December 2010アーカイブ

2010年12月11日

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2010年12月8日

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 いわゆるガレージ・ロックというタームがある。「比較的住宅状況に恵まれており一家に少なくとも一台は自家用車を持っていたアメリカ郊外のキッズたちが、60年代に両親のガレージを勝手に占拠して見よう見まねで(もしくはD.I.Y.的に)始めた、がしゃがしゃうるさいロックンロール」をさす言葉として登場した。

 70年代にレニー・ケイが編纂したコンピレーション『Nuggets』は、プレ・パンクの象徴とも60年代サイケのエッセンスを凝縮した名盤とも言われているのだが、それはそのままいわゆるガレージ・ロック・サウンドの原型ともいえるものだった。リトル・バーリー待望のサード・アルバム『KIng Of The Waves』には、そこに入っていた素晴らしいトラックの数々にも決してひけをとらない、熱い初期衝動が凝縮されている。

 中心人物バーリー・カドガン(ギター、ヴォーカル)は、プライマル・スクリームのギタリストとして彼らのツアーなどに参加するのみならず、モリッシーのギタリスト&ソングライターとしても活躍、ポール・ウェラーやスピリチュアライズドのレコーディングにも力を貸した。さらには今回から新ドラマーとしてヴァージル・ハウ(イエスのギタリスト、スティーヴ・ハウの息子:笑)がメンバーに加わった...といった情報からは、なんか「セレブ」っぽい、どこが「ガレージ・ロック」だ...と思うかもしれない。

 しかし、ここで聴ける彼らの音楽には、これまで以上に(いい意味での)「クズ」っぽさが強烈に漂っている。バーリーがギタリストおよびソングライターとして玄人筋の高い評価を受けるようになったのは、あくまでファースト・アルバム(『ウィー・アー・リトル・バーリー』:2005年)リリース以降のこと。あの時点での「どこの馬の骨か知らんけど、こいつらかっこよすぎ!」という衝撃は並じゃなかった(ちなみに、初期チャットモンチーが、そのアルバムへのオマージュと思われるアートワークを採用していたことにも、おおいに納得したものだ)。それと同じくエドウィン・コリンズがプロデュースを手がけた本作には、ソニック面のガレージ・センスはもとより、当時と同じ「誰でもない」感覚および鼻っ柱の強さが存分に表現されている。

《王様のいる首都に行くとわかる/なんてひどいことをやらかしたのか/資本主義の王者が支配する町が教えてくれる/あまりにひどいことをやってきた/あんたも含む誰の心にも/「変化」のかけらさえ見いだせない》《汚いシャツを売って小銭が瓶いっぱいたまった/汚れたシャツを売って小銭を瓶にいっぱいためた/タンポポの綿毛を吹いてる少女よ/そのお守りをこすって幸運を祈るんだ》《今/俺たちは/どこでもない場所にいる》
(「Now We're Nowhere」より)

 バーリーは、エドウィンの奇跡の復活アルバムにも参加していた。今でもオールドスクールなインディー・スピリットのかたまりのような存在としてUKプレスに怖がられている(笑)マネジャー&妻のグレースには「バーリー? もう(わたしたちの)ファミリーよ、ファミリー(笑)」みたいに言われていた。

 UK音楽界の鬼っ子...オルタナティヴな存在であるエドウィンおじさん&グレースおばさんのガレージで演奏に熱中するキッズたち...というのは冗談として具体的な話をすれば、バーリーくらいの存在になればミュージック・ビジネスの王道にもっと食いこんで、流行の寵児になれそうなものだ。しかし彼らはあえてそれをやらない。日本盤ボーナス・トラックの最後に収録された「We Can't Work It Out」(ビートルズ「We Can Work It Out」への返歌?:笑)の歌詞では「えっ、こここまで言って大丈夫なの(笑)?」というくらい、ポップ・ミュージック/ロック・ビジネスの「アイコン」商法...スター・システムにブラックな皮肉をぶつけている。

 だいたい、『KIng Of The Waves』なんてアルバム・タイトルからして皮肉っぽいではないか。

《いい感じのものと「売れる」ものの狭間で/俺の心は塀につるされたまま/好転するなんてことを信じてるとしたら/ちょっと思慮に欠けるんじゃないかな/だから今は/おまえと俺の「虚飾の時」を燃やそう》《「救い」など存在しない/海の王者ではなかったとしても/決して救われることはない/「波」を代表する者ではなかったとしても》
(「KIng Of The Waves」より)

「思慮の浅い者たちのふるまいを、精神的優位に立ちつつ鑑賞して楽しむ」といった日本型エンターテインメントの典型に近いものを期待するのであれば、このアルバムには手を出さないほうがいい。11曲目(日本盤ボーナス・トラックをのぞくラスト・ナンバー)「Money In Paper」では、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドやプライマル・スクリーム、クラウトロックにも通じるエキセントリック反復ロックをとおして、現在の世界の資本主義状況を見事に揶揄している。その鋭さが気持ちよすぎる。「思慮深いバカ」による最高のロックンロールだ。

 思慮の浅さや深さに関わらず、いい感じのバカであることは言うまでもない。

《あんたは自分の黄金でも大事にしな/俺は関係ない/この出会いに俺は驚いた/衝撃を受けた/自分の幸運が信じられない》《俺の愛がやってきた/もろもろのトラブルを吸引しつくしてくれる/やつらの王冠を錆びつかせ/それを粉々にふきとばして塵にかえしてくれる》
(「New Diamond Love」より)

 現在彼らの日本公式サイトでは、アルバム全曲が試聴できる。是非チェックしてみてほしい。

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 イギリスの歴史家エリック・ホブズボームは自著『極端な時代』で「この数十年ほどの間に、社会学的な意味でのコミュニティは実生活の中に見出しにくくなったのであるが、それにつれて"コミュニティ"という言葉も、かつて考えられなかったほどに無分別に、また意味もなく用いられるようになった」(1994, P428)と述べているが、元来、コミュニタリアン的な視座を持つ彼の感覚は「別枠」に入れるとしても、歪曲された共同体というものが瓦解していったのがモダニズムの瀬であったのは間違いないだろう。グローバリゼーションが進捗するにあたって、国同士のボーダーラインがぼやけてしまい、文化が相対化されるようになった中で、「事実」は単純に知的構築物に過ぎないと「してしまう」ポストモダニズムという知的潮流が攪乱した「名前が付けられる前(または、名前が付けられてしまった後)の場所」ではファクト(事実)とフィクション(作り話)の明確な分岐線が設けられず、曖昧模糊たる小さな神話の中に回収されることになってしまった。その際の小さい「神話」はロベルト・ボラーニョのような事実に肉薄した幻惑的なパラレル・ストーリーなのか、ボードリヤールの提唱したシミュラークル的なオリジナル性の無い、模倣の文化要素を孕んでくるのか、今こそ考える必要はある。

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 想えば、1960年代以降、ラテン・アメリカで見られた"ヌエバ・カンシオン(Nueva Canción)"という、音楽を通じて社会改革を目指した運動の中で、"モダンネス"という言葉がリアルに響く事になったコンテクストは大きかった。"Nueva Canción"とはスペイン語でそのまま「新しい歌」という意味を指す。特にチリでは、1960年代末から1973年まで、ビオレータ・パラとビクトル・ハラを中心にして、多くの優れた音楽家が登場している。しかし、チリでは1973年9月のチリ・クーデターによってアウグスト・ピノチェトの軍事政権が成立すると、ヌエバ・カンシオンは大弾圧を受け、ビクトル・ハラは殺害され、他の多くの音楽家もやむなく国外追放されるなどにより、運動は一時的に停滞を求められることになった。

 その後、1990年にチリで軍政が倒れ、その前後の時期に再びヌエバ・カンシオン運動が盛り上がり、反軍政活動に大きな役割を果たすこととなった。但し、チリでは15年続いた軍政の間に国外に亡命していた有名な音楽家と、国内で活動していた音楽家の間では、音楽的な傾向に違いが生じていた。基本的に、70年代まで活動し、その後亡命に追い込まれた音楽家はトラディショナルな民族音楽(フォルクローレ)を基礎に置いていたのに対して、軍政下に国内で活動していた音楽家は、ロックなど欧米の音楽を軸に置くように変わっていた。

 では、今のチリ音楽の様相はどうなのか、というと、世界で類を見ない大文字の「モダンネス」を獲得しているものが多く、面白い。スマートな女性シンガー・ソングライターのフランシスコ・ヴァレンズエラ(Francisca Valenzuela)やカエターノ・ヴェローゾやホセ・ゴンザレスのような繊細なタッチの唄を歌う男性シンガーソングライターDaniel Riverosによるソロ・プロジェクト、ヘペ(Gepe)やエレクトロ・パンクからニューウェーヴ直系の音を痛快に鳴らすパニコ(Panico)、ショーグン(Shogun)名義での活動も盛んなCristián Heyneなど続々と出てきている。そして、そのチリ・シーンの中でも、注目が高いアーティストの一人にハビエラ・メナ(Javiera Mena)がいる。日本でも高評価を得た彼女のファースト・アルバム『Esquemas Juveniles』から4年振りに届けられた新作『Mena』では、前作と引き続きCristián Heyneをプロデューサーに招聘し、よりレトロフューチャーな音像の解像度は強まったが、前作と同様にアナログ・シンセをベースに用いた80年代的なサウンド・メイキングは淡い浮遊感を醸している点は変わらない。全体を通じて、キャッチーなメロディーと、彼女の軽やかな声がハミングするように乗ってくる爽やかな作品になっている。また、アップ・テンポな曲も増え、フロアーでも機能することが可能なスペースを残しているところが感じられる。

 例えば、アルゼンチンの音響派たちがより知性的に電子音を連ねてゆくというスタイルを取るのと比して、彼女は自分自身が好きな70年代後半から80年代初頭のディスコ・サウンドをモティーフにした上で、チープでローファイな質感を大事にしているという点で非常に無邪気だ。だからこそ、とても「モダン」的であり、そこに作為もなく、<非>的なグローバリズムへの距離感と共同体意識に対しての独自の孤高感があるのが美しい。また、フアナ・モリーナの『Segund』のジャケットを手掛けたグラフィック・デザイナーのAljandro Rosによるアートワークも神秘的ながら、非常にアイキャッチの強いものになっているというのも含めて、「ポストモダン的なもの」がもたらす無力性の周縁を巡るように幻惑的な世界観を提示しているのは面白い。

 歌詞で見られる「光」「空」「あなた」といった大きい言葉の先には「新しい歌(Nueva canción)」に近付くための実験精神も宿っているのだろうか。巷間に溢れるビッグ・アレンジとは違う箱庭的なディスコ、フォークトロニカのような可憐な音風景は非常に「記名性の強い」ものになった。旧き良き「モダンネス」が宿るこの作品にはポスト・モダンの仕掛けるフェイクを避ける透明性がある。

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 近年のUK音楽事情にある程度くわしい方であればご存知と思うのだが、ポール・スミスとはいっても、もちろんあの有名ファッション・ブランドではない。00年代初頭のデビュー以来、本国UKでは中堅以上の位置を獲得しているニュー・キャッスルのバンド、マキシモ・パークのリード・シンガー(つづりもまったく同じだから、例えばワープ・レコーズと契約したとき、少し変名にすればよかったのに...。でも、そんなところが彼っぽい:笑)のソロ・アルバムだ。

 その音楽性を微妙に変化させつつあるマキシモ・パークだが(UKミッドウィーク・チャートでレディー・ガガにつづき2位を獲得した最新作にあたる2009年のサード・アルバムでは、ほぼ同時にリリースされたヤー・ヤー・ヤーズのサードと同一のプロデューサーを起用、似たようなベクトルの、いい意味でのポップ化をなしとげていた。どちらも大好き!)、このソロは、またがらりと印象が変わっている。

 ここ日本では、未だに初期の「ニュー・ウェイヴがかった元気なイメージ」が強いと思われるマキシモ・パークの、ライヴでは「欽ちゃんジャンプ...もしくはモンティー・パイソン的な跳躍」でおなじみポールのソロだから、さぞやがちゃがちゃしているだろうと思えば、さにあらず。

 むしろ静謐な空気感と、ベッドルーム的なインティミット(親密)さが印象的な、まさにプライヴェートな作風となっている。

「ぼくは『ソロになる』わけじゃないよ。ジョージ・マイケルがワム!を辞めたのとは違うんだ」(ポール・スミス)

 ワープからのデビュー前からの友人たち...アンディー・ホドソン(ザ・マチネ・オーケストラ:彼は共同プロデュースも担当。録音も彼の家でおこなわれた)や、フィールド・ミュージックのデイヴィッド&ピーター・ブルイス兄弟がバックアップしたこの作品は、マキシモのそれ以上に「インディー・ファン」には入っていきやすいかもしれない。

 というより、以前からボニー・プリンス・ビリーやスモッグが、その歌詞の世界も含み大好きと語っていたポール(ちなみに、その発言は12月16日発売のクッキーシーン・ムック第1弾にも掲載)が、ちょっとだけバンドを離れてやりたいことを思う存分やった感じ。

 現在ポールのオフィシャル・サイトフリー・ダウンロードできるアルバム1曲目「North Atlantic Drift」冒頭では、こんなことが歌われている。

《ぼくのプライヴェートな心情/ここで/映画の一場面にいるかのようにまた考えている/その内面は/なめらかな光沢のある表面にすぎないけれど/自分自身をあてにしながら/変化に向かっている/品種改良ゲームから逃れて/少なくともむこう1年は》
(「North Atlantic Drift」より)

 わかりづらいようで、大変わかりやすい。この曲を作ったときから、1年くらいはマキシモの活動はお休みの予定なんだろうな、とか...。結構シビアなこと(《品種改良ゲーム》)も、意外とズバリ言ってしまっている。そんなところも、すごく好きだ。だいたいアルバム・タイトル『Margins』にしても、「余白、欄外」「(時間、金銭などの)余裕」「(能力、状態などの)限界、極限」といった意味のほかに、「(商業的な)利ざや」という意味もある(ぼくなどは、つい最後の意味がぱっと頭に浮かんでしまった。いや、ぼくはミュージック・ビジネスというものを「研究対象」にしている部分もあるので:笑)。

 こういった「言葉」の使い方のおもしろさも、マキシモ・パークそしてポール・スミスの魅力のひとつ。だから、日本では(非常に残念ながら)あまり人気が出ないのかな...と思ったり...。

 あ、でも日本盤ボーナス・トラックとなっているスモーキー・ロビンソンの超名曲のカヴァー「The Tracks Of My Tears」は、マキシモも含み、珍しいほど「ストレートに良さが伝わる」タイプの試みだし、マキシモ・ファンの方もそうでない方も、是非一度チェックを!

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 小さな小さなサブジャンルの好みには的確に対応していくが、広範囲にわたってリスナーを引き付けるアクトが少なくなったインターネット時代の現在。あえてそれに一番近い存在といえば、レディー・ガガなのだろうが、根っからのインディー・リスナーからは強烈な拒否反応を食らっている(元々はNYのアンダーグラウンド出なんだけどなあ)。

 まあ、それはいいとして、やっぱりどんな人でも共有できるポップ・ソングが欲しい。とみに昨今そう感じる。そこへきて、2010年のシーロウ(Cee-lo Green)は圧倒的なまでの存在感を放っていた。

 先行シングル「F**k You!」のPVがネットにアップされるやいなやウェブメディアやブロガーの話題をかっさらい、UKチャートではNo.1を獲得(USでは最高17位)。いやいや、それにも納得の楽曲なのだから。伸びやかでソウルフルな歌声が素晴らしいのはこれまでのキャリアで既に証明済みだが、スウィートなコーラスや明るくファンキーな曲調は2010年屈指のクオリティのポップ・ソング。そして何より、悲しくもコミカルなコンプレックスをぶちまけたリリックには抱腹絶倒しつつも世の男性の多くが共感したはずだ。

 そして、ついに届けられたアルバム『The Lady Killer』は頂点まで達した期待を一切裏切ることは無かった。オープニングの「The Lady Killer Theme(Intro)」から、007を気取ってみるものの、結果としては小芝居的(笑)。だが、それがこの上なくいい。コメディアン的な気安さがリスナーへの敷居をぐっと引き下げることに成功し、アルバムのイントロとしてはこれ以上なくリスナーを引き付けるものだ。なぜなら、彼のソロとして3作目となるこのアルバムは、クラシックなブラック・ミュージックのエッセンスを濃縮還元したようなロマンスと内容だったのだから。往年のモータウンの名曲や、レイ・チャールズにカーティス・メイフィールド、スモーキー・ロビンソン、オーティス・レディング、更にはアース・ウィンド・アンド・ファイアやマイケル・ジャクソンまでを彷彿させるキャッチーさには、もはや無条件で身を委ねるしかなくなるはずだ。

 プロダクションにおいても豪華なメンツを揃えているのだが、今をときめくR&Bのプロデューサー陣のみならず、ブロック・パーティーやフローレンス・アンド・ザ・マシーンなどを起用するところがインディ・リスナーとしては注目ポイントだろう。

 タイトル通り一貫してラヴ・ソングを集めているが、あくまでも自身の三枚目キャラを前面に出していて全くキメ切れていない(当然確信犯なんだろうけど)ところが現代的で痛快。ナールズ・バークレイ「Crazy」の特大ヒットはあったものの、グッディ・モブ時代から付きまとっていた影が一気に消え去ったこのアルバムで、シーロウはギークだけのものから世界のポップ・シーンを席巻するスターになったのだ(三枚目だけど)。

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 ザ・キンクスは、この世で最も大好きなバンドのひとつだった。レイ・ディヴィスの書く曲は、いつだって「ああ、死にそうだけど、明日もなんとか生きていこう」と思わせてくれる。そんな彼の、キンクス時代の名曲を、超豪華な面子と共演セルフ・カヴァーしまくった異色ソロ・アルバム。

 問答無用の名曲が、新しい切り口のフレッシュなヴァージョンで聴けてしまう。当然、最高! 悪いはずがなくて実際に素晴らしいというのはおもしろみに欠けるなあ...などと文句をたれつつ愛聴してる。2011年の年明け一発目に聴くアルバムはこれで決まり! 以上!

 ...というのは、あまりに不親切なので、一応概要を...。

《明日こそは、いいことが...!》と歌われる「Better Things」をブルース・スプリングスティーンと! ハリウッドへの(ミュージック・ビジネスに生きる者としての共感をこめた)憧れを歌った「Celluloid Heroes」をボン・ジョヴィと! 「Days / This Time Tomorrow」というその"流れ"だけでも泣ける意表をついたメドレーを期待の新人マムフォード&サンズ(彼らのアルバムも素晴らしい!)と! つづいて「This Time Tomorrow」と同じアルバムからピックアップされた「Long Way From Home」をルシンダ・ウィリアムスと(わおっ)! そのあとパンクの時代にヴァン・ヘイレンがカヴァー・ヒットさせた「You Really Got Me」をメタリカと(ぐわーっ)!

 すみません、メタリカで盛りあがりすぎてちょっと疲れたんで(汗&笑)、あとはおもだった参加者をいくつか列挙しますね。ジャクソン・ブラウン、(当然生前の)アレックス・チルトン、エイミー・マクドナルド、スプーン、ブラック・フランシス(元ピクシーズ)、ゲイリー・ライトボディー(スノウ・パトロール、タイアード・ポニー)、ビリー・コーガン(元スマッシング・パンプキンズ)、そしてラストはマンドゥ・ディアオと(日本盤はそのあとにボーナス・トラックもあるらしい)!

「Better Things」はファウンテインズ・オブ・ウェインのカヴァーのほうがよかった(けど、スプリングスティーンとのデュエットもぐっとくる!)とか、「Celluloid Heroes」はジョーン・ジェットのヴァージョンも泣けたとか、「Lola」はザ・レインコーツと、「Victoria」はザ・フォールとやってほしかったとか、ヨ・ラ・テンゴといっしょになにか録音したというトラックは結局お蔵入りなの? とか、この面子だとアルバム・タイトルが「ほらほら、俺の友だち、こんなにすげえやつばっかだよ」と威張っているみたいに感じる(笑)とか、いろいろあるけれど、すべて許す。仕方ないでしょ、レイ・デイヴィスなので!

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 小泉文夫やヒュー・トレイシーのフィールド・レコーディングの作品群をして、研究素材としては有効だが、時に西洋優位主義からなる非・西洋圏文化のコロニアル化に過ぎない、というような評論磁場があり、例えば、よりもっとポップで商業音楽的な側面に近接すると、ポール・サイモンの第三世界の音楽の摂取の仕方はあざとく、デヴィッド・バーンはスマートだというよく分からない言説に時々、対峙することもある。しかし、ブラー、ゴリラズで活躍するデーモン・アルバーンがマリ共和国でセッションした作品などは先進的なアプローチや近代的な視座を無邪気に取り入れているので、全くそういった対象枠内に入らなかったのも不思議だと思う。"センス"のレベルで未開拓の文化の表層を掬うのが是なのか、もっとフィールドに降り立って同じ目線でその文化に真摯に向き合うのが是なのか、少なくとも僕には分からない。届けられた音像を聴いて想う事はあっても、どんな国や地域でも凡たる搾取の「構造」など対象化している気高さも商魂もそこに介在するケースが多いからなのもある。

 そもそも、芸術という文化現象には、国家権力の政治的な判断で権威付けられ、庇護されたりすることによって肥大化したものに過ぎない、とそれに抗って民衆の側が主体的に引き継ぎ発展させてきたものがある。当然のこと、ア・プリオリ的に文化・芸術に高等なものや下等なものなど存在しない(はずだろう)。ただ、伝承的に音楽的な形式が護られているとしたならば、民衆が何世紀にも渡って主体的に受継し、択び取ってきたものとは「一体、どういう姿をしているのか」―それこそがフィールドワークの中で実際に民衆の奏でる音楽の現場に立ち会ってこそ、初めて理解出来るものなのかもしれない。とはいえ、例えば、「ブラジル音楽」と言っても、対外向けのMPBと自国のロック・ポップスは分けられているのは周知だろうし、「もたざる国」が「もてる国」を逆利用するケースなどままあり、少なくとも、大型レコード・ショップで棚的に区分けされている「WORLD / OTHER」というパラフレーズは自分が知っている世界ではなく、自己意識が想定し得る次元での「異文化」という要素を含む。「ここではない、どこか」を夢想してサウンド・トリップに身を委ねてみるのもいいものの、「どこか」など本当はない。

 また、考えてみるに、サイードが「オリエント」に本質を付与する事を拒否する際において発想のベースにフーコーのディスクール理論を参照にしていると言ったとき、内側から起こる違和は皆、感得できるだろう。何故ならば、フーコーは「言葉と物」で18世紀以前(古典主義時代)のヨーロッパの知の在り方と19世紀以降(モダン)の知の在り方に大きな「断絶」があるという事を述べているからだ。要は、近代主義の尺度で古典主義の知を図ることは不可能だとしたならば、トラディショナルな何かがモダン・マテリアリズムに侵食されて、決定的な「内層」を喪失するという事は有り得るのか疑念を呈さずにはいられない。

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 台湾の「先住民」、ブヌン(布農)族の伝統的な8部和音コーラスと、映画音楽、現代音楽、ジャズやニューエイジなど多様なジャンルを横断するアメリカ人チェリスト/ 作曲家であり、「現代人」たるデヴィッド・ダーリングのチェロが出会い、それを深いアンビエント音楽として紹介するという所作自体はいかにも、前述のような批判の矢面に立ってしまう危惧はあるだろう。しかし、聴いてみると、そんな要素は全く感じないのも事実なのだ。

 台湾の人口の2%を占める12の先住民の中の一つであるブヌン族は山地を中心に生活しており、この作品でも伺える8声の澄んだコーラスは1943年に日本人の音楽学者である黒沢隆朝氏によって世界に紹介された。そして、その9年後に黒沢氏がブヌンの受け継がれている伝統的な曲「Pasibutbut」をユネスコに紹介したときは波紋を起こした。何故ならば、彼らの複雑な8部合音のハーモニーは民俗音楽者の音楽起源に関する研究においても異端なもので、それまでは「楽曲の起源は"単音"を基調としてより複雑なアレンジメントに発展していった」という学説を覆すものであったからだ。そこから、ブヌン族の伝承音楽に世界中の注目が集まることになった。彼らのハーモニーとは狩猟、祝い事、酒席の場等で当たり前のように披露されており、現在も局地的にだが残っている。(しかし、近代化と中国の漢民族の施策の影響もあり、少数民族の文化様式自体が消えつつある状況にもなってしまっているのは残念としか言いようがない。)この作品『Mudanin Kata』のレコーディングにあたって、フィールド・レコーディングを彼らの最も伝統的な因習が根付いているウールー村で2002年の4月に行なっている。パーティーのような雰囲気の中で円滑に進められたという言葉も分かる、朗らかなムードが終始し、周囲の雑音も含みながら、最小限度の形でのデヴィッド・ダーリングのチェロの奏でが、たおやかな音風景を生み出している。少しのスタジオ・ワークを加えて、音響的な拡がりが持った形でこうしてパッケージングされてリリースされることになり、世界中で受け入れられることになった。

 これは、「WORLD / OTHER」の棚を彷徨しながらも、「環境音楽」というジャンルにも入ってくるのだろうか、いや、"入ってしまう"のだろうか。環境音楽というと、アルヴィン・ルシエ、アルヴァン・カラン、ヤニス・クセナキス、フルクサス・グループ、エリック・サティ、ジョン・ケージ、ブライアン・イーノといったアート性を重視したものに含まれてくる作品だとは思うが、これがハイパーキャピタリズムの傘の下で機能的なチルアウトを企図するものになってしまうのではないか、という懸念も生まれる。僕個人としては、帯に書かれているボアダムスのYOSHIMI、カヒミ・カリィの絶賛する「アンビエンス作品の傑作」といった側面よりも、もっとナチュラルな視座から、ブルガリアン・ヴォイス、モンゴルのホーミーに触れたときに、そこに自らが規定している「音」へのコンテクストが脱構築されシンプルに心に響く経験をしたことがあるような人たちに届くようなエコーがあればいいと思っている。ここには、人の生の声があり、自然や鳥の音があり、現代音楽の象徴としてチェロが寄り添うように鳴り、柔らかいサウンド・アトモスフィアが優しく広がっている。尚且つ、深い伝統音楽の持つ悠遠たる歴史の一端に飲み込まれる感覚をおぼえる凄みがあるだけだ。そして、VocalとCello以外にクレジットされたAmbient sounds としてbirds,frogs,monkeys,and insects around Wulu Villageという部分こそが大事なのかもしれない。また、こうしてリイシューといった形で手に取り易くなったのは喜ばしいことである。
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