ウェーヴス『キング・オブ・ザ・ビーチ』(Fat Possum / Hostess)

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 ウェイヴスことネイサン・ウィリアムズは、間違いなくシット・ゲイズやニュー・ゲイザーの文脈で注目されたし、評価もされていた。実際昨年リリースされた2枚のアルバムは、シット・ゲイズ/ニュー・ゲイザーが持つ精神性を分かりやすく表現していたし、今後このシーンが語られていくとしたら、間違いなくマスターピース的な存在として挙がる傑作だ。

 でも、僕はシット・ゲイズ/ニュー・ゲイザーを好きになれないところもある。何故かというと、「自由にやっていいんだよ」というすごく現代的なメッセージを、あえて閉鎖的なコミュニティを作り上げると共に「内省的な趣味性」という退屈な堂々巡りとすり替えたバンドが多く生みだしてしまったから。産業としての音楽が崩壊し、音楽そのものもジャンルという檻から開放されたのに、「内省的な趣味性」という枷をジャンルとして自らに課すこともないだろう? と思うのだ。

 僕が思うに、これは「シット・ゲイズ/ニュー・ゲイザー」という名前に原因がある。シューゲイザーは、甘美で「ここではないどこか」へと誘ってくれるものだけど、シット・ゲイズ/ニュー・ゲイザーと呼ばれているバンドの多くは日常的な美しさに興味があると思う。だからこそ、剥き出しのざらざらとしたノイズを放っているのだ。ほとんどの人が、シューゲイザーに対するイメージをシット・ゲイズ/ニュー・ゲイザーに引継ぎ過ぎている。乱暴な言い方をすると、シューゲイザーは、「クソなものはクソ」だから逃避する。一方のシット・ゲイズ/ニュー・ゲイザーは、「クソなものこそ最高」。つまり、「最高なクソ音楽」ということになる。クソな日常を変えるために、クソな日常を描き出す(ついでに言うと、アトラス・サウンドのフリーDLアルバムのタイトルが『Bedroom Databank』なのも象徴的だ。ベッドルームは、日常が始まり終わる場所だから)。

 そして、『King Of The Beach』も最高にクソだ。『King Of The Beach』や「Post Acid」というタイトルに込められた皮肉。ノイジーでサンシャイン・ソウル的ですらあるサイケデリック・サウンドは、聴く者をトリップさせる。しかしそのトリップは、「どこかへ行く」というものではなく、我々が生きる日々のちょっとした横道に存在する「開かずの扉」を開けただけの、日常に根ざした「視点を変える」類のものだ。前2作のアルバムはすべて宅録だが、今回はモデスト・マウスなどで有名なデニス・ヘリングをプロデューサーに据えスタジオ・レコーディングを行っている。そのせいか、ポップなガレージ・ロックという音になっている。カート・コバーンとジョン・ライドンを合わせたようなネイサン・ウィリアムズのヴォーカルも面白い。そういう意味では、前2作にあった異端的な雰囲気はないし、人によってはそこが気に入らないかも知れない。でも、僕みたいに極度の内輪ノリが好きじゃない者にとって、開放的なエネルギーに溢れているこのアルバムはすごく意欲的なものとなっている。ひたすら実験的な音を出したいのか、それとも「ポップこそが実験的な音楽なのだ」と言いたいのか、そこがはっきりしないという意味では過渡期なアルバムかも知れないけど、『King Of The Beach』が多くの人に訴えかけようとしているアルバムなのは間違いない。

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