「片岡鶴太郎」という空虚性について

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kataoka_tsurutaro.jpg 1909年のルーセルの『アフリカの印象』という作品を知っている人も多いだろうが、話はこうだ。南米に向かうヨーロッパの客船がアフリカの沿岸で座礁して、黒人の国であるポニュケレのタルーという王様に捕らえられ、身代金が到着するまで軟禁される。

 客船の中には、歴史家、名ダンサー、カウンターテナーの歌手、科学者、フェンシングのチャンピオン、発明家、彫刻家、銀行家、喜劇役者、オペラ歌手、魚類学者、医者、チター奏者、サーカス芸人など多々なる人が居て、軟禁されている間、暇潰しの為に有志で「無比倶楽部」というサークルを創る。そのサークルで戯れている間に、タルー王は敵国との戦争に勝ち、二つの国の王様になり、戴冠式の際に余興として無比倶楽部の面々が奇妙な出し物を披露する。頭蓋骨の中に灯りがつくカントの像、チターでハンガリーの舞曲を奏でる巨大な蚯蚓、丸薬を水に投げ込むと水面にメドゥーサの顔が浮かぶ水中花火...主にこの式内での処刑の模様と余興の描写が全面を占める。最後、人質は無事解放され、フランスの港で別れる。

 ピカビア、デュシャン等お歴々を虜にした、総てを「解放させる」非・意味の物語。

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 もし、「この客船に片岡鶴太郎が居たらどうなっていたのか」、考えることがある。故・ナンシー関やリリー・フランキーやら諸氏に突っ込まれるまでもなく、「鶴太郎・的人間」だけはややこしい。若しくは、僕はそういった「心性」や「人間の在り方」に対して、徹頭徹尾「抗っていく」つもりの覚悟だけは揺るがないのは「自覚」している自分のイメージと巷間との誤差値の補整を試みていない所に尽きる。要は、ひょうきん族での「おでん芸」で名を為したのに、それを葬送したかの「ように」振る舞って、ボクシング、絵描き、俳優、文化人としてどんどん「素敵な自分」を彩っていく様態、人生の在り方そのものが奇妙な「上昇」に見えるフェイクにしか思えないのだ。

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「芸能人」というのは儚い稼業で、また「イメージ」で成立しているとは言え、あの鶴太郎の筆文字や絵、そして、時折、物好きに組まれる「情熱大陸」的なドキュメンタリーをして、その裏に重厚な(ような)人生に想いを馳せる人たちもたまには居るとは想うのだが、そんなに人間という生物、なんて「重厚」でも「裏がある」訳でも無く(寧ろ、それぞれにドラマはある)、幾らスタイリッシュにダチョウ倶楽部がおでんの鍋を前に、芸をキメてみても、それを「伝承させた顔」で高みから観ている鶴太郎こそがが、今でも、「熱熱のちくわぶや大根を口に入れられるべき」だと思っている。「素敵な加齢」でブレイクスルーしたつもりで、谷村新司的にナイス・ミドルを気取っている「余白」は実は彼には無いのだ。

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 たけしが、あれだけの立場になっても相変わらず扮装して「下らない芸」をやる限り、タモリが「昼間のお茶の間で、空虚にボケ続ける」限り、後進者にとっては壁は厚く、敵わないな、という嘆きに変容する中、彼だけは鮮やかに素敵に「全身芸術家」として体現する。全身を賭して文化人を演出する「鶴太郎という空虚な存在体」のもはやこの長年に及ぶ「裸の王様」振りを糾弾する者も居ない。いや、面倒だから「しない」のかもしれない。

 地方の百貨店や温泉街で見受ける鶴太郎作品展、コメンテイターでスーツに身を固める姿、お笑い番組で「坂上二郎の物真似」をしてみせながら、「いや、もう本当は、こんなのやらないんだよ。」と言いたげな顔、総てを対象化して、「おでんの鍋」を今すぐ、彼の前に用意しないといけないとさえ思うのだが、もはやそういった余地さえ彼の前では無いのか、彼が許されないのか、暗黙の内に「芸人→俳優→文化人→藝術家」という螺旋階段を昇っていった(下っていった?)様の、結果論を周囲や視聴者たちは享受はしない、拒絶している筈なのに、当の鶴太郎は「素敵」を纏う。その「素敵」は詐術としてのそれも孕む。

 しかし、鶴太郎的な存在に「思考停止」をしてゆく監視側こそが本当は重要で、それらがスルーしたイメージ分、当事者の過剰な自意識はどんどん肥大してゆくのだ。肥大していった自意識は「本体」を喰い尽す。だから、彼は「自分の描く、素敵な"俺"像」の追及のループの中で、必死に筆を執るのだが、周囲は別に彼の「自意識」に対して値札を貼ろうともしないからこそ、「おでんの鶴太郎」は永遠に、「誰もいない砂漠」に置いてけぼりになるか、YouTubeでの再生回数のみが膨れ上がっていくことになる。矢沢永吉みたいに「自分で自分を笑えて、アルバムに"ロックンロール"と名付けることが出来る」くらいは可愛いのだが、ボクシング、絵画、文化人、と手を出していく鶴太郎を視てきたこの10年以上、僕はどうにもうんざりさせられることが多かった。

 その「うんざり」は、オルテガ的に衆愚社会を憂うとかじゃない、自己批評精神の欠如や評論界の頽廃と近似してもいて、僕はまた彼が熱いおでんを食べて、リアクションが出来る世界に戻らない限り、どこかで見切りを付けるつもりでいる。どうでもいいよ、は罪だ。彼の「素敵な今」にナレーションは付けなくてもいい。今すぐ、おでん鍋を置くべきだ。

(松浦達)

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