ルキノ・ヴィスコンティ『白夜』を巡る幾つかの試考

|

luchino_visconti.jpg ジョルジョ・バタイユの「青空」の序文で、実験のために書かれる書物と、必然的に生まれる書物との差異について、書かれている。「文学」とは基本的に破壊的な力を持ち、「恐れとおののき」と共に対峙されるもので、生の真実とその過剰なまでの可能性を開示する力を帯びると記している。「文学」というのは一個の「連続」体ではなく、寧ろ幾つもの「断続」の「連なり」ということだ。僕自身は、その文脈上に敷かれた「激情の瞬間」をアカデミズムや余計なバイアスの外に置く事にしている。だから、その「外」に置かれた場所で、流浪的に「体内に取り込む言葉や表現」を選別することによって、初めて意味が発現すると思っている。

「約束」で形成された場所に行くためには、それに近づく望みを禁忌しないといけない。だから、総てを遠ざけることこそが、何かに近付くことでもある。人生が一回限りの何かでしか無く、何処まで飛べるのか、を競い合うものでしかないなら、自分の確信から「より遠く離れたとき」にこそ、実は「到着地点に近付く」。「未来という過去」に身を投じようとする人たちに、「セカイ系」は勿論、生優しいサルヴェージの言葉も似合わない。因習に沿って、因習を内側から「壊すように」、もう一度再生すればいいだけの話であり、定例通りの作品を避けた後で、定例外の道を、テクストの余白に書き込むように読み解く慧眼を持つならば、今の時代において、ルキノ・ヴィスコンティについて考えることは意義深い事に思える。

          *          *          * 

 ヴィスコンティと言えば、大概、『ベニスに死す』や『郵便配達は二度ベルを鳴らす』は廉価版で流布されているが、その他の作品群含め、日本ではなかなか評価軸が定められなかった。例えば、『夏の嵐』はネオレアリズモから演劇的様式美へのファースト・ステップを踏み、19世紀の書き割的な小説のような退廃と破滅に対して色彩豊かに「橋」を渡り、認められたが、『白夜』や『山猫』辺りになると途端、評論枠は絞られる。
 
 例えば、フェリーニやゴダール、もっと言うとコッポラがこれだけ藝術的に受容され、「再」評価される世の中だからこそ、今、ヴィスコンティを僕は評価したいのだが、ヴィスコンティ的なロマンや華麗さは現代には必要ないのだろうか、とさえ嘆息もおぼえてしまうのも同時にある。

 彼は高貴な家庭に生まれ、何不自由のない生活をおくっていたハイクラスの人間だった。そして、バイ・セクシャルでもあり、ロシア文学に精通しており、イタリア共産党に属していたりした時期もあったり、面白い経歴を持っている。基本、彼の作品はとても美麗で耽美的とも言える映像を切り取るものが多いが、ナラティヴ自体は頽廃的であり、破滅的で、陰惨な結末を迎えるものが多いのは幾つかの彼の作品を観た人なら認識出来ているだろう。貴族階級の没落、芸術家の破滅、悲恋、絶望的な道筋。

          *          *          * 

 なお、僕は、彼の作品の中でも1957年の『白夜』(イタリア・フランスの合作になっている)を愛好しており、現代的にも響く何かがあると思ってもいる。

『白夜』とは言わずもがな、原作はドストエフスキーの初期の短編。映画化にあたっては、イタリアのチネチッタ(Cinecittà)でリヴォルノをモデルとした架空の港町を創り上げ、箱庭的な閉塞感を醸した。原作においては、19世紀のサンクトペテルブルグ(当時はペテルブルク)だったが、イタリアの架空の港町にシフトされ、初夏だった季節は冬に切り替えられている。主な登場人物は、橋の上で旅に出たままの彼を待ち続ける日々をおくる、マリア・シェル演じるナタリアと、そこで出会う転勤で来たマルチェロ・マストロヤンニ演じるマリオ。

 独身の会社員のマリオは転勤で小さな港町に移ってくる。友達も知り合いも居ない中、歩いていると、橋の上で若い女性が泣いているのを発見する。それがナタリアだった。警戒した彼女をマリオはそれでも取り敢えず一度、家に送る。そして、「次の晩に同じ橋の上で会おう」と約束をする。極寒の夜を彷徨するマリオの幻惑を掻き立てるナタリアと位相は拗れながら、女性の扱いにも慣れていないマリオと、ただ怯えるナタリアという構造そのものが「ナタリアの頭の中の物語」でマリオはその中の「架空の人物」だったのかもしれない。

 次の晩に、マリオを見たナタリアは逃げだし、さすがに気分を害したマリオに対して、彼女は「訳」や「自分のこと」を話す。スラヴ系の盲目の祖母と住んでいること、そして、彼女の家にハンサムな下宿人が来て、彼女は恋に落ちて、彼は一年後に帰ると言い、この町を去っていったこと。その下宿人を演じるのはジャン・マレーであり、貧しい青年像の原作のイメージと比してマチズモ的なものを示すが、とても「匿名性」が高い存在としても描かれている。

 マリオが下宿人に手紙を渡したという嘘をついてからの、三度目の夜にダンスホールで二人は甘美な幻想に耽る。ロックンロール、スクーザミ、流れる音楽は性的な、そしてユーフォリックな予感を惹起させる。ただ、突然、「我に返った」ように、ナタリアは「橋」へ向かう。

 その「橋」と結局は何だったのか、考えてみる。幻想的世界と現実的なものを繋ぐ何か、と表象するには違う気がするからだ。もしかしたら、経済学的に言う「見えざる手」のような何かかもしれない。

          *          *          * 

 市場原理社会内で「見えざる手」とは、社会総体的に最大の利益を付与するのが自由競争であるから、という言い訳と幻想を撒き散らす事が出来る。無論、アダム・スミスそのものが自己利益の拡大が、自分と全く予想さえもしていなかった目的を達する運動を促進することになる、と自著で明言しているように、「自由」な競争原理の可能性や継続的な発展性に対して懐疑的だった。更に、ここからダーウィン理論への簡単な接線を敷いてみよう。「自然淘汰は、個体の再生産の成果を増加させる」ような、特徴や行動を促進させるが、全体にとって利益になるかどうかは別問題であり、ただ「知性」などの幾つかの特徴に関しては個体の再生産の成果に貢献する「のみ」でなく、全体により幅広く利益をもたらす事となるとしたら、マリオと下宿人の関係性はどう捉えられるだろうか。

 一方で、個体の利益になるものの、全体性には何も還元されないものもある。
例えば、ヘラジカの牡は過酷な競争の中で、牝に近づき交尾の末、種を残すが、その際、「より大きな枝角を持っている」方が「有利」に働くケースが多い。その結果的に、次世代の大きな枝角を持った遺伝子を含有している進化が試されるというのは、凡庸な「進化論」として収斂する。しかし、枝角が大きくなればなるほど、森林内では「目立つ」。目立つと、外敵に狙われやすくなる。総て、字義通り捉えるのではなく、メタファーとして把握してみるとして、小さい港町へ転勤で訪れたマリオの「目立ち方」は、余計なものに狙われやすくもなるのも確かだ。狙ってきたのはナタリアの幻想だったのかもしれない。
 
 ヴィスコンティの作品と、市場原理論、ダーウィン理論の「結び付け」は共約不可能性を帯びる以前に噛み合うことはないだろう。前者はデカダンスの崩れを希求し、後者群はアフォーダンスの揺らぎを求めるからだ。コモンズの悲劇的に、藝術や頽廃や、ましてや「見えざる手」を考えるべきではないのは自明の理としても、そんな瀬においてまた、繰り返される「悲劇」にこそ、本当に「見える手」を差し伸べて欲しい。現代における藝術に向けて、その先の「君」に向けて。

『白夜』でのラスト・シーンにおけるマリオの背中は、とても寂寞と孤独感が滲み出ている。総てが幻の出来事だったかのように元の通り、何もなくなったからかもしれない。

(松浦達)

retweet