工藤鴎芽「すべて失えば君は笑うかな」EP(Self-Release)

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kudou_kamome_subete.jpg オウテカ、ボーズ・オブ・カナダ、クラークなどのWARP系のエレクトロニカ勢が00年代初頭から幅を拡げる中、「もどきの音」がMySpaceという「誰でも一アーティストになれる」潮流とリンクとして少しの機材でそれなりにハイエンドな輪郭を描きながら、アーティスト・エゴと結びつき、メタ・ベタの二律が関係ない「自意識系ロック」よりもっと気味が悪い「自意識を電子コーティングしたマスタベーティングなベースメント・テープス」の出回りの動きがあったのはしんどかった。当時、僕は無限のように電子上にUPされる様々な音を一応はチェックしながら、一つ一つの「不健康な閉じ方」と「大文字の自意識」の現出を避けながら、律義にプロファイリングもしていたので、その内の一つでも「拓かれた何か」があるのか、と期待を掛けていたのは事実だったが、ほぼ良質なものは出会えなかった。

 特に、00年代はメインストリームではミスチルやEXILEといった意図的な大声がそのままに日本内で響いていた瀬もあり、より「細部」を目指す電子音が自意識を纏う、というイロニカルな構図が生まれ、その捩れた最終形が中田ヤスタカ系だったとすると、バックラッシュ的に「女はいたのか」という問いが宙空に差延される。ロボ声にまで帰着すると、逆に女性性は前景化するのだ。だから、フィメール・アーティストの持つ「大文字の実存」をエレクトロニカ的な音や、椎名林檎以降のディストーションに紛れた告白やaiko的な堂々とした求愛態度で表明されると、そこに何の歪みを感応することも出来ないのも多かった。それくらい、椎名林檎やaiko的な何かが「発明」したジュディス・バトラー的哲学のジェンダー・ロック/ポップス解釈は日本では大きかったとも噛み砕けるだろうが、椎名林檎に関しては東京事変以降の「創られた椎名林檎像」の「かわし方」とそれを受容「すべき」男性たちの自意識が強烈なナード性のデフレ・スパイラルに陥っていたのも仕方ない訳で、男性諸氏が「生まれ変わっても、また君に会いたい」的なものにやられていたというスノビッシュな構造論で何一つリンクするものは無く、地下的に蜜月に侵食され合う異性関係性自体が00年代を通して非常に峻厳だった時を経て、匿名と自意識の迂回をして勝ったのが相対性理論だけだったというのはレジュメしなくても周知だろう。

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 前回の工藤鴎芽のEP「I Don't Belong Anywhere」はその00年代の一つの痕跡でありMy Space世代の臨床例の一つだったとも言える。抽象的な大文字、丁寧に組まれたループ、電子音の行き交い、ディスコード、オルタナティヴの対象化。それがしかし、まだ未消化だった部分があったのは前回の弊名のレビュー(http://www.cookiescene.jp/2010/07/i-dont-belong-anywhereepselfre.php)を読んで頂けば分かる部分はあると思う。

 前回のEPから三ヶ月の歳月を経ってふと送られてきた新しいセカンドEP『全て失えば君は笑うかな』は前作よりヘビーな手触りが増して、音的にも進歩しており、彼女の音楽語彙の幅の広さを披歴する内容になっている。

 ナイン・インチ・ネイルズ、ミニストリーなどの90年代のインダストリアル・サウンドを参照に箱庭的に纏めた予期不安を煽るような1曲目の「暗号」からレディオヘッド「Sail To The Moon」、「Videotape」的な内省的なバラッド「プラシーボ」、前作からの延長線に近い軽快な電子音が撥ねる中、ランボオのような幻惑的な歌詞が歌われるキュートな「夢から遠い夢の中」、「泡沫の末路」はジャジーなスウィング・チューン、「Kiss And Kill」は過去曲のリメイクということで、手堅くもかなりマッシヴなアレンジになっている。

 僕は、咄嗟にフアナ・モリーナの『Tres Cosas』をこのEPからふと彷彿としたが、ブロードキャスト『Tender Buttons』やファック・ボタンズ『Tarot Sport』のような影も後ろには見えるのと同時に、クリスタル・キャッスルズの野蛮さも垣間見えた。例えば、ここにプロデューサーとして、アレハンドロ・フラノフ辺りがついて白昼夢のような世界観を生成するのも面白いかもしれない、とも思った。

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 個人的に、フィメール・アーティストの曲の過剰さに中ってしまう事があるのは、彼女たちは大声でヒステリックに「I LOVE YOU」を唱えてもこの世界でかろうじて「赦される」生き物だからだ。男性は「実存」に届かないが故の「藻掻き」を歌にするコンフリクションがあるが、女性は「世界」と向き合う事が出来るが故の「ブレイクスルー」を体現するという点で愛に対して怜悧で獰猛な本能的なパトスを表明して、提示出来る。抽象的ではない、具体的な生物的欲動のロールを非・郵便的に「預ける」事が出来る、郵便局に。しかし、そんな女性「性」だらけが過剰にストックされた「郵便」局では、僕には読める手紙が無いのも確かなのだ。昨今のAKB48などアイドルの「メディア・セックス」的音楽を視て、偏頭痛を憶えるくらいなら、吉行淳之介の女性描写に酔う方がまだ気分良く酔えるし、彼女の今回のセカンドEPならば、有島武郎の「或る女」的な蠱惑性は透視出来る。麗しき頽廃と円環構造に回帰するように。

 彼女に関しては先ず音源を聴いて頂ければ幸いだと思う。ファーストEPより直裁的になりつつ、幻惑性を増した歌詞。慈愛と悲しみと虚無が通奏低音になっているムードとその循環構造。淡い電子音。か細いボーカリゼーション。「暗号」はループされる。

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「叶えられない祈りより、叶えられた祈りの上に多くの涙は流される」―

 トルーマン・カポーティが好んで引用していた言葉だが、彼女の歌にも似たような雰囲気があるのを感じる。但し、それが単純な「生きにくさ」とか「精神的な不安定さ」故のじゃなく、真摯な思考から演繹された所にも今後も期待できる点だと思うし、まだまだ化けてゆくだろう。六等星はまだ耀く。

"睫毛に六等星が纏わり付いた
景色は素晴らしく百色眼鏡"
(「プラシーボ」)

(松浦達

*このEPはセルフ・リリース形式の為、彼女のMySpaceHPから音源を入手出来ます。【編集部追記】

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