クレバ「OASYS」EP(Pony Canyon)

|

kreva.jpg 人間に実は、「MUST」は無い。ただ、「MAYBE」の連鎖がかろうじての生を紡ぐだけなのだ。初期のオアシスだって何故、あれだけ「MAYBE」に拘ったのか、最初から「LIVE FOREVER」とステイトメントすることで、「MUST」の底辺に縛られたワーキングクラスの現実をブレイクスルーとしようとした試みがあり、ロック・スターかサッカー選手になる以外に確約されてしまう、パプで管を巻くか、喧嘩でウィークエンドを何度も繰り返す事へのかろうじての、抵抗でもあり、ささやかな大声でもあったからだとも言える。
 
"このままこうしていられるなら 他には何もいらない
そんな風に思えてしまったなら
終わりが近いのかも"(「かも」)
 
 そういう意味で「言い切ること」への覚悟を定めていたKREVAは今になって、「喪失」と「閉塞」に向き合い、まるでソロ一作目の「希望の炎」時のように捩れながら、還る。インタビューで言っていたが、ここには前作の『心臓』のような甘やかなラブソングは意図的に排され、敢えて言うならば高度情報化社会への疑義呈示が前面に押し出されている。

 09年のSEEDA&OKI(GEEK)のTERIYAKI BOYZへの「ディス」が然程の発展と波及を見せずに結果的に、収束したのは日本という土地柄もあったのか、「ディス」(Disrespect)という作法が巷間的に認証ベースで許容されてはいないのか、想う所はあった。

 想えば、近年、海外でメジャーな所でのJAY-ZとNASの「ビーフ」は大きい余波を残した。しかし、それはヒップホップ・マナーに依拠していた丁寧なルール内でのものだったので、ヒップホップ界「外」の人たちにも興味深く映ったことは間違いないだろう。「ディス」の文脈で言えば、KREVAは過去、般若など多くから受けている。
 
 そんな状況下で、日本におけるアンダーグラウンド・レベルではなく、「正統」なヒップホップを定義するのは難しいと思う。昔、ジブラやラッパ我リヤと組んだドラゴン・アッシュはステージで自分たちの音楽形式を「ミクスチャー・ロック」と名乗るようになったし、シンゴ02やザ・ブルーハーブの許容した基盤ファン層にはアンダーグラウンド・ヒップホップ・マナーを弁えての意識の諸氏も多かったが、もう少し文学的でサブカル的な磁場が囲い込んでいた部分も大きかったのも周知だろう。そういう意味では、小室哲哉プロデュースからの大胆な舵取りを行ない、一気にマッシヴな方向へ振り切った安室奈美恵の「Girl Talk」から『Queen Of Hip-Pop』という流れは大事であり、その「Hip-Pop」という名詞部分の外延の持つ内包性(intensionality)は深かった、と言える。特に、このアルバムにおける「Want Me,Want Me」のパンジャビMC調のバングラ・ビートと歌謡性がミックスされた様は鮮やかでセクシーだった。

 ヒップ「ホップ」か、ヒップ「ポップ」か。日本では検討可能性の余地がある。

 一時期はケツメイシやリップ・スライムと並んで、メジャーシーンへのヒップホップを訴えかけたキック・ザ・カン・クルーの「意味」は大きかっただけに、02年の「マルシェ」のブレイク以降の作品の連続リリースの中で、バルト的に、楽しみながら彼等のトラックやライムを受け取るのが、可能ではない部分が出てきたのは残念だった。「非・快楽的なテクスト≒拡大される作家の苦吟」と商業的なバランスの不和。だからこそ、03年のシングルで「脳内」のバケーションをリプレゼントして、リスナー側の期待をハントするような経緯になった。ワーカホリックたる自分たちへの自重もあったのかもしれない。彼等は、ヒップホップが時に持つ多くのマッチョイズム、私的エクリチュールの押し出しに対して、あくまで茶目っ気と抒情、分かり易さをベースにした「強み」があった。但し、短い期間の間にあまりに沢山のリリース・スタイルを取った所為か、04年の活動休止は必然的だったとも言えた。欲望の弁証法の可能性と悦楽の予見不能の可能性の引き合いのゲームの綱引き結果は、ゲームが行われなくても「遊び」はある筈だったが、その「遊び」自体が煮詰められたと感じたから、キック・ザ・カン・クルーの活動休止後、そのMCの一人、KREVAはソロ名義として実質的な一作目の「希望の炎」で「俺は最低の人間」と表明して、自分の声さえも加工しないといけなかったのだろう。

 KREVAの巷間的に決定打となったのは06年の『愛・自分博』というアルバムでは、キック・ザ・カン・クルー時代にあった抒情性に更に独自のメロウネスを加えながら、「俺」節を入れ、全体はアッパーに貫き通し、Jもののヒップホップ作品としては異例のセールスをマークしたのは彼に詳しくなくても、知っているかもしれない。その際の武道館のライヴでも、彼は完璧にスター性と万能感を提示した。しかし、「スタート」というシングル曲が持つ別離をモティーフにした感性的な繊細性と頼りなさが実は正しかったのは、その後、『よろしくお願いします』、『心臓』のアルバムのパトスを受け取れば判るだろうし、布袋寅泰、スピッツの草野マサムネ、久保田利伸等とのコラボレーションでの鮮やかさでも伺える。決定的だったのはRupert Holmesの「Speechless」をサンプリングした「瞬間speechless」だろう。「パーティーとは、始めから終わりに向かうこと」、「パーティーは一瞬という永遠を約束すること」のニ軸をアウフヘーベンして、喧騒内での沈黙を表象して、君に魅かれても成就はしないだろう(MAYBE)という儚さに向き合った佳曲だった。

 会うは別れの始まりなり。会者定離。

 色んな言葉があるが、要は、万物は流転する。一刻も停まることない時間の刹那内で誰かとはしゃぐ永遠をピンで留めて、額縁で囲んで観ている内にもう終わる。終わるから、始めるのか。別れるなら、出会うべきではないのか。そんな煩悶は不毛だ。何故ならば、在ること自体が「在ることではない、何か」を示唆して「無」の対立事項ではないからだと言える。「無」に怯えるニヒリストは時に過重的に「無ではない何か」を求める。それは仕事か恋愛か芸術か生活か人それぞれだろう。しかし、留保されてリオタールする「無的な何か」は決して何も是認しない。

 KREVAの今回のミニ・アルバム『OASYS』はとても刹那い内容になった。

 加工されたボーカリゼーション、サンプリングした音を使っていない、エレクトロ要素が強まったトラック、全体的に内省性を帯びたリリック。もしかしたら、カニエ・ウエストの『808s & Heartbreak』の影も見える人も居るかもしれない。ヤング・パンチのカバー「エレクトロ・アース・トラックス」もスタイリッシュに再構築して、全体を通してコラージュ的にサウンドの実験が挑まれ、総てが「終わり」へ向かうことへの怖れを為さず、「気がついたら 随分生きにくい世の中になったもんだな」("最終回")と綴るなど、彼のライヴ・ツアータイトルを拝借すると、「意味深」な要素が格段に増えた。推測してみると、彼は今、おそらく、クロールしようとしているのかもしれない、言い切っていた時の自分と、最終回を決める自分の狭間を。

 「最終回」が美しく纏まるべきだとは僕は想わない。宙ぶらりんなまま、保留された痛みが昇華される為ならば、無限に「再放送」を繰り返せばいい。いつだって、最終回を見逃す為に人間は「在る」なら満更、悪くない。今のKREVAは漸く「最終回」を夢想するようになったというのは、好ましい意識変化だと思う。

(松浦達)

retweet