エイティーキッズ『ウィークエンド・ウォーリア』(KSR)

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80kidz.jpg ナイーヴネスとセンチメントは違う。

 前者は閉じた秩序内世界の内側での思考形態であり、その無比の現実と思っている世界観が実際には、閉塞的な完結性を帯びたものではなく、数多の幻想と強情さによって修整された、不安定なものであることを、知ったが故のシンプルな欲動である。つまりは、頑固なまでに、そういった不安定さの受け入れを「否認」することで、狂信的な何かを内側突き抜けようとする権利主張の傘の下での規定行動と言えるとしたら、「ナイーヴな感性」という大きな記号が示すものは実はヴァルネラビリティを示唆せしめず、自意識内で固定されてしまった強権的な価値観のピン留めを仄かに発露させる。だからこそ「ナイーヴな自由」は存在し得ると言えるかもしれない。自由で「ある」と言うのは受動態的な意味を孕みながら、自由を「する」という主体性の放棄の中でのアフォーダンスでもあるからだ。「認知」はしているが、「是認」はしない。「否認」はするが、「認証印は押さない」という強権性。そこに、事実の誤認があったと「しても」、自意識内での誤算は当事者にとっては全くの他人事でもあると言えるのだ。だから、想い込んでいる誤認の中で傷ついたのは実存ではなく、表層意識だけかもしれないとすると、「ナイーヴな感性」が巻き込む厄介さは反転した行き止まりのあるユートピアなのかもしれない。

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 だとしたら、後者のセンチメントは意識的に前景化した「侵された自由」に対して自覚的になってしまう。自覚的になった結果として、それは自分に還流されてくる危険性を孕む。例えば、彼等がファーストで『This Is My Shit』とモノリスを立ててしまう行為はナイーヴな何かではなく、センチメントなものであり、そういった「自虐的な好戦性」こそが、逆説的にボーカル・トラックを主に華開いてブレイクしたというのもアイロニカルな構造であり、数多の手掛けたリミックス・ワークでもふと挟み込まれるセンチメントな部分片こそがエイティーキッズ(80kidz)という認証印をより強く世界中に知らしめ、他のエレクトロニック音楽との差を付けていた。

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 アンダーワールドがあの形を取る前に取っていたリック・スミス、カール・ハイド等からなるバンドのFreurはエレ・ポップ、ニューウェーヴな音を鳴らしていたのは知っている人も多いだろうが、そこからテクノ方面に触れる際に彼等はナイーヴ性じゃなく、センチメントな部分を残し、結果的に「Born Slippy」というアンセムに辿り着いたが、そのアンセムが持つセンチメント性に今度は逆に彼等が苦しめられる事になるようになり、その桎梏が外れたかのように、緩やかにシフト・ダウンしたのが新作の『Barking』だったとも言える。あの作品の持つ「風通しの良さ」はここ暫くの彼等には薄れていたものだったので、個人的に嬉しかった部分はあった。

 その意味で、エイティーキッズはスタート地点では既に、エレクトロ・クラッシュ勢のチックス・オン・スピード、ティガ辺りとの「共振」もありながら、ニューレイヴとの近接点もあった中での、2008年のEP「Life Begins At Eighty」でのかなりのアグレッシヴで硬質的なビートの提示、KITSUNE界隈との繋がりも含め、あっという間に世界的に彼等のワークスは拡がっていき、DJにもよく用いられることになったのは良かった事なのかどうなのか、彼等を取り巻く周囲の速度が少し早すぎる気さえした。がしかし、今はメンバーではないものの紅一点のMAYU、そしてAli&、JUNのスタイリッシュな佇まいも含め、とてもクールにクラブを揺らせた美しさは紛うことなく、あった。ボーカル・トラックを含めてベタに拓けた『This Is My Shit』ではメロディアスな部分も押し出され、所謂「ロック・ファン」も囲い込む事に成功した。

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 その後、MAYUの脱退、CSSのフロントマンであるLovefoxxxとの「Spoiled Boy」など話題を振りまきながら、満を持してと言ってもいいだろうセカンド・フルアルバム『Weekend Warrior』は全編ノン・ボーカルの原点回帰的な硬質なエレクトロ・サウンドからサイケデリックな新機軸的な試みを試したトラック、まるでマッドチェスターのようなトラックまで幅広くも、多種多様なリズムに挑んだ意欲作になっているのは興味深い。また、ファーストよりも零れ出るセンチメントが、全体を通してアップリフティングなものにしているという余韻よりも、どちらかというと、果敢ない気分を助長する部分があるのを否めない。「Shift」という声で始まる10曲目の「Private Beats」以降がよりグッと実験的にもなり、また、メロウでアンビエントな様相を帯びたトラックも増えるが故に、「始まりの終わり」という倒錯を予期させる。「終わりの始まり」をパーティーが確約するとしたならば、このセカンドは初めから「始まりが始まる」。

 躍動するような、ワクワクした気持ちにさせてくれるサウンドはここに詰まっていて、寧ろロックやボーカルが綺麗に入ってくるハウスが好きなトライヴこそが入り込み易いような人懐こさが増しているのは二人になり、以前と視える景色が変わったからなのか、必然的な帰結なのか、推察しか出来ないが、基本、ノン・ボーカルというのは気にならず、どちらかというとアンビエントな要素や余白が前景化した抒情的な通奏低音が響く。そのセンチメントは"Persons who deliberately cultivate their sentiments"に向けられてしまう誤配もあるとしたならば、回収先が少し個人的に彼等の意図したものと変わってくるような気がするのだけが懸念が募る。

 彼等のセンチメントは「過剰」ではなく、「零れ出てしまう」ものだからして、それは強みにさえなるからだ。ナイーヴなピュアリストは「破綻してしまう」ことが多いが、センチメンタルなピュアリストは真摯なシニカルさや粗野的な知性を持ち得る事が出来るとしたら、今後に期待を十二分に持つ事が出来る「希望的な何か」が込められたアルバムであり、フロアーじゃなくて、日常も揺らす音楽としても機能することだろう。

「このままの方向性を突き詰める」ということはないだろうからこそ、ジョエル・ファインバーグの言葉を借りれば、「誠実なセンチメントを偽善的まがい物の流通から保護することが大事だと感じている人たち」のエレクトロニック・ミュージックになったこのセカンドは、僕は支持したい。

(松浦達)

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