セルジュ・ゲンスブールを巡る試論:初期作品群を中心に

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serge_gainsbourg.jpg 近年、話題になった2006年の『Monsieur Gainsbourg revisited』には個人的に納得いかない部分が多かった。フランツ・フェルディナンド&ジェーン・バーキン、ジャーヴィス・コッカー&キッド・ロコ、ポーティス・ヘッド、マイケル・スタイプ、トリッキー、カーラ・ブルーニなどの錚々たるメンツがセルジュ・ゲンスブール(彼の名前の日本語表記は諸説あるが、ここではセルジュ・ゲンスブールに統一する)へのトリビュートを行なったという事と、作品への解釈論ではあまり口を挟むところがないのだが、如何せん世界的に評価の高い『メロディ・ネルソンの物語(Ballade de Melody)』をメインに、中期から後期、又は「ジュテーム・モワ・ノン・プリュ(Je t'aime moi non plus)」などの有名曲が多かったのには辟易したという要素因がある。

 だから、初期の「リラの門の切符切り(Le Poinconneur Des Lila)」を鮮やかにポスト・パンク的に再構築したザ・レイクスや1968年の映画のテーマ曲「スローガンの歌(Le Chanson de Slogan)」をダルに潜航するように曲自体を低温に落とし込んだザ・キルズの流れには昂揚した。

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 彼は、デビュー作の1958年の『Du Chant A La Une!』のプローモーション時において、「もし、貴方が貴方でなければ、誰になりたいか?」というインタビュワーの質問に即座に、「マルキ・ド・サドか、ロビンソン・クルーソー」と答えている。自分は、彼を偶像・崇拝化する気も貶める気もないが、彼の「借り物」性と、映画監督で見せる「質の悪さ」(ちなみに、僕は、最初は彼の音楽美より映像美に胸打たれた所がある。)、数多の「女性」と寝ながら、下らないブラック・ジョークを潜り、1944年のパリ解放までダビデの星を付けながら、ナチスの迫害に怯えていた頃の恐怖心とトラウマを避わすための長い「余生」を全うすべく、フランス国家への嘲弄、総てにおいてハイブロウな知的戯れに暮れた様は鮮やかですらあった。

 いつも彼は良い意味で空虚だったし、2010年の今においてもフランス人のみならず、モンパルナスの墓を訪れる人が多い理由は分からないでもない。何故なら、こんなに空疎に同じ言葉を持てなくなったセカイで、空虚に踊る為のイコンとして彼を求めるなり、再度、発見「してしまう」のは必然的なのかもしれない。

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 ある一説に、近代以降の大半のポップ・ミュージックとは、女性が男性から離れていった喪失感を基盤としており、「ガール」とは即ち「失って、帰ってこないもの」のメタファーである、みたいなことを言ったりもする。正義、伝統、理性、愛、モラル、平和、光、狂気、自由、何でもいいが、そういうものにも置き換えられるのかもしれない、としたならば、彼の過剰なまでのエロス(と引き裂かれたタナトス)はどうしようもない不条理な人生をバルザックの「知られざる傑作」の画家のフレンホーファー的に受け止めようとしていた証だったのかもしれない。フレンホーファーは10年に渡って、同じ肖像画を描き直し続け、そして、彼の想い入れの中でこの絵は絵画の世界に革命を起こし、「そのままの現実を完璧に描きだす」ものであるという意識で挑んだ。仲間の画家のプーサン、ポルビュスが完成したその絵を見るべく彼の部屋を訪れて、その絵を見れば、キャンバスには雑多な色と形が塗りたくられているだけだった。カオスと条理を通り越した不条理と無為。それでも、フレンホーファーは賢しげを気取る。しかし、その二人の「反応」を慮り、自身の「この10年間」は徒労だったと気付き、慟哭し、仲間が去った後、全部の絵を焼き、自殺する。

 セルジュ・ゲンスブールは、フレンホーファーまで極端ではなかったが、「緩慢なる自殺」を常に試行するニヒリストを気取った徹底したリアリストだった。何せ、デビュー曲と言ってもいい「リラの門の切符切り(Le Poinconneur Des Lila)」で「自分はリラの門の切符切りで、もうこの世の中にうんざりしていて、はやくずらかりたい、そして、自由になるタイミングを逃したら、棺桶に向かっていこう」と表明しているのだ。

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 彼は、15枚のオリジナルアルバムとその他多くの提供曲、映画音楽があるが、今回は、前半7枚辺りの、所謂「ジャズ的な何かを求めた時期」、ブレイク以前の作品を掘り下げることで、何らかの視角を輻射したいと思う。

 周知の通り、彼はアティチュード面では心酔される存在だったが、音楽面では毀誉褒貶があり、デラシネ(deracine)で表層的な振舞い(デヴィッド・ボウイ的な、と言おうか)が故に逆説的に音楽の「本質性」へとアタッチメントしていたのではないかと思うくらい、シャンソンからジャズ、そして、スウィンギン・ロンドン、ポエトリー・リーディング、ロック、レゲエ、ダブ、ニューウェーヴ、果てはヒップホップへとロールしていった。

 そういう文脈では、1958年から1968年の10年間の作品は「リラからスウィンギン・ロンドンまで」の片道切符が切られている。ファーストの1958年の『Du Chant A La Une!』は既に「遅すぎた」デビューアルバムだった。パリのキャバレーでピアニスト兼歌手として働いていて、ここで出会ったボリス・ヴィアンの歌唱を聞き、感銘を受けての30歳のデビュー。ニヒリスティックな歌詞とバックサウンドのバド・パウエルを彷彿とさせる流麗なジャズっぽさと、彼の独特の気品とスノビズムの鬩ぎ合い。「死」の気配が充填されているのも「らしい」作品で、棺桶に足を半分突っ込みつつ、ジャガーが溝に落ちて死にそうになっているカップルの横で鳴るカーステレオ、不倫、というモティーフの中、サン・ジェルマン=デ・プレ、左岸派へ目配せしながらも、裏ではシニカルに挑発的に中指を立てている、いまだにBGMとかカフェ・ミュージック吸収を免れ続けている癖のある23分弱のささやかな10インチ内でのレヴェル(藻掻き)。

 1959年の『No 2』は、デビュー作より更に短くなり、今で言うEPとも言えるような8曲入りの、英語や言葉遊び、語呂合わせを満遍なく取り入れた「遊んでみた」デビュー作と一転しての、軽やかな一作になった。取り立てて特筆すべき冒険は為されていない相変わらずの、ジャジーなテイスト。表層的にマンボやチャチャを取り入れた然り気ない試みは後々のセルジュのカット・アンド・デコンストラクトの手腕の萌芽を感得出来る。

 1961年のサード・アルバム『驚嘆のセルジュ・ゲンスブール(L'etonant Serge Gainsbourg)』では、やはりジャック・プレヴェールの作詞した「枯葉」をモティーフにした「プレヴェールに捧ぐ(La Chanson De Prevert)」が有名になるのだろう。しかし、その実、ネルヴァルやユーゴー、アルヴェールの「詩」へ曲を付けたり、当時の流行のムーブメントであったイエイエに対して真っ向から「抗う」ようなシャンソンの要素が強い、まだ「時代と寝るのを拒んでいた」頃の彼の文学的リリシズムが溢れる繊細な作品になっている。更に、1962年『No.4』ではジャズへの傾倒が進み、ただ、そこでも、ボサ・ノヴァやサンバといった当時ブラジルで隆盛してきた音楽への目配せをされているところがアンテナの鋭敏な彼らしいパスティーシュの鮮やかさがあり、ただ、全体としてとてもダークな趣きが強いのはアメリカーナ、ブリッツからの、ツイスト、イエイエ(1960年代フランスで流行ったロックンロール調の音楽やディスコ調の音楽)の下世話な盛り上がりに耐えられなかったのか否か、「外れ者」であり続けている自分の幕引きさえも考え、絵描きの世界へ戻ろうという失意から生まれた「ツイスト男の為のレクイエム」としてのアルバムになったのは皮肉だった。その流れのまま、1964年の『Gainsbourg Confidential』は、よりジャズに接近する。ベースのミシェル・ゴードリー、エレク・パクチックとのトリオ構成で2、3日で一気に録りあげた静謐さとアイロニカルな知的美しさに満ちた空気感。「何も語らない」アルバム。

 だからなのか、前三作の「沈黙」を対象化して、「語る」ために同年の『Gainsbourg percussions』でアフロ・ラテンサウンドへ傾斜する。ここまでのアルバムになかった開放感と明朗さが打楽器、12人の女性バッキング・ボーカリストと共に、繰り広げられたエキゾティシズムの表層的な剽窃と、譜割に合わせるが故に全く記号的に音韻を踏んだ歌詞世界。ジョアンナやローラ、ジェレミー等が繰り広げる悲喜劇。ちなみに、90年代以降のクラヴ・カルチャーで最も再評価され、パワースピンされたアルバムであるのは知っている人も多いだろう。

 そして、1965年のフランスギャルへの提供曲「夢見るシャンソン人形」のヒットにより、商業作家としてようやっと実を結び始め、映画音楽も多数手がける中、ブリジッド・バルドーと恋仲になる。その躁的テンションのまま、ロンドンで取られたEPが1968年の『Intial B.B.』になる。トータル・アルバムというには程遠い、ちぐはぐなスウィンギン・ロンドン風ビートに満ちた作品。この頃には、「誰がインで、誰がアウト?(Qui est in qui est out)」というコンテクストで言うと、もう彼は愈よ「イン」になってきていたが故に、スキャンダラスな話題を撒き散らすトリックスターを演じるようになってくる。

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 冒頭に戻ると、セルジュ・ゲンスブールの初期作品というのは「敢えて」スルーされているのか、それとも評価するに値しない類の習作群なのか、懐疑が募る。荘厳なストリングスが絡む1971年の『メロディ・ネルソンの物語(Histoire de Melody Nelson)』がベックを始めに多くのアーティストに賛美される瀬も良いと思うし、ルーリードの『ベルリン』を髣髴とさせる『くたばれキャベツ野郎( L'Homme à tête de chou)』の重厚なポエトリー・リーディング調のスタイルとコンセプト性、その後のレゲエ、ダブ、ヒップホップ路線への暖かい視座も許容出来る。

 しかし、現代、「君と僕」で完結してしまうポップ・ソングか、ネタ探しをする迄もない、笑うに笑えない、アリストテレスが「芸術は自然を模倣する」と言ったのに対して、オスカー・ワイルド的に「自然は芸術を模倣する」と切り返してみせるような音楽や表現が多い中で、セルジュ・ゲンスブールの「模倣という美学」の中で存在性と初期作品に漂う強烈なニヒリズムこそ必要されるべきだと思うのは筆者の迷妄だろうか。

 セルジュ・ゲンスブールとは、自己の模倣と他者の模倣の相互作用によって、過去および現在において知られる熱狂や狂信といった歴史の力を対象化する。そして、その対象化能力は初期の1958年から1968年の10年間の作品群にも十二分に詰まっている。来年3月2日で没後20年を迎えるが、今こそ彼の全体像は再定義されるべきだと願ってやまない。この原稿がその一端になれば、幸いである。

(松浦達)

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