ロシア・ピアニズム論考

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russian_pianism.jpg 「音とは顕われた瞬間に消えていくものだ、そしてその音の連続が音楽である」とは、ピアニストのアファナシェフの言葉だが、記憶の中で点が散在しながらも結び合わない「あったはずの記憶」を現前化させるデモーニッシュな引力がロシア・ピアニズムと言われる(些か、ジャンル内ジャンルとも言える)一連の音色、旋律には宿っている気がする。例えば、ショスタコーヴィッチ『自作自演集』を聴いたときに感じる「有得ない重厚さ」、とは社会主義圏の持つあの特有のストイシズムと暗がりの美はハイパーキャピタリズムの進捗してしまったこの世界では最後のローファイ(人工的技巧主義)だとも言える。

 91年にソ連が崩壊してから、そこまで保存されていた貴重な音源が全世界に知られることになったが、ホロビッツやリヒテル、ソフロニツキーなどのピアノ演奏が「再発見」され、更にはモスクワのグネーシン・アカデミーは或る種の聖地化をしたのは記憶に新しい。近年では、「のだめカンタービレ」やアーノンクール評価、クラシック・ブームの翳で、ロシア・ピアニズムと呼ばれる静謐にしてオルタナティヴな流れはより美しく深度を増していた。ロシア・ピアニズムにあって、他にないものと言えば、「歌」と「エレガンス」と言えるかもしれない。カンティレーナを特徴として、ロマンティシズムに殉ずるべくフォルテさえもエレガントに弾く。その隙間に零れ出る過剰な表現欲求はなかなか味わるものではない。

 僕自身とロシア・ピアニズムの出会いは佐藤泰一氏の『ロシアピアニズム』(ヤングトゥリー・プレス)だった。関係資料と膨大な歴史背景と取材を合わせて、書き進められるダイナミクスを帯びた本で読んで、ここに載っているレコードは欲しくなるくらいの熱量を含んだ良書だった。

 この書物でも触れているが、ロシア・ピアニズムという「歴史」はそんなに旧くはない。

 アントン・ルーゼンシュタインが音楽院を創設してから30年でロシア革命がおき、作曲家やピアニストの大半が流出したり、亡命してしまった訳だが、WW2後、リヒテル、ギレリス、ユーディナのような腕利きのピアニスト達が世界コンクールで注目される事になった。例えば、ポーランド・ピアニズム等は演奏技巧優先主義を厭うが、ロシアの技巧レベルは教育システム含めて、かなり高度なもので、ただそれが故の前衛性は乏しいかもしれない部分はあった。でも、「良い譜面をより良く演奏する」という、素晴らしさこそが大事なときもあり、ロシア系ピアニストのあの重厚なタッチには音楽が本来持っていた「何か」があるような気もするという意見もまだ多い。
 
 しかし、残念なことに現在、ロシア・ピアニズムは衰微の段階に入っている。その代わり、再発見の循環構造の中で、アレクサンドル・スクリャービン、ゲンリッヒ・ネイガウス、セルゲイ・プロコティエフ、ショスタコーヴィッチなどは特に別分野のリスナーの耳も捉えて離さない状況も生んでいる。「ロックだからロックを聴く」という規律は今はなく、かといえど、精神性と音楽の繋がりは心理学的に確実にある訳だから、クラシック音楽のジャンル内ジャンル、とも言えるロシア・ピアニズムへ魅かれるオルタナティヴで貪欲なリスナーが居てもおかしくないとしたら、その音楽の持つロマンティシズムと重さに、他のジャンルにはない別の哲学を視ているのかもしれない。分かりやすいことはなんて分かりにくいのだろう。また、分かりにくいことは何故に分かりにくいままなのだろう。

 最後に、「ロシア・ピアニズムを想う」とき、僕はバタイユのこういう表現を想い出す。生の根底には、連続から不連続への変化と、不連続から連続への変化とがあり、私たちは不連続な存在であって、理解しがたい出来事のなかで孤独に死んでゆく個体である。だが他方で私たちは、失われた連続性へのノスタルジーを持っている。私たちは偶然的で滅びゆく個体なのだが、しかし、自分がこの個体性に釘づけにされているという状況が耐えられずにいる。それに耐えられる人なら、必要の無いものなのかもしれない。少なくとも、僕は耐えられないが、皆はどうなのだろうか。

(松浦達)

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