November 2010アーカイブ

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今週のカヴァーは、向井秀徳とふたりでキモノズ名義の同名アルバムをリリースしたLEO今井です!

キモノズに関する彼のインタヴューは、ここに!

「DLすると約1500pixel角」となる画像をアップしました。切り抜けば縦長にも横長にもできそう。あなたのPCやiPadなどの壁紙に使えるかも(って、iPadには「壁紙」システムあるのか? 持ってないから知らない:笑)。

あと、もうひとつ。先日お伝えしたムックの編集作業修羅場のため、11月いっぱいくらい更新が滞ってしまう可能性がございます。何卒ご容赦ください。すみません!

2010年11月21日3時08分 (HI)

キモノズ

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KIMONOS

「東洋と西洋の出会い」っていうか
もう出会ってるんですよね、とっくの昔に

00年代後半に最も注目される日本のニュー・アクトであったLEO今井が、元ナンバーガール、現ZAZEN BOYSの向井秀徳と組んだニュー・プロジェクトKimonos(キモノズ)が、アルバム『Kimonos』を発表した。これに期待を抱くなというのが無理と思うのだが、実際に音を聴いてみたところ、予想のさらに上を行く素晴らしさで、もう完全にうれしくなってしまった。

限りなく挑戦的でありながら、ポップ・ミュージックとして抜群のクオリティを備えている。どこか80年代に通じるようでありつつ、あくまで新しく、「未来的」とさえ言える。そんな意味で、これまでのLEO今井の作品の延長線上にありつつ、ハドソン・モホークあたりとシンクロするセンスも...と思ったら、向井のレーベル、MATSURI STUDIOからのアナログ・12インチ、およびiTunesからの配信オンリーで10月にリリースされたEPでは、カップリングにハドソン・モホーク・リミックスも!

そんなKimonosに秘められた感覚について、LEO今井に話を聞いた。

LEO_1011_top.jpg

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今週のカヴァーは、ステレオラブです!

「新規取りおろしインタヴュー」が載っていなくてレヴューだけで申し訳ありませんが、いい写真をゲットできたので...。

今回は「DLすると約1500pixel角」となる画像をアップしました。切り抜けば縦長にも横長にもできそう。あなたのPCやiPadなどの壁紙に使えるかも(って、iPadには「壁紙」システムあるのか? 持ってないから知らない:笑)。

2010年11月11日11時40分 (HI)

2010年11月11日

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ロックそしてポップ・ミュージックは、常に「オルタナティヴ」な存在であった。そんな信念のもと、1997年3月から2009年12月まで隔月刊/月刊ペースで発行をつづけてきた「クッキーシーン」。ウェブ媒体としては、ようやく本格的に動きだした...というか、まだよちよち歩きを始めたばかりのところ申し訳ありませんが、紙媒体としても不定期刊行ムックの形で復活します。

2010年12月なかばごろに、CDジャーナルでおなじみ(株)音楽出版社から発売される予定の第1弾は、題して「CDジャーナルムック『Cookie Scene Essential Guide: POP & ALTERNATIVE 00's: 21世紀ロックへの招待』。

00年代にUS, UK, 欧州でリリースされた素晴らしいポップ&オルタナティヴな音楽(日本人アーティストのものを除く)を網羅したパーフェクト・ガイド!

同時代性にこだわるべく、今回は「90年代以降にデビューしたアーティスト」にターゲットをしぼり、2000年1月から2009年12月までにリリースされたディスクをクッキーシーンならではのセレクションで150点(1アーティストにつき1点)を厳選。ついでに順位までつけてしまいました。まさに「00年代のベスト150」!

多くの掲載テキストに、過去クッキーシーンが取材してきた貴重なインタヴューの数々が使用されています。何度も取材したアーティストに関しては、それらをミックスしてお届けします(デビュー直後の初々しいノリがうかがわれるものも含まれています)。どの記事も「現在」の視点で再構築されており、読んで楽しい、そして新たな発見満載!

インタヴューから抜粋されたアーティストの発言が掲載される記事の一部(順不同):MGMT(本邦初取材含む)、アークティック・モンキーズ(本邦初取材含む)、フランツ・フェルディナンド(本邦初取材含む)、ザ・ストロークス(本邦初取材含む)、2メニーDJ'S/ソウルワックス、ディアハンター(本邦初取材含む)、フェニックス、デス・キャブ・フォー・キューティー、ファウンテインズ・オブ・ウェイン、オアシス、LCDサウンドシステム(本邦初取材含む)、アニマル・コレクティヴ(本邦初取材含む)、プレフューズ73、TV・オン・ザ・レディオ(本邦初取材含む)、ザ・ホワイト・ストライプス(本邦初取材含む)、アーケイド・ファイア(本邦初取材含む)、アントニー&ザ・ジョンソンズ(本邦初取材含む)、クラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤー(本邦初取材含む)、ザ・リバティーンズ(本邦初取材含む) etc.

※上記の「本邦初取材」という表記に関しては、正確ではないももの含まれているかもしれません。その場合、すみません...!

なお、2011年2月ごろ、CDジャーナルムック・シリーズにおけるクッキーシーン・ムック第2弾『Cookie Scene Essential Guide: POP & ALTERNATIVE 2010(仮題)』の発売が予定されています。今回の第1弾は「本体」のみの発売となりますが、第2弾には(クッキーシーン20〜60号のように)付録CDがつく可能性もございます。まだプランニングの段階にすぎず、予算の関係上できないかもしれませんが...。

2010年11月6日13時00分 (HI)

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つい先日、ピッチフォーク・メディアから、ニュー・シングル「Heart In Your Heartbreak」のリリースを発表した、ザ・ペインズ・オブ・ビーイング・ピュア・アット・ハート。ニュー・アルバムのリリースは来年の2月前後ということも発表されており、それに際しての来日公演(は行われるのかはまだまだ不明だが、是非とも期待しておきたいところだ)に先駆けて、その「Heart In Your Heartbreak」や、今年、2月に行われた来日公演の後にリリースされた現時点での最も新しいシングル曲、「Say No To Love」をライヴで聴くことができた。

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スーパーチャンクとティーンエイジ・ファンクラブ。なんて素敵な2マンなんだろう。ご存知の方も多いだろうが、この両者の関係は、ティーンエイジ・ファンクラブの音源が、米国では、スーパーチャンクのフロントマン、マック・マクガワンがオーナーを務めるマージ・レコードからリリースされていることだ。もちろん、彼らの5年ぶりの新譜、『シャドウズ』も、マージ・レコーズからリリースされている。スーパーチャンクもティーンエイジ・ファンクラブも、数年振りのフル・アルバムをリリースしただけあって、オーディエンスの期待も底なしのようだった。その期待に十二分に応えたUS、UKのインディー・ギター・ロックの雄たちの一夜をレポートしたい。

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FRANKIE & THE HEARTSTRINGS

20年後に改めて振り返っても
誇りに思えるような作品づくりを目指している

かつてフューチャー・ヘッズやフィールド・ミュージックなどの好バンドも輩出してきた、英国サンダーランド出身の新人バンド、フランキー・アンド・ザ・ハートストリングス。

オレンジ・ジュースやジョセフKといった80年代バンドたちの流れを強く汲んだ、青臭くも情熱的な歌詞世界と、毒や捻りもありながら軽快で引き締まったギター・ポップ・サウンドは、NMEをはじめとした媒体からも好評を博し、気が付けばすでにその人気はイギリスばかりかアメリカにも飛び火しそうな勢い。

間違いなく日本でもウケそうな音だし、フロントマンであるフランキー・フランシスの端正なルックスながら負けん気の強そうなキャラもたまらなく愛くるしい。これまでリリースしてきたシングルからの曲を集めた日本独自編纂のミニアルバム「Ungreatful」も先ごろリリースされ、さあこれでブレイク間違いなし...と思いきや、残念なことに出演が予定されていたブリティッシュ・アンセムが中止に。

不慮のアクシデントに見舞われてしまった彼らだが、当初の予定どおりに来日を果たし、こうしてインタヴューを敢行することができたのは嬉しかった。記事を読んでいただければおわかりのとおり、若いバンドは発言もフレッシュ。笑いの絶えない楽しいインタヴューとなった。今回はメンバーのキャラクターやバンドの個性を知ることに焦点を当て、話を聞いてみた。

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photo by Yuji Honda

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FRANKIE & THE HEARTSTRINGS: photo by Takeshi Suga

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cornelius.jpg ヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』は「芸術作品は、原理的には常に複製可能であった」と書き出される。中でも、19世紀の中頃に登場した「写真」という媒体こそが複製芸術の革命的な転機として位置付けされるが、その技術を逆手にとって差異を均したのがアンディー・ウォーホールであり、以降のモダン・アートの宿命に「複製」を巡っての距離感が欠かせなくなる。

 しかし、複製されていけばいくほど、「オリジナル」と変わらない唯一無二の存在であり、それに依拠する芸術の「真正性」を示す事になったのは皮肉としか言いようがなく、更に、複製の複製をメタ認知していく磁場が現代の前提と「なってしまった」ならば、オリジナルの作品のみが持つ「アウラ」という言葉は記号化するのが先か、意味に落とし込まれてウィキペディアやグーグルの侵犯を許してしまうのが先か、の競争になってしまう。

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「渋谷系のエッジ」、フリッパーズ・ギターとして無数のサンプリングをカット・アンド・コピーして表層的にポストモダンの最前線を走ったコーネリアスこと小山田圭吾は最初から「様々な物が出揃っている時代の寵児」だった。だから、「借り物性」を表明し、自分のオリジナリティを示す事でアイデンティティや自意識の難渋さを回避していた。

 思うに、是が非でもコーネリアスとしての始発点は「渋谷系の集大成」のような『The First Question Award』でならなければなかったのかもしれないし、或る種のオブセッシヴな集合的無意識の要請が彼の音をそう「規定」していた枠を外れる事が出来なかったのかもしれない。とすると、創り手の意思とは「非」関係に作品というのは予期設定されているタイム・ボムのような危うさを孕んでこないだろうか。その爆発までの「基準閾値」を更に引いて視た際に、どんな音楽もリアリズムの壁を越える事が出来ない辛苦を孕む。その「リアリズム」に真正面から向かい合ったのがフリッパーズ・ギターのもう一人、小沢健二だったとしたら、彼が『LIFE』で背負った傷痕も同時に非常に根の深いものになってしまったと言える。そして、「引用と言葉の人」だった彼はどんどん言葉数を減らしていき、沈黙に近いフュージョンのような作品に行き着き、今年のような畏まった形でのリサイタルが行なわれるようになったのは皮肉だが、時代に負けたのかもしれない。

 時代とは社会の共約可能性があって初めて「成立」するものだから、今、自己のイメージ管理の罠について滔滔と語る小沢健二の反グローバリゼーションの姿勢は少なくとも、僕自身には「遊び」が足りない、旧態的な<左>軸を想起させた。思えば、最初は旧態的な<左>軸に居た小林よしのりが90年代に右旋して掲げた「大きな物語」が通用する瀬とは幸福だったのだと思う。大風呂敷を拡げても、それをスルーするでもなく、認知してくれる場所があったからだ。だから、ミスター・チルドレンも小沢健二も悠然と構えていることが出来た。やはり、確実にフェイズが変わったのは9.11以降であり、グローバリゼーションの進捗に起因するだろう。社会学の曖昧さから政治学の急進性へ一気に傾ぎ、同時に「地球市民」だとかの危うい言葉も行き来しだした。その「危うさ」は集団的恐慌状態の一歩手前の状態ともいえ、その常態を庇うような芸術作品は必然的に各々に適用するものにならないといけなくなった。そうなると、日本からワールドワイドに展開して誤配も少なく、勝つ為に引用数を減らし、最大限まで音をシェイプして、バンドとして音を鳴らしながら、高度なVJをリンクさせるモデルまで行った『Point』以降のコーネリアスは鮮やかだった。アートの臨界点とロックのカタルシスを同時に共存させながら、ドライヴさせてゆく手捌きは世界中のインディー・キッズからアーティストまでを魅了した。

          *          *          *


 よく『Point』以前/以降のような言い方もされるが、僕は精確には今の流れは既に『Fantasma』で待備されていたと思う。1997年のリリース当初は沢山の音が詰め込まれたガジェット的な意匠が前景化しており、レディオヘッドやプロディジーのような「足し算の音楽」が多かった雑音の中に埋もれてしまうような危うさもあった。それでも、セカンドのヘヴィ・メタルやハード・ロックで固めた『69/96』よりも同時代性もあり、何より鮮やかな「音響工作の美」が溢れていた。缶のプルトップを開ける音からマイク・チェックが始まり、そのまま作品が始まるという画期的なスタジオ(そこ)とここを繋いだスムースな導線。今まで、「ここ」に居る人は「そこ」は夢想しか出来なかったが、その夢想をより近しいものした上で、音をキャンパスに描くように塗り込む所業が目に浮かぶというのは新しかった。

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 その『Fantasma』が砂原良徳のリマスターの上、全面改訂された形でオリジナル・リリースから10年以上の歳月を経て2010年に、届けられた。「今の耳」で聴くと、見事に時代の風化を避けている、どころか、全く旧さを感じさせない点は改めて唸らされる。エレファント6界隈からシカゴ音響派、果てにポスト・ロックと呼ばれる音まで跨ぎ、要所にナード的な拘りも見せるコントロール・フリークな様はマッドながら、至極、シビアで、これにデーモン・アルバーンやハイ・ラマズのショーン・オヘイガンなどの人一倍癖のあるアーティストが称賛を寄せたのも然もありなんか、というくらい、「面白い」だけでは済まない奥の深さがあるアルバムである。

「奥の深さ」―そういったものに一番、無縁であった筈のコーネリアスが表層の表面を滑っていく事でメビウスの輪のように捩れていつの間にか深層を抉っていたのは今だからこそ、感心するが、相当な知的体力がいった事も推察出来る。何故ならば、この後に『Point』や『Sensuous』といったオリジナル・アルバム、数多の秀逸なリミックス・ワークス、膨大なツアーがあり、"コーネリアス"というアウラが礼拝価値から展示価値へと移行したとも言えるからである。だから、「コーネリアス印の音」が幾ら複製されようが、複製される事を弁えているからこそ、逆説的に価値は「高まる」。

 8cmシングルを二枚同時に掛けると一つの曲になるというドラムンベースを取り入れた「Star Fruits Surf Rider」から、数字の1から6まで数えるだけの歌詞のギターロック「Count Five Or Six」、彼のサンプリング・センスが冴えるポップでカラフルな「Monkey」など、『Fantasma』の曲群はブライトフルでもあり、また、無邪気に音楽と戯れている心地良さがある。その点ではよりアート方面へ傾いでいく前夜のカーニバルのような狂騒をパッケージングした作品であり、それを例の音の粒子が浮きあがって聴こえるような意匠を凝らす丁寧な砂原良徳氏のリマスタリングで、よりダイレクトに耳に新鮮な刺激を与えてくれるものになった。初回限定版には本編ディスク以外に、『Fantasma』前後の音源、リミックス、デモなどが収められたディスク2とライヴ等が含まれたDVDが付くが、コーネリアスが立ち上げたトラットリアという今は無くなったレーベルのコンピーレションに入っていた「Lazy」や「The Micro Disneycal World Tour」の原曲の持つ全面的な多幸性を再解釈して、少し不穏な要素も入れたハイ・ラマズのリミックスなど聴きどころも多い。

『Fantasma』の音風景は、『Point』や『Sensuous』に比べると、まだラフ・スケッチの部分があり、当時の渋谷や原宿のイメージを幻像化させていたとしたら、「情報を多く持っている方が勝ち」の時代の最後の通行手形のようなものだったのかもしれない。今は「情報はより少なく、大事なものだけで身軽な方が良い」という時代に反転してしまったからだ。そういう意味で、精巧な再現表象能力によってアーティストのメチエのあり方を厳しく問う一方で、夥しい複製を流通させ、引用によって成立する世界観を形成し、人々の知覚や記憶の在り方をも大いに変容させてしまった時代に毅然と立ち向かった証拠資料のような作品である。

(松浦達)

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Atlas_Sound.jpg 人生を「生きている」人は、かならず「このまま死んでしまおうか」と思うことがあるはず。まあ、「死んでしまおうか」は言いすぎだとしても、自暴自棄になってすべてを放り出したくなる瞬間はあるはずだ。そんな状態から抜け出すための方法は人それぞれだとは思うけど、僕の場合やはり音楽を聴くという方法を選んでしまう。そこで、アッパーでハッピーなものよりも、べス・ギボンズやニック・ドレイクのような、ダウナーで悪魔的な魔力を持った歌声を聴いてしまう。励ましよりもトリップを求めてしまうのだ。

 ディアハンターにしろアトラス・サウンドにしろ、ブラッドフォード・コックスの才能を評価する理由としては、主にメロディや様々な音楽的要素を混ぜ合わせるそのセンスに焦点が集まっていたように思う。しかし、今回自身のブログにてVol.1~4までリリースされた『Bedroom Databank』シリーズでは、彼の「言葉」が存分に味わえる。歌詞としてだけではなく、音から自分の心に浮かび上がる風景としての「言葉」もあるし、何より『Bedroom Databank』シリーズそのものが、ブラッドフォード・コックスの「言葉」で紡がれる物語であって、だからこそ感動的ですらある。ベッドルームという狭い空間から、ここではない無限大なる世界へ。その世界において僕達は、何をしても許される自由な存在へと変貌する。

 そしてもうひとつ重要な点として、ブラッドフォードの歌声そのものが挙げられる。僕は彼の歌声が大好きなんだけど、何故歌声が注目されないのか不思議でならない。よく、「ドラッグをやらないでドラッギーになりたいなら、アトラス・サウンドを聴けばいいのに」なんていう馬鹿げたことを聞く。そんな言葉を吐くなんて、愚か者以外の何者でもない。アシッドは目の前の視点を変えるし、エクスタシーは多幸感と恍惚を味わえる。そして、ブラッドフォード・コックスの歌声は、未知なる興奮を教えてくれる。
 
 音楽というのは、理屈ではどうしても説明できない「ナニカ」があると思うし、ブラッドフォード・コックスはその「ナニカ」をもっとも多く含んでいる者のひとりだと思っている。もちろんブラッドフォード・コックス自身いろんな音楽を聴いているだろうし、だからこそディアハンターで見せてくれる目まぐるしい音楽性の変化があるわけだけど、彼の歌声には、理論や知識なんかを無効にしてしまう不思議な力がある。こんな書き方はレヴューとしてズルイというのは承知しているし、評論としては意見がないと言っているようなものかも知れない。だからといって、彼の歌声に対し付け焼き刃の言葉を並べても、それは嘘になってしまうし、やはり僕にとって、掴み所がない魅力と不思議な力があるということになる。それらが、未知なる興奮に繋がっているのだと確信している。

(近藤真弥)

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kimonos_album.jpg This is 向井秀徳とLEO今井によるユニットKimonosのアルバム『Kimonos』は、ナンバーガールを経て現在進行形のザゼンボーイズを率いている向井秀徳のサウンドに似ていながらも、LEO今井とのコラボレーションの中で違う色が混沌として混ざり合い響くものとなっている。それら二つのバンドサウンドが好きな人はさらに楽しめるはずだし、苦手だった人はLEO今井のヴォーカルにより引き込まれるのではないだろうか。

 最初に一通り聞いて特に印象的だったのはラスト『Tokyo Lights』だった。もしもナンバーガールが続いてたらこんな曲もあったんじゃないかと思った。ナンバーガールのその向こうの景色のようなサウンドだと思った。が、もともとこの曲はLEO今井の曲でアルバム『City Folk』収録されているものだった。そして元の彼の方を聴いてみるとサウンドが全然違う。曲のテンポも雰囲気もロック調ではなかった。向井の音楽性とLEO今井の音楽性が混ざり合うとどことなく洋楽ロックテイストのようなものが孕まれていくようだ。

 文学性を持っていたナンバーガール的な歌詞に、LEO今井が持つヴォーカルと英語圏で暮らしていたその感覚からくる歌詞がお互いにしっかりと自分を殺さずにきちんと主張している音が心地いい。
 
 バンド名"Kimonos"はアートワークを大正時代の美人画(着物を着ているがピアノを弾いている女性など)を使う事から決まったという。西洋と日本が見事に調和したミックス感が自分たちの作っている音と合うと思ったことからと聞くとなるほどなあと納得してしまう。アルバムにあるのはやはりミックス感であるから。

 彼らがスタジオに入りいろんなカヴァーを試みる。その中からアルバムに収録されているのは細野晴臣「Sports Men」だが、この曲があると知らずにアルバムを聞いていて鳴りだした時には興奮した。いろんなカヴァーを聴いているしいろんなアーティストが歌っているのも知っていたが、とても前からそこにあったような当たり前の景色の様に存在していた。この二人によって演奏されているのがまるで決められていた様にアルバムに完全に溶け込んでしまっていた。

 このユニットが発表されて、ザゼン好きな僕は期待と不安が入り混ざった。彼らの狂うようなサウンドは圧倒的なカオスと正確なテクニックに裏づけられたリズムによって、シーンの中でも孤高の存在のようなものだと思っている。その中心である向井秀徳という彼のプロジェクトはどういう風に展開するのかと。

 杞憂に終わった。ずっと繰り返して聴き続けた。飽きない、聴く度に自分の中に溶け込んでいくのに新鮮な感じはなくならない。LEO今井のヴォーカルの心地よさも向井のサウンドも、ザゼンのようにいい意味で狂っていない。が、的確に今を照らしながらその中の景色をサウンドを色彩をミックスして見れなかった色や風景、聴けなかった音やその囁きを届けてくれる。

 一度でいいからこのアルバムを全曲通して聴いて欲しい。僕にはニヤリと微笑むThis is 向井秀徳とLEO今井が浮かんだ。このやられた感はとても幸福な気持ちだ。そしてまた再生してしまうのだ。

(碇本学)

*インタヴューはこちらに掲載されています。【編集部追記】

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The_walkmen.jpg 海外で売れてて、何で日本では売れないの? とか最近言いまくっている気がします。いや、だってそんなバンド山ほどいるし。キングス・オブ・レオンだって、キラーズだってそうじゃない。でもね、彼らは音楽雑誌で大きく取り上げられて高評価を得ているから、売れないのはただ彼らのサウンドが日本人の趣向と合うか合わないか、っていう問題も大きいと思うんです。ただ3年ぶりに新作『Lisbon』をリリースするウォークメンは雑誌でもほとんどちゃんと紹介されない。海外では音楽的に絶賛されていて、年間シングル・チャートとか、もっと大きい枠の「2000年代のベスト・ソング」みたいなのでも、彼らの曲は必ず入ってくる。私も初めて彼らの曲を『スパイダーマン』のサントラで耳にしたとき、「超格好良いな」と思った。何となく投げやりな感じのする高音ヴォーカルも、かきむしるようなギターも、ほかにあまり聴いたことがなくて、ウォークメンの曲だとすぐに分かる。ニューヨークで活動するバンドとしては、影響源がかなりトラッド寄りみたいだけど、基礎がしっかりしているからこそ破天荒なパフォーマンスにも文脈が生まれる。

 新作も安定感抜群。おそらく悪い評判が立つことはあるまい。特筆すべき冒険もないが、中盤の「Stranded」でホーン隊による雄大なイントロが聴こえてきた瞬間、あなたはおそらくこのバンドの本当のポテンシャルを思い知ることだろう。バンド名はいかにもノーマルでちょいダサいが、日本ではもうちょっと光を当ててあげてもいいバンドだ。一度好きになると新作を欠かさず買うようになるバンドでもある。かといってありきたりとは全然違うんだよな。メロディが素晴らしいです、とか、そんなのよりも、謎のベールに包まれた天才バンド、とかの方が説明としてはしっくりくると思います。

(長畑宏明)

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weekend.jpg ダーウィンとは進化生物学の始祖であり、アダム・スミスやマルサスなど「経済学者」にも影響を与えているのは知っているだろうか。例えば、「見えざる手」を巡っての論争等で大きく機能する。「個人の利益追求が市場そのものの最大利益に繫がる」という事を「前提」として、要は、Aという生産者とBという生産者がほぼ同じ規模で同じ利益率だったり扱っている領域が同じだったりすると、どちらかは競争市場を生き延びるため、生産費用を削減して、増益が可能と「なるように」、もっともハイクオリティな技術を援用する、というベタな理論。でも、それで消費者はより安く、より高度な商品を手に入れる事が出来る。

 キャピタリズムやグローバリゼーションを礼賛する現代のエコノミスト群は「見えざる手」論が大好きだ。何故なら、「社会総体」的に最大の利益を付与するのは「自由競争」だ、というエクスキューズと幻想を商業ベースで撒き散らす事が出来るからで、但し、アダム・スミス自身は自己利益の拡大が自分の全く予想もしていなかった、目的を達する運動を促進することになる、と自著で明言しているように、自由競争の可能性や継続発展性に対しては懐疑的でもあったが、そこからダーウィン理論をベースにして、戦争や政治や教育や優生学と組んだ時に、とても危ういものに「なった」のは過去の歴史が示しているし、今現在も「ダーウィン理論」にそれ相応の正当性をデータで出したりする学者も多いが、例えば、「費用便益の原則」というのがある。

 費用便益の原則とは、個人は便益を支払う「べき」費用を越えるとき、「行動を起こす事になる」。その際、「見えざる手」が「働くと、される」のは、その個々の行動により生じる便益の総てを手に入れて、総ての費用の負担をするときしかないというものだ。だが、実際は別の人が便益を手に入れて、費用を負担してしまう。規制緩和のせいで増えたタクシーが一斉に街に出れば、既にタクシーをしていた人たちの客数は「相対的に」少なくなる。同じ値段を払って観に行ったコンサートで斜度が低くて、シート席で自分の前が、背が高くて太った人ばかりだと、視界が遮られて、不利益を被ることになる。こういった場合、「見えざる手」は機能しない。タクシーは皆の動かない時間に、と我先にと走らせれば、結果的に市場が乱れ、「共有資源の乱獲→資源の枯渇」を生み出してしまう。コンサートで皆、立とうとシート席で立つと、それはシートで「ゆっくり座って見よう」という規律が失われてしまう。「コモンズの悲劇」、とか持ち出すと、ややこしくなるが、2010年の「ディアハンターの悲劇」はあったと言えるかもしれない。「みえざる手」側からの搾取構造の中でネオゲイザーとさえ名乗る事を拒否した痛々しく、悲しくもヒプノティックでローファイなアルバムにして、ブラッドフォード・コックスの夢やイメージの切れ端が散らばったまま、刺さったのは自身だったような気がするからだ。ネオゲイザーの主役たるディアハンターのポスト・パンクへ舵を切った先にあったの自縄自縛だったのだろうか。

 そんなことを想いながら、ベスト・コーストなどを輩出し、一躍USインディ・シーンの注目されるレーベルとなったMexican Summerから"10インチ・シングル"でデビューをして、また、UKのTransparentからYoung Prismsとのスプリット・シングルをリリースするなど、欧米においての"トレンド・セッター的"レーベルからも「一目置かれる」サンフランシスコ出身の、ローファイでシューゲイズな音を誠実に鳴らす3人組Weekendのデビュー・アルバムの『Sports』を聴けば、見えてくるものがある。ここには、例えば、ブラッドフォード・コックスのソロのアトラス・サウンドにあった陶然とした雰囲気、ワイルド・ナッシングとも同期するようなローファイネス、また、ライドの『Nowhere』のような瑞々しい轟音とメロディーのバランス感覚はノー・エイジを髣髴とさせる、など様々な名前がふと出てしまう音になっている。要は、とても「今の音」なのだが、それだけ未だ、匿名的な音でもある。それでも、ジーザス&メリー・チェインやマイ・ブラッディ・バレンタインなどの音像に潜む甘美なサイケデリアと彼岸に意識を飛ばすような酩酊した佇まいと、素面で酔って、真面目に狂っているようにWeekendの三人が鳴らす音は兎に角、「見えざる手」からの握手を拒み、非効率なシューゲイズで埋もれた音から新しいユートピアを希求しているかのような自律性を感じる事も出来るのも確かだ。

 ライド『Nowhere』前後のような青いメロディーに初期のモグワイの「正しい雑音」でコーティングされた10曲全体が醸し出す浮遊感はドリーミーさよりも峻厳なリアリティの中の暗渠のようなものが目立つように、まだ彼等自身が描く世界観は箱庭的で、10曲の中でロマンティックに干上がってゆく。ネオゲイザーやグローファイといった音自体は「新しい」とは僕は思わないが、そういった音を鳴らす意味を見出しているバンドの意識が多いのは「新しい」と思う。

「週末(Weekend)」と自ら銘打ち、『Sports』という記号の中で「見えざる手」に攪乱される、この音はナイーヴで些か閉塞的だが、ザ・ペインズ・オブ・ビーイング・ピュア・アット・ハートとウェイヴス(Wavves)の狭間のミッシング・ピースを埋めるような可能性のある一枚になった。また、こういった音が一時のブームで犇めき合い、過ぎていくものではなく、彼等は健やかに成長していって次の地平も見渡して行って欲しい、とも希う。

(松浦達)

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One_Ring_Zero.jpg 先日、アメリカ人とカラオケに行った。僕はせっかくだからと思って、レディオヘッドの「Creep」とピクシーズの「Debaser」を披露した。「みんなで歌おう!」って盛り上がるはずだったんだけど...。はっきりと「歌詞が暗い」と言われた。「せめてガンズにしてくれ!」とのこと。もともとオルタナ好きじゃない人だったのかもしれない。でも、その時に"曲調/ノリ"ではなく、歌詞の内容を指摘されたことに驚いた。普段、聞き流してしまっている歌詞もある。好きな曲の歌詞を知って、気持ちが揺さぶられたり、新しい発見をすることもある。歌にしてはいけない言葉なんてないと思っている。あれこれ考え込んでも仕方がない。歌おう! "I'm A Creeeep! I'm A Weirdoooo!"  いつもより歌詞が心にしみる。そんな夜があった。

 歌詞と曲。ロックやポップ・ミュージックでは、切っても切れない大事な要素。そこに大胆なアプローチを仕掛けて、アルバムを1枚作り上げたバンドがいる。ニュー・ヨークを拠点に活動するワン・リング・ゼロ。2004年リリースの5thアルバム『As Smart As We Are』は、なんと総勢17人の現代作家とのコラボレーションによるもの。作家たちが歌詞を手掛け、バンドが曲を作るという手法で制作された。そして今、対訳/解説付きの国内盤が登場! 参加した作家陣を見てみると...ポール・オースター(!)、デイヴ・エガーズ、マーガレット・アトウッドなどなど。読書好きなら、ちょっとは聞き覚えのある名前ばかりのはず。バンドよりもむしろ、作家の知名度のほうが高いような...。ところで、ワン・リング・ゼロって、どんなバンド?

 ワン・リング・ゼロは、ヴァージニア州リッチモンド出身のマイケル・ハーストとジョシュア・キャンプの2人が中心となって結成された。2人はもともと楽器メーカーのホーナー社に勤めていて、マイケルはハーモニカ、ジョシュアはアコーディオンの技師だったそう。ある日、ドイツのホーナー本社から"クラヴィオラ"という楽器のプロトタイプが2人のもとに送られてきた。"クラヴィオラ"は、見た目がアコーディオンみたいで演奏方法はピアニカに近いという珍しい楽器。"クラヴィオラ"に魅せられた2人は、この楽器を使ったバンドの結成を決意する。バンドは99年に1stアルバム『Tranz Party』をリリース。その後、活動の拠点をニュー・ヨークのブルックリンへと移す。彼らはリーディング・イベントへの参加などを経て、多くの作家と交流を深めていった。そんな出会いの数々がこの『As Smart As We Are』制作のきっかけになったという。ニュー・ヨークっぽくて、素敵な話。映画『スモーク』(ポール・オースター原作/脚本)の1シーンが目に浮かぶ。

 イントロダクションに続いて、ポール・オースター作詞による、やさぐれ感たっぷりの「いかした男のブルース」でアルバムはスタート。いきなり「シンシナティに罪(Sin)はねぇ」 と、ダジャレを飛ばす! 歌わず、楽器も弾かない作家たちの"プレイ"とワン・リング・ゼロとの共演に耳を澄まそう。懐かしくも不穏なメロディにヴィオラやピアノ、トランペット、テルミンなどの音が重なり合う。フランケンシュタインが登場して、うんうん悩んだ挙げ句に「ドクター、あんたのせいだ!」と叫ぶ。アーロン・ナパーステクという作家の歌は、なんと英語による俳句。愉快なポルカの「観葉植物のすべて」も傑作だ。「植木鉢はいつしか金色に変わった/葉っぱはしかし、枯れてきた」だって。子供のコンプレックスを歌う「厄介な宿命」やゴキブリたちが居場所を知らせる「水」など、歌詞にぴったりのポップで奇妙な曲調も楽しい。本を読むというよりも、怪しげなサーカス小屋に迷い込んでしまったみたい。そこで垣間見るちょっと不思議な日常/非日常のあれこれ。後期ビートルズや『Swordfishtrombones』~『Franks Wild Years』の頃のトム・ウェイツを思わせる音世界。

 最後に、このアルバムに参加した作家を少しだけご紹介。ポール・オースターは、有名すぎるから省略ということで。「リタ・ゴンザロの亡霊」を作詞したデイヴ・エガーズは、映画『かいじゅうたちのいるところ』でスパイク・ジョーンズと脚本を共同執筆。01年に日本でも出版された『驚くべき天才の胸もはりさけんばかりの奮闘記』は、うちの本棚にもある。マイラ・ゴールドバーグは、後に映画化された小説「綴り字のシーズン」が有名。ザ・ディセンバーリスツ(The Decemberists)は、その作品にインスパイアされて「Song for Myla Goldberg」という曲をリリースしている。他にもデニス・ジョンソン、リック・ムーディなど、国内でも作品が出版されている作家ばかり。村上春樹、村上龍、吉本ばなな、町田康(もともとやってる)、山田詠美あたりの作家がいっぺんに日本のインディーズ・バンドに歌詞を提供したら、どうなるだろう? そんな想像も楽しい。ポール・オースターが好きな人、他の作家の名前にピンと来た人はぜひ。逆に、このアルバムを気に入ったら、参加している作家を見つけてみるのも楽しいはず。素敵な出会いと発見がたくさん詰まった最高の1枚だから。

(犬飼一郎)

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splashgirl.jpg ノルウェイのオスロを拠点とする3人組、スプラッシュガールによる2ndフルアルバムがHubroよりリリース。
 
 ピアノ、ウッドベース、ドラムス、アコースティックギターというジャズ的な編成の下で、マウンテンズあたりのエクスペリメンタルとフリージャズとを同時に鳴らしてしまったようなバンド。電子音の使用は控えめで、ピアノやギターの伸びやかな音や、その余韻、演奏者の息づかいに耳をすませる類の音楽だ。アルバム一枚を通して、アブストラクトな雰囲気に包まれており、暖炉を囲んで鳴らすような、波風のない平穏な曲もあれば、サッドなピアノがフリーキーに叩かれる、荒廃した曲もある。
 
 気持ちいい音を鳴らすだけのバンドを思い描くかもしれないが(そんなバンドも素晴らしい)、スプラッシュガールは全体のアンサンブルにしっかりと身を委ねたバンドだ。ジャズを通ると否応でもそうなる。ジャズがやりたいのかエクスペリメンタルがやりたいのかが釈然としないが、明確にする必要性もないと思う。中途半端で人間味がある方が、何度聴いても楽しめる。
 
 どちらの音楽性に傾くにしろ、傾かないにしろ、エレクトロニックな要素はもっと省くといい。現代的でスタイリッシュではあるけれど、悪い意味での「誰かがやりそうな音楽」になりかねないからだ(でもそれでもいいのかな。本人達が楽しんでいるアルバムだと思うし)。なんにせよ、長く聴けるアルバムには違いない。

(楓屋)

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haisuinonasa_jacket.jpg 新人5人組による通算2枚目となる6曲入りのミニ・アルバムが到着。複雑かつ緻密に構築された硬質なバンド・アンサンブルと浮遊感と透明感を持ち合わせた女性ヴォーカルとの組み合わせという、デビュー作で提示された基本路線がさらに突き詰められている。歌のテーマの基本となっているのはタイトルでも明示されているように「都市」であり、特に日本の都市部ならではの、精緻に設計されている無機質で一見不純物のない建築の合間をひとりで真夜中に歩いているかのような風景が浮かんでくる。
 
 例えばコーネリアスが『Point』の頃に提示していた生活の中に自然に溶け込んだミニマリズムを、別の角度から5人というバンド編成のアンサンブルによって描き直そうとしているかのようにも聞こえる。その潔癖性的な音の質感が、2曲目の「均質化する風景」で歌われているような「平均化されてしまった世界」という、都市にいる人々が心の内に抱えている問題点をもまた浮き彫りにしているようで妙にリアリスティックだ。そういう意味で、「2010年のシティ・ポップス」とも呼べるかもしれない。フル・アルバムでは都市に秘められた狂気的な部分がこの冷静な筆致で暴かれるとどうなるか、という点についても聴いてみたい。

(佐藤一道)

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girls.jpg 昨年リリースのデビュー作『Album』は様々なメディアで2009年の年間ベストを総ナメにし、待望の来日公演には多くのファンが殺到、会場となった原宿アストロホールがギュウ詰めになった。あのステージではフロントマン=クリストファー・オーウェンの憂いに満ちた表情と、人の心を掴んで話さないメロディ、そして郷愁をかきたてるような爆音のホワイト・ノイズを直に感じる――それはまさに白昼夢のような、はかなくも甘美な体験だった。だがその一方で、演奏は危なっかしく、リズム隊のプレイが安定していなかったら見て入れたものではなかっただろう。しかも、ステージで披露された新曲(この「Broken Dreams Club」収録曲)も『Album』収録曲と同じく、直線的なメロディでこれまでの彼らとあまり代わり映えがしない印象。このバンドにこれから後はないのでは?、僕はそう感じてしまった。

 しかし、彼らから届けられたEP「Broken Dreams Club」を聴いて、考えを改めざるを得なくなった。確かに、クリストファーの切ない歌声やビーチ・ボーイズ直系のメロディ、女の子について歌うリリックのスタイルはそのまま。聴けばすぐにガールズと分かるはずだ。しかし、今回もプロデュースを手がけている、メンバーのチェット・Jr.・ホワイトの手腕は見事で、『Album』とは異なるベクトルが感じられる内容になっている。『Album』ではジザメリ風のギターが前面に押し出されていたが、「Broken Dreams Club」にはそれが一切なく、メランコリックなスパニッシュ風のギターや、新たに取り入れられたホーン、ドリーミーなフレーズを鳴らすキーボードなどで描き出されたのは、フリートウッド・マックから譲り受けたような華やかさだった。

 哀愁を漂わせるオープニングの「Oh So Protective One」や、美しい男女コーラスと大胆に変化するメロディが印象的な「Alright」など、リラックスしつつも新たな挑戦が感じられるが、特に注目すべきはそして、ラストの7分の大作「Carolina」。天上に上り詰めるような至福のイントロといい、ユニークなコーラスや電子音を導入した実験性といい、そしてビタースウィートなメロディといい、この作品を象徴するトラックといえるだろう。

たった6曲ながら、新たな境地に踏み込んだこのEPで、まだまだサン・フランシスコの空気を伝えてくれるワン&オンリーなバンドであることを証明したガールズ。次はどんな作品を届けてくれるかに期待したい。

(角田仁志)

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mas.jpg アグレッシヴなサウンドに併せ持つ翳り...。本気で〈10年に一度の傑作!!〉と言ってしまいたい、5年振りとなるMASの3rdアルバム。ツジコノリコやtoto(suika)のプロデュースを手掛けるヤマダタツヤ(Tyme.)をリーダーとする5人組。疾走するリズムの上を神秘的なバイオリン、濃厚なサックス、密かに白熱するギターを中心としたアンサンブルがダイナミックに絡み合う。圧倒的なロック・グルーヴをかますアバンギャルドかつナイーヴなサウンド、絶望感と隣り合わせの愛の重みにズキリ。その後には小さなキラリ。反復されるリフにキラキラと舞い散る音の粒が溶け合った今作は、聴き手の期待をなだめるように静かな世界が展開されていくが、だからこそタイトル(=円径、遠景...)に込められた思いが伝わってくるし、そこから聴こえるメッセージに耳を傾けたいと思う。それにしても、暗部の中に果敢に美しさを見いだす彼らは、なんて志の高いグループなんだろう。

(粂田直子)

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    sleepy.ab.jpg 北海道出身の4人組sleepy.abの、ライヴ・アルバムに続く3曲入りニュー・シングルが到着。水彩画の滲んだ筆致を想起させるレイジーなトーンのギターが鳴り響くイントロから早くもおなじみのsleepy.abワールドへと誘われる。隠し味的に鳴らされるストリングスの優雅な音色(これも実はギター・サウンドによるもの?)も、ゆったりとうねるコクのあるリズム隊も、暖かさがありつつ心地よい「伸び」を聞かせるヴォーカルも、すべてが聴き手を包み込むような大きなスケール感をもつタイトル曲。キラキラしたギターの瞬きと「君と僕は似ているね」というフレーズが印象的な「夢織り唄」。そして、初期のヴァーヴを思い起こさせる浮遊するギターの音色に魅せられる「雪中歌」のLive Remixヴァージョンと、いずれも「冬」という時期の夜空の向こう側に思いを馳せるシチュエーションとの相性が格別な、包容感と温もりに溢れた充実したシングルだ。

(佐藤一道)

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kyozyaku.jpg 都内を中心に活動中の、平成生まれ女子4人インストゥルメンタル・ポップバンド、虚弱。の2nd demo『donguribouya』。

 重低音の効いたベースサウンドに、繊細なタッチのドラムによって構成されるリズム。その上に響く透明感のあるピアノの音に、曲の軸となる一本のギターサウンドが多彩に変化し、織り混ざり、曲が紡がれて行く様子は聞き手に対して壮大で繊細な物語を感じさせる。

 唐突だが、人間にとって言葉は特別な存在だ。人は言葉によって思考する部分が大きい。メロディーに言葉がのせられ、それが頭に入ってきたとき、そこに浮かぶ情景、色、空気、温度など、言葉は人の思考や完成のさまざまな部分に大きく影響してくる(もちろん他にも様々な要因はあるけれど)。聞き慣れた曲を歌がない状態で聞いた時に感じる不思議な感覚を、誰しも一度くらいは経験したことがあるのではないだろうか。
 
 この虚弱。の曲には歌、つまりは言葉が全くない。けれど、確実に楽曲からは言語といった伝達手段のレベルを越えた、何か訴えるものを感じとることが出来る。言葉が無く、音だけで表現されているからこそ気付いたりすることのできる感情、そして言葉によって縛られないからこそ感じることの出来るものがある。普段、歌の無い音楽はあまり聞くことがないとか、そういうった些細なものを取り払う懐の深さと奥行きを持った作品である。

 そしてインストゥルメンタル・バンドであるが故に、その独創的な世界観を成立させている希有なバンドだ。虚弱。というバンドの曲が持つ物語の最大の魅力が、研ぎ澄まされた「理性」と、それに背中合わせな存在である強靭な「意志」だ。「理性」には強い論理性や想像力によって成り立ち、「意志」というのは表現への渇望と言い換えられるかもしれない。
 
 インスト・ポストロック的な要素の一部ともいえる幾何学さを感じさせる、変拍子を含んだリズムや展開から感じることのできる論理性やアイディア。そこへ表現に対する渇望、狂気、破壊、葛藤、美しさといった強靭で、非常に人間的な「意志」を感じさせる様々なサウンドがぶつかった時に生まれる物語は、届きそうで届かない空想的で抽象的な感覚と、現実的で身近に感じられるような感覚をあわせ持った世界を見せてくれる。それはとても魅力的だ。

 もうちょっと話を具体的な方向へ引き戻せば、そういった人の感情に訴えかけるようなサウンドの選択が非常に素晴らしい。グロッケンの音や、生音に近いピアノの音。4人編成でギターは一本しか無いのだが、音源同様に、ライブでも一本とは思えない程のノイズ・ギターや、音が空間を流麗に進むようなディレイ・ギターなど、多彩な音を使い分けておりセンスを感じる。

 少し話は逸れるが、推理小説の祖であり、詩人であったエドガー・アラン・ポオは『構成の原理』という著作の中で"大抵の作家、ことに詩人は、自分が一種の美しい狂気というか、忘我的直観で創作したと思われたがる"そして、自作の詩に対しては"構成の一点たりとも偶然や直観に帰せられることなく数学の問題のような正確さと厳密な結果をもって完成されたもの"と述べている。つまり、簡単に言ってしまえば彼にとって創作は理性的なものであったということだ。

 なぜこんな話を持ち出したかと言うと、音楽やアートなどの芸術は、それを聞いたり鑑賞したりする側に立つと、狂気や情熱にとりつかれ、そこに作り手の自我はなく、インスピレーションのみによって生まれ落とされるように見えることが僕にはある(もちろんそういうものも存在すると思う)。そのインスピレーションの偶然性のようなものを、天才的と表現したりするわけだ。そしてそれを見ることにより、作り手と、受け手の間になにか見えない断絶のような物を感じてしまうことがある。

 けれども、そういったロマン主義的なものではなく、さきほど引用したポオ的な態度である「理性」と「意志」を強く感じさせる虚弱。のようなアーティストが僕はとても好きだ。誤解の無いように言えば、「理性」と「意志」を持って創作に向かうということは、もちろんそこに天才的な直観やセンスが無いといった意味では全くない。つまり、ポオの言葉を借りれば「忘我的」なのではなく、自分に対して向き合い、そうした行為の中で素晴らしい芸術を生み出しているということだ。

 そして、それがこうして人に伝わり、物語を感じさせられるということ。それは確実に紛れも無い才能だし、「天才」だ! と僕は呼びたいな。

(陰山ちひろ)

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yura_yura_teikoku.jpg 例えば、ジョン・ケージの「偶然性の音楽」は、従来の古典的な音楽を聴くような態度で接すると、分裂した不可解で滅裂なものでしかないが、聴取姿勢を変えてみることで、別位相から豊穣な音楽として発現する。要は、聴取という解釈学から聴取という詩学への「実存転調」によって、より深奥に潜り込む事が出来る訳だ。

 2010年3月31日をもって解散をしたゆらゆら帝国の近年の作品は聴取側の実存転調によって、漸く呼応出来るほどのストイック且つミニマルで隙間を活かした内容になっていたのは周知だろう。ただでさえ、03年の『ゆらゆら帝国のめまい』と『ゆらゆら帝国のしびれ』の二作品でスタジオ・ワークとしての細部への下降と3ピース・バンドとしての実験の限界に挑んだような点があったにも関わらず、その後にフィジカルな要素を少しずつ減らしていった『Sweet Spot』、「つぎの夜へ/順番には逆らえない」、『空洞です』といった作品群の照射していた景色はより雄弁に「無」を語っていた。足し算のサウンドではなく、有り余る音から引き算の末、シェイプされたサウンドが映す歪んだ鏡越しの現実。そこに「非・意味」を連結する事によって、意味のイメージ枠を広げるような歌詞が乗り、アシッドでトリッピーな世界像を作り上げる所作はサイケデリアの極北へ針を振り切っていた。

 そもそも、彼等の作品には日本語のロックに必然的に付きまとう強烈な自意識を感じない。反転した構造の内にある鏡像内の自我がかろうじて可視化できるくらいであり、その可視化する主体側がそれを自らの像と混同し、写しによって同時に想像的に騙し取られてしまうような要素がある。即ち、主体が自らをその音像に「差し出す」ことで決めた自分の像の内に疎外されている、ということ。加え、根源的に欠けた主体はその疎外について無知であり、こうして自我の慢性的な誤認が形成されることになる。結局、主体は他者の欲望の対象の中にこそ、漸く自らの欲望を見定めることができる(他者の欲望の中にしか自らの欲望を当て嵌める事ができない)、といったラカンの提示したような構造を当て嵌める事が出来る。だからこそ、彼等は"さしずめ俺はちょっとしたくぼみさ/特別邪魔になっていないつもりさ"(「あえて抵抗しない」)と歌えてしまう。

          *          *          *

 彼等のメジャーでのデビューアルバムは98年の『3×3×3』であるが、それ以前に10年近くの活動歴があった。その98年以前は、東京の深いアンダーグラウンドの繋がりの中でメンバー変遷がありながらも、濃厚な情念と不穏さをラフな音に込めていた。象徴的なのは92年のモダーン・ミュージックのレーベルPSFの『Tokyo Flashback 2』というオムニバス・アルバムで、WHITE HEAVEN、HIGH-RISE&灰野敬二、などの中に「バカのふり」という曲で参加していることだろうか。しかし、その「バカのふり」からスタジオ・アルバムとしての最終作となった『空洞です』で、再度、初期衝動にメタ批評的観点を加え、独自の温度を抜き取ったストイシズムの美学は不思議なことに「あたま山の花見」のようなうねりで繋がっている。サウンド・スタイルは変われども、参照点として大きかっただろう、三上寛、ジャックス、裸のラリーズなどの持つ独特の日本語ロックの明るい翳りと、前衛的なサイケデリアはキャリア全体を通底しており、例えば、92年のインディーズとしてのファースト『ゆらゆら帝国』での「狂っているのは君の方」という視座から07年の「空洞です」における「意味を求めて無意味なものがない」というスタンスまで大きく変わっているようで、実は時間軸が捩れただけで80年代以降のポストモダンの瀬で消費された幾つもの物語群、メタ・テクスト群への徹底した「拒否」の核心が浮かぶだけなのが興味深い。

 その核心を軸に周縁を「ひとりぼっちの人工衛星」が廻りながら、「つぎの夜へ」行く事が出来ず、彼等は発展的に活動を終えた訳だが、自分たちが創造した「ゆらゆら帝国」内で、想像し得る「ゆらゆら帝国」を再構築してみるという所業により、最終的に純度の高い虚無に還っていったというのは美しかった。その虚無はミニマル・ミュージックのような「素材の簡素性と反復」を特徴としており、つまりは、「作品」という概念がプロセスに取って変わられ、「時間芸術」の下でプロセスの補填する時間と、作品の持つ時間との差異の位相をスライドしてみることで、「そこ」は「そこではない、どこか」になる彼岸にあるものだった。また、ウィム・メルテンが示唆するミニマリストたちの考える時間の空虚さはゆらゆら帝国が常に持っていた「時間」だった。ゆえに、彼らの音楽には「現実の変化」は起きてこない。そして、音楽的時間の静止と隙間に非・意味が独自のコンテクストが敷かれながらも、視界を捻じ曲げる空間の揺らぎだけがあった。

          *          *          *

『ゆらゆら帝国 LIVE 2005-2009』には、07年、09年のライヴから程良く曲群を抜粋したCD、『空洞です』を07年~09年のライヴ音源群から選択し、曲順をアルバムの通りに再構成したライヴ版『空洞です』ともいえるCD、09年の日比谷野外大音楽堂でのライヴとボーナスとして07年のライヴの一部、05年~07年の作品のビデオ・クリップを入れたDVD、の2CD+1DVDの形式になっており、3曲の未発表曲も入っている。未発表曲の中でも都々逸とルンバの合わせた、いわゆる、ドドンパのようなリズムの拍子と「ほら 振り払おう」という歌詞が印象に残る「お前の田んぼが好き」、「次の夜へ」に微睡みとセンチメンタル性を入れたようなサイケデリックな「いまだ魔法がとけぬまま」など"ポスト『空洞です』の地平"を見渡すことが出来るような曲などは、完成度も悪いものではないだけに、残念にさえ思うが、彼等自身は模索過程で、これらの曲が結実する着地場所が見えなかったということなのだろう。

          *          *          *

 この作品に触れることで余計に想いを新たにしたが、ゆらゆら帝国とはやはり、特異なバンドだった。サイケ、ネオGS、オルタナティヴ、アングラ、ニューロック、ポストパンクなどの名称が彼等の周縁を行き交いながら、どれにもカテゴライズされる事も無く、ファンは日々刻々増えてゆき、遂にはDFAからもCDを出してしまうという所まで行きながらも、全く異端の存在性を放っていた。その異端性は、孤高でも孤立でもない、違和感の塊としての「それ」だった。想い出してみるに、大型フェスやイヴェントでも彼等のパフォーマンスは、他アクトと比較して、などではない、一旦「断絶」をもたらすようなものだった。その「断絶」の本質は、一回性と反復性に帰納されるものだと言える。

 身体に還元されることのない精神と自分「だけ」が引き受ける一回性としての死を巡る「私」。その「私」を幻像化するかのようにイメージが散逸するフレーズとスタジオ作品とは違う肉感的なライヴ・パフォーマンスが一層、攪乱させるのは感性ではなく、もっと深層心理内の各自の散らばった記憶の破片をだとしたら、こういったライヴ・アーカイヴスは色褪せることはなく、各々の心が隠し持っている生傷を抉るのかもしれない。そこには、チャールズ・ブコウスキーが言った"You have to die a few times before you can really live."(貴方が本当に生きる為には、まず何度も死ななければならない)という台詞が似合う。

(松浦達)

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son_of_rambow.jpg『リトル・ランボーズ』の英語のタイトルは『Son of Rambow』で、劇中でも主人公のウィルが「僕はランボーの息子」だと言っている。数年前に公開されヒットした『リトル・ダンサー』も英語タイトルは『Billy Elliot』なのでどちらも配給会社が日本語タイトルとしてつけたんだろう。『リトル・ダンサー』もヒットしたし、こっちも『リトル・ランボーズ』にしようみたいなのがあったのだろうか。 『リトル・ランボーズ』が1982年のイギリスで『リトル・ダンサー』は1984年のイギリス北部の炭鉱町が舞台なので時代背景も近い。

 ストーリー・イギリスの片田舎に住む11歳の少年・ウィル。厳格な戒律を守るプリマス同胞協会である彼の家庭では、テレビも見てはダメ、フィクションの小説もダメ。ポップスも禁止、新聞、スポーツ観戦、ラジオ、芸術、もちろんアクション映画なんて禁止中の禁止事項だ。そんなウィルは、偶然クラスのいじめっ子・カーターと出会い、ある日偶然、彼の家で『ランボー』を見てしまう。初めて見るテレビ、初めて見る映画、はじめて見るランボー! すっかりランボーの虜になってしまったウィルは、放課後になると"プチ・ランボー"に変身して、カーターの映画製作に協力するのだった。ところが不慮の事故が起こり、ウィルは入院する羽目に...。

 監督のガース・ジェニングスは72年生まれで、ブラー『Coffee & TV』R.E.M『Imitation of Life』をはじめ、これまで多くのMVやCMなどを手掛けてきている人物。『Coffee & TV』でのミルク君が歩いているユーモアさとポップさが彼の持ち味なんだろうか、『リトル・ランボーズ』にもこのMVは通じているというか観ると同じ人がやってるんだろうなって感じがするので、これが好きならまあ映画も大丈夫じゃないかな。

 監督の幼少期の実体験が入っているらしい。実際に友人たちと『ランボー』を観て映画を撮影したのが元で、映像許可のためにスタローンに手紙を書いて許可を得たとのこと。なのでこの作品には『ランボー』の実際の映像が出てくる。 主人公・ウィルが聖書やノートに書いている絵が実際の映像と合わせて使われていたりと、ミシェル・ゴンドリーやスパイク・ジョーンズの作品に近いのはMV作りとかしてた監督の空気感とかポップさだったりするのだろう。

 この10年代(テン年代ともイチゼロ年代とも言いますが)は80年代的なものが来ると言われているのは、時代の周期が30年で回るとか回らないとか言われてて、僕が思うのは僕らの世代や少し上の人達が過ごした80年代ってのがあって、その世代が世に出ていき映画なり音楽なり表現をしていくメインになるので自分たちが過ごした幼少期や影響が作品に出てくるのでそうなるんだと思うし、あと80年代に二十代とかで活躍してた人が四十代後半とか五十代になって行く中で時代とまたかみ合っていくので、80年代の反復みたいな事になるんじゃないかなって思う。

 でも、実際に僕らの思春期だった頃は90年代なんでそれもどうだろうなあとか思ったりはする。たぶん、三十代前半と二十代後半は90年代の影響の方がデカイ。なんでどちらかというと90年代の影響下から始まった初期衝動から始めた人が出て行ってメインストリームになりそうな気がしているのだが。十年後の20年代はたぶん違う形になると思うんだけど、90年代以降ネットや携帯が生まれた頃にすでにあった世代が最前線のメインストリームで活躍する時にたぶん、今以上に世代の断絶感や距離が出てくるんだろう。たぶん、それはもうどうしようもない。最初に使える、手に出来る表現方法がまったく違うテクノロジーだと想像や手段が違うのでかなりそれがデカイかなって。まあ、ゼロ年代は暗かったし景気悪かったし、ポップで華やかなものが溢れてもいいんじゃないかなって思うんだよねえ。80年代や90年代のポップさが前ディケイドのカウンターとして。

 カーターが映画館で上映している『ランボー』を家庭用ビデオで盗み撮りしたものを、ウィルが彼の家で観た事がかなり大きな事だと思う。 監督も『ランボー』の海賊版コピーを観た事でオリジナルではないコピー(海賊版)から影響を受けている。そのことの意味。80年代にビデオデッキの普及したことに伴って、映画は映画館だけで観るものじゃなくなって再生産のようにコピーされ広まっていくという最初の時代。 オリジナルが正式な手順であろうがコピーされようが、その中身はウイルスに感染する様に影響していく。

 僕が最初に見た裏ビデオは友人の兄が持っていた飯島愛の出演作で、それもダビングという名のコピーで広まったものだった。わりと近い年代の人に聞くと最初に見た裏ビデオが飯島愛だという人は多い。確かナースの格好をしてたみたいな事で盛り上がった事がある。ある種の同時代性というのが商品の流通で触れているとあるのだが、ネットで裏動画とか見てるとそれが同世代だから伝わるとか共通するというのは減っているんじゃないかな。

 オリジナルとコピーの問題を考えてみたり、初期衝動があって何かになりたいとか憧れがあるとそれを真似る。例えばファッションだとか仕草とか髪型とか諸々。最初は誰もが真似から始めるしかない。

 彼らは『ランボー』を真似て、ランボーの息子として彼を救いに行く戦いを映像で撮ろうとする。彼らはその作品を撮るということで繋がっていき友情を深めていく。ウィルは父親を亡くしている。彼にとってランボーはある種、父の代わりであって、だからこそ父を救いに行くのだという事も大事な設定だ。彼の一家は厳格な戒律を守るプリマス同胞協会である。協会の同胞のおっさんがやってきては、戒律を守れとか父親代わりみたいな事を言うのだが、それはウィルにとっては最悪な世界だ。

 彼が自身で選んだわけではない宗教の戒律で縛られるという不自由。彼はそれらと戦う様にカーターと共に作品を作り、無茶もするし傷だらけになりながらも自分がやりたいこと、やってみたいことをする。それ自体が戒律を破り、彼ら一家は追放される危機が訪れる。その時に母が選ぶのはどちらなのか。厳格な戒律があるプリマス同胞協会について、物語がうまく機能する様に設定されているのもこの作品の上手さだと思う。 カーターも父はいないが母は海外に行っていて、兄だけが自分を孤独にしない唯一の家族である。故に、彼は兄に奉仕するような感じになっているが学校では問題児だったりする。その設定も最後にうまく活かされていてほろりとくる。

 『スタンド・バイ・ミー』や『グーニーズ』のように、少年時代がどんなに糞ったれでも仲間と冒険する事で想像する事でそこから一瞬でも抜け出す事ができる、その興奮と楽しさはその時代にしか味わえない。だから大人になり観ると昔とは違った想いが湧く、ノスタルジーが。かつて子どもだった僕らがこの映画を観ると甦ってくる。あなたの心の中の少年・少女は元気ですか?

(碇本学)

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stereolab_not_music.jpg クラウトロック・テイストや旧時代のアナログ・シンセサイザー・サウンドを採りいれつつ、ロック登場以前の「ラウンジ」ポップ・ミュージックの魅力とポスト・パンク的先鋭性を同居させたステレオラブの音楽は、1990年の結成以来ぼくらに刺激を与えつづけてくれた。

 1999年の『Cobra and Phases Group Play Voltage in the Milky Night』以降、ブラジル音楽のエッセンスなども導入しはじめた...とはいえ、フランス人女性レティシア・サディエールも敬愛する(やはりフランス人女性シンガー)ブリジット・フォンテーヌ/サラヴァ・レコーズを思わせる「一筋縄ではいかない」消化方法をとっていたというか。

 2008年の前作『Chemical Chords』発表時にクッキーシーンがおこなったインタヴューで、レティシアはブリジット・フォンテーヌについて、こんなふうに語っている。

「彼女は、わたしにとってすごく特別な人。27歳くらいになるまで、それまでも歌ってはいたんだけど、わたしは他のどのシンガーにも感情移入できないと思ってた。でもブリジットのうたに出会って、本当にソウル・シスターにめぐりあったように感じたの。政治や中絶の問題、人間関係なんかへの考え方や対応の仕方...本当に共感を覚えたわ。現実と向きあいながら、それを芸術としてポエティックに表現することができる人がここにいる、って思った!」

 ステレオラブの新作『Not Music』は、彼女のブリジットに対するこんなコメントがそのままずばりあてはまるような、傑出したアルバムとなっている。

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『Chemical Chords』制作時に録音されたけれどそこで使われたなかったトラックを集めたもの...という情報をまず入手して「えっ、単なるレア・トラック集? 残りもの?」みたいに最初は思った。しかし実際に聴いてみると、そのあまりの良さに驚いた。正直『ケミカル・コーズ』より全然いいのでは? それどころか(今のところ、筆者がステレオラブのすべてのアルバムのなかで断トツで一番好きな)1996年の『Emperor Tomato Ketchup』とためをはるほどの「挑戦心」にあふれた作品ではないか? 前作発表時のインタヴューをあらためて見なおしてみると、レティシアはこうも言っている。

「(そのアルバムに収録しようと思ったトラックは)全部で31曲もあった。最初はうまくのれなかったかな。でもアルバムの半分をすぎたころから、やっと本当に慣れてきて、気に入って曲を作れるようになった。『Chemical Chords』は、その全体(31曲)の約半分なのよ。いつになるかわからないけど、この次に出る残りの部分を使ったアルバム(注:『Not Music』となった部分)のほうが、たぶんもっと楽しんで、気に入って作れているんじゃないかな(笑)。より多様性にあふれているし、今回のものよりもうちょっとダークでストレンジなものになるでしょうけど、わたしはそっちのほうが気に入ると思う。リズムにもヴァリエーションがあって...。まあ、わたしの個人的な意見だけどね(笑)」

 ぼくも同意見だ(笑)。ダークというよりインテンシヴ(intensive)。ここにおけるリズムやアレンジの多様性は、最近のポップ・ミュージックの世界では稀有とさえ言えるものだ。しかし、それを無駄にたれながしてはいない。徹底的に抑制が効いている。ときには(ほんの一瞬だが)ヤング・マーブル・ジャイアンツを思わせるほどに。

 選びぬかれた言葉だけを使い、極限までとぎすまされた歌詞も、そんな構成に一役買っている。ブリジット・フォンテーヌがそうであるのと同じような意味で「政治的」なメッセージがそのあいだに見え隠れするさまは白眉であり、レティシアと並ぶ中心人物(ギター担当。歌わない)ティム・ゲインが90年代に参加していたマッカーシー(「左翼的」と言われていた。元マニック・ストリート・プリーチャーズのリッチーは彼らの大ファンだった)より格段に高いレベルで、それをなしとげている。

「とても混乱していて 識別できない/『高潔さ』という概念に困惑している/元来 曖昧なもの(であるはず)/不確定性にあふれ 輪郭も不明瞭/そのなかに/本当に高潔な存在...虚飾のない真実がある」(「Leleklato Sugar」より)

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 アルバムのちょうど中間地点である6曲目ではチキン・リップスのアンドリュー・チャームことザ・エンペラー・マシーンが、本編ラストの13曲目ではディアハンターのブラッドフォード・コックスことアトラス・サウンドがミックスを担当している(なお、日本盤にはボーナス・トラックとして14曲目に、アトラス・サウンドのより「奇妙な」ミックスが収録されており、さらに深い余韻を残してくれる)。

 これを「純血主義」的に「バンドのメンバー以外がそこまで深い役割を負ってもいいの? やっぱ、これは『イレギュラーな』作品じゃない?」とネガティヴにとらえるかどうかが、このアルバムを楽しめるかどうかの境目になっている...ような気もする。

 音楽は、もっと「自由に」とらえていいんじゃない? 本サイトにおけるエドウィン・コリンズのインタヴューのところでも述べたけれど、「バンド」という概念さえ曖昧になってきているのが「今」の趨勢なのではないだろうか?

 だいたい、先日「いったん活動休止する」ことをアナウンスし、レティシアもソロ・アルバムをリリースしたあとに、突然『Not Music』なんてタイトルでアルバムを発表するなんて、杓子定規...大袈裟に言えば「官僚的」にとらえたら、まったくわけのわからない行為だ。

 でも、そこがいい。

「さまざまな真実の最も美しい面は/なんの役にも立たない それが/本当に深くて すごくダイレクトな/個人的体験に基づいたものでないかぎり」「それは誰かの手中に固定されることもない/浸透することは稀なケース/だけど人々の心に届くものとなれば/『真実』を『知る』必要なんかない 『体験』して『学ぶ』べきだ」(「Everybody'S Weird Except Me」より)

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 ティムやレティシアとほぼ同世代である筆者は、70年代の末から80年代初頭のポスト・パンク期に、どっぷりと音楽につかりはじめた。当時は「極端にアヴァンギャルドな」ものがもてはやされており、ぼくが通っていた高校の近く(愛知県西三河地方の地方都市)の小さな(日本盤専門)レコード店には、そういったロック系の奇妙な音楽のみならず「現代音楽」系のミュージック・コンクレートや騒音派などのLPも並べて置いてある小さなコーナーがあって、「非音楽」と名づけられていた。

 本作で聴ける音楽は、それよりずっとポップだけど、『Not Music』というタイトルと、この「自由な」センスにふれて、そんなことを思い出してしまった。

 アトラス・サウンドやザ・エンペラー・マシーンの参加もありさらに多様性を増したリズムの幻惑的魅力も、ヒップホップなどを聴きなれた耳からすると少し脆弱というか、むしろ「現代音楽」に近いと感じられる部分もある。それも彼らならでは。例の「31曲」の制作に関してレティシアが語った、こんな言葉も引用しておこう。

「フランスでも、ロンドンでもレコーディングした。ティムはベルリンに住んでるからベルリンで曲を書いてたし。ということは、ヨーロッパ全土にわたって制作していたと言えるのかな(笑)。そう、これはヨーロッパのレコードなのよ(笑)」

 自らの立脚点に真っ正面から向きあってるからこそ、ここでのステレオラブは、ものすごく「身軽」だ。「とりあえあず(活動休止したので、当面の)ラスト・アルバム」といった「重さ」も存在しない(たとえばLCDサウンドシステムのジェームス・マーフィーが、サード・アルバムについて語っていたトーンと同じように)。それでも、アルバムのラスト近くでは、こんな言葉が歌われている。それをどうとらえるかは、あなたの「自由」だ。

「心こそが統治者/それは真実の攪拌機...打つ道具であり/決断をもたらすもの/賞賛せよ/ドラマーたちを/究極的に」「同点決勝試合/祝福せよ/ドラマーたちを/最後に」(「Aelita」より)

(伊藤英嗣)

*日本盤は11月17日リリース予定です。【編集部追記】

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azure_ray.jpg アズール・レイは、マリア・テイラーとオレンダ・フィンクという二人の女性ミュージシャンによるデュオ。前身バンドのリトル・レッド・ロケットを経て、アズール・レイとしての活動を開始し、00年代前半に3枚のアルバムをリリース。幻想的なサウンド・スケープと美しいメロディ、そして何より二人の声の魅力がリスナーに支持され、絶大な人気を獲得する。 

 しかし惜しくも04年にバンドは解散。二人はそれぞれ別々の道を歩むことになる。マリア・テイラーはソロや、ナウ・イッツ・オーヴァーヘッドのアンディ・レマスターとの共作アルバムなど計4枚をリリース。一方オレンダ・フィンクは、元アニヴァーサリーやザ・グッド・ライフのメンバーらとアート・イン・マニラというバンドを結成したり、レミー・ゼロのベーシストとO+Sというユニットを結成したり、更にソロ名義でもアルバムをリリースするなど、活発な活動を見せる。 

 それぞれの活動を経て、一回り成長した二人はアズール・レイを再結成。そして、ここに通算4作目となる復帰作が届けられた。 

 ハープの音色に導かれ、レコード針のノイズとともに歌が始まった瞬間、聴き手はハッと息を飲むだろう。控えめな電子音に彩られたシンプルなアレンジに、違った個性を持った二人のヴォーカリストによるハーモニー。淡々とした雰囲気の中に息づく温かなエモーション。何も変わらない、アズール・レイの音楽がここにある。 

 プロデュースはお馴染みの元アーチャーズ・オブ・ローフ~クルーキッド・フィンガーズのエリック・バックマンが担当。ちなみに、アルバムのバック・カヴァーには二人の美女を抱きしめたエリックの写真が使われている。...なんなのこのオッサン、羨ましい!

(山本徹)

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80kidz.jpg ナイーヴネスとセンチメントは違う。

 前者は閉じた秩序内世界の内側での思考形態であり、その無比の現実と思っている世界観が実際には、閉塞的な完結性を帯びたものではなく、数多の幻想と強情さによって修整された、不安定なものであることを、知ったが故のシンプルな欲動である。つまりは、頑固なまでに、そういった不安定さの受け入れを「否認」することで、狂信的な何かを内側突き抜けようとする権利主張の傘の下での規定行動と言えるとしたら、「ナイーヴな感性」という大きな記号が示すものは実はヴァルネラビリティを示唆せしめず、自意識内で固定されてしまった強権的な価値観のピン留めを仄かに発露させる。だからこそ「ナイーヴな自由」は存在し得ると言えるかもしれない。自由で「ある」と言うのは受動態的な意味を孕みながら、自由を「する」という主体性の放棄の中でのアフォーダンスでもあるからだ。「認知」はしているが、「是認」はしない。「否認」はするが、「認証印は押さない」という強権性。そこに、事実の誤認があったと「しても」、自意識内での誤算は当事者にとっては全くの他人事でもあると言えるのだ。だから、想い込んでいる誤認の中で傷ついたのは実存ではなく、表層意識だけかもしれないとすると、「ナイーヴな感性」が巻き込む厄介さは反転した行き止まりのあるユートピアなのかもしれない。

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 だとしたら、後者のセンチメントは意識的に前景化した「侵された自由」に対して自覚的になってしまう。自覚的になった結果として、それは自分に還流されてくる危険性を孕む。例えば、彼等がファーストで『This Is My Shit』とモノリスを立ててしまう行為はナイーヴな何かではなく、センチメントなものであり、そういった「自虐的な好戦性」こそが、逆説的にボーカル・トラックを主に華開いてブレイクしたというのもアイロニカルな構造であり、数多の手掛けたリミックス・ワークでもふと挟み込まれるセンチメントな部分片こそがエイティーキッズ(80kidz)という認証印をより強く世界中に知らしめ、他のエレクトロニック音楽との差を付けていた。

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 アンダーワールドがあの形を取る前に取っていたリック・スミス、カール・ハイド等からなるバンドのFreurはエレ・ポップ、ニューウェーヴな音を鳴らしていたのは知っている人も多いだろうが、そこからテクノ方面に触れる際に彼等はナイーヴ性じゃなく、センチメントな部分を残し、結果的に「Born Slippy」というアンセムに辿り着いたが、そのアンセムが持つセンチメント性に今度は逆に彼等が苦しめられる事になるようになり、その桎梏が外れたかのように、緩やかにシフト・ダウンしたのが新作の『Barking』だったとも言える。あの作品の持つ「風通しの良さ」はここ暫くの彼等には薄れていたものだったので、個人的に嬉しかった部分はあった。

 その意味で、エイティーキッズはスタート地点では既に、エレクトロ・クラッシュ勢のチックス・オン・スピード、ティガ辺りとの「共振」もありながら、ニューレイヴとの近接点もあった中での、2008年のEP「Life Begins At Eighty」でのかなりのアグレッシヴで硬質的なビートの提示、KITSUNE界隈との繋がりも含め、あっという間に世界的に彼等のワークスは拡がっていき、DJにもよく用いられることになったのは良かった事なのかどうなのか、彼等を取り巻く周囲の速度が少し早すぎる気さえした。がしかし、今はメンバーではないものの紅一点のMAYU、そしてAli&、JUNのスタイリッシュな佇まいも含め、とてもクールにクラブを揺らせた美しさは紛うことなく、あった。ボーカル・トラックを含めてベタに拓けた『This Is My Shit』ではメロディアスな部分も押し出され、所謂「ロック・ファン」も囲い込む事に成功した。

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 その後、MAYUの脱退、CSSのフロントマンであるLovefoxxxとの「Spoiled Boy」など話題を振りまきながら、満を持してと言ってもいいだろうセカンド・フルアルバム『Weekend Warrior』は全編ノン・ボーカルの原点回帰的な硬質なエレクトロ・サウンドからサイケデリックな新機軸的な試みを試したトラック、まるでマッドチェスターのようなトラックまで幅広くも、多種多様なリズムに挑んだ意欲作になっているのは興味深い。また、ファーストよりも零れ出るセンチメントが、全体を通してアップリフティングなものにしているという余韻よりも、どちらかというと、果敢ない気分を助長する部分があるのを否めない。「Shift」という声で始まる10曲目の「Private Beats」以降がよりグッと実験的にもなり、また、メロウでアンビエントな様相を帯びたトラックも増えるが故に、「始まりの終わり」という倒錯を予期させる。「終わりの始まり」をパーティーが確約するとしたならば、このセカンドは初めから「始まりが始まる」。

 躍動するような、ワクワクした気持ちにさせてくれるサウンドはここに詰まっていて、寧ろロックやボーカルが綺麗に入ってくるハウスが好きなトライヴこそが入り込み易いような人懐こさが増しているのは二人になり、以前と視える景色が変わったからなのか、必然的な帰結なのか、推察しか出来ないが、基本、ノン・ボーカルというのは気にならず、どちらかというとアンビエントな要素や余白が前景化した抒情的な通奏低音が響く。そのセンチメントは"Persons who deliberately cultivate their sentiments"に向けられてしまう誤配もあるとしたならば、回収先が少し個人的に彼等の意図したものと変わってくるような気がするのだけが懸念が募る。

 彼等のセンチメントは「過剰」ではなく、「零れ出てしまう」ものだからして、それは強みにさえなるからだ。ナイーヴなピュアリストは「破綻してしまう」ことが多いが、センチメンタルなピュアリストは真摯なシニカルさや粗野的な知性を持ち得る事が出来るとしたら、今後に期待を十二分に持つ事が出来る「希望的な何か」が込められたアルバムであり、フロアーじゃなくて、日常も揺らす音楽としても機能することだろう。

「このままの方向性を突き詰める」ということはないだろうからこそ、ジョエル・ファインバーグの言葉を借りれば、「誠実なセンチメントを偽善的まがい物の流通から保護することが大事だと感じている人たち」のエレクトロニック・ミュージックになったこのセカンドは、僕は支持したい。

(松浦達)

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chatmonchy.jpg 僕にとって、チャットモンチーとは、刹那的な感情の発露を鳴らすバンドだった。ヒリヒリするようなグルーヴに、女子だけではなく、みんなが琴線に触れてしまうような歌詞。人生のほとんどは我慢だけど、チャットモンチーは、最大瞬間風速的な音楽でもって、聴く者の我慢しないでいい時間を増やしてくれた。でも、チャットモンチーは、余韻がないバンドでもあった。常にギリギリで鳴らされているせいもあってか、聴き終わった後に、残るものが、残り火しかなのが寂しいと思っていたけど、『Awa Come』では、チャットモンチーが深化していた。大人の余裕と同時に、初期の荒々しさによって、聴き終わってから、噛み締めるような感情が残っていた。まるで走馬灯のように、僕の思い出がぐるぐると回って、心のなかで、いろんな人と再会した。特に、遊び心溢れる「青春の一番札所」以降の流れは、ちょっとした心の旅が体験できる。そして、弾き語りの「また、近いうちに」が終わる頃には、日々を生きるうえで見失ってしまった、自分の「帰る場所」が発見できる。『Awa Come』には、音楽ができる最高のマジックのひとつが詰まっている。素晴らしい。

(近藤真弥)

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spitz_togemaru.jpg ティーンエイジ・ファンクラブのように更新はされてゆくが、変わらない。そして、変わらないが確実に更新されてゆく、金太郎飴のようなサウンド。また、職人によって作られる金太郎がそれぞれ違う「ように」、転がってゆくロックンロールの「ロール」とは多義的な意味を含む。

 例えば、ザ・ブルーハーツの提示した正義はパンクという前史を弁えたが故の<反>への意志だった。だから、「人にやさしく」と言う時に、何故かアナーキーなバックスクリーンとしてザ・クラッシュが浮かびあがってくるように、スピッツの音の後ろには彼等の精神もディープ・パープルも新進のギターロック・バンドへの目配せも反骨の気概もビート・パンクも成熟を拒む碧さも、残照光として今も届いている。

 基本的に、2000年のオルタナティヴに振れた『ハヤブサ』からの作品群は多少のマイナーチェンジを加えながらも、実験性よりもバンド・サウンドとしての「一体感」とメインストリームに身を置きながら、内側からそういったシーンの監獄からの脱走を試みるような要素を含ませながら、疾走していたきらいがあり、ミスター・チルドレン的な何かが日本の多くの「牧歌的なロック」を覆う温度とは別位相で彼等は独自の「大文字」を小文字に変換しながら、誤作動を企図する道を進みながら、2007年の『さざなみCD』ではシェイプされたサウンドは、もうライヴでの「再現」を予期される為に作られるようにもなり、小さなライヴハウスからホールまでを廻る為のステージ・パス的な様相を呈していた。

 そこから、シングルは幾枚か挟んだものの、3年を経て届けられた今回の『とげまる』は前作の路線を継承したという声もあるが、もっとアグレッシヴで奇妙な捩れが表象されているオルタナティヴで簡潔な作品になった。亀田誠治氏との共同作業で或る程度、固まったサウンド・ワークの中に例の草野マサムネのザラッとしながらも、透明度のある声が乗り、アタック感のある崎山氏のドラム、雄弁な田村氏のベース、三輪氏の残るギターフレーズが絡み合う、相変わらず、歪なのに歪に聴こえない4ピース・スタイルの「バンドとしての音」が健やかに鳴る。また、シュールレアリスモやダダ的な様相を示していた歌詞はどんどん直截的になっていったのは近年の彼等を識っていれば、理解出来るだろうが、今回はかなり「大文字が拗れている」のが面白い。

"君に夢中で泣きたい ゆらゆら空を渡る
燃えている 忘れかけてた 幻のドラゴン"
(「幻のドラゴン」)

"部外者には堕ちまいと やわい言葉吐きながら
配給される悦びを あえて疑わずに"
(「TRABANT」)

"理想の世界じゃないけど 大丈夫そうなんで"
(「君は太陽」)

 何故か行間に「秘密」に潜ませるようなフレーズがふと入ってきて、知りたくなる。禁忌を張られると、より見たくなるのと同じように。そして、スピッツを聴くと、「自分たちが本質的に精神分析的な存在である」と認識をさせられる。もし、自分たちが刺激に対して動物的な欲望を持つだけの存在ならば、欲望と刺激の関係性というのは欠伸が出るほど、凡庸だ。抑制の美もいいだろう、連想させるフラグメンツが時にリアルに響き渡るという文脈で。それは、「隠喩」的なものに反応し易い生き物だという事実を含意するだけで以上でも以下でもないからこそ、退屈でもあるという付箋は必要になってくるのは、「解釈学」を知っている方ならそれはデフォルトと言える。精神分析と解釈学は全く違うものにはなるのだが、人間は人間を、あるいは人間の作り出したものを「解釈するとき」、そこに「解釈学的循環」が持ち上がるとされる。

「何かを理解する」為には、文脈、フレームワークがいる。

 これを「先入観」とすると、理解が進めば、先入観は「修整」される。「修整が加えられた先入観」はしかし、完璧ではなく、また、欠けている。先入観から理解への解釈を延々続けていくことが解釈学的循環の中で沸き起こる疑念。では、人間は何をもって人間を理解するのだろうか。「自分自身という鏡」、それもそうだろう。「自己」をベースに誰でも他人(非・自己)に共感したり、理解したりしようとする。これは、大きく見ると現象学の領域になる。そして、精神分析は、この点で解釈学と分かたれる。

「共感」や「理解」は、基本、想像的な営みだからして、これで、症例が分かれば苦労は要らない。フェティシズムや特殊な欲望についても、共感的理解は限界がある故、こんな時に、例えば、ラカンなどは「共感の仕組み」さえ疑おうとする。共感というのは想像的なもので、それはつまり、「自己イメージ」から出発しているということを示唆するのだ。そういう意味で、スピッツの捩れたイメージの鏡像性は「欲望が人をしている」と言えるのかもしれなくて、「人が欲望している」という簡単な構図を越えてくる可能性を孕む。

 そうでないと、この『とげまる』における「君」はまるでセカンド・アルバムの『名前をつけてやる』のような暴力性を帯びてこないだろう。漂白された「君」だが「"君として"名前をつけてやる」という「探検隊」的な意図が放り投げられたまま、茫漠とした砂漠に置いていかれる。置いていかれた「名前」は「君」なのか、それもぼやける。

 今回、サイケデリックでスケール感のある「新月」やカントリー調に転がる「花の写真」など少しの実験的な曲もあるが基本、ビートを前に押し出したバンド・サウンドが主体になっており、前作よりもかなりエッジがあるものも多い。ライヴを予期させるものとして、延長線上にも位置するのだが、『とげまる』が再生させるだろうライヴはもっとオルタナティヴで妙な温度を帯びる気がする。というのも、ヴァース・コーラス・ヴァースを遵守しながらも、シンガロングを「拒否する」頑なな「スピッツという王国」の中で昔の「ロビンソン」のような浮遊感と入り込めるような「間」が敢えて排されているような印象さえ受ける部分もあるからだ。『とげまる』というタイトルもキュートなようで、彼等自身の立ち位置を示すようなメタファーに満ちているが故に、示唆深い。その示唆は彼等が移り変わりの早いシーンの最前線で生き延びてきた報告書のようであり、その報告書はタブラ・ラーサのようなものかもしれない。

"美しい世界に 嫌われるとしても
それでいいよ 君に出会えて良かった"
(「えにし」)

(松浦達)

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violens.jpg ≪60年代のハーモニーと80年代のサウンド・プロダクションを持ち合わせた彼らの楽曲は、先の見えない未来に向かって漂っている。ゾンビーズと比較されることもしばしばであるが、彼らはプリファブ・スプラウトからも影響を受けているに違いない。≫

 これは本作に対する英NME紙のレヴューからの抜粋。十数年前にリリースされたギターポップのレコードを掘っていたころ、帯や店頭のPOPなどでこういう類の文章を眼球にまで印字されそうなほど目にした記憶がある。≪キンクスを彷彿とさせる~≫、≪バカラック印の~≫、≪ペイル・ファウンテンズの流れを汲んだ~≫、など、など、など...。

 嫌味っぽく書いてしまったが、そういう作品が自分の大好物なのも事実だ。こういう文章を見かけると条件反射で涎が出そうになる。外れも詐欺もペテンも多いキャッチだが、とにかく引っかかるものが少しでもあれば、勇気を持って、まずは自分の耳で確かめることにしている。というわけで、さっそく聴いてみよう。

 道徳観念のない...という意味の『Amoral』と冠したこのアルバムは、「The Dawn Of Your Happiness Is Rising」、"君に幸せの夜明けがやってくる"と題された曲の陽気に跳ねるベース・ラインで幕を開ける。なるほど。この軽快さとコーラス・ワークはゾンビーズの「Care Of Cell 44」にも通じるものがあるし、メランコリックに煌めくギター・フレーズといっしょにバンジョーも絡めてみたら、プリファブの「Faron Young」みたいにもなるかもしれない。とてもメロディアスだ。続く「Full Collision」はストーン・ローゼズからMGMTまで経由し、太陽の光にやられて突然変異したスミス、あるいはモノクローム・セット...といった趣のサイケ・ギター・ロック。歌詞の冒頭は"常識に降伏するのは / 完ぺきな防御だね"で、曲の終盤には錯乱状態を思わせるバーストしたサウンドが広がる。

 この二曲だけでもこのバンドがタダ者でないのがなんとなくわかるが、続く「Acid Reign」は...。おいおい。小刻みなシンセの連射とハードなドラム・ブレイクが叩きつけるように放射されるエレクトロ・パンク。抜群にカッコいいけど、これはもはや、ゾンビーズでもプリファブでもなんでもない。もちろん、ここで「ふざけるな!」と、NMEに向けてちゃぶ台をひっくり返したくはならない。このアルバムへの好奇心はますます膨らんでいく。

 ヴァイオレンス(Violens)は2007年に結成されたブルックリンのバンドで、現在は3人組。もともとは映像制作などアート全般に熱心で、さらに中心メンバーを含める何人かは過去にランジング・ドレイン(Lansing-Dreiden)というバンドで活動していたそうだ。そちらもmyspaceで聴いてみたが、なるほど。80'sの耽美派シンセ・ポップを思わせるサウンドである(この結成に至るまでの流れは、ザ・ドラムスとも少し似ている。彼らもエルクランドやホース・シューズといった、どちらかといえば耽美路線のシンセ・バンドを経由して結成された)。

 その「前歴」を思わせるのが「Are You Still In The Illusion?」で、それまでの曲調から一転し、教会のオルガンを思わせる重いメロディとリズム、泣き咽ぶサックスによるデカタンとゴシップの世界へ。「Until It's Unlit」は(もはや、来年度版の「現代用語の基礎知識」にまで掲載すべきタームであろう)チルウェイヴの空気を汲みとった緩いディスコだが、これまた曲終盤にシューゲイズなギターが畳みこんでくる。「Violent Sensation Descends」は世界の終わりを思わせる狂乱のノイズと、そこからの再生を思わせる讃美歌っぽいハーモニーが交互に押し寄せる忙しいナンバーで、かたや「Could You Stand To Know?」は、オアシスらUKロックの王道のようなアンセミックなメロディを讃えた大陸的なアリーナ・ロック...。ここまでしつこく書けばもうおわかりだろう。これは単なるヴィンテージ・ロックの愛好家やフォロワーによる仕業ではない。様々なスタイルに挑戦しながら、いずれの楽曲も高い完成度を誇り、さらには瑞々しく新鮮な光沢まで放っている。

 国内盤の解説によると、彼らが意識しているバンドはウィーンだそうだ。ウィーンといえば、そのキャリアにおいても時期ごとに様々なジャンルを横断しながら悪意を振りまいてきたが、アルバムという枠組みのなかにおいても、闇鍋の要領で多種多様な型の曲を詰め込み、グロテスクな作品群を完成させてきた。わかりやすい例として、94年のアルバム『Chocolate And Cheese』を聴いてみよう。ダーティなロッケンロールも端正なカントリー・ブルースも、HIVをおちょくったローファイ・ポップまでそこには詰まっている。一昔前ではこういうスタイルは「変態」とか「奇天烈」とかいった接頭語とともに、その下品なケバケバしさが持て囃された。『Chocolate~』のジャケもデカ乳(しかも半分見えてる)が強調されまくった、しかめっ面するしかないデザインだ。もう少し昔ならフランク・ザッパなどもこれに該当するだろう。しかし、ヴァイオレンスも相当やりたい放題ながら、彼らと比べると格段にスタイリッシュである。独特の優雅な美意識は決して小奇麗にまとまっているわけではないが、一方でスマートさも失われていない。このバランス感覚が今っぽいといえばそうなのかもしれない。

 彼らはMGMTとも交流があり、ツアーを共に回ったり楽曲のリミックス(「Time To Pretend」!)を手掛けたりもしている。かといって最近のMGMTのようにサイケデリック一辺倒にも陥らず、自分たちのシングルに(チルウェイブの代表格である)ウォッシュド・アウトを担ぎ出したり、国内盤のボーナス・ディスクに収録されたリミックス曲もそうだし、クラブ・シーンなど外への目配せもきちんと行き届いている。2010年もまもなく終わってしまうが、来年以降の近い将来に向けたあるべきバンド像として、理想的な志向性をデヴュー・アルバムの時点で獲得してしまっているようだ。

 ここ数年で名乗りを挙げた他の多くのバンドと同様に、知識の収集と吸収に長けたネット世代による、シンプルな名称をもったこのバンドが今後どういう方向に歩を進めるのかは気になるところだ。ちなみに、このアルバムのラストを飾る「Generational Loss」は、緩いギター・ストロークが徐々に熱を帯びて轟音と化して爆発し、最後は静かに雨が降り注ぐ音が鳴り響いてフェードアウトしていく。その演出は曲名とともに確信犯的に意味深で、彩りに溢れた賑やかなアルバムのラストとしては少し侘びしい気もする。その侘びしさにほどよく感情移入しながら、この雨が何を憂いているのかについて思いを巡らせてみる。

(小熊俊哉)

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aeroplane.jpg ニュー・ディスコとチルウェイヴって、意外と関連性があると思う。共に00年代後半からそれらしき音が出てきたし、ニュー・エレクトロが登場して、瞬く間に閉塞感を纏っていったのと入れ替わるように、ディスコが戻ってきた。なぜディスコなのかというと、ディスコが持つ開放的で自由なイメージが、閉塞感を打破する手段として魅力的に映ったのだと思う。でもそれは、本来ディスコが持っていたものというより、歴史性が無効化されつつあり、どんな音楽にもフラットにアクセスできる若い世代が生み出した幻想だと僕は思う。パラダイス・ガラージを例に出すと、白人の客を増やそうとしていたマイケル・ブロディに対して、ラリー・レヴァンは反対していたという話があるように、70~80年代のディスコは、ゲイや黒人など、差別を受けてきた者たちのアイデンディティーを示す場として機能していた。そういう意味では、決して開かれた場所ではないし、自由とは言えないのではないか?

 ディスコというのは、ブルースのように、悲しみや憎しみから鳴らされる音楽だ。しかし、このAeroplaneのアルバム『We Can't Fly』で鳴らされているディスコが、どこまでも風通しがよい「軽い」ものとなっているのは、骨抜きになったというよりも、ディスコが持っていた時代性や思想というのを排除して、新たな時代性を獲得したということだと思う。その時代性とは、乱暴に言うと「繋がり」だ。 つまり、マイケル・ジャクソンが目指したような、「白も黒も関係ない世界」の元に人々を集めて、「踊る」ということで、様々な困難を乗り越えようとしているのではないだろうか? その「白も黒も関係ない世界」の元に人々を集めるための手段として、ディスコが必要とされているから、ニュー・ディスコやチルウェイヴが出てきた。というのは、僕の考え過ぎかも知れないけど、『We Can't Fly』は、そんな僕の考え過ぎを確信に近づけてしまうアルバムだ。ここでは、70・80年代のディスコとは違う現代の悲しみや憎しみが鳴らされている。

(近藤真弥)

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laetitia_sadier.jpg 夜中に部屋に戻りテレビをつけBSにチャンネルをあわせると、古そうなモノクロのフランス映画が映し出される。ベッドに横になって、タイトルはおろか、詳しいストーリー、役者の名前や相関関係、映画が既にどのくらいすすんでいるのかもわからないまましばらく見ていると、寂しげな音楽とともにエンドロールが流れ唐突に終わる。我に返り、寝る前にしておこうと思ったことをひとつふたつ片付ける。映画について調べようとも思わず、そんな時間があったということだけを、ぼんやりと覚えている。

 ぼくがステレオラブの作品を聴いている時間は、そんな一日の浅い余韻の中で見る映画のように思える。それは彼らの音楽がなにかのサウンド・トラックに似ているというのではなく(もちろん似ていないというわけでもないのだけど)、もうただただ映画のような音楽だ、と感じるのだ。はっきりとしたストーリーよりも映像の断片、雰囲気の方が深い印象を残す。そういったイメージは、転調の多い気だるいハーモニーとメロディ、それらをProToolsを駆使して緻密に練り上げた、エレクトリックでレトロなステレオラブの固有の音楽性が思い出させるのだと思っていた。

 しかし、このアルバムを聴いて少し考えを改めた。それはサウンドやストラクチャーの印象よりもレティシアの声そのものが喚起するイメージではないだろうか。というのも、アルバムの半分を共同プロデュースするリチャード・スウィフトが、彼自身の音楽とそれほど遠くない形で貢献し、残る半分のイギリス録音を同じく共同プロデュースとしてクレジットされているエマニュエル・マリオが、それにコントラストをつけるように、非常にウォームで全体のハーモニーが際立つサウンド(ぼくは『プレヴィサン・ド・テンポ』の頃のマルコス・ヴァーリの音楽を思い出した)を作り出しているにも関わらず、どちらに対しても抱くイメージはいつもぼくがステレオラブを聴く時と変わらなかったからだ。

 アルバム冒頭から「I lost someone precious/ In the depth of my lining/at the heart of my loss/my little sister's voice」と唄いだされるように、彼女の妹、ノエルの死が大きなテーマになっている。しかし、それを知ったとしても、その圧倒的な存在感を示す彼女の声や、共同プロデューサーと綿密に作り上げたサウンドが織りなす、このアルバムの作品性の高さの前には、彼女がアルバム制作を通じて向き合った悲しみや喪失感は、「部屋に戻った頃には既に終わっていて見ていないストーリー」のように、ぼくには思える。見始めた後の美しい映像の断片は、存在したであろうサッド・ストーリーやそのストーリーへのシンパシーよりも、まっすぐにその美しさだけを伝えていく。映画が終わりに近づき、その物憂げな美しさの断片がブラックアウトしてエンドロールが流れはじめると、ラストを飾るスタンダード「サマータイム」がゆっくり重なっていく。アルバムが終わりまだ横になっているぼくの頭に、彼女の声とジャケットの残像のようなモノクロのポートレイトが思い浮かぶ。この映画についてくわしく知ろうとはしないし、この映画の事を鮮明に憶えていられないかもしれない。だが、それが美しい疲労感に満ちたものだということは忘れようがないのだ。

(田中智紀)

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sharon_van_etten.jpg ニューヨーク発のSSW、シャロン・ヴァン・エッテン(Sharon Van Etten)によるセカンド・フルアルバムがBa Da Bingからリリース。前作はヴァシュティ・バニヤン辺りのトラッドなブリティッシュ・フォークを彷彿させる、アコースティック・ギターの弾き語りが主軸となっていた。本盤は転じて、アコースティック・ギターが中心なのはそのままに、周囲をピアノやリズム隊で囲んだバンドスタイルへと変貌した。ブリティッシュ・フォークからポップなフォークロックへと、編成がまるで違うため、前作のファンと今作のファンとでは温度差が生じるかもしれないが、文句なく本盤には名盤の太鼓判を押せる。
 
 励ましになるようなエモーションさとか、力強さとかは別に感じない。上の空というか、能天気でポップだ。ある意味、サッドな前作よりも、彼女の人間味が滲み出ていて人懐っこい。明るみが増したわけではないが、もう寄り添う友情のような音楽ではない。「かわいそうね」と慰めていたのが「まぁ、もっと苦労してる人もいるわよ」と少し突き放すような友情に変化したとでもいうか。
 
 閉塞的で内省的なスタイルが、少しだけ開放的になってきた兆候を見せている。途中経過を示すアルバムかもしれない。ただ散々ポップになったと言いつつ、本盤内のキラーチューン「Love More」は、まだどこかサッドだ。自身のあるべき姿勢に対して揺れ動いているような気がしてならない。揺れ動いているからこそ、人懐っこいのかもしれない。12月の初来日に備えて黙々と聴いているが、やはり素晴らしい...。

(楓屋)

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elliott_smith.jpg 孤高のシンガー・ソングライター、エリオット・スミスがL.A.の自宅にて「I'm sorry-love, Elliott. God forgive me.」という言葉を遺し、自らの胸にナイフを突き刺して命を断ってから(自殺の説が有力であり、当時も自殺として扱われたが、他殺とする説も少なからず存在する)、随分、時が過ぎた。
 
 世界が、彼を失ったのと同じ7年後の秋にリリースされるこのアルバムは、タイトル通り、彼の音楽への入り口としてふさわしい盤となっている。どうしても、その内容ゆえにベスト盤扱いになってしまうのだろうが、当然ながら、故人である彼自身の知り得ない範囲で選曲されたリリースだけあって「ベスト」というニュアンスを用いるのはできるだけ、このレヴューでは避けたいと思う。もう一度、これは、彼の音楽へ、世界へ、今から歩み入ろうというリスナーのためのアルバムなのだ。従って、このレヴューも彼の音楽を、そしてエリオット・スミスという人物を、まだあまり知らないというリスナーに向けたものにしたい。

 端的な彼の情報は、英語版Wikipediaだけに関わらず、日本語版のそれからも相当なものが得られる(現時点でとても良記事であるので、彼に興味がわいたら是非、チェックしてみてほしい)ので、彼の来歴を長々と書く事も避けたいが、彼の紹介を。
 
 エリオット・スミスは、とても綺麗な人だった。それは、成人してもどこかにあどけなさが残る彼の顔立ちや、その透き通る美声だけに限ったことではない。うつ病などの深刻な精神疾患を抱え、数々の脅威や恐怖に苛まれ、アルコールや薬物に耽溺していても、それでも、エリオット・スミスは決してその純粋さを、美しさを手放す事はなかった。名曲「Miss Misery」でアカデミー賞にノミネートしたにも関わらず、数度にわたる自殺未遂の末に、遂には無惨にもそれに成功してしまった、このポートランド出身(生まれこそネブラスカ州オマハであるが、彼のホームタウンはポートランドと言っていいだろう)の青年は、その死の瞬間まで、彼の心に潜む純粋な少年性を失いはしなかったのだ。
 
 彼自身は否定したがるかも知れないが、それでも、たくさんの傷や欠損を抱えた孤高のアーティストの多くがそうであるように、彼にとっての音楽は、相容れない世界と自己を結ぶ強かな祈りの橋でもあったと言えるだろう。彼のソロ・デヴューは90年代前半。グランジやオルタナが全盛を誇った北西部のシーンにおいて、彼の繊細でフラジャイルな美声と、基本的にはアコギ主体の至ってシンプルながらも強かなサウンドは、グランジ(原意は爪垢)に汚れた世界を浄化し得る存在だった。

 このアルバムは、そんな綺麗な彼の、インディー時代から死後に発表されたアルバムまでの全キャリアを網羅する盤だ。しかし、レーベル元がインディー時代のKill Rock Starsだからか、収録曲の時期には偏りがあり、生前、晩年にリリースされた曲は、3曲程度しか入っておらず、大部分がインディー期のキャリアからの選曲になっているのは、少し惜しいところだ。旧来のファンが「あの曲がない!この曲がない!」と言い出せばキリがないが、とは言え、アルバム全体を通して聴いても、全く違和感がなく聴けるよく練られた曲順は、新たなリスナーにとって、非常に最適な彼への入り口となるだろう。
 
 もっとも、彼の書く澄んだ曲は強かな説得力があるので、再生ボタンを押して一曲目が流れた瞬間から、リスナーの心を掴んでしまえるだろう。そこに、「ベスト盤ではなく」だの「収録曲の時期が」だのといったエクスキューズは不要なのかも知れない。
 
 さあ、だからあなたも早く、このレヴューを読んだらすぐに、再生ボタンを押してみてほしい。そして、アルバムが終わる頃には気付くだろう。彼を亡くしてから、彼に匹敵するくらいに澄み切った世界を鳴らせるアーティストは未だにどこにも出て来ていない事に。

 最後に、このアルバムを聴いた後に、更に深く彼の世界へ入り込めるように、オリジナルアルバムの紹介をしておきたい。M-8は彼のソロとしてのキャリアの始まりになる『Roman Candle』に、4,7はセルフタイトルの『Elliott Smith』に、1,3,5,6,9はデンマークの実存主義哲学者、キルケゴールの著作の名を冠したインディー期の名作『Either/Or』に、2、および14はそれぞれ晩年の名盤『XO』、『Figure 8』に、10,11、ならびに12,13はそれぞれ彼の死後に発表された『From A Basement On The Hill』、『New Moon』に収録されている。
 
 どのオリジナル盤も素晴らしいので、このアルバムで気に入った曲が見つかったら、そこからどんどん聴き入ってみよう。

(青野圭祐)

*日本盤は11月17日リリース予定です。【編集部追記】

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the_dirty_cuts.jpg ザ・ダーティー・カッツは、イギリスの4人組バンド。「Yummy Mummy」はセカンドシングルになるけど、ポストパンクのような鋭いギターと、ディスコを意識したベースとドラム。ダブステップ的なロウの使い方も面白い。ディスコティークなポストパンクというと、フランツ・フェルディナンドやラプチャーが思い出されるけど、ザ・ダーティー・カッツは、ダークで危険な香りがするところが良い。吐き捨てるようなヴォーカルも、まるでホストが口説いているみたいで、すごく耳に残る。

 最近ディスコを取り入れているロックが多く出てきているけど、アメリカと違って、イギリスのバンドは、明るいだけじゃない少しひねくれたディスコを鳴らしている。イギリスでは、ダンス・ミュージックがゼロ年代のほとんどを地下で過ごしていたからかも知れない。しかし、ロックにまで、アングラ精神とエッジが宿ったままのダンス・ミュージックが侵入しているのは、すごく興味深い。もしかしたら、サード・サマー・オブ・ラブが起きるための導火線が、あちこちに仕掛けられているのかも知れない。なんてね。

(近藤真弥)

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sekainoowari.jpg 「ツァラトゥストラはこう語った」の中でニーチェは「生」、「認識」という抽象的な概念を二人の「誘惑度の高い」女性の姿に擬人化し、比喩を使うことによって「ツァラトゥストラ」を語ろうとした。二人の女性は「ツァラトゥストラ」を挟んで当然のこと、敵対的な関係にある訳だが、「ツァラトゥストラ」は、本当は「生」だけを愛していると言いながら、「智恵」にも心を奪われているジレンマを持っている。それはこの二人があまりに似ているからだ。認識精神の象徴たるニーチェは、誘惑に苛まれるように、生を愛しているのと同じように、例えば、辛苦しかもたらさない認識であっても、その「認識」も絶対的に必要なものであると言える。切り捨てることなど出来るはずもないからだ。

 だから、単純な二分法で世の中が「語れない」ように、おそらく、皆、それぞれ個々の誘惑に抗い、時に引き裂かれ、跪いている筈だろう。もっと平易に日常に降りていけば、「ダイエットは明日から」でも何でもいいのだけども、その「永遠に来るか来ないか分からない、明日」を「今日」に置き換えて、今日は「これをやる」と決めた人間が或る程度、高度な篩いの中を掻い潜っていき、「鳥居」だけを跨いで、市場に吸い込まれてもいくが、では、その「苦労・努力分」だけの「元を取ろう」として、相応の身分になった途端、人間は「希望の明日」が待っているのか。それは、僕には分からない。
 
"もし 僕らが正しくて 
君らが間違いなら
僕らは戦う運命にあるの?
僕らはいつも答えで 
戦うけど 2つあって初めて答えなんだよ"
(「天使と悪魔」)

 ゲームのような人生を選ぶのか、人生はそもそもゲームなのか、「成功」したら、弾みもつくが、潜めていた深奥の魔的な何かだけはどうにもならない。そして、そこに「誘惑」が忍び込む。「終わりなき旅や煩悶」よりも、今の「正しさ」を選ぶミステイクも一つの道だと言えるとしたならば、バタイユ的な連続性・非連続性の断絶の狭間に欲望は落ち込んでしまうのだろうか。歳月がいずれ、人の本性を暴くとしても、今回、世界の終わりはベタでスタティックな「天使」も「悪魔」も「無い」から、アウフヘーヴェンして、最終的に「否定を否定するという 僕の最大の矛盾は 僕の言葉 すべてでたらめだってことになんのかな」という帰結点に着地してしまう。

 これは、自意識内の大文字の葛藤という所謂、セカイ系のその次の彼岸を意図しているのではないか、とすれば、「自分で自分を爆破するしかない」というレディオヘッドのような極北の原罪性がフラットに今、ありふれた日常に接合されているとも言える。その捩れの一点に注目する分には、僕自身として「答えが誘惑する誤答」しか出来なくなってしまう根本的なエラー理論をかつてのミスターチルドレンやバンプ・オブ・チキン、ラッドウィンプスのように、彼等に当て嵌める事が出来ない隔靴掻痒があり、興味深い。何故ならば、あっけらかんと彼等は直ぐ鼻の先の誘惑、つまり、現時点でそれほど望ましくないことに「敗北」するからだ。敗北した上で、「歌い始める」ファンタジーはJ-POPという甘やかな共犯関係を産み出し易い磁場で一層の拗れ方を起こす。

 条件付け、でだが、「双曲割引」という概念で、彼等の「世界」「終わり」、「天使」「悪魔」はもっと精緻に説明出来る。将来起こることの価値を現時でどう評価するのか、つまりは、どれだけ割り引いて評価するのか。今、5,000円があって、1年後に必ず10,000円あげるよ、と云っても、「今の5,000円を大半の欲望」は選択する。時間的に双曲線で示される価値。矮小で短期的な誘惑は近付く程に大きく視え、まだ遠くにぼんやり見える大きい長期的な価値、見返りよりも、一瞬的に大きい付加性を帯びる。そうすると、彼等にとって「終わり」は誘惑的にそこにあるものかもしれない。
 
 club EARTH設立、「幻の命」、『EARTH』と規模や人気が拡大される中での今回のシングルはある種の彼等の決定打にもなり、また桎梏にもなるかもしれない。サビのフックが印象的で少し幼さは残るが耳につく声、大きい意味の言葉、ストリングスの絡み方が適度に薄い「天使と悪魔」、ポップに弾けた「ファンタジー」は80年代のエレポップのようで軽やかだ。要は「Old-Fashioned」がベタに「Brand-New」になる時代への「正答」を出している。健康的な二曲。
 
 僕は、だから、そんな健康的な彼等のこの無邪気なペシミズムには乗れない部分がある。何故に人の「意志」というものはこんなに不可解で、しかし、「意志がある」ことで、不幸を選ぶという人間の様態まで行ってみる。その上で、「自由」であればこそ、不幸を希求する、生活の富裕に反して空虚感が拭えないという近代社会のイロニーはインストール済みだから、もはや、「意志は負の資産」と計上するべきならば、ここにホイジンガの「19世紀はあまりに<まじめ>な時代だった」という言葉を落とし込んでみると、より浮かんでくる何かはあると思うからだ。彼は「遊びは文化より古い」という歴史家なのは周知だろう。

 そうすると、世界の終わりは、僕には真面目過ぎて、「遊びが足りない」、とても文化的なバンドに視えてしまう。自分自身が文化よりも遊びを選ぶ側に退行(対向)するからなのだが、彼等の尤もな正論の外で、数多の誘惑を担保に入れて、意志の外れの合理性を正当化するように、君の意志と誘惑の駆け引きを「理論」で説明して、躍りたいだけの不誠実な人間なのかもしれないと確認させてくれたシングルであり、このシングルが出した答えの分だけ、世界はまだまだ十全ではないと思わせてくれた、と言うには少し楽観が過ぎるだろうか。
 
 自身として、もう少し微分解析しない限り、手に余る言葉が青いままに投企された意味を翻訳する必要性が要るこの二曲を皆はどう受け止めたのか、気になる。

(松浦達)

2010年11月

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  • キモノズ

    「東洋と西洋の出会い」っていうか、もう出会ってるんですよね、とっくの昔に

  • マニック・ストリート・プリーチャーズ

    俺達はみんなが聴きたい曲をやるというのが基本的な姿勢だよ

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こうふのまちの芸術祭とは、山梨出身・在住アーティストと市民とが協力して行っている芸術祭。曽我部恵一、そしてテニスコーツによるこのライヴは、そのイベントのひとつとして行われた。

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