November 2010アーカイブ

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laetitia_sadier.jpg 夜中に部屋に戻りテレビをつけBSにチャンネルをあわせると、古そうなモノクロのフランス映画が映し出される。ベッドに横になって、タイトルはおろか、詳しいストーリー、役者の名前や相関関係、映画が既にどのくらいすすんでいるのかもわからないまましばらく見ていると、寂しげな音楽とともにエンドロールが流れ唐突に終わる。我に返り、寝る前にしておこうと思ったことをひとつふたつ片付ける。映画について調べようとも思わず、そんな時間があったということだけを、ぼんやりと覚えている。

 ぼくがステレオラブの作品を聴いている時間は、そんな一日の浅い余韻の中で見る映画のように思える。それは彼らの音楽がなにかのサウンド・トラックに似ているというのではなく(もちろん似ていないというわけでもないのだけど)、もうただただ映画のような音楽だ、と感じるのだ。はっきりとしたストーリーよりも映像の断片、雰囲気の方が深い印象を残す。そういったイメージは、転調の多い気だるいハーモニーとメロディ、それらをProToolsを駆使して緻密に練り上げた、エレクトリックでレトロなステレオラブの固有の音楽性が思い出させるのだと思っていた。

 しかし、このアルバムを聴いて少し考えを改めた。それはサウンドやストラクチャーの印象よりもレティシアの声そのものが喚起するイメージではないだろうか。というのも、アルバムの半分を共同プロデュースするリチャード・スウィフトが、彼自身の音楽とそれほど遠くない形で貢献し、残る半分のイギリス録音を同じく共同プロデュースとしてクレジットされているエマニュエル・マリオが、それにコントラストをつけるように、非常にウォームで全体のハーモニーが際立つサウンド(ぼくは『プレヴィサン・ド・テンポ』の頃のマルコス・ヴァーリの音楽を思い出した)を作り出しているにも関わらず、どちらに対しても抱くイメージはいつもぼくがステレオラブを聴く時と変わらなかったからだ。

 アルバム冒頭から「I lost someone precious/ In the depth of my lining/at the heart of my loss/my little sister's voice」と唄いだされるように、彼女の妹、ノエルの死が大きなテーマになっている。しかし、それを知ったとしても、その圧倒的な存在感を示す彼女の声や、共同プロデューサーと綿密に作り上げたサウンドが織りなす、このアルバムの作品性の高さの前には、彼女がアルバム制作を通じて向き合った悲しみや喪失感は、「部屋に戻った頃には既に終わっていて見ていないストーリー」のように、ぼくには思える。見始めた後の美しい映像の断片は、存在したであろうサッド・ストーリーやそのストーリーへのシンパシーよりも、まっすぐにその美しさだけを伝えていく。映画が終わりに近づき、その物憂げな美しさの断片がブラックアウトしてエンドロールが流れはじめると、ラストを飾るスタンダード「サマータイム」がゆっくり重なっていく。アルバムが終わりまだ横になっているぼくの頭に、彼女の声とジャケットの残像のようなモノクロのポートレイトが思い浮かぶ。この映画についてくわしく知ろうとはしないし、この映画の事を鮮明に憶えていられないかもしれない。だが、それが美しい疲労感に満ちたものだということは忘れようがないのだ。

(田中智紀)

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sharon_van_etten.jpg ニューヨーク発のSSW、シャロン・ヴァン・エッテン(Sharon Van Etten)によるセカンド・フルアルバムがBa Da Bingからリリース。前作はヴァシュティ・バニヤン辺りのトラッドなブリティッシュ・フォークを彷彿させる、アコースティック・ギターの弾き語りが主軸となっていた。本盤は転じて、アコースティック・ギターが中心なのはそのままに、周囲をピアノやリズム隊で囲んだバンドスタイルへと変貌した。ブリティッシュ・フォークからポップなフォークロックへと、編成がまるで違うため、前作のファンと今作のファンとでは温度差が生じるかもしれないが、文句なく本盤には名盤の太鼓判を押せる。
 
 励ましになるようなエモーションさとか、力強さとかは別に感じない。上の空というか、能天気でポップだ。ある意味、サッドな前作よりも、彼女の人間味が滲み出ていて人懐っこい。明るみが増したわけではないが、もう寄り添う友情のような音楽ではない。「かわいそうね」と慰めていたのが「まぁ、もっと苦労してる人もいるわよ」と少し突き放すような友情に変化したとでもいうか。
 
 閉塞的で内省的なスタイルが、少しだけ開放的になってきた兆候を見せている。途中経過を示すアルバムかもしれない。ただ散々ポップになったと言いつつ、本盤内のキラーチューン「Love More」は、まだどこかサッドだ。自身のあるべき姿勢に対して揺れ動いているような気がしてならない。揺れ動いているからこそ、人懐っこいのかもしれない。12月の初来日に備えて黙々と聴いているが、やはり素晴らしい...。

(楓屋)

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elliott_smith.jpg 孤高のシンガー・ソングライター、エリオット・スミスがL.A.の自宅にて「I'm sorry-love, Elliott. God forgive me.」という言葉を遺し、自らの胸にナイフを突き刺して命を断ってから(自殺の説が有力であり、当時も自殺として扱われたが、他殺とする説も少なからず存在する)、随分、時が過ぎた。
 
 世界が、彼を失ったのと同じ7年後の秋にリリースされるこのアルバムは、タイトル通り、彼の音楽への入り口としてふさわしい盤となっている。どうしても、その内容ゆえにベスト盤扱いになってしまうのだろうが、当然ながら、故人である彼自身の知り得ない範囲で選曲されたリリースだけあって「ベスト」というニュアンスを用いるのはできるだけ、このレヴューでは避けたいと思う。もう一度、これは、彼の音楽へ、世界へ、今から歩み入ろうというリスナーのためのアルバムなのだ。従って、このレヴューも彼の音楽を、そしてエリオット・スミスという人物を、まだあまり知らないというリスナーに向けたものにしたい。

 端的な彼の情報は、英語版Wikipediaだけに関わらず、日本語版のそれからも相当なものが得られる(現時点でとても良記事であるので、彼に興味がわいたら是非、チェックしてみてほしい)ので、彼の来歴を長々と書く事も避けたいが、彼の紹介を。
 
 エリオット・スミスは、とても綺麗な人だった。それは、成人してもどこかにあどけなさが残る彼の顔立ちや、その透き通る美声だけに限ったことではない。うつ病などの深刻な精神疾患を抱え、数々の脅威や恐怖に苛まれ、アルコールや薬物に耽溺していても、それでも、エリオット・スミスは決してその純粋さを、美しさを手放す事はなかった。名曲「Miss Misery」でアカデミー賞にノミネートしたにも関わらず、数度にわたる自殺未遂の末に、遂には無惨にもそれに成功してしまった、このポートランド出身(生まれこそネブラスカ州オマハであるが、彼のホームタウンはポートランドと言っていいだろう)の青年は、その死の瞬間まで、彼の心に潜む純粋な少年性を失いはしなかったのだ。
 
 彼自身は否定したがるかも知れないが、それでも、たくさんの傷や欠損を抱えた孤高のアーティストの多くがそうであるように、彼にとっての音楽は、相容れない世界と自己を結ぶ強かな祈りの橋でもあったと言えるだろう。彼のソロ・デヴューは90年代前半。グランジやオルタナが全盛を誇った北西部のシーンにおいて、彼の繊細でフラジャイルな美声と、基本的にはアコギ主体の至ってシンプルながらも強かなサウンドは、グランジ(原意は爪垢)に汚れた世界を浄化し得る存在だった。

 このアルバムは、そんな綺麗な彼の、インディー時代から死後に発表されたアルバムまでの全キャリアを網羅する盤だ。しかし、レーベル元がインディー時代のKill Rock Starsだからか、収録曲の時期には偏りがあり、生前、晩年にリリースされた曲は、3曲程度しか入っておらず、大部分がインディー期のキャリアからの選曲になっているのは、少し惜しいところだ。旧来のファンが「あの曲がない!この曲がない!」と言い出せばキリがないが、とは言え、アルバム全体を通して聴いても、全く違和感がなく聴けるよく練られた曲順は、新たなリスナーにとって、非常に最適な彼への入り口となるだろう。
 
 もっとも、彼の書く澄んだ曲は強かな説得力があるので、再生ボタンを押して一曲目が流れた瞬間から、リスナーの心を掴んでしまえるだろう。そこに、「ベスト盤ではなく」だの「収録曲の時期が」だのといったエクスキューズは不要なのかも知れない。
 
 さあ、だからあなたも早く、このレヴューを読んだらすぐに、再生ボタンを押してみてほしい。そして、アルバムが終わる頃には気付くだろう。彼を亡くしてから、彼に匹敵するくらいに澄み切った世界を鳴らせるアーティストは未だにどこにも出て来ていない事に。

 最後に、このアルバムを聴いた後に、更に深く彼の世界へ入り込めるように、オリジナルアルバムの紹介をしておきたい。M-8は彼のソロとしてのキャリアの始まりになる『Roman Candle』に、4,7はセルフタイトルの『Elliott Smith』に、1,3,5,6,9はデンマークの実存主義哲学者、キルケゴールの著作の名を冠したインディー期の名作『Either/Or』に、2、および14はそれぞれ晩年の名盤『XO』、『Figure 8』に、10,11、ならびに12,13はそれぞれ彼の死後に発表された『From A Basement On The Hill』、『New Moon』に収録されている。
 
 どのオリジナル盤も素晴らしいので、このアルバムで気に入った曲が見つかったら、そこからどんどん聴き入ってみよう。

(青野圭祐)

*日本盤は11月17日リリース予定です。【編集部追記】

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the_dirty_cuts.jpg ザ・ダーティー・カッツは、イギリスの4人組バンド。「Yummy Mummy」はセカンドシングルになるけど、ポストパンクのような鋭いギターと、ディスコを意識したベースとドラム。ダブステップ的なロウの使い方も面白い。ディスコティークなポストパンクというと、フランツ・フェルディナンドやラプチャーが思い出されるけど、ザ・ダーティー・カッツは、ダークで危険な香りがするところが良い。吐き捨てるようなヴォーカルも、まるでホストが口説いているみたいで、すごく耳に残る。

 最近ディスコを取り入れているロックが多く出てきているけど、アメリカと違って、イギリスのバンドは、明るいだけじゃない少しひねくれたディスコを鳴らしている。イギリスでは、ダンス・ミュージックがゼロ年代のほとんどを地下で過ごしていたからかも知れない。しかし、ロックにまで、アングラ精神とエッジが宿ったままのダンス・ミュージックが侵入しているのは、すごく興味深い。もしかしたら、サード・サマー・オブ・ラブが起きるための導火線が、あちこちに仕掛けられているのかも知れない。なんてね。

(近藤真弥)

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sekainoowari.jpg 「ツァラトゥストラはこう語った」の中でニーチェは「生」、「認識」という抽象的な概念を二人の「誘惑度の高い」女性の姿に擬人化し、比喩を使うことによって「ツァラトゥストラ」を語ろうとした。二人の女性は「ツァラトゥストラ」を挟んで当然のこと、敵対的な関係にある訳だが、「ツァラトゥストラ」は、本当は「生」だけを愛していると言いながら、「智恵」にも心を奪われているジレンマを持っている。それはこの二人があまりに似ているからだ。認識精神の象徴たるニーチェは、誘惑に苛まれるように、生を愛しているのと同じように、例えば、辛苦しかもたらさない認識であっても、その「認識」も絶対的に必要なものであると言える。切り捨てることなど出来るはずもないからだ。

 だから、単純な二分法で世の中が「語れない」ように、おそらく、皆、それぞれ個々の誘惑に抗い、時に引き裂かれ、跪いている筈だろう。もっと平易に日常に降りていけば、「ダイエットは明日から」でも何でもいいのだけども、その「永遠に来るか来ないか分からない、明日」を「今日」に置き換えて、今日は「これをやる」と決めた人間が或る程度、高度な篩いの中を掻い潜っていき、「鳥居」だけを跨いで、市場に吸い込まれてもいくが、では、その「苦労・努力分」だけの「元を取ろう」として、相応の身分になった途端、人間は「希望の明日」が待っているのか。それは、僕には分からない。
 
"もし 僕らが正しくて 
君らが間違いなら
僕らは戦う運命にあるの?
僕らはいつも答えで 
戦うけど 2つあって初めて答えなんだよ"
(「天使と悪魔」)

 ゲームのような人生を選ぶのか、人生はそもそもゲームなのか、「成功」したら、弾みもつくが、潜めていた深奥の魔的な何かだけはどうにもならない。そして、そこに「誘惑」が忍び込む。「終わりなき旅や煩悶」よりも、今の「正しさ」を選ぶミステイクも一つの道だと言えるとしたならば、バタイユ的な連続性・非連続性の断絶の狭間に欲望は落ち込んでしまうのだろうか。歳月がいずれ、人の本性を暴くとしても、今回、世界の終わりはベタでスタティックな「天使」も「悪魔」も「無い」から、アウフヘーヴェンして、最終的に「否定を否定するという 僕の最大の矛盾は 僕の言葉 すべてでたらめだってことになんのかな」という帰結点に着地してしまう。

 これは、自意識内の大文字の葛藤という所謂、セカイ系のその次の彼岸を意図しているのではないか、とすれば、「自分で自分を爆破するしかない」というレディオヘッドのような極北の原罪性がフラットに今、ありふれた日常に接合されているとも言える。その捩れの一点に注目する分には、僕自身として「答えが誘惑する誤答」しか出来なくなってしまう根本的なエラー理論をかつてのミスターチルドレンやバンプ・オブ・チキン、ラッドウィンプスのように、彼等に当て嵌める事が出来ない隔靴掻痒があり、興味深い。何故ならば、あっけらかんと彼等は直ぐ鼻の先の誘惑、つまり、現時点でそれほど望ましくないことに「敗北」するからだ。敗北した上で、「歌い始める」ファンタジーはJ-POPという甘やかな共犯関係を産み出し易い磁場で一層の拗れ方を起こす。

 条件付け、でだが、「双曲割引」という概念で、彼等の「世界」「終わり」、「天使」「悪魔」はもっと精緻に説明出来る。将来起こることの価値を現時でどう評価するのか、つまりは、どれだけ割り引いて評価するのか。今、5,000円があって、1年後に必ず10,000円あげるよ、と云っても、「今の5,000円を大半の欲望」は選択する。時間的に双曲線で示される価値。矮小で短期的な誘惑は近付く程に大きく視え、まだ遠くにぼんやり見える大きい長期的な価値、見返りよりも、一瞬的に大きい付加性を帯びる。そうすると、彼等にとって「終わり」は誘惑的にそこにあるものかもしれない。
 
 club EARTH設立、「幻の命」、『EARTH』と規模や人気が拡大される中での今回のシングルはある種の彼等の決定打にもなり、また桎梏にもなるかもしれない。サビのフックが印象的で少し幼さは残るが耳につく声、大きい意味の言葉、ストリングスの絡み方が適度に薄い「天使と悪魔」、ポップに弾けた「ファンタジー」は80年代のエレポップのようで軽やかだ。要は「Old-Fashioned」がベタに「Brand-New」になる時代への「正答」を出している。健康的な二曲。
 
 僕は、だから、そんな健康的な彼等のこの無邪気なペシミズムには乗れない部分がある。何故に人の「意志」というものはこんなに不可解で、しかし、「意志がある」ことで、不幸を選ぶという人間の様態まで行ってみる。その上で、「自由」であればこそ、不幸を希求する、生活の富裕に反して空虚感が拭えないという近代社会のイロニーはインストール済みだから、もはや、「意志は負の資産」と計上するべきならば、ここにホイジンガの「19世紀はあまりに<まじめ>な時代だった」という言葉を落とし込んでみると、より浮かんでくる何かはあると思うからだ。彼は「遊びは文化より古い」という歴史家なのは周知だろう。

 そうすると、世界の終わりは、僕には真面目過ぎて、「遊びが足りない」、とても文化的なバンドに視えてしまう。自分自身が文化よりも遊びを選ぶ側に退行(対向)するからなのだが、彼等の尤もな正論の外で、数多の誘惑を担保に入れて、意志の外れの合理性を正当化するように、君の意志と誘惑の駆け引きを「理論」で説明して、躍りたいだけの不誠実な人間なのかもしれないと確認させてくれたシングルであり、このシングルが出した答えの分だけ、世界はまだまだ十全ではないと思わせてくれた、と言うには少し楽観が過ぎるだろうか。
 
 自身として、もう少し微分解析しない限り、手に余る言葉が青いままに投企された意味を翻訳する必要性が要るこの二曲を皆はどう受け止めたのか、気になる。

(松浦達)

2010年11月

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  • キモノズ

    「東洋と西洋の出会い」っていうか、もう出会ってるんですよね、とっくの昔に

  • マニック・ストリート・プリーチャーズ

    俺達はみんなが聴きたい曲をやるというのが基本的な姿勢だよ

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こうふのまちの芸術祭とは、山梨出身・在住アーティストと市民とが協力して行っている芸術祭。曽我部恵一、そしてテニスコーツによるこのライヴは、そのイベントのひとつとして行われた。

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