ザ・ミイラズ『Top Of The Fuck'n World』(Mini Muff)

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mirraz.jpg 以前に読んだ元格闘家の須藤元気著『風の谷のあの人と結婚する方法』という本に『守・破・離』の法則がわかりやすく書いてあった。以下引用。

 学びの基本は『守・破・離』の法則。守って破って離れる。最初は先生の教えを忠実に『守』ります。そこで物事の基礎を身につける。それができたら次は、基礎を『破』りつつ、そこから自分の色をつけていく。いわばアレンジ。アレンジができたら先生から『離れて』完全にオリジナル化する、それが『守・破・離』の法則。

 全ての創作はこれに当てはまると思う。完全なオリジナルというものはいろんなジャンルにおいてないだろう、基本がない人間はアレンジとか言ってる場合でもない。

 そんなわけでザ・ミイラズ(The Mirraz)の3rdアルバム『TOP OF THE FUCK'N WORLD』の話を。彼らミイラズはアークティック・モンキーズのパクリバンドと批判されてもいる。まあ、ボーカルの畠山も自ら公言している。ミイラ取りがミイラになるなんて事はあるのかないのか? 

 なんて事も思ったりするのですが、世界的に大ヒットしたアークティックモンキーズのファーストアルバム『Whatever People Say I Am,That's What I'm Not』の有名な煙草を吸ってるおっさんみたいな若者のジャケットがあります。ミイラズの0thアルバム『be buried alive』のジャケットは包帯をぐるぐる巻きにされたミイラさんが煙草を吸っている。もう超が付くほどに自覚的にパクって出てきたのがわかる。あまりにも意図的に。戦略的になのかもしれない。

 ゼロ年代以降に洋楽ロックフォロワーでもろにそれらの音楽を真似て出てきた日本のバンドなんてそれよりも前の時代よりも少ないわけで、洋楽ロック市場は縮小傾向だし、いろんなジャンルが細分化して多様化してジャンルがクロスオーバーしなくなっている、幅広くいろんなジャンルを聴く人は聴いているとしてもそれは音楽マニアのごく一部だと思う。
 
 情報が溢れすぎていろんなジャンルを横断する事は困難になってきている。一般的にはもはや細分化された小さな枠の中でそれぞれがそれぞれの好きなものを愛でるという状況だ。他の枠の中の事は知らないのだ、それをネット社会は完全に完璧に可能にした。

 洋楽聴かない人が増えてて元ネタのアークティック・モンキーズ自体を知らないんだからね、ミイラズがパクってると言っても本家の事を邦楽ロックだけ聴く人は知らない。だから洋楽ロックをまんまやっても邦楽ロックしか聴かない人にはわからない。

 3rdアルバム『TOP OF THE FUCK'N WORLD』はどうなのか? 『守・破・離』の法則のように自分の色をつけてオリジナル化できているのかということだが、完全に離れているわけではないが、完全ってのは無理だろうけども、彼らは自分たちのスタンスをきちんと打ち出している。

 ミイラズを最初聴いた時の印象はラッドウインプスみたいだなあと思った。早口でまくしたてるボーカルが。情報過多な世界みたいな早口で一気に溢れんばかりの詞を歌う。ある種のこの世界の過剰さを体現してる。ミイラズもラッドウインプスも歌詞の内容的には「キミとボク」のセカイ系の感じで、ミイラズはそれもあるけど外部を持ち込んでそこで留まっていないなって思った。そこにしか可能性がないと思っていたので僕は聴き始めた。歌詞は言葉の量の過剰さ、そして固有名詞が多々出てくる。

 江戸川コナンに刑事コロンボ、ドラゴンボールにジャンプにワンピース、ジュダイにエイトフォーに逆襲のシャアとか諸々。

 歌詞に『逆襲のシャア』って!って思ったけど。まあ、ジャンプのくだりは二十代男子の日常みたいな感じで親近感。永遠に続きそうだったドラゴンボールも終わって終わりそうにないワンピースもいつかは終わってしまうんだろう、ずっと続くものなんてあるのかなっていう、「ああ、それ思った事あるわあ」と。「終わらない日常」や『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』のような同じような毎日の繰り返しに見える僕らの人生も終わって行くんだろうなあ、でもそれでも続くものってあるのかなっていう、その感覚だけが現実感のようなリアル。

 そして自分の痛みをひたすら訴えて悲観的なものやそういうセカイ系とかなんかもういいっすわみたいなのが小説にしろ、音楽にしろ、映画にしろ、溢れまくったゼロ年代はもう終わらせて、きちんと次に向う姿勢がこの十年代には求められる創作の形で、それらが新しい時代を作るのだと思っていた。彼らは外部を取り入れて「キミとボク」の閉じたセカイではなく開かれた世界に対峙しようとしているのが伝わる。

 先日、クラブイベントで初めて観たミイラズのライブはどことなく儚い感じがした。今、自分たちの方向性を見つけて、真似してた影響された部分から少しずつ脱してオリジナルに向っていこうとしているのがわかる、3rdアルバムを聴くとそれは確信に変わった。でも何か今にも崩壊してしまいそうな、そんな空気やロックンロールの儚さが僕には感じられた。

 そのギリギリの所でやってるからこそ突き抜けれるのかもしれない。彼らのドキュメンタリー的な要素も極めて含みつつ、自分たちが好きなものや影響されたものから脱して飛び立つ瞬間、メタモルフォーゼするその瞬間がこのアルバムには収められている。

 ミイラズがきちんと自らの羽で飛び立って行くのか、落下してしまうのかはわからない。だけども飛び立つ瞬間は全ての希望と絶望を含んでいる。そんなドキュメンタリー。

(碇本学)

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