世界の終わり「天使と悪魔/ファンタジー」CDS(Lastrum)

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sekainoowari.jpg 「ツァラトゥストラはこう語った」の中でニーチェは「生」、「認識」という抽象的な概念を二人の「誘惑度の高い」女性の姿に擬人化し、比喩を使うことによって「ツァラトゥストラ」を語ろうとした。二人の女性は「ツァラトゥストラ」を挟んで当然のこと、敵対的な関係にある訳だが、「ツァラトゥストラ」は、本当は「生」だけを愛していると言いながら、「智恵」にも心を奪われているジレンマを持っている。それはこの二人があまりに似ているからだ。認識精神の象徴たるニーチェは、誘惑に苛まれるように、生を愛しているのと同じように、例えば、辛苦しかもたらさない認識であっても、その「認識」も絶対的に必要なものであると言える。切り捨てることなど出来るはずもないからだ。

 だから、単純な二分法で世の中が「語れない」ように、おそらく、皆、それぞれ個々の誘惑に抗い、時に引き裂かれ、跪いている筈だろう。もっと平易に日常に降りていけば、「ダイエットは明日から」でも何でもいいのだけども、その「永遠に来るか来ないか分からない、明日」を「今日」に置き換えて、今日は「これをやる」と決めた人間が或る程度、高度な篩いの中を掻い潜っていき、「鳥居」だけを跨いで、市場に吸い込まれてもいくが、では、その「苦労・努力分」だけの「元を取ろう」として、相応の身分になった途端、人間は「希望の明日」が待っているのか。それは、僕には分からない。
 
"もし 僕らが正しくて 
君らが間違いなら
僕らは戦う運命にあるの?
僕らはいつも答えで 
戦うけど 2つあって初めて答えなんだよ"
(「天使と悪魔」)

 ゲームのような人生を選ぶのか、人生はそもそもゲームなのか、「成功」したら、弾みもつくが、潜めていた深奥の魔的な何かだけはどうにもならない。そして、そこに「誘惑」が忍び込む。「終わりなき旅や煩悶」よりも、今の「正しさ」を選ぶミステイクも一つの道だと言えるとしたならば、バタイユ的な連続性・非連続性の断絶の狭間に欲望は落ち込んでしまうのだろうか。歳月がいずれ、人の本性を暴くとしても、今回、世界の終わりはベタでスタティックな「天使」も「悪魔」も「無い」から、アウフヘーヴェンして、最終的に「否定を否定するという 僕の最大の矛盾は 僕の言葉 すべてでたらめだってことになんのかな」という帰結点に着地してしまう。

 これは、自意識内の大文字の葛藤という所謂、セカイ系のその次の彼岸を意図しているのではないか、とすれば、「自分で自分を爆破するしかない」というレディオヘッドのような極北の原罪性がフラットに今、ありふれた日常に接合されているとも言える。その捩れの一点に注目する分には、僕自身として「答えが誘惑する誤答」しか出来なくなってしまう根本的なエラー理論をかつてのミスターチルドレンやバンプ・オブ・チキン、ラッドウィンプスのように、彼等に当て嵌める事が出来ない隔靴掻痒があり、興味深い。何故ならば、あっけらかんと彼等は直ぐ鼻の先の誘惑、つまり、現時点でそれほど望ましくないことに「敗北」するからだ。敗北した上で、「歌い始める」ファンタジーはJ-POPという甘やかな共犯関係を産み出し易い磁場で一層の拗れ方を起こす。

 条件付け、でだが、「双曲割引」という概念で、彼等の「世界」「終わり」、「天使」「悪魔」はもっと精緻に説明出来る。将来起こることの価値を現時でどう評価するのか、つまりは、どれだけ割り引いて評価するのか。今、5,000円があって、1年後に必ず10,000円あげるよ、と云っても、「今の5,000円を大半の欲望」は選択する。時間的に双曲線で示される価値。矮小で短期的な誘惑は近付く程に大きく視え、まだ遠くにぼんやり見える大きい長期的な価値、見返りよりも、一瞬的に大きい付加性を帯びる。そうすると、彼等にとって「終わり」は誘惑的にそこにあるものかもしれない。
 
 club EARTH設立、「幻の命」、『EARTH』と規模や人気が拡大される中での今回のシングルはある種の彼等の決定打にもなり、また桎梏にもなるかもしれない。サビのフックが印象的で少し幼さは残るが耳につく声、大きい意味の言葉、ストリングスの絡み方が適度に薄い「天使と悪魔」、ポップに弾けた「ファンタジー」は80年代のエレポップのようで軽やかだ。要は「Old-Fashioned」がベタに「Brand-New」になる時代への「正答」を出している。健康的な二曲。
 
 僕は、だから、そんな健康的な彼等のこの無邪気なペシミズムには乗れない部分がある。何故に人の「意志」というものはこんなに不可解で、しかし、「意志がある」ことで、不幸を選ぶという人間の様態まで行ってみる。その上で、「自由」であればこそ、不幸を希求する、生活の富裕に反して空虚感が拭えないという近代社会のイロニーはインストール済みだから、もはや、「意志は負の資産」と計上するべきならば、ここにホイジンガの「19世紀はあまりに<まじめ>な時代だった」という言葉を落とし込んでみると、より浮かんでくる何かはあると思うからだ。彼は「遊びは文化より古い」という歴史家なのは周知だろう。

 そうすると、世界の終わりは、僕には真面目過ぎて、「遊びが足りない」、とても文化的なバンドに視えてしまう。自分自身が文化よりも遊びを選ぶ側に退行(対向)するからなのだが、彼等の尤もな正論の外で、数多の誘惑を担保に入れて、意志の外れの合理性を正当化するように、君の意志と誘惑の駆け引きを「理論」で説明して、躍りたいだけの不誠実な人間なのかもしれないと確認させてくれたシングルであり、このシングルが出した答えの分だけ、世界はまだまだ十全ではないと思わせてくれた、と言うには少し楽観が過ぎるだろうか。
 
 自身として、もう少し微分解析しない限り、手に余る言葉が青いままに投企された意味を翻訳する必要性が要るこの二曲を皆はどう受け止めたのか、気になる。

(松浦達)

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