなかった(ちなみに、初期チャットモンチーが、そのアルバムへのオマージュと思われるアートワークを採用していたことにも、おおいに納得したものだ)。それと同じくエドウィン・コリンズがプロデュースを手がけた本作には、ソニック面のガレージ・センスはもとより、当時と同じ「誰でもない」感覚および鼻っ柱の強さが存分に表現されている。

《王様のいる首都に行くとわかる/なんてひどいことをやらかしたのか/資本主義の王者が支配する町が教えてくれる/あまりにひどいことをやってきた/あんたも含む誰の心にも/「変化」のかけらさえ見いだせない》《汚いシャツを売って小銭が瓶いっぱいたまった/汚れたシャツを売って小銭を瓶にいっぱいためた/タンポポの綿毛を吹いてる少女よ/そのお守りをこすって幸運を祈るんだ》《今/俺たちは/どこでもない場所にいる》
(「Now We're Nowhere」より)

 バーリーは、エドウィンの奇跡の復活アルバムにも参加していた。今でもオールドスクールなインディー・スピリットのかたまりのような存在としてUKプレスに怖がられている(笑)マネジャー&妻のグレースには「バーリー? もう(わたしたちの)ファミリーよ、ファミリー(笑)」みたいに言われていた。

 UK音楽界の鬼っ子...オルタナティヴな存在であるエドウィンおじさん&グレースおばさんのガレージで演奏に熱中するキッズたち...というのは冗談として具体的な話をすれば、バーリーくらいの存在になればミュージック・ビジネスの王道にもっと食いこんで、流行の寵児になれそうなものだ。しかし彼らはあえてそれをやらない。日本盤ボーナス・トラックの最後に収録された「We Can't Work It Out」(ビートルズ「We Can Work It Out」への返歌?:笑)の歌詞では「えっ、こここまで言って大丈夫なの(笑)?」というくらい、ポップ・ミュージック/ロック・ビジネスの「アイコン」商法...スター・システムにブラックな皮肉をぶつけている。

 だいたい、『KIng Of The Waves』なんてアルバム・タイトルからして皮肉っぽいではないか。

《いい感じのものと「売れる」ものの狭間で/俺の心は塀につるされたまま/好転するなんてことを信じてるとしたら/ちょっと思慮に欠けるんじゃないかな/だから今は/おまえと俺の「虚飾の時」を燃やそう》《「救い」など存在しない/海の王者ではなかったとしても/決して救われることはない/「波」を代表する者ではなかったとしても》
(「KIng Of The Waves」より)

「思慮の浅い者たちのふるまいを、精神的優位に立ちつつ鑑賞して楽しむ」といった日本型エンターテインメントの典型に近いものを期待するのであれば、このアルバムには手を出さないほうがいい。11曲目(日本盤ボーナス・トラックをのぞくラスト・ナンバー)「Money In Paper」では、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドやプライマル・スクリーム、クラウトロックにも通じるエキセントリック反復ロックをとおして、現在の世界の資本主義状況を見事に揶揄している。その鋭さが気持ちよすぎる。「思慮深いバカ」による最高のロックンロールだ。

 思慮の浅さや深さに関わらず、いい感じのバカであることは言うまでもない。

《あんたは自分の黄金でも大事にしな/俺は関係ない/この出会いに俺は驚いた/衝撃を受けた/自分の幸運が信じられない》《俺の愛がやってきた/もろもろのトラブルを吸引しつくしてくれる/やつらの王冠を錆びつかせ/それを粉々にふきとばして塵にかえしてくれる》
(「New Diamond Love」より)

 現在彼らの日本公式サイトでは、アルバム全曲が試聴できる。是非チェックしてみてほしい。

retweet

2_Mena_101211.jpg
 イギリスの歴史家エリック・ホブズボームは自著『極端な時代』で「この数十年ほどの間に、社会学的な意味でのコミュニティは実生活の中に見出しにくくなったのであるが、それにつれて"コミュニティ"という言葉も、かつて考えられなかったほどに無分別に、また意味もなく用いられるようになった」(1994, P428)と述べているが、元来、コミュニタリアン的な視座を持つ彼の感覚は「別枠」に入れるとしても、歪曲された共同体というものが瓦解していったのがモダニズムの瀬であったのは間違いないだろう。グローバリゼーションが進捗するにあたって、国同士のボーダーラインがぼやけてしまい、文化が相対化されるようになった中で、「事実」は単純に知的構築物に過ぎないと「してしまう」ポストモダニズムという知的潮流が攪乱した「名前が付けられる前(または、名前が付けられてしまった後)の場所」ではファクト(事実)とフィクション(作り話)の明確な分岐線が設けられず、曖昧模糊たる小さな神話の中に回収されることになってしまった。その際の小さい「神話」はロベルト・ボラーニョのような事実に肉薄した幻惑的なパラレル・ストーリーなのか、ボードリヤールの提唱したシミュラークル的なオリジナル性の無い、模倣の文化要素を孕んでくるのか、今こそ考える必要はある。

 >>>>>>>>>>

 想えば、1960年代以降、ラテン・アメリカで見られた"ヌエバ・カンシオン(Nueva Canción)"という、音楽を通じて社会改革を目指した運動の中で、"モダンネス"という言葉がリアルに響く事になったコンテクストは大きかった。"Nueva Canción"とはスペイン語でそのまま「新しい歌」という意味を指す。特にチリでは、1960年代末から1973年まで、ビオレータ・パラとビクトル・ハラを中心にして、多くの優れた音楽家が登場している。しかし、チリでは1973年9月のチリ・クーデターによってアウグスト・ピノチェトの軍事政権が成立すると、ヌエバ・カンシオンは大弾圧を受け、ビクトル・ハラは殺害され、他の多くの音楽家もやむなく国外追放されるなどにより、運動は一時的に停滞を求められることになった。

 その後、1990年にチリで軍政が倒れ、その前後の時期に再びヌエバ・カンシオン運動が盛り上がり、反軍政活動に大きな役割を果たすこととなった。但し、チリでは15年続いた軍政の間に国外に亡命していた有名な音楽家と、国内で活動していた音楽家の間では、音楽的な傾向に違いが生じていた。基本的に、70年代まで活動し、その後亡命に追い込まれた音楽家はトラディショナルな民族音楽(フォルクローレ)を基礎に置いていたのに対して、軍政下に国内で活動していた音楽家は、ロックなど欧米の音楽を軸に置くように変わっていた。

 では、今のチリ音楽の様相はどうなのか、というと、世界で類を見ない大文字の「モダンネス」を獲得しているものが多く、面白い。スマートな女性シンガー・ソングライターのフランシスコ・ヴァレンズエラ(Francisca Valenzuela)やカエターノ・ヴェローゾやホセ・ゴンザレスのような繊細なタッチの唄を歌う男性シンガーソングライターDaniel Riverosによるソロ・プロジェクト、ヘペ(Gepe)やエレクトロ・パンクからニューウェーヴ直系の音を痛快に鳴らすパニコ(Panico)、ショーグン(Shogun)名義での活動も盛んなCristián Heyneなど続々と出てきている。そして、そのチリ・シーンの中でも、注目が高いアーティストの一人にハビエラ・メナ(Javiera Mena)がいる。日本でも高評価を得た彼女のファースト・アルバム『Esquemas Juveniles』から4年振りに届けられた新作『Mena』では、前作と引き続きCristián Heyneをプロデューサーに招聘し、よりレトロフューチャーな音像の解像度は強まったが、前作と同様にアナログ・シンセをベースに用いた80年代的なサウンド・メイキングは淡い浮遊感を醸している点は変わらない。全体を通じて、キャッチーなメロディーと、彼女の軽やかな声がハミングするように乗ってくる爽やかな作品になっている。また、アップ・テンポな曲も増え、フロアーでも機能することが可能なスペースを残しているところが感じられる。

 例えば、アルゼンチンの音響派たちがより知性的に電子音を連ねてゆくというスタイルを取るのと比して、彼女は自分自身が好きな70年代後半から80年代初頭のディスコ・サウンドをモティーフにした上で、チープでローファイな質感を大事にしているという点で非常に無邪気だ。だからこそ、とても「モダン」的であり、そこに作為もなく、<非>的なグローバリズムへの距離感と共同体意識に対しての独自の孤高感があるのが美しい。また、フアナ・モリーナの『Segund』のジャケットを手掛けたグラフィック・デザイナーのAljandro Rosによるアートワークも神秘的ながら、非常にアイキャッチの強いものになっているというのも含めて、「ポストモダン的なもの」がもたらす無力性の周縁を巡るように幻惑的な世界観を提示しているのは面白い。

 歌詞で見られる「光」「空」「あなた」といった大きい言葉の先には「新しい歌(Nueva canción)」に近付くための実験精神も宿っているのだろうか。巷間に溢れるビッグ・アレンジとは違う箱庭的なディスコ、フォークトロニカのような可憐な音風景は非常に「記名性の強い」ものになった。旧き良き「モダンネス」が宿るこの作品にはポスト・モダンの仕掛けるフェイクを避ける透明性がある。

retweet

3_paul_101211.jpg
 近年のUK音楽事情にある程度くわしい方であればご存知と思うのだが、ポール・スミスとはいっても、もちろんあの有名ファッション・ブランドではない。00年代初頭のデビュー以来、本国UKでは中堅以上の位置を獲得しているニュー・キャッスルのバンド、マキシモ・パークのリード・シンガー(つづりもまったく同じだから、例えばワープ・レコーズと契約したとき、少し変名にすればよかったのに...。でも、そんなところが彼っぽい:笑)のソロ・アルバムだ。

 その音楽性を微妙に変化させつつあるマキシモ・パークだが(UKミッドウィーク・チャートでレディー・ガガにつづき2位を獲得した最新作にあたる2009年のサード・アルバムでは、ほぼ同時にリリースされたヤー・ヤー・ヤーズのサードと同一のプロデューサーを起用、似たようなベクトルの、いい意味でのポップ化をなしとげていた。どちらも大好き!)、このソロは、またがらりと印象が変わっている。

 ここ日本では、未だに初期の「ニュー・ウェイヴがかった元気なイメージ」が強いと思われるマキシモ・パークの、ライヴでは「欽ちゃんジャンプ...もしくはモンティー・パイソン的な跳躍」でおなじみポールのソロだから、さぞやがちゃがちゃしているだろうと思えば、さにあらず。

 むしろ静謐な空気感と、ベッドルーム的なインティミット(親密)さが印象的な、まさにプライヴェートな作風となっている。

「ぼくは『ソロになる』わけじゃないよ。ジョージ・マイケルがワム!を辞めたのとは違うんだ」(ポール・スミス)

 ワープからのデビュー前からの友人たち...アンディー・ホドソン(ザ・マチネ・オーケストラ:彼は共同プロデュースも担当。録音も彼の家でおこなわれた)や、フィールド・ミュージックのデイヴィッド&ピーター・ブルイス兄弟がバックアップしたこの作品は、マキシモのそれ以上に「インディー・ファン」には入っていきやすいかもしれない。

 というより、以前からボニー・プリンス・ビリーやスモッグが、その歌詞の世界も含み大好きと語っていたポール(ちなみに、その発言は12月16日発売のクッキーシーン・ムック第1弾にも掲載)が、ちょっとだけバンドを離れてやりたいことを思う存分やった感じ。

 現在ポールのオフィシャル・サイトフリー・ダウンロードできるアルバム1曲目「North Atlantic Drift」冒頭では、こんなことが歌われている。

《ぼくのプライヴェートな心情/ここで/映画の一場面にいるかのようにまた考えている/その内面は/なめらかな光沢のある表面にすぎないけれど/自分自身をあてにしながら/変化に向かっている/品種改良ゲームから逃れて/少なくともむこう1年は》
(「North Atlantic Drift」より)

 わかりづらいようで、大変わかりやすい。この曲を作ったときから、1年くらいはマキシモの活動はお休みの予定なんだろうな、とか...。結構シビアなこと(《品種改良ゲーム》)も、意外とズバリ言ってしまっている。そんなところも、すごく好きだ。だいたいアルバム・タイトル『Margins』にしても、「余白、欄外」「(時間、金銭などの)余裕」「(能力、状態などの)限界、極限」といった意味のほかに、「(商業的な)利ざや」という意味もある(ぼくなどは、つい最後の意味がぱっと頭に浮かんでしまった。いや、ぼくはミュージック・ビジネスというものを「研究対象」にしている部分もあるので:笑)。

 こういった「言葉」の使い方のおもしろさも、マキシモ・パークそしてポール・スミスの魅力のひとつ。だから、日本では(非常に残念ながら)あまり人気が出ないのかな...と思ったり...。

 あ、でも日本盤ボーナス・トラックとなっているスモーキー・ロビンソンの超名曲のカヴァー「The Tracks Of My Tears」は、マキシモも含み、珍しいほど「ストレートに良さが伝わる」タイプの試みだし、マキシモ・ファンの方もそうでない方も、是非一度チェックを!

retweet

4_cee_lo_101211.jpg
 小さな小さなサブジャンルの好みには的確に対応していくが、広範囲にわたってリスナーを引き付けるアクトが少なくなったインターネット時代の現在。あえてそれに一番近い存在といえば、レディー・ガガなのだろうが、根っからのインディー・リスナーからは強烈な拒否反応を食らっている(元々はNYのアンダーグラウンド出なんだけどなあ)。

 まあ、それはいいとして、やっぱりどんな人でも共有できるポップ・ソングが欲しい。とみに昨今そう感じる。そこへきて、2010年のシーロウ(Cee-lo Green)は圧倒的なまでの存在感を放っていた。

 先行シングル「F**k You!」のPVがネットにアップされるやいなやウェブメディアやブロガーの話題をかっさらい、UKチャートではNo.1を獲得(USでは最高17位)。いやいや、それにも納得の楽曲なのだから。伸びやかでソウルフルな歌声が素晴らしいのはこれまでのキャリアで既に証明済みだが、スウィートなコーラスや明るくファンキーな曲調は2010年屈指のクオリティのポップ・ソング。そして何より、悲しくもコミカルなコンプレックスをぶちまけたリリックには抱腹絶倒しつつも世の男性の多くが共感したはずだ。

 そして、ついに届けられたアルバム『The Lady Killer』は頂点まで達した期待を一切裏切ることは無かった。オープニングの「The Lady Killer Theme(Intro)」から、007を気取ってみるものの、結果としては小芝居的(笑)。だが、それがこの上なくいい。コメディアン的な気安さがリスナーへの敷居をぐっと引き下げることに成功し、アルバムのイントロとしてはこれ以上なくリスナーを引き付けるものだ。なぜなら、彼のソロとして3作目となるこのアルバムは、クラシックなブラック・ミュージックのエッセンスを濃縮還元したようなロマンスと内容だったのだから。往年のモータウンの名曲や、レイ・チャールズにカーティス・メイフィールド、スモーキー・ロビンソン、オーティス・レディング、更にはアース・ウィンド・アンド・ファイアやマイケル・ジャクソンまでを彷彿させるキャッチーさには、もはや無条件で身を委ねるしかなくなるはずだ。

 プロダクションにおいても豪華なメンツを揃えているのだが、今をときめくR&Bのプロデューサー陣のみならず、ブロック・パーティーやフローレンス・アンド・ザ・マシーンなどを起用するところがインディ・リスナーとしては注目ポイントだろう。

 タイトル通り一貫してラヴ・ソングを集めているが、あくまでも自身の三枚目キャラを前面に出していて全くキメ切れていない(当然確信犯なんだろうけど)ところが現代的で痛快。ナールズ・バークレイ「Crazy」の特大ヒットはあったものの、グッディ・モブ時代から付きまとっていた影が一気に消え去ったこのアルバムで、シーロウはギークだけのものから世界のポップ・シーンを席巻するスターになったのだ(三枚目だけど)。

retweet

5_ray_101211.jpg
 ザ・キンクスは、この世で最も大好きなバンドのひとつだった。レイ・ディヴィスの書く曲は、いつだって「ああ、死にそうだけど、明日もなんとか生きていこう」と思わせてくれる。そんな彼の、キンクス時代の名曲を、超豪華な面子と共演セルフ・カヴァーしまくった異色ソロ・アルバム。

 問答無用の名曲が、新しい切り口のフレッシュなヴァージョンで聴けてしまう。当然、最高! 悪いはずがなくて実際に素晴らしいというのはおもしろみに欠けるなあ...などと文句をたれつつ愛聴してる。2011年の年明け一発目に聴くアルバムはこれで決まり! 以上!

 ...というのは、あまりに不親切なので、一応概要を...。

《明日こそは、いいことが...!》と歌われる「Better Things」をブルース・スプリングスティーンと! ハリウッドへの(ミュージック・ビジネスに生きる者としての共感をこめた)憧れを歌った「Celluloid Heroes」をボン・ジョヴィと! 「Days / This Time Tomorrow」というその"流れ"だけでも泣ける意表をついたメドレーを期待の新人マムフォード&サンズ(彼らのアルバムも素晴らしい!)と! つづいて「This Time Tomorrow」と同じアルバムからピックアップされた「Long Way From Home」をルシンダ・ウィリアムスと(わおっ)! そのあとパンクの時代にヴァン・ヘイレンがカヴァー・ヒットさせた「You Really Got Me」をメタリカと(ぐわーっ)!

 すみません、メタリカで盛りあがりすぎてちょっと疲れたんで(汗&笑)、あとはおもだった参加者をいくつか列挙しますね。ジャクソン・ブラウン、(当然生前の)アレックス・チルトン、エイミー・マクドナルド、スプーン、ブラック・フランシス(元ピクシーズ)、ゲイリー・ライトボディー(スノウ・パトロール、タイアード・ポニー)、ビリー・コーガン(元スマッシング・パンプキンズ)、そしてラストはマンドゥ・ディアオと(日本盤はそのあとにボーナス・トラックもあるらしい)!

「Better Things」はファウンテインズ・オブ・ウェインのカヴァーのほうがよかった(けど、スプリングスティーンとのデュエットもぐっとくる!)とか、「Celluloid Heroes」はジョーン・ジェットのヴァージョンも泣けたとか、「Lola」はザ・レインコーツと、「Victoria」はザ・フォールとやってほしかったとか、ヨ・ラ・テンゴといっしょになにか録音したというトラックは結局お蔵入りなの? とか、この面子だとアルバム・タイトルが「ほらほら、俺の友だち、こんなにすげえやつばっかだよ」と威張っているみたいに感じる(笑)とか、いろいろあるけれど、すべて許す。仕方ないでしょ、レイ・デイヴィスなので!

retweet

6_David_Darling&The_Wulu_Bunun_101211.jpg
 小泉文夫やヒュー・トレイシーのフィールド・レコーディングの作品群をして、研究素材としては有効だが、時に西洋優位主義からなる非・西洋圏文化のコロニアル化に過ぎない、というような評論磁場があり、例えば、よりもっとポップで商業音楽的な側面に近接すると、ポール・サイモンの第三世界の音楽の摂取の仕方はあざとく、デヴィッド・バーンはスマートだというよく分からない言説に時々、対峙することもある。しかし、ブラー、ゴリラズで活躍するデーモン・アルバーンがマリ共和国でセッションした作品などは先進的なアプローチや近代的な視座を無邪気に取り入れているので、全くそういった対象枠内に入らなかったのも不思議だと思う。"センス"のレベルで未開拓の文化の表層を掬うのが是なのか、もっとフィールドに降り立って同じ目線でその文化に真摯に向き合うのが是なのか、少なくとも僕には分からない。届けられた音像を聴いて想う事はあっても、どんな国や地域でも凡たる搾取の「構造」など対象化している気高さも商魂もそこに介在するケースが多いからなのもある。

 そもそも、芸術という文化現象には、国家権力の政治的な判断で権威付けられ、庇護されたりすることによって肥大化したものに過ぎない、とそれに抗って民衆の側が主体的に引き継ぎ発展させてきたものがある。当然のこと、ア・プリオリ的に文化・芸術に高等なものや下等なものなど存在しない(はずだろう)。ただ、伝承的に音楽的な形式が護られているとしたならば、民衆が何世紀にも渡って主体的に受継し、択び取ってきたものとは「一体、どういう姿をしているのか」―それこそがフィールドワークの中で実際に民衆の奏でる音楽の現場に立ち会ってこそ、初めて理解出来るものなのかもしれない。とはいえ、例えば、「ブラジル音楽」と言っても、対外向けのMPBと自国のロック・ポップスは分けられているのは周知だろうし、「もたざる国」が「もてる国」を逆利用するケースなどままあり、少なくとも、大型レコード・ショップで棚的に区分けされている「WORLD / OTHER」というパラフレーズは自分が知っている世界ではなく、自己意識が想定し得る次元での「異文化」という要素を含む。「ここではない、どこか」を夢想してサウンド・トリップに身を委ねてみるのもいいものの、「どこか」など本当はない。

 また、考えてみるに、サイードが「オリエント」に本質を付与する事を拒否する際において発想のベースにフーコーのディスクール理論を参照にしていると言ったとき、内側から起こる違和は皆、感得できるだろう。何故ならば、フーコーは「言葉と物」で18世紀以前(古典主義時代)のヨーロッパの知の在り方と19世紀以降(モダン)の知の在り方に大きな「断絶」があるという事を述べているからだ。要は、近代主義の尺度で古典主義の知を図ることは不可能だとしたならば、トラディショナルな何かがモダン・マテリアリズムに侵食されて、決定的な「内層」を喪失するという事は有り得るのか疑念を呈さずにはいられない。

 >>>>>>>>>>

 台湾の「先住民」、ブヌン(布農)族の伝統的な8部和音コーラスと、映画音楽、現代音楽、ジャズやニューエイジなど多様なジャンルを横断するアメリカ人チェリスト/ 作曲家であり、「現代人」たるデヴィッド・ダーリングのチェロが出会い、それを深いアンビエント音楽として紹介するという所作自体はいかにも、前述のような批判の矢面に立ってしまう危惧はあるだろう。しかし、聴いてみると、そんな要素は全く感じないのも事実なのだ。

 台湾の人口の2%を占める12の先住民の中の一つであるブヌン族は山地を中心に生活しており、この作品でも伺える8声の澄んだコーラスは1943年に日本人の音楽学者である黒沢隆朝氏によって世界に紹介された。そして、その9年後に黒沢氏がブヌンの受け継がれている伝統的な曲「Pasibutbut」をユネスコに紹介したときは波紋を起こした。何故ならば、彼らの複雑な8部合音のハーモニーは民俗音楽者の音楽起源に関する研究においても異端なもので、それまでは「楽曲の起源は"単音"を基調としてより複雑なアレンジメントに発展していった」という学説を覆すものであったからだ。そこから、ブヌン族の伝承音楽に世界中の注目が集まることになった。彼らのハーモニーとは狩猟、祝い事、酒席の場等で当たり前のように披露されており、現在も局地的にだが残っている。(しかし、近代化と中国の漢民族の施策の影響もあり、少数民族の文化様式自体が消えつつある状況にもなってしまっているのは残念としか言いようがない。)この作品『Mudanin Kata』のレコーディングにあたって、フィールド・レコーディングを彼らの最も伝統的な因習が根付いているウールー村で2002年の4月に行なっている。パーティーのような雰囲気の中で円滑に進められたという言葉も分かる、朗らかなムードが終始し、周囲の雑音も含みながら、最小限度の形でのデヴィッド・ダーリングのチェロの奏でが、たおやかな音風景を生み出している。少しのスタジオ・ワークを加えて、音響的な拡がりが持った形でこうしてパッケージングされてリリースされることになり、世界中で受け入れられることになった。

 これは、「WORLD / OTHER」の棚を彷徨しながらも、「環境音楽」というジャンルにも入ってくるのだろうか、いや、"入ってしまう"のだろうか。環境音楽というと、アルヴィン・ルシエ、アルヴァン・カラン、ヤニス・クセナキス、フルクサス・グループ、エリック・サティ、ジョン・ケージ、ブライアン・イーノといったアート性を重視したものに含まれてくる作品だとは思うが、これがハイパーキャピタリズムの傘の下で機能的なチルアウトを企図するものになってしまうのではないか、という懸念も生まれる。僕個人としては、帯に書かれているボアダムスのYOSHIMI、カヒミ・カリィの絶賛する「アンビエンス作品の傑作」といった側面よりも、もっとナチュラルな視座から、ブルガリアン・ヴォイス、モンゴルのホーミーに触れたときに、そこに自らが規定している「音」へのコンテクストが脱構築されシンプルに心に響く経験をしたことがあるような人たちに届くようなエコーがあればいいと思っている。ここには、人の生の声があり、自然や鳥の音があり、現代音楽の象徴としてチェロが寄り添うように鳴り、柔らかいサウンド・アトモスフィアが優しく広がっている。尚且つ、深い伝統音楽の持つ悠遠たる歴史の一端に飲み込まれる感覚をおぼえる凄みがあるだけだ。そして、VocalとCello以外にクレジットされたAmbient sounds としてbirds,frogs,monkeys,and insects around Wulu Villageという部分こそが大事なのかもしれない。また、こうしてリイシューといった形で手に取り易くなったのは喜ばしいことである。
 1  |  2  |  3  | All pages>