ドライヴァン『ディスコ』(Smalltown Supersound / Afterhours)

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drivan.jpg なんだかんだで人は宗教的とも言える自分だけの世界を持っていて、それは誰にも言えない、または言いたくない類のものであったり、人には理解されないものであったりする。とは思うのだが、現在では、その自分だけの世界がオタクという言葉で称され、フランクに誰にでも提示できる環境が整っていると感じる。思えば少し前ならば、人をオタクと呼ぶことには蔑称の意味も含んでいたが、今ではオタクであることがカッコいいという風潮がある。その風潮が出来上がったからこそ、エレクトロニカ・アーティストの機材オタク的な音楽世界や自己満足的な世界観がここ日本で受け入れられる環境が整ったのだと感じる。

 例えば一部のクラブ・イベントにおいて、アンダーワールドでもダフト・パンクでもなく、オウテカを流す方が、場が盛り上がるという状況は何度か目にしたし、ヤン・イェリネクやハーバートといった、盛り上がるというよりは音マニアあるいはオタク的な側面が強いアーティストの楽曲しか流さないことを強調し、それらの音楽がオシャレであることを強調したイベントも存在する。もう「オタク」も「マニア」も蔑称ではなく、カッコいいものなのである。少し前の書籍になるが、菊地成孔の『聴き飽きない人々』という対談集において、音楽評論家の岡村詩野氏と菊地成孔氏の対談で、最近の若いリスナーは聴きやすいポップスを知らず、聴こうとせず、やや難解な音楽を聴きたがる傾向にある、という旨の発言があったが、それはリスナーの、オタク属性化を示しているように思う。そこには音楽によって誰かと繋がることは頭になく、自己の世界にどっぷり浸かりたいという欲求があるように僕には思えた(僕にもそういうところはあるのだけど...)。

 ドライヴァンの本作『Disko』は、ノルウェーを代表するデザイナーであり、エレクトロニカ・アーティストであり、音楽オタクでもあるキム・ヨーソイが結成した北欧の女性3人を加えたバンドのデビュー作である。北欧だからなのか、ムームの2ndや3rdと似た雰囲気を持つ。どの楽曲もクオリティは高く、ヴァリエーション豊かとは言えないが、寂しげなこの音楽はひとりだけで聴きたいと思わせる。もともとダンス・パフォーマンスにキム・ヨーソイが楽曲を提供したのがバンド結成のきっかけらしいが、4つ打ちのダンス・ミュージック的なところはなく、どちらかと言えばフォーク・ミュージックと表した方が適している。歌詞は全てスウェーデン語で女性ヴォーカルの涼しげな歌声が全曲つらぬかれているが、プロデュースも務めたキム・ヨーソイは女性ヴォーカリストの最も深くにあるもの、つまりはヴォーカリストの宗教的なまでの深い部分を引き出そうとしているかのような音響処理や暗いトーンの音色を配置している。そしてそれが奏功している。まるでつぶやいているような歌声。冷酷で淡白。しかしだからこそ迫ってくるものがある。どうしようもなく寂しいがゆえに、歌に、音そのものにすがろうという姿が見える。

 TVゲームであろうと漫画であろうと、いわゆるオタクと呼ばれる人々がそれらに夢中になるのは何かを得るためではなく、自身を満足させるための救済の行為なのかもしれない。それがドライヴァンの場合、音楽に身を預けることだったのではないだろうか。音楽をまず鳴らしたいという欲求よりも、音楽によって自分で自分を認めたいという欲求。そんなことを聴いていると思うのだ。「認められなくてもかまわない。音楽はわたしを救うのだ」と。音楽家は自分の音楽によって救われる。聴く側は音楽を聴いて浸り、分析し、または批評し満足することで救われる。それらは誰にも理解されないものかもしれない。しかし、そうしなければオタクは自分を保てない。本作はそういう類の音楽であると僕は思う。もはや音楽オタクという言葉が一般化し、ブログやツイッターなどで批評する環境が整い、作品をどう受け止めて、どのように評するのかが意識的にも無意識的にもオタクにとって自分の存在価値を示すものになった現在、需要のある一枚に成りうる作品かもしれない。

(田中喬史)

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