October 2010アーカイブ

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leonard_cohen.jpg レナード・コーエンの歌。ジーザス&メリーチェインは「Tower Of Song」を覚めきった轟音で鳴らしていた。ジェフ・バックリィの「Hallelujah」はオリジナル以上に聞かれている1曲かもしれない。一時期、エコー&ザ・バニーメンを脱退していたイアン・マッカロクのソロ・アルバムには「Lover, Lover, Lover」が収録されている。そして90年代にはピクシーズ、ジョン・ケイル、R.E.M.など当時のオルタナティヴ/インディー系のバンドが参加した『I'm Your Fan』と、もうひとつ上の世代であるドン・ヘンリーやビリー・ジョエルなどのカバー・バージョンを纏めた『Tower Of Song』という2枚のトリビュート・アルバムが発売されている。

 カレッジ・チャートの萌芽から時を経て、オルタナティヴ・ミュージックがようやく音楽シーンの中で影響力を持ち始めた90年代。歌詞というよりも「詩」そのものである言葉とメロディ、キャリアの中で多少の変化を見せながらも一貫してシンプルなサウンド・デザインは、その唯一無二の歩みからもオルタナティヴの元祖として時代の空気にぴったりだったのかもしれない。崇高でありながらも、「自分にも歌える」そう思わせるという意味で、レナード・コーエンの歌はパンクと同じ力を持つ。そして、この『Songs From The Road』や他のアルバムを聴いてもらえばわかるように、彼はちっともテクニカルなミュージシャンではない。彼の作品の中で名曲と言われるもののほとんど全てをローファイと言っても差し支えないはず。だから一度聞けば、誰もがレナード・コーエンに憧れる。レナード・コーエンの歌が好きになる。それは10年代の今でも変わらない事実だと、僕は思う。エミー・ザ・グレイトの『First Love』で歌い込まれていたように「オリジナルのレナード・コーエン・バージョン」をよろしく。

 レナード・コーエンは1934年、カナダ生まれ。今年でもう76歳。もともとは地元カナダで詩人/小説家としてキャリアをスタートさせている。何を思ったのか60年代後半になってアメリカへ渡り、シンガー・ソングライターとしてデビュー。その時すでに34歳。初期はボブ・ディランやジョニー・キャッシュを手がけた名プロデューサー、ボブ・ジョンストンの腕を借りながらミュージシャンとしての知名度を上げていった。その後は大ヒットこそないものの、ほぼハズレなしのアルバムを3~4年ごとに発表しながら現在に至る。2008年にはしっかりと「ロックの殿堂」入りを果たしている。日本での知名度の低さにはガッカリだ。

 この『Songs From The Road』は2008年後半~2009年前半までのツアーをパッケージしたライブ・アルバム。もともと声量のないヴォーカルをバックアップするような控えめながら手堅いバック・バンドの演奏とオリジナルに忠実なアレンジが秀逸だ。代表曲はほぼ網羅されている。できれば「So Long, Marianne」と「Hey, That's No Way To Say Good Bye」も聞きたかったけれど、もう声が出ないのかもしれない。サマソニでホールのコートニーが「セックスの歌よ!」と言ってボロボロで最強のカバーを披露した「Take This Longing」も入っていない。でも、最高。特に「Waiting For A Miracle」(オリヴァー・ストーン監督の『ナチュラル・ボーン・キラーズ』のエンド・テーマ。音楽監修はNINのトレント・レズナー!)から「Hallelujah」までの流れは本当に素晴らしいから、シャッフルなしで聞こう。クレジットに目をやると「Hallelujah」はコーチェラ・フェスでの演奏だ。観客が熱狂している!

 クッキーシーンに載るミュージシャンでは最高齢かも。まだ聞いたことがなくて、「ライブ・アルバムはどうも苦手でね」と言う人には『The Best Of』というベスト盤がおすすめ。ブライト・アイズやキャット・パワーが好きなら、きっと気に入ると思う。『Songs From The Road』にも入っている「Bird On The Wire」を聞いて欲しい。AメロのコードはA/E/A/D/A/E/Asus4/Aのはず。間違っていたらゴメンなさい。歌詞はだいたいこんな感じ。

"電線にとまっている鳥のように 真夜中の聖歌隊に紛れ込んだ酔っぱらいのように
 僕は僕なりに 自由になろうとした
 死産の赤ん坊のように ツノが生えてる怪物のように
 僕は僕に近づくみんなを 傷つけてきた"

 レナード・コーエンの歌を聞いて、歌おう。

(犬飼一郎)

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kings_of_leon.jpg かつてアメリカの片田舎から鳴らされたプリミティヴなロックが、10年も経たないうちに世界を制覇する直前まで上り詰めるなど、誰が予想できただろうか。ましてやデビュー当時、彼らはけっしてシーンのエース的存在ではなかった。異端児といっても過言ではなかったが、これがドカンといきなり大ヒットしてしまうイギリスという国は、まあ不思議だよね。肝心のアメリカではほとんどスルーだったが、4枚目となる前作でいよいよ本格的にスターダムにのし上がった。老若男女共通のアンセムとして「Use Somebody」が幅を利かせ、「Sex On Fire」というド直球の名曲に全員が悶えた。日本ではセカンドからのシングル「The Bucket」がラジオでヘヴィー・ローテーションされたが、それ以降日本と英米の温度差は酷くなる一方だった。つまり、彼らは日本以外では理想的なキャリアでバンドとしての地位を高め、いまやほとんど唯一のエレポップ勢やR&Bにチャートで対抗できるギター・バンドである。他にいたとしてもキラーズとか、コールドプレイくらいか。

 成功の代償が小さいわけはない。初期の土にまみれたようなサウンドを愛するファンはKOLの現状に理不尽なまでに腹を立て、あとからついてきたファンと一緒にはなりたくないといわんばかりに、もはや彼らのファンではないことを宣言してまわった。ギター・サウンドが空間的な広がりを持った途端、「セル・アウトだ」と糾弾した。一方で音楽を日常のBGM程度にしか考えないKOLのリスナーは激増した。その環境に1番苛立っていたのは、ほかでもないメンバーたちである。盛り上がりの悪いフェスの観客にケチをつけ、バッシングをくらったこともあった。アンセム詰め込み放題の4枚目から新作でどのような変化を遂げるのかが注目された。初期のシンプルで粗野なプロダクションに戻すのか。それとも第二の「Sex On Fire」を書くのか。

 正解は後者だった。先行で解禁になったシングル「Radioactive」は「Sex on fire」の勢いそのままに「Use somebody」の雄大さが加わって、しかも祝祭感溢れるゴスペル風のコーラスまで聴こえてくる圧勝のアンセム。その前の冒頭曲、「The End」では彼らのいまの姿勢を表すかのように、どっしりとした迷いのないビートがリスナーの期待を煽る。

 さあ、これからどんな風景を見せてくれるんだ? 私は全曲聴いて大声で「最強だぜ、お前ら!」と叫びたくなったぞ。小細工や媚びは一切なし。ファースト原理主義者はこれで完全に置いてけぼりをくらうぜ。彼ら以上のギター・サウンドが世界中にひとつも存在しなかったという意味で逆にアンセム欠乏症に陥らせた前作よりも、はるかにアンセミックな怪物作。きっと売れ売れです。日本でもいよいよ本腰入れて売ろうよ。これで興奮しないなんて嘘だ。「Mary」は多くの野朗どもの涙を誘うだろう。「Back down south」でカントリー・ミュージックの偉大さを噛み締めるだろう。ピンと来ない奴も多いだろうな。でも楽しんだほうがいいに決まってる。インディ・ミュージックはここまで来られる可能性を秘めているから刺激的だ。王座揺るがず。

(長畑宏明)

*日本盤は11月24日リリース予定です。【編集部追記】

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people_in_the_box.jpg「うひゃー。また、だ。ピープル・イン・ザ・ボックスの新譜」と、リリース前に曲名やタイトルが公式に発表された時も、実際にそのサウンドを聴いた時にも思った。相変わらず、暗喩的で変化球な表現の数々、めまぐるしく変わる変拍子と変調に満ちた曲構成、それでいて、スリー・ピースというバンド形態を活かし、一切の無駄を削ぎ落としていく職人技のようにストイックなサウンド構築。およそ二年半ぶりの、彼らの新譜には彼らの持ち味の世界は変わらず、それがどんどん強固になっていく様を見て取れる。
 
 リリース前の曲名およびタイトルが公表された時に、多くのリスナーが感じたのは、「前作(シングル『Sky Mouth』を除く)『Ghost Apple』に引き続きコンセプチュアルな内容になるのでは」との思いだろう。なぜなら、今作のタイトルは全ての曲が、国名、地名あるいは不特定ながらも、それぞれの想像力を喚起させるような場所の名前が冠せられており、アルバムの曲名を眺めると、まるで世界旅行の様相を呈しているからだ。一曲目「東京」から始まり、最終曲「どこでもないところ」に到達するまで、このアルバムはヨーロッパを中心に北米や南米などを旅することができる。
 
 しかし、個人で海外旅行する事が趣味な僕は、タイトルを見た時に、「思い切ってやってくれたな」という気持ちと同時に、ある種の過剰さも感じてしまったのも事実だ。「ここまで徹底しすぎると、かえって閉鎖的になってしまうのではないか。聴く前から聴き辛そうな狭い印象を与えてしまうのではないか」という懸念だ。しかも、アルバム自体のタイトルは『Family Record』と全く国名にも地名にも関係ない、独立したものになっている(と言っても、これは彼らの以前のタイトルからそうだったが)。ジャケットもスタイリッシュではあるけれど、何だかよく分からない白濁だ。

 「どうなるんだろう、新譜は」などと、若干の不安も拭い切れずに聴いたが、その内容は冒頭で書いた通り、今までの彼らの魅力をより研ぎ澄ましたもので、結局は、僕の杞憂だった。今作のサウンド面は、今までよりも格段に、三人の楽器が奏でる絶妙なアンサンブルがスリリングで心地良いのが第一印象だ。それは、演奏技術云々と言うよりも、フロントマンの波多野裕文自身が、このスリー・ピースをどんどん信頼していっていて、より他の二人とのセッションを楽しんだ結果できたものと思われる。どの曲も変拍子と変調の嵐で、一寸狂えば曲全体が台無しになりかねない構成にも関わらず、個々人が相当思い切ったプレイ・アビリティを発揮している。波多野のギターは、時に狂ったディーヴァのように爆音で呻き、時に精霊の祈りのように繊細に泣き、山口のドラムは相変わらず、細やかな動きからダイナミックなフィルまで楽曲の根幹を成すグルーヴの強かさを実直に表現しており、福井のベースは、そんな大暴れな二人の仲を取り持っていたかと思えば、意外なところで主役をかっさらっていく。それでいて、三人のグルーヴは、ブレがなく強固だ。
 
 歌詞を見れば、タイトルの地名や国名について言及するものは少なく、それらは単なるメタファーであったことが分かる。従来通りの、波多野による暗喩や倒置を多用しながらも、主語の置き換え、コンテクストの乱暴な改変によるシュルレアリスム的手法が映えている。まるで、実存主義を通過した不条理文学を読んでいるような錯覚に陥るのも、相変わらず見事である。まさに、ジャケットの白濁のような、クリアながらもドロっとした印象を与えてくれる。

 最後に、少し個人的な事を書いて終わるのが、申し訳ないが、ご容赦願いたい。このアルバムの10曲目に「スルツェイ」という曲があるのだが、この耳馴染みの薄い地名は、世界遺産にも登録されているアイスランドにあるスルツェイ島がモチーフだろう。実は、この島、北欧神話にも密接な関係にある火山島である。僕は、個人的にアイスランドと言う国に対して―親氷家とでも言おうか―とても親近感を湧いており、様々なアイスランド文化を敬愛しているのだが、(ご存知、シガー・ロスやムームなどの出身地でもあり独特のシーンも形成している)首都のレイキャヴィークではなく、このスルツェイ島をタイトルに選んだ波多野の素晴らしい命名センスに心底、脱帽してしまった。

(青野圭祐)

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aM.jpg 2005年に惜しまれつつも解散したスーパーカーのドラマー、タザワ・コウダイと、初期スーパーカーを手がけ現在もプロデューサーとして活動中のカナイ・ヒロアキ(ミユキ)による、エレクトロ・バンド、aM(tm)[aem]。彼等の5年振りとなる3rdアルバムが英Rocket Girlから逆輸入という格好でいよいよリリースされた。

 エレクトロをキーワードにしつつも、やはりサウンドの核となるのはコウダイの叩き出すなんとも心地よく反復するグル―ヴィーで彼独特のタイム感を持つドラム・サウンドと、それに乗せ直観的にかき鳴らされるミユキのフィードバック・ギターだ。そして後期スーパーカーにも通じる、いやそれを更に発展させたかのようなミニマルでいてあまりにも美しいエレクトリックなサウンド・メイキングには脱帽するしかない。シューゲイザー/ドリーム・ポップ・ファンならば是非手にしてもらいたい改作。

(八木橋一寛)

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ongaku.jpg 例えば、アドルノが抱いた思想の主軸をなしているものは「近代において人間はどのように人間的でありうるのか?」ということに集約される。それを考えると、主体的に「音楽を書くこと」は「漂流する瓶に詰められた願い」を海に流す行為であり、それは聴衆を無視して、ひたすらわけの分からないことを書き続けるのとは違う―つまり、誰かが拾ってくれることを祈って、真摯に書かれる「べき」音楽である筈とも言える。その音楽には、作り手と聴衆との「間」に、偶然と言っても良い出会いによってミメーシスが行われることへの希望が込められている。

 だからこそ、今、「音楽を聴く」という行為自体を、再定義しないと、このまま、相変わらずの印象批評が飛び交ったり、「良/悪」の二元論で帰着してしまったり、音質(温室内)問題であれこれ右顧左眄したり、歴史改竄されてしまったり、ファイルの中に、フェスの中に、音楽が埋もれてしまったり不健康なことこの上ない、と感じる。ただでさえ、難渋な世界になったな、と痛感する事が増えてきた昨今ゆえに。

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 私事になるが、面と向かって「音楽に対峙した」のは高校生の頃だった。94年辺り前後の、渋谷系、J-ROCK、小室系、ブリット・ポップ、オルタナティヴ、モダン・ジャズ再発、ワールド・コーナー充実など華やかなりし頃で今とは比べ物にならないものの、兎に角、情報量は凄い量があった。

 ヘッドホンの中で拡がる軽快な自由の「気配」に魅かれつつ、レンタル・ショップで只管CDを借りて、様々な文献を紐解き、それでも「井の中の蛙」を自覚しながら、井戸の上に広がる空の深遠さを信じていた。周囲は卑近な空に溺れていたから、僕は「遠い空」を夢想する事にした訳だが、どうにも孤独なものだった。エアロスミスやらボン・ジョヴィがデフォルト的にラジカセから流れたりするクラブの部室で、フリッパーズ・ギターやペイル・ファウンティンズやベックなどを掛けようが「認知」もされなかったし、それが「代案(オルタナティヴ)」として出来るにはヴォキャブラリーも悲しいくらい「感性論」の壁の前で何も出来なかった。音楽は各々の感性に収斂すればいいもので、別に強制するものでも何でもない。それは分かっていたが、何故かもどかしかった。

 00年代で一気にギアが入った。プロディガル・サンとして彷徨している時に、兎に角、凄まじい熱量で色んな音楽を聴き、血肉化して、呼吸をして、ヘッドホンやステレオ越しに、セックスやアルコールやドラッグといったものの青春のシンボリズムの先の不健康な、希望的な何かへリーチしようとしていたし、ふと音楽に飲み込まれそうな自分さえ居た。碌な味方なんて殆ど居なかったけど、少しの「理解者」はいたので、迷わず舵を切った。鬱と不安と将来への茫漠とした虚無、デート、ラヴ・アフェア、文学全集、哲学・思想本、膨大な時間、刃物のような集中力と、無数の音楽とも言えない音楽。更にそれを覆うほどの音楽。あらゆるものに包囲されながら、エディ・ヴェダーの云う「ロープ」のようなものとして、音楽を握っている時は何となく「この、どうでもいい後付けで出来た世界」の仮構性を受容出来る様な「気」がしていた。でも、「気分」なので直ぐ蒸発した。

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 そもそも僕個人的に「絶対」なんかは信じていない。世の中は「相対的」なものだと想うし、「絶対」という蛸壺に自分を持っていった途端、その人の信念がエッジとして「鈍化」するような気がする。「自分は絶対だ」と「ストイシズム」どうこうは違う。自分を信じる事(I need to be my self)は大事だし、「自分を"在る"ということ」を弁えるのも肝要だが、人間は「関係性の生き物」であって、関係性とは、誰かを想う事により、自分が再規定される、ということでもあり、即ち、自分を想うという事は必然的に「誰か」を想定されないと「いけない」と思う。

 となると、スキゾ的な何かや、引きこもり、自意識内で「完結」してしまっている人の目には何が映っているのか、と言うと、それは「書割」の世界だろう。「書割の世界」―自己充足して、マスターベイティングな様式美、はたまた、自家中毒的なデッドエンド。宗教学、政治学、経済学...白黒が出てしまう領域に僕がそれほど、アディクト出来ないながらも、一応魅かれてしまうのは、白黒を見詰め続ける事で、グレイ・ゾーンが可視化出来るようになるというのもある。

 自分が修めている「経済学」とは本当に突き詰めると、「黒白」を「理論」で説明するのでも、起こった現象を後付けで補強するものでも、預言的な事を言うものでもない。ただ、「思考的な視力が上がるもの」なのだ。思考的視力が上がるという事は「生き易くなる」という事でもある。だから、僕は戦争不安神経症なりヒポコンデリアなり色々抱えているし、根源的には人嫌いだが、それを悲惨だと想った事はなくて、そういったタイトロープ上を積み重ねてきて、今はグンと生き易くなってきてもいる。ただし、知れば知るほど楽になるよ、という発言を自重しないといけないのは、情報と知識を履き違えてしまって、「潰れてしまう」ケースを間近で見てしまうのもある。

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「音楽」というものは、「実体」は無い。そして、もっと言うと「あっても、なくてもいい」ものかもしれないし、例えば、僕が海外に行く度に、民俗的なものや宗教的なものと音楽って本当に密接に結びついていて、ちゃんとその分野や聴いているものによってトライヴが分かれているのだな、と想って、色々考察の対象になるのだが、単純に言えば、USのヤッピーとか中国のニューリッチ層とかがコールドプレイやマルーン5をよく聴いている。それは彼等がロック/ロックじゃない、じゃなくて、単純にチルアウト、ガス抜き装置として機能しているだけであって、別に彼等に纏わるゴシップや彼等のベタッとした「薄さ」はどうでもよく、BGM的に「機能」すればそれでいい。でも、それも「音楽」としてその場で空気を揺らせている。

 比して、世界のインディー・キッズ達はもうファイル交換などし合って凄まじい量の音楽を聴き貪っていたり、ちゃんとしたユニティや共同体が出来ているのは周知だろう。今は音楽を聴こうと想えば、只管聴けるようになったしライヴ現場も用意されているが、リテラシー能力が断然下がってきてもいるし、「偏差値」的なもので言えば、文脈を敷いて、ちゃんと意味内容と必然の中でその音楽が鳴っているという事を「説明出来る」人が蛸壺化し過ぎているし、そうではない人達はディグするサウンド・ツリーの深淵さを何処かで放棄して刹那的に耽溺している様な気がする。
 
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 19世紀、エジソンは音楽の容器としてレコードを「発明」した。そして、最初の目的としては、彼は「家族の声を残したい」という欲求があった。だから、「音楽」がちゃんと吹き込まれるようになるのはしっかりしたオーディオの発達を待つ必然性があった。現に、初期のレコードには「寸劇」から「朗読」から残されている。

 音楽→録音→レコードという形式はビートルズ以降、巨大なビジネス装置として起動してしまったが、僕は「音楽」というものはCDやレコードやデジタルの中にだけ「溢れている」訳ではなく、其処此処に溢れているものだと想う。それはただの雑音かもしれないし、もっとネイティヴな迸りかもしれない。七尾旅人氏みたいに、「それぞれ人は、音楽を鳴らしているんだよ」、というところまでは僕はいけないが、それでも、今、音楽がこれだけ安く、また、不用意に流れ過ぎている中、京都の伏見稲荷大社の奥の竹林でフッと竹の割れる音を聴いて、凄まじく耳の良いジャズメンの友達が「素晴らしい音楽ですね。」といった感覚と、ジャンクフードだらけの世界で更にジャンクフード的な音楽を求めるように揉まれる感覚などなど、が混在しながら、それでも、日常において心を、五感を、駆り立てさせられる欲動を訴求してくれる限り、音楽に忠誠を誓えるかもしれない。勿論、そのジャンクフードだって生命維持としての装置を持っているのは分かってはいるからこそ。

 それに、FMなりタクシーのラジオなり音楽専門チャンネルなりでふと流れた曲を聴いて、メモしてレコードを買いに行って、持ち帰って、ライナーなり歌詞なり編成を読みながら、じっくり音を聴く、という全体そのものが「音楽を求めるという意味性」なのだと僕はまだ想うし、持っているCDでもレコードでも観れば、何処で買って、その時はどんな心理状態だったか、などをふと想い返しも出来る、という部分がまだまだ好きなのかもしれないし、今も音が僕を引き付けるのだろう。

 音「楽」とは、音は人を「楽」しめませる為に鳴るのか、「楽」にさせる為に鳴るのか、それは分からないが、音楽の中の「漂流する瓶に詰められた願い」が難破しても、何処か岸には届く筈なのだ。その岸で待っている人たちが居るならば、まだ音楽は「在る」可能性を孕む。

 最後にアドルノの言葉を、引用して皆に投げ掛けたい。

「(私は)音楽について語っているだけにすぎない。しかしながら、対位法的な問いかけがもはや和解しがたい葛藤を証言しているような世界とは、一体いかなる状態にあるのだろうか。生の震撼や硬直が、経験的苦境がその中にまでおよばないこの場所、不気味な規範の抑圧からの避難を許すと人々が信じているこの領域においてさえも、反照しているならば、生とは今日、なんと根本的に混乱したものであることか。人々への約束が果たされるのは、彼らが期待するものを拒否することによってのみなのである。」(『新音楽の哲学』より)

(松浦達)

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今さらって感じで申し訳ありませんが、サマーソニック特集です。

2010年のサマーソニック来日に際して取り下ろした、以下のアーティストたちのインタヴューが掲載されています!
BLACK REBEL MOTORCYCLE CLUB, BAND OF HORSES, EVERYTHING EVERYTHING, DARWIN DEEZ

また、過去におこなわれた以下のアーティストたちのインタヴューに関しては、このカテゴリーにも再掲されています!
THE DRUMS, NADA SURF, DELPHIC., PASSION PIT

そして、コントリビューター&編集部によるレポート/考察...という構成になります。

本日(10月18日)エヴリシング・エヴリシングのインタヴューをアップしました。サマーソニック特集は、ようやくこれですべてアップ完了です。遅くなって、すみませんでした!

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EVERYTHING EVERYTHING

ポップへの愛は抱きつつ、つい惹かれちゃうんだよね
ストレンジな要素を入れちゃうことに


忙しなく跳ねまわるメロディとファルセット・ヴォイス、マス・ロック的な複雑な構成を魅せるバンド・サウンド。コーラス・ハーモニーは奇妙さも内包しながら神々しい響きもときおり魅せるが、唄われる歌詞にも二重三重の知己に富んだ意味が委ねられ、その音はファンクともソウルフルともプログレッシブとも形容しうるし、そのうえポップでキャッチーなところも兼ね備えていて...。

マンチェスター出身のニューカマー、エヴリシング・エヴリシングは、目新しさという点で長年低迷と目されている英国ロック界のなかで圧倒的な存在感と貴重なオリジナリティをもった、まさしく待望のバンドと位置付けることができるだろう。いい意味でのヒネくれ方に、演奏力も表現力も新人離れしている。

最高のタイミングで日本限定リリースされたミニアルバム「Schoolin'」と、楽曲の複雑さはそのままに激しくエモーショナルに鳴らされたサマーソニックでのパフォーマンスで、"英国らしさ"にうるさい日本の音楽ファンの心も一気に鷲掴みにした彼ら。少し遅れての掲載となってしまったが、サマーソニックの翌日、渋谷Duo Music Exchangeでのライブ直前にヴォーカル/キーボードのジョナサンと、ベース/キーボードのジェレミーに話を聞いた。


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今さら、と思われるかもしれませんが、フジロック特集です(笑)。

2010年のフジロック来日に際して取り下ろした、以下のアーティストたちのインタヴューも、がんがんに掲載されます(「*」がついてる人たちは「Cominig Soon」となります)!
MGMT*, JOHNNY MARR×OGRE YOU ASSHOLE, !!!、BROKEN BELLS*、THE CRIBS*、LOCAL NATIVES、DETROIT SOCIAL CLUB

また、過去におこなわれた以下のアーティストたちのインタヴューに関しては、このカテゴリーにも再掲されています。
ASIAN KUNG-FU GENERATION、THE XX、LCD SOUNDSYSTEM、YEASAYER

そして、会場中を駆け回って撮影してくれた編集部(ウェブ・デザイン担当)山本徹氏によるフォトギャラリー、さらにはコントリビューター&編集部によるレポート/論考...という構成になります。

本日(10月18日)、デトロイト・ソーシャル・クラブのインタヴューをアップしました。それ以外のものは、全部アップされるまでにあと数ヶ月かかってしまうかもしれませんが(すみません...)、おそらく来年2月ごろまでには必ずアップできると思います!

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DETROIT SOCIAL CLUB

もしデヴィッド・リンチの電話番号をご存知だったら
「僕がスコアつけますよ」って伝えてもらっていい(笑)?


UK北部のニューキャッスルから現れた大型新人バンド、デトロイト・ソーシャル・クラブ。アルバム『Exitence』のもつ音の黒さにサイケデリックなムードと重く崇高な演奏はすでにスタジアム・バンド級の貫禄で、NMEなど現地マスコミやオアシスを初めとした大物バンドの支持を得て早くも人気爆発の兆しを見せている。

デトロイト・ソーシャル・クラブはバンドという体裁をとっているが、ヴォーカルのデヴィッド・バーン(超有名なアチラのデヴィッド・バーンとはスペルが微妙に違う:笑)の実質的なソロ・プロジェクトである。フジロックで魅せた正にロックンロールな激しいステージングと、英国ロックの伝統のひとつである不良っぽい佇まいにインタヴュー前は正直若干ビビっていたが、実際に話してみると実にイギリス人らしい、気さくでよく喋るお兄さんでイメージとのあまりのギャップに面喰ってしまった。サービス精神とユーモラスなへらず口(いい意味で!)も一級品だが、アートについての教養の深さも垣間見せる好人物な彼とのインタヴューをお届けしよう。


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b&s.jpg拝啓 ベル・アンド・セバスチャン様

 グラスゴーはもう秋の装いでしょうか?待ちこがれていた新作『Write About Love ~愛の手紙~』を聞きました。前作の『The Life Pursuit』が2006年だから4年ぶりとなるのですね。オリジナル・アルバムとしても通算8枚目だなんて、デビュー作の『Tigermilk』でさえついこの間に思えるのに、なんだか時の経つ早さを感じると共に、こうしてまた素敵な新作を聞けることをうれしく思います。それにしてもタイトルからして「Love」だなんてすごくストレートな表現で最初に聞いた時からどんな作品なんだろうとドキドキしていましたが、その名のとおり愛と優しさの溢れたアルバムで、改めて音楽の持つ「愛」の力に気付かされた気がします。

 アルバムの1曲目、今年のフジロック・フェスティバルのステージでもいち早く披露されていた「I Didn't See It Coming」のピアノとドラムのみのイントロから、サラ・マーティンの凛とした声でファースト・ラインの「Make me dance, I want to surrender」という歌詞が流れてきたときに、古い友人に出会ったような懐かしさと、その友人の新しい一面を見るような興奮を感じました。長く会いたかった友人に久しぶりに会ってみたら以前にも増して素敵になっていた、そんな感じです。

 その「I Didn't See It Coming」は後半になるにつれエレクトロ.ポップなアレンジが色濃くなりますね。それは、スチュアート・マードックのポップ・スターさながらのヴォーカルが印象的な「Come On Sister」でのキーボードや、同じくフジ・ロックでも聞けた「I Want The World To Stop」でのビートとマイナーなコード進行、スティーヴィー・ジャクソンによる「I'm Not Living In The Real World」のコーラス・ワークあたりにすごく顕著なのですが、これは前作同様にロサンゼルスンのスタジオで行なわれたレコーディングでプロデューサーをつとめたトニー・ホッファーとのコラボレーションの成果でしょうか。そうしたエレ・ポップさは流行のものというよりもむしろ80年代的なものも強く感じられます。もしかすると前述の1996年のファースト『Tigermilk』のプロデューサーだったアラン・ランキン、ひいてはアソシエイツなどの80年代のサウンドへのオマージュ/原点回帰といった意味合いもあるのかもしれませんね。スロー・テンポの「Calculating Bimbo」や、息が止まりそうなくらい繊細なアコースティック・サウンドが美し過ぎる「Read The Blessed Pages」など、初期~中期にベルセバ・サウンドを象徴するかのようなバラード曲を含め、アルバムからどこか懐かしさを感じられるというのはそうしたサウンド部分によるところも大きいのだと思います。
 
 もちろん最初に書いたようにアルバムには懐かしさだけでなく、新鮮さも同居していると思います。それはストリングス/ホーンの洗練されたアレンジなどにも感じられますが、中でも一番の驚きだったのが、ノラ・ジョーンズのゲスト参加です。前作と今作の間にリリースされていたスチュアートのソロ・プロジェクト『God Help The Girl』でも多数のゲスト・女性ヴォーカルが参加していましたが、グラミー賞も受賞したジャズ・シンガーである、あのノラとはびっくりです。でもそのスチュワートとのデュエットとなっているメロウな一曲「Little Lou, Ugly Jack, Prophet John」でのノラの力強くも優しい声は、ベルセバのサウンドに自然にとけ込んでいてその参加に納得するとともに、優れたポップ・ソングにおいてはジャズやソウルなどそのアーティストが(ともすればメディアに)分けられているジャンルに関係なく、その魅力が伝わりスタンダードに響くものなのだと改めて感じました。

 続くタイトル・トラック「Write About Love」にゲスト参加している、映画「17歳の肖像」で各国の映画賞を受賞していたイギリス新進女優キャリー・マリガンの初々しいヴォーカルもとても新鮮ですね。また、この2曲もそうですが、同じくスチュワートがこれから制作する映画のサウンド・トラックという位置づけだった『God Help The Girl』を経ているからなのかもしれませんが、今作は歌詞にストーリー・テリングなものが多く、以前のアルバムにも増してそれぞれのラヴ・ソングに自分の個人的な恋愛の経験や想いを重ね合わせた情景が思い浮かびます。特にアルバムの本編ラストを飾る曲「Sunday's Pretty Icons」(日本盤は「Last Trip」と「Suicide Girl」の2曲がボーナス・トラックとして収録されています)で最後に歌われる「Every girl you ever admired/Every boy you ever desired/Every love you ever forgot/Every person that you despised is forgiven」という福音のような響きの歌詞は、アルバムを象徴するかのように、そこで歌われてきた様々な愛の形とそこから思い起こされる自分の想いを、まるでハッピー・エンドのように祝福してくれていてしばらく涙が止まらないほど感動的でした。

 そうした懐かしさと新鮮さが溢れ、「愛」を感じさせてくれるアルバムですが、思えば、こうしたバンドとファンの関係も恋愛に似ているのかもしれませんね。うまく言えませんが、このアルバムでは今までの作品以上にバンドとのつながりを感じると共に、作品で表現されているその「愛」が自分の気持ちや感情の深い部分に根ざしていくような気がします。そして、それはとても素敵なことだと思います。ほんとうに美しいグラスゴーからの愛の手紙を届けてくれてありがとう。また日本で会えるのを楽しみにしています。

                                               敬具

(安永和俊)

*ただいま「ライト・アバウト・ラヴ~愛の手紙~」コンテスト開催中! 詳細はベルセバ日本オフィシャルサイト及びdigital Convinienceブログのこの記事をご参照ください。ベルセバ愛に満ちた↑の手紙も、英語に訳して本人たちに直接見せてあげたい!【編集部追記】

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