「詰められた瓶の音楽は漂流した先に何処に届くのか?」論察の件

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ongaku.jpg 例えば、アドルノが抱いた思想の主軸をなしているものは「近代において人間はどのように人間的でありうるのか?」ということに集約される。それを考えると、主体的に「音楽を書くこと」は「漂流する瓶に詰められた願い」を海に流す行為であり、それは聴衆を無視して、ひたすらわけの分からないことを書き続けるのとは違う―つまり、誰かが拾ってくれることを祈って、真摯に書かれる「べき」音楽である筈とも言える。その音楽には、作り手と聴衆との「間」に、偶然と言っても良い出会いによってミメーシスが行われることへの希望が込められている。

 だからこそ、今、「音楽を聴く」という行為自体を、再定義しないと、このまま、相変わらずの印象批評が飛び交ったり、「良/悪」の二元論で帰着してしまったり、音質(温室内)問題であれこれ右顧左眄したり、歴史改竄されてしまったり、ファイルの中に、フェスの中に、音楽が埋もれてしまったり不健康なことこの上ない、と感じる。ただでさえ、難渋な世界になったな、と痛感する事が増えてきた昨今ゆえに。

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 私事になるが、面と向かって「音楽に対峙した」のは高校生の頃だった。94年辺り前後の、渋谷系、J-ROCK、小室系、ブリット・ポップ、オルタナティヴ、モダン・ジャズ再発、ワールド・コーナー充実など華やかなりし頃で今とは比べ物にならないものの、兎に角、情報量は凄い量があった。

 ヘッドホンの中で拡がる軽快な自由の「気配」に魅かれつつ、レンタル・ショップで只管CDを借りて、様々な文献を紐解き、それでも「井の中の蛙」を自覚しながら、井戸の上に広がる空の深遠さを信じていた。周囲は卑近な空に溺れていたから、僕は「遠い空」を夢想する事にした訳だが、どうにも孤独なものだった。エアロスミスやらボン・ジョヴィがデフォルト的にラジカセから流れたりするクラブの部室で、フリッパーズ・ギターやペイル・ファウンティンズやベックなどを掛けようが「認知」もされなかったし、それが「代案(オルタナティヴ)」として出来るにはヴォキャブラリーも悲しいくらい「感性論」の壁の前で何も出来なかった。音楽は各々の感性に収斂すればいいもので、別に強制するものでも何でもない。それは分かっていたが、何故かもどかしかった。

 00年代で一気にギアが入った。プロディガル・サンとして彷徨している時に、兎に角、凄まじい熱量で色んな音楽を聴き、血肉化して、呼吸をして、ヘッドホンやステレオ越しに、セックスやアルコールやドラッグといったものの青春のシンボリズムの先の不健康な、希望的な何かへリーチしようとしていたし、ふと音楽に飲み込まれそうな自分さえ居た。碌な味方なんて殆ど居なかったけど、少しの「理解者」はいたので、迷わず舵を切った。鬱と不安と将来への茫漠とした虚無、デート、ラヴ・アフェア、文学全集、哲学・思想本、膨大な時間、刃物のような集中力と、無数の音楽とも言えない音楽。更にそれを覆うほどの音楽。あらゆるものに包囲されながら、エディ・ヴェダーの云う「ロープ」のようなものとして、音楽を握っている時は何となく「この、どうでもいい後付けで出来た世界」の仮構性を受容出来る様な「気」がしていた。でも、「気分」なので直ぐ蒸発した。

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 そもそも僕個人的に「絶対」なんかは信じていない。世の中は「相対的」なものだと想うし、「絶対」という蛸壺に自分を持っていった途端、その人の信念がエッジとして「鈍化」するような気がする。「自分は絶対だ」と「ストイシズム」どうこうは違う。自分を信じる事(I need to be my self)は大事だし、「自分を"在る"ということ」を弁えるのも肝要だが、人間は「関係性の生き物」であって、関係性とは、誰かを想う事により、自分が再規定される、ということでもあり、即ち、自分を想うという事は必然的に「誰か」を想定されないと「いけない」と思う。

 となると、スキゾ的な何かや、引きこもり、自意識内で「完結」してしまっている人の目には何が映っているのか、と言うと、それは「書割」の世界だろう。「書割の世界」―自己充足して、マスターベイティングな様式美、はたまた、自家中毒的なデッドエンド。宗教学、政治学、経済学...白黒が出てしまう領域に僕がそれほど、アディクト出来ないながらも、一応魅かれてしまうのは、白黒を見詰め続ける事で、グレイ・ゾーンが可視化出来るようになるというのもある。

 自分が修めている「経済学」とは本当に突き詰めると、「黒白」を「理論」で説明するのでも、起こった現象を後付けで補強するものでも、預言的な事を言うものでもない。ただ、「思考的な視力が上がるもの」なのだ。思考的視力が上がるという事は「生き易くなる」という事でもある。だから、僕は戦争不安神経症なりヒポコンデリアなり色々抱えているし、根源的には人嫌いだが、それを悲惨だと想った事はなくて、そういったタイトロープ上を積み重ねてきて、今はグンと生き易くなってきてもいる。ただし、知れば知るほど楽になるよ、という発言を自重しないといけないのは、情報と知識を履き違えてしまって、「潰れてしまう」ケースを間近で見てしまうのもある。

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「音楽」というものは、「実体」は無い。そして、もっと言うと「あっても、なくてもいい」ものかもしれないし、例えば、僕が海外に行く度に、民俗的なものや宗教的なものと音楽って本当に密接に結びついていて、ちゃんとその分野や聴いているものによってトライヴが分かれているのだな、と想って、色々考察の対象になるのだが、単純に言えば、USのヤッピーとか中国のニューリッチ層とかがコールドプレイやマルーン5をよく聴いている。それは彼等がロック/ロックじゃない、じゃなくて、単純にチルアウト、ガス抜き装置として機能しているだけであって、別に彼等に纏わるゴシップや彼等のベタッとした「薄さ」はどうでもよく、BGM的に「機能」すればそれでいい。でも、それも「音楽」としてその場で空気を揺らせている。

 比して、世界のインディー・キッズ達はもうファイル交換などし合って凄まじい量の音楽を聴き貪っていたり、ちゃんとしたユニティや共同体が出来ているのは周知だろう。今は音楽を聴こうと想えば、只管聴けるようになったしライヴ現場も用意されているが、リテラシー能力が断然下がってきてもいるし、「偏差値」的なもので言えば、文脈を敷いて、ちゃんと意味内容と必然の中でその音楽が鳴っているという事を「説明出来る」人が蛸壺化し過ぎているし、そうではない人達はディグするサウンド・ツリーの深淵さを何処かで放棄して刹那的に耽溺している様な気がする。
 
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 19世紀、エジソンは音楽の容器としてレコードを「発明」した。そして、最初の目的としては、彼は「家族の声を残したい」という欲求があった。だから、「音楽」がちゃんと吹き込まれるようになるのはしっかりしたオーディオの発達を待つ必然性があった。現に、初期のレコードには「寸劇」から「朗読」から残されている。

 音楽→録音→レコードという形式はビートルズ以降、巨大なビジネス装置として起動してしまったが、僕は「音楽」というものはCDやレコードやデジタルの中にだけ「溢れている」訳ではなく、其処此処に溢れているものだと想う。それはただの雑音かもしれないし、もっとネイティヴな迸りかもしれない。七尾旅人氏みたいに、「それぞれ人は、音楽を鳴らしているんだよ」、というところまでは僕はいけないが、それでも、今、音楽がこれだけ安く、また、不用意に流れ過ぎている中、京都の伏見稲荷大社の奥の竹林でフッと竹の割れる音を聴いて、凄まじく耳の良いジャズメンの友達が「素晴らしい音楽ですね。」といった感覚と、ジャンクフードだらけの世界で更にジャンクフード的な音楽を求めるように揉まれる感覚などなど、が混在しながら、それでも、日常において心を、五感を、駆り立てさせられる欲動を訴求してくれる限り、音楽に忠誠を誓えるかもしれない。勿論、そのジャンクフードだって生命維持としての装置を持っているのは分かってはいるからこそ。

 それに、FMなりタクシーのラジオなり音楽専門チャンネルなりでふと流れた曲を聴いて、メモしてレコードを買いに行って、持ち帰って、ライナーなり歌詞なり編成を読みながら、じっくり音を聴く、という全体そのものが「音楽を求めるという意味性」なのだと僕はまだ想うし、持っているCDでもレコードでも観れば、何処で買って、その時はどんな心理状態だったか、などをふと想い返しも出来る、という部分がまだまだ好きなのかもしれないし、今も音が僕を引き付けるのだろう。

 音「楽」とは、音は人を「楽」しめませる為に鳴るのか、「楽」にさせる為に鳴るのか、それは分からないが、音楽の中の「漂流する瓶に詰められた願い」が難破しても、何処か岸には届く筈なのだ。その岸で待っている人たちが居るならば、まだ音楽は「在る」可能性を孕む。

 最後にアドルノの言葉を、引用して皆に投げ掛けたい。

「(私は)音楽について語っているだけにすぎない。しかしながら、対位法的な問いかけがもはや和解しがたい葛藤を証言しているような世界とは、一体いかなる状態にあるのだろうか。生の震撼や硬直が、経験的苦境がその中にまでおよばないこの場所、不気味な規範の抑圧からの避難を許すと人々が信じているこの領域においてさえも、反照しているならば、生とは今日、なんと根本的に混乱したものであることか。人々への約束が果たされるのは、彼らが期待するものを拒否することによってのみなのである。」(『新音楽の哲学』より)

(松浦達)

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