くるり『言葉にならない、笑顔を見せてくれよ』(Victor)

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qururi_kotobani.jpg 前作の『魂のゆくえ』やツアー、それを巡る周縁状況、京都音楽博覧会に向けてのクエストや、携帯サイトなどに関しては、僕自身は辟易する部分があった。彼等なりのセルアウトの試みというよりは、これまで信頼してきたファンにはせめてレールを敷いてあげたい、というまるで、一種の運命共同体的なスタンスを打ち出してきたという追い込まれ方には苦い想いが響いたからなのもある。

 くるりの「モード」とはファッション業界の「波を読む」のと似ており、時折、急速な転回と分裂が為されるが着地するポイントは外していない、という奇妙な美しさと鮮やかさがあった。巷間的なピークは『ワルツを踊れ』でのウィーン録音、クラシック×ロックの折衷などという意見は個人的にはどうでもいいし、その都度のピーク・ポイントを「更新」するように表象するのが巧みな彼等はいつでも「さよなら」や「離別」をモティーフに新しい風景を見たいが為に加速し続けてきたバンドだったから、いつでも過渡期をアフォードして生真面目にワールズエンドで踊っていた無様さを追認出来ればそれで良かったのもある。

 初めに言うと、今回のアルバム『言葉にならない、笑顔を見せてくれよ』にはこれみよがしなフェイクも意匠も無い。メジャーデビューアルバムの『さよならストレンジャー』でさえ平熱のようで「気負い」はあったのに、そういったものさえも無い。もっと言うと、岸田氏、佐藤氏、BOBO氏の3人のアンサンブルによるバンド・サウンドが余計な情報量を排除しながら、健康的に鳴っている「それだけ」のアルバム。くるりでなければ、今の時代において、ギミックなしのどれだけ飛距離を延ばすのかが視えないシンプルな内容のものも作れないだろう。出てくるテーマも「温泉が心地よい」、赤塚不二夫的な「これでいいのだ」、「男女間の微妙な行き違い」、「麦茶の美味しさ」とかほんのささやかな、目の先5m程の日常といつもより捌けた希望的な何かが描かれており、ここには彼等の曲ではお馴染みかもしれないブレーメンもピーナッツもジョニーも悲惨な目には合わない(「犬とベイビー」での、不甲斐ない男性側に対する女性のモノローグなどは「らしい」ことにはなっているが)。

 透き通った景色に透き通った筆で描く所作の難しさを簡単に行なっている部分はくるりとしか言いようがない流石に凝ったプロダクションで、『Harvest』期のニール・ヤング、60年代のR&Bに則ったストーンズ的な野卑なロックンロール、ボ・ガンボスやSFUが持っていた辺境の音楽への愛、または岸田氏自身の嗜好が如実に表れた70年代のヘヴィー・ロック、また、彼等特有のはっぴぃえんどをメタ解釈したフォーキーな風情のもの、前作からのブルーズ・ロック路線のものまで相変わらず幅広いヴァリエーションの曲が入っている。「色々と入っている」と言っても、例えば、『THE WORLD IS MINE』の頃のような散らかった印象を全く感じさせないのは彼等自身が今、「くるり」の身の丈を弁えているからだろう。ゆえに、10代~20代前半の若いリスナーにはこの程良い温さはどこまで届くか、分からない危惧もある。

"さよなら さよなら 再起動
やり直しはきかないから"
(「コンバット・ダンス」)

 ましてや、今、「くるり」という記号を巡る磁場はB面集のベストがオリコンで1位になるという捻じれの位置にいる。それはつまり、まだ「身銭を切ってパッケージCDを買う世代」のギリギリの命綱的な何かであるとも換言出来るだろうし、だからこそ、積極的に「ラジカルな事をする」必要性は無いのかもしれないし、岸田氏がMySpaceといった媒体でふと「東京レレレのレ」を発表したり、Twitterにおいて急にUstreamを始めたり、高度情報時代への目配せをしても、総てはオプション的なものに過ぎず、逆説的に本アルバムでは余計な外部情報や雑音を拒否した、どちらかというと、人肌通うウォームな肌触りと肌理細やかさを孕んだタイトなものになっているのも自明の理と言える。反動の反動。加え、いつも、くるりの歌に出てくる「君」や「空」は儚くて所在無げだったが、それは、いずれその「君」も「空」も移ろうという瞬間に自覚的だったからで、今回は普段通り見える「青い空」にミサイルは飛んでいない。星条旗の先の不条理さを解明して「さよならアメリカ」と言いながら、僕は「ここにいる」と言う潔さもある。何だか、これだけ聴いて切なくならない、くるりのアルバムというのは初めて聴いた気がする。「僕」も「君」も等換可能な記号範囲内でもがき苦しみながら、「コンバット・ダンス」をするしかない悲しい檻に閉じられているとしても、"涙など流しやしない"(「目玉のおやじ」)と表明する明るさは非常に強い意味が宿って響く。

『図鑑』にあった閉じ方やシーンへの葛藤、『TEAM ROCK』にあった強引なダンス・ユーフォリアへの接近、『THE WORLD IS MINE』の茫漠とした風景、『アンテナ』のプログレッシヴな男気溢れる音の饗宴、『NIKKI』の3分間のポップの連弾から持ち上がるポップのマジック、『ワルツを踊れ』の荘厳さ、『魂のゆくえ』の剥き出しの痛々しさを経て、現在進行形でフラットに日々の「生活」と「コミュニケーション」に回帰しようとするくるり『言葉にならない、笑顔を見せてくれよ』は本質的にとても野蛮だ。だからもし、このアルバムで繋がれなくなっている受容側が居るとしたら、それも一つの正解でもあると言える。数多の化学調味料とバイアスが混じった視界で、外を歩き回って飲む麦茶の美味しさが素晴らしく、目の前に在る君の笑顔ほど、リアルなものはないと言い切れる自信は僕には無いのも事実であり、一通のメールや電子媒体を通してのヴァーチャルな遣り取りや難解で抽象的な記号論にだって、救われる瀬があり、そうなると、これはくるり流のレイドバックを企図したとも言える。

「春風」に漂っていたような万能的な幸せは無いが、その尺度を用いるに相応しい「優しい日常」をコンパクトに描いた作品の温度に対して、このアルバムを聴いた人たちが言葉にならない笑顔を、見せるのか、非常に興味がある。君と世界との闘争では世界につくのだろうか、まだ。

"泣かないで ピーナッツ"
(「魔法のじゅうたん」)

(松浦達)

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