ステレオラブ『ノット・ミュージック』(Duophonic / Drag City / Hostess)

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stereolab_not_music.jpg クラウトロック・テイストや旧時代のアナログ・シンセサイザー・サウンドを採りいれつつ、ロック登場以前の「ラウンジ」ポップ・ミュージックの魅力とポスト・パンク的先鋭性を同居させたステレオラブの音楽は、1990年の結成以来ぼくらに刺激を与えつづけてくれた。

 1999年の『Cobra and Phases Group Play Voltage in the Milky Night』以降、ブラジル音楽のエッセンスなども導入しはじめた...とはいえ、フランス人女性レティシア・サディエールも敬愛する(やはりフランス人女性シンガー)ブリジット・フォンテーヌ/サラヴァ・レコーズを思わせる「一筋縄ではいかない」消化方法をとっていたというか。

 2008年の前作『Chemical Chords』発表時にクッキーシーンがおこなったインタヴューで、レティシアはブリジット・フォンテーヌについて、こんなふうに語っている。

「彼女は、わたしにとってすごく特別な人。27歳くらいになるまで、それまでも歌ってはいたんだけど、わたしは他のどのシンガーにも感情移入できないと思ってた。でもブリジットのうたに出会って、本当にソウル・シスターにめぐりあったように感じたの。政治や中絶の問題、人間関係なんかへの考え方や対応の仕方...本当に共感を覚えたわ。現実と向きあいながら、それを芸術としてポエティックに表現することができる人がここにいる、って思った!」

 ステレオラブの新作『Not Music』は、彼女のブリジットに対するこんなコメントがそのままずばりあてはまるような、傑出したアルバムとなっている。

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『Chemical Chords』制作時に録音されたけれどそこで使われたなかったトラックを集めたもの...という情報をまず入手して「えっ、単なるレア・トラック集? 残りもの?」みたいに最初は思った。しかし実際に聴いてみると、そのあまりの良さに驚いた。正直『ケミカル・コーズ』より全然いいのでは? それどころか(今のところ、筆者がステレオラブのすべてのアルバムのなかで断トツで一番好きな)1996年の『Emperor Tomato Ketchup』とためをはるほどの「挑戦心」にあふれた作品ではないか? 前作発表時のインタヴューをあらためて見なおしてみると、レティシアはこうも言っている。

「(そのアルバムに収録しようと思ったトラックは)全部で31曲もあった。最初はうまくのれなかったかな。でもアルバムの半分をすぎたころから、やっと本当に慣れてきて、気に入って曲を作れるようになった。『Chemical Chords』は、その全体(31曲)の約半分なのよ。いつになるかわからないけど、この次に出る残りの部分を使ったアルバム(注:『Not Music』となった部分)のほうが、たぶんもっと楽しんで、気に入って作れているんじゃないかな(笑)。より多様性にあふれているし、今回のものよりもうちょっとダークでストレンジなものになるでしょうけど、わたしはそっちのほうが気に入ると思う。リズムにもヴァリエーションがあって...。まあ、わたしの個人的な意見だけどね(笑)」

 ぼくも同意見だ(笑)。ダークというよりインテンシヴ(intensive)。ここにおけるリズムやアレンジの多様性は、最近のポップ・ミュージックの世界では稀有とさえ言えるものだ。しかし、それを無駄にたれながしてはいない。徹底的に抑制が効いている。ときには(ほんの一瞬だが)ヤング・マーブル・ジャイアンツを思わせるほどに。

 選びぬかれた言葉だけを使い、極限までとぎすまされた歌詞も、そんな構成に一役買っている。ブリジット・フォンテーヌがそうであるのと同じような意味で「政治的」なメッセージがそのあいだに見え隠れするさまは白眉であり、レティシアと並ぶ中心人物(ギター担当。歌わない)ティム・ゲインが90年代に参加していたマッカーシー(「左翼的」と言われていた。元マニック・ストリート・プリーチャーズのリッチーは彼らの大ファンだった)より格段に高いレベルで、それをなしとげている。

「とても混乱していて 識別できない/『高潔さ』という概念に困惑している/元来 曖昧なもの(であるはず)/不確定性にあふれ 輪郭も不明瞭/そのなかに/本当に高潔な存在...虚飾のない真実がある」(「Leleklato Sugar」より)

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 アルバムのちょうど中間地点である6曲目ではチキン・リップスのアンドリュー・チャームことザ・エンペラー・マシーンが、本編ラストの13曲目ではディアハンターのブラッドフォード・コックスことアトラス・サウンドがミックスを担当している(なお、日本盤にはボーナス・トラックとして14曲目に、アトラス・サウンドのより「奇妙な」ミックスが収録されており、さらに深い余韻を残してくれる)。

 これを「純血主義」的に「バンドのメンバー以外がそこまで深い役割を負ってもいいの? やっぱ、これは『イレギュラーな』作品じゃない?」とネガティヴにとらえるかどうかが、このアルバムを楽しめるかどうかの境目になっている...ような気もする。

 音楽は、もっと「自由に」とらえていいんじゃない? 本サイトにおけるエドウィン・コリンズのインタヴューのところでも述べたけれど、「バンド」という概念さえ曖昧になってきているのが「今」の趨勢なのではないだろうか?

 だいたい、先日「いったん活動休止する」ことをアナウンスし、レティシアもソロ・アルバムをリリースしたあとに、突然『Not Music』なんてタイトルでアルバムを発表するなんて、杓子定規...大袈裟に言えば「官僚的」にとらえたら、まったくわけのわからない行為だ。

 でも、そこがいい。

「さまざまな真実の最も美しい面は/なんの役にも立たない それが/本当に深くて すごくダイレクトな/個人的体験に基づいたものでないかぎり」「それは誰かの手中に固定されることもない/浸透することは稀なケース/だけど人々の心に届くものとなれば/『真実』を『知る』必要なんかない 『体験』して『学ぶ』べきだ」(「Everybody'S Weird Except Me」より)

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 ティムやレティシアとほぼ同世代である筆者は、70年代の末から80年代初頭のポスト・パンク期に、どっぷりと音楽につかりはじめた。当時は「極端にアヴァンギャルドな」ものがもてはやされており、ぼくが通っていた高校の近く(愛知県西三河地方の地方都市)の小さな(日本盤専門)レコード店には、そういったロック系の奇妙な音楽のみならず「現代音楽」系のミュージック・コンクレートや騒音派などのLPも並べて置いてある小さなコーナーがあって、「非音楽」と名づけられていた。

 本作で聴ける音楽は、それよりずっとポップだけど、『Not Music』というタイトルと、この「自由な」センスにふれて、そんなことを思い出してしまった。

 アトラス・サウンドやザ・エンペラー・マシーンの参加もありさらに多様性を増したリズムの幻惑的魅力も、ヒップホップなどを聴きなれた耳からすると少し脆弱というか、むしろ「現代音楽」に近いと感じられる部分もある。それも彼らならでは。例の「31曲」の制作に関してレティシアが語った、こんな言葉も引用しておこう。

「フランスでも、ロンドンでもレコーディングした。ティムはベルリンに住んでるからベルリンで曲を書いてたし。ということは、ヨーロッパ全土にわたって制作していたと言えるのかな(笑)。そう、これはヨーロッパのレコードなのよ(笑)」

 自らの立脚点に真っ正面から向きあってるからこそ、ここでのステレオラブは、ものすごく「身軽」だ。「とりあえあず(活動休止したので、当面の)ラスト・アルバム」といった「重さ」も存在しない(たとえばLCDサウンドシステムのジェームス・マーフィーが、サード・アルバムについて語っていたトーンと同じように)。それでも、アルバムのラスト近くでは、こんな言葉が歌われている。それをどうとらえるかは、あなたの「自由」だ。

「心こそが統治者/それは真実の攪拌機...打つ道具であり/決断をもたらすもの/賞賛せよ/ドラマーたちを/究極的に」「同点決勝試合/祝福せよ/ドラマーたちを/最後に」(「Aelita」より)

(伊藤英嗣)

*日本盤は11月17日リリース予定です。【編集部追記】

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