コーネリアス『Fantasma』(Warner Japan)

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cornelius.jpg ヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』は「芸術作品は、原理的には常に複製可能であった」と書き出される。中でも、19世紀の中頃に登場した「写真」という媒体こそが複製芸術の革命的な転機として位置付けされるが、その技術を逆手にとって差異を均したのがアンディー・ウォーホールであり、以降のモダン・アートの宿命に「複製」を巡っての距離感が欠かせなくなる。

 しかし、複製されていけばいくほど、「オリジナル」と変わらない唯一無二の存在であり、それに依拠する芸術の「真正性」を示す事になったのは皮肉としか言いようがなく、更に、複製の複製をメタ認知していく磁場が現代の前提と「なってしまった」ならば、オリジナルの作品のみが持つ「アウラ」という言葉は記号化するのが先か、意味に落とし込まれてウィキペディアやグーグルの侵犯を許してしまうのが先か、の競争になってしまう。

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「渋谷系のエッジ」、フリッパーズ・ギターとして無数のサンプリングをカット・アンド・コピーして表層的にポストモダンの最前線を走ったコーネリアスこと小山田圭吾は最初から「様々な物が出揃っている時代の寵児」だった。だから、「借り物性」を表明し、自分のオリジナリティを示す事でアイデンティティや自意識の難渋さを回避していた。

 思うに、是が非でもコーネリアスとしての始発点は「渋谷系の集大成」のような『The First Question Award』でならなければなかったのかもしれないし、或る種のオブセッシヴな集合的無意識の要請が彼の音をそう「規定」していた枠を外れる事が出来なかったのかもしれない。とすると、創り手の意思とは「非」関係に作品というのは予期設定されているタイム・ボムのような危うさを孕んでこないだろうか。その爆発までの「基準閾値」を更に引いて視た際に、どんな音楽もリアリズムの壁を越える事が出来ない辛苦を孕む。その「リアリズム」に真正面から向かい合ったのがフリッパーズ・ギターのもう一人、小沢健二だったとしたら、彼が『LIFE』で背負った傷痕も同時に非常に根の深いものになってしまったと言える。そして、「引用と言葉の人」だった彼はどんどん言葉数を減らしていき、沈黙に近いフュージョンのような作品に行き着き、今年のような畏まった形でのリサイタルが行なわれるようになったのは皮肉だが、時代に負けたのかもしれない。

 時代とは社会の共約可能性があって初めて「成立」するものだから、今、自己のイメージ管理の罠について滔滔と語る小沢健二の反グローバリゼーションの姿勢は少なくとも、僕自身には「遊び」が足りない、旧態的な<左>軸を想起させた。思えば、最初は旧態的な<左>軸に居た小林よしのりが90年代に右旋して掲げた「大きな物語」が通用する瀬とは幸福だったのだと思う。大風呂敷を拡げても、それをスルーするでもなく、認知してくれる場所があったからだ。だから、ミスター・チルドレンも小沢健二も悠然と構えていることが出来た。やはり、確実にフェイズが変わったのは9.11以降であり、グローバリゼーションの進捗に起因するだろう。社会学の曖昧さから政治学の急進性へ一気に傾ぎ、同時に「地球市民」だとかの危うい言葉も行き来しだした。その「危うさ」は集団的恐慌状態の一歩手前の状態ともいえ、その常態を庇うような芸術作品は必然的に各々に適用するものにならないといけなくなった。そうなると、日本からワールドワイドに展開して誤配も少なく、勝つ為に引用数を減らし、最大限まで音をシェイプして、バンドとして音を鳴らしながら、高度なVJをリンクさせるモデルまで行った『Point』以降のコーネリアスは鮮やかだった。アートの臨界点とロックのカタルシスを同時に共存させながら、ドライヴさせてゆく手捌きは世界中のインディー・キッズからアーティストまでを魅了した。

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 よく『Point』以前/以降のような言い方もされるが、僕は精確には今の流れは既に『Fantasma』で待備されていたと思う。1997年のリリース当初は沢山の音が詰め込まれたガジェット的な意匠が前景化しており、レディオヘッドやプロディジーのような「足し算の音楽」が多かった雑音の中に埋もれてしまうような危うさもあった。それでも、セカンドのヘヴィ・メタルやハード・ロックで固めた『69/96』よりも同時代性もあり、何より鮮やかな「音響工作の美」が溢れていた。缶のプルトップを開ける音からマイク・チェックが始まり、そのまま作品が始まるという画期的なスタジオ(そこ)とここを繋いだスムースな導線。今まで、「ここ」に居る人は「そこ」は夢想しか出来なかったが、その夢想をより近しいものした上で、音をキャンパスに描くように塗り込む所業が目に浮かぶというのは新しかった。

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 その『Fantasma』が砂原良徳のリマスターの上、全面改訂された形でオリジナル・リリースから10年以上の歳月を経て2010年に、届けられた。「今の耳」で聴くと、見事に時代の風化を避けている、どころか、全く旧さを感じさせない点は改めて唸らされる。エレファント6界隈からシカゴ音響派、果てにポスト・ロックと呼ばれる音まで跨ぎ、要所にナード的な拘りも見せるコントロール・フリークな様はマッドながら、至極、シビアで、これにデーモン・アルバーンやハイ・ラマズのショーン・オヘイガンなどの人一倍癖のあるアーティストが称賛を寄せたのも然もありなんか、というくらい、「面白い」だけでは済まない奥の深さがあるアルバムである。

「奥の深さ」―そういったものに一番、無縁であった筈のコーネリアスが表層の表面を滑っていく事でメビウスの輪のように捩れていつの間にか深層を抉っていたのは今だからこそ、感心するが、相当な知的体力がいった事も推察出来る。何故ならば、この後に『Point』や『Sensuous』といったオリジナル・アルバム、数多の秀逸なリミックス・ワークス、膨大なツアーがあり、"コーネリアス"というアウラが礼拝価値から展示価値へと移行したとも言えるからである。だから、「コーネリアス印の音」が幾ら複製されようが、複製される事を弁えているからこそ、逆説的に価値は「高まる」。

 8cmシングルを二枚同時に掛けると一つの曲になるというドラムンベースを取り入れた「Star Fruits Surf Rider」から、数字の1から6まで数えるだけの歌詞のギターロック「Count Five Or Six」、彼のサンプリング・センスが冴えるポップでカラフルな「Monkey」など、『Fantasma』の曲群はブライトフルでもあり、また、無邪気に音楽と戯れている心地良さがある。その点ではよりアート方面へ傾いでいく前夜のカーニバルのような狂騒をパッケージングした作品であり、それを例の音の粒子が浮きあがって聴こえるような意匠を凝らす丁寧な砂原良徳氏のリマスタリングで、よりダイレクトに耳に新鮮な刺激を与えてくれるものになった。初回限定版には本編ディスク以外に、『Fantasma』前後の音源、リミックス、デモなどが収められたディスク2とライヴ等が含まれたDVDが付くが、コーネリアスが立ち上げたトラットリアという今は無くなったレーベルのコンピーレションに入っていた「Lazy」や「The Micro Disneycal World Tour」の原曲の持つ全面的な多幸性を再解釈して、少し不穏な要素も入れたハイ・ラマズのリミックスなど聴きどころも多い。

『Fantasma』の音風景は、『Point』や『Sensuous』に比べると、まだラフ・スケッチの部分があり、当時の渋谷や原宿のイメージを幻像化させていたとしたら、「情報を多く持っている方が勝ち」の時代の最後の通行手形のようなものだったのかもしれない。今は「情報はより少なく、大事なものだけで身軽な方が良い」という時代に反転してしまったからだ。そういう意味で、精巧な再現表象能力によってアーティストのメチエのあり方を厳しく問う一方で、夥しい複製を流通させ、引用によって成立する世界観を形成し、人々の知覚や記憶の在り方をも大いに変容させてしまった時代に毅然と立ち向かった証拠資料のような作品である。

(松浦達)

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