LAETITIA SADIER『The Trip』(Drag City)

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laetitia_sadier.jpg 夜中に部屋に戻りテレビをつけBSにチャンネルをあわせると、古そうなモノクロのフランス映画が映し出される。ベッドに横になって、タイトルはおろか、詳しいストーリー、役者の名前や相関関係、映画が既にどのくらいすすんでいるのかもわからないまましばらく見ていると、寂しげな音楽とともにエンドロールが流れ唐突に終わる。我に返り、寝る前にしておこうと思ったことをひとつふたつ片付ける。映画について調べようとも思わず、そんな時間があったということだけを、ぼんやりと覚えている。

 ぼくがステレオラブの作品を聴いている時間は、そんな一日の浅い余韻の中で見る映画のように思える。それは彼らの音楽がなにかのサウンド・トラックに似ているというのではなく(もちろん似ていないというわけでもないのだけど)、もうただただ映画のような音楽だ、と感じるのだ。はっきりとしたストーリーよりも映像の断片、雰囲気の方が深い印象を残す。そういったイメージは、転調の多い気だるいハーモニーとメロディ、それらをProToolsを駆使して緻密に練り上げた、エレクトリックでレトロなステレオラブの固有の音楽性が思い出させるのだと思っていた。

 しかし、このアルバムを聴いて少し考えを改めた。それはサウンドやストラクチャーの印象よりもレティシアの声そのものが喚起するイメージではないだろうか。というのも、アルバムの半分を共同プロデュースするリチャード・スウィフトが、彼自身の音楽とそれほど遠くない形で貢献し、残る半分のイギリス録音を同じく共同プロデュースとしてクレジットされているエマニュエル・マリオが、それにコントラストをつけるように、非常にウォームで全体のハーモニーが際立つサウンド(ぼくは『プレヴィサン・ド・テンポ』の頃のマルコス・ヴァーリの音楽を思い出した)を作り出しているにも関わらず、どちらに対しても抱くイメージはいつもぼくがステレオラブを聴く時と変わらなかったからだ。

 アルバム冒頭から「I lost someone precious/ In the depth of my lining/at the heart of my loss/my little sister's voice」と唄いだされるように、彼女の妹、ノエルの死が大きなテーマになっている。しかし、それを知ったとしても、その圧倒的な存在感を示す彼女の声や、共同プロデューサーと綿密に作り上げたサウンドが織りなす、このアルバムの作品性の高さの前には、彼女がアルバム制作を通じて向き合った悲しみや喪失感は、「部屋に戻った頃には既に終わっていて見ていないストーリー」のように、ぼくには思える。見始めた後の美しい映像の断片は、存在したであろうサッド・ストーリーやそのストーリーへのシンパシーよりも、まっすぐにその美しさだけを伝えていく。映画が終わりに近づき、その物憂げな美しさの断片がブラックアウトしてエンドロールが流れはじめると、ラストを飾るスタンダード「サマータイム」がゆっくり重なっていく。アルバムが終わりまだ横になっているぼくの頭に、彼女の声とジャケットの残像のようなモノクロのポートレイトが思い浮かぶ。この映画についてくわしく知ろうとはしないし、この映画の事を鮮明に憶えていられないかもしれない。だが、それが美しい疲労感に満ちたものだということは忘れようがないのだ。

(田中智紀)

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