フランチェスコ・トリスターノ・シュリメ『イディオシンクラシア』(In Fine / Boundee)

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francesco_tristano_schlime.jpg「演技」という概念が音楽に付き纏うのは周知だろう。

 例えば、いまだ未熟だった頃のヴァーグナーに対してアドルノは「王になるのではなく、指揮者のように立つのだ」という発言をしているが、この場合は「演技」という言葉が否定的な意味を含んでいる。元来、「演技」とは、演技を披露するものと鑑賞するものに相互性によって自覚される「社会的」な行為である。だからこそ、状況論として共犯関係が生まれるほどにアーティスト側は演技力を要求され、より状況主義への依存性を孕み、また、それによって喪われてしまうものも多々ある。だからこそ、ホッブズ、ルソーやロックといった思想家は「自然状態」を仮置することで、一定の実験装置側からのパースペクティヴも備えた。社会形式の上で演技を巡って取り交わされることによる本質主義から逸れてしまうディレンマは現代においても枚挙にいとまがない。

 考えてみるに、演技としての「ダンス」という行為は身体的な側面だけではなく、思索的側面があり、多義的な意味を含んでくる。ダンス自体を「娯楽」として解釈するだけでは事足りず、例えば、マイノリティと呼ばれる人たちが「ダンスを希求する」のはフロアーの中でこそ、"名前を失う"ことができる参加証を取る行為と近似する。と同時に、フーコー的な現代的な一望監視社会が持ち上がってくる中で、フロアーでもIDチェックなどで身分が囲い込まれ、トライヴが各々の身分を策定し合う中、その差異を策定し続ける社会的な「戦略の場」としても用いられてしまう事実にも自覚的でなければならなくなっているのも自明の理だろう。一方で、仮構化された身体性の起源を掘り起こす試みとしてのダンスもあり、文化的なものに回収することができない一回性の現場感覚への帰納する際には「演技」としてのダンスの概念はどうしても必要にもなってくる。

 ならば、デトロイトにおけるチャールズ・ジョンソンの影は現在では何処に視えるのだろうか。人種や国に関係なく、ジョージ・クリントン、クラフトワーク、YMOまでを跨いだ選曲センスが掬いあげた「声なき声」。振り返ってみると、1980年代の初頭、日本の自動車業界のアメリカ進出のあおりを受け、デトロイトは主たる産業とする自動車分野が落ち込み、失業や犯罪が増えるようになった中で、ラジオDJのチャールズ・ジョンソンは国境を越えた選曲を呈示し、それらの曲群にフック・アップされたユースの中にデトロイト・テクノの軸となるホアン・アトキンス、デリック・メイ、ケヴィン・サンダーソンが居たという事実は周知だろう。その中のデリック・メイが1987年に生み出した「Strings Of Life」はヨーロッパのレイヴ・シーンとも「共振」し、フロアーアンセムとなり、遂には時代を越えるクラシックとなった史実としても重い意味を持つ曲だ。

 その重い意味を持つ「Strings Of Life」を純粋な藝術的感性でもって優美に大胆にピアノで演奏してみせた現代音楽界の俊英、フランチェスコ・トリスターノ・シュリメ(Francesco Tristano Schlimé)の存在は当初は異端として、また訝しくも目に映ったのも当然かもしれない。しかし、彼の「Strings Of Life」をかのマッド・マイク、カール・クレイグやジェフ・ミルズといった面々が称賛をしたというのは興味深かった。そして、クラシック界からのテクノへの回答とも言われた2007年の『Not For Piano』ではオリジナル曲以外に、デリック・メイのみならず、オウテカやジェフ・ミルズまでもピアノで再構築した。そのディーセントなワークには毀誉褒貶も付き纏う事になってしまうが、それでも、彼はクラシック・ピアニストとしての矜持を保ったまま、バッハ、ハイドン、ストラヴィンスキーなど古典に挑むのと同じような位相でそれらの曲を同じプログラムの中で演奏してみせた。また、クラシック・ピアニストのラーミ・ハリーフェ(Rami Khalife)、ドラマー等をつとめるエイメリック・ヴェストリヒ(Aymeric Westrich)との3人でのAufgangではエレクトロニック・ミュージックへの求心性も高めた。

 その流れから想定できたことかもしれないが、カール・クレイグをプロデューサーに招聘して作品を作っているとの情報が入り、出来上がったのがこの『Idiosynkrasia』になる。意味深長なタイトルは、古代ギリシャ語から取ったものであり、"Idiosynkrasia"には、"自身への正しいやり方"といった意味があるという。2年もの歳月をかけ、カールのレーベル・スタジオであるデトロイトのPLANET Eで、レコーディングやミックス、エディットの作業を行ない、リアルタイムでレコーディングした音をエフェクトなどで加工したり、その上にシンセサイザーやドラムマシン、シーケンサーを乗せていく方法が功を奏したのか、全体を通底するスペイシーなムードは独自のものを帯びることになった。シュリメの崩れ落ちそうな繊細なタッチが映える「Lastdays」、軽快に跳ねるピアノをベースに打ち込みが入り、じわじわと盛り上がってゆく展開が印象的なフロアー・コンシャスなタイトル・トラック「Idiosynkrasia」、IDM的な雰囲気も感じさせる「Single and doppio」など、幅広いレンジを保持しながらも、不思議な音の訴求力がある。

 これは、彼が子供の頃に母親のLPで、クラフトワーク、ジャン・ミシェル・ジャール、ジョー・ザヴィヌルなど多くのアーティストを聴き、ニューヨークでの学生時代にデトロイト・テクノに出会ったという「来し方」を残す(巷間に示す)ための作品であり、また、バッハを始めとしたクラシック音楽は博物館に置かれているような鑑賞用の芸術品ではなく、今も生きていて、テクノやジャズとも"シームレス"に繋がっていると言う彼の貪欲な冒険心の現在進行形の一端を示す作品と位置付けるのが相応しい気がする。また、「生の音楽」としてこれはあまりに現代的であり、現代的であるがゆえに、この作品は「演技」としてのダンス・ミュージック的性格も帯びる。何故ならば、ダンスというものは、それを通じて"対話"をはかる空間を創出する要素もあるからだ。この作品の中でおこなわれるダイアローグは差異を画定し続けようとする社会的なシステムを迂回する内密さを帯びる可能性もあるだろう。

 しかし、一点、苦言を呈すと、現代音楽界の才人の歴史への敬意とデトロイト・テクノの要人の現代音楽への怜悧な視点がぶつかり合ったにしては、音像が存外、淡白でもあるのが個人的に残念でもあった。多くの人たちに届くべき挑戦的な作品と思うだけに、もっとジャンルの垣根や国境を越える何かを孕むものになって欲しかったという気持ちは否定できない。

(松浦達)

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