現代における映画のイデオロギーの"再編"への考察―フェリーニ『8 1/2』を主軸に

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Fellini.jpg 蓮實重彦が以前に言っていた映画のイデオロギー的な"再編"とはどういう意味だったのか、今こそ考えてみるべき余地はあると思う。

 例えば、1920年代のソ連での、セルゲイ・エイゼンシュテインやジガ・ヴェルトフらが視覚的効果を利用して製作していた実験的な前衛映画作品が批判され、1930年代に、それと代替されるように「社会主義リアリズム」と呼ばれるような民衆受けするナラティヴを丁寧に敷いた映画がスターリン政権によって推奨されることになり、本流を歩むようになったことは象徴的な史実の一つだろう。また、映画領域ではないが、後に「ジダーノフ批判」として有名になる、社会主義リアリズムに反したヴァノ・ムラデリに対しての処置も似たようなものだ。ソーシャリズムに相応しい主体的契機とは何なのか、考えてみると、それは、他者と共感する、他者の差異性を肯定する主体性でなくてはならない(はず)だろう。近代的な合理主義はだからこそ、対照的である。この「共感性」は、優れた芸術に満ちており、繋がっているものであるからだ。そうなると、ソーシャリズムが仕掛けたイメージ枠の中に「政治的メッセージ」が組み込まれ、観客が求めるのではなく、「求めさせられる」観念性自体の幅広い共有がメディアからのコロニアル化を迫られるということだ。こういった例は、イデオロギーの周縁を巡って枚挙にいとまがない。惟うに、フランスのルネ・クレールの転回もそういった映画のイデオロギー的"再編"の一環に組み込まれるだろう。『巴里の屋根の下』以前の彼はもっとエクスペリメンタルだった。

 しかし、蓮實重彦のこのような主張を、ハリウッド手製の古典的な物語映画への政治面での批判として読む手順をなぞるのは得策なのか、考える必要がある。つまり、己自身を観念的な物語を伝達するための透明な「メディア」の地位にまで落ちていったハリウッドの大型の娯楽映画とは、その装置性をしてナイーヴに批判できるだけの意味文脈があるのか。現代の高度情報化社会での「メディア」や「コミュニケーション」のヘゲモニーを創出しているのは、マスメディア機能として不全状態に陥った凡庸な物語映画である要素は看過することはできない。
 
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『8 1/2』は初めから映画のメディア機能としての不全の状態から始まっている。それでいて、『道』のような丹念に編まれた物語映画や難解と言われながらも、実は骨子は明瞭な『甘い生活』から「退却」している点も面白い。周知の通り、1960年時点で、フェリーニは映画界の頂点には君臨しながらもカオスの真っ只中にもあり、「美しき混乱」と名称付けられた"それ"は、スタッフ、脚本人の迷妄もありながら、それまでの彼が撮った映画のうちの『寄席の脚光』はアルベルト・ラットゥアーダとの共作だったので、1/2とも換算した通算映画の本数とも言えたり、その他の数多のエピソード(それは映画雑誌や探せば幾らでも出てくるだろう)、結果的に『8 1/2』と曰くつきの表題に至った。そして、彼の生涯で最後のモノクロームに縁取られた退屈な貴美さは撮影監督のジャンニ・ディ・ヴィナンツォの手腕もあったのか、コントラストが鮮やかで、カラフルな色彩よりも雄弁な麗しさを画面そのものが帯びている。

 ストーリー自体は多くは語るまでもなく、映画監督が映画監督自身の苦悩をモティーフにした「メタ映画」だ。マルチェロ・マストロヤンニが演じる43歳の映画監督グイド・アンセルミは、映画監督という職業上の苦悩、「女性たち」を巡っての溢れ出る感情、想い出、回想、幻惑と夢と混沌を行き来しながら、点は線を結ばず、伏線は断線を呼び寄せるかのように、次のイメージの奔流に飲まれ、消滅してしまう。

 温泉地に逗留しにきたグイドは、愛人のサンドラ・ミーロ演じる豊満な白人女性カルラ、従順で美しいアヌーク・エーメ演じる妻ルイザ、また、職業上での知人たちとの煩わしい関係性から逃れることはできず、疲弊する。カルラは美しい女性だが、肉体的関係で結ばれている存在であり、今のグイドにとっては面倒な感情も持っている。妻のルイザとの関係も倦怠性を帯び、別居することを考えはするものの、結局は必要にもなってしまう。そんなグイドの心に願望の「象徴」として若くて綺麗な女性のクラウディア・カルディナーレ演じるクラウディアがよぎる。そして、そういった女性たちを巡る幻念から思索は、今は亡きグイドの母親へと行き着き「循環」する。あまたの女性「性」の発現とそれに対する無意識裡からのアディクト、あるいは抗い。ユングは男性の中にある無意識の女性的な資質を「アニマ」と称し、男性はこれを「現実」の女性に投影し、そこで新たな(再)発見すると言ったが、ユングを敬愛していたフェリーニの想いはこの映画でこそ、歴然と発火している。
 
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 ラスト・シーンの「出演者たち全員が輪になって踊る」構図は映画に疎い人でも散見したことがあるとは思う。しかし、これは「予告編の為」のシーン割りであって、本当は「失われた結末(ロスト・エンディング)」があった。実は、この映画のエンディングとして登場人物達が白装束を着て、列車に乗ってどこかに向かうというシーンが撮影されていたのだが、それは結局は使われなかった。作品として、"チネ・チッタ"という「虚構の国」の規律するタナトスとエロスの絡み合う祭祀性へ捧げる形を取る為には当時は「輪になって踊るシーン」で終わる必然があったとも言える。

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 最後に言及しておこう。ニーノ・ロータの音楽が全編を麗しく彩りながら、個人的に、フェリーニの作為と、映画のイデオロギーが帰一する"再編"への明確な縄抜けとも言えるシーンがある。それは、湯治場でのマダム達の登場と喫茶のシーンでかかりつづけるヴァーグナーの「ヴァルキューレの騎行」なのだが、なぜ、この曲がこんな何気ない場所、シーンで選ばれたのか、判らない。「ヴァルキューレの騎行」といえば、例のコッポラの『地獄の黙示録』での使い方が象徴的だったが、ああいったベタな作用ではなく、ここでのヴァーグナーはもっと鼻歌のようなものである。その鼻歌を口ずさむように現代においては「輪になって踊る祭祀性」ではなく、「ロスト・エンディング」として用意された肥大したモダニズムに対してのフューネラルの記号のような白装束で列車に乗りこむべきシーンの方が「合っている」というのは少し悲観が過ぎるかもしれないが、どうだろうか。

 政治的に映画が再編されることが増え、グローバリゼーションの手の上で「平板な映画」が溢れるなかで(それは、3D映画の台頭という事象とリンクした形なのも興味深い。)、この混沌としたイメージ片が散らばった『8 1/2』が提示する意味はいまだ大きいと思う。もし、フェリーニが今、生きていたら、どのような想いで二つのエンディングを位置付けるのか、知りたくもなる。もしかしたら、「その先」もあったのかもしれないと夢想するのも悪くない所作だと思うのだ。

(松浦達)

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