スフィアン・スティーヴンス『ジ・エイジ・オブ・アッズ』(Asthmatic Kitty / P-Vine)

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sufjan_stevens.jpg スラヴォイ・ジジェクは「幻想の感染」において、こういう事を述べていた。

 カントの哲学においては、美しいものと崇高なものと異形なものとは三つ組みを成す。「三項」の関係はボロメオの結び目の関係であり、二つの項が第三の項を介して繋がっている。「美」は異形が崇高になるのを可能にし、崇高は美と異形とを媒介する。それぞれの項を極端にする―「完全に実現」をすると、「隣のもの」に変化する、徹底して美しいものは、もはや単に美しいのではなく、崇高になる。同様に徹底して崇高なものはどこか異形になる。あるいは逆に言い方をすれば、崇高の要素がない美しい対象は、真に美しいものではないし、異形の兆しとなるような次元を欠く、崇高なものは、真に崇高なのではなく、単に美しいだけである。

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『The Age of Adz』を初めて聴いたとき、崇高さと鬩ぎ合う異形性を感じると共に、そこに美しさを感じた。ここには過去にアメリカ50州シリーズに挑んでいた際の例えば、『Michigan』、『Illinois』のようなテーマ性や麗しさは「破綻」しており、『The BQE』や「All Delighted People」EPとも違うが確実に、それらを「通過」したが故の独自の捩れた音が鳴っており、「現代版のバーバンク・サウンド」とでも言えるのかもしれない、ミレニウムやハーパーズ・ビザール、レフト・バンク、アソシエイションなどのような音を現代的に再解釈する手腕は相変わらず巧いが、『Illinois』時のようなチェンバーポップの鮮やかに「再写」する手法に関して周到に避けている。

 全体を通じて、エレクトロニックな要素群が格段に増え、エフェクトやサンプルやループや打ち込み音が明らかに独自の歪な音像を結び付けている。その結び目をほどき、サウンド自体の意匠を外せば、フォーキーでトラディショナルな伝承歌のような歌であったり、現代音楽的な様相が浮かんで消える部分もあり、また、ゴスペル的な要素因とIDMとポップ折衷が捩れながらも昇華に向かわず面妖な麗しさを醸す所作の妙はなかなかに凄味さえ感じる。引き合いに出される彼の初期の2001年の『Enjoy Your Rabbit』的なものよりも、もっと表象されているものが違う。より過剰になったサウンド・コラージュの前衛性や黒いフィーリングが表面化している様は今の彼のモードなのだろう。

 しかし、そこはスフィアンらしく「歌心」も忘れていない。今回の歌詞はストーリーテリング的なものではなく、一人称の根源的な独白になっており、そこで愛や孤独、不安などをモティーフにしたもので、時に「ぼくはきみを愛してる」、「長い人生さ 少しは苦労しよう」という衒いのないストレートな歌詞が乗る。ヴォコーダーで加工された声、ヴァン・ダイク・パークス的なストレンジなストリングスの絡み方、幾重にも組まれたサウンド・レイヤーの中で曲は着地点を見出さず、「中空」に浮かんだまま、安直なヴァース・コーラス・ヴァース形式の意味が敢えてぼやけるような構造形式を取っている(ように思わせるが、実際、骨組みだけ取るとポップなものが存外、多い)。

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 ヘッド・ミュージック的な側面もあるが、「内側に閉じてゆく」独善的な作品にもなっていない、とてもポップで万華鏡のようなトリップ感で耳に訴えかけるテンションもある。それは、今回の作品を作るにあたってインスパイアーを受けた黒人画家のロイヤル・ロバートソンのスピリチュアリティが強く出ているのかもしれない。ロイヤル・ロバートソンの提示していた黙示録的な世界観、また、それでも、浮世離れはしないリアリティへ立脚しながら創作活動に励んでいた様。スフィアン自身が憂き世離れしないで、「今、ここ」に留まりながら、音楽に対峙する「意味」が彼を通じて視えてくる。

 インテリジェントでスマートなポップ職人としての彼を求める人なら、『The Age of Adz』はいささか期待を覆してくる内容になっているといえる怪作になったかもしれない。また、各曲の過剰な情報量の多さに眩暈をおぼえてしまうかもしれない。最後の曲の25分を越える「Impossible Soul」に至っては多重コーラスとエレクトロニクス要素と目まぐるしくうねるサウンドスケイプ、ゴスペル・パートなど二点三点も落ち着きの無い展開を見せるサウンド・タペストリーになっている。これをしてアニマル・コレクティヴ的な「サイケデリック」との共振を探すにはあまりに思考停止が過ぎると思う。このサイケデリアは彼自身の内的宇宙の潜航からなる<外>への開きでもある訳で、ファラオ・サンダースやジョン・コルトレーンのような行き着くべきして行き着いた「彼岸」であり、「過程」とも言えないだろうか。

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 異形に近接する美へ彼が崇高性を求めた結果、「こうなってしまった」のか、彼の今の脳内を示すにはこういった「異形性を求めないといけなかった」のか、詳しい所は分からないが、あらゆる面で「引き裂かれた」アルバムになっている。黒いフィーリングと白さ。前衛性とポップネス。安寧と孤独。その引き裂かれたクレバスの間から福音のようにとても優美な音が漏れ聞こえてくるのは確かだ。現代のポップ職人の奏でる異形の美は"ソング・サイクル"を抜けて何処へ向かうのだろう。

(松浦達)

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