ノー・エイジ『エヴリシング・イン・ビトウィーン』(Sub Pop / Traffic)

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no_age.jpg デビューアルバムが辛口メディアのピッチフォークにおいて10点満点中9.2点をたたきだした二人組には、様々な観点からの掘り下げる材料が用意されているようだ。前述したピッチフォークをはじめとした各国メディアの賞賛や、彼らが運営するザ・スメルから形成されるコミュニティであるとか、ヴィジュアル、パフォーマンスを総括するアート的な部分であるとか、ノイズ・ポップ・デュオでありシューゲイズでありながらもローファイであり、チルウェイブである。と、まあ、彼らを評する時には書ききれない程の要素が混在していて、なんだか複雑な数式を解いている気分になってきてしまった。無理矢理こじつければ、様々な人種が混在するアメリカの縮図と言ったところか。いずれにしても、そのひとつ、どれを掘り下げてみてもしっかりと我々の欲求を満たしてくれるであろうし、きっと彼らは確信犯的にそれらをごちゃまぜにしているのかもしれない。
 
 デビューアルバムよりひとつEPをはさんで、今回の作品へとつながった彼らの変化とは音を重ねコラージュしていく事で深みを増したポップネスを獲得した事であり、特にファーストアルバムと比べて聴きやすい作品になっている事は間違いない。ペイヴメントのようなローファイっぽさは薄れてきた印象で、それよりも前半では80年代のパンク/ハードコアを今に蘇らせ、さらに時代の空気さえ再現してしまいそうな音の雰囲気である。音を重ねたと言っても全編を通して基軸となるのはやはり歪んだギターの音とこもりがちのドラム音が産み出すサウンドスケープであり、そこからラジカセに入れたカセットテープから流れてくるような音を聴き取る事ができる。総じて、僕はチューインガムを噛みながらキャップを被りスケートボードを走らせるキッズの情景を僕は思い起こすわけだが、この作品を聴くとぼんやりと描く80年代のアメリカがそこにある。しかし、ただの回顧に留まらず、彼らの作り出す音は、歪ませたギターの音から、次の展開で出される音のヴォリュームのつまみにしろ、些細な部分で音の陰陽を作り出し、一聴するとざらついてる聴こえるようだが、実に心地よく、時に美しい。後半につれ、その様相は色濃く表現されて、2曲続けて鳴らされるインストゥルメンタルに、この作品のハイライトさえ感じてしまうほどだ。そこに僕はオレンジ色のノスタルジーを思い描き、スケートボードを持ったキッズの背中には昼と夜の狭間に姿を現すオレンジ色の夕日が見えてくるのである。
 
 でも、それはなんだか物憂げ。記憶の片隅に残る古き良き時代をぼんやりと思い描くだなんて、捉えようによっては随分と後ろ向きではないか。こういった音でアメリカを感じてしまうという事はある種の警告なのかもしれない。例えば、アマゾンでこの作品をクリックすれば円高ドル安、グッとリーズナブルな料金で買えるし、関連商品で、例えばディアハンターへと容易に辿り付けてしまうように、この手の音が少なからずシーンを作り出している事は確かである。しかし、そこからはかつてのマッチョで筋肉質な強いアメリカを見ることはできない。もちろん、テンガロンハットも自由の女神もアメリカンフットボールも、その他力強さの象徴諸々も。ただ、こういった音が現在のアメリカにとって、最もリアルな気もするし、物憂げだと見誤る危険だってあるのかもしれない。

 あくまでもDIYの精神にのっとり、彼らはクレヴァーに時代をかえようとしているのかもしれない。そう、僕は夕日を思い描いた情景が、実は夜と朝の狭間に姿を現す朝焼けなのかもしれない、という事だ。

(佐藤奨作)

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