October 2010アーカイブ

2010年10月28日

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本日より、クッキーシーン・サイトは1~2週間替わりの「表紙」を設けることにしました。トップ・ページの前に、カヴァー(英語で「表紙」という意味)・ページがある、という感覚です。

クッキーシーンの基本URL(www.cookiescene.jp)でアクセスした場合、一気に(雑誌で言えば「目次」的な意味のある)トップ・ページに行けない、という意味で、お手数をおかけしますが、カヴァー・ページの写真はそれなりに解像度の高いものを使用しています。

DLして、あなたのPCの壁紙に使用することも可能では...? いや、決して編集部がそれを「推奨している」わけではないですけど...(すみません:笑)。

また、ブックマーク用URLを「目次」的な部分(カヴァー・ページにつづくトップ・ページ)に変えておくことも可能です。いや、これもぼくらとして「推奨」はしませんが...(すみません:笑)。

また、本日「FEED BACK」ページと「ABOUT THIS SITE」ページを更新しました。これらのカテゴリーについては更新がトップ・ページの「HEADLINES」に自動的に反映されないため、この場を借りてお伝えします。

2010年10月27日22時35分 (HI)

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このコーナー、しばらくお休みさせていただきます。

なにより読者のみなさんのお役に立ちたい、「いいアーティスト」の(日本盤リリース)情報をみなさんにお伝えしていきたい...という意味で、しばらく更新をつづけてきたこのコーナー、クッキーシーンがよりヴィヴィッドなメディアとなっていくため日々の作業をおこなっていく際の目安になるという意味でも、是非つづけていきたいのですが、現状ではちょっと無理...って感じです(汗)。

いつか復活したいとは思っています(早くて、2011年初頭、かな...)。その日まで、このコーナーはしばらく休眠状態になります...。申し訳ありません!

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準備も含めて「フェス・シーズン」に入るころまでは、それなりに順調に更新していたこのコーナー、本来「レヴューやインタヴューなど、このサイトに存在する他のカテゴリーではフォローしきれない音楽関係のニュースをお伝えする」ためのものですが、現状のクッキーシーン編集部のマン・パワーでは、ちょっと忙しくなると(7月からずっとそうであったように)まったく更新できなくなってしまいます...。

一方、クッキーシーン関係でお伝えしたいことが、ちょこまか出てきました。

大変申し訳ありませんが、次にこのコーナーでお伝えするまで(マン・パワー的に「もう大丈夫!」となるまで)、しばらくこのコーナーは「クッキーシーンに関するニュースをお伝えする」カテゴリーとさせてください。

すみません!

2010年10月27日15時50分 (HI)

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RA RA RIOT

アルバムには特にテーマは設定せずに
とにかく自由にやりたいことを詰め込んだんだ


ヴァンパイア・ウィークエンドと並び、デビュー前から各方面からの多大な注目を集め、アルバム『ランバ・ライン』で鮮烈なデビューを飾ってから2年。ニュー・アルバム『ジ・オーチャード』を引っ提げてラ・ラ・ライオットが帰ってきた。高まる周囲からの期待やプレッシャーを軽々とかわし、再び傑作を届けてくれた彼ら。一回りも二回りも大きく成長したバンドの現在について、ヴォーカルのウェスとベースのマシューに話を聞いた。

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2010年10月19日

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GOLD PANDA

歌詞とかヴォーカルがなくても、"曲"ってものを作りたいんだ


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UKイースト・ロンドン出身、シャイな人柄とハートウォーミングな音楽性で現在、話題沸騰中のエレクトロ・ミュージシャン、ゴールド・パンダ。

過去にリリースされてきたEP(日本ではこれらのEPを纏めた独自企画盤『Companion』も)や、ブロック・パーティやリトル・ブーツなど大物たちのリミックス・ワークでじわじわとその名前を浸透させてきた彼だが、先ほど発表された待望のフル・アルバム『Lucky Shiner』で遂にブレイク。エイフェックス・ツインとなぞらえられたり、「ポスト・ダブステップ世代の俊英!」みたいに持て囃されたり、DOMMUNEや朝霧ジャムにも出演したりと、にわかに周囲は盛り上がりを見せているが、本人はいたって謙虚。

インタヴュー中も実にマイペースであっけらかんとしていて、ジョークも飛ばすし、ナーディな佇まいも併せて非常に共感。かわいい!

内省的でセンチメンタルな作風となったアルバムのことを中心に今回は話を聞いてみた。すでによく知られているように、若いころに日本滞在の経験もあり日本語検定二級も取得済みの彼。話を聞くだけなら通訳いらずの語学力にも驚いたが、インタヴューの行われた畳の間に座る姿が恐ろしいほど場に溶け込んでいてまったく違和感がなかったこと。そして、機材や楽器を巧みに操る指先が、男性とは思えぬほど綺麗で思わず見入ってしまったことを最初に付記しておこう。


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sufjan_stevens.jpg スラヴォイ・ジジェクは「幻想の感染」において、こういう事を述べていた。

 カントの哲学においては、美しいものと崇高なものと異形なものとは三つ組みを成す。「三項」の関係はボロメオの結び目の関係であり、二つの項が第三の項を介して繋がっている。「美」は異形が崇高になるのを可能にし、崇高は美と異形とを媒介する。それぞれの項を極端にする―「完全に実現」をすると、「隣のもの」に変化する、徹底して美しいものは、もはや単に美しいのではなく、崇高になる。同様に徹底して崇高なものはどこか異形になる。あるいは逆に言い方をすれば、崇高の要素がない美しい対象は、真に美しいものではないし、異形の兆しとなるような次元を欠く、崇高なものは、真に崇高なのではなく、単に美しいだけである。

          *          *          * 

『The Age of Adz』を初めて聴いたとき、崇高さと鬩ぎ合う異形性を感じると共に、そこに美しさを感じた。ここには過去にアメリカ50州シリーズに挑んでいた際の例えば、『Michigan』、『Illinois』のようなテーマ性や麗しさは「破綻」しており、『The BQE』や「All Delighted People」EPとも違うが確実に、それらを「通過」したが故の独自の捩れた音が鳴っており、「現代版のバーバンク・サウンド」とでも言えるのかもしれない、ミレニウムやハーパーズ・ビザール、レフト・バンク、アソシエイションなどのような音を現代的に再解釈する手腕は相変わらず巧いが、『Illinois』時のようなチェンバーポップの鮮やかに「再写」する手法に関して周到に避けている。

 全体を通じて、エレクトロニックな要素群が格段に増え、エフェクトやサンプルやループや打ち込み音が明らかに独自の歪な音像を結び付けている。その結び目をほどき、サウンド自体の意匠を外せば、フォーキーでトラディショナルな伝承歌のような歌であったり、現代音楽的な様相が浮かんで消える部分もあり、また、ゴスペル的な要素因とIDMとポップ折衷が捩れながらも昇華に向かわず面妖な麗しさを醸す所作の妙はなかなかに凄味さえ感じる。引き合いに出される彼の初期の2001年の『Enjoy Your Rabbit』的なものよりも、もっと表象されているものが違う。より過剰になったサウンド・コラージュの前衛性や黒いフィーリングが表面化している様は今の彼のモードなのだろう。

 しかし、そこはスフィアンらしく「歌心」も忘れていない。今回の歌詞はストーリーテリング的なものではなく、一人称の根源的な独白になっており、そこで愛や孤独、不安などをモティーフにしたもので、時に「ぼくはきみを愛してる」、「長い人生さ 少しは苦労しよう」という衒いのないストレートな歌詞が乗る。ヴォコーダーで加工された声、ヴァン・ダイク・パークス的なストレンジなストリングスの絡み方、幾重にも組まれたサウンド・レイヤーの中で曲は着地点を見出さず、「中空」に浮かんだまま、安直なヴァース・コーラス・ヴァース形式の意味が敢えてぼやけるような構造形式を取っている(ように思わせるが、実際、骨組みだけ取るとポップなものが存外、多い)。

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 ヘッド・ミュージック的な側面もあるが、「内側に閉じてゆく」独善的な作品にもなっていない、とてもポップで万華鏡のようなトリップ感で耳に訴えかけるテンションもある。それは、今回の作品を作るにあたってインスパイアーを受けた黒人画家のロイヤル・ロバートソンのスピリチュアリティが強く出ているのかもしれない。ロイヤル・ロバートソンの提示していた黙示録的な世界観、また、それでも、浮世離れはしないリアリティへ立脚しながら創作活動に励んでいた様。スフィアン自身が憂き世離れしないで、「今、ここ」に留まりながら、音楽に対峙する「意味」が彼を通じて視えてくる。

 インテリジェントでスマートなポップ職人としての彼を求める人なら、『The Age of Adz』はいささか期待を覆してくる内容になっているといえる怪作になったかもしれない。また、各曲の過剰な情報量の多さに眩暈をおぼえてしまうかもしれない。最後の曲の25分を越える「Impossible Soul」に至っては多重コーラスとエレクトロニクス要素と目まぐるしくうねるサウンドスケイプ、ゴスペル・パートなど二点三点も落ち着きの無い展開を見せるサウンド・タペストリーになっている。これをしてアニマル・コレクティヴ的な「サイケデリック」との共振を探すにはあまりに思考停止が過ぎると思う。このサイケデリアは彼自身の内的宇宙の潜航からなる<外>への開きでもある訳で、ファラオ・サンダースやジョン・コルトレーンのような行き着くべきして行き着いた「彼岸」であり、「過程」とも言えないだろうか。

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 異形に近接する美へ彼が崇高性を求めた結果、「こうなってしまった」のか、彼の今の脳内を示すにはこういった「異形性を求めないといけなかった」のか、詳しい所は分からないが、あらゆる面で「引き裂かれた」アルバムになっている。黒いフィーリングと白さ。前衛性とポップネス。安寧と孤独。その引き裂かれたクレバスの間から福音のようにとても優美な音が漏れ聞こえてくるのは確かだ。現代のポップ職人の奏でる異形の美は"ソング・サイクル"を抜けて何処へ向かうのだろう。

(松浦達)

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hurts.jpg ペット・ショップ・ボーイズ、ティアーズ・フォー・フィアーズ、そしてヴィサージなど、様々なバンドと比べられているハーツだが、ハーツは紛れも無くハーツである。と、柄にもなく好きではない「である」口調を使ってみたけど、彼らの記念すべきファースト・アルバム『Happiness』では、ハーツのアイデンティティがこれでもかと主張されている。サマソニで見せてくれたステージングやヴィジュアルを見る限りだと、デコレーションされまくったつまらないポップ・アクトと思われるかも知れないけど、この『Happiness』は、不思議と人間味溢れるアルバムになっている。

 ハーツは「ポップ」というものに対して、誠実に向き合っている。それは、ハーツがポップ・ミュージックの力を信じているからだと思うのだけど、では、なぜ彼らにとっての「ポップ」が、ここまで個性的で、とことん過激な表現となっていったのか? それは、ハーツにとっての「ポップ」とは、「逃避先の世界」だからではないか? だからこそハーツは、どこまでも己に装置を配置していく。しかし、それでも人間的でピュアな部分が見え隠れするのは、その装置の使い方、そして、その装置そのものが、セオとアダムという二人の人間の根底から生まれたものだからだと思う。つまり、この『Happiness』はニュー・オーダー「Blue Monday」や、オアシス「Supersonic」と同じ系譜にある。もちろん、それぞれの事情は異なるし、音楽性も同じではないけど、「前に進むための逃避」という意味では、『Happiness』「Blue Monday」「Supersonic」は、共通するものがあると思う。

『Happiness』は、「理想的な現実」というのが描かれている。耽美に浸るわけでもなく、ドラスティックに現実を描写し、ひたすら自己と格闘しているわけでもない。それぞれの感情や思惑を行ったり来たりしている。それは、人から見れば「迷走」に見えるだろうけど、ハーツの「迷走」は前に進むための「迷走」であり、「ポップ・ミュージックを作る」というハッキリとしたヴィジョンが窺える。そして、この「迷走」が『Happiness』をなんとも不思議なアルバムにしている。「理想」を作り上げているのに、そこから滲み出ているのは、生きるうえでの「哀しさ」や「辛さ」だ。歌詞と曲調が相反していたり、「Wonderful Life」という曲がある一方で、「Devotion」という曲もある。つまり、『Happiness』というアルバムは「今の世界において、ポップ・ミュージックを作るということ自体が、戦いになってしまう」ということを、図らずも証明してしまっている。

「ポップ・ミュージック」を作ることによって生じる「儚さ」というのは、この世に音楽が誕生したときから、何度も表現されては、砕け散っていったもの。この「儚さ」というのは、世界が不穏な雰囲気に包まれるほど、必要とされるものだ。そして、『Happiness』には「儚さ」が十二分に詰まっている。この素晴らしいアルバムがたくさんの人に聴かれてほしいと願う一方で、「いったい世界は、いつになったらこの「儚さ」を必要としなくなるのだろうか?」と、少し悲観的な感情を抱いてしまう自分もいる。

(近藤真弥)

*日本盤は11月3日リリース予定です。【編集部追記】

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fran_healy.jpg 思えばトラヴィスのアルバムをボロカスに貶したレビューなんてこれまで一度も目にしたことがない。他のバンドもコールドプレイやキーンには文句を言うことはあるけれど、トラヴィスにその矛先が向けられたことは、あまりない。というかそのケースを私は知らない。トラヴィスのメロディにはどんな偏見や先入観の介入も許さない凛とした佇まいがある。「こりゃ、悪いわけがないよね」とついつい全面肯定してしまう魔法の力が働いている。ロクでもない人生でも最高のユーモア・センスとシンガロングできるコーラスがあればそれなりのものに見えてくる。トラヴィスのメロディは基本的にメランコリックだが、ふっと笑ってしまう気の抜け方が大好きだ。たぶん私以外のファンもそこが好きなんだろうと思う。

 そのトラヴィスのフロントマンであるフラン・ヒーリーのソロはブランドン・フラワーズのソロほどバンド・サウンドに傾倒しているわけではないが、アコースティックに振り切れたというわけでもない。そして「Selfish jean」や「Flowers in the window」のようなハッピーなヴァイブに満ち溢れているわけでもなく、内向的といえば内向的だ。だが、これは紛れもなくトラヴィス・サウンドである。おそらく特別にバンドとの差別化を図って制作されたアルバムではないだろう。だってトラヴィスの新作を聴くような気持ちで聴いたら、普通に良いアルバムだったから。シングルの「Buttercups」なんかは前々作の「The boy with no name」のどこかに紛れ込んでいてもたぶん気付かない。そういえばこの曲のビデオは、フランが車のなかでやたら女性に花束を投げつけられる、っていう内容なんだけど、最近こういうの多くないですか? まさに強い女性と情けない男子、というか。マルーン5の「Misery」もそうだったし、ブランドン・フラワーズの「Crossfire」もそうだった。まあ、男はいつだってその役回りだよね。スレンダーな女の肩に手を回して、プールだ、車だ、シャンパンだ、のマッチョなビデオに対するアンチとしては、かなりおもしろい。

 アルバムの話に戻します。まあ、鉄板ですから、フランの声は。ソングライティングも絶好調です。ポール・マッカートニーとニーコ・ケースが参加しています。でもそんなたいそうな参加の仕方ではありません。付け合せの野菜みたいなもんです。あと「Holiday」は「Sing」を彷彿とさせます。ボーナス・トラックにはハーツみたいな興味深い路線の曲が収録されているので、日本盤がおススメです。

(長畑宏明)

*インタヴューはこちらに掲載されています。【編集部追記】

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leonard_cohen.jpg レナード・コーエンの歌。ジーザス&メリーチェインは「Tower Of Song」を覚めきった轟音で鳴らしていた。ジェフ・バックリィの「Hallelujah」はオリジナル以上に聞かれている1曲かもしれない。一時期、エコー&ザ・バニーメンを脱退していたイアン・マッカロクのソロ・アルバムには「Lover, Lover, Lover」が収録されている。そして90年代にはピクシーズ、ジョン・ケイル、R.E.M.など当時のオルタナティヴ/インディー系のバンドが参加した『I'm Your Fan』と、もうひとつ上の世代であるドン・ヘンリーやビリー・ジョエルなどのカバー・バージョンを纏めた『Tower Of Song』という2枚のトリビュート・アルバムが発売されている。

 カレッジ・チャートの萌芽から時を経て、オルタナティヴ・ミュージックがようやく音楽シーンの中で影響力を持ち始めた90年代。歌詞というよりも「詩」そのものである言葉とメロディ、キャリアの中で多少の変化を見せながらも一貫してシンプルなサウンド・デザインは、その唯一無二の歩みからもオルタナティヴの元祖として時代の空気にぴったりだったのかもしれない。崇高でありながらも、「自分にも歌える」そう思わせるという意味で、レナード・コーエンの歌はパンクと同じ力を持つ。そして、この『Songs From The Road』や他のアルバムを聴いてもらえばわかるように、彼はちっともテクニカルなミュージシャンではない。彼の作品の中で名曲と言われるもののほとんど全てをローファイと言っても差し支えないはず。だから一度聞けば、誰もがレナード・コーエンに憧れる。レナード・コーエンの歌が好きになる。それは10年代の今でも変わらない事実だと、僕は思う。エミー・ザ・グレイトの『First Love』で歌い込まれていたように「オリジナルのレナード・コーエン・バージョン」をよろしく。

 レナード・コーエンは1934年、カナダ生まれ。今年でもう76歳。もともとは地元カナダで詩人/小説家としてキャリアをスタートさせている。何を思ったのか60年代後半になってアメリカへ渡り、シンガー・ソングライターとしてデビュー。その時すでに34歳。初期はボブ・ディランやジョニー・キャッシュを手がけた名プロデューサー、ボブ・ジョンストンの腕を借りながらミュージシャンとしての知名度を上げていった。その後は大ヒットこそないものの、ほぼハズレなしのアルバムを3~4年ごとに発表しながら現在に至る。2008年にはしっかりと「ロックの殿堂」入りを果たしている。日本での知名度の低さにはガッカリだ。

 この『Songs From The Road』は2008年後半~2009年前半までのツアーをパッケージしたライブ・アルバム。もともと声量のないヴォーカルをバックアップするような控えめながら手堅いバック・バンドの演奏とオリジナルに忠実なアレンジが秀逸だ。代表曲はほぼ網羅されている。できれば「So Long, Marianne」と「Hey, That's No Way To Say Good Bye」も聞きたかったけれど、もう声が出ないのかもしれない。サマソニでホールのコートニーが「セックスの歌よ!」と言ってボロボロで最強のカバーを披露した「Take This Longing」も入っていない。でも、最高。特に「Waiting For A Miracle」(オリヴァー・ストーン監督の『ナチュラル・ボーン・キラーズ』のエンド・テーマ。音楽監修はNINのトレント・レズナー!)から「Hallelujah」までの流れは本当に素晴らしいから、シャッフルなしで聞こう。クレジットに目をやると「Hallelujah」はコーチェラ・フェスでの演奏だ。観客が熱狂している!

 クッキーシーンに載るミュージシャンでは最高齢かも。まだ聞いたことがなくて、「ライブ・アルバムはどうも苦手でね」と言う人には『The Best Of』というベスト盤がおすすめ。ブライト・アイズやキャット・パワーが好きなら、きっと気に入ると思う。『Songs From The Road』にも入っている「Bird On The Wire」を聞いて欲しい。AメロのコードはA/E/A/D/A/E/Asus4/Aのはず。間違っていたらゴメンなさい。歌詞はだいたいこんな感じ。

"電線にとまっている鳥のように 真夜中の聖歌隊に紛れ込んだ酔っぱらいのように
 僕は僕なりに 自由になろうとした
 死産の赤ん坊のように ツノが生えてる怪物のように
 僕は僕に近づくみんなを 傷つけてきた"

 レナード・コーエンの歌を聞いて、歌おう。

(犬飼一郎)

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kings_of_leon.jpg かつてアメリカの片田舎から鳴らされたプリミティヴなロックが、10年も経たないうちに世界を制覇する直前まで上り詰めるなど、誰が予想できただろうか。ましてやデビュー当時、彼らはけっしてシーンのエース的存在ではなかった。異端児といっても過言ではなかったが、これがドカンといきなり大ヒットしてしまうイギリスという国は、まあ不思議だよね。肝心のアメリカではほとんどスルーだったが、4枚目となる前作でいよいよ本格的にスターダムにのし上がった。老若男女共通のアンセムとして「Use Somebody」が幅を利かせ、「Sex On Fire」というド直球の名曲に全員が悶えた。日本ではセカンドからのシングル「The Bucket」がラジオでヘヴィー・ローテーションされたが、それ以降日本と英米の温度差は酷くなる一方だった。つまり、彼らは日本以外では理想的なキャリアでバンドとしての地位を高め、いまやほとんど唯一のエレポップ勢やR&Bにチャートで対抗できるギター・バンドである。他にいたとしてもキラーズとか、コールドプレイくらいか。

 成功の代償が小さいわけはない。初期の土にまみれたようなサウンドを愛するファンはKOLの現状に理不尽なまでに腹を立て、あとからついてきたファンと一緒にはなりたくないといわんばかりに、もはや彼らのファンではないことを宣言してまわった。ギター・サウンドが空間的な広がりを持った途端、「セル・アウトだ」と糾弾した。一方で音楽を日常のBGM程度にしか考えないKOLのリスナーは激増した。その環境に1番苛立っていたのは、ほかでもないメンバーたちである。盛り上がりの悪いフェスの観客にケチをつけ、バッシングをくらったこともあった。アンセム詰め込み放題の4枚目から新作でどのような変化を遂げるのかが注目された。初期のシンプルで粗野なプロダクションに戻すのか。それとも第二の「Sex On Fire」を書くのか。

 正解は後者だった。先行で解禁になったシングル「Radioactive」は「Sex on fire」の勢いそのままに「Use somebody」の雄大さが加わって、しかも祝祭感溢れるゴスペル風のコーラスまで聴こえてくる圧勝のアンセム。その前の冒頭曲、「The End」では彼らのいまの姿勢を表すかのように、どっしりとした迷いのないビートがリスナーの期待を煽る。

 さあ、これからどんな風景を見せてくれるんだ? 私は全曲聴いて大声で「最強だぜ、お前ら!」と叫びたくなったぞ。小細工や媚びは一切なし。ファースト原理主義者はこれで完全に置いてけぼりをくらうぜ。彼ら以上のギター・サウンドが世界中にひとつも存在しなかったという意味で逆にアンセム欠乏症に陥らせた前作よりも、はるかにアンセミックな怪物作。きっと売れ売れです。日本でもいよいよ本腰入れて売ろうよ。これで興奮しないなんて嘘だ。「Mary」は多くの野朗どもの涙を誘うだろう。「Back down south」でカントリー・ミュージックの偉大さを噛み締めるだろう。ピンと来ない奴も多いだろうな。でも楽しんだほうがいいに決まってる。インディ・ミュージックはここまで来られる可能性を秘めているから刺激的だ。王座揺るがず。

(長畑宏明)

*日本盤は11月24日リリース予定です。【編集部追記】

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people_in_the_box.jpg「うひゃー。また、だ。ピープル・イン・ザ・ボックスの新譜」と、リリース前に曲名やタイトルが公式に発表された時も、実際にそのサウンドを聴いた時にも思った。相変わらず、暗喩的で変化球な表現の数々、めまぐるしく変わる変拍子と変調に満ちた曲構成、それでいて、スリー・ピースというバンド形態を活かし、一切の無駄を削ぎ落としていく職人技のようにストイックなサウンド構築。およそ二年半ぶりの、彼らの新譜には彼らの持ち味の世界は変わらず、それがどんどん強固になっていく様を見て取れる。
 
 リリース前の曲名およびタイトルが公表された時に、多くのリスナーが感じたのは、「前作(シングル『Sky Mouth』を除く)『Ghost Apple』に引き続きコンセプチュアルな内容になるのでは」との思いだろう。なぜなら、今作のタイトルは全ての曲が、国名、地名あるいは不特定ながらも、それぞれの想像力を喚起させるような場所の名前が冠せられており、アルバムの曲名を眺めると、まるで世界旅行の様相を呈しているからだ。一曲目「東京」から始まり、最終曲「どこでもないところ」に到達するまで、このアルバムはヨーロッパを中心に北米や南米などを旅することができる。
 
 しかし、個人で海外旅行する事が趣味な僕は、タイトルを見た時に、「思い切ってやってくれたな」という気持ちと同時に、ある種の過剰さも感じてしまったのも事実だ。「ここまで徹底しすぎると、かえって閉鎖的になってしまうのではないか。聴く前から聴き辛そうな狭い印象を与えてしまうのではないか」という懸念だ。しかも、アルバム自体のタイトルは『Family Record』と全く国名にも地名にも関係ない、独立したものになっている(と言っても、これは彼らの以前のタイトルからそうだったが)。ジャケットもスタイリッシュではあるけれど、何だかよく分からない白濁だ。

 「どうなるんだろう、新譜は」などと、若干の不安も拭い切れずに聴いたが、その内容は冒頭で書いた通り、今までの彼らの魅力をより研ぎ澄ましたもので、結局は、僕の杞憂だった。今作のサウンド面は、今までよりも格段に、三人の楽器が奏でる絶妙なアンサンブルがスリリングで心地良いのが第一印象だ。それは、演奏技術云々と言うよりも、フロントマンの波多野裕文自身が、このスリー・ピースをどんどん信頼していっていて、より他の二人とのセッションを楽しんだ結果できたものと思われる。どの曲も変拍子と変調の嵐で、一寸狂えば曲全体が台無しになりかねない構成にも関わらず、個々人が相当思い切ったプレイ・アビリティを発揮している。波多野のギターは、時に狂ったディーヴァのように爆音で呻き、時に精霊の祈りのように繊細に泣き、山口のドラムは相変わらず、細やかな動きからダイナミックなフィルまで楽曲の根幹を成すグルーヴの強かさを実直に表現しており、福井のベースは、そんな大暴れな二人の仲を取り持っていたかと思えば、意外なところで主役をかっさらっていく。それでいて、三人のグルーヴは、ブレがなく強固だ。
 
 歌詞を見れば、タイトルの地名や国名について言及するものは少なく、それらは単なるメタファーであったことが分かる。従来通りの、波多野による暗喩や倒置を多用しながらも、主語の置き換え、コンテクストの乱暴な改変によるシュルレアリスム的手法が映えている。まるで、実存主義を通過した不条理文学を読んでいるような錯覚に陥るのも、相変わらず見事である。まさに、ジャケットの白濁のような、クリアながらもドロっとした印象を与えてくれる。

 最後に、少し個人的な事を書いて終わるのが、申し訳ないが、ご容赦願いたい。このアルバムの10曲目に「スルツェイ」という曲があるのだが、この耳馴染みの薄い地名は、世界遺産にも登録されているアイスランドにあるスルツェイ島がモチーフだろう。実は、この島、北欧神話にも密接な関係にある火山島である。僕は、個人的にアイスランドと言う国に対して―親氷家とでも言おうか―とても親近感を湧いており、様々なアイスランド文化を敬愛しているのだが、(ご存知、シガー・ロスやムームなどの出身地でもあり独特のシーンも形成している)首都のレイキャヴィークではなく、このスルツェイ島をタイトルに選んだ波多野の素晴らしい命名センスに心底、脱帽してしまった。

(青野圭祐)

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aM.jpg 2005年に惜しまれつつも解散したスーパーカーのドラマー、タザワ・コウダイと、初期スーパーカーを手がけ現在もプロデューサーとして活動中のカナイ・ヒロアキ(ミユキ)による、エレクトロ・バンド、aM(tm)[aem]。彼等の5年振りとなる3rdアルバムが英Rocket Girlから逆輸入という格好でいよいよリリースされた。

 エレクトロをキーワードにしつつも、やはりサウンドの核となるのはコウダイの叩き出すなんとも心地よく反復するグル―ヴィーで彼独特のタイム感を持つドラム・サウンドと、それに乗せ直観的にかき鳴らされるミユキのフィードバック・ギターだ。そして後期スーパーカーにも通じる、いやそれを更に発展させたかのようなミニマルでいてあまりにも美しいエレクトリックなサウンド・メイキングには脱帽するしかない。シューゲイザー/ドリーム・ポップ・ファンならば是非手にしてもらいたい改作。

(八木橋一寛)

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ongaku.jpg 例えば、アドルノが抱いた思想の主軸をなしているものは「近代において人間はどのように人間的でありうるのか?」ということに集約される。それを考えると、主体的に「音楽を書くこと」は「漂流する瓶に詰められた願い」を海に流す行為であり、それは聴衆を無視して、ひたすらわけの分からないことを書き続けるのとは違う―つまり、誰かが拾ってくれることを祈って、真摯に書かれる「べき」音楽である筈とも言える。その音楽には、作り手と聴衆との「間」に、偶然と言っても良い出会いによってミメーシスが行われることへの希望が込められている。

 だからこそ、今、「音楽を聴く」という行為自体を、再定義しないと、このまま、相変わらずの印象批評が飛び交ったり、「良/悪」の二元論で帰着してしまったり、音質(温室内)問題であれこれ右顧左眄したり、歴史改竄されてしまったり、ファイルの中に、フェスの中に、音楽が埋もれてしまったり不健康なことこの上ない、と感じる。ただでさえ、難渋な世界になったな、と痛感する事が増えてきた昨今ゆえに。

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 私事になるが、面と向かって「音楽に対峙した」のは高校生の頃だった。94年辺り前後の、渋谷系、J-ROCK、小室系、ブリット・ポップ、オルタナティヴ、モダン・ジャズ再発、ワールド・コーナー充実など華やかなりし頃で今とは比べ物にならないものの、兎に角、情報量は凄い量があった。

 ヘッドホンの中で拡がる軽快な自由の「気配」に魅かれつつ、レンタル・ショップで只管CDを借りて、様々な文献を紐解き、それでも「井の中の蛙」を自覚しながら、井戸の上に広がる空の深遠さを信じていた。周囲は卑近な空に溺れていたから、僕は「遠い空」を夢想する事にした訳だが、どうにも孤独なものだった。エアロスミスやらボン・ジョヴィがデフォルト的にラジカセから流れたりするクラブの部室で、フリッパーズ・ギターやペイル・ファウンティンズやベックなどを掛けようが「認知」もされなかったし、それが「代案(オルタナティヴ)」として出来るにはヴォキャブラリーも悲しいくらい「感性論」の壁の前で何も出来なかった。音楽は各々の感性に収斂すればいいもので、別に強制するものでも何でもない。それは分かっていたが、何故かもどかしかった。

 00年代で一気にギアが入った。プロディガル・サンとして彷徨している時に、兎に角、凄まじい熱量で色んな音楽を聴き、血肉化して、呼吸をして、ヘッドホンやステレオ越しに、セックスやアルコールやドラッグといったものの青春のシンボリズムの先の不健康な、希望的な何かへリーチしようとしていたし、ふと音楽に飲み込まれそうな自分さえ居た。碌な味方なんて殆ど居なかったけど、少しの「理解者」はいたので、迷わず舵を切った。鬱と不安と将来への茫漠とした虚無、デート、ラヴ・アフェア、文学全集、哲学・思想本、膨大な時間、刃物のような集中力と、無数の音楽とも言えない音楽。更にそれを覆うほどの音楽。あらゆるものに包囲されながら、エディ・ヴェダーの云う「ロープ」のようなものとして、音楽を握っている時は何となく「この、どうでもいい後付けで出来た世界」の仮構性を受容出来る様な「気」がしていた。でも、「気分」なので直ぐ蒸発した。

          *          *          * 

 そもそも僕個人的に「絶対」なんかは信じていない。世の中は「相対的」なものだと想うし、「絶対」という蛸壺に自分を持っていった途端、その人の信念がエッジとして「鈍化」するような気がする。「自分は絶対だ」と「ストイシズム」どうこうは違う。自分を信じる事(I need to be my self)は大事だし、「自分を"在る"ということ」を弁えるのも肝要だが、人間は「関係性の生き物」であって、関係性とは、誰かを想う事により、自分が再規定される、ということでもあり、即ち、自分を想うという事は必然的に「誰か」を想定されないと「いけない」と思う。

 となると、スキゾ的な何かや、引きこもり、自意識内で「完結」してしまっている人の目には何が映っているのか、と言うと、それは「書割」の世界だろう。「書割の世界」―自己充足して、マスターベイティングな様式美、はたまた、自家中毒的なデッドエンド。宗教学、政治学、経済学...白黒が出てしまう領域に僕がそれほど、アディクト出来ないながらも、一応魅かれてしまうのは、白黒を見詰め続ける事で、グレイ・ゾーンが可視化出来るようになるというのもある。

 自分が修めている「経済学」とは本当に突き詰めると、「黒白」を「理論」で説明するのでも、起こった現象を後付けで補強するものでも、預言的な事を言うものでもない。ただ、「思考的な視力が上がるもの」なのだ。思考的視力が上がるという事は「生き易くなる」という事でもある。だから、僕は戦争不安神経症なりヒポコンデリアなり色々抱えているし、根源的には人嫌いだが、それを悲惨だと想った事はなくて、そういったタイトロープ上を積み重ねてきて、今はグンと生き易くなってきてもいる。ただし、知れば知るほど楽になるよ、という発言を自重しないといけないのは、情報と知識を履き違えてしまって、「潰れてしまう」ケースを間近で見てしまうのもある。

          *          *          * 

「音楽」というものは、「実体」は無い。そして、もっと言うと「あっても、なくてもいい」ものかもしれないし、例えば、僕が海外に行く度に、民俗的なものや宗教的なものと音楽って本当に密接に結びついていて、ちゃんとその分野や聴いているものによってトライヴが分かれているのだな、と想って、色々考察の対象になるのだが、単純に言えば、USのヤッピーとか中国のニューリッチ層とかがコールドプレイやマルーン5をよく聴いている。それは彼等がロック/ロックじゃない、じゃなくて、単純にチルアウト、ガス抜き装置として機能しているだけであって、別に彼等に纏わるゴシップや彼等のベタッとした「薄さ」はどうでもよく、BGM的に「機能」すればそれでいい。でも、それも「音楽」としてその場で空気を揺らせている。

 比して、世界のインディー・キッズ達はもうファイル交換などし合って凄まじい量の音楽を聴き貪っていたり、ちゃんとしたユニティや共同体が出来ているのは周知だろう。今は音楽を聴こうと想えば、只管聴けるようになったしライヴ現場も用意されているが、リテラシー能力が断然下がってきてもいるし、「偏差値」的なもので言えば、文脈を敷いて、ちゃんと意味内容と必然の中でその音楽が鳴っているという事を「説明出来る」人が蛸壺化し過ぎているし、そうではない人達はディグするサウンド・ツリーの深淵さを何処かで放棄して刹那的に耽溺している様な気がする。
 
         *          *          * 

 19世紀、エジソンは音楽の容器としてレコードを「発明」した。そして、最初の目的としては、彼は「家族の声を残したい」という欲求があった。だから、「音楽」がちゃんと吹き込まれるようになるのはしっかりしたオーディオの発達を待つ必然性があった。現に、初期のレコードには「寸劇」から「朗読」から残されている。

 音楽→録音→レコードという形式はビートルズ以降、巨大なビジネス装置として起動してしまったが、僕は「音楽」というものはCDやレコードやデジタルの中にだけ「溢れている」訳ではなく、其処此処に溢れているものだと想う。それはただの雑音かもしれないし、もっとネイティヴな迸りかもしれない。七尾旅人氏みたいに、「それぞれ人は、音楽を鳴らしているんだよ」、というところまでは僕はいけないが、それでも、今、音楽がこれだけ安く、また、不用意に流れ過ぎている中、京都の伏見稲荷大社の奥の竹林でフッと竹の割れる音を聴いて、凄まじく耳の良いジャズメンの友達が「素晴らしい音楽ですね。」といった感覚と、ジャンクフードだらけの世界で更にジャンクフード的な音楽を求めるように揉まれる感覚などなど、が混在しながら、それでも、日常において心を、五感を、駆り立てさせられる欲動を訴求してくれる限り、音楽に忠誠を誓えるかもしれない。勿論、そのジャンクフードだって生命維持としての装置を持っているのは分かってはいるからこそ。

 それに、FMなりタクシーのラジオなり音楽専門チャンネルなりでふと流れた曲を聴いて、メモしてレコードを買いに行って、持ち帰って、ライナーなり歌詞なり編成を読みながら、じっくり音を聴く、という全体そのものが「音楽を求めるという意味性」なのだと僕はまだ想うし、持っているCDでもレコードでも観れば、何処で買って、その時はどんな心理状態だったか、などをふと想い返しも出来る、という部分がまだまだ好きなのかもしれないし、今も音が僕を引き付けるのだろう。

 音「楽」とは、音は人を「楽」しめませる為に鳴るのか、「楽」にさせる為に鳴るのか、それは分からないが、音楽の中の「漂流する瓶に詰められた願い」が難破しても、何処か岸には届く筈なのだ。その岸で待っている人たちが居るならば、まだ音楽は「在る」可能性を孕む。

 最後にアドルノの言葉を、引用して皆に投げ掛けたい。

「(私は)音楽について語っているだけにすぎない。しかしながら、対位法的な問いかけがもはや和解しがたい葛藤を証言しているような世界とは、一体いかなる状態にあるのだろうか。生の震撼や硬直が、経験的苦境がその中にまでおよばないこの場所、不気味な規範の抑圧からの避難を許すと人々が信じているこの領域においてさえも、反照しているならば、生とは今日、なんと根本的に混乱したものであることか。人々への約束が果たされるのは、彼らが期待するものを拒否することによってのみなのである。」(『新音楽の哲学』より)

(松浦達)

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今さらって感じで申し訳ありませんが、サマーソニック特集です。

2010年のサマーソニック来日に際して取り下ろした、以下のアーティストたちのインタヴューが掲載されています!
BLACK REBEL MOTORCYCLE CLUB, BAND OF HORSES, EVERYTHING EVERYTHING, DARWIN DEEZ

また、過去におこなわれた以下のアーティストたちのインタヴューに関しては、このカテゴリーにも再掲されています!
THE DRUMS, NADA SURF, DELPHIC., PASSION PIT

そして、コントリビューター&編集部によるレポート/考察...という構成になります。

本日(10月18日)エヴリシング・エヴリシングのインタヴューをアップしました。サマーソニック特集は、ようやくこれですべてアップ完了です。遅くなって、すみませんでした!

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EVERYTHING EVERYTHING

ポップへの愛は抱きつつ、つい惹かれちゃうんだよね
ストレンジな要素を入れちゃうことに


忙しなく跳ねまわるメロディとファルセット・ヴォイス、マス・ロック的な複雑な構成を魅せるバンド・サウンド。コーラス・ハーモニーは奇妙さも内包しながら神々しい響きもときおり魅せるが、唄われる歌詞にも二重三重の知己に富んだ意味が委ねられ、その音はファンクともソウルフルともプログレッシブとも形容しうるし、そのうえポップでキャッチーなところも兼ね備えていて...。

マンチェスター出身のニューカマー、エヴリシング・エヴリシングは、目新しさという点で長年低迷と目されている英国ロック界のなかで圧倒的な存在感と貴重なオリジナリティをもった、まさしく待望のバンドと位置付けることができるだろう。いい意味でのヒネくれ方に、演奏力も表現力も新人離れしている。

最高のタイミングで日本限定リリースされたミニアルバム「Schoolin'」と、楽曲の複雑さはそのままに激しくエモーショナルに鳴らされたサマーソニックでのパフォーマンスで、"英国らしさ"にうるさい日本の音楽ファンの心も一気に鷲掴みにした彼ら。少し遅れての掲載となってしまったが、サマーソニックの翌日、渋谷Duo Music Exchangeでのライブ直前にヴォーカル/キーボードのジョナサンと、ベース/キーボードのジェレミーに話を聞いた。


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今さら、と思われるかもしれませんが、フジロック特集です(笑)。

2010年のフジロック来日に際して取り下ろした、以下のアーティストたちのインタヴューも、がんがんに掲載されます(「*」がついてる人たちは「Cominig Soon」となります)!
MGMT*, JOHNNY MARR×OGRE YOU ASSHOLE, !!!、BROKEN BELLS*、THE CRIBS*、LOCAL NATIVES、DETROIT SOCIAL CLUB

また、過去におこなわれた以下のアーティストたちのインタヴューに関しては、このカテゴリーにも再掲されています。
ASIAN KUNG-FU GENERATION、THE XX、LCD SOUNDSYSTEM、YEASAYER

そして、会場中を駆け回って撮影してくれた編集部(ウェブ・デザイン担当)山本徹氏によるフォトギャラリー、さらにはコントリビューター&編集部によるレポート/論考...という構成になります。

本日(10月18日)、デトロイト・ソーシャル・クラブのインタヴューをアップしました。それ以外のものは、全部アップされるまでにあと数ヶ月かかってしまうかもしれませんが(すみません...)、おそらく来年2月ごろまでには必ずアップできると思います!

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DETROIT SOCIAL CLUB

もしデヴィッド・リンチの電話番号をご存知だったら
「僕がスコアつけますよ」って伝えてもらっていい(笑)?


UK北部のニューキャッスルから現れた大型新人バンド、デトロイト・ソーシャル・クラブ。アルバム『Exitence』のもつ音の黒さにサイケデリックなムードと重く崇高な演奏はすでにスタジアム・バンド級の貫禄で、NMEなど現地マスコミやオアシスを初めとした大物バンドの支持を得て早くも人気爆発の兆しを見せている。

デトロイト・ソーシャル・クラブはバンドという体裁をとっているが、ヴォーカルのデヴィッド・バーン(超有名なアチラのデヴィッド・バーンとはスペルが微妙に違う:笑)の実質的なソロ・プロジェクトである。フジロックで魅せた正にロックンロールな激しいステージングと、英国ロックの伝統のひとつである不良っぽい佇まいにインタヴュー前は正直若干ビビっていたが、実際に話してみると実にイギリス人らしい、気さくでよく喋るお兄さんでイメージとのあまりのギャップに面喰ってしまった。サービス精神とユーモラスなへらず口(いい意味で!)も一級品だが、アートについての教養の深さも垣間見せる好人物な彼とのインタヴューをお届けしよう。


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b&s.jpg拝啓 ベル・アンド・セバスチャン様

 グラスゴーはもう秋の装いでしょうか?待ちこがれていた新作『Write About Love ~愛の手紙~』を聞きました。前作の『The Life Pursuit』が2006年だから4年ぶりとなるのですね。オリジナル・アルバムとしても通算8枚目だなんて、デビュー作の『Tigermilk』でさえついこの間に思えるのに、なんだか時の経つ早さを感じると共に、こうしてまた素敵な新作を聞けることをうれしく思います。それにしてもタイトルからして「Love」だなんてすごくストレートな表現で最初に聞いた時からどんな作品なんだろうとドキドキしていましたが、その名のとおり愛と優しさの溢れたアルバムで、改めて音楽の持つ「愛」の力に気付かされた気がします。

 アルバムの1曲目、今年のフジロック・フェスティバルのステージでもいち早く披露されていた「I Didn't See It Coming」のピアノとドラムのみのイントロから、サラ・マーティンの凛とした声でファースト・ラインの「Make me dance, I want to surrender」という歌詞が流れてきたときに、古い友人に出会ったような懐かしさと、その友人の新しい一面を見るような興奮を感じました。長く会いたかった友人に久しぶりに会ってみたら以前にも増して素敵になっていた、そんな感じです。

 その「I Didn't See It Coming」は後半になるにつれエレクトロ.ポップなアレンジが色濃くなりますね。それは、スチュアート・マードックのポップ・スターさながらのヴォーカルが印象的な「Come On Sister」でのキーボードや、同じくフジ・ロックでも聞けた「I Want The World To Stop」でのビートとマイナーなコード進行、スティーヴィー・ジャクソンによる「I'm Not Living In The Real World」のコーラス・ワークあたりにすごく顕著なのですが、これは前作同様にロサンゼルスンのスタジオで行なわれたレコーディングでプロデューサーをつとめたトニー・ホッファーとのコラボレーションの成果でしょうか。そうしたエレ・ポップさは流行のものというよりもむしろ80年代的なものも強く感じられます。もしかすると前述の1996年のファースト『Tigermilk』のプロデューサーだったアラン・ランキン、ひいてはアソシエイツなどの80年代のサウンドへのオマージュ/原点回帰といった意味合いもあるのかもしれませんね。スロー・テンポの「Calculating Bimbo」や、息が止まりそうなくらい繊細なアコースティック・サウンドが美し過ぎる「Read The Blessed Pages」など、初期~中期にベルセバ・サウンドを象徴するかのようなバラード曲を含め、アルバムからどこか懐かしさを感じられるというのはそうしたサウンド部分によるところも大きいのだと思います。
 
 もちろん最初に書いたようにアルバムには懐かしさだけでなく、新鮮さも同居していると思います。それはストリングス/ホーンの洗練されたアレンジなどにも感じられますが、中でも一番の驚きだったのが、ノラ・ジョーンズのゲスト参加です。前作と今作の間にリリースされていたスチュアートのソロ・プロジェクト『God Help The Girl』でも多数のゲスト・女性ヴォーカルが参加していましたが、グラミー賞も受賞したジャズ・シンガーである、あのノラとはびっくりです。でもそのスチュワートとのデュエットとなっているメロウな一曲「Little Lou, Ugly Jack, Prophet John」でのノラの力強くも優しい声は、ベルセバのサウンドに自然にとけ込んでいてその参加に納得するとともに、優れたポップ・ソングにおいてはジャズやソウルなどそのアーティストが(ともすればメディアに)分けられているジャンルに関係なく、その魅力が伝わりスタンダードに響くものなのだと改めて感じました。

 続くタイトル・トラック「Write About Love」にゲスト参加している、映画「17歳の肖像」で各国の映画賞を受賞していたイギリス新進女優キャリー・マリガンの初々しいヴォーカルもとても新鮮ですね。また、この2曲もそうですが、同じくスチュワートがこれから制作する映画のサウンド・トラックという位置づけだった『God Help The Girl』を経ているからなのかもしれませんが、今作は歌詞にストーリー・テリングなものが多く、以前のアルバムにも増してそれぞれのラヴ・ソングに自分の個人的な恋愛の経験や想いを重ね合わせた情景が思い浮かびます。特にアルバムの本編ラストを飾る曲「Sunday's Pretty Icons」(日本盤は「Last Trip」と「Suicide Girl」の2曲がボーナス・トラックとして収録されています)で最後に歌われる「Every girl you ever admired/Every boy you ever desired/Every love you ever forgot/Every person that you despised is forgiven」という福音のような響きの歌詞は、アルバムを象徴するかのように、そこで歌われてきた様々な愛の形とそこから思い起こされる自分の想いを、まるでハッピー・エンドのように祝福してくれていてしばらく涙が止まらないほど感動的でした。

 そうした懐かしさと新鮮さが溢れ、「愛」を感じさせてくれるアルバムですが、思えば、こうしたバンドとファンの関係も恋愛に似ているのかもしれませんね。うまく言えませんが、このアルバムでは今までの作品以上にバンドとのつながりを感じると共に、作品で表現されているその「愛」が自分の気持ちや感情の深い部分に根ざしていくような気がします。そして、それはとても素敵なことだと思います。ほんとうに美しいグラスゴーからの愛の手紙を届けてくれてありがとう。また日本で会えるのを楽しみにしています。

                                               敬具

(安永和俊)

*ただいま「ライト・アバウト・ラヴ~愛の手紙~」コンテスト開催中! 詳細はベルセバ日本オフィシャルサイト及びdigital Convinienceブログのこの記事をご参照ください。ベルセバ愛に満ちた↑の手紙も、英語に訳して本人たちに直接見せてあげたい!【編集部追記】

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brian_eno.jpg 2008年に久し振りにデヴィッド・バーンとブライアン・イーノが組んだ『Everything That Happens Will Happen』は興味深かった。彼等のウイットと知性が程好い緩さで交じり合い、そこには『Remain In Light』的な張り詰め方も強烈なハイブリッド性は無かったものの、確実なケミストリーがあり、奇妙な熱を放っていた。

   *          *          * 

 このグローバリーゼーションの世の中で、エドワード・サイードの言うようなオリエンタリズム的視点は有効なのか、疑念を持つ事がある。要は、先進国の人々の「得ぬ場所」への視線が「オリエンタリズム」と特徴づけられるようなものになる理由をどう理解するかという文脈を敷くと、単純に、先進的な人たちにとっての「遠い存在」とはただの「無知」に依拠するのではないか、ということがある。「よく知らない」から、無知ゆえに種々の誤解が発生しても、その発生の過程さえ無視するという悪連鎖。これと比して、先進国と発展途上国の「間」には隣接・交流・対抗の長い歴史があるが故に、その歴史の中では優位/劣位の時期の捩れを「深層」部分で捻じ曲げようという策略性が孕んでいるのではないか、という修整。「過去における劣位の記憶」を対象化するために敢えて位相を曲げてみて、そこで、「オリエント」とは果たして何を示唆するのか、興味深さをおぼえる。グローバル・スタンダードと発語したときの、スタンダードはもしかしたら、もっとシンプルな先進国諸国の強引な価値観の押し付けではなく、旧くに封じ込められた意識の問題としての標準測位としたならば、わざわざシビアな観点から世界を捌く必然性は無い。

          *          *          * 

 80年代後半だろうか、「ワールド・ミュージック」という棚が正式にどんどん出来だしたのは。そして、それまで雑多な枠に納まっていた音楽群に一応、「名称」がついた。アフリカ音楽ならユッスー・ンドゥール、サリフ・ケイタやフェラ・クティ、レゲエならスタジオ・ワン、ラテンならカルメン・ミランダ、カエターノ・ヴェローゾにジョアン・ジルベルト、加え、ヒュー・トレイシーなどのフィールド・レコーディングものも「再発見」され、レア・グルーヴとの「共振」を経て、モダナイズされる「未開の地の(実は、高度帝国化に或る程度毒されている)先進的でプリミティヴなビート」は世の中に還元され、あちこちの音楽家の手元に渡り、本当の「民俗音楽」は門外不出のように、また、その場所に行かないと分からない代物に成り果て、雑な「WORLD/OTHER」という棚だけが透明度を増し、誰かの音楽を「誰ものもの「へ橋渡そうという「試み」だけが空転した。言うならば、まだ未然犯罪のようにその棚に並べられているCDやレコード群は誰かを待っているのかもしれない、と思っていたら、配信の時代が来て、世界中の人たちが辺境の国の音楽を掘り下げられる事が出来るようになった。

「1980年代の一枚」によく挙げられることになり、現代ではヴァンパイア・ウィークエンド含め数多のバンドに影響を与え、ワールド・ミュージックのポップ側からの「平準化」の産物のスケイプゴートとして提示さえされているかのような、トーキング・ヘッズの『Remain In Light』とは何なのか、今でも考える。
 
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 アフロ・ビートの拝借、70年代前半エレクトリック・マイルス期のような循環するグルーヴ、DFA界隈に流れ込むような「人力のダンス・ビート」の産物にして、ブライアン・イーノとデヴィッド・バーンの音響工作の妙が最高精度まで高められた白人側からの黒人音楽、第三世界へ向けたオマージュのような、上澄みを掬うように、知識と度胸だけでギクシャク踊ろうとしてみせた当時のデヴィッド・バーンのサイズの合わないスーツで踊る「そのまま」のようなアルバム。

 この作品を巡っては、のちにキング・クリムゾンに加入するギタリストのエイドリアン・ブリュー、エンジニアの一人のジャマイカ人のスティーヴ・スタンリー、元ラベルのノナ・へンドリックスなどがいるように、人種・分野の横断・共同体的な「一枚」のセッションの結果の果ての、アフリカ音楽の白人側の拝借ではない、ニューヨークという土地柄が示す人種のメルティング・ポット、混雑振りを如実に顕したハイブリッドな都市音楽の側面が実は、強い。「肉体性」と「還るべき場所」を持たない(持ち得ない)白人たちが、「肉体性」と「戻るべき場所」を持つ黒人音楽の屈強さへ知識と好奇心でリーチしようとせしめたナイーヴながらも音像化した中でのデッド・キャン・ダンス。
 
 ロックという「伝統芸能」をパンクが「デッド・エンド」を表明して、相克していた時期、ロックは「未開のグルーヴや未開の音」を求めて、取り敢えず、プレスリーやビートルズやストーンズのレコードは「もう、分かっているから、いい」と横に置いた。非西欧音楽へ魅かれた汎的なノン・ミュージシャンたるブライアン・イーノが混じっての臨床実験は成功に終わったのか失敗に終わったのか、2010年に聴き返す『Remain In Light』は僕にはとてもフラットに新しく聴こえるが、それは何故なのだろうか。30年経ってまだ、光を保っているのかどうか。少なくとも、当時の論争にあった様な「西洋音楽によるアフリカに対する帝国主義」などといった言葉でもう片付けられる事はない事だけは確かな、核心的な表現が此処にはある。

 そして、保たれた光は「残存」している儘、この作品をもってトーキング・ヘッズのプロデュースを離れたブライアン・イーノがなんと2010年にWARPからアルバムを出すという時代を用意することになるという事実は非常に面白い示唆を孕んでいると思う。

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 タイトルは『Small Craft On A Milk Sea』。非常に柔らかなタイトルであり、基本、ここにはブライアン・イーノらしい「知性」を感じさせる以外、過剰なビートもボーカルも入ってこない。しかし、アンビエント調の曲の中に含まれる変拍子のビートを持った曲がもたらす「異化」作用が全体像に歪な印象論をもたらす。Warpから出たから、という訳ではないのだが、何故か僕はエイフェックス・ツインの『Drukqs』的なイメージを持った。それよりも、もっと悠遠でファストな感じは無く、「練り込まれた」様相はあるのだが、ギターにしてプロデューサーの若きレオ・エイブラハムズの影響と、ジョン・ホプキンスの効果もあるのか、もっと即興的な何かがある。その即興性の光の保ち方をして、ブライアン・イーノに関しては「換骨奪胎」と言えないのが彼自身の曲者性を示唆するというのがこの作品の奇妙な着地点を仮設定する。

 究極的に「純然たる音楽」を目指していたはずのブライアン・イーノはトーキング・ヘッズ時代からの都市的なハイブリッドな音楽の坩堝から離れて幾つものフェイズを潜り抜けて来ても、相変わらず「実験室」の中で白昼夢に混じる雑音に耳を傾けていたとすると、これは彼自身の独自の「途中経過報告」なのか、「来るべき新しい実験に向けてのワン・ステップなのか」と想いを馳せたくなるのは古参のファンの仕方が無いところだろうか。

 この、いささか支離滅裂なサウンド・アトモスフィアを示す『Small Craft On A Milk Sea』はいまだに「ポップ」に寄り添っており、また、都市音楽の真ん中で零れる電子音を拾い上げた微かな光が此処にあり、美しい独自の選択と集中によって編み込まれた音響工作は錆びていない。彼はまだ光に囲まれたままで居る(REMAIN IN LIGHT)。

(松浦達)

*日本盤は10月20日リリース予定です。【編集部追記】

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gold_panda_lucky.jpg「暖かいな」。これが、ゴールドパンダのファーストアルバムを聴いて、心に浮かんだ言葉だ。CDショップとかに行くと、「ポスト・ダブステップのニューカマー」として紹介されていたりするけど、よく言われるように、ダブステップではないと思う。そういう意味では、よく比較対象にされる、スクリーム『Outside The Box』と比べるのは、無意味ともいえる。ゴールドパンダ本人は、ダブステップを好んで聴くようだし、アルバムにも影響は見られるけど、それ以上に、シンプルな4つ打ちが、ゴールドパンダの味付けで味わえる。

 僕が思うに、「ダブステップの新しい流れを作り出す」という一部の期待を裏切るアルバムになっている。それは、一部の人の期待を裏切ることになるだろうけど、僕みたいに、端からゴールドパンダをダブステッパーとみなしていない人にとっては、期待通りの痛快なアルバムになっている。すごくパーソナルで、自分のすぐ隣にある音。音のひとつひとつが歌っているような、そのひとつひとつの歌が交わるとき、聴く者の頭に懐かしいような、それでいて、心地良い風景が浮かんでくる。このチープで素晴らしい電子音は、ここではないどこかへと連れて行ってくれる。クッキーシーンに既に掲載されているインタヴューにもあるとおり、まともな機材はTR-808くらいで、あとは名もないチープな楽器や機材で作られているけれど、ゴールドパンダの場合は、そこを本人のセンスでもって、みごとにすべてを調和させている(ゴールドパンダは本当にユーモアのある人で、インタヴューでダブステップの話になったときにジョーカーを例えに出したジョークはかなり面白かった)。

 見た目や性格はかなり文系なゴールドパンダだけど、そのなかに潜んでいる熱やセンスというのは、かなりぶっ飛んでいる。特に、「India Lately」の展開なんかは、「僕もう我慢できない!」的な、駄々っ子みたいな展開で、微笑ましくもある。かと思えば、抜けの良い爽やかで繊細な「Snow & Taxis」もある。僕はこの振れ幅の大きさにある種の狂気を感じるのだけど、どうだろうか? ゴールドパンダは野心を抱えているように思う。でもそれは「世界を変えてやる」とか、そういうがつがつしたものではなくて、「目の前の景色を変えていく」という極めて日常的な、まるでベッドルームに根ざしたような夢がある。シーンをひっくり返すとか、そんな大げさなものではなくて、「あなたの隣に住んでいる天才」の誕生を祝う、そんなアルバムだと思う。

(近藤真弥)

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antony_and_the_johnsons.jpg 大傑作映画のクライマックスを最初から見せ付けられるような1曲目にまず私はたじろぐ。緊張を強いる音楽だという固定観念があったのでなおさら。かつてアンダーグランド・カルチャーに魅せられた一人の青年は、ロンドンからニューヨークへと活動の舞台を移し、おそらくアーティーな人たちが多く詰め掛けたであろうアヴァンギャルドなシアターで注目を集めた。そのプロフィールから浮かび上がってくる彼の音楽のイメージは、日常とはまったくかけ離れたものである。それにも関わらず、私は彼の音楽に不思議な心地よさを感じる。前述の緊張ももちろんあり、胸の中に温かい液体が流れ込んでくるような安らぎも感じるのだ。

 最初に解禁されたシングル「Thank you for your love」は、やはりこのアルバムのなかでも際立ってポップ・ソングに近いニュアンスを持つ。ピアノとギターの美しい絡みのなかで徐々にホーン隊が存在感を増してくるところなどは、まさに至高の瞬間だ。それ以外のアルバム曲のほとんどは彼の名前から連想される、そこだけゆっくりと時間が流れる舞台のための音楽のようである。舞台の上ではバレリーナがソロを噛み締める気持ちで華麗に踊る。あるいは孤独な老人が見えない涙を流す。そこには不思議と絶望の概念が見当たらない。私たちはこの世界に光を見出し、自分のなかにあるフィーリングをひとつひとつ確認する。

 ビョークが参加した「Fletta」も大きな聴きどころではあるだろう。やはりこれはピアノ伴奏のみ。ポップという言葉を多用してレビューを済ませてしまえるアーティストでないのはたしかだが、アントニーの音楽は誰も拒絶しないし、狭いコミュニティのなかでひそひそと聴かれるようなものでもない。たぶん、海外の音楽に精通している人はアントニーの新譜なんて聴き逃すわけがないと思う。ぜんぜん、本当はこんな文章なんて必要ないくらい素晴らしいから。でも、もしアントニーの音楽と今まで無縁だった人たちがこのレビューを読んでくれていたら、『Swanlights』をじっくり堪能するために、ちょっと1日の最後の時間くらい空けてもらいたい。このアルバムには愛が溢れていた。今回は恥ずかしげもなくこんなことを書きました。

(長畑宏明)

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neil_young.jpg 僕は『The Bridge : A Tribute To Neil Young』というニール・ヤングへのトリビュート盤がお気に入りだった。このアルバムは、ニール・ヤングと奥さんが運営しているハンディキャップを持つ子供たちの支援施設へのチャリティを目的としたもの。参加していたバンドがとにかく豪華。ソニック・ユース、フレーミング・リップス、ニッキー・サドゥン、ピクシーズ、ニック・ケイヴ、サイキックTV(!)、ダイナソーJr.などなど。発売はグランジ前夜の1989年。ニール・ヤング本人は迷走の80年代を何とか切り抜けて、『Freedom』という傑作で「Rockin' In The Free Worldだろ!」と、再び声を上げ始めていた。

 20年後の今、ニール・ヤングの最新作『ル・ノイズ』が素晴らしい。プロデュースは、U2やボブ・ディランの名作を手がけ、最近ではブランドン・フラワーズのソロ・デビュー作にも参加しているダニエル・ラノワ。アルバム発売と同時にYouTubeにアップされた映像も必見だ。聖堂にも見えるバルコニーで、アルバム全曲を歌とギター1本だけで演奏するニール・ヤング。そして、ジャケット・デザインそのままの陰影を音像化するラノワのプロデュース・ワーク。フランス語っぽい『ル・ノイズ(Le Noise)』というタイトルは、訳すと「喧嘩」という意味もあるらしい。ノイズというには、繊細すぎるフィードバック。喧嘩というには、叫びから程遠い歌声が聞こえる。

 90年代を迎えた頃、ニール・ヤングはグランジの隆盛と共にシーンの最先端で活躍する。クレイジー・ホースを率いたファズの歪みと着古したネルシャツ、マーティンのアコギと美しいメロディは、パール・ジャムをはじめとする当時の若手バンドのリスペクトを一身に集めていた。ソニック・ユースを前座にツアーしていた時期もあった。どんなに分厚いフィードバックを轟かせても、その歌声だけは細く、時に頼りなさげ。それがどこまでもリアルで、僕たちの心を捉えて離さなかった。だけど、94年にカートがニール・ヤングの「ヘイ・ヘイ・マイ・マイ」の言葉を借りてこの世を去った。「錆びつくよりも、今燃え尽きる方がいい」。バカ野郎。

 『ル・ノイズ』はアート・ワークも音の粒子もザラザラでモノトーンだ。燃えカスみたいだ。錆びついちまったみたいだ。でも、あの歌声は今も変わらない。『ル・ノイズ(Le Noise)』ってタイトルは、プロデューサーのダニエル・ラノワ(LANOIS)のダジャレらしい。あんまり笑えないな。カートを失ったあとも、僕たちだってたくさんの時間を生きてきた。911、環境問題、経済不況、政治、戦争、人には言えない個人的なあれこれ。このアルバムの「LOVE AND WAR」という曲を聴いて欲しい。「愛と戦争を歌おうとしても、何て言ったら良いのかわからない」「間違ったコードで正義について歌った。それでもまだ、愛と戦争を歌おうとしている」。今ここにいて、声を出す。ノイズを増幅させる。あきらめてはいない。そう、まだ錆びついていないし、燃え尽きてもいないんだ。

(犬飼一郎)

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styroform.jpg 00年代の初頭~中頃辺りまでに頻繁に見られたエレクトロニカやポストロックにまつわる言説や狂騒の数々を僕は冷ややかに眺めていたものだけど(このスノッブ野郎ども! ってね)、2010年に聴き返したMorr Musicのレーベル・コンピ盤『Putting The Morr Back In Morrissey』(04年作)は思った以上に新鮮で、不意打ちのごとき郷愁に襲われてしまった。(電子音楽における必然で)音自体は経年劣化も多少見られるが、このときレーベルやアーティストが共有していた美学はいつまでも古びず残るのだろう...なんて、腕組み&したり顔で考えてしまったくらいだ。うまい具合にモリッシーを引っ張ってきたタイトルのセンスも、いち早くスロウダイヴの再評価に動いたりもしたレーベルの審美眼も、柔らかでヒンヤリ冷たいシンセの音色も、結構な時間の過ぎ去った今になっても素敵だなって思える。

 あのアルバムに参加していたミュージシャンやバンドもまだまだ元気だ。今年新譜を出した面々だけでも、ラリ・プナ(Lali Puna)は相変わらずメランコリックな光景をポップな電子音と淡々としたフィメール・ヴォーカルで描き出し、ソルヴェント(Solvent)は一時期標榜していた弾けたクラフトワーク的エレポップから『Putting~』の時代にレイトバックするかのように、聴く者を穏やかに包み込むやさしい響きを聴かせてくれた。どちらもやや地味ながら、噛めば噛むほど味の出る好盤だった。

 同じくあのアルバムにも参加し、早い段階でインスト・エレクトロニカに別れを告げたスタイロフォームの新作も長く聴ける作品になりそうだ。04年にリリースされた『Nothing's Lost』はポスタル・サーヴィスやアメリカン・アナログ・セット、ラリ・プナのもつアンニュイな空気やサウンドの影響を汲んだり(実際に各バンドのメンバーも参加している)、Anticonのエイリアスも客演してドープなヒップホップ的要素を取り入れたりと実験的でメロウな作品だったが、Morr Musicを離れて作られた08年の前作『A Thousand Words』がもつ、爽快感と甘酸っぱさを兼ね備えたストレートな歌ものエレポップ路線(こちらにはジミー・イート・ワールドのジム・アトキンスらが参加。ゲストの顔ぶれの違いが端的に作風の違いも現している)を本作も基本的に踏襲している。

 カラフルな色合いの映える自画像がデカデカと載ったジャケット同様に人懐っこい本作は、そのデザインが表わすとおり、ベルギー出身のスタイロフォームことアーネ・ヴァンテン・ペテヘムが基本的にはひとりで長い期間スタジオに籠って作りあげたそうだ。レコーディングの際もプロトゥールスには頼らなかったらしく、ヴィンテージな電子楽器を駆使したアナログな触感がパーソナルな作風を一層色濃くしているが、曲調は今までになくポップだ。アルバム冒頭の「Carolyn」は後期ニュー・オーダー直系のキャッチーなメロディ・ラインが素晴らしいし、続く「Get Smarter」ではアッパーで尖ったエレクトロ・ヒップホップを鳴らす。女声コーラスも絡む「Mile After Mile」や「What's Hot (And What's Not)」をはじめ、躍動感の溢れる気持ちいいエレポップもたくさん用意され、エモく力強いアーネの歌声は聴いていてなんだか励まされる。

 作中の歌詞には近年のベルギーにおける政治危機からインスパイアされたという攻撃的なメッセージも籠められていたり(「Kids On Acid」なんて物騒なタイトルの曲では、"これは何かが起こる兆候だ 目を覚ませ!"と警鐘を鳴らしている)、セックス・ピストルズのポール・クックとディーヴォのアラン・マイヤーズがゲストとしてドラムを叩いていたり(売れっ子グレッグ・カースティンがプロデュースしたディーヴォの新譜と、"(いい意味で)開き直れている"という点では通じるものも)、アッパーな曲調もそうだし外向的でシリアスな面も多々あるが、若手ミュージシャンではジェームス・ユール辺りにも通じるこのポップ・センスはやはり「人懐っこい」と形容するのが正しい気がする。

『Disco Synthesizers & Daily Tranquilizers』という超カッコいいアルバム・タイトルは、エルヴィス・コステロの1978年の名曲「This Year's Girl」からの一節を引用したとのこと。「This Year's Girl」といえば、当時のロック・シーンでもっともヒップな存在のひとりだったコステロが、ファッションの世界で煌びやかな脚光を浴び、同時に消耗していく女性の物語を歌いながら「最先端の流行なんてすぐ忘れ去られちまうぜ」と毒を振りまいた、自虐的/批評的要素を存分に孕んだ痛快すぎる一曲。たしかにディスコテークともいえるシンセ・サウンドも鳴っているし、日々服用する精神安定剤の代わりにもなってくれそうなこのアルバムだが、おまけにアーネ自身も「タイムレスなエレクトロニック・アルバム」を目指したというのだから、これは本当にベストの引用。1978年のコステロがもっていたシニカルな視線に匹敵する、文句なしのクリティカルヒット。

 リミックス・ワークの方でも活発に提供を続け(最近ではブロック・パーティのケリーが今年リリースしたソロ作なども)、本作にも流行への目配りは随所に感じさせられるが、ややオールドタイミーなスタイルに落ち着いている部分もあるし、≪This Year's Model≫と評するには少し無理がある気もする。とはいえ、今日び派手さがウリの楽曲なんて至るところに溢れているわけだし、ふと思い立ったときにこのアルバムを取り出し、静かな高揚感に浸るのはとても有意義だと思う。聴き飽きないという点でたしかにタイムレス。彼の目標はここで十分に達成されている。

(小熊俊哉)

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Im_not_a_gun.jpg オーストリア出身のトラック・メイカー、ジョン・テハーダと日本人ギタリスト、タケシ・ニシモトからなるデュオ・ユニットの通算5作目となるアルバム。ジョンによるトラックの上をニシモト氏の美しくも様々な表情を見せるギターワークが展開していくという基本構造は変わらないものの、以前よりジョン自身による生ドラムが大きくフィーチャーされており、ある種ロック的ともいえる躍動感が生まれている。一方で、言葉がないために一見抽象的な表現に偏りがちな音楽性なのだけれども"私は兵器ではない"というマニフェスト的なユニット名や、「In Sepia」、「Red or Yellow and Blue」といった言葉で彩られた曲名群、そして全体を貫くシリアスなトーンからは(具体的な言葉ではなく音の響きによる)何らかのメッセージの「色」が感じられる。

 あと、本作の幾つかの曲におけるニシモト氏のギタープレイにはヴィニ・ライリーのソロ・ユニット、ドゥルッティ・コラムを想起させる部分も。ヴィニ自身は全身音楽家で、まるでギター好きの少年が演奏に全身全霊を捧げるあまり、少年の心を持ったまま大人になってしまった、という印象がある。一方で、本作には「Music For Adults」というタイトルの曲がある。たしかにアイム・ノット・ア・ガンの音楽は卓越したテクニックと経験を持つ「大人」だからこそ奏でられるものだと思うと同時に、この曲におけるヴィニを思わせる「無垢」な響きからは、ひょっとして(技術だけに偏ることをよしとしないという)反語的な意味合いが曲名に含まれているのかも、なんて勘ぐりをしてしまう。

(佐藤一道)

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World_Penguin's_ Carnival2010.jpg 重量感のあるリズムなのにカラッと渇いたグルーヴに思わず身体が揺れる。サイケデリックやジャズなテイストも味わえる。そんな自由で郷愁な素晴らしい曲たちが収録された、PENGUINMARKET RECORDSの5周年記念コンピ。参加アーティストはsgt.、wooderd chiarie、MAS、middle9、Tujiko Noriko、Screaming Tea Party、egoistic 4 leaves等々。

 変則的なウネリが心地良いダンス・ミュージック、カラフルなエレポップに融合する声のない歌(ペンギンマーケットはインスト・バンドを中心に運営するインディーズレーベルなのです)は甘い響きを魅せる。そして、ソウル溢れるホーンセクションに、パンチのあるリズムと温かいメロディが優しく空間を包み込んでくれるのだ。緩やかに陽が沈み、素敵な仲間たちとの賑やかな夜が始まる...そんな気分が味わえるアルバム。それぞれのバンド、それぞれの音が個性を放っているのに、一体感のある〈現在〉の音が圧巻。

(粂田直子)

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miles_davis.jpg スピノザは、多重言語内の中で「人間精神を構成する観念の対象は存在する身体である」と言った。敷衍して、彼が示す「自由意思」について考えてみると、能動性とは「外部」からの力の作用を受けず、人間が自分自身の力のみによってなす行為であり、受動性とはその反対に、外部の力に作用されてなす行為であると言い換えられ、能動には精神の能動もあり、身体の能動もあるが、精神の能動は理性と呼ばれ、身体の能動は伸びやかな「自然な運動」を指すとしたならば、反対に精神の受動は「パッション」と称されるような心の情動を指し示し、身体の受動は心の命令によって為される運動を指すと換言出来る。その「パッション」が強烈にこの『Bitches Brew』には感じる事が出来る。観念、精神的に潜航していく情熱のような何かとサブライムな逸脱の意思に支えられた自由。


          *          *          *

 1960年代のマイルスを現在の視点から見直すと、面白い発見が幾つもある。

『In Stockholm 1960』でのジョン・コルトレーンとのエゴの張り合いからジョン・コルトレーン以後のサックス奏者を探す中で、ハンク・モブレーに出会ったものの、『Someday My Prince Will Come』では2曲でジョン・コルトレーンが参加しているという流れ。ただ、この作品で「意味が大きかった」のがテオ・マセロの手腕だということ。ここで鮮やかに見せつけられるテープ編集の妙、オーヴァーダビングの技巧は既に「サンプリング」とか「リミックス」の先駆けと言ってもいいのかもしれない。

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 ちなみに、1962年にはUKではビートルズがデビューして、1964年にはUSにも上陸している。また、ボサノヴァの隆盛もあった。アントニオ・カルロス・ジョビンの流麗なレヴェルは軽快に、多くの人に響いた。マイルス自身、負けん気の強い人だったので、1960年代、前半はそういったものに目配せしていたが故に、と言おうか、メンバー探しの苦闘下で、半ば休止状態にあり、『At The Blackhawk』、『Miles Davis At Carnegie Hall』のライヴ・レコーディング作品、ジョビンのボサノヴァに正面から挑んでみせたギル・エヴァンスとの1963年の『Quiet Nights』はレコード会社の「無理強い」だったのもあったのか、化学反応は起こらず、内容は特筆すべき要素は無い。

 そのような中、ロック界では1966年にはビーチ・ボーイズのマッドな音響工作の果ての極北とも言える『Pet Sounds』、1967年にあのサイケデリックなコンセプト・アルバムの至高作『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』がリリースされ、1969年のウッドストックに「向けて」のラブ・アンド・ピースを標榜し、何よりもヒップなものがロックだという認識がユース・カルチャーに定着しつつあるという時代の中、マイルスは「黄金のクインテット」として、テナーサックスにウェイン・ショーター、ピアノにハービー・ハンコック、ベースにロン・カーター、ドラムにトニー・ウィリアムスといった風情で『Miles in Berlin』、『E.S.P.』、『Miles Smiles』、『Sorcerer』、『Nefertiti』と怒涛のレコーディング体勢に入ってゆく。ここらの作品は非常にアグレッシブで<非>ジャズ志向に根差している。また、1967年以降の作品には、愈よエレクトリック要素が強くなってくる。そして、クインテットでのスタイルを終わりにして、ジョー・ザヴィヌルが書いた「In A Silent Way」で或る意味の「沸点」を迎える。テオ・マセロの執拗なテープ編集により、解体と構築の狭間を行くサウンド・コンクレート。それはもはや、ジャズでもなく、ロックでもないものとも言え、同じ演奏パートが複数回出てくるにも関わらず、全くの違和を感じさせない。

          *          *          * 

 ウッドストック・フェスティヴァルの開催の翌日から録音が開始され、3日間に渡るレコーディング・セッションはほぼノーカットでマスターテープにおさめられることになり、これを100分という内容に再構成したテオ・マセロと、マイルスの想像力と想像力のピークラインが巨大なキャンパスにぶちまけられたとも言えるパッションが溢れた作品が1969年の『Bitches Brew』になる。

 ドラムスを複数にして、パーカッションを加え、リズムをより多彩に複雑にすることにより、ロック的なリズム・パターンからポリリズミックなアフロ・ビートが行き交うアルバムになり、これがその後の「フュージョン」のベーシックな部分を担い、また、現代においても常に何かの際の参照点にされる作品だと言われるのはその美しいまでの渾沌だと言える。この「渾沌」は当時のビートルズ、ローリング・ストーンズ、ジミ・ヘンドリックスなどと「共振」していたとも思える部分があって、興味深く、ユース・カルチャーがロックにお株を奪われていた時代に、『Bitches Brew』が示した深い渾沌はジャズと呼ばれるジャンルさえも越境させたし、当時の旧いジャズ・ファンからは誹りも受けた。兎に角、時代より進み過ぎていたのか、ジャンルなんて括りなんてそもそも無視していたのか、よく分からないが、今年、40年目をセレブレイトしてか、再評価の波を受ける一端を担ってか、いや、現代的にもまだ通用するものとしてなのか、スペシャル・パッケージとしてリリースされた。

 このレガシー・エディションには「Spanish Key」、「John McLAUGHLIN」の初出となるオルタナ・テイク、「Spanish Key」、「Miles Runs The Voodoo Down」、「Great Expectations」、「Little Blue Frog」のシングル・エディット・ヴァージョンがボーナス・トラックとして追加されている。少し残念なのが、これは「Sanctuary」でこそ終わる「べき」作品だと個人的に想うだけに、そこにそれらを付け足した点は気になる。出来れば、別CDとしてセパレートして欲しかった。またプラス・アルファとして『Bitches Brew』発表後の1970年8月18日のマサチューセッツ州ボストン郊外のタングルウッド公演CDが付加されている。これは凄まじいライヴで、バンド離脱直前となるチック・コリアと、Wキーボードのもたらす昂揚感は特に痺れるものがある。更に、DVDには1969年11月4日デンマークのコペンハーゲンにおけるステージが入っており、ウェイン・ショーター、チック・コリア、デイヴ・ホランド、ジャック・ディジョネットという所謂、「ロスト・クインテット」と呼ばれる時期のアグレッシヴなパフォーマンスが収められている。約70分の演奏は、オリジナルのスタジオ録音を大きく編曲しているので、殆どフリーでまるで「曲」が「曲」なのかも分からないくらいのインプロが繰り広げられている。

          *          *          * 

 この2010年に『Bitches Brew』が好事家やコレクターだけに回収されるのは勿体ない、と思う。僕自身としては、マイルス・デイヴィスとしては『Kind Of Blue』しか知らない、とか、名前だけで何となく敬遠していたと言える人たちやユースにこそ手に取って欲しいと希っているし、このダイナミクスの力学が働いた音像に触れる事によって、ジャンルの細分化の果てにムラ化が激しいロックやジャズといったものの境界線を跨ぐステージ・パスになるような気もしているだけに、「レガシー・エディション」といった、如何にもな「大人のコレクターズ・アイテム的名称」の部分は除いて、本テイクやオルタナ・テイクなどを楽しみ、DVDでの映像の格好良さに痺れるのは単純に良いと思う。例えば、「Spanish Key」など緻密な構成のままで17分を越えるスリリングな展開を見せるのは昨今のジャム・バンドやインスト・ロック・バンドを想わせる何かがあるし、昨今のトータスやフライング・ロータス等の持つビート・センスやプログレッシヴな面を別位相から照射している光が宿っていると思えてならない。

 まだ、この作品に対する明確な「回答」は出ていないが故に、その問題に向き合う為に、この不気味なまでの自由に向き合ってみるのは今こそ大事な気がする。「聖域(Sanctuary)」は踏み込まれる為に在る。

(松浦達)

*日本盤は11月17日リリース予定です。【編集部追記】

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kataoka_tsurutaro.jpg 1909年のルーセルの『アフリカの印象』という作品を知っている人も多いだろうが、話はこうだ。南米に向かうヨーロッパの客船がアフリカの沿岸で座礁して、黒人の国であるポニュケレのタルーという王様に捕らえられ、身代金が到着するまで軟禁される。

 客船の中には、歴史家、名ダンサー、カウンターテナーの歌手、科学者、フェンシングのチャンピオン、発明家、彫刻家、銀行家、喜劇役者、オペラ歌手、魚類学者、医者、チター奏者、サーカス芸人など多々なる人が居て、軟禁されている間、暇潰しの為に有志で「無比倶楽部」というサークルを創る。そのサークルで戯れている間に、タルー王は敵国との戦争に勝ち、二つの国の王様になり、戴冠式の際に余興として無比倶楽部の面々が奇妙な出し物を披露する。頭蓋骨の中に灯りがつくカントの像、チターでハンガリーの舞曲を奏でる巨大な蚯蚓、丸薬を水に投げ込むと水面にメドゥーサの顔が浮かぶ水中花火...主にこの式内での処刑の模様と余興の描写が全面を占める。最後、人質は無事解放され、フランスの港で別れる。

 ピカビア、デュシャン等お歴々を虜にした、総てを「解放させる」非・意味の物語。

          *          *          * 

 もし、「この客船に片岡鶴太郎が居たらどうなっていたのか」、考えることがある。故・ナンシー関やリリー・フランキーやら諸氏に突っ込まれるまでもなく、「鶴太郎・的人間」だけはややこしい。若しくは、僕はそういった「心性」や「人間の在り方」に対して、徹頭徹尾「抗っていく」つもりの覚悟だけは揺るがないのは「自覚」している自分のイメージと巷間との誤差値の補整を試みていない所に尽きる。要は、ひょうきん族での「おでん芸」で名を為したのに、それを葬送したかの「ように」振る舞って、ボクシング、絵描き、俳優、文化人としてどんどん「素敵な自分」を彩っていく様態、人生の在り方そのものが奇妙な「上昇」に見えるフェイクにしか思えないのだ。

          *          *          * 

「芸能人」というのは儚い稼業で、また「イメージ」で成立しているとは言え、あの鶴太郎の筆文字や絵、そして、時折、物好きに組まれる「情熱大陸」的なドキュメンタリーをして、その裏に重厚な(ような)人生に想いを馳せる人たちもたまには居るとは想うのだが、そんなに人間という生物、なんて「重厚」でも「裏がある」訳でも無く(寧ろ、それぞれにドラマはある)、幾らスタイリッシュにダチョウ倶楽部がおでんの鍋を前に、芸をキメてみても、それを「伝承させた顔」で高みから観ている鶴太郎こそがが、今でも、「熱熱のちくわぶや大根を口に入れられるべき」だと思っている。「素敵な加齢」でブレイクスルーしたつもりで、谷村新司的にナイス・ミドルを気取っている「余白」は実は彼には無いのだ。

          *          *          * 

 たけしが、あれだけの立場になっても相変わらず扮装して「下らない芸」をやる限り、タモリが「昼間のお茶の間で、空虚にボケ続ける」限り、後進者にとっては壁は厚く、敵わないな、という嘆きに変容する中、彼だけは鮮やかに素敵に「全身芸術家」として体現する。全身を賭して文化人を演出する「鶴太郎という空虚な存在体」のもはやこの長年に及ぶ「裸の王様」振りを糾弾する者も居ない。いや、面倒だから「しない」のかもしれない。

 地方の百貨店や温泉街で見受ける鶴太郎作品展、コメンテイターでスーツに身を固める姿、お笑い番組で「坂上二郎の物真似」をしてみせながら、「いや、もう本当は、こんなのやらないんだよ。」と言いたげな顔、総てを対象化して、「おでんの鍋」を今すぐ、彼の前に用意しないといけないとさえ思うのだが、もはやそういった余地さえ彼の前では無いのか、彼が許されないのか、暗黙の内に「芸人→俳優→文化人→藝術家」という螺旋階段を昇っていった(下っていった?)様の、結果論を周囲や視聴者たちは享受はしない、拒絶している筈なのに、当の鶴太郎は「素敵」を纏う。その「素敵」は詐術としてのそれも孕む。

 しかし、鶴太郎的な存在に「思考停止」をしてゆく監視側こそが本当は重要で、それらがスルーしたイメージ分、当事者の過剰な自意識はどんどん肥大してゆくのだ。肥大していった自意識は「本体」を喰い尽す。だから、彼は「自分の描く、素敵な"俺"像」の追及のループの中で、必死に筆を執るのだが、周囲は別に彼の「自意識」に対して値札を貼ろうともしないからこそ、「おでんの鶴太郎」は永遠に、「誰もいない砂漠」に置いてけぼりになるか、YouTubeでの再生回数のみが膨れ上がっていくことになる。矢沢永吉みたいに「自分で自分を笑えて、アルバムに"ロックンロール"と名付けることが出来る」くらいは可愛いのだが、ボクシング、絵画、文化人、と手を出していく鶴太郎を視てきたこの10年以上、僕はどうにもうんざりさせられることが多かった。

 その「うんざり」は、オルテガ的に衆愚社会を憂うとかじゃない、自己批評精神の欠如や評論界の頽廃と近似してもいて、僕はまた彼が熱いおでんを食べて、リアクションが出来る世界に戻らない限り、どこかで見切りを付けるつもりでいる。どうでもいいよ、は罪だ。彼の「素敵な今」にナレーションは付けなくてもいい。今すぐ、おでん鍋を置くべきだ。

(松浦達)

2010年10月11日

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SUPERCHUNK

9年間あまり活動していなかった間もサポートしてくれたファンを
驚かせてエキサイトさせるようなものを作りたかった


スーパーチャンク・イズ・バック!!! 昨年リリースされた「Leaves In The Gutter」EP(日本盤はライヴ盤が付いた二枚組)や、最高だった来日公演からも予想出来た通り、9年振りのニュー・アルバム『マジェスティ・シュレッディング』は、21年目のバンドだとは思えないくらい若々しくてエネルギッシュな傑作に仕上がっている。ヴォーカル/ギターを担当するバンドの中心人物であり、マージ・レコーズのボスでもあるマック・マコーンにいろいろな話を聞いた。

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EDWYN COLLINS

レコーディングのやり方からも
本当にオリジナルな音が生みだされてきてると思う


日本では、元オレンジ・ジュースの中心人物ということから、いわゆる「ネオアコ」イメージでとらえられることの多いエドウィン・コリンズだが、正直「日本におけるネオアコ・イメージ」とオレンジ・ジュースは、相容れない部分も少なくなかった。たとえば今このサイトに掲載されているインタヴューだけでも、マニック・ストリート・プリーチャーズザ・ドラムスが嬉々としてエドウィンについて語っている...なんて事実からも類推されるとおり、彼が80年代以降現在に至るさまざまなバンドたちに与えた影響は、あまりに大きい。

90年代なかばには、傑作シングル「A Girl Like You」を含むサード・ソロ・アルバム『Gorgeous George』を世界中で大ヒットさせている。その曲が1994年から1995年にかけてのオン・エア・チャートを席巻しまくった本国UKやヨーロッパ(当時UKにいる機会が多かった筆者だが、本当にもうそこらじゅうでかかっていて、びびった)はもちろんのこと、アメリカでもバーナン(Bar/None)という極小インディーからのリリースでありながら全米トップ40に食い込み、ビルボードなど業界誌でも騒ぎになっていた。ここ日本でも、メジャー傘下ながら最初はインディー・ディストリビューションで数千枚を売り切り、少しあとにメジャー・ディストリビューションで数万枚単位の再発がおこなわれた(筆者=質問作成者がやっていたレーベルだし、数字的にもまったくウソはないですよ:笑)。

00年代に入ると、その90年代に自ら設立したスタジオでリトル・バーリーやザ・クリブスのプロデューサーとしても敏腕をふるいつつ新しいアクションが期待されていた。ところが今から数年前、突然脳出血で倒れ、存命さえあやぶまれていたのだが、ついに奇跡の復活をとげた。

そして最高のニュー・アルバム『Losing Sleep』を完成させた!

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まずは、すでにユーチューブにアップされている、アルバム・タイトル曲「Losing Sleep」のクールなモノクロ・ヴィデオ・クリップを見て/聴いてほしい。

この曲のレコーディングに参加した(リトル・バーリーの)バーリー・キャドガンも映っているようだ(彼らの音楽は好きだけどヘヴィーなファンではないので、はっきりわからなくて、すみません:汗)。そして、エドウィンの作品には『Gorgeous George』のころからずっと参加している(90年代なかばの、今のところエドウィンの最後の来日公演にも同行した)元セックス・ピストルズ、ポール・クックの勇姿も!

アルバム『Losing Sleep』全体には、ポールやバーリーのみならずザ・クリブスのライアン、同じく現ザ・クリブス/元ザ・スミスのジョニー・マー、ほかにもザ・ドラムスや(同郷グラスゴー出身で、オレンジ・ジュースの再発をドミノがおこなっていることを考えた場合レーベル・メイトともいえる)フランツ・フェルディナンドの面々、さらには盟友ロディー・フレイム(=アズテック・カメラ)といったキラ星のようなミュージシャンたちが参加して、エドウィンをいい形で盛りたてている(ちなみに、取材後にCD現物を見て気づいたのだが、元アズテック・カメラのドラマーでフリッパーズ・ギターの作品でも叩いていたデヴィッド・ラフィーも参加している。同名異人でなければ)。

というわけで、このアルバムおよびエドウィンの現状にせまるべく、電話インタヴューをこころみた。エドウィンと並んで、グレース・マックスウェルという女性も登場している。

彼女はエドウィンの「姉さん女房」的存在。エドウィンとにあいだにひとり息子がウィリアムがいる家庭内のみならず、ソロ・アーティストとなってからのエドウィンの音楽活動面もずっと仕切ってきたマネジャーだ。90年代に先述の大ヒットを飛ばしたあとも、エドウィンはビッグなマネジメント・オフィスとは契約せず、プライヴェート・マネジメント・スタイルで、DIY的に活動をつづけている。グレースは、公私ともにエドウィンのよきパートナーであり、脳出血後の最初は朦朧とした状態から始めてエドウィンが作りあげた新作『ルージング・スリープ』の、ある意味最も重要なスタッフといえるだろう。

基本的に「反保守派」であるエドウィンは、90年代なかばの段階でも、彼女との「籍」を入れていなかった。今はわからないけれど...というか、日本盤ライナーノーツ(無署名ではあるが力の入ったいい原稿。おそらく海外のライター氏によるものだと思う)によれば、エドウィンが脳出血で生死のあいだをさまよったあと、最初に発することができた言葉は「グレース」「マックスウェル」「イエス」「ノー」だけだけだったという。泣ける話ではないか。

OMD

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OMD (ORCHESTRAL MANOEUVRES IN THE DARK)

年寄りがつまらないレコードを作るのは
彼ら自身がつまらない気持ちでレコードを作るからだよ


OMD_1009_A1.jpg
オーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ダ・ダーク...闇にまぎれたオーケストラ的戦略...、略してOMD。そう名乗る彼らは、70年代末にリヴァプールから登場したエレクトロニック・バンドだ。ほぼ同時期にシェフィールドから登場した初期ヒューマン・リーグやキャバレー・ヴォルテール、エセックスで結成されたデペッシュ・モードが今も一定の評価を受けているのに比べ、彼らに勝るとも劣らない素晴らしさだったOMDの知名度が、現在とくに日本で低すぎるのはなぜだろう?

その理由は、なんとなくわかる。たとえば出世作となった1980年のシングル「Enola Gay」には、広島に原子爆弾を投下したアメリカの戦闘機の名前をタイトルに冠するなど、その一見脳天気なメロディーとは相容れないテーマ性が隠れていた。逆に、60年代の有名なポップ・ソングからタイトルだけを拝借した1984年の「Locomotion」という曲(これだけ有名な曲のタイトルを「パクる」なんて並の神経ではできない:笑)が入っていたポップかつエクスペリメンタルな傑作アルバムは『Junk Culture』と題されていた。なんて素敵なタイトル! こういった、ちょっとねじれた皮肉っぽさが、「単純にクール(だということがわかりやすい)」ものを求める層には理解しづらかったのかもしれない。

彼らの魅力のひとつは、ポップかつキャッチーであること。だけど、アイディア一発のエクスペリメンタルなサウンドも刺激的。1981年の傑作アルバム『Architecture & Morality』などには、はかない美しさも漂っていた。OMDの音楽は、ある一定のイメージでとらえることがむつかしい。80年代を代表する青春映画『プリティ・イン・ピンク』で使用された1986年の「If You Leave」も、あまりにヒットしすぎた。オリジナル・アルバムには入っていない、サウンドトラックからのシングル・カット・オンリーだったこの曲の大成功が、彼らのイメージをさらに拡散させてしまった。超名曲だと思うし、いまだに大好きなんだけど...。

1979年のデビュー・シングル「Electricity」は、最初マンチェスターのファクトリー・レコーズから出たあと、メジャー傘下レーベルから新ヴァージョンが再リリースされた。このヴィデオは、当時の、いわゆるポスト・パンク的なノリをよく伝えている。あのままファクトリーにいつづけたら、今も「クール」な存在と目されていたのだろうか? 歴史に「もしも」はないとはいえ、よくわからない...。

そんな彼らが、80年代の全盛期のラインアップで活動を再開していたことは寡聞にして知らなかった。しかし、突然届けられた(このラインアップとしては)24年ぶりのニュー・アルバム『History Of Modern』が、マジで、いい!

80年代前半まで(ヴァージン系に移籍したあとも)彼らのアートワークを手がけていたピーター・サヴィル(ジョイ・ディヴィジョンやニュー・オーダーなど、ファクトリーの一連の作品のアートワークで知られるデザイナー)と27年ぶりに組んだことも注目される。とりあえず、リード・シングル「If You Want It」のオフィシャル・ヴィデオをチェックしてみてほしい。この、実録ドキュメンタリーなのかアートなのか悪ふざけなのかよくわからない感じも、実にOMDっぽい(というか、最高!)。

そして、少しでも彼らに興味を持ったら、是非以下のインタヴューを読んでみてほしい。ちなみに、キーンとか、(ヒューマン・リーグやキャバレー・ヴォルテールと同じくシェフィールドから登場した:笑)アークティック・モンキーズなんてバンド名も、インタヴュー前半の重要なキャラクターとして登場。他にも、ファクトリー・レコーズ主宰者であった故トニー・ウィルソンのエピソードとか、いろいろ出てきますよ!

2010年10月

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  • フランキー・アンド・ザ・ハートストリングス

    20年後に改めて振り返っても誇りに思えるような作品づくりを目指している

  • ゴールド・パンダ

    僕は歌詞とかヴォーカルがなくても、"曲"ってものを作りたいんだ

  • ハンネ・ヴァトネ

    私は旅行しているような気分でプレイしたいの

2010年10月1日

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paraelle_live_6.jpgall 
photos by Takanori Kuroda

2010年9月28日

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ash_2.jpg 2週間に1曲リリースし続けるという「A-Z」シリーズでは、いまのアッシュが持つサウンドのパターンみたいなものを確認することができる。まずはこの企画の口火を切った「Return of white rabbit」、今回の「Vo.2」に収録されている曲のなかでは「Binary」「Instinct」に代表される電子音の大胆な導入。決してエレクトロ方面へシフトしたわけではなく、例えばキーンの「Everybody Changing」に使用されていた程度の丁度良い塩梅。ティムの声との相性のよさも際立ったし、ダンサブルなチューンはフロアでも威力を発揮した。もうひとつはいくつかの曲で採用されている比較的長い尺のエモーショナルなギター・ソロ。彼らは永遠に純粋なギター・バンドなんだ、と安心できるし、年月を経ても大人の渋いバンドにはならず、いつまでもティーン("心は"ティーン、の人も)を熱狂させ続ける身近なヒーローの役割を買って出たような印象も受ける。もちろん「Change your name」のようなアコースティック・バラッドだって涙が出るほど素晴らしい。

 ウィーザーも最近新作を短いスパンで出して元気だし、イギリスでもアメリカでもこういうバンドが存在感を失わない、というのは何というか、健全という気がする。だって、ややこしいことは抜きでさ、こういうキャッチーでノリノリでクールなバンドはみんな好きだよね(そういえばウィーザーだけじゃなくて、フィーダーもシャーラタンズも、長い間頑張ってきたバンドたちがいま再びモチベーションを上げてきている、というのは頼もしい事実だ)。

 今回の「Vol.2」で一応シリーズは完結したわけだが、最後までテンションを落とすことなく本当に「シングル・レベルだけ」をリリースし続けたのは、まさにネット時代のパイオニアと呼ぶに相応しい。そして彼らは普通であれば何年も悩んでやっと一枚のアルバムを作ってツアーをまわって築き上げていくようなバンドの新しいアイデンテティを、こんな短期間で手にしてしまったのだ。次が楽しみで仕方ない。もはやアッシュ・ファンにとって共通のアンセムが「Shining light」ではなくなってしまったかもしれない。今回の「A-Z」シリーズでアッシュの大ファンになった若いファンも大勢いるだろう。アルバムというフォーマットの可能性を信じ一枚で素晴らしい物語を演出するバンドもいる一方で、アッシュはそれに早々と見切りをつけた。かつてビートルズやモータウンのグループが奇跡のようなシングルをリリースし続けた時代に想いを馳せ、誰もが口ずさめてハートがキュッと締め付けられるようなポップ・ソングを書き続けた。素敵じゃないか。

(長畑宏明)

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ra_ra_riot.jpg ボーカルのウェス・マイルスがヴァンパイア・ウィークエンドのギタリスト兼キーボーディストのロスタム・バトマングリと、ディスカバリーというエレクトロ・ユニットで活動していることなどでも注目を集め始めていた彼ら、ラ・ラ・ライオット。しかし、それも一部の熱心なUSインディ・リスナーに限られており、まだまだ日本では無名の存在だったが、ここにきて、彼らへの関心の幅はどんどん広がっている。それは、ひとえにASIAN KUNG-FU GENERATIONが企画するイベント、NANO-MUGEN CIRCUITの前座として全公演で彼らが抜擢され、各地で名演を繰り広げたことと、そのアジカンのフロントマン、後藤正文による新レーベル、only in dreamsによるファースト・アルバムの国内盤がリリースされたことが大きいだろう。間違いなく、このチェリストとバイオリニストを携えたニューヨークのバンドは日本にじわじわと浸透していっている。

 勢いが増していっている中、満を持してリリースされるこのセカンド・アルバム、『ジ・オーチャード』は、彼らが出演したシアトルのライヴレポでも書いたように、前作『ザ・ランバ・ライン』より、よりダイナミックなサウンド。10曲中、9曲をデス・キャブ・フォー・キューティーのクリス・ウォラが、1曲を先のロスタム・バトマングリがミックスを担当している。
 
 前作より豊満になったサウンドではあるが、それはふくよかさといった表現のそれとは少し違う。このアルバムのサウンドを例えるなら、誰もいないキャンプ場、夜の闇が深まったロッジの中で、窓からその闇が濃くなるのを眺めている感じ、だろうか。要するに、前作より豊満になったのは、妖艶さだ。確かに、「Boy」などのアッパーなチューンもあるが、アルバム全体を覆う空気はどんよりとしながらも頭を冴えさせるような暗がりのトーン。特にそれが表れているのが、中盤の「Massachusetts」や「You and I Know」といった場面だろう。これらのムードは確実に、新たに彼らが獲得したものだ。
 
 そして僕は前作を聴いた限りでは、彼らの楽曲はそれぞれ曲単位で、どこかスロー・スターターというか、盛り上がりどころが少し遅れているんじゃないか、と思う部分もあったのだが、このアルバムの楽曲はどれもコンスタントに盛り上がっていて(あるいはコンスタントに盛り下がっていて)、それもクリアしていて良い。しかし、前作に比べると、アルバム全体を通して聴くと平坦で、どこか物足りなさも感じてしまうところもある。彼らの世界観が徐々に構築し始めている事を存分に感じられる作品であるだけ、そこは少し残念だが、それも含めて彼らの道程なのだろう。ここから向かう先に期待しつつ、彼らの躍進をチェックしていたい。

(青野圭祐)

*日本盤は10月27日リリース予定。その前に、彼らの最新インタヴューが10月20日ごろにはこのサイトにアップされる予定です!【編集部追記】

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amusement_parks_on_fire.jpg イギリスで活動している、現在5人組編成のアミューズメント・パークス・オン・ファイアの新作である。ミキサーを変更させること14人、制作に4年を費やし、どこかマイ・ブラッデイ・ヴァレンタインのエピソードを彷彿とさせないでもないが、前作に比べ、アレンジの幅や音の厚みが明らかに向上している。
 
 今、新しい世代のシューゲイザーバンドの、いわゆる出世作からの次の一手が次々に登場している状況にあると思う。スクール・オブ・セヴン・ベルズはよりクリアで鮮明な世界観を表しているし、ディアハンターはより深い陶酔を感じさせる、妖しくも美しい名盤を作り上げた。ただ、アミューズメント・パークス・オン ・ファイアの例を挙げる前にあらかじめ断っておくと、彼らはシューゲイザーという括りを嫌っている。サウンドにおける共通項はマイ・ヴィトリオールや、昨年に2ndアルバムを出したシルヴァーサン・ピックアップスなどのバンドが一聴して頭に思い浮かぶ。シューゲイザーを含む当時の90年代オルタナ・シーンの影響下にある バンドといった方が正しいかもしれない。
 
 そこで彼らである。前作『Out Of The Angels』をリリースしたことで一気に知名度が世界的に高まった。しかしどこか、アレンジの多彩さに欠け、また1曲の尺が長い曲が多くそれを活かせていないような印象も受けたのも事実だった。今作は、曲の構成がコンパクトになり、より全体を通じて聴き通しやすくなった。そして重さと厚みを増したブリザードのようなギタ ーはそのまま、音の説得力を引き上げることに成功している。彼らは間違いなく強度を高め進化したといえる。ただ作風自体に大幅な変化は見られず、期待も予想も裏切ることなく、完成度が高められていると言える。ここまでの順当な成長は予想通りだとしても果たして次作は...? という懸念が拭えないというのも事実。 
 
 ところで、このCD、買うならぜひ日本盤を手に入れることをお薦めしたい。ボーナス・トラックの、先行配信されたEPのタイトルにもなっている11曲目「Young  Fight」という曲が素晴らしい。轟音で空間を埋めるギターは影を潜め、あくまで歌を引き立たせるために後ろに配置されることで、メロディーの良さが浮き彫りになっている。このアルバムの最後を飾る美しい曲に、彼らの新しい可能性を感じた。

(藤田聡)

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  superpitcher.jpg デビュー時から天才と言われていたスーパーピッチャー。もしかしたら、マイケル・メイヤーとのユニット、スーパーメイヤーなら知っているという人もいるかも知れないけど、ソロでも良いアルバムを残している。前作『Here Comes Love』は、当時のフロアを意識した音が多かった。今作『Kilimanjaro』も、今の音楽シーンを意識した音を鳴らしているのだけど、フロアよりも、チルウェイヴに寄っていて、なかなか面白い。そもそも、チルウェイヴがディスコを強く打ち出した曲が多いから、あくまでテクノ/ハウスを基本とするスーパーピッチャーからすれば、取り入れやすい音楽だったのかも。

『Kilimanjaro』は、前作以上に「歌」が多いのも特徴で、ビートや構成はミニマル・テクノのそれだけど、電子音でさえ、アコースティックな響きを持った、なんとも不思議なアルバムになっている。個人的には、アコースティック・アルバムを作っても、かなりの物が出来上がると思うのだが、どうだろうか? テクノ・シーンから支持を受けているのは当然としても、フォールズなどのインディ・ロック勢からの賛辞もあったりするし、そういう意味では、スクリームの新譜と同様に、「場所やジャンルなんて関係ない」という意味での「ポップ」が、『Kilimanjaro』では鳴っているともいえる。どの曲も、尺は長いながらも、聴いていくうちに、耳が曲に惹きつけられていって、それは、スーパーピッチャーの音の抜き差しの巧みさもあるが、今作が「歌」のアルバムであるように、やはり「歌」が面白いからだと思う。

 僕は昔、ニュー・オーダーの曲で空耳アワーに投稿して、手拭いを貰ったことがあるんだけど、『Kilimanjaro』もそうした空耳の宝庫である。「裁判裁判裁判」とか、「ハゲねハゲねハゲね」とか。僕の英語力で聴く限り、歌詞にたいした意味はないと思うのだけど(だって、「キリキリキリマンジャロ」だからね)、そうした意味の無い歌詞や音楽が残ることもあるわけで、必要以上に「歌」を加護しすぎてない感じが僕は好きです。アルバム全体としては、ストイックという感じではなく、ドリーミーで、心地良く景色が歪んでいく感覚と共に、だんだん日常から浮遊的に離脱していく流れとなっている。空耳もそうなんだけど、音そのものに幻覚が見えたりしてきて、1曲目の「Prelude」のチャイムの音から飛ばされ、次のダビーな「Voodoo」で、完全に向こう側の世界へ。はっきり言って、『Kilimanjaro』は、害のないドラッグです。『Kilimanjaro』を聴けば、半分くらいバロウズやギンズバーグになれるのではないでしょうか? 『Kilimanjaro』を聴きながらやるセックスは、絶対気持ち良いと思う。

(近藤真弥)

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royksopp.jpg 「透明な沈黙」(青志社)という本は面白かった。透明標本とヴィトゲンシュタインという、あったようで無かった組み合わせ。「語ることのできないものについて人は沈黙しなければならない(Whereof we cannot speak, thereof we must be silent.)」というヴィトゲンシュタインの言葉通りに、沈黙を保つ透明標本越しに論理記号論がオーバーラップして、論理とは、「詩」の形式を取り得るのだ、と教えてくれた。

 既に前作の『Junior』の時点で約束されていた双子作と言っていいだろう『Senior』は透明性の高い沈黙を帯びている。タイトルからしても分かるとおり、前作と対照的な内容になっている。ダウン・ビートが主体に押し出され、アンビエント、チルアウト的な側面が押し出された音響の編み込み方に凝られた実験的でヒプノティックな作品になった上、前作にあった「Happy Up There」に代表されるユーフォリックな要素は減った、というか、全くと言っていいほど、無い。その分、「Tricky Two」に見受けられるクラフトワーク的な反復ビート、ブライアン・イーノの70年代の作風を想わせる「The Drug」、ボーズ・オブ・カナダのような白昼夢的なサウンドスケイプを描く「Forsaken Cowboy」、ふと不気味に人の声が混じるアンビエント曲「A Long,Long Way」など音楽的レイヤーはかなり緻密な形で生成されている。

 北欧はノルウェーからのエレクトロ・デュオとしてロイクソップが出てきた時、僕はそこまでのシンパシーも魅力も感じなかった。「Remind Me」のエレ・ポップの心地良さ、「Poor Leno」における柔らかく重ねられてゆくビートなど「よく出来ている」が故に、時にケミカル・ブラザーズが持つような「大味」的な部分も少し感じてしまったのもあるし、エレクトロニカといった音ではないし、ファースト・アルバムの『Melody A.M.』の持つ繊細さと眩みならば、エールの『Moon Safari』や『The Virgin Suicides』やスティービ・ライヒの諸作辺りに分が上がった、というのもある。ダンス・ミュージックでもアンビエントでもエレクトロニカでもない中途半端さに耐えられなかったのかもしれない。また、ロイクソップの電子音の連なりに浮かび上がる静謐さにはどうにも「色気」を感じなかった。例えば、ロイクソップの二人も敬愛するクラフトワークとは実はとても「色気のある音楽」であり、それはあの反復するマシン・ビートの無機性の中にふと立ち昇る人間味があるからだ。その意味で、彼等はまだマシン・ビートに徹するよりも、人間味の部分を先にサウンドに練り込んでしまったと言える。とはいえ、十二分に精巧には練られている冷ややかなサウンドの質感はしっかりダンスフロアーやベッドルーム・ミュージックに回収されていったのは喜ばしいことだった。

『Melody A.M.』がロング・セールスを続ける中でのセカンドの『Understanding』はデペッシュ・モードやニューオーダー好きが功を奏したのか、ダークながらより踊ることが出来る要素が増え、ヴォーカルの要素も多く入り込み、ゼロ7やグルーヴ・アルマダの間を行くようなポップな振り切り方をしたという点で、僕自身は評価出来た。ファーストにあった北欧的な繊細さ、というイメージが只管、売れ続けている(求められている)瀬で、このハンドルの切り返しはなかなか曲者ではないか、と思っていたら、昨年の『Junior』では一気にポップに弾けたのには驚いた。まるで、初期とは別のユニットになったかというくらい、躁的なヴァイヴに充ち溢れ、80年代的なシンセ・ポップ、エレ・ポップの要素を強烈に感じさせ、ペット・ショット・ボーイズ、『PLAY』時のモービーのような押しの強さがあった。だが、その為か散漫な内容になってしまい、アルバムとしての一貫性が少し損なわれている印象も否めなかったが、今回、その『Junior』と同時期に作られていたという『Senior』が持つアルバムとしての統一性の素晴らしさには唸らされる。

 ポップ・サイドは『Junior』に、そうではないものは『Senior』という切り分けしていたと言っているが、そんなレベルでは片付けられないこの『Senior』は彼等の徹底した美学を感じる。一点、残念なのは時折、伺える硬いエレ・ビートが打ち出された時に、少し全体の世界観を持ち崩すという所かもしれない。それを差し引いたとしても、沈黙を透明標本越しに語る今回の導線付けは大したものだと思う。よくある比喩の「映画のサウンドトラック的な」、という見方は的外れであり、ANOTHER GREEN WORLD(もう一つの緑の世界)を突き抜けてゆくエクスペリメンタルな部分を評価すべき作品になったと言える。

(松浦達)

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love_language.jpg ローカル・ネイティヴスを観に来たつもりだった。9月のシアトルのダウンタウンのライブハウス。オープニング・アクトの2バンドのうち、後に出て来たのは、やけにドラマーの身長が高いニヒルな笑みを浮かべるイケメンたちと紅一点のキーボーディストがいるバンド。サウンド•チェックもメンバーが行っており、「よくある西海岸のオルタナ・バンドか」などと僕も特別な関心を抱かずに、その光景を眺めていた。
 
 しかし、ライヴが始まると突如、凄まじい轟音を鳴らし、先ほどまでの笑みは消え、一心不乱に各々の楽器をかき鳴らすメンバー。最初の曲こそ、どちらかと言えば、オーソドックスなオルタナティヴのフォーマットに乗っ取った曲だったが、ライヴが進行していくにつれ、インディ・ポップ、シューゲイザー、ドリーム・ポップと様々なジャンルを横断するレパートリーの曲が立て続けにプレイされる。メンバーも、時には楽しげにしているかと思えば、次の瞬間には、真剣な眼差しのまま暴れ回っている。そのステージは、バンド編成も相まって、僕にソニック・ユースやスーパーチャンク、あるいはペインズ・オブ・ビーイング・ピュア・アット・ハートといったバンドのそれを彷彿させた。「何だ、このバンドは?」ライヴ中盤には既に、僕はローカル・ネイティヴスの事を半分忘れたように、このバンドに夢中になっていた。ライヴが終わると物販に走っている自分さえいた。
 
 長くなったが、このバンドこそ、ザ・ラヴ・ランゲージである。

 最初のサウンド・チェックの時の僕の印象とは違い、彼らはアメリカ東南部、ノースカロライナ州チャペルヒル出身のバンドだ。チャペルヒルと聞けば、すぐに、あるバンドとそのメンバーが経営するレーベルを思い浮かべることが出来るリスナーは、お目が高い。スーパーチャンクと、マージ・レコードだ。そう、このザ・ラヴ・ランゲージもマージ・レコード所属の新人で、スーパーチャンクのフロントマン兼マージのオーナーであるマック・マクガワンが彼らを聴くや否やお気に入りバンドの一つになり、マージ入りしたと言う逸話がある。このアルバムはそんなマージとの関係で初めてリリースされるセカンド・アルバム。
 
 さて、アルバムはと言うと、これが一聴するとライヴの雰囲気とはまるで違って驚きを隠せなかった。もちろん、先述の要素は含んでいるのだが、どれもどこか中途半端な印象がある。しかし、ライヴの時には感じられなかった60'sに通じるような、どこか古くさくもサイケなテイストが、彼らの本来持っているインディ感と相まって、斬新に聴こえて良い。特に「Horophones」などは現代のシューゲイザー・リヴァイヴァルを通過した後のシーンの感覚とフォーキーな感覚が合わさって異色のメロディーを聴かせてくれる。ありそうでなかった組み合わせに、面白みは存分に感じられる。
 
 しかし、あえて言おう。このアルバムは、彼らの魅力を全てはパッケージングし切れていない。もちろん、彼らの魅力の大きな一部分はここにある。しかし、僕がライヴで観聴きしたような、あの新しいUSインディーが生まれる時の音は残念ながら、あまり聴く事ができない。ライヴでは開けた印象だったが、このアルバムはどこか全体的に閉じているような印象を与えるのもその一因かも知れない。もし、彼らの音源を気に入ったなら、是非、ライヴを視聴するなり、実際に足を運ぶ事を強くお薦めしたい。もしくは、僕がライヴで観た時に「日本人の耳にも絶対に届くはずの、届くべきサウンドだ」と思ったように、静かに来日を心の片隅で願って待つのも良いかも知れない。
 
 彼らが、このアルバムの異色の感覚とライヴで魅せてくれたような感覚を合わせられて、提示する事に成功したならば、彼らは新しい感覚を僕たちに届けてくれるバンドの一つになる事は間違いない。そう思いながら次作を期待していたい。

(青野圭祐)

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mice_parade.jpg 輝いていて満ちていて、どうしようもなく憧れてしまう音楽が時として生み出される。ただただ憧れ、聴くたびに何度も反省させられる音楽。そういった作品に出会うことはある種の事故だ。自分の価値観というものがバラバラに解体されて、それまで抱いていた常識が否応なしに塗り替えられる。だから僕は音楽を聴く。そして再び音楽によって自分は解体され、その連続の中に身を置くことが音楽を呼吸することだと思っている。08年のフジロックや今年のタイコクラブに出演し、すでに来年にも再来日公演が決定しているマイス・パレードの『What It Means To Be Left-Handed』がまさにそういった作品だ。NYの結成10年を超えたバンドの中心人物アダム・ピアースのセルフ・プロデュースによる3年ぶりの新作である。

 マイス・パレードのみならずHIMやランシング・ドライデンなどでも活動し、ディラン・グルーでも中心人物として活動していたアダム・ピアース。彼にはひねくれたところがあった。ジョン・ケージの「4分33秒」をあえてカヴァーし、エイフェックス・ツインの曲まで生楽器で演奏したりと、茶目っ気というか無邪気さというか、ただの好奇心なのか、何か面白いことをやってやろうという遊び心があった。が、そこに僕はふてぶてしさのようなものを感じてしまったのも確かだ。本作はブラジル音楽の西洋的解釈かと一瞬思ったが、その一言で片づけることの出来ないサウンドで、ふてぶてしさもサッパリ削ぎ、アダム・ピアースの音に対する純粋な姿勢が宿った色彩豊かなイノセントな音がこぼれそうなほど詰まっている。

 スワヒリ語ヴォーカリストのソミ、メレディス・メルドーや、クラムボンの原田郁子など、多くのゲストを招いたが大げさなサウンドにはなっていない。過去の実験的な作風の匂いはあるものの、かつてのひねくれたところは一切なく、前作のメロディを大切にする路線を押し進め、アコースティックを基調とする路線も変えず、凝ってはいるが決して嫌味に聴こえない。レモンをかじったような甘酸っぱい音が広がっていて攻撃性や哀感を削いだサウンドは、自宅のスタジオでレコーディングされたこともあってか親密性が高い。音が肌に触れるような感覚があって大歓迎だ。

 ブラジル音楽、ジャズ、フォークなど様々なジャンルを取り入れているのは過去の作品同様だが、実験的なサウンドには聴こえない。むしろ実験を重ねた末にやっと掴んだポップ感が清々しい姿となって聴こえてくる。そこには宙を漂うような幻想感が込められていて一瞬で虜になった。ほうきでサッと雲を掃いたような青空のもとで鳴らされているような本作には光によって照らされる感覚も詰まっている。それはちょっとした暗さがあった前作を前向きに捉えた結果がこの作品の清々しさに繋がっていると僕は思う。軽々しく「前向きに」などと書くと笑われてしまいそうだが、前しか見えないと言わんばかりの音が溢れ出すさまは、もう決して音楽的技巧に逃げない姿勢の表れなのだろう。
 
 過去のマイス・パレードには演奏の技巧やサウンド・プロダクションの巧みさで音楽と向き合うことをあえて避けてきた、あるいは逃げてきたところがあったと僕は思っている。しかし本作は技巧による過度な演出、ドラマチックなところがなく、音が素直に鳴っている。苦みを含んだアダム・ピアースの歌声と女性ヴォーカリストのウィスパー・ヴォイスに、コーラスが重なるさまは丁寧でやさしくて意識を抜かれてしまう。立体的なミックスも交流の深いダグ・シャーリンのドラミングも、音の配置も抜群だが、あくまですぐれた技巧も音楽を構成する要素のひとつという姿勢が本作で押し出されていて、素の音がそのまま出せるところまでマイス・パレードは来たのだと僕は感じた。もう逃げない。肩書きも経歴も関係ない。アイデンティティの拠り所はいまの自分そのものだと、そんな意気込みが自然対で表現されている。そしてそれはリスナーへの肯定として包まれるように響き、重い腰を上げて動き出そうと訴えられているかのようだ。
 
 何につけ、ダメだと言って逃げても、逃げた先に直面するのが自分の弱さであることがあると思う。だが今の世の中は、自分のダメさもまたネガティヴ思考に浸るナルシシズムによって回避し、それでよしとする居心地の良さが充満している感がある。それが時代の閉塞感に繋がっているところもあると思う。街ゆく人々は常に頭を垂れている。しかし永遠に逃避しながら安住できるほど人間は強くない。だからマイス・パレードは前を向く。隠すものは何もない。歌詞は暗いが、それは人も時代もくだらない世の中も、受け入れた上で奏でられる音楽があるのだと訴える気持ちが込められているから背中を押され、そこに僕は憧れる。頭を垂れている音はない。僕らも頭を垂れる必要は微塵もない。開放感に溢れるこの音楽はそんなふうには自分を見つめ直させる。社会に対して安易にNOと言う勇気より、YESと言える勇気の方が重要な時代にあって本作はあまりにも眩しい。

(田中喬史)

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kudou_kamome_subete.jpg オウテカ、ボーズ・オブ・カナダ、クラークなどのWARP系のエレクトロニカ勢が00年代初頭から幅を拡げる中、「もどきの音」がMySpaceという「誰でも一アーティストになれる」潮流とリンクとして少しの機材でそれなりにハイエンドな輪郭を描きながら、アーティスト・エゴと結びつき、メタ・ベタの二律が関係ない「自意識系ロック」よりもっと気味が悪い「自意識を電子コーティングしたマスタベーティングなベースメント・テープス」の出回りの動きがあったのはしんどかった。当時、僕は無限のように電子上にUPされる様々な音を一応はチェックしながら、一つ一つの「不健康な閉じ方」と「大文字の自意識」の現出を避けながら、律義にプロファイリングもしていたので、その内の一つでも「拓かれた何か」があるのか、と期待を掛けていたのは事実だったが、ほぼ良質なものは出会えなかった。

 特に、00年代はメインストリームではミスチルやEXILEといった意図的な大声がそのままに日本内で響いていた瀬もあり、より「細部」を目指す電子音が自意識を纏う、というイロニカルな構図が生まれ、その捩れた最終形が中田ヤスタカ系だったとすると、バックラッシュ的に「女はいたのか」という問いが宙空に差延される。ロボ声にまで帰着すると、逆に女性性は前景化するのだ。だから、フィメール・アーティストの持つ「大文字の実存」をエレクトロニカ的な音や、椎名林檎以降のディストーションに紛れた告白やaiko的な堂々とした求愛態度で表明されると、そこに何の歪みを感応することも出来ないのも多かった。それくらい、椎名林檎やaiko的な何かが「発明」したジュディス・バトラー的哲学のジェンダー・ロック/ポップス解釈は日本では大きかったとも噛み砕けるだろうが、椎名林檎に関しては東京事変以降の「創られた椎名林檎像」の「かわし方」とそれを受容「すべき」男性たちの自意識が強烈なナード性のデフレ・スパイラルに陥っていたのも仕方ない訳で、男性諸氏が「生まれ変わっても、また君に会いたい」的なものにやられていたというスノビッシュな構造論で何一つリンクするものは無く、地下的に蜜月に侵食され合う異性関係性自体が00年代を通して非常に峻厳だった時を経て、匿名と自意識の迂回をして勝ったのが相対性理論だけだったというのはレジュメしなくても周知だろう。

          *          *          * 

 前回の工藤鴎芽のEP「I Don't Belong Anywhere」はその00年代の一つの痕跡でありMy Space世代の臨床例の一つだったとも言える。抽象的な大文字、丁寧に組まれたループ、電子音の行き交い、ディスコード、オルタナティヴの対象化。それがしかし、まだ未消化だった部分があったのは前回の弊名のレビュー(http://www.cookiescene.jp/2010/07/i-dont-belong-anywhereepselfre.php)を読んで頂けば分かる部分はあると思う。

 前回のEPから三ヶ月の歳月を経ってふと送られてきた新しいセカンドEP『全て失えば君は笑うかな』は前作よりヘビーな手触りが増して、音的にも進歩しており、彼女の音楽語彙の幅の広さを披歴する内容になっている。

 ナイン・インチ・ネイルズ、ミニストリーなどの90年代のインダストリアル・サウンドを参照に箱庭的に纏めた予期不安を煽るような1曲目の「暗号」からレディオヘッド「Sail To The Moon」、「Videotape」的な内省的なバラッド「プラシーボ」、前作からの延長線に近い軽快な電子音が撥ねる中、ランボオのような幻惑的な歌詞が歌われるキュートな「夢から遠い夢の中」、「泡沫の末路」はジャジーなスウィング・チューン、「Kiss And Kill」は過去曲のリメイクということで、手堅くもかなりマッシヴなアレンジになっている。

 僕は、咄嗟にフアナ・モリーナの『Tres Cosas』をこのEPからふと彷彿としたが、ブロードキャスト『Tender Buttons』やファック・ボタンズ『Tarot Sport』のような影も後ろには見えるのと同時に、クリスタル・キャッスルズの野蛮さも垣間見えた。例えば、ここにプロデューサーとして、アレハンドロ・フラノフ辺りがついて白昼夢のような世界観を生成するのも面白いかもしれない、とも思った。

          *          *          * 

 個人的に、フィメール・アーティストの曲の過剰さに中ってしまう事があるのは、彼女たちは大声でヒステリックに「I LOVE YOU」を唱えてもこの世界でかろうじて「赦される」生き物だからだ。男性は「実存」に届かないが故の「藻掻き」を歌にするコンフリクションがあるが、女性は「世界」と向き合う事が出来るが故の「ブレイクスルー」を体現するという点で愛に対して怜悧で獰猛な本能的なパトスを表明して、提示出来る。抽象的ではない、具体的な生物的欲動のロールを非・郵便的に「預ける」事が出来る、郵便局に。しかし、そんな女性「性」だらけが過剰にストックされた「郵便」局では、僕には読める手紙が無いのも確かなのだ。昨今のAKB48などアイドルの「メディア・セックス」的音楽を視て、偏頭痛を憶えるくらいなら、吉行淳之介の女性描写に酔う方がまだ気分良く酔えるし、彼女の今回のセカンドEPならば、有島武郎の「或る女」的な蠱惑性は透視出来る。麗しき頽廃と円環構造に回帰するように。

 彼女に関しては先ず音源を聴いて頂ければ幸いだと思う。ファーストEPより直裁的になりつつ、幻惑性を増した歌詞。慈愛と悲しみと虚無が通奏低音になっているムードとその循環構造。淡い電子音。か細いボーカリゼーション。「暗号」はループされる。

          *          *          * 

「叶えられない祈りより、叶えられた祈りの上に多くの涙は流される」―

 トルーマン・カポーティが好んで引用していた言葉だが、彼女の歌にも似たような雰囲気があるのを感じる。但し、それが単純な「生きにくさ」とか「精神的な不安定さ」故のじゃなく、真摯な思考から演繹された所にも今後も期待できる点だと思うし、まだまだ化けてゆくだろう。六等星はまだ耀く。

"睫毛に六等星が纏わり付いた
景色は素晴らしく百色眼鏡"
(「プラシーボ」)

(松浦達

*このEPはセルフ・リリース形式の為、彼女のMySpaceHPから音源を入手出来ます。【編集部追記】

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perfume_genius.jpg かつてマーキュリー・レヴはアルバムのタイトルに『見捨てられた者の歌』と名付けた。幻想感に満ちた音楽性を『全ては夢だ』と言い切った作品もある。しかしその二枚は残酷なほど美しく、神々しく、憧れに似た、ある種の救いがあった。崇拝の対象に成りえるほどに。アントニー・アンド・ザ・ジョンソンズともよく比べられるシアトル在住のマイク・ハドレスのソロ・ユニット、パフューム・ジニアスによるデビュー作『Learning』を聴くと、僕は約十年前の作品であるマーキュリー・レヴの、先に記した二枚が条件反射的に頭に浮かぶ。絶望に泣いているような歌声とオーケストレイションを施した神聖な奏で。かすかに存在する浮遊していくような甘美な響き。共通するところがあると思う。
 
『Learning』に貫かれているのは圧倒的に押し寄せてくる哀しみ。水滴を思わせるピアノとささやくような歌声を軸に、か細く、あてもない救いを求めるように音が悲壮感を帯びて広がっていく。悲壮感と、ほんの少しの暖かさがあるのは彼がドラッグ漬けの日々から立ち直り、母親のベッド・ルームでレコーディングされたということもあるのだろう。苦しみを背負った本作は美と狂気の紙一重に位置するパーソナルな作品だ。
 
 マーキュリー・レヴの前述した二枚と違いは音に荒さがあることや使う楽器など、目指している具体的な音楽性はもちろんのこと、本作に憧れることはないし、威厳高くあるわけでもない。崇拝の対象にもならないと僕は思う。パフューム・ジニアスも崇拝されたくないんじゃないか。だって僕らも、彼も、何の" Learning"も得ていないのかもしれないのだから。この作品は彼にとって過去の自分との決別だと僕は思う。その決意を、ちいさい文字で綴った手紙のような音楽。それは美しい詩のようなもの。
 
 もうアーティストを神格化する時代じゃない。少なくともパフューム・ジニアスは自分の手で、音楽によって立ち直り、美を学んだ。「You Will Learn To Survive Me」と彼は歌う。僕らもまた、この音楽を手掛かりに、自分の手によって学ぶべきなのかもしれない。幻想的で、いまにも消え去りそうな歌声なのに、確かな血がかよっている。全ての人に届いてほしいと強く願う。

(田中喬史)

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oe_kenzaburo.jpg 自分は、1979年という70年代にぎりぎりに引っかかった形で生まれた。
 
 その頃には、既にサバービア型のショッピング・モールの雛形は出来ていて、もう既に「爛れた裕福さ」に塗れてもいた。そして、少年期から青年期の間にバブルやポストモダンやらオルタナティヴ、サブ・カルチャー等が一気にきて、「物心(しっかり思考出来るようになったという意味で)」ついた時には、もう残骸しか転がっていなくて、その残骸を見回しながら、上の世代からは「君たちが未来を担っていくんだよ。」と云われて、「それはないよ。」と思ってもいた。要は、ブルドーザーで地均しが終わった土地で、何をすればいいのか。少なくとも、「われらの時代」ではない、と思っていた。
 
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 少し話は逸れるが、再評価の波にあるマルクスは「資本論」の中で、三つの階級を想定した。資本家、地主、労働者。「労働者」はそもそも労働力を商品化して、そして、その分産んだ差額利益を「資本家」へと還元し、しかし、資本家は総取りは出来ない訳で、一部をその土地の持ち主であるところの「地主」へと渡す。これは、「搾取」の構造に見えるものの、剰余価値を資本家に売り渡すという労働者の合意契約の下に成されている点と資本家と地主間の合意形成に基づき、資本や労働では自然は作れないという観点から「正しい」部分もあると言える。但し、階級論、社会論としてはこのマルクスの唱えたものはベターな訳だが、「国家」としての視座が完全に此処には欠落しているとしたならば、社会と国家は必ずバッティングする。利益の視角が全く違うからでもあり、社会側からの国家への厳重な監視、国家側の社会への適切な還元が行われない事には、亀裂が生まれ、国として共同体として回らなくなってしまい、社会内での「個」は疎外される。
 
 前農耕社会、農業社会、産業社会の歴史変遷の中で、国家と社会の分断構造に気付き難くなっているのもリアルな視座でもあり、そもそも国家は人間同士が組んだ共同体が(別・)共同体を排除し、制圧する過程で、生まれていき、社会は共同体間の交換を原則原理にしている。では、根源的な問題は何にあるのか、僕は高度ネットワーク化が張り巡らされたシステム論に依拠する部分はあるのかもしれないと思っている。だからこそ、「人間性(実存)を確かめるような動き」が起こりつつあるのも感じている。
 
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 大江健三郎の初期作品に出会ったときは衝撃を受けた。故・井上ひさし氏が指摘していたが、「奇妙な仕事」という作品では、百五匹の犬と「僕」と「女子大生」と「私大生」の三人が犬を処理する仕事のアルバイトを巡っての話。一日に50匹しか処理できないので、100匹が「次の日」に残ってしまう。それをして、「犬殺し」が餌をやろうとするのに対しての「明後日までには全部殺してしまうのに餌をやるなんて卑劣だ」と私立大生が言い、それに対して「後の100匹を飢えさせておくのか、そんな残酷なことは出来ない」という対立が始まる。この対立の行方に何があるのか分からない。しかし、確実に「次の日」があるならば、双方の言い分は正しく向き合う事になる。「次の日」がないならば、それは言葉の意味が隔離されてしまうだけのことだ。その「対立」は新しかった。
 
 初期の大江氏は「若者たちの味方」として「ぼく」や「われら」というタームをよく用いた。そして、シリアスなテーマにどんどん踏み込んでゆき、当時、熱狂的な読者達のシンパシーを得た。ただ、彼はその後、子供が生まれる事によって、また、伊丹十三氏の死を含めて作風も扱うモティーフも変わっていき、今はレイター・ワークとして伊丹氏の事を書いたり、最近では自分の父の死を描いた「水死」など「筆を止めないでいる」が、どうにも変わってしまった。
 
 僕にとっては、大江健三郎という作家は、「作品」レベルで言えば、やはり1950年代半ばから1960年代後半までのものになる。特に1950年代の瑞々しい煌きに満ちた文体に影響を受けた。その中で愛好するのは1959年のこの「われらの時代」でもあり、現代の閉塞感を別位相から照射しているとも言える作品と思う。50年前の小説世界でも人間の心理はそうブレる事はないのだ。
 
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 「われらの時代」の大まかなストーリーは、仏文科の学生の靖男が、外人相手の娼婦をしている頼子との共同生活(靖男がヒモをしている)の中で空虚な性行為を介しながら、深い思索の襞へ降りていく所作を繰り返している。そして、ジャズ・トリオ「不幸な若者たち‐アンラッキー・ヤングメン‐」で、ピアノを弾いている靖男の弟、滋が居て、物語の合間に都度、カットインされてくる。フランスと日本の文化の相互関係について書いた靖男の学術論文がコンクールで一席当選し、フランスに三年の留学する権利を与えられる。しかし、同時に頼子の妊娠や友人を通じてアラブ人と知り合い、政治的な柵の中で、懊悩する。「不幸な若者たち」はライト・サイドへの傾斜が激しくなり、手榴弾を使った度胸試しでメンバーの二人が爆死し、警察に追われた滋もアラブ人の部屋から落ち、亡くなる。結局、靖男はアラブの政治活動への支持をフランス大使館員に表明し、フランス留学の道が閉ざされる、というものだ。
 
 凡庸な「出口なき時代」における「出口など見えない若者たち」の群像劇かもしれない。著者自身、エッセイ集『厳粛な綱渡り』で、

「僕が最初に性的なるものを小説の重要な因子としてみちびいたのは、1959年の『われらの時代』においてだった。これは大半の批評家から色情狂の失敗作とみなされた。」
 
 と記している通り、この作品は文壇界からも評論家からもそれまでの彼の急な変化と性的なもの、政治的なものの聊か乱暴な扱い方にシビアな意見が多く取り交わされ、かなりの波紋を呼んだ。
 
 それでも、僕がこの作品を好きなのは、「時代を越境する力」を感じたのもあり、共通する若者の実存的「閉塞感」の連鎖状態が生み出す逆説的な仄かな希望を感じたからだ(これは、今は一部、阿部和重氏等にも受け継がれているような気がするが)。また、何処か喜劇要素もあるところにも感応した上で、何より「性的なるもの」の取り扱いが素晴らしいと思ったからだった。
 
 兎に角、「性的な何か」を媒介として「核心に近いもの」をディスクローズさせようとする試みは、個人的に好きになれない。いや、表現が向き合うべきものはそんな行き止まり的なもので無い筈で、寧ろ、この作品の「あとがき」で著者自身が書かれている「ぼく自身にとって性的なるものは、外にむかってひらき、外の段階へ発展する、ひとつの突破口であって、それはそれ自体としては美的価値をもつ《存在》ではない。別の《存在》へいたるためのパイプとしての《反・存在》として小説の要素となっているものであって、ぼくはぼく自身の目的へ到るためにそれをつうじて出発する。」という意見に同意を持つ。
 
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 「われらの時代」の最後は、偏在する自殺の機会にみはられながらわれらは生きていくのだ、これが"われらの時代"だと締められる。現代、文化も経済もあらゆるものが発展して、ユースの心理状態も変わったの「かもしれない」。でも、この高度にネットワーク化されて皆が砂粒のように管理されながらも、「孤立」を余儀なくされてしまう時代に、囲まれているバリケードは50年前のものより不可視的に峻厳なものになっていると言えないだろうか。今、「われらの時代」と表明するときの「ら」は誰を孕むのか、僕には分からない。実存としての「個」へと帰納してゆくのか。この作品が示唆するものはまだ現代でも、通奏低音として響いている。

(松浦達)

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