スピッツ『とげまる』(Universal)

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spitz_togemaru.jpg ティーンエイジ・ファンクラブのように更新はされてゆくが、変わらない。そして、変わらないが確実に更新されてゆく、金太郎飴のようなサウンド。また、職人によって作られる金太郎がそれぞれ違う「ように」、転がってゆくロックンロールの「ロール」とは多義的な意味を含む。

 例えば、ザ・ブルーハーツの提示した正義はパンクという前史を弁えたが故の<反>への意志だった。だから、「人にやさしく」と言う時に、何故かアナーキーなバックスクリーンとしてザ・クラッシュが浮かびあがってくるように、スピッツの音の後ろには彼等の精神もディープ・パープルも新進のギターロック・バンドへの目配せも反骨の気概もビート・パンクも成熟を拒む碧さも、残照光として今も届いている。

 基本的に、2000年のオルタナティヴに振れた『ハヤブサ』からの作品群は多少のマイナーチェンジを加えながらも、実験性よりもバンド・サウンドとしての「一体感」とメインストリームに身を置きながら、内側からそういったシーンの監獄からの脱走を試みるような要素を含ませながら、疾走していたきらいがあり、ミスター・チルドレン的な何かが日本の多くの「牧歌的なロック」を覆う温度とは別位相で彼等は独自の「大文字」を小文字に変換しながら、誤作動を企図する道を進みながら、2007年の『さざなみCD』ではシェイプされたサウンドは、もうライヴでの「再現」を予期される為に作られるようにもなり、小さなライヴハウスからホールまでを廻る為のステージ・パス的な様相を呈していた。

 そこから、シングルは幾枚か挟んだものの、3年を経て届けられた今回の『とげまる』は前作の路線を継承したという声もあるが、もっとアグレッシヴで奇妙な捩れが表象されているオルタナティヴで簡潔な作品になった。亀田誠治氏との共同作業で或る程度、固まったサウンド・ワークの中に例の草野マサムネのザラッとしながらも、透明度のある声が乗り、アタック感のある崎山氏のドラム、雄弁な田村氏のベース、三輪氏の残るギターフレーズが絡み合う、相変わらず、歪なのに歪に聴こえない4ピース・スタイルの「バンドとしての音」が健やかに鳴る。また、シュールレアリスモやダダ的な様相を示していた歌詞はどんどん直截的になっていったのは近年の彼等を識っていれば、理解出来るだろうが、今回はかなり「大文字が拗れている」のが面白い。

"君に夢中で泣きたい ゆらゆら空を渡る
燃えている 忘れかけてた 幻のドラゴン"
(「幻のドラゴン」)

"部外者には堕ちまいと やわい言葉吐きながら
配給される悦びを あえて疑わずに"
(「TRABANT」)

"理想の世界じゃないけど 大丈夫そうなんで"
(「君は太陽」)

 何故か行間に「秘密」に潜ませるようなフレーズがふと入ってきて、知りたくなる。禁忌を張られると、より見たくなるのと同じように。そして、スピッツを聴くと、「自分たちが本質的に精神分析的な存在である」と認識をさせられる。もし、自分たちが刺激に対して動物的な欲望を持つだけの存在ならば、欲望と刺激の関係性というのは欠伸が出るほど、凡庸だ。抑制の美もいいだろう、連想させるフラグメンツが時にリアルに響き渡るという文脈で。それは、「隠喩」的なものに反応し易い生き物だという事実を含意するだけで以上でも以下でもないからこそ、退屈でもあるという付箋は必要になってくるのは、「解釈学」を知っている方ならそれはデフォルトと言える。精神分析と解釈学は全く違うものにはなるのだが、人間は人間を、あるいは人間の作り出したものを「解釈するとき」、そこに「解釈学的循環」が持ち上がるとされる。

「何かを理解する」為には、文脈、フレームワークがいる。

 これを「先入観」とすると、理解が進めば、先入観は「修整」される。「修整が加えられた先入観」はしかし、完璧ではなく、また、欠けている。先入観から理解への解釈を延々続けていくことが解釈学的循環の中で沸き起こる疑念。では、人間は何をもって人間を理解するのだろうか。「自分自身という鏡」、それもそうだろう。「自己」をベースに誰でも他人(非・自己)に共感したり、理解したりしようとする。これは、大きく見ると現象学の領域になる。そして、精神分析は、この点で解釈学と分かたれる。

「共感」や「理解」は、基本、想像的な営みだからして、これで、症例が分かれば苦労は要らない。フェティシズムや特殊な欲望についても、共感的理解は限界がある故、こんな時に、例えば、ラカンなどは「共感の仕組み」さえ疑おうとする。共感というのは想像的なもので、それはつまり、「自己イメージ」から出発しているということを示唆するのだ。そういう意味で、スピッツの捩れたイメージの鏡像性は「欲望が人をしている」と言えるのかもしれなくて、「人が欲望している」という簡単な構図を越えてくる可能性を孕む。

 そうでないと、この『とげまる』における「君」はまるでセカンド・アルバムの『名前をつけてやる』のような暴力性を帯びてこないだろう。漂白された「君」だが「"君として"名前をつけてやる」という「探検隊」的な意図が放り投げられたまま、茫漠とした砂漠に置いていかれる。置いていかれた「名前」は「君」なのか、それもぼやける。

 今回、サイケデリックでスケール感のある「新月」やカントリー調に転がる「花の写真」など少しの実験的な曲もあるが基本、ビートを前に押し出したバンド・サウンドが主体になっており、前作よりもかなりエッジがあるものも多い。ライヴを予期させるものとして、延長線上にも位置するのだが、『とげまる』が再生させるだろうライヴはもっとオルタナティヴで妙な温度を帯びる気がする。というのも、ヴァース・コーラス・ヴァースを遵守しながらも、シンガロングを「拒否する」頑なな「スピッツという王国」の中で昔の「ロビンソン」のような浮遊感と入り込めるような「間」が敢えて排されているような印象さえ受ける部分もあるからだ。『とげまる』というタイトルもキュートなようで、彼等自身の立ち位置を示すようなメタファーに満ちているが故に、示唆深い。その示唆は彼等が移り変わりの早いシーンの最前線で生き延びてきた報告書のようであり、その報告書はタブラ・ラーサのようなものかもしれない。

"美しい世界に 嫌われるとしても
それでいいよ 君に出会えて良かった"
(「えにし」)

(松浦達)

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