虚弱。『donguribouya』demoCD(Self-Released)

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kyozyaku.jpg 都内を中心に活動中の、平成生まれ女子4人インストゥルメンタル・ポップバンド、虚弱。の2nd demo『donguribouya』。

 重低音の効いたベースサウンドに、繊細なタッチのドラムによって構成されるリズム。その上に響く透明感のあるピアノの音に、曲の軸となる一本のギターサウンドが多彩に変化し、織り混ざり、曲が紡がれて行く様子は聞き手に対して壮大で繊細な物語を感じさせる。

 唐突だが、人間にとって言葉は特別な存在だ。人は言葉によって思考する部分が大きい。メロディーに言葉がのせられ、それが頭に入ってきたとき、そこに浮かぶ情景、色、空気、温度など、言葉は人の思考や完成のさまざまな部分に大きく影響してくる(もちろん他にも様々な要因はあるけれど)。聞き慣れた曲を歌がない状態で聞いた時に感じる不思議な感覚を、誰しも一度くらいは経験したことがあるのではないだろうか。
 
 この虚弱。の曲には歌、つまりは言葉が全くない。けれど、確実に楽曲からは言語といった伝達手段のレベルを越えた、何か訴えるものを感じとることが出来る。言葉が無く、音だけで表現されているからこそ気付いたりすることのできる感情、そして言葉によって縛られないからこそ感じることの出来るものがある。普段、歌の無い音楽はあまり聞くことがないとか、そういうった些細なものを取り払う懐の深さと奥行きを持った作品である。

 そしてインストゥルメンタル・バンドであるが故に、その独創的な世界観を成立させている希有なバンドだ。虚弱。というバンドの曲が持つ物語の最大の魅力が、研ぎ澄まされた「理性」と、それに背中合わせな存在である強靭な「意志」だ。「理性」には強い論理性や想像力によって成り立ち、「意志」というのは表現への渇望と言い換えられるかもしれない。
 
 インスト・ポストロック的な要素の一部ともいえる幾何学さを感じさせる、変拍子を含んだリズムや展開から感じることのできる論理性やアイディア。そこへ表現に対する渇望、狂気、破壊、葛藤、美しさといった強靭で、非常に人間的な「意志」を感じさせる様々なサウンドがぶつかった時に生まれる物語は、届きそうで届かない空想的で抽象的な感覚と、現実的で身近に感じられるような感覚をあわせ持った世界を見せてくれる。それはとても魅力的だ。

 もうちょっと話を具体的な方向へ引き戻せば、そういった人の感情に訴えかけるようなサウンドの選択が非常に素晴らしい。グロッケンの音や、生音に近いピアノの音。4人編成でギターは一本しか無いのだが、音源同様に、ライブでも一本とは思えない程のノイズ・ギターや、音が空間を流麗に進むようなディレイ・ギターなど、多彩な音を使い分けておりセンスを感じる。

 少し話は逸れるが、推理小説の祖であり、詩人であったエドガー・アラン・ポオは『構成の原理』という著作の中で"大抵の作家、ことに詩人は、自分が一種の美しい狂気というか、忘我的直観で創作したと思われたがる"そして、自作の詩に対しては"構成の一点たりとも偶然や直観に帰せられることなく数学の問題のような正確さと厳密な結果をもって完成されたもの"と述べている。つまり、簡単に言ってしまえば彼にとって創作は理性的なものであったということだ。

 なぜこんな話を持ち出したかと言うと、音楽やアートなどの芸術は、それを聞いたり鑑賞したりする側に立つと、狂気や情熱にとりつかれ、そこに作り手の自我はなく、インスピレーションのみによって生まれ落とされるように見えることが僕にはある(もちろんそういうものも存在すると思う)。そのインスピレーションの偶然性のようなものを、天才的と表現したりするわけだ。そしてそれを見ることにより、作り手と、受け手の間になにか見えない断絶のような物を感じてしまうことがある。

 けれども、そういったロマン主義的なものではなく、さきほど引用したポオ的な態度である「理性」と「意志」を強く感じさせる虚弱。のようなアーティストが僕はとても好きだ。誤解の無いように言えば、「理性」と「意志」を持って創作に向かうということは、もちろんそこに天才的な直観やセンスが無いといった意味では全くない。つまり、ポオの言葉を借りれば「忘我的」なのではなく、自分に対して向き合い、そうした行為の中で素晴らしい芸術を生み出しているということだ。

 そして、それがこうして人に伝わり、物語を感じさせられるということ。それは確実に紛れも無い才能だし、「天才」だ! と僕は呼びたいな。

(陰山ちひろ)

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