キッシーズ『ハート・オブ・ザ・ナイトライフ』(This Is Music Ltd / Rallye Label)

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kisses.jpg「誰ひとりとして他人が現実に存在することを本当には許さない、と私には思われる。他のひとが生きており、私たちと同様に感じたり、考えたりしていることは認めることができるだろう。だがつねに、自分とは異なるという匿名的な要素なり、物理的なハンディキャップが残るだろう」(フェルナンド・ペソア)

 「アメリカのバンドは僕らがファンとして夢中になるようなメロディーや音楽により才能があるように思えるよ。イギリスのバンドは大抵悪い真似に聴こえたり、そんなに誠実や特別には聴こえないな。」とは、アメリカのアーティストを中心に良質なインディ・サウンドを掘り下げて現在の「シーン」を牽引する、イギリスはロンドンにあるトランスペアレントの創設者の一人の言葉である。「僕らは特定のジャンルとだけ関わったり、リリースしたいというのはないんだ。素晴らしい曲を探しているんだよ。」--音楽のジャンルの壁を「transparent(=透明)」にしようという意図から命名されたというこのレーベルのロゴはしかし、「今」は兎角、よく目に入ってくるような気がする。

 「この1年半くらい、僕はプリンストン(Princeton)にありがちなフィーリングとは違う曲を書き始めている。元々はストリングスやホーンが入ったディスコ・レコードをやろうと思ってたんだけど、お金もないから自分の家のガレージで録音することにしたんだ」--ジェシー・キヴェル(Jesse Kivel)

 プリンストンといえばカリフォルニアはサンタモニカで育った双子のキヴェル兄弟をco-フロントマンとし、アーサー・ラッセルの紆余曲折と暗中模索にニュー・オーダー的なニュー・ウェーヴ、電子音楽のエッセンスをマッシュアップした浮遊感のあるシンセ・サウンドにジルベルト・ジル的トロピカリアの風を吹かせたような、幅広い参照点を折衷した音楽性を持つインディ・ニューカマー・バンドの旗手だが、マット・キヴェルがサイドプロジェクトとして始めたミステリー・クロウズ、スリーピング・バッグスでそれぞれ、リアル・エステイト、ビッグ・トラブルド的な「古き良き、ギターポップ」への憧憬と、マイブラ、ライド的なシューゲイズ・サウンドを展開する中、双子の片割れであるジェシー・キヴェルはキッシーズとして、自身のパートナーであるジンジー・エドモソンとフォーキーでトロピカルなサーフ・ポップを始めたというのが面白い。

 最大公約数的なメタディスクールが社会の中で成立している状態の崩壊、或いは理想が共有されている状態としての集団的転移の衰退が現代だとするならば或いは、小崎哲哉氏が指摘するような「浮遊するジェネレーション」的な「地に足が着かない、漠たる不安」を私たちは「現在」、抱えている状態にある。そうした条件下においてMGMTがソニック・ブームをプロデューサーに迎えたのも、或いはビン・ジ・リンのような軽やかなディスコ・サウンドの希求が為されているのもだからある意味では、「そういう時代」の起こした因果なのかもしれない。
 
 そうなるとウィークエンド、スミス・ウエスタンといったシューゲイザーのフォロワーや、或いはウォッシュト・アウト、アクティヴ・チャイルドのようにフォグでアンニュイなヴォーカルに空間を含ませるようなシンセサイザーが乗ったフローティングなブリージン・ディスコ然としたアーティストが大半を占めるトランスペアレントから今年5月にリリースされたキッシーズ「Bermuda」EPの即日ソールド・アウトという反響の大きさも頷ける。それに、今回のアルバム『The Heart Of The Nightlife』の配給元がシミアン・モバイル・ディスコ、リトル・ブーツ、ブラック・ゴースツ等のディス・イズ・ミュージック・リミテッド、更に世界に先駆けて発売された日本盤が100%オレンジのジャケットと共にカイト、ヨット、タンラインズらの作品を扱う本国インディ・レーベルの雄、金沢のラリーからとなっていることも実にリマーカブルである。

 「きみと踊っていたら何だか、友達がいなくなっちゃったような気がするよ/ああ僕は独りだよ」--「Bermuda」に於ける「きみ」は最早「人間としての君」の実体を失っていて、センチメンタルなビートに乗って一人称の彼は記号と手を繋いでいる。「何だかもう、よくわからないんだよ/きみは何者なの?(People Can Do The Most Amazing Things)」「恋人のために時間を潰さないようにしなきゃ...だってもう、十分な気がするんだ/もう飽きちゃったよ/ねえ、でもきみが恋しいんだ(Kisses)」--キッシーズが謳う「人間が二人居る」というこの事実は、かくも切実にリスナーの胸に突き刺さってくる。

 地に足の着かない不安を真っ直ぐに見据える「そこ」に真新しさはそれほど感じられない。しかし、パウル・ベッカーは言う―私たちが「他者」という異物の中に見出すのは常に自分自身である。足場を失った「若者」は、不可知で不安定な視座に立って、「そこに、在る」ものとしての交わされることの無い情報、即ち「空洞」を見つめる。

 そういった意味でも、本作を聴くにつけ、閉塞する自意識のセカイを謳うジェシーの「時代を感知する優秀なアンテナ」と、ウエスト・コーストから押し寄せるその「波」をサーフする音が「今」、メランコリックな響きと共に視えて来るのではないだろうか。

 グローファイ/チルウェーヴというタームの胎動が確認されてから約1年、ブルックリンのネオ・サイケデリアや新世代のノイズ・ポップ、或いは「国境の垣根を越える象徴界のスマートなロック」のウェイヴスを踏襲しつつ、キャッチーなメロディ・ラインはそのままに、ファジーで温度感のあるオーガニックなダウン・ビートがオーヴァーグラウンドに出て来たのは私はだから、偶然ではないと思っている。

(黒田千尋)

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