December 2010アーカイブ

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先日もお伝えしたクッキーシーンのムック第1弾「CDジャーナルムック『Cookie Scene Essential Guide: POP & ALTERNATIVE 00's: 21世紀ロックへの招待』」(内容の詳細はここ参照)、先日ようやく校了しました!

B5版変形サイズ(B5版の左右を3mmのばした、雑誌時代30〜60号と同じ判型)の本文160ページにぎっしり情報がつめこまれて、定価は税込1500円。来週木曜...12月16日にはお店に並びます。

CSM_H1H4_400.jpgまだプレス・リリースもできていませんが(汗&笑)、とりあえず表紙はこんな感じ...ということで!

イラストを描いてくださった中尾(旧姓杉田)あきさんは、In-Cというデザイン・オフィス(雑誌時代の28〜54号、61〜78号のデザインを担当。クローバー・レコーズというインディー・レーベルもやっているので、創刊直後からおつきあいがありました:笑)に所属していた時期に、クッキーシーンの現在のロゴを作ってくださった方でもあります。

クッキーシーンは今から10年前...2000年に『US Indie Pop Map』というA5版のディスク・ガイド本を出しています。そのときの表紙はラジカセのラフな線画イラストを使用していました(ちなみに、当時はIn-Cさんがデザインを担当するより前の時代)。あれみたいなノリで、今回の素材はノート・パソとギターかな...などと中尾さんに発注していたところ、実は彼女、当時のデザイナーさんの友だちでもあって、そのラジカセ・イラスト作成のお手伝いもしていた...と判明! びっくりしましたー(笑)。

デザインのみならず、内容も最高に充実していると思います。来週以降に、どうか是非一度チェックを...!

2010年12月9日8時15分 (HI)

2010年12月

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  • フォー・ボンジュールズ・パーティーズ

    コンセプトは夢、つじつまが合わないような見た後に不思議な感じがするような

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 (もちろん今年の)サマソニ出演の翌日、渋谷DUO MUSIC EXCHANGEでエヴリシング・エヴリシングのライヴをお目にかかれたんだけども、なにより感心してしまったのは息の合ったコーラスワークの豊かさだった。ラップトップも含めた楽器を持ちかえたりしつつ、複雑に入り組んだバンド・サウンドを鳴らすのと同時に、横一直線に並んだドラム以外のメンバー三人が重ねていく歌声のハーモニーにウットリ。アメリカ人らしく牧歌的で土の香りがするローカル・ネイティヴスのそれとは違う、いかにも西欧的な神経質で厳かな響きは、ああ、クイーンじゃん、10ccじゃん、とも思ったし、バトルスとテイク・ザットの作業量をたった4人でこなしてしまう濃密/緻密で情報過多なパフォーマンスに圧倒させられた。クール・リストのトップにローラ・マーリン選んだ英NMEによると2010年のイギリスはフォーク・イヤーだったらしいが(極論?)、僕は彼らに待ち焦がれていた("ひねくれポップ"という文脈における)英国ロックの理想形を見た気がした。理想は言い過ぎかもしれないけど、こういう音楽をずっと聴きたかったんですよ。

 既に今年のUK新人勢でも筆頭格といえる人気を日本でも獲得しつつある彼らの、待望のファースト・フルアルバムが『Man Alive』である。インテリ然とした実験精神や創意工夫もさることながら、"マーシャルアーツを極めたゴスペル・シンガー"なんて無茶振りな形容をしたくなるほど、抜群の跳躍力と内省的なメンタリティが高いレベルで融合し、そして先述のとおり"古き良き英国"の香りまで漂わせる、すばらしい作品に仕上がっている。

 アルバムの起爆剤となっているのは過去にリリースされていたキャッチーなシングル曲だ。煌びやかなシンセのフレーズとともにラップさながらにファルセットを小気味よく乱射する、ボーイズ・アイドル・ポップスの奇形みたいな冒頭の「MY KZ, UR BF」、つんのめるビートと変拍子の嵐が生みだすファンクネスが痛快なマス・ロックのポップス解釈「Schoolin'」。XTCの「Life Begins At The Hop」をパラノイアックにかき乱したような、バスドラムの躍動感も気持ちいい「Photoshop Handsome」は今回の発売に合わせてPVも一新され、一筋縄でいかない彼らのユーモアがより具現化されている(スパークスの「Photoshop」につづくPhotoshopソングだ! と興奮し、彼らにその曲について尋ねたら、一言「知らない」と返ってきました)。

 他の収録曲については、「以前は完璧に作り込もうとするところが多かったけど、今回はインプロヴィゼーションの一発録りみたいなことにも挑戦した」というベース/キーボード担当であるジェレミーの発言どおりで、やや詰め込み方がトゥーマッチな構築美が印象的だったEP「Schoolin'」と比較して、よりラフでスペーシーに、やわらかい曲調なものが目立ち、起伏とダイナミズムに富んだ楽曲と交互につづくことで、アルバムを彩り豊かなものにしている。「Leave The Engine Room」では広大な宇宙を思わせる音響空間のなかでヴォーカルのジョナサンは得意のハイトーンをアカペラで聴かせ、「Tin (The Manhole)」はポスタル・サーヴィスを思わせるミニマルなエレポップを展開。壮大かつ少しクラシカルで、オーケストラを従えてもこのとおり様になる。音を詰め込みすぎずに複雑な要素をコントロールできるようになったのはバンドの成長の賜物だろうし、ビヨンセをはじめとしたR&Bやクワイア・ミュージックも愛する彼らの嗜好がより前面に出たともいえるかもしれない。「Two For Nero」ではゲーム・ギアや世界大戦に言及しながら、次の世代の子どもたちに向けてビーチ・ボーイズ調の讃美歌を披露する。真っ当な父親になれよ、子どもをつくれよ、と。他の楽曲も、躁鬱のギャップが激しい視座によるエキセントリックなサイエンス・フィクション風の歌詞がどれもイチイチおもしろいし、挟まれるシリアスで批判的な問題提起はこのご時世、たいへん貴重といえる(だからこそ、国内盤がリリースされて本当に嬉しい!)。

 ダブステップなどのクラブ・ミュージックや、レイトバックしたフォーク/ポップスに圧され気味だったイギリスのロック界において、レディオヘッド以降の"バンド・サウンドに固執しないバンド・サウンド"の在り方に、何年か越しで明確な回答を示したバンドとも位置づけられるかもしれない。卓越した演奏能力をもちながらテクニカルな部分ばかりを誇示するのでなく、自由に伸び伸びと息をしながら、よりメジャー感のあるスケールを獲得したこの作品は、保守的で重苦しいムードを吹き飛ばし、これから控えるエジプシャン・ヒップホップら新世代のUKバンドより一足早く、新しい感性の到来を知らせるファンファーレを鳴らし、種蒔きの地ならしをしたという点でもとても価値がある。「オプティミスティックで肯定的で、どこにでも行けるような無限の可能性」が込められているというバンド名のとおり、貪欲に過去の音楽遺産を吸収しながら、あくまで自分たちの文脈を信じ、自分たちらしい筆致で歴史を塗り替えアップデートさせていく。音そのものは幾重にもネジレながら、愚直なまでのシリアスな決意と力強さにみちた快作だ。

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 ウェイヴスことネイサン・ウィリアムズは、間違いなくシット・ゲイズやニュー・ゲイザーの文脈で注目されたし、評価もされていた。実際昨年リリースされた2枚のアルバムは、シット・ゲイズ/ニュー・ゲイザーが持つ精神性を分かりやすく表現していたし、今後このシーンが語られていくとしたら、間違いなくマスターピース的な存在として挙がる傑作だ。

 でも、僕はシット・ゲイズ/ニュー・ゲイザーを好きになれないところもある。何故かというと、「自由にやっていいんだよ」というすごく現代的なメッセージを、あえて閉鎖的なコミュニティを作り上げると共に「内省的な趣味性」という退屈な堂々巡りとすり替えたバンドが多く生みだしてしまったから。産業としての音楽が崩壊し、音楽そのものもジャンルという檻から開放されたのに、「内省的な趣味性」という枷をジャンルとして自らに課すこともないだろう? と思うのだ。

 僕が思うに、これは「シット・ゲイズ/ニュー・ゲイザー」という名前に原因がある。シューゲイザーは、甘美で「ここではないどこか」へと誘ってくれるものだけど、シット・ゲイズ/ニュー・ゲイザーと呼ばれているバンドの多くは日常的な美しさに興味があると思う。だからこそ、剥き出しのざらざらとしたノイズを放っているのだ。ほとんどの人が、シューゲイザーに対するイメージをシット・ゲイズ/ニュー・ゲイザーに引継ぎ過ぎている。乱暴な言い方をすると、シューゲイザーは、「クソなものはクソ」だから逃避する。一方のシット・ゲイズ/ニュー・ゲイザーは、「クソなものこそ最高」。つまり、「最高なクソ音楽」ということになる。クソな日常を変えるために、クソな日常を描き出す(ついでに言うと、アトラス・サウンドのフリーDLアルバムのタイトルが『Bedroom Databank』なのも象徴的だ。ベッドルームは、日常が始まり終わる場所だから)。

 そして、『King Of The Beach』も最高にクソだ。『King Of The Beach』や「Post Acid」というタイトルに込められた皮肉。ノイジーでサンシャイン・ソウル的ですらあるサイケデリック・サウンドは、聴く者をトリップさせる。しかしそのトリップは、「どこかへ行く」というものではなく、我々が生きる日々のちょっとした横道に存在する「開かずの扉」を開けただけの、日常に根ざした「視点を変える」類のものだ。前2作のアルバムはすべて宅録だが、今回はモデスト・マウスなどで有名なデニス・ヘリングをプロデューサーに据えスタジオ・レコーディングを行っている。そのせいか、ポップなガレージ・ロックという音になっている。カート・コバーンとジョン・ライドンを合わせたようなネイサン・ウィリアムズのヴォーカルも面白い。そういう意味では、前2作にあった異端的な雰囲気はないし、人によってはそこが気に入らないかも知れない。でも、僕みたいに極度の内輪ノリが好きじゃない者にとって、開放的なエネルギーに溢れているこのアルバムはすごく意欲的なものとなっている。ひたすら実験的な音を出したいのか、それとも「ポップこそが実験的な音楽なのだ」と言いたいのか、そこがはっきりしないという意味では過渡期なアルバムかも知れないけど、『King Of The Beach』が多くの人に訴えかけようとしているアルバムなのは間違いない。

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 人は他人との距離を測りながら生きている。そのなかで失うものもたくさんある。これが「大人になる」ということで、だからこそ「若いうちにやっておけ」なんて言葉も聞こえてくるわけだけど、僕みたいに、本来失うはずのものに執着しているような人間は、「大人」という集団から疎外され孤独に生きるしかない。でも、愛というものがある限り、人間は孤独になりきれないわけで、だからこそ自由や快楽を求めてしまうのかも知れない。LAの4人組によるこのデビュー・アルバムは、孤独のなかで自由や快楽を謳歌している。ちなみに、彼女達のデビューEPは「Exquisite Corpse(=素晴らしき死体)」という。つまり、彼女達は「死」から始めているのだ。それでもなお、自ら求めるものを鳴らしながらどこまでも堕ちていく。そんな彼女達が鳴らす音を聴いていたら、不思議と涙が出てきた。

 初めてこのバンドを聴いたとき、ちょっと昔の懐かしい思い出が蘇ってきた。周りの景色が捻れ、色彩感覚が狂っていく。地上から数センチ浮き、体が花開くような覚醒感。こんな感覚を音楽で体験したのはかなり久しぶり。シット・ゲイズ/ニュー・ゲイザー以降の流れを意識した音になっていると思うし、ジ・エックスエックスもお気に入りと公言するのもよく分かるダークな雰囲気もある。でも一番すごいのは、雰囲気だけの凡百シューゲイズ・バンドと違って、しっかり音楽的な冒険と好奇心があるところ。プロダクションも凝っているんだけど、これはトム・ビラーとアンドリュー・ウェザオールの影響というよりも(トムとウェザオールはミックスを務めていて、トムはプロデューサーでもある)、彼女達自身が音作りの段階でかなり作り込んでいる思われる。それでも「理性的な本能」ではなく「本能そのもの」として聞こえるのは、理性と本能が共にレッドゾーンを超えているからだと思う。それは、最早どっちかだけで生き抜くことは難しい(時代的にも音楽的にも)ということを図らずも証明しているようだ。そういう意味で言うと、まさに「今」でなければ生まれなかったアルバムだと思うし、だからこそ多くの人に聴いてほしい。癒しや救いとは相反する死と隣り合わせの陶酔をもたらしてくれる『The Fool』は、間違いなく現代のサウンドトラックだ。「ただの良いアルバム」として片付けてはいけないし、片付けられないアルバムだと思う。

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 日本盤は彼女自身が撮り下ろした写真が収められたフォト・ブック仕様になっている。陰翳を活かした写真、ぶれた人間が写ったもの、反面、明瞭に切り取られた青空の下の海、自然の緑をメインに、あくまで輪郭を結ばないアート・コンシャスな構図を保つ。しかし、クレジット前の一枚の写真では何処かのレコード・ショップのヴァイナル・コーナーであろうショットが採用されている。そこには、敢えて目立つように「MICHAEL JACKSON」というレコードを区分けするタグにピントが当てられている作為性もある(インタヴューを読むと、昔から彼のことが好きだったようだ)。
 
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 マーガレット・ディガス(Margaret Dygas)が「今のような音」に辿り着くまでにどれだけの歳月と試行が費やされたのか、想像するに難くない。

 2006年からベルリンを拠点にDJや活動の主体を移すまでの長い紆余曲折―。ポーランドでの出生、ドイツでの生活、その後の1980年代後半のアメリカのカリフォルニア、1990年代初頭のニューヨーク、1999年のロンドンでの暮らし、と都度、オールドスクール・ヒップホップやハウス、テクノといったシーンの持つ音楽の歴史的背景に引っ張られる形で、場所を固定せず、デラシネ的に動き続けた。その中で、現在にも繋がる「ダヴとミニマルテクノのエクレクティズム」を見出したオンリーワンのサウンドを探し当てることになるのはロンドン滞在時のことだ。Fabric、The Keyといったロンドンの主要クラブでレジデントDJとして名を馳せ、その「名前」を持ったままで、ベルリンでより実験を進めた結果、よりドープによりミニマルな音に意識が向いていった事は推察できる。
 
 ベルリンに移ってからは、ドイツの各地のクラブでのプレイのみならず、Crosstown RebelsやCadenzaという著名なレーベルに招かれる形でツアーにも出ることになり、そして、PERLON、OSTGUT TON、CONTEXTERRIORなどのベルリンの名門のミニマル・レーベルから作品もリリースすることになり、世界的にも彼女の名前が知られるようになった。そんな状態の下で、日本でも汎的に知られる事になるだろうこのアルバム『How Do You Do』はそのタイトル通り、彼女がワールドワイドに展開する為の"改めての挨拶状"のようなものでありながら、また、キャリアを一旦、総括した節もあり、現在のミニマル・テクノ、クリック・ハウス、テクノ・シーンに一石を投じる内容にもなっている。徹頭徹尾、ストイックなまでに切り詰められたダヴィーなサウンド。そして、巷間のダブ・ステップなどの流行りの音に一瞥だにしないかのような彫刻美のようにシェイプされた最小限の音と隙間を活かした音響工作。

 トム・ヨークも好きなモードセレクター(Modeselektor)などが属する、レーベルBpitch Controlのオーナーにしてベルリンを拠点にするDJ/プロデューサーのエレン・エイリアン(Ellen Allien)の最新DJミックス『Watergate 05』の中でルチアーノ(Luciano)やロイクソップ、そして、アフィなどとともに選ばれている彼女の曲の「Hidden From View」(今回のアルバムにもミックス違いで入っている)もフロアー・コンシャスで良かったが、アルバム総体を鑑みたときに白眉なのは電子音が細かく刻まれ、時折、漆黒の闇へと吸い込まれるような展開を見せながら、9分強の間にじわじわと熱を持ち、盛り上がってゆく「Salutation」になるだろうか。何にせよ、このアルバムでは、今までにないオーガニックな要素も伺え、ダークながら風通しの良いトラックも増えたせいか、自然とハーバート、マウス・オン・マーズ、リカルド・ヴィラロボス、リッチー・ホウティンの影までちらつくのが微笑ましくもある。しかし、それらのどの音とも違う彼女特有の美意識に貫かれた「重さ」があるのも流石だと思う。その「重さ」はこれまでの来し方を示したものなのか、昨今の表層的に高機能化したクラブ・シーンへの直訴状のようなものなのか、様々な思慮が巡るが、アルバムを聴き通して、インタールードの意味も含む鳥の囀りや自然音を含んだアルバム冒頭の小品「Note Note Note」に戻ったときに、新たな時間の"捻じれ"が起こり、これまでの音の流れが全部、繋がっているような感覚になる。
 
 彼女のこの突き詰められたミニマルな音世界とは、元来、フィリップ・グラスやスティーヴ・ライヒなどのミニマル・ミュージックで既に雛型が作られてきた。それが、テクノロジーの進歩により、何の誤差もなく"反復"することが可能になり、その反復を活かしたのがクラフトワークであり、更に機能性を突き詰めた骨組みだけにしたものの多くが「ミニマル・テクノ」というジャンル内に犇く。彼女もミニマルテクノの"手続き"を取りながらも、しかし、規律的な反復を選ばず、微妙なフレーズの"揺らぎ"によって対象を捉える。そこにピアノの断片や差異を示す電子音のフレーズが多彩に転がる。その"揺らぎ"がトランシーに受け手の五感に「効く」。
 
 このアルバム自体、1時間程の尺に纏められたコンセプチュアルな側面も見えるものの、それほどの「永さ」も感じさせず、また、それだけの「瞬間性」も無い。つまり、このサウンドスケープ内で永遠と刹那の狭間を彷徨する亡霊は、ドイツの歴史が孕むミニマルテクノの"それ"かもしれないし、世界中を廻った彼女が拾い上げたクラウドの切り詰まった"感性"の集成なのかもしれないのだ。そう考えてゆくと、マーガレット・ディガスという人が何を音に仮託しようとしているのか、明確になるかもしれない。

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 ウェールズの片田舎から登場し、『Rockferry』が大ヒットしてから早くも2年が経つ。その後、「Rain On Your Parade」なんてグリッターさフルスロットルなシングルもあったけど、ダフィーにはオールド・ファッションかつソウルフルなポップが良く似合うことを、あのデビュー・アルバムは雄弁に語っていた。その彼女の適性を更に推し進めたのがこの2nd『Endlessly』だ。

 ほとんどの曲を、アルバート・ハモンド(そう、あのザ・ストロークスのギタリストの父!)が共に書き上げ、プロデュースまて手がけ、全編を通してオーケストラが使用されている。しかも、数曲では、スチュアート・プライス(ザ・キラーズ、シザー・シスターズ等)の名前も登場するし、更に、シングル「Well, Well, Well」ではザ・ルーツのクエストラヴによるドラムがビートを刻む・・・という豪華な布陣。ここで彼女の本領が発揮されないはずがない。

 オーディエンスのざわめきをインサートしたオープニングの「My Boy」は、グルーヴ感と溢れるモータウン風ポップに仕上がっているし、「Too Hurt To Dance」や「Don't Forsake Me」では洗練されたストリングスをバックに切なく歌い上げる。その一方、「Lovestruck」や「Girl」ではエレクトロを導入しているものの、彼女の魅力を損なうような過剰な演出は避けられているのがいい。その結果、セピア色のノスタルジアをまとっていた1st時とうってかわり、彼女の声の表情は曲ごと豊かな変化を見せている。そこからは、彼女の確かな成長が垣間見られるはずだ。

 まるで、この2年間の変化は『マイ・フェア・レディ』を見ているよう。彼女が現代のダスティ・スプリングフィールドと呼ばれるのにも改めて納得だ。

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francesco_tristano_schlime.jpg「演技」という概念が音楽に付き纏うのは周知だろう。

 例えば、いまだ未熟だった頃のヴァーグナーに対してアドルノは「王になるのではなく、指揮者のように立つのだ」という発言をしているが、この場合は「演技」という言葉が否定的な意味を含んでいる。元来、「演技」とは、演技を披露するものと鑑賞するものに相互性によって自覚される「社会的」な行為である。だからこそ、状況論として共犯関係が生まれるほどにアーティスト側は演技力を要求され、より状況主義への依存性を孕み、また、それによって喪われてしまうものも多々ある。だからこそ、ホッブズ、ルソーやロックといった思想家は「自然状態」を仮置することで、一定の実験装置側からのパースペクティヴも備えた。社会形式の上で演技を巡って取り交わされることによる本質主義から逸れてしまうディレンマは現代においても枚挙にいとまがない。

 考えてみるに、演技としての「ダンス」という行為は身体的な側面だけではなく、思索的側面があり、多義的な意味を含んでくる。ダンス自体を「娯楽」として解釈するだけでは事足りず、例えば、マイノリティと呼ばれる人たちが「ダンスを希求する」のはフロアーの中でこそ、"名前を失う"ことができる参加証を取る行為と近似する。と同時に、フーコー的な現代的な一望監視社会が持ち上がってくる中で、フロアーでもIDチェックなどで身分が囲い込まれ、トライヴが各々の身分を策定し合う中、その差異を策定し続ける社会的な「戦略の場」としても用いられてしまう事実にも自覚的でなければならなくなっているのも自明の理だろう。一方で、仮構化された身体性の起源を掘り起こす試みとしてのダンスもあり、文化的なものに回収することができない一回性の現場感覚への帰納する際には「演技」としてのダンスの概念はどうしても必要にもなってくる。

 ならば、デトロイトにおけるチャールズ・ジョンソンの影は現在では何処に視えるのだろうか。人種や国に関係なく、ジョージ・クリントン、クラフトワーク、YMOまでを跨いだ選曲センスが掬いあげた「声なき声」。振り返ってみると、1980年代の初頭、日本の自動車業界のアメリカ進出のあおりを受け、デトロイトは主たる産業とする自動車分野が落ち込み、失業や犯罪が増えるようになった中で、ラジオDJのチャールズ・ジョンソンは国境を越えた選曲を呈示し、それらの曲群にフック・アップされたユースの中にデトロイト・テクノの軸となるホアン・アトキンス、デリック・メイ、ケヴィン・サンダーソンが居たという事実は周知だろう。その中のデリック・メイが1987年に生み出した「Strings Of Life」はヨーロッパのレイヴ・シーンとも「共振」し、フロアーアンセムとなり、遂には時代を越えるクラシックとなった史実としても重い意味を持つ曲だ。

 その重い意味を持つ「Strings Of Life」を純粋な藝術的感性でもって優美に大胆にピアノで演奏してみせた現代音楽界の俊英、フランチェスコ・トリスターノ・シュリメ(Francesco Tristano Schlimé)の存在は当初は異端として、また訝しくも目に映ったのも当然かもしれない。しかし、彼の「Strings Of Life」をかのマッド・マイク、カール・クレイグやジェフ・ミルズといった面々が称賛をしたというのは興味深かった。そして、クラシック界からのテクノへの回答とも言われた2007年の『Not For Piano』ではオリジナル曲以外に、デリック・メイのみならず、オウテカやジェフ・ミルズまでもピアノで再構築した。そのディーセントなワークには毀誉褒貶も付き纏う事になってしまうが、それでも、彼はクラシック・ピアニストとしての矜持を保ったまま、バッハ、ハイドン、ストラヴィンスキーなど古典に挑むのと同じような位相でそれらの曲を同じプログラムの中で演奏してみせた。また、クラシック・ピアニストのラーミ・ハリーフェ(Rami Khalife)、ドラマー等をつとめるエイメリック・ヴェストリヒ(Aymeric Westrich)との3人でのAufgangではエレクトロニック・ミュージックへの求心性も高めた。

 その流れから想定できたことかもしれないが、カール・クレイグをプロデューサーに招聘して作品を作っているとの情報が入り、出来上がったのがこの『Idiosynkrasia』になる。意味深長なタイトルは、古代ギリシャ語から取ったものであり、"Idiosynkrasia"には、"自身への正しいやり方"といった意味があるという。2年もの歳月をかけ、カールのレーベル・スタジオであるデトロイトのPLANET Eで、レコーディングやミックス、エディットの作業を行ない、リアルタイムでレコーディングした音をエフェクトなどで加工したり、その上にシンセサイザーやドラムマシン、シーケンサーを乗せていく方法が功を奏したのか、全体を通底するスペイシーなムードは独自のものを帯びることになった。シュリメの崩れ落ちそうな繊細なタッチが映える「Lastdays」、軽快に跳ねるピアノをベースに打ち込みが入り、じわじわと盛り上がってゆく展開が印象的なフロアー・コンシャスなタイトル・トラック「Idiosynkrasia」、IDM的な雰囲気も感じさせる「Single and doppio」など、幅広いレンジを保持しながらも、不思議な音の訴求力がある。

 これは、彼が子供の頃に母親のLPで、クラフトワーク、ジャン・ミシェル・ジャール、ジョー・ザヴィヌルなど多くのアーティストを聴き、ニューヨークでの学生時代にデトロイト・テクノに出会ったという「来し方」を残す(巷間に示す)ための作品であり、また、バッハを始めとしたクラシック音楽は博物館に置かれているような鑑賞用の芸術品ではなく、今も生きていて、テクノやジャズとも"シームレス"に繋がっていると言う彼の貪欲な冒険心の現在進行形の一端を示す作品と位置付けるのが相応しい気がする。また、「生の音楽」としてこれはあまりに現代的であり、現代的であるがゆえに、この作品は「演技」としてのダンス・ミュージック的性格も帯びる。何故ならば、ダンスというものは、それを通じて"対話"をはかる空間を創出する要素もあるからだ。この作品の中でおこなわれるダイアローグは差異を画定し続けようとする社会的なシステムを迂回する内密さを帯びる可能性もあるだろう。

 しかし、一点、苦言を呈すと、現代音楽界の才人の歴史への敬意とデトロイト・テクノの要人の現代音楽への怜悧な視点がぶつかり合ったにしては、音像が存外、淡白でもあるのが個人的に残念でもあった。多くの人たちに届くべき挑戦的な作品と思うだけに、もっとジャンルの垣根や国境を越える何かを孕むものになって欲しかったという気持ちは否定できない。

(松浦達)

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dragon_ash.jpg 前作『FREEDOM』から一年九ヶ月後に発表された、Dragon Ashのフルアルバムとしては九作目になる『MIXTURE』は彼らの誇りであるミクスチャー・ロック・バンドとしての今を鳴らしている。ボーカルであるKj(降谷健志)はライブやフェスでミクスチャー・バンドである事を誇りであると言っているし、ミクスチャーバンドとして出てライブハウスもやらせてくれなかったり出演する機会がなかったデビュー時のこと。その中でずっと続けてきた仲間だったミクスチャーバンドも次々と解散してしまったりしている事を語る。しかし自分たちは辞めないと意思表示している。解散してしまった仲間たちの想いはアルバムに先行されて発売された「SPIRIT OF PROGRESS E.P.」にも収録されている『ROCK BAND』という曲の中に歌われている。

 表現者は最初の作品に全てが集約されているという。ずっと同じテーマを違った見方や表現でしているともいう。それは村上春樹がずっと「父親」になれない問題を何十年も描くように、それは『1Q84』BOOK3にてようやくその先を描き出したように。Dragon Ashはバンドスタート時の三人から現在は七人に増えている。彼らのライブを観た事のない人はロックバンドになぜダンサーが二人もいるのと聞いてくるのだが、それはライブを見て体感してほしいとしか言えない。ミクスチャーロックとは様々なジャンルの音楽を混ぜ合わせた音楽だからそこにダンサーによる身体性が加わる事でさらにハイブリット化する。それを体現しているのが彼らだ。しかも第一線でずっとそれを続けてきたロックバンドだ。

《出る杭になればいい 笑いたい奴は笑えばいい
修練後ケツ蹴ってやんな 10年後お前がベテランだ》

 上記は「SKY IS THE LIMIT」という曲の歌詞だが、これは彼らの新しいバンドや次世代の人に、今何かをがんばっている人へのメッセージであり、彼らが体験した事だ。フェスなどでずっと聴いてましたと若いバンドに言われるような立場になってしまったベテランのロックバンドとしての想い。そんなものがこのアルバムには感じられる。

 ZEEBRAによる公開処刑の後に音楽を辞めようとし、発売予定だったアルバムも中止し、最低の状態まで落ちたKjはそれでも音楽がやりたいと復活し彼らはラップとのミクスチャーからラテンとのミクスチャーに変化し新しい形を得たのがこの数年間であり、前作『FREEDOM』はラテン・ミクスチャー・ロックの一つの到達点だった。そんな彼らが次に作り上げたのは初期衝動を思い出すかのようなミクスチャー・ロックを鳴らす事だった。アルバムを通して聴くと初期のアルバムに近いものを感じる。が、もちろん同じではない。

 さきほど書いた事でいうと永遠に同じループをする表現者と螺旋階段を上っていくタイプがいると思うのだがDragon Ashのニューアルバムに感じられる初期衝動のようなものは13年前にデビューした場所から延々にループしたのではなく色んな階を見ながら自らに取り入れて上がった螺旋階段的なものだという感じ。表現方法やパフォーマンスが上がった事でできるものをアルバムの中に取り入れているから、どことなく初期の作品のニュアンスを感じられて嬉しく思いながらはっきり進化した形を今のバンドの状態で表している。

 日本の音楽シーンでヒットチャートに入るラップやレゲエで家族愛や仲間の事を歌うのが広まったのはKjの責任が大きい。正直、歌で家族に向けての想いを歌うなら直接言えよと思う、歌って伝えるのは違うだろと。あなたにとって一番大事なものは何ですかという質問で今や「家族」は一位だ。世界が変化し、日本社会の旧来の制度が崩壊し、会社も社会も信じられなくなったら家族しかなくなった。でもその家族もとっくの昔に崩壊しているのに。最後に残された家族という幻想に日本人はすがる。
 
 Kj本人も家族愛などを歌うのが広まっているレゲエやラップが広まった責任も自覚していると雑誌のインタビューなどでも語っていた。だがそれだけミクスチャーバンドとして彼らの影響は大きかった。その責任の代償としてか彼は尊敬するミュージシャンからディスられ暗い穴に落ちて沈んだ。そこからの復活からの音楽の方が僕は好きだ。
 
 アルバム『Harvest』以降は祈りにも似たロックサウンドだと思う。神に届かない祈りでもリスナーに届き彼らの内面を鼓舞する優しさがある。Dragon Ashをしばらく聴いてないという人にもお薦めできるアルバムだし、初めて聴き始めるにも彼らの魅力が伝わりやすいものだと思う。父親になっても初期衝動を忘れないKjと、彼と共に進むこのバンドがこれからも色んなものを取り込んでミクスチャーして独自の進化を続けるハイブリッドな存在になっていく、そして轍ができる。まずはアルバムを。そしてライブで。ライブに行ったら飛び跳ねて重力を振り切って舞い上がってほしい。

《まるで街角のポスター 一つ張られ一つ消えるロックスター
路地裏で生まれた名曲 星空のようにシーンをmake up
夢見た理想と現実 あらがい鳴らすディストーションと旋律
洗い流す胸の中 そう"未来は僕らの手の中》
(「ROCK BAND」より)

(碇本学)

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Fellini.jpg 蓮實重彦が以前に言っていた映画のイデオロギー的な"再編"とはどういう意味だったのか、今こそ考えてみるべき余地はあると思う。

 例えば、1920年代のソ連での、セルゲイ・エイゼンシュテインやジガ・ヴェルトフらが視覚的効果を利用して製作していた実験的な前衛映画作品が批判され、1930年代に、それと代替されるように「社会主義リアリズム」と呼ばれるような民衆受けするナラティヴを丁寧に敷いた映画がスターリン政権によって推奨されることになり、本流を歩むようになったことは象徴的な史実の一つだろう。また、映画領域ではないが、後に「ジダーノフ批判」として有名になる、社会主義リアリズムに反したヴァノ・ムラデリに対しての処置も似たようなものだ。ソーシャリズムに相応しい主体的契機とは何なのか、考えてみると、それは、他者と共感する、他者の差異性を肯定する主体性でなくてはならない(はず)だろう。近代的な合理主義はだからこそ、対照的である。この「共感性」は、優れた芸術に満ちており、繋がっているものであるからだ。そうなると、ソーシャリズムが仕掛けたイメージ枠の中に「政治的メッセージ」が組み込まれ、観客が求めるのではなく、「求めさせられる」観念性自体の幅広い共有がメディアからのコロニアル化を迫られるということだ。こういった例は、イデオロギーの周縁を巡って枚挙にいとまがない。惟うに、フランスのルネ・クレールの転回もそういった映画のイデオロギー的"再編"の一環に組み込まれるだろう。『巴里の屋根の下』以前の彼はもっとエクスペリメンタルだった。

 しかし、蓮實重彦のこのような主張を、ハリウッド手製の古典的な物語映画への政治面での批判として読む手順をなぞるのは得策なのか、考える必要がある。つまり、己自身を観念的な物語を伝達するための透明な「メディア」の地位にまで落ちていったハリウッドの大型の娯楽映画とは、その装置性をしてナイーヴに批判できるだけの意味文脈があるのか。現代の高度情報化社会での「メディア」や「コミュニケーション」のヘゲモニーを創出しているのは、マスメディア機能として不全状態に陥った凡庸な物語映画である要素は看過することはできない。
 
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『8 1/2』は初めから映画のメディア機能としての不全の状態から始まっている。それでいて、『道』のような丹念に編まれた物語映画や難解と言われながらも、実は骨子は明瞭な『甘い生活』から「退却」している点も面白い。周知の通り、1960年時点で、フェリーニは映画界の頂点には君臨しながらもカオスの真っ只中にもあり、「美しき混乱」と名称付けられた"それ"は、スタッフ、脚本人の迷妄もありながら、それまでの彼が撮った映画のうちの『寄席の脚光』はアルベルト・ラットゥアーダとの共作だったので、1/2とも換算した通算映画の本数とも言えたり、その他の数多のエピソード(それは映画雑誌や探せば幾らでも出てくるだろう)、結果的に『8 1/2』と曰くつきの表題に至った。そして、彼の生涯で最後のモノクロームに縁取られた退屈な貴美さは撮影監督のジャンニ・ディ・ヴィナンツォの手腕もあったのか、コントラストが鮮やかで、カラフルな色彩よりも雄弁な麗しさを画面そのものが帯びている。

 ストーリー自体は多くは語るまでもなく、映画監督が映画監督自身の苦悩をモティーフにした「メタ映画」だ。マルチェロ・マストロヤンニが演じる43歳の映画監督グイド・アンセルミは、映画監督という職業上の苦悩、「女性たち」を巡っての溢れ出る感情、想い出、回想、幻惑と夢と混沌を行き来しながら、点は線を結ばず、伏線は断線を呼び寄せるかのように、次のイメージの奔流に飲まれ、消滅してしまう。

 温泉地に逗留しにきたグイドは、愛人のサンドラ・ミーロ演じる豊満な白人女性カルラ、従順で美しいアヌーク・エーメ演じる妻ルイザ、また、職業上での知人たちとの煩わしい関係性から逃れることはできず、疲弊する。カルラは美しい女性だが、肉体的関係で結ばれている存在であり、今のグイドにとっては面倒な感情も持っている。妻のルイザとの関係も倦怠性を帯び、別居することを考えはするものの、結局は必要にもなってしまう。そんなグイドの心に願望の「象徴」として若くて綺麗な女性のクラウディア・カルディナーレ演じるクラウディアがよぎる。そして、そういった女性たちを巡る幻念から思索は、今は亡きグイドの母親へと行き着き「循環」する。あまたの女性「性」の発現とそれに対する無意識裡からのアディクト、あるいは抗い。ユングは男性の中にある無意識の女性的な資質を「アニマ」と称し、男性はこれを「現実」の女性に投影し、そこで新たな(再)発見すると言ったが、ユングを敬愛していたフェリーニの想いはこの映画でこそ、歴然と発火している。
 
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 ラスト・シーンの「出演者たち全員が輪になって踊る」構図は映画に疎い人でも散見したことがあるとは思う。しかし、これは「予告編の為」のシーン割りであって、本当は「失われた結末(ロスト・エンディング)」があった。実は、この映画のエンディングとして登場人物達が白装束を着て、列車に乗ってどこかに向かうというシーンが撮影されていたのだが、それは結局は使われなかった。作品として、"チネ・チッタ"という「虚構の国」の規律するタナトスとエロスの絡み合う祭祀性へ捧げる形を取る為には当時は「輪になって踊るシーン」で終わる必然があったとも言える。

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 最後に言及しておこう。ニーノ・ロータの音楽が全編を麗しく彩りながら、個人的に、フェリーニの作為と、映画のイデオロギーが帰一する"再編"への明確な縄抜けとも言えるシーンがある。それは、湯治場でのマダム達の登場と喫茶のシーンでかかりつづけるヴァーグナーの「ヴァルキューレの騎行」なのだが、なぜ、この曲がこんな何気ない場所、シーンで選ばれたのか、判らない。「ヴァルキューレの騎行」といえば、例のコッポラの『地獄の黙示録』での使い方が象徴的だったが、ああいったベタな作用ではなく、ここでのヴァーグナーはもっと鼻歌のようなものである。その鼻歌を口ずさむように現代においては「輪になって踊る祭祀性」ではなく、「ロスト・エンディング」として用意された肥大したモダニズムに対してのフューネラルの記号のような白装束で列車に乗りこむべきシーンの方が「合っている」というのは少し悲観が過ぎるかもしれないが、どうだろうか。

 政治的に映画が再編されることが増え、グローバリゼーションの手の上で「平板な映画」が溢れるなかで(それは、3D映画の台頭という事象とリンクした形なのも興味深い。)、この混沌としたイメージ片が散らばった『8 1/2』が提示する意味はいまだ大きいと思う。もし、フェリーニが今、生きていたら、どのような想いで二つのエンディングを位置付けるのか、知りたくもなる。もしかしたら、「その先」もあったのかもしれないと夢想するのも悪くない所作だと思うのだ。

(松浦達)

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