ウィークエンド『スポーツ』(Slumberland / Diffuse Echo)

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weekend.jpg ダーウィンとは進化生物学の始祖であり、アダム・スミスやマルサスなど「経済学者」にも影響を与えているのは知っているだろうか。例えば、「見えざる手」を巡っての論争等で大きく機能する。「個人の利益追求が市場そのものの最大利益に繫がる」という事を「前提」として、要は、Aという生産者とBという生産者がほぼ同じ規模で同じ利益率だったり扱っている領域が同じだったりすると、どちらかは競争市場を生き延びるため、生産費用を削減して、増益が可能と「なるように」、もっともハイクオリティな技術を援用する、というベタな理論。でも、それで消費者はより安く、より高度な商品を手に入れる事が出来る。

 キャピタリズムやグローバリゼーションを礼賛する現代のエコノミスト群は「見えざる手」論が大好きだ。何故なら、「社会総体」的に最大の利益を付与するのは「自由競争」だ、というエクスキューズと幻想を商業ベースで撒き散らす事が出来るからで、但し、アダム・スミス自身は自己利益の拡大が自分の全く予想もしていなかった、目的を達する運動を促進することになる、と自著で明言しているように、自由競争の可能性や継続発展性に対しては懐疑的でもあったが、そこからダーウィン理論をベースにして、戦争や政治や教育や優生学と組んだ時に、とても危ういものに「なった」のは過去の歴史が示しているし、今現在も「ダーウィン理論」にそれ相応の正当性をデータで出したりする学者も多いが、例えば、「費用便益の原則」というのがある。

 費用便益の原則とは、個人は便益を支払う「べき」費用を越えるとき、「行動を起こす事になる」。その際、「見えざる手」が「働くと、される」のは、その個々の行動により生じる便益の総てを手に入れて、総ての費用の負担をするときしかないというものだ。だが、実際は別の人が便益を手に入れて、費用を負担してしまう。規制緩和のせいで増えたタクシーが一斉に街に出れば、既にタクシーをしていた人たちの客数は「相対的に」少なくなる。同じ値段を払って観に行ったコンサートで斜度が低くて、シート席で自分の前が、背が高くて太った人ばかりだと、視界が遮られて、不利益を被ることになる。こういった場合、「見えざる手」は機能しない。タクシーは皆の動かない時間に、と我先にと走らせれば、結果的に市場が乱れ、「共有資源の乱獲→資源の枯渇」を生み出してしまう。コンサートで皆、立とうとシート席で立つと、それはシートで「ゆっくり座って見よう」という規律が失われてしまう。「コモンズの悲劇」、とか持ち出すと、ややこしくなるが、2010年の「ディアハンターの悲劇」はあったと言えるかもしれない。「みえざる手」側からの搾取構造の中でネオゲイザーとさえ名乗る事を拒否した痛々しく、悲しくもヒプノティックでローファイなアルバムにして、ブラッドフォード・コックスの夢やイメージの切れ端が散らばったまま、刺さったのは自身だったような気がするからだ。ネオゲイザーの主役たるディアハンターのポスト・パンクへ舵を切った先にあったの自縄自縛だったのだろうか。

 そんなことを想いながら、ベスト・コーストなどを輩出し、一躍USインディ・シーンの注目されるレーベルとなったMexican Summerから"10インチ・シングル"でデビューをして、また、UKのTransparentからYoung Prismsとのスプリット・シングルをリリースするなど、欧米においての"トレンド・セッター的"レーベルからも「一目置かれる」サンフランシスコ出身の、ローファイでシューゲイズな音を誠実に鳴らす3人組Weekendのデビュー・アルバムの『Sports』を聴けば、見えてくるものがある。ここには、例えば、ブラッドフォード・コックスのソロのアトラス・サウンドにあった陶然とした雰囲気、ワイルド・ナッシングとも同期するようなローファイネス、また、ライドの『Nowhere』のような瑞々しい轟音とメロディーのバランス感覚はノー・エイジを髣髴とさせる、など様々な名前がふと出てしまう音になっている。要は、とても「今の音」なのだが、それだけ未だ、匿名的な音でもある。それでも、ジーザス&メリー・チェインやマイ・ブラッディ・バレンタインなどの音像に潜む甘美なサイケデリアと彼岸に意識を飛ばすような酩酊した佇まいと、素面で酔って、真面目に狂っているようにWeekendの三人が鳴らす音は兎に角、「見えざる手」からの握手を拒み、非効率なシューゲイズで埋もれた音から新しいユートピアを希求しているかのような自律性を感じる事も出来るのも確かだ。

 ライド『Nowhere』前後のような青いメロディーに初期のモグワイの「正しい雑音」でコーティングされた10曲全体が醸し出す浮遊感はドリーミーさよりも峻厳なリアリティの中の暗渠のようなものが目立つように、まだ彼等自身が描く世界観は箱庭的で、10曲の中でロマンティックに干上がってゆく。ネオゲイザーやグローファイといった音自体は「新しい」とは僕は思わないが、そういった音を鳴らす意味を見出しているバンドの意識が多いのは「新しい」と思う。

「週末(Weekend)」と自ら銘打ち、『Sports』という記号の中で「見えざる手」に攪乱される、この音はナイーヴで些か閉塞的だが、ザ・ペインズ・オブ・ビーイング・ピュア・アット・ハートとウェイヴス(Wavves)の狭間のミッシング・ピースを埋めるような可能性のある一枚になった。また、こういった音が一時のブームで犇めき合い、過ぎていくものではなく、彼等は健やかに成長していって次の地平も見渡して行って欲しい、とも希う。

(松浦達)

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