DAVID DARLING & THE WULU BUNUN『Mudanin Kata』(Riverboat)

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 小泉文夫やヒュー・トレイシーのフィールド・レコーディングの作品群をして、研究素材としては有効だが、時に西洋優位主義からなる非・西洋圏文化のコロニアル化に過ぎない、というような評論磁場があり、例えば、よりもっとポップで商業音楽的な側面に近接すると、ポール・サイモンの第三世界の音楽の摂取の仕方はあざとく、デヴィッド・バーンはスマートだというよく分からない言説に時々、対峙することもある。しかし、ブラー、ゴリラズで活躍するデーモン・アルバーンがマリ共和国でセッションした作品などは先進的なアプローチや近代的な視座を無邪気に取り入れているので、全くそういった対象枠内に入らなかったのも不思議だと思う。"センス"のレベルで未開拓の文化の表層を掬うのが是なのか、もっとフィールドに降り立って同じ目線でその文化に真摯に向き合うのが是なのか、少なくとも僕には分からない。届けられた音像を聴いて想う事はあっても、どんな国や地域でも凡たる搾取の「構造」など対象化している気高さも商魂もそこに介在するケースが多いからなのもある。

 そもそも、芸術という文化現象には、国家権力の政治的な判断で権威付けられ、庇護されたりすることによって肥大化したものに過ぎない、とそれに抗って民衆の側が主体的に引き継ぎ発展させてきたものがある。当然のこと、ア・プリオリ的に文化・芸術に高等なものや下等なものなど存在しない(はずだろう)。ただ、伝承的に音楽的な形式が護られているとしたならば、民衆が何世紀にも渡って主体的に受継し、択び取ってきたものとは「一体、どういう姿をしているのか」―それこそがフィールドワークの中で実際に民衆の奏でる音楽の現場に立ち会ってこそ、初めて理解出来るものなのかもしれない。とはいえ、例えば、「ブラジル音楽」と言っても、対外向けのMPBと自国のロック・ポップスは分けられているのは周知だろうし、「もたざる国」が「もてる国」を逆利用するケースなどままあり、少なくとも、大型レコード・ショップで棚的に区分けされている「WORLD / OTHER」というパラフレーズは自分が知っている世界ではなく、自己意識が想定し得る次元での「異文化」という要素を含む。「ここではない、どこか」を夢想してサウンド・トリップに身を委ねてみるのもいいものの、「どこか」など本当はない。

 また、考えてみるに、サイードが「オリエント」に本質を付与する事を拒否する際において発想のベースにフーコーのディスクール理論を参照にしていると言ったとき、内側から起こる違和は皆、感得できるだろう。何故ならば、フーコーは「言葉と物」で18世紀以前(古典主義時代)のヨーロッパの知の在り方と19世紀以降(モダン)の知の在り方に大きな「断絶」があるという事を述べているからだ。要は、近代主義の尺度で古典主義の知を図ることは不可能だとしたならば、トラディショナルな何かがモダン・マテリアリズムに侵食されて、決定的な「内層」を喪失するという事は有り得るのか疑念を呈さずにはいられない。

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 台湾の「先住民」、ブヌン(布農)族の伝統的な8部和音コーラスと、映画音楽、現代音楽、ジャズやニューエイジなど多様なジャンルを横断するアメリカ人チェリスト/ 作曲家であり、「現代人」たるデヴィッド・ダーリングのチェロが出会い、それを深いアンビエント音楽として紹介するという所作自体はいかにも、前述のような批判の矢面に立ってしまう危惧はあるだろう。しかし、聴いてみると、そんな要素は全く感じないのも事実なのだ。

 台湾の人口の2%を占める12の先住民の中の一つであるブヌン族は山地を中心に生活しており、この作品でも伺える8声の澄んだコーラスは1943年に日本人の音楽学者である黒沢隆朝氏によって世界に紹介された。そして、その9年後に黒沢氏がブヌンの受け継がれている伝統的な曲「Pasibutbut」をユネスコに紹介したときは波紋を起こした。何故ならば、彼らの複雑な8部合音のハーモニーは民俗音楽者の音楽起源に関する研究においても異端なもので、それまでは「楽曲の起源は"単音"を基調としてより複雑なアレンジメントに発展していった」という学説を覆すものであったからだ。そこから、ブヌン族の伝承音楽に世界中の注目が集まることになった。彼らのハーモニーとは狩猟、祝い事、酒席の場等で当たり前のように披露されており、現在も局地的にだが残っている。(しかし、近代化と中国の漢民族の施策の影響もあり、少数民族の文化様式自体が消えつつある状況にもなってしまっているのは残念としか言いようがない。)この作品『Mudanin Kata』のレコーディングにあたって、フィールド・レコーディングを彼らの最も伝統的な因習が根付いているウールー村で2002年の4月に行なっている。パーティーのような雰囲気の中で円滑に進められたという言葉も分かる、朗らかなムードが終始し、周囲の雑音も含みながら、最小限度の形でのデヴィッド・ダーリングのチェロの奏でが、たおやかな音風景を生み出している。少しのスタジオ・ワークを加えて、音響的な拡がりが持った形でこうしてパッケージングされてリリースされることになり、世界中で受け入れられることになった。

 これは、「WORLD / OTHER」の棚を彷徨しながらも、「環境音楽」というジャンルにも入ってくるのだろうか、いや、"入ってしまう"のだろうか。環境音楽というと、アルヴィン・ルシエ、アルヴァン・カラン、ヤニス・クセナキス、フルクサス・グループ、エリック・サティ、ジョン・ケージ、ブライアン・イーノといったアート性を重視したものに含まれてくる作品だとは思うが、これがハイパーキャピタリズムの傘の下で機能的なチルアウトを企図するものになってしまうのではないか、という懸念も生まれる。僕個人としては、帯に書かれているボアダムスのYOSHIMI、カヒミ・カリィの絶賛する「アンビエンス作品の傑作」といった側面よりも、もっとナチュラルな視座から、ブルガリアン・ヴォイス、モンゴルのホーミーに触れたときに、そこに自らが規定している「音」へのコンテクストが脱構築されシンプルに心に響く経験をしたことがあるような人たちに届くようなエコーがあればいいと思っている。ここには、人の生の声があり、自然や鳥の音があり、現代音楽の象徴としてチェロが寄り添うように鳴り、柔らかいサウンド・アトモスフィアが優しく広がっている。尚且つ、深い伝統音楽の持つ悠遠たる歴史の一端に飲み込まれる感覚をおぼえる凄みがあるだけだ。そして、VocalとCello以外にクレジットされたAmbient sounds としてbirds,frogs,monkeys,and insects around Wulu Villageという部分こそが大事なのかもしれない。また、こうしてリイシューといった形で手に取り易くなったのは喜ばしいことである。

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