September 2010アーカイブ

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MANIC STREET PREACHERS

俺たちの音楽には、ポジティヴな憂鬱
とでも呼ぶべきものが入ってると思う


photo by Dean Chalkley
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このすさまじいまでの高揚感は、いったいなんなんだ! 外に出かけたいと思いつつ、ずっと部屋に閉じこもっていた男が、太陽の光をいっぱいに浴びながら広い世界に一歩踏みだしたときのような。20年以上のキャリアを持つバンドが、なぜこんな弾けるようなアルバムを作れるんだ?

90年代初頭以降、彼らは巨大な音楽ビジネスとまっ正面から渡りあってきた。インディー・ミュージックに入れこんでいるけれど、もちろんほかの音楽も大好き。スモール・サークルには安住できない一方で、ショウビズに「飼い慣らされる」ことは拒みつつ、それ自体から無理に目をそらす...つまり「逃げて」しまうことはない。そんな彼らの微妙な立ち位置が、もしかするとこの時代の要請におそろしくマッチしているのかもしれない...なんてことさえ考えてしまった。

『Postcards From A Young Man』。彼ら自身の実年齢がいくつだったとしても、これは、まさにそんなタイトルにふさわしいアルバムとなった(レヴューは、こちら!)。ヴォーカリスト&ギタリスト、ジェームス・ディーン・ブラッドフィールドに聞いた。

フラン・ヒーリィ

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FRAN HEALY

今回は、途中で失ってしまったものがなかった

決してセンセーショナルではないものの、そんなこと必要ないだろ? とばかり、マイペースでとにかく心にしみる素晴らしい歌をやりつづけてきたトラヴィス。グラスゴーから登場した90年代後半、オアシスのノエルが彼らをおおいに気に入ってフロントアクトに起用したことなどから人気爆発、R.E.M.やレディオヘッドを手がけたナイジェル・ゴッドリッチがプロデュースを手がけた99年のセカンド・アルバムは、リリース後じわじわとチャートを上昇し、数ヶ月たってからナンバー・ワンを獲得した。「初動」プロモーションを重視するCDビジネスの世界では非常に希なことだ。それ以来UKでは国民的人気バンドとなった彼らだが、2008年には自らのレーベルを設立し、そこからアルバムを発表するなど、挑戦的な活動をつづけている。

そんなトラヴィスの中心人物、フラン・ヒーリィが、ソロ・アルバムをリリースした。バンドで聴けるエモーショナルかつセンシティヴかつ素直なメロディーが、よりダイレクトに楽しめる素晴らしい作品となっている。ノア・アンド・ザ・ホエールのメンバーや、ニーコ・ケースが参加しているというという情報も、なるほど、とうなずかせる作風だ。そのうえ、ポール・マッカートニーまで1曲ベースで参加。うーん、やはり一筋縄ではいかない。ということで、フランに話を聞いた。

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もともとクッキーシーン・ナイトというヤツを始めたのは、たしか00年代初頭。ぼく(クッキーシーン編集人伊藤)は90年代後半まで、ライターやZINE編集者をやりつつ、フリーランスでA&Rもやっていた(社員でもなんでもなかったけれど、メジャー傘下でレーベルを主宰、かなり活発に活動してた)。そのうえ90年代前半までは自分もバンドをやっていたため、クッキーシーンを始めるまでは、かなりの頻度でライヴ・ハウスに通ってました。

だけど、クッキーシーン創刊とほぼ同時に、上記レーベルが「会社の都合により」終わってしまった(ぼくのレーベル単体では何百〜千万円単位の黒字を出していたはずだけど、おそらくそれ以上の赤字を出していた親セクション全体がつぶされてしまったので。結局ほとんどお金ももらえないまま...:笑)。クッキーシーンは洋楽中心雑誌だし、以前ほどライヴ・ハウスに行けなくなってきた...まだあまりよく知らないバンドにも、いいものはたくさんあるはず、ぼくもそれを見たいし、みんなにも見てほしい...。10年前には、そんな感じでクッキーシーン・ナイトというイベントを数回開催しました。

それ以降、イベントに熱心だった編集部員が辞めてしまったり、クッキーシーンがある程度軌道にのったということなのか雑誌編集自体が死ぬほど忙しくなったりで、00年代前半から、しばらくできずにいました。それを、いろいろ思うところあって、昨年久々に復活させたところ、やっぱりおもしろい! でも、また半年くらいできていなかった。長年(約10年くらい)つきあってきたディストリビューター(株式会社ブルース・インターアクションズ)を離れ、まったく新しい形で始めること自体が忙しくて、ちょっとそれどころじゃなかったというか...。

今もまだそんな感じ(不安定な状態:笑)ではあるんですけど、「まだあまりよく知らていないバンドながら、とくにライヴは死ぬほどいい」と断言できるパラエル・ストライプスが新譜を出す、でもってぼくの自宅からそれほど遠くない名古屋でもライヴをやることは決まってる...けれど対バンが未確定...という状況を受け、彼らの新作のレコ発(レコード発売記念。ライヴ・ハウス用語ですね。最近はリリース・パーティーという言葉のほうが一般的なのかな?)ライヴにドッキングする形で、久々にやらせていただきました!

         *          *          *

水面あがる。とフームー(Fu-Mu)という2バンドは、会場となったライヴ・ハウス、池下アップセットの紹介。カレシ(Kareshi)は、パラエル・ストライプスのリリース元ディスタイム・レコーズおよびぼく自身の推薦。パラエルはもちろんのこと、どのバンドの演奏も最高に素晴らしかった!

さらには、これまたかっこいいジョニー(Jonny)というバンドを地元でリリースしているワン・バイ・ワン・レコーズ柴山順次氏が最高のDJを披露してくれた! 途中「懐かしい!」(デイジー・チェインソウがかかったときね)とか、「あ、これなんでしたっけ?」(スーパーチャンクの新譜がかかったとき。いや、まだあまり聴きこめてなくて。そこで反応するのも、俺っぽいっつーか)ぼくも反応しまくり(笑)。

最近よく思うんだけど、たとえば昔クッキーシーン・ナイトをやっていた10年前とか、もっと前に比べて、ライヴ・ハウスでも「自分の目当てのバンドしか見ずに帰っちゃう」お客さんがふえてる気がする。情報の流れが尋常ではなく発達した現代ならではのことだとは思うし、それはそれで全然かまわないんだけど(笑)イベントやってるほうにしてみれば、ちょっと寂しい。この日も、もちろんそういう方もいらっしゃったけれど、なんか意外に少なくて、フロアも常にいい感じだったような...。来ていただいた方、楽しめましたでしょうか? ぼくは最高に楽しかったです。きっと楽しかったですよね(笑)?

ご来場いただいた方々、出演者のみなさん、スタッフ&関係者のみなさん、本当にありがとうございます! 最高でした!

というわけで、それぞれのバンドに対する簡単な感想を(アーティスト写真などは、このカテゴリの、前...下にある記事を参照してください)。

水面あがる。:ノイジーなハードさとポップさがいい感じで併存してて、エレクトロニクスの使い方も巧い。いわゆるポスト・ロックふうともポスト・パンクふうとも、まったく括れない感じの潔さが、とてもリアル。まだ学生バンドとのことだが、たしかにそういう若々しさがある。変速リズムをとりいれた最後の曲では、ぼくも80年代前半の学生時代にこういうことやってたなーとか(いい意味で)思い出しちゃったり...。とても良かった。いろんな要素をミックスする技術と強烈な勢いはすでにあるんで、そこに爆発的ななにかが加われば、よりグレイトになってくると思う。さらに、がんばれ!

フームー(Fu-Mu):キーボードやエレクトロニクスを駆使しつつ、ギターも弾く男性と、ときおりパーカッションを激しく叩きまくる男性ふたり組。前者は(ルックスやステージ・マナーが)ちょっとディアハンターのブラッドフォードを、後者は(同)LCDサウンドシステムのジェームズを思わせ、好感を持てた。というより、ここまで緻密かつパワフルなエレクトロニック・ミュージックをやっていながら、今まで存在を知らなかった自分を少し恥じてしまった。「アート」方面に行ってしまうそうなところを、ギリギリで踏みとどまっているような肉体性/ポップさも、完全に俺の好みだ!

カレシ(Kareshi):「ビーチ・ボーイズなどに影響を受けたD.I.Y.ポップ」バンドというのは、ぼくがライヴ・ハウスにもっともよく出入りしていた90年代からけっこう日本にいたけれど、今はこんなにクオリティ高いのか...と彼らのライヴを名古屋で見て驚いたのが数年前。今は中心人物が、ジョセフ・アルフ・ポルカというバンドと合体した形で活動をおこなっているらしい。彼を除く、ジョセフ単体でも1曲披露されたのだが(愛知といえば)ジョンのサン(というバンド。これも素晴らしい)を思い出させる感じで、良かった! カレシとしての存在感もばっちり。愛知県立芸術大学の学生さんというストリングスやホーンを加えた大所帯演奏も、完全にさまになっていた。グラスゴーのベル・アンド・セバスチャンふうといえばそうなのだが、海外のバンドが崇拝されるだけでなく、「日本の地方都市のこういったバンド」にも、もっと日が当たってほしいと強く思う(もちろんベルセバはぼくも大好きだが、どちらにしても「崇拝」反対!:笑)。

パラエル・ストライプス(Paraele Stripes):ぼくは昔からクッキーシーンで愛を吐露しまくってきたし、新人編集者小熊くんによる新作レヴュー&インタヴューもこのサイトに載ってるんで、もう敢えて言いませんが(笑)、この夜も最高でした。驚いたのが、今回からサポート・メンバーとしてドラマーが参加していたこと。これまで、彼らふたりだけ(ビートは打ち込み)によるライヴを何度か見てきた(計3回も。けっこう見てるな!)。最初は、その(リズムの)「ジャストさ」の魅力が薄れてしまい、普通のロックっぽくなってしまうのでは...と危惧したものの、1曲目の途中くらいから、そんなおそれはまったくないことがわかった...というか、また激しく盛りあがってしまった。ライヴで踊りまくってきた新作収録曲も、良くはなっていても悪くは全然なっていない。それどころか、2007年のファースト・アルバムに収録されていた曲は、あきらかにドラムが加わったほうがいい! まだ参加して間もないそうなので、この先の彼らがますます楽しみになってきた。彼らはいつも成長をつづけている。素晴らしいじゃないか。

このカテゴリの、前...下にある記事に、これら4バンドに関する情報がゲットできるサイト/ページへのリンクがあります。是非、彼らにご注目を!

最後に、ぼく自身がDJとしてプレイした曲のリストも掲載させていただきますね。

<開場後/開演前>早い時間はあまりお客さんが集まらず開演が押すかも? と思い、多めに準備していたんですが、水面あがる。は既に定評あるのか、まったく杞憂でした。ありがとうございます! というわけで予定どおり開演したため、準備したものより短めに(うれしかった)!

スティーリー・ダン「My Old School」、ヨ・ラ・テンゴ「Mr. Tough」、キャット・パワー「Stuck Inside Of Mobile With The Memphis Blues Again」、ザ・ライク「Release Me」、キーン「Ishin Denshin (You've Got To Help Yourself)」、ザ・コーラル「More Than A Lover」、ロキシー・ミュージック「Editions of You」、ピクシーズ「Debaser」、ザ・ヴァセリンズ「Son Of A Gun」、クラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤー「The Skin Of My Yellow Country Teeth」、カメラ・オブスキュラ「Lloyd, I'm Ready To Be Heartbroken」、ベスト・コースト「Crazy For You」、ザ・ドラムス「Forever And Ever Amen」、ラ・ラ・ライオット「Boy」、MGMT「Brian Eno」、アーケイド・ファイア「Empty Room」
*当該曲収録アルバムのレヴューが既に掲載されているものに関しては、そこにリンクをはりました。ヴァセリンズは新譜レヴューが掲載されてますけど、これはもちろん昔の曲。ラ・ラ・ライオットは、輸入盤はもう出てますけど、日本盤が10月リリース予定。もう少ししたら掲載されると思います!

<パラエル・ストライプス演奏前>大量のエレクトロニクス機材を使用する彼らは、セッティングに時間がかかる。だからタイムテーブルより少し長めにラフ選曲してあったんだけど、結局それでも足りずに(笑)、最後の2曲をその場で加えました!

アウル・シティ「Cave In」、デルフィック「Counterpoint」、ディーヴォ「What To Do」、LCDサウンドシステム「Daft Punk Is Playing In My House (Soulwax Shibuya Re-Remix)」、ダフト・パンク「Robot Rock」、ブロック・パーティー「Talons」、R.E.M.「I'm Gonna DJ」
*こちらはわりと古めのもの中心。ただしディーヴォは新曲です! 彼らのニュー・アルバムのレヴューはぼくが書こうと思ってるんですが、まだできてない...。すみません、近日中に...。

終演後には、ファウンテインズ・オブ・ウェイン、ナダ・サーフ、ティーンエイジ・ファンクラブ、オレンジ・ジュースなどを適当にかけてましたー。

         *          *          *

こんな感じで、オリジナル・コンセプトにのっとったクッキーシーン・ナイトか、(前からずっとやりたかった)DJのみのネオ・クッキーシーン・ナイト(別にそんな名前にしなくていいけど:笑)、もしくはその中間的な感じのものを、そのうちまたやりたいと思ってます。そのときは、どうかよろしくですー!

2010年9月22日

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OGRE YOU ASSHOLE

"森ガール"...(笑)。僕らはいたるところで
"森ボーイ"って言われるようになりましたね

彼らの音楽は、決して明るくもないし暗くもない。でも、どちらかといえば暗いほうに傾いているのかな? と思っていた。そして彼らの音楽は「未来への希望」にも「徹底的な絶望」にも寄りすぎていない。希望も絶望も、両方備えている。

そんななか「希望」寄りの曲...たとえば「コインランドリー」とかが、筆者としてはとくに好きだった。コインランドリーで洗濯してるのに「未来への希望」ってのもヘンな話だが(笑)。そして彼らのニュー・ミニ・アルバム「浮かれている人」は、タイトルどおり、これまでになく明るい感じだ。「浮かれている」から明るい、というのも、なんか...(笑)。だけどそこには、明らかにある種の「希望」が、そこはかとなく感じられるのだよ。サウンドも含み、明らかに新機軸だ!

ここ最近の一連の作品同様、プロデューサーに石原洋、エンジニアに中村宗一郎という名コンビ(ゆらゆら帝国などで知られる)を迎えたこの作品は、どのようなノリで完成したのか?

さる8月後半にくりひろげられた、中心人物出戸とクッキーシーン伊藤のゆるい会話(笑)を「ほぼ完全ノーカット、最低限の編集しかしていない」状態で、お届けします。

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Superchunk.jpg なんて真っ直ぐでブレや曇りの無い音なのだろう。本格的な再始動の口火を切ったた昨年のEP「Leaves in the Gutter」、そして感動的だった昨年末の来日公演、それぞれで共通して感じたのは彼らの音楽に対する変わらぬ熱量だったのだが、実に9年振りのフル・アルバムとなる本作ではそれがさらに濃縮され、一気に解放されたような爽快感を感じる。

 アルバム冒頭の先行シングル「Digging for Something」からほぼ全編に渡って疾走感のある、彼らならではの印象的なギターリフが散りばめられた楽曲が並んでおり、全体的なイメージはパンク色の強いマタドール在籍時代の初期の作品に近いのだが、ストリングスやホーンを取り入れたアレンジやコーラスワーク、すぐに口ずさみたくなるようなキャッチー、かつ泣きのメロディラインなど90年代後半以降の作品にある要素も随所に見られる。どこを取っても聞き覚えのあるスーパーチャンクのサウンドなのだが、初期のエネルギッシュな勢いと熟成されたサウンドの融合が実現している本作は不思議なくらい新鮮に響いてくる。これはもうスーパーチャンク・サウンドの完成形と言ってしまっていいのではないだろうか。

 アルバム最終曲(日本盤は別途ボーナストラック収録)「Everything at Once」でマックはこんな風に歌っている(※僕の個人的な見解も入った意訳です)。「これはあることないこと全て一緒くたになった歌だ。フィードバックやドラム、それらのノイズを感じることで全てが一つになる」。この曲の歌詞がこのアルバムの素晴らしさを表現しているように感じる。彼ら4人が集まり、一斉にノイズを奏でるだけ。単純なことだが、そこから生まれる音楽のマジックを彼らは本作で証明してくれている。メンバー自身も本作の出来に自信を持っているようで、マックからは早くも次回作の製作に関するコメントも出てきている。今後の彼らのさらなる活躍に期待大。

(川名大介)

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goro_ito.jpg 自宅録音="宅録"の匂いを持つ作品がとても好きだ。例えばポール・マッカートニーの初ソロ作『マッカートニー』や、細野晴臣の初ソロ作『HOSONO HOUSE』、エミット・ローズによる同名のファースト・アルバムに、中村一義『金字塔』、それからトッド・ラングレンの『サムシング/エニシング?』やレニー・クラヴィッツ『レット・ラヴ・ルール』、ベニー・シングス『ベニー・アット・ホーム』に、R.スティーヴィー・ムーア『Phonography』等々、それこそ数え上げたらキリがない。いわゆるプロ・ユースの大きなスタジオを使わず、ベッドルームの傍らでカセットMTR(さすがに今はラップトップが主流だが)を駆使しながら、作詞・作曲はもちろん全ての楽器を自分で演奏しつつ、エンジニアリングやミキシングまで自前で行なった、そんなアルバムにたまらなく惹かれてしまう。もちろん、上記の作品の全てがそのような手法で完成されたというわけではないのだが、どのアルバムにも共通して流れているのは、まるでアーティスト本人から個人的な手紙をもらったような、親密でパーソナルな空気である。そして、伊藤ゴロー名義での初のソロ・アルバム(サウンド・トラックは除く)となる本作にもまた、そのような空気が濃密に流れているのだ。

 伊藤ゴローという名前に聞き覚えがなくても、ナオミ&ゴローの"ゴローさん"と言えばピンと来る人は多いかも知れない。そう、彼は「世界的に見ても、今、最もジョアン・ジルベルト直系のサウンド」と絶賛されるボサ・ノヴァ・デュオのギタリストであり、これまでにMoose Hill名義で2枚のアルバムをリリース、World Standardこと鈴木惣一朗やKAMA AINAこと青柳拓次、高田漣といった名うての音楽家から熱烈なラヴ・コールを受けて、様々なコラボレート・アルバムを作り上げてきた日本屈指のミュージシャン/コンポーザーである。またプロデューサーとしても、原田知世やtico moonのアルバムを手がけ、原田郁子への楽曲提供(「鳥の羽、鳥の影」)や映画『雪に願うこと』(根岸吉太郎・監督作品)の音楽担当など様々な分野で活躍しているので、彼の音楽を一度はどこかで耳にした人もきっと多いはずだ。筆者が彼の音楽に初めて触れたのは、2001年にリリースされたMoose Hill名義のファースト・アルバム『wolf songs』だったのだが、ほぼ全編アコギによるシンプルなインストゥルメンタル・アルバムでありながら、豊潤で濃厚な彼の音楽性にすっかり魅了されてしまい、以降の作品はことあるごとに追い掛けてきた。そんな熱心なファンにとって本作は、まさに「待ちに待ったアルバム」なのである。

 まず驚くのは、アルバム全編にわたって伊藤本人がヴォーカルを取っていること。それもナオミ&ゴローのときのように、ヴォーカリスト布施尚美の後ろでウィスパー・ヴォイスを聴かせているのとは訳が違う。まるで1つ1つの言葉を確かめるような誠実で繊細な歌い方は、例えばショーン・レノンやエリオット・スミス、ギルバート・オサリバンそして初期のハリー・ニルソン辺りを彷彿させる。また、転調を繰り返すヒネリの効いたコード進行や、ポップで洒脱なメロディ・ラインからは、レノン=マッカートニーへの強い憧憬が伺える(「ボサ・ノヴァのギタリスト」というイメージを強く持っている人は意外に思うかも知れないが、彼は熱心なビートルズ・ファンでもあるのだ)。中でも冒頭曲「Happiness」や「Down In The Valley」における、メジャー・コードとマイナー・コードを行ったり来たりしながらふわふわと彷徨うメロディ・ラインは絶品。シンプルで室内楽的なバンド・サウンドも、本作の色合いを決定付けている。

 日本とロンドンで録音が行なわれ、高橋幸宏やショーン・オヘイガン(ハイ・ラマズ)、ビョークのエンジニアとして知られるヴァルゲイル・シガードソンら多彩なゲストが参加した本作。しかし冒頭で述べたように、決してゴージャスなアルバムではなくて、"宅録的"とも言えるような親密でパーソナルな空気が流れている。例えば『Cloud Happiness』というタイトルからは、大きくて広い空を独りぼっちで漂い続ける雲を連想させる。満ち足りているが、同時に深い孤独を抱えているような。それは、このアルバムが持つハッピー・サッドな雰囲気や、開かれていながらも緻密で箱庭的な世界観を見事に象徴しているのだ。

(黒田隆憲)

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charlatans.jpg 僕は新しいものが大好きで、レコードショップに足を運んでは、面白そうなレコードを掘っている。その一部をクッキーシーンでレヴューさせてもらったりしてるけど、今回はシャーラタンズ。僕はシャーラタンズを熱心に聴き込んでいるわけじゃないけど、新作『Who We Touch』は凄く良い。シャーラタンズは言わずと知れた、マッドチェスターによって出てきたバンド。一応僕自身親父とお袋の影響で、マッドチェスターはギリギリ、リアルタイムで体験している(といっても、2歳か3歳くらいだったんで、当時の記憶としてはほとんど覚えてないけど)。それでも、808ステイトとか、ア・ガイ・コールド・ジェラルドにジェイムス、少し遡ってストーン・ローゼズとかは覚えている。嫌と言うほど聞かされたから。しかしなぜかシャーラタンズだけは記憶になく、僕がシャーラタンズの存在を知ったのは、ケミカル・ブラザーズ『さらばダスト惑星』でティムの声を聴いたのがきっかけ。そこから『Between 10th And 11th』を聴いたりして、好きになっていったんだけど、初期のアルバム以外は、友達にアルバムを借りて聴くくらいだった。

 だけど、『Who We Touch』を聴いてから、今更ながらシャーラタンズにハマってしまった。まず、『Who We Touch』に漲るピュアな空気と音楽に驚かされる。ティムのヴォーカルもそうだけど、これおっさんに出せるようなアルバムではないよ。全体的にサイケ色が強くて、すべての音が、煌びやかな輝きを放っている。ティムのヴォーカルは、すごく若々しいんだけど、「Your Pure Soul」などで覗かせる大人の色気にはドキッとする。かと思えば、「Love Is Ending」のような、荒々しい曲もある。僕が好きな、シャーラタンズ特有のうねるグルーヴもあるし、はっきり言って、ツボしかありません。なぜシャーラタンズが、長く活動していながら、ここまでの新鮮さや瑞々しさを保っていられるのか? それは過去のアルバムを聴き返して分かったんだけど、シャーラタンズのアルバムには、同じものがひとつとしてない。常に変化を求めて音楽を作っている。人間生きていれば変化するのは当たり前だけど、自分で変化する方向を定めて、その変化を、ちゃんとアルバムに良い形で反映させるのは、よほどのタフネスがなければできないことだ。

『Who We Touch』には、そんなシャーラタンズの力強い足跡が刻まれている。僕はストーン・ローゼズの太く短い偉大なる伝説に惹かれるし、実際ローゼズが大好きなんだけど、シャーラタンズの怠惰に陥らずに一歩ずつ歩き続ける姿に惹かれたりもする。マニックスの新譜もそうだったけど、僕より上の世代が、シニシズムに走らず、愚直なまでに前身する姿。僕も見習わなきゃいけないかも。「世界は複雑だから」という言葉が、ある種の言い訳として作用し始めている今、シャーラタンズのように(それからマニックスのように)、理屈ではなく、シンプルな気持ちで生きていくやり方というのが、カウンターとして機能しているのが面白く感じる。「シャーラタンズが生きていける世界は、もしかしたらまだまだ悪くないのかも知れない」。アルバムで鳴っている音とは裏腹に、そんなちょっとした希望が宿っている、熱いアルバム。それが『Who We Touch』。

(近藤真弥)

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hanne_vatnoey.jpg 僕がポップに何より期待するのは先行きの見えなさ、突飛な行動や展開、スキャンダラスなざわめきとそれに付随する甘美なメロディ。華々しい旋律が浮き沈みの激しい物語に拍車をかけ、現実から聴き手を浮遊させる。いい意味で何度でも期待を裏切ってほしい。振り回してほしい。振り回されたい。その先に発見があり、自分の知らない世界に気づかされる。それくらいパワフルでなければ深いお付き合いなんて出来やしない。人生は短いし、残念だけど手持ちは少ない。せめてレコードを手にするときくらい、いつだって違う景色を見せてほしい。

 キングス・オブ・コンビニエンスやロイクソップなども輩出したノルウェーの都市、ベルゲン出身の新進SSWハンネ・ヴァトネ(Hanne Vatnoey)のデヴュー作は、そんなワガママな期待に120パーセント応えてくれる最高のポップ・アルバムとなっている。音楽ジャンルの狭い垣根を軽々飛び越え、アートワークどおりのガーリーな魅力を内包した、終着点の遠く見えないジェットコースターに乗ってしまったかのような51分弱の(まさしく)マジカル・ミステリー・ツアー。めまぐるしく変わる曲展開と彼女のスウィートな歌声に一発で虜になってしまう。

 11歳で作曲を始め、一度は映像作家を志したというハンネ。両親から最愛の友となるピアノを与えてもらい、歌うことの悦びに目覚めつつも、それから26歳となった彼女はどうもあんまり素直には育ってくれなかったようだ。冒頭の楽曲「Hello」で"ABCすら間違えるおバカな女の子"と自嘲ぎみに歌い、メルヘンチックなオーケストラル・アレンジとともに"言いたいことがあるの、いっしょにいて"と続ける様はたまらず可愛い。イジワルな笑顔を浮かべながら、やさしく腕まで組んでくれそうな人懐っこさとサービス精神も彼女は備えている。とはいえ、ここまでなら(バイオグラフィーも込みで)よくあるSSW作品。彼女の天才っぷりは2曲目から全開となり、そこからは独壇場となる。

 ハンネの妄想世界を好サポートしているのはKato adland。ジャズ・ヴォーカルやパンクなどスタイルの試行錯誤を重ね、やや迷走状態にあった若き俊才ソンドレ・ラルケが一気に突き抜けて天性のポップ・センスを開化させた『Heartbeat Radio』(個人的にも昨年のベスト作!)をはじめ、ノルウェーのインディー・シーンで大活躍している名プロデューサーであり、自身もMajor Seven and the Minorsという名義で活動している人物だ。セルジュ・ゲンスブールを露骨にパロった「Histoire de Melody Olsen」なんて曲を作ったり、自分のアルバムに『Music to Watch Nerds By』なんて名前をつけたりする(内容のほうもタイトルを一ミリも裏切ってない)、ラウンジ・ポップもエレクトロニカもハード・ロックもなんでもこなすジャンル横断型のポップ狂でもある彼は、ヒネくれた妄想を次から次へと膨らますハンネのファンタジーを具現化するため、様々なエッセンスを楽曲に注ぎ込み、『Me And My Piano』というタイトルからもついつい連想しがちな凡百のピアノ・ポップと大きくかけ離れた夢の音世界を作り上げている。

 ミュージカルのプレリュードを思わせるズンタタと鳴る重いリズムから、ストリングスの美しい響きとバリトン・サックスの咽びが楽曲を飛翔させていき、次々と転調を繰り返す「Running Guy」(歌詞中の"Melancholy and Joy"というシンプルなフレーズ、この作品のすべてを表している!)、フルートとグロッケンのやさしい感触から、シンクロナイズされた電子音とトランペットで飾られたファンファーレが鳴り響く「Boo Boo」、80'sシンセ・ポップを思わせる加工された爽やかなオブスキュア・ヴォイスが印象的なイントロからは到底予測しえない終盤の狂想曲っぷりが印象的な、タイトルどおり少女の頭のなかで巻き起こる混乱について歌った「In My Head」など、怒涛のポップ・チューンが一気に続く。

 東京駅でフィールド・レコーディングされた構内アナウンスのざわめきとともに、甘えん坊のように歌うキャッチーな「Take Me To Tokyo」では曲間に8-bit的なシンセまで鳴り響く(そのTokyoへのわかりやすいイメージ、好き)。遊び心満載な"ひっくり返したおもちゃ箱"ソング「Oh La La」ではブリープ・シンセとマリンバがブギーをかまし、「Hasta La Vista」ではフラメンコのリズムまで飛び出し、一気に駆け抜ける。ここまでやりたい放題だと実に痛快だが、「The Green Door」やタイトル曲の「Me And My Piano」では、ピアノ・ポップのマナーに忠実に、軽やかな指運びで鍵盤を弾き、ジャジーでしっとりと歌声を聴かせる。ハスキーな声は表現力に満ち満ちている。

『Me And My Piano』はプログレ的な工夫と芳醇で才気走ったメロディ、何よりハンネがもつ茶目っけタップリな少女性と、複雑な要素をサラっと聴かせる類まれなセンスが存分につまった、本当にカラフルでグルーヴィーなアルバムだ。ハンネ自身もフェイバリットに挙げているノラ・ジョーンズとケイト・ブッシュがそれぞれ持つ魅力の両方を兼ね備え、チルディッシュ風味のエレクトロニカと小洒落たジャズ感覚、端正ながらぶっ飛んだアレンジ...といった、いかにも北欧的なセンスも存分にまぶされたこの作品は、カジュアルに音楽と暮らしたい女の子から口うるさい玄人音楽ファンのオジサマまで、幅広く訴えかける求心力とスケール感をもっている。こんなに素晴らしいノルウェーからの届け物がどこよりも早く日本でリリースされているのは喜ばしいことだし、11月にはベストのタイミングで来日公演も決まっている。うーん。泣きたいくらい嬉しい。自分のためにオーダーメイドしてくれたんじゃないかと言いたくなるような作品だから。最高のポップはいつだって巡り会うたびそんな錯覚を引き起こしてきた。聴いてもらえばきっと、あなたもそう思ってくれるだろう。

(小熊俊哉)

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negoto.jpg やっと日本から、こういうバンドが出てきた。今の若者って物事をシニカルな目線、シニシズムなスタンスで構えている人が多いように思う。それはそれで面白いことも起こりえるし、ひとつの観点としてはありだけど、今の日本では、そのシニシズムが「世界は良くならないけど、その世界で精一杯生きていくんだ」というところで止まってしまっているように見える。だから街を歩くと、停滞感にも似た、どんよりとした空気を感じるのかなと、個人的には思う。

 すべての曲で歌詞を書いている蒼山幸子の歌詞世界も("NO"と"夕日"では、それぞれベースの藤咲佑と、ギターの沙田瑞紀もクレジットされている)、現代の若者らしいシニシズムというのが垣間見えるが、それが内省的な方向ではなく、ちゃんと外に、ポジティブなエネルギーとして放出されているのが素晴らしい。若者特有の怖いもの知らずな勇気がそうさせているのかは分からないけど、とにかく前を向いて走り抜くような疾走感は、聴く者に爽やかな空気をもたらしてくれる。だけど、そんな爽やかさに対する影のように、「透き通る衝動」や「NO」という曲も存在している。これらの曲に潜む「危うさ」が、僕がねごとに興味を持ったキッカケでもある。それと、「ループ」の歌詞ってどう読んでもトリップについて歌っているように聞こえてしまう。まあ、それは僕の馬鹿な想像がそうさせるだけなのかも知れないが。「ワンダーワールド」のような遊び心も面白いけど、「夕日」をなぜ英語で歌ってしまったのか? 正直、英語で歌う蒼山幸子の声は微妙です。

 音は、スーパーカーやナンバーガールにソニック・ユースなど、本人達も好きと公言しているバンド達の影響が強い。正統派のギター・ロックを基本として、シューゲイザーに『GOO』期のソニック・ユース、浮遊感のあるエレ・ポップなど、鳴らしている音楽から察するに、音楽的教養なんかも高い気がする。しかも、年齢のわりにライブなどの場数も多く踏んでるから、サウンドがタフで、力強さがある。藤咲佑と澤村小夜子のリズム隊が鳴らす土台が安定感抜群。特に、藤咲佑が鳴らす存在感溢れるベースは、ねごとのグルーヴの中枢と言ってもいい。収録されている曲のほとんどが、ライヴで何度も演奏されている曲だということもあるんだろうけど、メンバー全員演奏能力は高いし、この先どんどん幅広い音楽性を見せてくれることを期待させてくれる。そんな輝かしいモラトリアムが、アルバム全体を覆っている。

 たぶんアイドル的なガールズ・バンドとして見られるだろうし、「全員平成生まれ」とか、そんなどうでもいい謳い文句も手伝って、しばらくはいろんな色眼鏡と戦うことになるかも知れないけど、ねごとは大丈夫だと思う。だって、彼女達は「生きている」から。彼女達は、日本では数少ないロックンロールの「ロール」ができるバンドだ。少なくとも、それができる大きな可能性が、「Hello!"Z"」には詰まってる。眩し過ぎて、聴くのにサングラスが必要かも知れない。瑞々しい輝きに満ちたミニアルバムだ。

(近藤真弥)

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parachute_musical.jpg 僕にとってポップ・ミュージックとは一回聴いただけで耳にぽーんとポップに入ってくるものである。いわばレコ屋の試聴機で聴いた途端、条件反射的にレジに持っていってしまう音楽のことなのだ。いやいや、音楽は聴くたびに新たな発見があるのだから何度も聴くべきだ、という言い分もよく分かるのだけど、何かを発見する目的で何度も聴くわけではないからなあ...。発見とは「結果的に」生じるものなんだから。

 その文脈において、コールドプレイやクイーンと比較されることもあるナッシュヴィルを中心に活動する4人組のピアノ・ロック・バンド、パラシュート・ミュージカルの音楽は、まさにぽーんと耳に入ってくる。なんだかそういうバンドが最近減った気がするのだ。ポップ・ミュージックは眉間にしわを寄せて聴くものではなくて、あくまでも大衆娯楽であるべき。ピアノの室内音楽的な響きを大切にし、クラシック音楽の要素を取り入れつつも、そこにラテンやジャズ、ロックを取り入れる音楽性は大胆不敵。音楽はエンターテイメントであるべきというメンタリティがある。
 
 彼らの国内盤デビューとなる本作は、08年リリースの『Everything is Working Out Fine In Some Town』に2010年リリースの最新シングル「No Confort」をプラスした日本オリジナル仕様。ナッシュヴィルの人気プロデューサー、デレク・ガーテンによるもの。流暢なピアノの音色と対比してエモーショナルなヴォーカルが活きている。時に叫び、時に泣いているような歌声は、わざとらしい衝動性がなく、自然と滲み出てしまった衝動の温度差が楽曲に色彩の豊かさを与え、ただのピアノ・ロックと表するのは勿体無い。衝動とは、衝動を出すぞと意気込んだ時点でフェイクになるのだから、自然と滲み出るものでなくてはならない。もはやギターを叩き割る行為が擬似衝動的なパフォーマンスと化していると感じる僕だが、本作にはパフォーマンスとしての衝動はないのである。加えるに、ヴォーカルはエモーショナルでありながらも跳ねるパーカッションやコーラスが茶目っ気たっぷり。かつ、足音や人の喋り声もサンプリングする。そんな茶目っ気がエンターテイメントの色を濃くしている。アルバム通してひとつの劇を観ているよう。ロック・オペラ的な側面も持っている。
 
 とにもかくにも、本作の良さはポップ感と衝動性だ。ピアノを打楽器として叩きつけるように弾き、衝動を表すバンドは多くいるが、パラシュート・ミュージカルは違う。綺麗にピアノを弾きながら叫ぶ姿は、人間が持つ二面性を、ピアノとシャウト、という二面性で提示する。流暢なピアノによる穏やかな感情とシャウトが持つやりきれない感情。その相反する感情を同時に出しているところにこの音楽の良さがある。そしてそれが、自然と滲み出てしまっているところが良いのである。

 当然ながら音楽とは何かを表現するものだ。技巧に長けていながらも、人間性を表現している本作にグッと惹かれた。このバンドはピアノ・ロックと表されるが、音楽を聴く際、僕らはジャンルを聴いているのではなく人間性を聴いている。とどのつまり、人間の可能性を聴いている。その可能性は無限であり、広がっていく。だが、ピアノ・ロックというジャンル名は無限ではなく、広がらない。人間はカテゴライズできないのだと訴える本作は、音と聴き手の関係性もまた無限であることを示す。あくまでもポップに。

(田中喬史)

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spitz.jpg「コンスタンティン・ツィオルスキーが宇宙時代のマルクスとしたら、ヴェルナー・フォン・ブラウンとロバート・ゴダードはレーニンとエンゲルス、アーサー・クラークはトロツキーではないか」という例えをしていたある作家の言葉があって、トロツキーが無性に読みたくなって、書店に行くと、光文社の新訳文庫で、「永続革命論」が出ていた。

 ここでのレーニンとの意見の対立を経ての、スターリンの粛清を受けるというのは「革命論」として現代的には「興味深い」ながら、トロツキニストの真価はこれから発揮されるのだろう、とも思った。それを読みながら、同時に頭に浮かんだのはキャリアとしては、20年を越えるバンドがいまだにストレートなギターロックで「恋する凡人」と自己卑下的な視線で疾走しながらも、「これ以上は歌詞にできない」ことを「歌詞」で綴るスピッツというバンドは何なのだろうか、ということだった。

「理論」としての、トロツキーはとても「一つの絵画を見る」ように美しい。しかし、それが「行動」に移される真際、破綻を来たす。学生運動が華やかなりし頃の「当時の青年たち」の内、スターリンを心酔していた人は結構偉くなっていったり、大企業の中枢とかインテリゲンツァ的なポジションでひっそりと「存在する」が、はて、トロツキーを読んでいた人たちは「何処へ」向かったのだろう。

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「メンシェビキ(少数派)」の意味を考えていたら、如何に今が不毛な時代なのか、ミスチルがツアーを行なう際にドームを常にフルハウスにする時代に、敢えてと言うより、当たり前にライヴ・ハウスを巡るスピッツは既に「大きいバンド」だが、「メンシェビキの為の集会」を設定する意図が明確にある。マルクスやドストエフスキーが「再評価」される世の中はとても味気なく、「日常のロマンティシズム」に埋もれている時間があるならば、「ロマンティシズムとしての日常」を箱庭化してしまえばいいだろうに。「拡大された装置」に乗る為に音楽は「誰も」に開かれている訳でもない。

 1995年の巷間的なブレイク曲「ロビンソン」でスピッツは「誰も触れない二人だけの国」を創出したが、それは今で言う「オタク」的な意味なものではなく、「Sandplay Therapy(箱庭療法)」的な配置を意図した。庭の「枠」があるために、箱庭による自己表現が可能であり、セラピー的効果があることで、鋭角的に表現を出来る、ということだ。当時はミスターチルドレン、ザ・イエローモンキー、L⇔R、ウルフルズなどと「J-」の枠の中で括られ、今で当てはまるとしたならば、彼等は草食系、または文科系のリスナーを陶然とさせていた。小室系やJ-POPの邦楽バブルのブレイク後の渾沌の中で、ミスターチルドレンがロックと殉教するように『深海』に潜っている間、"逆風に向かい 手を広げて 壊れてみよう 僕達は希望のクズだから"(「インディゴ地平線」)と彼等もブレイク後のヘビーな環境変化に対峙しながら、藻掻いていたが、全く「位相」が違った。それは現在、ミスターチルドレンが主体になる「ap bank」というフェスティヴァルと、スピッツが軸になる「ロックロックこんにちは!」というイベントくらいの幅で。

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 少し説明しておこう。「ロックロックこんにちは!」とは、都度、スピッツがメインを取り、彼等自身が興味深いアーティストやバンド、仲の良い人たちを招聘することが多いイベントだが、記念的なものを含めてほぼライヴ・ハウスでしか行なわれない。場所は仙台と大阪。今年は、仙台は「ロックのほそみち」と名前を変え、東京でも「新木場サンセット」という形で展開されていたが、これも「ロックロックこんにちは!」との連関性と見ればいいだろう。

 過去には、くるり、クラムボン、POLYSICS、GRAPEVINE、奥田民生、syrup16g、ORANGE RANGE、フジファブリック、いきものがかり、サンボマスター、ザ・ボウディーズなどなど多岐に渡るメンツが揃うが、何処となく「馴れ合い」的な意味を避けるようなオルタナティヴ性の強いフックアップを行なっている。僕もこのイベントは何度も足を運んだが、印象深かったのは2006年の大阪でのイベントの10年目を祝っての野外での大規模な形のものだった。奥田民生、KRAVA、ジェイク・シマブクロ、真心ブラザーズ、吉井和哉、レミオロメン、そして、ミスターチルドレンといったビッグ・ネームがサラッと並んでいたが、それぞれがスピッツという存在へ独自のリスペクトを見せながらも、フラットなライヴを行ない、トリをおさめたスピッツもあくまで自然体で気負いのないパフォーマンスを行なった。しかし、完全に「装置」的になってから以降のミスターチルドレンがあれだけ、何かしらの「アウェイ性」を持っていたライヴというのは初めて体験したかもしれない。スピッツはやはり「代案(オルタナティヴ)」であり、彼等は「本案」が故に、受けて側はその時は「代案」を求めていたのだった。

「代案」としての彼等の歴史の紆余曲折はあまりに長く、纏めるには個々の作品論、「本案」としてのシーンを見渡さないといけないが、イベントやフェス以外でアリーナ公演を単独ですることをしなかった彼等が2009年にさいたまスーパーアリーナと大阪城ホールで行なったのも、その06年のイベントと同じく意義深かった。このアリーナ公演では、当時の新作『さざなみCD』から主に、「チェリー」、「ロビンソン」といったヒット曲を挟みながら、ふとオルタナティヴ期の1992年の『惑星のかけら』の「ハニーハニー」をやり、シングルとしても独特な立ち位置にある「渚」などかなりアグレッシヴな部分も伺えた。

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 そして、この2010年に彼等は独自の「けもの道」を設定した。

 基本、アーティスト、バンドとしてのルーティン的な流れの、シングルやアルバムを出して、プロモーションをして、ライヴを行なうという行為を対象化して、新曲群も入れながら、ツアーを行ない、その最後にアルバムを出すという表明をしたのだ。案の定、ツアーは「その時点では、まだ名前さえもついていない新曲」が披露されたり、と、かなりファンの間でも話題になったようだが、今年の6月リリース「つぐみ」というシングルでは、次のアルバムでもスタジオ・ヴァージョンで入る「恋する凡人」という新曲のライヴ・テイクが敢えて収められていたり、試行の痕が垣間見えた。

 近年、どうにも大型のタイアップと彼等自身が担うイメージの問題もあったのか、「魔法のコトバ」辺りからA面サイドに当たるシングルが以前に無い生温さとポップ過ぎる部分にもどかしさをおぼえていた層からすると、そのシングルのカップリング、2曲目に収められる曲の実験的な部分を感受する事で、溜飲を下げるしかなかったのは正直、否めないだろう。何故なら、以前、ブレイク後でしっかりと固定的なファンの母体もある中で、正々堂々と「メモリーズ/放浪カモメはどこまでも」というオルタナティヴなシングルをメインストリームへ提出していたバンドだったのだから。殊更、「メモリーズ」ではあの鼻にかかるような透明感のある草野氏のボーカルは完全に加工されていた。

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 元々からして、アート・スクールの学生の延長線的な佇まいでシュールレアリスムのような世界観を、多大に影響の受けたザ・ブルーハーツ的パンク精神で貫くというモードで始まったバンドであり、初期の頃の草野氏の歌詞にはアンドレ・ブルトンの詩のような「死的な何か」が充溢していて、ベーシックな部分では相変わらず「解剖台の上のミシンとコウモリ傘の出会いの美しさ」をリプレゼントしてきた。それを、ベースの田村氏、ギターの三輪氏、ドラムの崎山氏との4ピースのスタイルで、バンドとしての一体感を持って、ロックを続けてきた過程は今も基本、変わらない。サポートは入っても、スピッツは4人で「成立」する。

 今回のツアーでは「初恋クレイジー」や「愛のことば」といった旧曲のチョイスもかなりエッジが入ったモードに入っている事が伺えたが、新しいシングルの「シロクマ/ビギナー」はなかなか面白い内容になっている。「シロクマ」はアコースティックな質感と抜けの良さ、爽やかなポップ・チューンでその中でふと「地平線を知りたくて ゴミ山登る」という草野氏独特の歌詞が挟まれるという「らしい」曲になっており、両サイドA面になる一方の「ビギナー」はスケールの大きいメロディーの「立ったサビ」での高揚含めて「手続きを取り易い」スピッツのバンド・サウンドの色が強く出た、近年のA面曲に相応しいクオリティになっている。

 そして、これは触れておかないといけないだろう。今回のシングルではこの2曲以外に、ライヴ・テイクが入っている。1曲が「シロクマ」、更にもう1曲が「ナイフ」なのだ。

「ナイフ」とは、1992年のミニアルバム『オーロラになれなかった人のために』というオーケストレーションを大胆に取り入れた実験的な作品に収録されていた。原曲自体も浮遊感溢れるアレンジの中で「3月の君のバースデイには ハンティングナイフのごついやつをあげる」という草野氏のシュールな歌詞が活きている佳曲だ。この「ナイフ」のライヴ・テイクがまた素晴らしい。危うさと程遠い程の長いキャリアと重ね、確固たる地位を得ても、まだこの蜻蛉のような繊細さと無為性を醸し出すというのはなかなか出来ない、と思う。僕などはベタなので、咄嗟にアンドレ・ブルトンの「ナジャ」での「美は痙攣的なものであるにちがいなく、さもなくば存在さえしない」という言葉を想い出した。既にアナウンスをされており、リリースを控える今度のアルバムも楽しみだが、このシングルで正々堂々とCMで流れる曲と「ナイフを混ぜる」確信犯的な所がある限り、今のスピッツは非常に面白い立ち位置に居るのではないか、と思う。代案で埋め尽くされた世の瀬に「目を閉じて不完全な部屋に帰るよ」というスタンスには意味も強度も繋がりもない。ただ、「深度」がある。

(松浦達)

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calexico.jpg カリフォルニアとメキシコをマッシュアップした実在の町の名前を持つ2人組、キャレキシコ。オルタナ・カントリーの伝説的存在として20年近くに渡ってパンク、ガレージ・ロックにルーツ・ミュージックをミックスしたサウンドを鳴らし続けたジャイアント・サンドのメンバーが中心となって結成されてから10年以上がたつ。ジョーイ・バーンズ(ボーカル/マルチ・インストゥルメント)とジョン・コンヴァーティノ(ドラム)は、その名のとおり、アメリカとメキシコの音楽を様々なアプローチで混血させてきた。ブルース、カントリー、テックス・メックス、マリアッチ、そしてフォーク。「ルーツ・ミュージックや民族音楽は、ちょっと苦手だなぁ」という人も耳を傾けて欲しい。だって、このライブ・アルバムは無料でダウンロードできるんだから! ルーツ・ミュージックや民族音楽は、ストリートから生まれたサウンド。食わず嫌いはもったいない。身体に馴染むビートやメロディ、楽器の響きがきっと見つかるはず。

 キャレキシコは1st『Spoke』から現時点での最新作である6th『キャリード・トゥ・ダスト』までTouch & Go傘下のQuarterstick Recordsに在籍してきた。以前、僕が紹介させてもらったミ・アミは1stだけをこのレーベルからリリースして、2ndではThrill Jockeyに移籍していた。ということは、Touch & Goが閉鎖された今、キャレキシコはどのレーベルとも契約していないってこと? だからこのライブ・アルバムは「僕たち元気ですよ! ツアーに出ますよ!」って言う挨拶がわりなのかもしれない。バンドのウェブサイトには9月~10月のアーケイド・ファイアとのアメリカ/カナダツアーがしっかり告知されている。ひと安心。

 このアルバムは2009年にドイツのニュルンベルクで行われたライブをパッケージしたもの。バンドは中心となる2人にペダル・スティール、トランペットなどの奏者を加えた7人編成。観客との一体感や熱気を感じるというよりも、自分たちの音楽を真摯に演奏するバンドの姿が目に浮かぶようだ。全10曲中7曲が『キャリード・トゥ・ダスト』から。でもそのスタジオ盤に慣れた耳にも、この深さと広がりは新鮮で感動的だと思う。「Red Blooms」は、ディレイを駆使したポスト・ロック的な響きが強調されている。疾走感を増す後半でボブ・ディランの「シルヴィオ」が歌い込まれる「Victor Jara's Hands」も最高にカッコいい!ブルース・ハープとアコギ1本で、時にはバンドを従えてフォークからブルース、カントリーまで自由に歩き続けるディランの影がここまで届いていることにも納得だ。ディランの作品としては不遇の時代とも言える88年の『ダウン・イン・ザ・グルーヴ』からのピック・アップっていうのも素敵。名曲だから。

 さあ、このリンク先へジャンプして、ダウンロードを始めよう。スティーブン・ソダーバーグの『トラフィック』やコーエン兄弟の『ノーカントリー』の世界へようこそ。不気味なほど澄み切った青空とハイウェイ、不法入国、麻薬の取り引き、砂ぼこりと熱い太陽、そして夜の闇。ワイルドなんだけれども、人々の目はどこか覚めている。キャレキシコの音楽が鳴り響くここではない、どこかへ。

(犬飼一郎)

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white_denim.jpg テキサス州オースティンの3人組、ホワイト・デニム。彼らのサウンドのベースになっているのは、初期ストロークスやホワイト・ストライプス譲りのガレージ・ロックだ。だが、そこにプログレ、ファンク、フォーク、カントリー、更にはソウルやダブの要素までブチ込む貪欲な雑食性で奇妙なサイケデリアを生み出している。もし、レッド・ツェッペリンがアメリカ中西部でトリップしたならこんなふうになっていたんだろうか?、と思わせるような突然変異種のバンドだ。

 そんな彼らは、08年にデビュー・アルバム『Workout Holiday』、09年にセカンド『Fits』をリリース。これまでは速いペースで、充実した作品を制作してきた。

 そして今年はというと、案の定新作が届けられた。しかも、フリーDLでの配布に踏み切っている。現在、バンドのオフィシャルHPにてこの音源は配布中。トップページに掲載されたコメントによれば、この作品はあくまでもオリジナル・アルバムではなく、次のアルバムが出るまでの間ファンに楽しんでもらうためのものだそう。肝心のアルバムは来年になるようだ。

 とはいえ、この『Last Day Of Summer』は手抜きのラフな作品なのかといえば、決してそうではない。前2作と比較して肩の力が抜けているような印象は確かにある。だが、その結果として、これまでの2作に漂っていたムサ苦しさや男臭さがぐっと軽減。その代わり、フックのあるヴォーカルの掛け合いや、トロピカルなビートなどが前面に出てきてぐっと聴きやすくなっている。楽曲のユニークさにおいても、ミニマルなリフを延々と繰り返すインストがあったり、うねうねと曲がりくねるメロディに曲の世界に引きずり込まれたり、はたまた曲によってはサックスを導入して新たなサウンドを模索している充実ぶりだ。『Last Day Of Summer』とのタイトルどおり、ぎらぎらと照りつける日差しが和らぎ、涼しさが姿を現そうとするひとときを切り取った、くらくらするようなサウンドスケープが広がる作品だ。

 全12曲、ポップにベクトルを向けた作風に、今後の期待が高まるばかり。この作品でまだ練習レベルなのだから、これから取り掛かるアルバムは素晴らしいものになるのだろう。この音源で多くの人がこのバンドの期待を共有して欲しいものだ。

(角田仁志)

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DCPRG.jpg 「人類の歴史は、自然の一部でありながら、自然を対象化するようになった生物の一つの種が、悲惨な試行錯誤をかさねながら、個人の一生においても、社会全体としても、叡智をつくして、つまり最も人工的に、みずからの意志で自然の理法にあらためて帰一する、その模索と努力の過程ではないかと思うことがある」
(『曠野から』中公文庫 31頁 川田順造)

 サブ・プライム、リーマン・ショック以降の金融危機が起こり始めた際、戦争が起こるのではないか、と考えた人もいたが、戦争で経済が良くなるには幾つもの条件付けが必要であり、昨今の戦争ではその便益も曖昧になってくるのはポール・ポーストの「戦争の経済学」に詳しい。「戦争」というのは政治的なツールとして使われ、時に国家間の軋みから個へと降りてゆく惨憺たるものでもあるが、経済的に捉える観点も時にドライに必要でもある。損得勘定で言えば、昔の戦争特需的なイメージは現代では抱かない方が良い。

 1999年のデート・コース・ペンタゴン・ロイヤル・ガーデン(DCPRG)結成における菊地成孔氏の筆による最初の企画書ではレナード・リュイン「アイアン・マウンテン報告」、モンティ・パイソン、マイルス・デイヴィスの『On The Corner』というモティーフを散りばめ、戦争に関する音楽としての意味付けをした。その「戦時下でのグルーヴ」は、妙なことに全く「ポストモダン」も何も分からないクラヴァーに受け入れられ、ROVO(彼らとはスプリット・シングルを出したりしていたが)や渋さ知らズ等の枠内に収められた。或る種の層からするとベタで苦々しさもおぼえるエレクトリック・マイルス時期の「そのままの音」とポリリズムを「敢えて」の表象の宛先不明性。また、それぞれのパートの微妙なタイムのズレをして、その「行間」でこそ観客を踊らせた様は、00年代は「敢えて‐」の時代に入ってゆくのだな、とライヴに足を運ぶ度に、感じた。

 大友良英氏が居た『REPORT FROM IRON MOUNTAIN』周辺の第一期は兎に角、菊地成孔氏のイメージするバブルな時期のディスコ的な「ミラーボール」を仮象化する事に傾心し過ぎていたところは否めない。その後もライヴでの定番となる「Hey Joe」や「Mirror Balls」はスタジオ録音では非常に無機的で表層的だったが、CDJを絡めての独自のファンクネス、ポリリズムによるバウンシーな「揺らぎ」は十二分にあった。ライヴで再構築される様は現場に居たら感得出来たが、その集大成として2003年のライヴ盤の『MUSICAL FROM CHAOS』にて十二分に確認は出来る。場所を変えて5テイク収められた「Catch22」、マイルス・デイヴィスの『Bitches Brew』の「Spanish Key」の丁寧なカバー。散逸するリズムと放り投げられる或る種のベタな渾沌。兎に角、菊地氏はこのDCPRGにおいては「渾沌」というモティーフを用いる。それが、彼の他の幅広い活動の中でも異例なくらいに、「憂鬱と官能」といったターム以上の「記号性」でもって、半ば「戦時下の為のダンス・ミュージック」という強引さで結びつけられる。大型フェスティバルから小さなライヴハウスまでを跨ぐ強引さで、兎に角、疾走(失踪)を試行した。

 以前、大阪でのトーク・ショーに足を運んだ折、「結婚以後のスラヴォイ・ジジェクに興味は無くなったのは何故ですか?」と質問を彼にしたことがあったが、その質問は僕自身が間違っていた事を今でも考え直す。ジジェクにおける「結婚」というタームの捉え方というよりも、一時期、「一番、インタビューしてみたい、話してみたい人はジジェク」と言っていた彼自身の問題として、アナモルフィック・リーディング的に捉える「べき」だと思ったのもあり、今回、DCPRGが3年振りに活動を再開するにあたって、「主体」自体は、実在の正の場を正の実体と誤って認識してしまうというものに対して「負」を仮置きして、その大きさによって捕捉される作用性自体を考えないといけない、と思ったのもある。

 00年代を猛スピードで駆け抜けた、菊地成孔という人の在り方は多かれ少なかれ皆が周知だろうし各々の感性の神話ベースに吸収され、本人自体が多くを語っているので詳細は割愛するが、「遅れてきたポストモダニスト」としてのその饒舌な語り口のトリックスター性は、スタティック(静的)なユースのイコンでもあったし、停滞を余儀なくされていた論壇界でも軽やかに風穴を空け、遂には大学といったアカデミックな場所にも求められる事になり、ハイブロウもサブ・カルチャーもモードも行き来しながら、兎に角、「今、何故にゴダールやマイルス・デイヴィスを語る必然性があるのか?」という疑念を持つ層さえ捩じ伏せ、「敢えて‐」のイズムを貫き通した。だからこそ、想像を絶するほどの批判や非難も受けただろうし、同族嫌悪のインテリゲンツァは無視することを決め込んだり、彼自身が予期設定した「戦場」ではあらゆる亡霊(revenant)が行き来していた。その意味で、第二期の始めとしての『Structure et force(構造と力)』はおそらく、そのマッシヴで好戦的な部分が最も現れた作品であり、実際のライヴで「structure I la structure de la magie moderne /構造I(現代呪術の構造)」などはイントロ部分で歓声があがり、一気にフロアーが沸いた。その沸き方の野暮ったさとリズムと踊りが噛み合わないギクシャクとした感じはDCPRG、もしくは菊地成孔氏自体を巡る磁場自体を巡る何かを孕んでもいた。ヘーゲル哲学がある種の人たちを「熱狂」させ、そうすることで、「本当」に大事な懐疑精神から目を背けさせてしまうかのような。

 07年の今のところ、スタジオ録音作品として最後になる、カフカの未完の作品である「アメリカ」をモティーフにした『Franz Kafka's Amerika』では遂に「踊ること」自体が困難な音像を生み出してしまい、「宛名のない手紙」が投函される形で、「役割を終えた」と活動の休止に至ったのは仕方なかった事なのかもしれない。オバマ前のマッドなアメリカを「夢想」する限界性はどう考えても、滞留を余儀なくされたからだ。

 そして、3年。ポスト・オバマの閉塞、ソブリン・リスク、チャイナVSアメリカ、オイル・マネー、日本という先進国の底抜け、と世界的な複合不況を引き寄せる要素とそこから派生する予期不安を刈り取る為に今、DCPRGという装置を推し進めようとするのか、それとも、完全なる戦時下においてのダンスを今こそ定義したいのか、明確な理由はまだはっきりとはしない。だが、「敢えて‐」で00年代をサヴァイヴした菊地成孔氏がもうそれでは無理だという「危機の数は13」とばかりに鎧を脱ぎ捨てての、再開なのか、今後の動向が気になると共に、ライヴ、ニューアルバムへの視座などどういう展開になるのか、1929年のニュールンベルグ党大会における、巨大出力PAスピーカーを埋め合わせる意図を孕むのか、米国国防総省(ペンタゴン)と英国王室庭園(ロイヤル・ガーデン)を目指す為のラングはあるのか、注視したい。

(松浦達)

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of_montreal.jpg ジョージア州アセンズのレーベル名(インディー・バンドの小さな音楽コミュニティ、と表現したほうがピンとくるかも)で90年代を代表するムーブメントの代名詞のひとつともなり、日本でも愛されたエレファント6を離れ、かつてのローファイ・ポップからエレクトロ・グラム・ファンクとでも形容すべき音楽性にモデル・チェンジを遂げ、広く世界に名を轟かす契機となった2007年の大傑作『Hissing Fauna, Are You the Destroyer?』以降、ケヴィン・バーンズは己の自我をどこまでも膨らませながら、ビートルズやキンクスの流れを汲んだキャッチーなソング・ライティングとトッド・ラングレン的なサウンド・コラージュを得意とした自身の先天的な資質を、ブラック・ミュージックへの憧憬という名の靴スミで黒く上塗りしているみたいな音楽を作りだしてきた。

 ファンク・ミュージック的なマナーに則ったドラム・マシーンがアルバム全編を支配し、不自然で強引な転調がめまぐるしく続き、曲間は塞がれ息をつぐ余裕さえ奪われた、大仰でパラノイアックなノンストップ・ロック・オペラとなった前作『Skeletal Lamping』はひとつの極北というか、ふだんは部屋のベッドにうずくまって返事もしない男の子が大風呂敷いっぱいに広げた妄想をトイレもない部屋で聞かされているような、どうにも胃のもたれる作りだった(そこが良かったのだが)。おまけにステージでは忍者や虎を従え本物の白馬を乗り回すなどド派手すぎるショウを展開し、破天荒すぎるその雄姿に共感しワクワクさせられつつ、さすがにこの路線もやり尽くしてそろそろ一区切りだろう...と思いきや、本作『False Priest』でも彼はその妄想と黒人音楽への愛を拡張させていく道を選んだようだ。作を重ねるごとに(ケヴィンの弟・デヴィッドが担当している狂ったアートワークとともに)過激に変貌していくオブ・モントリオール。だが、本作にはポップ・レコードとして素直に歓迎できる取っつきやすさが復活している。

 本作は『Hissing~』で生まれたケヴィン・バーンズのペルソナ、Georgie Fruit(デヴィッド・ボウイにおけるジギー・スターダストみたいなもの)を巡る物語の第三章である。「熱烈な恋→らぶらぶ→別れるぷんぷん→いじいじ→開き直る→私清くなんかないもん→強制終了」(的確でわかりやすすぎるので、Twitterでの@emoyamaさんのツイートをそのまま引用させてもらった)という実に現代的な恋愛ドラマのラインに沿いながら、歌詞におけるセクシャルな表現やタブーを恐れぬ居直りっぷりは変わらず。

 この作品が"開かれた"レコードとなっている最大の要因はジャネル・モネイ(Janelle Monae)及び、彼女の音楽仲間であるワンダランド・アート・ソサエティ(Wonderland Art Society、以下WAS)との出会いだ。2719年からやってきた(という設定の)彼女がフリッツ・ラングの『メトロポリス』を下敷きに創ったフューチャー・ソウル・アルバム『The ArchAndroid』は想像力と柔軟性に富んだ今年を代表する作品であるが、オブ・モントリオールもそのアルバムのなかで「Make The Bus」という曲を提供している。露骨にオブモン節溢れる楽曲はR&Bアルバムのなかではさすがにちょっと浮いていて初めて聞いたとき笑ったが、思えばリーゼント・スタイルのアンドロイドと白馬の王子様の邂逅はある意味で必然であり、妄想VS妄想の濃すぎる交友はケヴィンに多大なインスピレーションを与えたようだ(実際、あらゆるインタヴューで彼はモネイやWAS界隈について言及し、さらにツアーも一緒に周っている)。

 まさしくふたりの出会いを歌っているかのような、ボーイ・ミーツ・ガールのウキウキする悦びに満ちたこれぞオブモン! なファルセット・パラダイス「Our Riotous Defects」と、WASの面々に影響を受けて読んだというフィリップ・K・ディックらSF小説の匂いが色濃く反映された、インベーダーの襲来を喚起させるスリリングなシンセが美しいスペース・オペラ調の「Enemy Gene」の二曲でモネイとのセクシーな共演を披露している。また、モネイからの紹介で知り合ったという、ビヨンセの妹・ソランジュとも「Sex Karma」(スゲェ曲名...)で掛け合っている。素晴らしい歌唱力を誇る女性陣と、別にそうでもないというかむしろ音痴なケヴィンの危うい絡みは実にチャーミング。

 さらにアルバムを表情豊かにさせているのはジョン・ブライオン(最近はカニエ・ウエストなども手掛けたが、個人的には『マグノリア』などエイミー・マンの初期作での仕事が印象深い)のプロデュースだろう。バンド史上初の外部プロデューサーとなったブライオンはケヴィン制作のデモに手を加えまくり、前作にあった打ちこみの多用によるリズムのもたつき、ファンクなのに腰が振れないもどかしさを生ドラムや生楽器を前面に押し出し、ベース・ラインを今まで以上に太く強調することで解消させ、多彩なシンセ・ワークでアルバムに見事な音の凹凸をもたらした。これまでは上塗りでしかなかったブラック・ミュージックからの影響を、バンドの個性を殺すことなく完全に血肉化させることに成功している。イントロのサーフ・ロックを思わせるテケテケ・ギターからピート・タウンゼント風ギター・ストロークとヘヴィなリズムに雪崩れ込む、シングル曲「Coquet Coquette」(ぶっ飛んだジャケどおりの"ニワトリ戦争"を思わせる楽曲)も雷鳴のような鋭いシンセの音色で迫力を増しているし、歌のメロディだけ取り出せば1.5流のローファイ・ポップに落ち着きそうな「Godly Intersex」も執拗なまでにエコーやエフェクトをかけまくることで、終わりの見えないエロス地獄の粘り気と倦怠をうまく表現している。「Like A Tourist」の曲終盤で鳴るパイプオルガンみたいな響きは神々しい暴力性をもっているし、ケヴィンの一人多重コーラスもかつてないほど色気がある。

 アルバムはモータウン~マーヴィン・ゲイ調の「I Feel Ya Strutter」でミュージカルのオープニングのように華々しく幕を開け、前述の楽曲のほかにも、後半のうねるブリープ・シンセも気持ちいい洗練されまくったスムース・ソウル「Hydra Fancies」、カーズみたいなギター・ロックからいまやすっかりお手のものなエレクトロ・ファンクに急シフトする「Famine Affair」など、聴きどころは実に多い。終盤はやや曲調も重くなり、レディオヘッドの「Fitter,Happier」(『OK Computer』収録の)で朗読しているソフトにヴォコーダーを通させたような語り口で「兄弟姉妹より神が大事だなんて、君は間違っている~」とかブツブツ呟く≪強制終了≫の仕方(「You Do Mutilate?」)はセカイ系みたいで正直ちょっとイマイチだが、それも誠実さと受け止められるなら(もともとケヴィンの世界観って相当ウジウジしてるしね)本作が最高傑作だと言えなくもないほどの充実度である。

 最高傑作といっても、前作まで僅かながらあったエレファント6時代の残り火のようなものはいよいよ消え失せてしまった。人懐っこくビートリーなギター・ポップやぶっ飛んだ転調もここにはほとんどない。ひっくり返したおもちゃ箱はキレイさっぱり片付けられてしまったようだ。他のエレファント6界隈のバンドも、アップルズ・イン・ステレオはELOみたいになってアメリカを代表するポップ・バンドへと飛躍したり、逆にエルフ・パワーの新譜は炭酸が抜けたぬるいコーラというと表現は悪いが、相変わらずの捻りは見せるもののかつてあった煌めきは正直色あせていた。やめる人は消えていくし、残った人は次々変わっていく。

 そんななかでオブ・モントリオールが逞しいのは、これだけ音楽性が変わりバンドの人気やステージが巨大化しながらもDIYの精神を失わないところ。ツアーにおける多様なコスチュームのデザインもおカネの管理も移動の車もぜんぶ自前で、楽器スタッフもひとりしかおかず、コスト削減とチケット代の値下げに努めているそうだ。先日、彼らの地元アセンズで行われたライブのチケット代はなんと17ドル! この原稿を書いている時点で1,428円である。あんなマジカルなライブがそんな値段だなんて夢みたいな話だ。しかも、今行われているツアーではマイケル・ジャクソン・メドレーのオマケつき! CD不況と嘆かれるなか、前作の超変形ジャケットほどではないけどパッケージ・デザインは凝っていて厚みのあるブックレットもついてるし(「モノ」として欲しくなる)、バンドTシャツを買えばアルバム音源のmp3もついてくるし、一方でケヴィンはステージ上で脱ぎまぐるし、ヘンテコな踊りをかますし、どう考えても誰より信用できるじゃないか。やっぱり極端な人が好き! 一生ついていきたい。

(小熊俊哉)

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maximum_balloon.jpg デイヴ・シーテック。もしこの男がいなければ、00年代のポップ・ミュージック界はかなり違ったものになっていたかもしれない。ブルックリンの大御所バンド、TV・オン・ザ・レディオのギタリストとして、また、ヤー・ヤー・ヤーズやライアーズ、フォールズなどのプロデューサーとして、エポックメイキングな作品を世に送り出してきた。今のブルックリンの活況もデイヴあってのものといえるだろう。

 そんな彼が、初となるソロ・アルバムを作り上げた。名義はマキシマム・バルーン。TVOTRのバンドメイト、トゥンデ・アデビンペとキップ・マローン、カレン・Oにホーリー・ミランダ、それに注目の新人ラッパー、セオフィラス・ロンンドン、更にはデヴィッド・バーンまでがゲスト・ヴォーカリストとして参加している。そのメンツの豪華さはまるで、今年のゴリラズやマーク・ロンソンのアルバムのよう。しかも、共通しているのは、あくまで「裏方」であること。決して、自分自身がフロントにしゃしゃり出てくることはない。

 しかも、ヴォーカリストひとりひとりにベストなトラックを提供していることに驚かされる。そのハマり具合には恐れ入るばかりだ。例えば、艶やかに黒光りするトゥンデのヴォーカルにはゴシック・ディスコを、カレン・Oには『It's Blitz!』に通じる気高さを感じるシンセ・ポップを、デヴィッド・バーンには後期トーキング・ヘッズを彷彿させるミニマルなファンクを、といった具合だ。はっきりいって、各ヴォーカリストが実力を十二分に発揮できないはずがない。すべての曲で、デイヴのトラックとヴォーカルががっぷり四つに組んでいる。そのため、結果的に個性豊かな楽曲が揃うこととなった。

 全体的には、ナイル・ロジャース譲りのパーカッシヴなギターが印象的な、ソウルとアート・ロックを融合させたような作風が展開されている。TVOTRの最新作『Dear Science』での一大抒情詩的作風とは打って変わり、ダンサブルなビートを備えたフロア対応型のアルバムだ。だが、ベクトルこそ違えど、実験性とクロさ、ポップネスの3つを全く欠くことのないハイ・クオリティを誇っている。まだまだ、デイヴ・シーテックは時代のトップ・ランナーだ。彼は、そのことをこの作品で証明して見せたのだから。

(角田仁志)

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mogwai.jpg もう既に役割を終えたバンドだと思っていた。しかし、やはり素晴らしい。役割うんぬんで語るバンドではない。CDとDVDの二枚組みの本作は現時点の最高傑作だ。95年にグラスゴーで結成され、サッカー選手ジダンのドキュメンタリー映画のサントラを手がけ、映画『マイアミ・バイス』に楽曲を提供したことでも知られるモグワイ。今年のメタモルフォーゼにも出演した。
 
 思えばスリントを敬愛するこのバンドは常にリスナーの期待と戦い続けてきた。神秘的なメロディから轟音へ。それは時としてマンネリと評されつつも、母語として彼らは守り続けた。エレクトロニクス・サウンドを取り入れようが、歌や朗読を取り入れようが、轟音だけは絶対に譲れない意地がモグワイにはあった。リスナーになんと言われようとだ。心臓を目の前に差し出す覚悟はあるのか? モグワイにはある。膨張した心臓が脈打つような轟音を、彼らは覚悟として鳴らす。いつ破滅するのか分からない。そんなぎりぎりの覚悟が宿った轟音は血が滴り落ちるほど生々しい生命力に満ちている。音の中でいくつもの音が動き、ざわめき、奇声をあげ、いまにも破裂しそうなまでに「生きて」いる。その音の前ではリスナーのマンネリという言葉はかき消される。心臓を差し出す覚悟はあるのか? 僕らにはない。
 
 90年代後半から00年代前半までのモグワイの勢いは凄まじかった。多くのフォロワーを生み、来日するたびにライヴは伝説とまで評された。特に初来日公演と03年の渋谷AXでのライヴの記憶は今でも頭にこびりついている。巨大な化け物と向かい合わされたような迫力。音に飲み込まれる感覚。音圧が皮膚に当たり、すれ傷になりそうなほど圧倒的な音のかたまりが全身にのめり込む。時間が止まり、やがて訪れる放心状態。音に打ちのめされるという言葉が似合うライヴをやるのはモグワイだけだ。作品も発表されるたびに話題となり、マーキュリー・レヴのデイヴ・フリッドマンをプロデューサーに迎えた2nd『Come On Die Young』はストーリー性に富んでいて、モグワイのメロディ・メイカーとしての素質も浮き上がらせ、なおかつ轟音の破壊力も美として昇華させた傑作だった。続くテクノ的アプローチを見せた『Rock Action』も、一音が持つ美を徹底的に突き詰めた『Happy Songs For Happy People』も素晴らしく、その後二作のアルバムも同様、モグワイだからこそ鳴らせる生命力が宿っていた。

 彼らは決して音楽シーンに便乗することも、音楽性を曲げることもしなかった。それは何かへのアンチではなく、自分達のスタンスを信じているが故の強さであり、モグワイはいつだって裸なのだ。裸の自分をためらいなくリスナーにぶつける。まるで死を恐れず暗闇に飛び込むように。死をも覚悟している轟音から生命力が溢れ出す。そして音の中から再び聞える。心臓を差し出す覚悟はあるのか?
 
 本作は09年の4月27日から29日にわたって行なわれたブルックリンでのライヴを記録したものだ。モグワイは何も変わっていない。いや、いままでの音楽性をさらに深く追求し、これ以上のものはない、というところまできている。彼らと似た音楽性を押し出すバンドは多いが、たとえ同じことをやっていようが、モグワイには遠く及ばない。まさに彼らの意地が、覚悟が、そして裸の姿が詰まっている。新旧の楽曲がまんべんなく並ぶ本作だが、ひとつのストーリーとして聴こえるから不思議だ。それは映画のサントラを手がけたこともあるのだろう。「Mogwai Fear Satan」の次が「Cody」だなんて、素晴らしいじゃないか。それだけで泣けてくるのに、哀感をも大切にするメロディが聴き手を惹き込み、そして轟音が泣き叫ぶように鳴っている。ライヴ盤にもかかわらずエレクトロニクス音を導入した楽曲も生々しさを失わぬまま効くべきところで効いている。興奮と哀感が交互に訪れ、笑顔と涙でぐしゃぐしゃにされてしまいそうだ。そしてより迫力が増した轟音が体の奥まで入り込む。モグワイを聴く事とは音との一体化なのだ。その中毒性は凄まじい。メロディ・メイカーとしての資質も本作で十二分に発揮されていて、それは轟音の中にまで入り込み、多種多様の音が轟音の中で動いている。メロディすら、じっくり聴かせる作品になっているのは「モグワイ=轟音」というステレオタイプなイメージの払拭を狙ってのことだと僕は思う。ついついアーティストに固定したイメージを持ってしまうことがあるが、本作を聴くだけでもモグワイは轟音のみのバンドではないと分かる。メロディがしっかりしているからこそ、過去のバンドとしてモグワイは終わらないのだ。
 
 そしてヴィンセント・ムーンとナサナエル・ル・スクアーネックが監督を務めたDVDが素晴らしい。ライヴ映像中心だが、映像作品と呼べるもので、モノクロで映し出されるその映像はライトなホラー感があり、メンバーのギターを弾く指使いや、眼球の動きや汗まで見えそうなアップを多用することで臨場感を重視し、モグワイの世界観ではなく、メンバーそのものに焦点を当てている。それゆえ、生々しく、アングルの編集も絶妙で、最前列でライヴを観ているような疑似体験が味わえる。モグワイのライヴといえば照明も見物のひとつではあるが、あえてモノクロにし、遠くからの映像をほとんど削いだことで彼らの野性的な魅力が毒々しいまでに映し出されている。観ている間は心拍数が上がりっぱなしだった。すなわち、興奮する。もしモグワイを聴いた事がないリスナーがいたら、まず本作を手に取ることを薦める。そしてDVDを観てほしい。仮にDVDだけだったとしても買う価値は十分ある。呼吸困難になりそうなほど、このDVDは化け物じみている。CDを含め本作は、モグワイが表現者として常に前進していることを示している。脈をうつ音楽は確かにあるのだ。

(田中喬史)

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skream.jpg このアルバムは、スクリームを多くのリスナーに触れさせることになるかも知れない。ダークな2ステップだった頃も含めると、ダブステップもそこそこ長い歴史があるけど、『Outside The Box』はそんなダブステップというジャンルの現時点での集大成がある。6月にリリースされたラスコのアルバムでも聴けるけど、最近のダブステップは、ドラムンベースやヒップホップ回帰していたり、ダブステップにとってのルーツな音が目立ってきている。ダブステップというのは、ほんとに様々な音楽性を取り込んできたし、今もスクウィーなどサブジャンルという形で、広がりを見せている。『Outside The Box』は、そんなダブステップの可能性と魅力が存分に詰まっている。

 そして、このアルバムのもうひとつの魅力は、スクリーム自身の幅広い音楽的嗜好とポップセンスだと思う。特に、「Where You Should Be」「How Real」「Finally」の3曲は、優れた「歌」として機能している。ダブステップの歌モノって、ラップになりがちだけど(基本ダブステップはヒップホップですからね)、スクリームの場合は、アンダーグラウンドよりもラジオ・ヒット曲に近いものになっている。意外とスクリームって、マニックスのようなポップジャンキーなのかも? さらにはアルバムの構成も優れていて、序盤はゆっくりと始まって、4曲目の「Where You Should Be」から盛り上がり始めて、「I Love The Way」でピークを迎える。それ以降は、徐々に熱を下げていって、最終的には「冷めた高熱」というなんとも不思議な感覚に陥る。特にアルバム終盤は、ラ・ルーが参加している「Finally」がキーになっている。彼女の祈りにも似た、囁くようなヴォーカルは、『Outside The Box』に決定的な「ナニカ」を与えている。僕自身ヴォーカリストとしてのラ・ルーの魅力に気づいたのも、「Finally」だ。アルバムとしての流れでは、「Where You Should Be」から「I Love The Way」までの展開は、圧巻の一言。この辺りは、かなりフロアチックな展開になっていて、盛り上がる。

 前作が、フロアの空気を意識した、かなり力任せなジャイアン的なアルバムだとしたら、今作は、スクリームのプロデューサーとしての審美眼とアーティストセンスが同居した余裕のあるアルバム。フロアの外に出たダブステップの多くが、安易なポップの流用でエッジを失っていくなか、スクリームの『Outside The Box』は、ポップ・ミュージックが本来持っているエッジを取り込みながら、スクリーム自身のエッジをさらに鋭くしている。ダブステップで、ここまで心を揺さぶってくるアルバムは、初めてではないだろうか? もしかしたら、ダブステップはあなたの隣に居るのかも知れない。

(近藤真弥)

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seaworthy + matt_rosner.jpg 12kからアコースティックギターとドローン・サウンドによるエクスペリメンタルな作品をリリースしている(レコーディング場所は海軍の弾薬庫)シーワーシーと、Room40あたりから電子ノイズによるエクスペリメンタルな作品をリリースしているマット・ロスナーによる、オーストラリア出身のアーティストらによる共作。彼らの共作はスプリットも含めると二枚目になる。
 
 本盤の生まれた経緯も興味深いもので、4月に彼らはニュー・サウス・ウェールズのメルー湖とターメイル湖を訪れ、そこで生態系研究を目的としたフィールドレコーディングを行った。その副産物(あくまでも生態系研究ありき)として、研究の合間にシーワーシーが即興でアコースティックギターやウクレレを爪弾き、マットがスタジオでそれらにドローン・サウンドを織り込み、ミックスを手掛けたという、いわば研究結果のようなアルバム。曲のタイトルも、メルー湖の岩棚、ターメイル湖付近の砂丘など、"すっぴん"のままである。ターメイル湖での録音の方が、やや寂寥感に満ちてはいるが、お互いの単独作品に比べると風通しが良く、内省的でない。
 
 音楽が片時として彼らの傍らから離れていないというか、パーソナル性の体現である。肩肘はって音楽に対してつんのめるのではなく、もっと平穏で日常的な要素の一つとして音楽と対峙している姿勢はかっこいいと思うし、憧れる。神々しくも現実離れもしていないアンビエント、ドローン、エクスペリメンタルがあってもいいはずだし、必ずしも美しくある必要なんかない。

(楓屋)

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the_hundred_in_the_hands.jpg 漬物が欲しくなる。味噌汁も欲しくなるからしようがない。いわば庶民の味が欲しくなる。いやいや、お前は何を言っているんだという感じだが、08年にTHITHという名義で結成し、現在はザ・ハンドレッド・イン・ザ・ハンズに名義を変えた彼らの、Warpからすでに今年発表されたEPに続く待望のデビュー・アルバムはスマートでエレガント過ぎる。これは無論、褒め言葉だ。しかし、である。ブルックリンを拠点に活動するエレノアとジェイソンからなるこの男女デュオを例えれば、欧米の高級な食材を使ったフランス料理。そんな感じにエレガントなのだけど難を言えば庶民性が足りないのである。

 エレクトロ・ポップスと一口に言ってしまえば話は早いが、音響ミックスもダブの使い方も電子音の扱いもこなれている。楽曲によって何人ものプロデューサーを迎え、作りに作りこんだ楽曲のベクトルはすべてスマート。どの楽曲も綺麗に歌いこなす美人女性ヴォーカリスト、エレノアの歌声も手伝い、音楽理論に長けた研究生がすらすらと書いた論文みたいに聴いていて違和感が全くない。それがこの音楽の良さなのだが、同じくブルックリンを拠点にするダーウィン・ディーズの新譜が過剰に作り込まないことを目的とし、音が荒さや持つ土くささ、埃っぽさによってリスナーをずるずると音楽に惹き込んでいくことに比べると、ザ・ハンドレッド・イン・ザ・ハンズは神聖で神秘的な音楽性が貫かれている。人間臭さはあまり感じない。しかしそれこそが狙いなのだろう。メンバーのジェイソンいわく「他のバンドとの違いはプロダクション・テクニック」とのことだ。つまり、サウンド・プロダクションの技巧を聴く音楽という意味を抜き出せばステレオラブに通じるものがある。ブルックリンを拠点とするバンドはそれぞれの良さを持っているが、この男女デュオはプロダクション・テクニックに個性を見出した。それについては賛否両論だろうが僕は賛同している。ここまでエレガントに数々の音楽要素を綺麗にまとめてしまう手腕には恐怖すら覚えたし、ブルックリンにこういうバンドが一組くらいいることで、音楽シーンは広がりを見せると思うからだ。

 また、前述したように本作がWarpから発表されていることが面白い。Warpとは常に最先端のバンドを世に送り出すレーベルだ。過去にもブルックリンのバンドを送り出してはいるが、ザ・ハンドレッド・イン・ザ・ハンズほどスマートなバンドはいなかった。なんだか僕にはこのバンドの新譜が、Warpなりの、他のレーベルが送り出すブルックリン勢への回答だと思える。Warpは以前にもテクノへの回答としてアーティフィシャル・インテリジェンスと表した音楽性を示した例もあるわけだし、その可能性は低くない。本作は現在のWarpの姿勢を映す鏡に成りうると僕は思う。作り込まれた音楽という意味で、TV・オン・ザ・レディオと聴き比べてみるのも面白い。

 ただ、「期待の新人!」と謳われているわりには、あまり話題に挙がっていないのが現状だ。徹底してエレガントであることを押し出している本作は貴重だと思う。その反面、本作を聴いた後は庶民の味が欲しくなる。つまりは構築したアーティスティックなたたずまいを見せる本作をどのように崩し、ポップ・ミュージックとしての親しみやすさ、庶民性を出せるのかが、今後、課題になると僕は思う。スタイルを曲げることには勇気をともなうが、それも含めて僕は「期待の」という言葉を使いたい。なんだか昭和の民は高級料理を食べた後にお茶漬けが欲しくなるという話を思い出した。課題を克服さえすれば、ザ・ハンドレッド・イン・ザ・ハンズは『Emperor Tomato Ketchup』期のステレオラブみたいなバンドになるよ、きっと。楽しみだ。

(田中喬史)

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coldcase.jpg 日本で海外ドラマが盛り上がりを見せるようになって久しい。少し前まではビデオ/DVD化されるまで待つか、いつ実現するともわからないテレビ放送を待つかしかなかったが、最近は民放やケーブルテレビ等で最新の番組も本国とさほど時差なく見られるようになった。TVジャンキーであるロブ・ゾンビは「チャンネルの少ない国ではツアーをしない」と公言し、日本にもあまり来てくれないのだが(昨年15年ぶりにやっと来日してくれましたが)、「今は日本もチャンネル数が増えたんだよ!」と教えてあげたいくらいだ。

 次々と放送される豊作状態のドラマの中でも特に多いのがクライム・サスペンスだ。古くは『刑事コロンボ』から最近では『24 -TWENTY FOUR-』など、日本でも『古畑任三郎』や『相棒』といった数多くの作品が作られ長年に渡って愛されてきたジャンルだが、最近の作品で絶大な人気を誇る『CSI』シリーズのプロデューサーであり、数々のヒットドラマや映画を送り出しているジェリー・ブラッカイマーが手掛けているのがこの『コールドケース』。フィラデルフィア市警の殺人課チームによる犯罪捜査を描いたもので、本国アメリカでもかなりの高視聴率を叩き出してきた人気作品。なので海外ドラマファンであれば既にご存知の方も多いことと思う。

 「コールドケース」とは未解決事件のこと。筋書きとしては、過去の未解決事件(ここで扱うのは殺人事件)についての新たな証拠が見つかるとか、遺族が再捜査を依頼してくるといったきっかけから改めて事件を詳しく調べていくという展開で、毎回ほぼ同じ流れでどことなく淡々と物語は進んでいく。アメリカは殺人事件の時効がないため、どんなに古い事件でも依頼があったり解決の糸口が見つかったとなれば再捜査することが出来る。事件関係者や被害者遺族に再び会いに行き、過去の証拠や証言を検証しなおすという地道な捜査を描く中で、事件当時の回想シーンが必ず挿入されるのだが、それがとても秀逸なのだ。丁寧に時代考証を行い、映像の色合いや風合いによって空気感を再現し、どんな時代だったか、社会的背景に何があったか等が、当時の様子を知らなくても十分伝わってくるように作られている。1900年代前半から現代までの様々な時代が登場するが、それぞれの時代を表現するのに特に重要な役割を果たしているのが、音楽だ。

 事件のあった年代のファッションや流行、文化を映像で再現するとともに、当時のヒット曲やその頃にリリースされた楽曲を惜しげもなく使用しているため、見ている者は一瞬でその時代に連れていかれる。最後の時を過ごしたバーで、流行っていたディスコで、ドライブした車の中で、傍らのラジオから、古いレコードから、音楽たちは物言わぬ目撃者とでもいうように、事件と寄り添うように流れてくる。ごく一部を挙げるだけでも、ビリー・ホリディ、ルイ・アームストロング、ジョニー・キャッシュ、マイケル・ジャクソン、ブルース・スプリングスティーン、スティーリー・ダン、デュラン・デュラン、オアシス、ピクシーズ、スマッシング・パンプキンズ、リアーナ等々...、半世紀以上前からごく近年までの幅広く多岐に渡るジャンルから選曲された楽曲郡は、リストを見ているだけでもワクワクしてしまうほど。中にはキュアーやニュー・オーダー、スノウ・パトロールやカーシヴ、ダッシュボード・コンフェッショナル等の名前も。1話まるごとボブ・ディランやU2、ニルヴァーナといった回もある。
 
 思わぬ名曲に出会ったり、知っている曲であれば改めて良さに気付いたり、その曲を知った時のことを思い出して、いつどこで買ったか、誰と聴いたか、その当時自分は何歳で何をしていたか...とついつい自分と重ねてしまったり、というのは音楽ファンであれば理解できる感覚ではないだろうか。「○○年代」とだけ言われるよりも、音楽が流れることでいつ頃が舞台になっているかを想像しやすくなり、自分と重ね、時代の感覚を掴むことで自然と物語に入っていける。と同時に、映像作品において音楽がもたらす効果の大きさ、音楽の持つ時代を超える力、記憶を呼び起こす力の強さも実感することが出来る。

 この回想シーンと豪華な楽曲郡が当然ドラマの人気要素であるわけだけど、しかしこれは殺人事件を扱った作品である。素晴らしい回想シーンとともに、命を奪われた人達の埋もれていた真実が明かされていく物語なのだ。その真実とは、時に残酷すぎて目を覆いたくなるようなもので、時に被害者の尊厳を守り抜くような尊いものであるが、どんな真実が明かされたとしても奪われた命は決して戻らないということを嫌というほど見せつけられる。
 
 リアルタイムに事件を追うものと違って、スピード感があるわけでも過激さや派手さがあるわけでもない。既に起きてしまった事件を扱っているため、命が救われるケースもほぼ無い。後に残るのは、犯人逮捕の爽快感や安堵感ではなく、浮き彫りになった真実の重みと癒えることのない哀しみばかりだ。事件当時には語られることのなかった、哀しく残酷な真実。犯人のエゴや保身のため、あるいは誰かを守るためや気高いプライドによって隠されてきた真実。それを露わにすることで被害者が救われるのかはわからないし、誰も幸せにはならないかもしれない。けれど、真実が消えてなくなることは決してない。どんなに隠してもそこにあり続けるのだ。被害者遺族が「真実を知りたい」と訴えるシーンをニュース等で目にすることがあるが、このドラマを見ていると、ほんの少しかもしれないが、その切なる思いがわかるような気がする。

 物語のトーンは重くダークで、とにかく切なくやるせないエピソードが多い。これまで何度泣かされたことか(同じエピソードを字幕/吹き替えでそれぞれ見て、どちらでも泣いてしまったことすらある)。フィクションとわかっていながらもこんなに感情移入してしまうのは、もちろんその時々の時事問題を盛り込んだストーリーやリアリティを感じさせる音楽の存在も大きいが、同じような事件がどこかで起こっていても不思議ではないと思わせる、多くの問題を抱えた現代社会のせいでもあるだろう(中には実際の事件をモチーフにしたエピソードもある)。ニュースを見れば毎日のように殺人事件が報じられ、幼児虐待、DV、いじめ、増加する自殺者、リストラ問題、人種間の争いや差別、終わらない戦争、権力によって捻じ曲げられる現実、そんな暗い話題ばかり。これらの出来事が一体ドラマとどれほど違うのか。加えて日本には時効制度によって未解決のまま忘れ去られていった事件も多い。しかし例え忘れ去られてもそこには一人一人の人生があり、このドラマの登場人物と同じく、どんなに時が経ってもたったひとつの真実が明かされることを望みながら、今も哀しみを抱えて生きる人達が大勢いる。
 
 時効制度の問題だけでなく、死刑についての賛否、冤罪問題や少年犯罪の厳罰化、裁判員制度などの法制度をめぐる課題も多く、これからも議論は続くだろう。法とは時代に沿って変化していかなければならないし、何が正しいかという明確な答えが出ないとしても、何が悪で罪なのかを見極め、どんな命も奪われてはならないという根本的な「正義」が、ブレることなく貫かれる社会でなければならないはずだ。
 このドラマの大きな救いは、哀しみや後悔、絶望を描く中にもその「正義」が根底を流れているということ。「正義」なんて言うと大袈裟に聞こえるかもしれないが、決して押し付けがましくなく、説教臭くもない。メインキャスト達の中にそれぞれの思う「正義」が息づいていることが、わずかに垣間見えるだけだ。社会を変えたいとか、悪を裁き根絶させたいといった大きな理想を掲げなくとも、同じ目線を持つことは私たちにも出来るだろう。「命は尊い」と再認識するだけでも十分意味がある。
 
 いつの間にか引き込まれ、そんなことを考えさせられるうち、このドラマが段々とただのフィクションには思えなくなってくる。「ドラマだから」と割り切れないのは、本当は悲しいことかもしれないけれど。

 この作品はあまりに多くの楽曲を贅沢に使用しているため、著作権等の問題でDVD化が不可能だといわれている。興味のある方は日本で放送しているうちにぜひ見て欲しいと思う。一話完結なのでシーズン途中からでも、見逃した回があっても十分楽しめる(「楽しめる」という言い方は語弊がある、というぐらいに内容は重いですが)。
 
 本国ではシーズン7で打ち切りとなっているが、日本では現在シーズン2(テレビ東京)、シーズン4(AXN)、シーズン6(WOWOW)を放送中。

・テレビ東京(シーズン2) 土曜27:15 (第4土曜日は除く) 
http://www.tv-tokyo.co.jp/coldcase2/
・AXN(シーズン4) 月曜20:55/火曜15:30/金曜24:00/日曜14:55/日曜23:00/月曜16:30
http://axn.co.jp/program/coldcase/index.html ※
・WOWOW(シーズン6) 土曜23:00/日曜10:00
http://www.wowow.co.jp/drama/cold/ ※
※放送分までの全楽曲リストあり

(矢野裕子)

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serge_gainsbourg.jpg 近年、話題になった2006年の『Monsieur Gainsbourg revisited』には個人的に納得いかない部分が多かった。フランツ・フェルディナンド&ジェーン・バーキン、ジャーヴィス・コッカー&キッド・ロコ、ポーティス・ヘッド、マイケル・スタイプ、トリッキー、カーラ・ブルーニなどの錚々たるメンツがセルジュ・ゲンスブール(彼の名前の日本語表記は諸説あるが、ここではセルジュ・ゲンスブールに統一する)へのトリビュートを行なったという事と、作品への解釈論ではあまり口を挟むところがないのだが、如何せん世界的に評価の高い『メロディ・ネルソンの物語(Ballade de Melody)』をメインに、中期から後期、又は「ジュテーム・モワ・ノン・プリュ(Je t'aime moi non plus)」などの有名曲が多かったのには辟易したという要素因がある。

 だから、初期の「リラの門の切符切り(Le Poinconneur Des Lila)」を鮮やかにポスト・パンク的に再構築したザ・レイクスや1968年の映画のテーマ曲「スローガンの歌(Le Chanson de Slogan)」をダルに潜航するように曲自体を低温に落とし込んだザ・キルズの流れには昂揚した。

          *          *          * 

 彼は、デビュー作の1958年の『Du Chant A La Une!』のプローモーション時において、「もし、貴方が貴方でなければ、誰になりたいか?」というインタビュワーの質問に即座に、「マルキ・ド・サドか、ロビンソン・クルーソー」と答えている。自分は、彼を偶像・崇拝化する気も貶める気もないが、彼の「借り物」性と、映画監督で見せる「質の悪さ」(ちなみに、僕は、最初は彼の音楽美より映像美に胸打たれた所がある。)、数多の「女性」と寝ながら、下らないブラック・ジョークを潜り、1944年のパリ解放までダビデの星を付けながら、ナチスの迫害に怯えていた頃の恐怖心とトラウマを避わすための長い「余生」を全うすべく、フランス国家への嘲弄、総てにおいてハイブロウな知的戯れに暮れた様は鮮やかですらあった。

 いつも彼は良い意味で空虚だったし、2010年の今においてもフランス人のみならず、モンパルナスの墓を訪れる人が多い理由は分からないでもない。何故なら、こんなに空疎に同じ言葉を持てなくなったセカイで、空虚に踊る為のイコンとして彼を求めるなり、再度、発見「してしまう」のは必然的なのかもしれない。

          *          *          * 

 ある一説に、近代以降の大半のポップ・ミュージックとは、女性が男性から離れていった喪失感を基盤としており、「ガール」とは即ち「失って、帰ってこないもの」のメタファーである、みたいなことを言ったりもする。正義、伝統、理性、愛、モラル、平和、光、狂気、自由、何でもいいが、そういうものにも置き換えられるのかもしれない、としたならば、彼の過剰なまでのエロス(と引き裂かれたタナトス)はどうしようもない不条理な人生をバルザックの「知られざる傑作」の画家のフレンホーファー的に受け止めようとしていた証だったのかもしれない。フレンホーファーは10年に渡って、同じ肖像画を描き直し続け、そして、彼の想い入れの中でこの絵は絵画の世界に革命を起こし、「そのままの現実を完璧に描きだす」ものであるという意識で挑んだ。仲間の画家のプーサン、ポルビュスが完成したその絵を見るべく彼の部屋を訪れて、その絵を見れば、キャンバスには雑多な色と形が塗りたくられているだけだった。カオスと条理を通り越した不条理と無為。それでも、フレンホーファーは賢しげを気取る。しかし、その二人の「反応」を慮り、自身の「この10年間」は徒労だったと気付き、慟哭し、仲間が去った後、全部の絵を焼き、自殺する。

 セルジュ・ゲンスブールは、フレンホーファーまで極端ではなかったが、「緩慢なる自殺」を常に試行するニヒリストを気取った徹底したリアリストだった。何せ、デビュー曲と言ってもいい「リラの門の切符切り(Le Poinconneur Des Lila)」で「自分はリラの門の切符切りで、もうこの世の中にうんざりしていて、はやくずらかりたい、そして、自由になるタイミングを逃したら、棺桶に向かっていこう」と表明しているのだ。

          *          *          * 

 彼は、15枚のオリジナルアルバムとその他多くの提供曲、映画音楽があるが、今回は、前半7枚辺りの、所謂「ジャズ的な何かを求めた時期」、ブレイク以前の作品を掘り下げることで、何らかの視角を輻射したいと思う。

 周知の通り、彼はアティチュード面では心酔される存在だったが、音楽面では毀誉褒貶があり、デラシネ(deracine)で表層的な振舞い(デヴィッド・ボウイ的な、と言おうか)が故に逆説的に音楽の「本質性」へとアタッチメントしていたのではないかと思うくらい、シャンソンからジャズ、そして、スウィンギン・ロンドン、ポエトリー・リーディング、ロック、レゲエ、ダブ、ニューウェーヴ、果てはヒップホップへとロールしていった。

 そういう文脈では、1958年から1968年の10年間の作品は「リラからスウィンギン・ロンドンまで」の片道切符が切られている。ファーストの1958年の『Du Chant A La Une!』は既に「遅すぎた」デビューアルバムだった。パリのキャバレーでピアニスト兼歌手として働いていて、ここで出会ったボリス・ヴィアンの歌唱を聞き、感銘を受けての30歳のデビュー。ニヒリスティックな歌詞とバックサウンドのバド・パウエルを彷彿とさせる流麗なジャズっぽさと、彼の独特の気品とスノビズムの鬩ぎ合い。「死」の気配が充填されているのも「らしい」作品で、棺桶に足を半分突っ込みつつ、ジャガーが溝に落ちて死にそうになっているカップルの横で鳴るカーステレオ、不倫、というモティーフの中、サン・ジェルマン=デ・プレ、左岸派へ目配せしながらも、裏ではシニカルに挑発的に中指を立てている、いまだにBGMとかカフェ・ミュージック吸収を免れ続けている癖のある23分弱のささやかな10インチ内でのレヴェル(藻掻き)。

 1959年の『No 2』は、デビュー作より更に短くなり、今で言うEPとも言えるような8曲入りの、英語や言葉遊び、語呂合わせを満遍なく取り入れた「遊んでみた」デビュー作と一転しての、軽やかな一作になった。取り立てて特筆すべき冒険は為されていない相変わらずの、ジャジーなテイスト。表層的にマンボやチャチャを取り入れた然り気ない試みは後々のセルジュのカット・アンド・デコンストラクトの手腕の萌芽を感得出来る。

 1961年のサード・アルバム『驚嘆のセルジュ・ゲンスブール(L'etonant Serge Gainsbourg)』では、やはりジャック・プレヴェールの作詞した「枯葉」をモティーフにした「プレヴェールに捧ぐ(La Chanson De Prevert)」が有名になるのだろう。しかし、その実、ネルヴァルやユーゴー、アルヴェールの「詩」へ曲を付けたり、当時の流行のムーブメントであったイエイエに対して真っ向から「抗う」ようなシャンソンの要素が強い、まだ「時代と寝るのを拒んでいた」頃の彼の文学的リリシズムが溢れる繊細な作品になっている。更に、1962年『No.4』ではジャズへの傾倒が進み、ただ、そこでも、ボサ・ノヴァやサンバといった当時ブラジルで隆盛してきた音楽への目配せをされているところがアンテナの鋭敏な彼らしいパスティーシュの鮮やかさがあり、ただ、全体としてとてもダークな趣きが強いのはアメリカーナ、ブリッツからの、ツイスト、イエイエ(1960年代フランスで流行ったロックンロール調の音楽やディスコ調の音楽)の下世話な盛り上がりに耐えられなかったのか否か、「外れ者」であり続けている自分の幕引きさえも考え、絵描きの世界へ戻ろうという失意から生まれた「ツイスト男の為のレクイエム」としてのアルバムになったのは皮肉だった。その流れのまま、1964年の『Gainsbourg Confidential』は、よりジャズに接近する。ベースのミシェル・ゴードリー、エレク・パクチックとのトリオ構成で2、3日で一気に録りあげた静謐さとアイロニカルな知的美しさに満ちた空気感。「何も語らない」アルバム。

 だからなのか、前三作の「沈黙」を対象化して、「語る」ために同年の『Gainsbourg percussions』でアフロ・ラテンサウンドへ傾斜する。ここまでのアルバムになかった開放感と明朗さが打楽器、12人の女性バッキング・ボーカリストと共に、繰り広げられたエキゾティシズムの表層的な剽窃と、譜割に合わせるが故に全く記号的に音韻を踏んだ歌詞世界。ジョアンナやローラ、ジェレミー等が繰り広げる悲喜劇。ちなみに、90年代以降のクラヴ・カルチャーで最も再評価され、パワースピンされたアルバムであるのは知っている人も多いだろう。

 そして、1965年のフランスギャルへの提供曲「夢見るシャンソン人形」のヒットにより、商業作家としてようやっと実を結び始め、映画音楽も多数手がける中、ブリジッド・バルドーと恋仲になる。その躁的テンションのまま、ロンドンで取られたEPが1968年の『Intial B.B.』になる。トータル・アルバムというには程遠い、ちぐはぐなスウィンギン・ロンドン風ビートに満ちた作品。この頃には、「誰がインで、誰がアウト?(Qui est in qui est out)」というコンテクストで言うと、もう彼は愈よ「イン」になってきていたが故に、スキャンダラスな話題を撒き散らすトリックスターを演じるようになってくる。

          *          *          * 

 冒頭に戻ると、セルジュ・ゲンスブールの初期作品というのは「敢えて」スルーされているのか、それとも評価するに値しない類の習作群なのか、懐疑が募る。荘厳なストリングスが絡む1971年の『メロディ・ネルソンの物語(Histoire de Melody Nelson)』がベックを始めに多くのアーティストに賛美される瀬も良いと思うし、ルーリードの『ベルリン』を髣髴とさせる『くたばれキャベツ野郎( L'Homme à tête de chou)』の重厚なポエトリー・リーディング調のスタイルとコンセプト性、その後のレゲエ、ダブ、ヒップホップ路線への暖かい視座も許容出来る。

 しかし、現代、「君と僕」で完結してしまうポップ・ソングか、ネタ探しをする迄もない、笑うに笑えない、アリストテレスが「芸術は自然を模倣する」と言ったのに対して、オスカー・ワイルド的に「自然は芸術を模倣する」と切り返してみせるような音楽や表現が多い中で、セルジュ・ゲンスブールの「模倣という美学」の中で存在性と初期作品に漂う強烈なニヒリズムこそ必要されるべきだと思うのは筆者の迷妄だろうか。

 セルジュ・ゲンスブールとは、自己の模倣と他者の模倣の相互作用によって、過去および現在において知られる熱狂や狂信といった歴史の力を対象化する。そして、その対象化能力は初期の1958年から1968年の10年間の作品群にも十二分に詰まっている。来年3月2日で没後20年を迎えるが、今こそ彼の全体像は再定義されるべきだと願ってやまない。この原稿がその一端になれば、幸いである。

(松浦達)

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JOHNNY MARR & OGRE YOU ASSHOLE

つきつめると、音楽さえ良ければ
たいていどんなことでも我慢できるんだ


昨年のザ・クリブス東京公演を見にいったとき、フロント・アクトをオウガ・ユー・アスホールが務めていた。彼らはたしかにいいバンドなんだけど、これまで(とくに中心人物の出戸が)USインディー・ファン、というイメージが強くて、ちょっと意外なとりあわせだと感じた。現在はクリブスのメンバーとなっているジョニー・マー(もちろん、ザ・スミスのギタリストとして最も有名)に、開演前の楽屋でちょっとだけ話をする機会があったのだが、オウガの話になると目を輝かせ、「いいバンドだよね!」と言っていた。あとで聞いたところによると、この日彼らが演奏するのも、ジョニーの強烈なプッシュで実現したらしい。そういえば、ジョニーって、クリブスに加入する前はモデスト・マウス(これは出戸も大好き)にいたわけじゃん...と考え、なんとなく、つながり(?)が見えてきた。

そしてフジ・ロックの初日には、偶然にもクリブスとオウガ・ユー・アスホールがどちらも出演する。この機会を逃す手はない...というわけで(とくにジョニーは、あまりにビッグな人なので、できるかな...と思いつつ)両バンドの対談を申し込んだところ、あっさり実現してしまった。

以下、その全貌であります!

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all photos by Toru Yamamoto

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!!!

変わっていくことっていうのは
すごくナチュラルで、美しいことだと思う


バンドのハイ・エナジーをそのまま落とし込んだような作風から、ミニマルで、エディットがふんだんに盛り込まれた作風へと移行した最新作『Strange Weather, Isn't It?』を引っさげて、堂々フジロック初日、ホワイト・ステージのトリを飾った!!!。まだまだ新作からの楽曲は試運転段階のようだが、これまで以上にグルーヴィーな新しいバンド像を垣間見せる、貴重なステージだったと言っていいと思う。インタビュー中でニックが語っているように、10月の単独公演(こちらもご参照ください!)では新曲をより自分たちのものにし、さらに素晴らしいステージを見せてくれることだろう。今回のインタビューではフジロックや新作の話はもちろん、ダンス・バンドの流行から、はたまたイギー・ポップの是非まで、様々な話を聞かせてくれた。

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2010年9月18日

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TEENAGE FANCLUB

長い間レコードを作っていなかった僕らの
新作を作る喜びが反映された結果じゃないのかな


新作『Shadows』を6月に発売したグラスゴーの永遠のギター・ポップ・バンド、ティーンエイジ・ファンクラブ。エヴァー・グリーンな歌心を失わない彼らが、5年ぶりの新作で目指したサウンドとは? 8年ぶりの単独来日公演を10月に控える中、新作の内容からメンバーのサイド・プロジェクト、今や20年以上の活動歴となったバンドが長く続く秘訣までを、ノーマン・ブレイクに聞いた。

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deerhunter.jpg 80年代にR.E.M.(やラヴ・トラクターやガダルカナル・ダイアリー)を輩出したアメリカのジョージア州(州都はアトランタだが、学生都市アセンズも見逃せない)から、90年代には、オブ・モントリオール(やオリヴィア・トレマー・コントロールなど)が登場した。そして00年代以降は...ディアハンター(やデンジャー・マウスなど)だっ!

 ...なんて言ってもいいほどの存在感を、彼らは獲得している(ちなみに、デンジャー・マウスの件については、この8月におこなったブロークン・ベルズのインタヴューも参照してほしいのだけれど、まだテープ起こしも終わっていない...。うー、もうしばらくお待ちください。すみません...:汗)。

 彼らのニュー・アルバム『ハルシオン・ダイジェスト』は、まさにタイトルどおり夢の世界をさまようかのごとき甘美な感覚も、ポップ・ミュージックとしての強度も、見事に増している。

 ご存知のとおり、ハルシオンとは、医者に処方されればこの日本でも合法的に入手可能な(たしか、今もそうだよね? ちがったら、ごめんなさい...)睡眠導入剤。ちなみに、ぼくは数年前からマイスリーという薬を処方されているのだが、その際に医者と話したところ、ハルシオンは最近は(日本の医者が処方する薬としては)あまり流行りではないとのことだった。その理由は...まあ、あえてふせておくが、とりあえず、ハルシオンは決して「非合法ドラッグ」ではない(もしくは、なかった)ということを強調しておこう。それを薦めているわけではない。ハルシオンの大量摂取の習慣から、そっちのほうに入っていってしまい、結局亡くなってしまったという人も、かつての知り合いにいる。

 だから? いや、ドラッグ=クールなどという、わけのわからないイメージを持つ人には「だっせー」と言われてしまいそうなギリギリの位置にある、こういう薬の名前をアルバム・タイトルにもってくるのが、なんか彼ららしくてかっこいい...というか、素敵に今っぽいな、と。

 オルタナティヴ=アウトロウ(outlaw:法の外にあるもの)=クールといった、これまたくだらないイメージを持っている人が、この新作をどうとらえるかどうかはわからない。しかし基本的には「オルタナティヴ=常にそこにあるけれど見すごされがちなもの」と考えているぼくのような者にとって、この『ハルシオン・ダイジェスト』は明らかに彼らの最高傑作だ。

 ギター、ベース、ドラムスという伝統的な楽器をメインにしつつ、わざと焦点をぼかしたような(ときおり「本題にはなりえない」印象的サウンドが響くことも「焦点をぼかしている」ことにつながる)リヴァーブがかったサウンドと、あらゆる人の琴線にふれつつ心を浸食していくようなメロディーの融合は、(「瞬間のひらめき」を大切にするタイプの)職人芸的な輝きを、ますます増している。

 既にウィキペディアに掲載された記事(早っ!:笑)で、中心人物ブラッドフォード・J・コックスは、アルバム・タイトルについて、こんなふうに語っている。

「このアルバムのタイトルが示唆しているのは、ぼくらの大好きな思い出がここにたくさんつまっている、ってことかな。『ねつ造された記憶』も含めて。たとえば、ぼくとリッキー・ウィルソンが友だちだったときのこととか...。ヴィクトリアン・オートハープ工場だった場所の廃墟に住んでいたときのこととか...。そんなふうに、ぼくら人間が自分たちの記憶を書き換えたり、エディットして記憶のダイジェスト・ヴァージョンを作るのと同じように、このアルバムの曲を書いた。それで、ちょっと悲しい感じも漂っている」

 このリッキー・ウィルソンとは誰なのか? まあカイザー・チーフスのシンガーじゃないだろうし、もしかするとバスケットボールの選手? それとも...、いや、まさか...と思いつつ(実は上記の発言自体は、ほかのウェブサイトの記事で見つけた。オリジナルはどこなんだ? とググって、ウィキにも行きついた)、同じウィキのページに載ってる発言を見たところ、その「まさか」だった!

「70年代や80年代に、レコード屋さんが『アート・ロック』的なもので盛りあがっていたころのことには、いつもつい魅了されちゃうんだよね。アセンズのワックストリー(Wuxtry)とか。ぼくも子どものころに、よく行っていた。あと同じくアセンズのワックスンファクツ(Wax 'n' Facts:ちなみに、ワックスというのは、アナログ盤のこと。それをヴァイナルと呼ぶのと同じような感覚)とか。ルー・リードやXTCのポスターの隣に、もう完全に色あせた(おそらく70年代末とかの?)B-52'sのライヴのフライヤーがはってあったりしてさ...。壁一面が、もう『アート・パンク』のスクラップブックみたいだった。ぼくは『おい、このクソみたいな目玉の着ぐるみをかぶったレジデンツって、誰なんだ? あまりにアホらしくて最高じゃないか!』みたいな感じだったよ」

 リッキー・ウィルソンとは、R.E.M.と同じころアセンズの「アート・パンク」(アメリカにおいて「ポスト・パンク」という言葉を使わないのは当然正しい)界隈から登場して彼らより早く全米でブレイクを果たしたバンド、B-52'sの、ほかでもない1985年に亡くなったオリジナル・メンバーのことなのだろう。

 泣ける話ではないか...。

 そういえば、R.E.M.というバンド名の意味は「どのようにとらえてもいい」と当時から彼らは強調していたものの、「夢を見るときの眼球の動き」であるRapid Eye Movementを示している、という解釈もあったなんてことを思い出す。

 日本では、ディアハンターはシューゲイザーというカテゴリで語られることが少なくない。それを無視するのもなんなので、一応付加しておこう。ぼくとしては、そのカテゴリに入れられる90年代のバンドでは、やはりクリエイション・レコーズから出ていたものがとくに好きだ。そして初期クリエイション・レコーズの作品群は(主宰者アラン・マッギーのそれも含み)、80年代なかば当時、アメリカで「ペイズリー・アンダーグラウンド」と称されていたバンドたち...ドリーム・シンジケートやレイン・パレード、グリーン・オン・レッドやヴァイオレント・ファムズ、そして初期R.E.M.らの音楽に、かなり通じるものだった(アランは当時レイン・パレードをイギリスで出したがっていたという話も聞いた)。

 本作には、そういった80年代なかばのサイケデリックな音楽が、今まったく新しい意匠をまとって蘇ったようだと感じられる部分もある。

 シューゲイザーもポスト・パンクも、アート・ロックもアート・パンクも、レッテル系の「言葉」はすべて飛びこえて、このアルバムからは、こういった素晴らしい「音楽のつながり」さえぼんやりと見えてくる。

(伊藤英嗣)

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manic_street_preachers.jpg 常に時代の真逆へと舵を切っているマニックス。今作『Postcards From A Young Man』でも、時代に逆らうようなアルバムを作ってきた。良い意味で売れ線なのだ。そして、かなり王道的な音になっていると言われたりしていたけど、前作の『Journal For Plague Lovers』の余韻を引きずったような曲もあるし、「まんま『A Design For Life』やん!」な「Postcards From A Young Man」のような曲もある。

 僕自身『The Holy Bible』がマニックスのディスコグラフィーのなかで一番好きだし、どうしてもそのときの「ポストパンク・リバイバルを先取っていた音」のイメージが拭い去れない。そして、リッチーの創造力溢れる歌詞。良くも悪くも、マニックスにはリッチーという存在が付きまとっていた。もしかしたら、今作に収録されている「Auto-Intoxication」での「俺ってラッキーなんだよな/生き残ったんだよな」という一節なんかは、「『The Holy Bible』期のマニックスとリッチー失踪について?」と世間では思われるかも知れない。でも、『Postcards From A Young Man』にリッチーは付きまとっていない。正確には、マニックスの中にリッチーは生きているけど、リッチーを引きずっていないという感じ。今作に対する引き合いとして、『Everything Must Go』や『This My Truth Tell Me Yours』といった彼らが過去に発表したアルバムが挙がるけど、『Everything Must Go』の「とりあえずの応急処置」や、『This My Truth Tell Me Yours』の「手探りで彷徨う姿」というのはここには見られない。むしろ、絶対的な確信に満ちている。それは前作『Journal For Plague Lovers』で、歌詞という形ながらも、リッチーと向き合った影響があるのかもしれない。

『Postcards From A Young Man』でのマニックスは、多くのマスや観衆を求めている。それでも、インターポールの最新作みたいな安っぽさを感じないのは、マニックスの行動が常に批評精神に基づいているからだと思う。今の時代というのは、アンダーグラウンドに留まりつつ(若しくは、その精神を保守的なまでに守りつつ)、少しずつ支持を得ていきながら活動するというのが主流になっている(まあ、そうせざるえないという一面もあるけど)。もしかしたらマニックスは、旧態的な音楽ビジネスの良い面である「音楽のカオスと躍動」が好きなのかも? だから、クイーンだったり、久保憲司さんの言うところのカーティス・メイフィールド、つまり、ハード・ロックだったり、アーバン・ソウルだったりするのだろうか? そうだとしたら、僕からすると、単なる「おっさんの戯言」に聞こえてしまうけどね。でも、マニックスの凄いところは、その戯言でさえ批評として成立してしまうところ。だから僕は、マニックスが大好きなんですね。

 僕としては、このアルバムが現在の音楽シーンの幻想を取り払ってくれることを期待している。つまり、「音楽ビジネスそのもの」を否定して、ある種のナルシズムに陥り、「否定」が自己目的化してしまう罠。現在の音楽シーンって、そんな罠にはまって退屈な音を鳴らしている輩が多いと思うので。DIYな活動で注目集めているアーティストやバンドだって、やっていることは、従来の音楽ビジネスの人達がやっていたことと、ほとんど変わらないですからね。ただ、その使い方を自分なりにアレンジしているだけ。要は、「どう使うか?」ということです。
 
 マニックスは、音楽ビジネスの仕組みを上手く使いこなせるから、どんな方向性に行っても支持され、注目されるんだと思う。そして、自分の主張や表現を曲げずに実行する。これは相当なタフネスと知性がないとできないことだし、それを20年近くも第一線でやり続けているのには、マジで尊敬です。解散してしまったオアシスとの差は、そこだと思う。そして『Postcards From A Young Man』は、そんなマニックスのひとつの集大成であり、新たな始まりだと僕は思う。

(近藤真弥)

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maroon5.jpg 航空機の機内放送御用達の音楽というものがあり、個人的にオーセンティックなロック/ポップスのプログラムで組み込まれているアーティストやバンドを確認するのが趣味になっている。例えば、コールドプレイやレディオヘッド、U2なんて大御所は必ずと言っていい程、入っているが、存外にザ・キラーズ、リンキン・パークやグリーンデイといった十二分に大きな「ロック・バンド」が含まれていない事が時折、ある。移動中に聴くには、それらはオブセッシヴだという事なのか、考える事がある中、正々堂々とした現代のロック・バンドとしてプログラムに組み込まれているバンドにマルーン5が居て、彼等の佇まいの愛され方は「異様」とさえ思う。

 華華しいファーストの『Songs About Jane』は、誰の耳で聴いても「良い」と思えるポップとロックの折衷点を見出した曲の粒の揃い方で、また、スティーヴィー・ワンダーやプリンスなどの「黒さ」を程好く取り入れた軽やかさと全体を通底する伸びやかな世界観で、大文字のロック・ファンからミーハーな層まで魅了した。

 今現在、「高度な」大人ほど幼児化しているのは知っているだろうか。ある玩具メーカーのオフィスは「大きい遊び場」になっていて、皆も周知のGoogleの社内はプログラマーに一つずつ部屋はあるが、PC以外あとは全部、ジオラマになっている。もう亡くなりしマイケル・ジャクソンが夢想した「ネバーランド」を求める大人は、フレキシビリティの中で「サステナビリティ」を回避する。それはつまり、或る意味で今は共通言語が無くなってしまった時代でもあるから、と言い換えられる。野球も見ず、政治もよく知らないけど、漫画の話で延々2時間、昔話で延々2時間、語ることが出来たりする。それをして、「トライヴ」や「クラスタ」など自嘲/自尊ベースで名称付けるが、結局、「過去」だけは誰も侵食されないから、80年代のMTV隆盛時代のようなバウンシーでセクシーだけど、表層的で薄いサウンド・スタイルがリバイバルして、10年代に援用されているのは実はとても切実な現代への「対抗という名の退行」だと思っている。「共通」言語じゃなく「共犯」言語になってしまっている訳だから。

「共犯言語に堕す」と何が悪いか、と言うと「ソト」が分からなくなる。「ウチ」で完結してしまい、その架橋がメディアやコミュニケーション・ベースが或る程度、あったのだが、それも有効的ではなくなったから、今、「同じ言葉」を話していても「位相」は違う。

 先行シングルの「Misery」で「僕は永遠に送ることのない手紙を200通も書いたよ」とか「君を取り戻せない自分は惨め(misery)だ」と臆面なく歌うアダムの「身も蓋も無さ」は正面から向き合うと、相当に痛々しいし、時代錯誤的だ。クリス・マーティンがまだ「エルサレムの鐘が聞こえる」というのはメタ的に認知出来る。何せ、彼は「フェア・トレード(FAIR TRADE)」と手に書いてポーズを決める人なのだから。引き換え、マルーン5というバンドはどちらかというと、そこまでセクシーな対象枠には入りにくい。確かに、前作のアルバムからのリード・トラック「Makes Me Wonder」におけるスティーリー・ダン、ダリル・ホール・アンド・ジョン・オーツ的なシティー・ミュージックを現代的にベタ解釈して、PVでは近未来的なシチュエーション(ストロークスの「12:51」的な世界観と言おうか)で彼等は精一杯、男前を気取った様は目を奪われるものがあった。その「気取り方」がクールなのかアンクールだったのか、セールスが示した通り、アダム・レヴィーンはセクシーなアイドルとなり、バンド自体も全世界で受容されるだけの知名度と信頼度を得た。だが、どうにも彼等がよりクールに巨大な存在になっていく毎に、僕自身は「マルーン5は何に向けて音楽を鳴らそうとしているのか」、懐疑を持つようになった。

 そんな個人的な懐疑を別に、3年振りの今回の『Hands All Over』はなかなかの力作になった。その理由として、沈黙や不在に基づいた独自の文学観を提示したモーリス・ブランショがしばしば、「消失」の運動を志向する文学は実は、思考が消失を目指す非人称的な運動に従うだけでなく、逆に、この非人称性を起点として「孤独・友愛・共同性」という多層的な人称世界を豊かに産出するものでもあることを明らかにしているとすれば、匿名的な「マルーン5というバンド」のYOU&Iだらけの過剰さも、「具体的に」恋愛関係や現実の政治的コンテクストと関係づけることで、彼等を具体的な現実の中に配置して、生き生きとさせているのかもしれないとも思えるからだ。

 ディスコを援用して、リズムのバネのタフさが映える「Misery」、流麗な彼等の18番的な美しくポップなアレンジで詰められた「Never Gonna Leave This Bed」、アダムの歌唱が朗朗と響く「How」、ブルーアイド・ソウル的な「Just A Feeling」、レディ・アンテベラム(Lady Antebellum)と組んだカントリー調の「Out Of Goodbyes」など佳曲群がズラッと並んでおり、一気に聴くと食傷してしまう位の過剰さがある。その「過剰さ」を支えたのがプロデューサーのAC/DC、デフ・レパード、カーズ、シャナイア・トゥエインなどを手掛けたロバート・ジョン・マット・ラングだとすると、当意即妙とも言えるかもしれない。70年代末から80年代の「本流」のロックを支えた大御所。彼とマルーン5のタッグは、ケミストリーを起こさない代わりに、十二分にバラエティに富んだ「メインストリーム」を捻じ曲げるサウンドを生み出した。「スマートで、味気ない」という声をボリュームと過剰さで捻じ伏せるような力技もある。

 日本の寂れたサバービアのショップでも、世界のカルフール、ウォルマートやターゲットでもこれは置かれるアルバムであるし、配信形態としても爆発的に拡がるだろうし、それを手に取り、聴く人はバラバラだろう。でも、それは「共犯言語」のそれではなく、「共通言語」に限りなく近いファンタジーとしたら、マルーン5というバンドは侮れないのかもしれない。

          *          *          * 

 最後に、ロールズの「正義論」に関して触れよう。

「正義論」は、今更語るまでもないものの、功利主義に代わる代案としての「正義」の強度を民主主義の背景に置いて、「相互利益を希求する冒険的な企図」が社会の諸制度が機能した上で分配して、尚且つ「原初状態」における人たちの判断を二つに区分した。

 その二つとは、①各人は基本的な自由に対しての平等な原理を持つべきであって、そのベーシックな自由は各人と同様な「自由」と両立する限り、最大限、自由でないといけない、ということ。②社会的・経済的不平等は、もっとも不遇な人の立場における利益を最大限、尊重しないといけない、また、公正な機会の均等を割り振った条件下での、各位の職位や地位に付随するものでないといけない、というものを満たさないということ。

 これは実はとても、「感覚」論だ。よく考えると、人間の正義原則、本能欲求とは、もっと「無為なものへ働くこともままある」訳で、自由そのものの定義性どうこうよりも現代最新の経済学では「サービスをしないことこそが、サービスであり、奉仕でもある」という理論もある。そこで、マルーン5が描くものとは、決して大文字の他者ではないイロニカルな構造が浮かび上がる。

 ロールズ的正義下では、「原初状態ではみんな、最悪の状態を回避して、合理的な判断を下すだろう」とされるが、この「原初状態」というのは「無知のヴェールに覆われた人たち、つまりは周囲との相対性、優劣意識がない状態」を指す。つまり、先進的な「現実」では援用は出来ても、「適用は出来ない」。何故なら、お金が無くても、皆、「必須なもの」じゃなくても、「気になる」ものにはお金惜しまない。それが全く、効率的じゃなくても。

 今回の『Hands All Over』は「効率的ではない」。故に、より多くの人に求められるだろう。

(松浦達)

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no_age.jpg デビューアルバムが辛口メディアのピッチフォークにおいて10点満点中9.2点をたたきだした二人組には、様々な観点からの掘り下げる材料が用意されているようだ。前述したピッチフォークをはじめとした各国メディアの賞賛や、彼らが運営するザ・スメルから形成されるコミュニティであるとか、ヴィジュアル、パフォーマンスを総括するアート的な部分であるとか、ノイズ・ポップ・デュオでありシューゲイズでありながらもローファイであり、チルウェイブである。と、まあ、彼らを評する時には書ききれない程の要素が混在していて、なんだか複雑な数式を解いている気分になってきてしまった。無理矢理こじつければ、様々な人種が混在するアメリカの縮図と言ったところか。いずれにしても、そのひとつ、どれを掘り下げてみてもしっかりと我々の欲求を満たしてくれるであろうし、きっと彼らは確信犯的にそれらをごちゃまぜにしているのかもしれない。
 
 デビューアルバムよりひとつEPをはさんで、今回の作品へとつながった彼らの変化とは音を重ねコラージュしていく事で深みを増したポップネスを獲得した事であり、特にファーストアルバムと比べて聴きやすい作品になっている事は間違いない。ペイヴメントのようなローファイっぽさは薄れてきた印象で、それよりも前半では80年代のパンク/ハードコアを今に蘇らせ、さらに時代の空気さえ再現してしまいそうな音の雰囲気である。音を重ねたと言っても全編を通して基軸となるのはやはり歪んだギターの音とこもりがちのドラム音が産み出すサウンドスケープであり、そこからラジカセに入れたカセットテープから流れてくるような音を聴き取る事ができる。総じて、僕はチューインガムを噛みながらキャップを被りスケートボードを走らせるキッズの情景を僕は思い起こすわけだが、この作品を聴くとぼんやりと描く80年代のアメリカがそこにある。しかし、ただの回顧に留まらず、彼らの作り出す音は、歪ませたギターの音から、次の展開で出される音のヴォリュームのつまみにしろ、些細な部分で音の陰陽を作り出し、一聴するとざらついてる聴こえるようだが、実に心地よく、時に美しい。後半につれ、その様相は色濃く表現されて、2曲続けて鳴らされるインストゥルメンタルに、この作品のハイライトさえ感じてしまうほどだ。そこに僕はオレンジ色のノスタルジーを思い描き、スケートボードを持ったキッズの背中には昼と夜の狭間に姿を現すオレンジ色の夕日が見えてくるのである。
 
 でも、それはなんだか物憂げ。記憶の片隅に残る古き良き時代をぼんやりと思い描くだなんて、捉えようによっては随分と後ろ向きではないか。こういった音でアメリカを感じてしまうという事はある種の警告なのかもしれない。例えば、アマゾンでこの作品をクリックすれば円高ドル安、グッとリーズナブルな料金で買えるし、関連商品で、例えばディアハンターへと容易に辿り付けてしまうように、この手の音が少なからずシーンを作り出している事は確かである。しかし、そこからはかつてのマッチョで筋肉質な強いアメリカを見ることはできない。もちろん、テンガロンハットも自由の女神もアメリカンフットボールも、その他力強さの象徴諸々も。ただ、こういった音が現在のアメリカにとって、最もリアルな気もするし、物憂げだと見誤る危険だってあるのかもしれない。

 あくまでもDIYの精神にのっとり、彼らはクレヴァーに時代をかえようとしているのかもしれない。そう、僕は夕日を思い描いた情景が、実は夜と朝の狭間に姿を現す朝焼けなのかもしれない、という事だ。

(佐藤奨作)

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summer_camp.jpg「Dear, Dear, Dear... I, I. I... You, You,You...」、というオープニングのフレーズを聴いた瞬間、僕はこのバンドに夢中になった。ロンドンの、サマー・キャンプのデビュー・シングル「Ghost Train」だ。ドリーミーなプロダクション、キッチュな電子音、明快なメロディ、そして何よりこみ上げてくるノスタルジア。ウォッシュト・アウトを思わせるグロー・ファイ/チルウェイヴと、ペインズ・オブ・ビーイング・ピュア・アット・ハートのようなトゥイー・ポップのセンス、更にはヴィヴィアン・ガールズやダム・ダム・ガールズなどから感じられるDIY精神など、現代のUSインディの流れを汲んだサウンドながら、受ける印象は決して、「今」じゃない。まるでタイムスリップしたような感じを受けた。実際、PVもそのイメージ通りで、海辺で繰り広げられるピュアなラヴ・ストーリーともやがかかったような映像はクラシック映画そのものだった。ネットにアップされた彼らの情報は瞬く間に広がり、UKのみならずUSにおいても大きな注目を集めることとなった。

 そのサマー・キャンプによる初のEPがこの「Young」だ。結論から言ってしまえば、「Ghost Train」での期待を全く裏切らない、素晴らしい内容の6曲(日本盤はボーナス・トラック2曲収録)だった。スウィートなコーラスとダンサブルなビートいんシングルとなった「Round The Moon」(この曲のPVもロマンチックな映画風)でEPは幕を開け、スロウなテンポの「Veronica Sawyer」、「パッパパパ・・・」というコーラスが耳につく「Why Don't You Stay」などの曲が並ぶが、どれもノスタルジアに満ちた素晴らしい内容。まるで、過ぎてしまった夏を惜しむかのように、思い出がフラッシュバックさせる1枚だ。

 ジェレミー・ワームスレーとエリザベス・サンキー。この2人がサマー・キャンプのメンバーだ。ジェレミーは、ミステリー・ジェッツやエミー・ザ・グレイトなどと親交があり、既に2枚のアルバムをリリースしているSSW。一方のエリザベスは『Platform Magazine』をいう雑誌でガーリィな記事を書くライター。インディの流れを肌で感じ、またカルチャーを知る2人だからこそ、の楽曲なのだろう。彼らの出自を知ったときにはなるほど、と感じた。

 すでに、ザ・ドラムスやスロウ・クラブのオープニング・アクトとしてステージを重ねている彼ら、次はアルバムをよろしくお願いします。

(角田仁志)

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dorian.jpg 僕は音楽が現実逃避になるとは思っていない。音楽は音楽という現実で、日常は日常という現実で、意識が働いている以上、どちらも現実という一本の糸で結ばれている。音楽が豊かならば日常も豊かになり、逆もまたそうだ。そんなことを考えているからなのか、仮にドリアンの音楽が現実逃避的だと捉えられたら僕は反論してしまうかもしれない。本作はひとつの現実であり、この音と共鳴する感覚は僕ひとりに内在するものではなく、誰もが持っている様々な種の感動を、そして思い出をあぶり出すものとしてあるのだと。東京を拠点に活動し、七尾旅人×やけのはらの「Rollin' Rollin'」のアレンジ、リミックスを手がけたドリアン。僕は彼が出演したイベントに足を運んだことはないが、やけのはら七尾旅人の新譜にゲスト参加した彼のデビュー・アルバム『Melodies Memories』を聴いてそんなことを思うのだった。

 人との出会い、生活習慣、聴いてきた音楽、それら全ての「思い出」によってメロディーは生まれる。新たなメロディーを吸い込んだ「新たな思い出」は、また別の新しいメロディーを生み出していく。それは永遠に終わることのない音楽という現実の創造の連続だ。そしてそれは今も絶えることなく続いていて、僕らの手と手を繋ぎ合わせる。だから決して音楽は終わらない。ドリアンは、テクノなのかハウスなのか、ということ以前に、『Melodies Memories』という、これまで同じ場を共有した人々の時間と記憶というものをカタチにした。そして本作からまた、新たな思い出が生まれ、新たなメロディーが生まれ、広がっていく。なんだか本作のタイトルが印象的だ。

 贅沢なカクテルのように色彩豊かで、夏の終りを思わせる切なさと甘美さに溢れるメロディーが気持ちに残るノスタルジーな音楽性。それは過剰にアッパーではなく、80年代風のディスコ・サウンドを思わせる楽曲が並ぶ。無邪気にポップで愛らしい。先端的、前衛的とは無縁で、それが良くもあり、どんなジャンル愛好家であろうと年代であろうと受け入れられるはず。冒頭曲からして程よいグルーヴ感のあるファンクの要素とジャジーなサウンドが交じっていて、フュージョンという言葉が頭をよぎる。高い音楽性を感じさせるが、やはり、あくまでもポップなのだ。

 ポップス感覚でも聴ける本作は、やけのはらや七尾旅人、LUVRAW&BTBといった気心知れたアーティストや、土岐麻子に楽曲提供したことでも知られるシンガー・ソングライター兼DJのG.RINAをゲストに迎えた。G.RINAをフィーチャーした楽曲は夏の終りと恋の終りの切なさを歌っている。しかしドリアンのトロピカルなサウンドが切なさを甘美なストーリーとして紡ぎ出す。失恋ソングが内に篭ることを避けるように。そんな閉じたところを消してしまうサウンドとアレンジがドリアンの魅力であり個性だ。曲順も練られており、後半に進むにつれ高揚の度合いが増していく。特にスペーシーで歌とラップが交互に飛び出てくる「Shooting Star」の幸福感が素晴らしい。ヴィブラホンの音色がさらに楽曲に美しさを与えていて、なおかつ余白を使うのがとても巧い。空間の上をストリングスが気持ち良さそうに泳いでいく。その中で「この一瞬の煌めきを永遠に信じよう」と、恥ずかしげもなくやけのはらは言う。音は鳴らされた次の瞬間消えてしまう。しかし音楽から受け取った煌きの思い出は永遠にこころに残る。ほんとうに「音」そのものを信じているのが伝わってきて笑顔になってしまうのだった。聴き手が音楽を信じるためには、音を鳴らす側が音楽を信じていなければならない、という大前提がしっかりとある。だからこの音楽の前では誰もが音を信じる姿として無防備になってしまう。

 日々の喧騒に追われる中で音楽を聴く楽しみをどこかに置き忘れてしまった人がいたとしたら、この作品を聴いてほしいと僕は思った。きっと甘い開放感が溢れ出てくるはずだから。そしてそれは『Melodies Memories』と絶対に共鳴する。文字のない文化はあっても、音楽のない文化はない。聴き手であっても演奏者であっても、きっと僕らはギター一本だけで、ビートだけで雄弁に語り合える。音楽はフィクションではないんだ。


(田中喬史)

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kreva.jpg 人間に実は、「MUST」は無い。ただ、「MAYBE」の連鎖がかろうじての生を紡ぐだけなのだ。初期のオアシスだって何故、あれだけ「MAYBE」に拘ったのか、最初から「LIVE FOREVER」とステイトメントすることで、「MUST」の底辺に縛られたワーキングクラスの現実をブレイクスルーとしようとした試みがあり、ロック・スターかサッカー選手になる以外に確約されてしまう、パプで管を巻くか、喧嘩でウィークエンドを何度も繰り返す事へのかろうじての、抵抗でもあり、ささやかな大声でもあったからだとも言える。
 
"このままこうしていられるなら 他には何もいらない
そんな風に思えてしまったなら
終わりが近いのかも"(「かも」)
 
 そういう意味で「言い切ること」への覚悟を定めていたKREVAは今になって、「喪失」と「閉塞」に向き合い、まるでソロ一作目の「希望の炎」時のように捩れながら、還る。インタビューで言っていたが、ここには前作の『心臓』のような甘やかなラブソングは意図的に排され、敢えて言うならば高度情報化社会への疑義呈示が前面に押し出されている。

 09年のSEEDA&OKI(GEEK)のTERIYAKI BOYZへの「ディス」が然程の発展と波及を見せずに結果的に、収束したのは日本という土地柄もあったのか、「ディス」(Disrespect)という作法が巷間的に認証ベースで許容されてはいないのか、想う所はあった。

 想えば、近年、海外でメジャーな所でのJAY-ZとNASの「ビーフ」は大きい余波を残した。しかし、それはヒップホップ・マナーに依拠していた丁寧なルール内でのものだったので、ヒップホップ界「外」の人たちにも興味深く映ったことは間違いないだろう。「ディス」の文脈で言えば、KREVAは過去、般若など多くから受けている。
 
 そんな状況下で、日本におけるアンダーグラウンド・レベルではなく、「正統」なヒップホップを定義するのは難しいと思う。昔、ジブラやラッパ我リヤと組んだドラゴン・アッシュはステージで自分たちの音楽形式を「ミクスチャー・ロック」と名乗るようになったし、シンゴ02やザ・ブルーハーブの許容した基盤ファン層にはアンダーグラウンド・ヒップホップ・マナーを弁えての意識の諸氏も多かったが、もう少し文学的でサブカル的な磁場が囲い込んでいた部分も大きかったのも周知だろう。そういう意味では、小室哲哉プロデュースからの大胆な舵取りを行ない、一気にマッシヴな方向へ振り切った安室奈美恵の「Girl Talk」から『Queen Of Hip-Pop』という流れは大事であり、その「Hip-Pop」という名詞部分の外延の持つ内包性(intensionality)は深かった、と言える。特に、このアルバムにおける「Want Me,Want Me」のパンジャビMC調のバングラ・ビートと歌謡性がミックスされた様は鮮やかでセクシーだった。

 ヒップ「ホップ」か、ヒップ「ポップ」か。日本では検討可能性の余地がある。

 一時期はケツメイシやリップ・スライムと並んで、メジャーシーンへのヒップホップを訴えかけたキック・ザ・カン・クルーの「意味」は大きかっただけに、02年の「マルシェ」のブレイク以降の作品の連続リリースの中で、バルト的に、楽しみながら彼等のトラックやライムを受け取るのが、可能ではない部分が出てきたのは残念だった。「非・快楽的なテクスト≒拡大される作家の苦吟」と商業的なバランスの不和。だからこそ、03年のシングルで「脳内」のバケーションをリプレゼントして、リスナー側の期待をハントするような経緯になった。ワーカホリックたる自分たちへの自重もあったのかもしれない。彼等は、ヒップホップが時に持つ多くのマッチョイズム、私的エクリチュールの押し出しに対して、あくまで茶目っ気と抒情、分かり易さをベースにした「強み」があった。但し、短い期間の間にあまりに沢山のリリース・スタイルを取った所為か、04年の活動休止は必然的だったとも言えた。欲望の弁証法の可能性と悦楽の予見不能の可能性の引き合いのゲームの綱引き結果は、ゲームが行われなくても「遊び」はある筈だったが、その「遊び」自体が煮詰められたと感じたから、キック・ザ・カン・クルーの活動休止後、そのMCの一人、KREVAはソロ名義として実質的な一作目の「希望の炎」で「俺は最低の人間」と表明して、自分の声さえも加工しないといけなかったのだろう。

 KREVAの巷間的に決定打となったのは06年の『愛・自分博』というアルバムでは、キック・ザ・カン・クルー時代にあった抒情性に更に独自のメロウネスを加えながら、「俺」節を入れ、全体はアッパーに貫き通し、Jもののヒップホップ作品としては異例のセールスをマークしたのは彼に詳しくなくても、知っているかもしれない。その際の武道館のライヴでも、彼は完璧にスター性と万能感を提示した。しかし、「スタート」というシングル曲が持つ別離をモティーフにした感性的な繊細性と頼りなさが実は正しかったのは、その後、『よろしくお願いします』、『心臓』のアルバムのパトスを受け取れば判るだろうし、布袋寅泰、スピッツの草野マサムネ、久保田利伸等とのコラボレーションでの鮮やかさでも伺える。決定的だったのはRupert Holmesの「Speechless」をサンプリングした「瞬間speechless」だろう。「パーティーとは、始めから終わりに向かうこと」、「パーティーは一瞬という永遠を約束すること」のニ軸をアウフヘーベンして、喧騒内での沈黙を表象して、君に魅かれても成就はしないだろう(MAYBE)という儚さに向き合った佳曲だった。

 会うは別れの始まりなり。会者定離。

 色んな言葉があるが、要は、万物は流転する。一刻も停まることない時間の刹那内で誰かとはしゃぐ永遠をピンで留めて、額縁で囲んで観ている内にもう終わる。終わるから、始めるのか。別れるなら、出会うべきではないのか。そんな煩悶は不毛だ。何故ならば、在ること自体が「在ることではない、何か」を示唆して「無」の対立事項ではないからだと言える。「無」に怯えるニヒリストは時に過重的に「無ではない何か」を求める。それは仕事か恋愛か芸術か生活か人それぞれだろう。しかし、留保されてリオタールする「無的な何か」は決して何も是認しない。

 KREVAの今回のミニ・アルバム『OASYS』はとても刹那い内容になった。

 加工されたボーカリゼーション、サンプリングした音を使っていない、エレクトロ要素が強まったトラック、全体的に内省性を帯びたリリック。もしかしたら、カニエ・ウエストの『808s & Heartbreak』の影も見える人も居るかもしれない。ヤング・パンチのカバー「エレクトロ・アース・トラックス」もスタイリッシュに再構築して、全体を通してコラージュ的にサウンドの実験が挑まれ、総てが「終わり」へ向かうことへの怖れを為さず、「気がついたら 随分生きにくい世の中になったもんだな」("最終回")と綴るなど、彼のライヴ・ツアータイトルを拝借すると、「意味深」な要素が格段に増えた。推測してみると、彼は今、おそらく、クロールしようとしているのかもしれない、言い切っていた時の自分と、最終回を決める自分の狭間を。

 「最終回」が美しく纏まるべきだとは僕は想わない。宙ぶらりんなまま、保留された痛みが昇華される為ならば、無限に「再放送」を繰り返せばいい。いつだって、最終回を見逃す為に人間は「在る」なら満更、悪くない。今のKREVAは漸く「最終回」を夢想するようになったというのは、好ましい意識変化だと思う。

(松浦達)

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yamon_yamon.jpg スウェーデンはストックホルム出身の4人組のデビュー作。資料にもあるとおり、シー・アンド・ケークを思わせる透明感のあるギター・サウンドを中心とした、慎ましさを伴うポップ・ソング集。約1年かけて制作されたというだけあって、練られた楽曲と端正なアレンジはデビュー作とは思えない質の高さを誇っている。一方で、老成や熟成を重ねた後ではなかなか得ることの難しい(アルバム冒頭の「Alonso」や「African Nights」などでの)「瑞々しさ」、そして(「The Darker Place」、「Fast Walker」などで時折り顔を覗かせる)「スリル」といった感覚が全体に薄く漲っているのはやはりその若さ故だろうか。

 フラットで平熱なのに、目に見えない興奮や感動がその中に密かに含まれているのを、ふとしたきっかけでじんわりと実感してしまう...季節の変わり目なんかによく体験する「あの感じ」に近い音だ。「残響」というレーベル・カラーや日本の気候にも不思議とフィットしている。

(佐藤一道)

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el_guincho.jpg パオロ・ディアス・レイシャ――スペインはバルセロナのサイケデリック・ロック・バンド、ココノットのメンバーであり、そして何より、ソロ名義=エル・グインチョとして活躍している人物だ。2008年にリリースされたソロとしてのセカンド『Alegranza!』では、テープ・ループを多用した、トロピカルかつファンキーなビートは、パンダ・ベアの名作『Person Pitch』に匹敵する内容だった。

 そんな彼の新作がこの『Pop Negro』だ。全体的には前作より楽曲のテンポを落としているものの、今作でも、彼のトロピカルなビートの追求は続いている。スティール・パンやアフロ・ビートにサンバ、それにカーニヴァルなど、南半球の国々の陽気なダンス・ミュージックのセンスをあらん限り詰め込んだ極彩色のビートは、胸を高鳴らせ、制約のないステップに僕らを駆り立てる。

 ハンドクラップやスティール・パンなどで作り上げるサニーな輝きでアルバムは幕を開け、タイトル通りソカを取り入れた「Soca Del Eclipse」、サックスを加えた「Muerto Midi」など、ビートやサウンドは色とりどりでバラエティに富んでいる。

 非西欧のグルーヴを貪欲に取り入れ、カラフルさをぐっと増した今作。ぜひ、DJ機材を扱いつつ、片手でパーカッションを打ち鳴らす器用な彼のステージが日本でも早く見れることを願うばかりだ。

(角田仁志)

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im_here.jpg 皆さん、スパイク・ジョーンズの新作短編映画『I'M HERE』を見ましたか? 数ヶ月前からWEBで公開されてるから「今頃かよ!」との声が聞こえそうで怖い。『I'M HERE』は、サンダンス映画祭やベルリン映画祭でも上映されたアブソルート・ウォッカとのコラボレーション作品。制作にあたっては、スパイク・ジョーンズに完全に自由が与えられたとのこと。だから「お金を出すから、口も出す」ということはなかったみたい。ログインするときに誕生日の入力が必要。それだけが、お酒会社のスポンサーらしいところ。

 近未来のLAを舞台に描かれるロボット同士のラブストーリー。字幕はないけれど、台詞は少なめ。大丈夫。情景描写やロボットたちの表情(!)、そして素晴らしい音楽からニュアンスはしっかり伝わるはず。むしろ、台詞がわからないところは想像で補うという楽しみ方が、この作品にはピッタリかもしれない。アメリカ人社会に生きるロボットを見る僕たち日本人という構図が図らずも、コミュニケーション(通じ合うこと)を意識させてくれるから。

 僕は「かいじゅうたちのいるところ」は凡庸だと思った。よく知られている原作があるから、仕方がないのかな。音楽は良かったけれど、想像を超える発見はなかった。同じ日に、さほど期待せずにレイトショーで見た「ラブリー・ボーン」のほうが印象深い。もともとBMX好きのガキだったスパイク・ジョーンズには、「怪獣もの」よりも「日常」を舞台にした作品が合っていると思う。日常に溶け込んでいる「認識の歪み/差異」がどう見えるか? ということが可笑しくて切ない。登場人物たちがピュアで、居心地が悪そうであればあるほど、滑稽で泣ける。「I'M HERE」にはそんなエッセンスが、30分間にギュッとつまっている。

 地味なセーターを着込むナードな草食系ロボ男子と天真爛漫なロボ女子の恋。壮大なCGやSFXとも違う、チープな合成とも違う独特のファンタジー映像がやっぱり最高。柔らかい秋の日差しと室内の灯りを活かしたライティングが、ロボットたちの繊細な表情を引き立てる。特に眼差しが優しい。そして、相変わらす選曲のセンスも冴えまくっている。ヤー・ヤー・ヤーズのニック・ジナーによる新プロジェクトのTHE LOST TREES、ガールズ、スレイ・ベルズ、オブ・モントリオールなどの曲がフィルムの質感に彩りを添える。

 人間は楽しむことを求めながら、当たり前として身勝手な生き物だ。そして、ロボットたちの行動は、どこか控えめで主体性がないように思える。その大きな違いは肉体と機械ということ。その違いは当然、心の在り方にも影響する。だからこそ、人間にとっては楽しいホームパーティやライブがロボットには悲劇の舞台になる。

 「何としてでも生きる」のが、人間というか生き物の本能。この作品で描かれている主人公のロボ男子には、その対比として「(他者を)生かす」という心がある。人間たちが造り出したロボットに、人間たちが忘れかけていた気持ちがインプットされていた(または、ロボット自身がそう感じた)という皮肉。僕自身、生まれてこの方ほとんど使ったことのない「献身的」「自己犠牲」という言葉の意味に気付かされた。そして、セックスもする生身の人間として「それでいいのかよ!」と思わず叫びそうになったラストシーンは、主人公に自己投影しがちな僕たちの生半可な視点を軽く拒絶する。「I'M HERE」とは、最期まで主人公のロボット男子の言葉であって、僕たちの言葉ではない。見る人にとって「I'M HERE」と言える場所/在り方を優しく問いかける傑作だと思う。秋の夜長に好きな人と、またはひとりぼっちでどうぞ!

(犬飼一郎)

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faifai.jpg 批評家・佐々木敦氏が代表を務める「HEADZ」の演劇/パフォーミング・アート作品をリリースする新レーベル「play」の第一弾リリース作品の快快(faifai)『Y時のはなし』のDVDについて。

 まずは彼ら快快(faifai)について。2004年結成(2008年4月1日に小指値(koyubichi)から快快に改名)、メンバー10+サポートメンバーによる東京のカンパニー。ステージやダンス、イベントに楽しく新しい場所を発信し続けるパフォーマンスカンパニーであり、日本という枠をとっくに飛び越えて海外でもそのパフォーマンスを展開している。

 作風としてはまずは多幸感、そして祝祭性がある。極めて今の時代のポップさがあり身体性があり、ゼロ年代に対するカウンターあるいはアンチテーゼとして機能するカラフルでハッピーなポップさが咲き乱れている。 そんな彼らについたあだ名は「Trash & Freshな日本の表現者」「現代の蜃気楼、ファイファイ」というもの。今月の9月4日にはスイスのチューリッヒ・シアター・スペクタルにて『my name is I LOVE YOU』がWinners of the ZKB Patronage Prize 2010を受賞する快挙を成し遂げている。

 僕が初めて舞台で観たのがその『my name is I LOVE YOU』だったのだが、感想としてはかわいいとかっこいいが混ざり合っている、そして身体を使い、舞台をめいいっぱい使いダンスなどで身体性が発揮されている。観る側の視覚で捉える身体性が示す物語、台詞は英語なんだが、まるで英語がサウンドトラックのように聞こえた。

 舞台をまるで観ないというわけではなく、大人計画などの小劇場出身の舞台を観に行ったりすることはある僕だけども、彼らの動きや物語に孕まれている多幸感というハッピーさは初めて味わう感じだった。そして毎日という平凡な日常の中にある祝祭性を感じれた。それらの感覚<多幸感/祝祭性>はネガティブなものが支配したゼロ年代を吹き飛ばしてしまう素晴らしさがあった。くよくよしても変わらない世の中に対してわたしたちはいくらでも楽しむ事ができるのだという明確な意思表示、カラフルに彩られている世界への気づきが彼らのパフォーマンスにはあり、観ている者をそちら側に振り向かせてくれる。

 DVD化された今作『Y時のはなし』は二年前の日本初演時にも大反響を巻き起こした『R時のはなし』をタイトルも新たに、さらにアイデアを盛り込み長編としてリマスターしたもの。夏休みの学童保育を舞台に、子どもと大人、人形と人間、夢と現実が、子どもの頃に一度は夢見たスペクタクルと夏の終わりの悲しみが鮮やかに交差する物語。本編にもカエルだったり宇宙人だったり三人一組を一人で演じたりと怪演している天野史郎によりアニメーションが重ねられているので実際に舞台を観た時とまた違った『Y時のはなし』に仕上がっている。

 この作品は役者が人形を持って演技をする、つまりはある種の人形劇でもある。人形を持っている役者ももちろんそのまま映し出され演じている。時折人形ではなく彼ら自身が人形の代わりにもなる。人形というデフォルメと人間という身体性が混ざり合っていく、人間の肉体では不可能な事を人形では行なえる。身体で表現できるダンスや躍動感が対比と言うよりはそれらがプラスされて世界を広げていく。小道具もその使い方はポップであり時にはバカバカしくて自然と笑みが溢れてしまう。楽しんでいるというのが画面を通してでも伝わってくる。

 舞台上で流されている映像も、実際の景色やファミコンのドット画像なんかが僕らの幼年期の原風景と重なっているような感じを受ける。それらのものが合わさってお互いの輪郭を薄くして全てものがそこにあるのが自然な雰囲気になってくる。でも、どことなくワンダーランドであって多幸感が溢れ出る。

 ある人が観れば子どもの遊びの様に感じられるかもしれない。真剣に「かめはめ波」を放つ人間を観た事が君はあるか? 大人になっても真剣に楽しんで遊ぶ事の正しさと幸福さ、そこに巻き込まれてしまう事の心地よさ。それは世間に世界に社会にある問題に背を向ける事ではない、きちんとこの世界でどれだけ「play」できるかという挑戦だ。何もしなくても世界が変わらないのならまずは僕たちがわたしたちが、まず出来る限り楽しんで世界の色彩を変えてしまえばいいのだと彼らの舞台を観ていつも思う。

 そして彼ら快快はA.T.フィールド(『新世紀エヴァンゲリオン』の監督・庵野秀明氏は「A.T.フィールドは心の壁のようなもの」と言っている) を張らずに多くものを受け入れるキャパシティがあり、観ているもののそれを取り払ってしまうし、軽々と越えて入ってきてしまう。だから彼らの多幸感や祝祭性が僕らの中に芽生えていく。

 このDVDを観たらきっと生で彼らのパフォーマンスが観たくなるだろう。舞台で観ればもっと違ったものが。

 真剣に「かめはめ波」を放つ大人に僕らもなればいい、ポップな散乱銃でカラフルな風景がこのテン年代(by 佐々木敦)に広がればいいと思う。快快は世界中を走り回って祝祭を与える。

(碇本学)

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luchino_visconti.jpg ジョルジョ・バタイユの「青空」の序文で、実験のために書かれる書物と、必然的に生まれる書物との差異について、書かれている。「文学」とは基本的に破壊的な力を持ち、「恐れとおののき」と共に対峙されるもので、生の真実とその過剰なまでの可能性を開示する力を帯びると記している。「文学」というのは一個の「連続」体ではなく、寧ろ幾つもの「断続」の「連なり」ということだ。僕自身は、その文脈上に敷かれた「激情の瞬間」をアカデミズムや余計なバイアスの外に置く事にしている。だから、その「外」に置かれた場所で、流浪的に「体内に取り込む言葉や表現」を選別することによって、初めて意味が発現すると思っている。

「約束」で形成された場所に行くためには、それに近づく望みを禁忌しないといけない。だから、総てを遠ざけることこそが、何かに近付くことでもある。人生が一回限りの何かでしか無く、何処まで飛べるのか、を競い合うものでしかないなら、自分の確信から「より遠く離れたとき」にこそ、実は「到着地点に近付く」。「未来という過去」に身を投じようとする人たちに、「セカイ系」は勿論、生優しいサルヴェージの言葉も似合わない。因習に沿って、因習を内側から「壊すように」、もう一度再生すればいいだけの話であり、定例通りの作品を避けた後で、定例外の道を、テクストの余白に書き込むように読み解く慧眼を持つならば、今の時代において、ルキノ・ヴィスコンティについて考えることは意義深い事に思える。

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 ヴィスコンティと言えば、大概、『ベニスに死す』や『郵便配達は二度ベルを鳴らす』は廉価版で流布されているが、その他の作品群含め、日本ではなかなか評価軸が定められなかった。例えば、『夏の嵐』はネオレアリズモから演劇的様式美へのファースト・ステップを踏み、19世紀の書き割的な小説のような退廃と破滅に対して色彩豊かに「橋」を渡り、認められたが、『白夜』や『山猫』辺りになると途端、評論枠は絞られる。
 
 例えば、フェリーニやゴダール、もっと言うとコッポラがこれだけ藝術的に受容され、「再」評価される世の中だからこそ、今、ヴィスコンティを僕は評価したいのだが、ヴィスコンティ的なロマンや華麗さは現代には必要ないのだろうか、とさえ嘆息もおぼえてしまうのも同時にある。

 彼は高貴な家庭に生まれ、何不自由のない生活をおくっていたハイクラスの人間だった。そして、バイ・セクシャルでもあり、ロシア文学に精通しており、イタリア共産党に属していたりした時期もあったり、面白い経歴を持っている。基本、彼の作品はとても美麗で耽美的とも言える映像を切り取るものが多いが、ナラティヴ自体は頽廃的であり、破滅的で、陰惨な結末を迎えるものが多いのは幾つかの彼の作品を観た人なら認識出来ているだろう。貴族階級の没落、芸術家の破滅、悲恋、絶望的な道筋。

          *          *          * 

 なお、僕は、彼の作品の中でも1957年の『白夜』(イタリア・フランスの合作になっている)を愛好しており、現代的にも響く何かがあると思ってもいる。

『白夜』とは言わずもがな、原作はドストエフスキーの初期の短編。映画化にあたっては、イタリアのチネチッタ(Cinecittà)でリヴォルノをモデルとした架空の港町を創り上げ、箱庭的な閉塞感を醸した。原作においては、19世紀のサンクトペテルブルグ(当時はペテルブルク)だったが、イタリアの架空の港町にシフトされ、初夏だった季節は冬に切り替えられている。主な登場人物は、橋の上で旅に出たままの彼を待ち続ける日々をおくる、マリア・シェル演じるナタリアと、そこで出会う転勤で来たマルチェロ・マストロヤンニ演じるマリオ。

 独身の会社員のマリオは転勤で小さな港町に移ってくる。友達も知り合いも居ない中、歩いていると、橋の上で若い女性が泣いているのを発見する。それがナタリアだった。警戒した彼女をマリオはそれでも取り敢えず一度、家に送る。そして、「次の晩に同じ橋の上で会おう」と約束をする。極寒の夜を彷徨するマリオの幻惑を掻き立てるナタリアと位相は拗れながら、女性の扱いにも慣れていないマリオと、ただ怯えるナタリアという構造そのものが「ナタリアの頭の中の物語」でマリオはその中の「架空の人物」だったのかもしれない。

 次の晩に、マリオを見たナタリアは逃げだし、さすがに気分を害したマリオに対して、彼女は「訳」や「自分のこと」を話す。スラヴ系の盲目の祖母と住んでいること、そして、彼女の家にハンサムな下宿人が来て、彼女は恋に落ちて、彼は一年後に帰ると言い、この町を去っていったこと。その下宿人を演じるのはジャン・マレーであり、貧しい青年像の原作のイメージと比してマチズモ的なものを示すが、とても「匿名性」が高い存在としても描かれている。

 マリオが下宿人に手紙を渡したという嘘をついてからの、三度目の夜にダンスホールで二人は甘美な幻想に耽る。ロックンロール、スクーザミ、流れる音楽は性的な、そしてユーフォリックな予感を惹起させる。ただ、突然、「我に返った」ように、ナタリアは「橋」へ向かう。

 その「橋」と結局は何だったのか、考えてみる。幻想的世界と現実的なものを繋ぐ何か、と表象するには違う気がするからだ。もしかしたら、経済学的に言う「見えざる手」のような何かかもしれない。

          *          *          * 

 市場原理社会内で「見えざる手」とは、社会総体的に最大の利益を付与するのが自由競争であるから、という言い訳と幻想を撒き散らす事が出来る。無論、アダム・スミスそのものが自己利益の拡大が、自分と全く予想さえもしていなかった目的を達する運動を促進することになる、と自著で明言しているように、「自由」な競争原理の可能性や継続的な発展性に対して懐疑的だった。更に、ここからダーウィン理論への簡単な接線を敷いてみよう。「自然淘汰は、個体の再生産の成果を増加させる」ような、特徴や行動を促進させるが、全体にとって利益になるかどうかは別問題であり、ただ「知性」などの幾つかの特徴に関しては個体の再生産の成果に貢献する「のみ」でなく、全体により幅広く利益をもたらす事となるとしたら、マリオと下宿人の関係性はどう捉えられるだろうか。

 一方で、個体の利益になるものの、全体性には何も還元されないものもある。
例えば、ヘラジカの牡は過酷な競争の中で、牝に近づき交尾の末、種を残すが、その際、「より大きな枝角を持っている」方が「有利」に働くケースが多い。その結果的に、次世代の大きな枝角を持った遺伝子を含有している進化が試されるというのは、凡庸な「進化論」として収斂する。しかし、枝角が大きくなればなるほど、森林内では「目立つ」。目立つと、外敵に狙われやすくなる。総て、字義通り捉えるのではなく、メタファーとして把握してみるとして、小さい港町へ転勤で訪れたマリオの「目立ち方」は、余計なものに狙われやすくもなるのも確かだ。狙ってきたのはナタリアの幻想だったのかもしれない。
 
 ヴィスコンティの作品と、市場原理論、ダーウィン理論の「結び付け」は共約不可能性を帯びる以前に噛み合うことはないだろう。前者はデカダンスの崩れを希求し、後者群はアフォーダンスの揺らぎを求めるからだ。コモンズの悲劇的に、藝術や頽廃や、ましてや「見えざる手」を考えるべきではないのは自明の理としても、そんな瀬においてまた、繰り返される「悲劇」にこそ、本当に「見える手」を差し伸べて欲しい。現代における藝術に向けて、その先の「君」に向けて。

『白夜』でのラスト・シーンにおけるマリオの背中は、とても寂寞と孤独感が滲み出ている。総てが幻の出来事だったかのように元の通り、何もなくなったからかもしれない。

(松浦達)

ザ・ヴァセリンズ

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THE VASELINES

聴いたらすぐに「これはヴァセリンズだ!」って
思ってもらえるようなアルバムを作りたかったんだ


ニルヴァーナのカート・コバーンが憧れたことでも知られる80年代の伝説的グラスゴー・バンド、ヴァセリンズが奇跡の再結成を行ない、さらになんと21年ぶりとなるセカンド・アルバム『Sex With An X』をリリース! ミュージシャンとして成長しながら、当時と変わらないエネルギッシュな作品を作り上げたバンドの中心人物のユージン・ケリーとフランシス・マッキーの2人に、待望の新作で目指したサウンドについて聞いた。

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Photo by Wattie Cheung

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ASIAN KUNG-FU GENERATION
9/15(水)〜
詳細:ASIAN KUNG-FU GENERATION TOUR 2010-2011 オフィシャル・サイト

Cookie Scene Night【new!!!】
Featuring PARAELE STRIPES

9/16(木)名古屋 CLUB UPSET
詳細:クッキーシーン・ナイトのお知らせ

TIGA【new!!!】
9/18(土)渋谷 WOMB
9/22(水)大阪 TRIANGLE
詳細:WOMB, 詳細:TRIANGLE

OGRE YOU ASSHOLE
9/19(日)~
初日のみSpecial Guest NHHMBASE
2日目のみSpecial Guest GELLERS
詳細:オウガ・ユー・アスホール・オフィシャル・サイト

ILLREME
9/19(日)渋谷 CLUB QUATTRO
10/3(日)福岡 ROOMS
10/10(日)岡山 中世が原
詳細:カクバリズム

THE ZOOBOMS【new!!!】
9/19(日)~
詳細:ズボンズ・オフィシャル・サイト

PARAELE STRIPES【new!!!】
9/20(月)~
詳細:パラエル・ストライプス・オフィシャル・サイト

SUNNY DAY SERVICE
9/20(月)~
詳細:曽我部恵一 オフィシャル・サイト

KYTE
9/21(火)恵比寿 LIQUIDROOM
9/22(水)心斎橋 CLUB QUATTRO
9/24(金)名古屋 CLUB QUATTRO
詳細:CREATIVEMAN

HIGH PLACES / WILDBIRDS & PEACEDRUMS
9/24(金)大阪 鰻谷 SUNSUI
9/26(日)名古屋 HUCKFINN
9/27(月)渋谷 O-WEST
詳細:CONTRAREDE

METALLICA
9/25(土)さいたまスーパーアリーナ
9/26(日)さいたまスーパーアリーナ
詳細:SMASH

KEIICHI SOKABE
9/27(月)~
詳細:曽我部恵一 オフィシャル・サイト

RUFUS WAINWRIGHT
10/5(火)東京 JCB HALL
10/6(水)名古屋 CLUB QUATTRO
10/8(金)大阪 なんば HATCH
詳細:ウドー音楽事務所

UNDERWORLD【new!!! but sold out...】
10/6(水)大阪 ZEPP OSAKA
10/7(木)8(金)東京 ZEPP TOKYO
10/10(日)新木場 AGEHA
詳細:SMASH

DELOREAN
10/6(水)渋谷 CLUB QUATTRO
詳細:SMASH

COMANECH【new!!!】
10/7(木)難波 BEARS
10/8(金)浜松 LUCREZIA
10/9(土)横浜 BAR MOVE
10/10(日)渋谷 LUSH
10/11(月)名古屋 KD JAPON
詳細:KNEW NOISE / FILE-UNDER BLOG

Asagiri Jam【new!!!】
10/9(土)10(日)富士宮市 朝霧アリーナ
詳細:朝霧Jam オフィシャル・サイト

TODD RUNDGREN
10/11(月)渋谷 CLUB QUATTRO
10/13(水)名古屋 CLUB QUATTRO
10/14(木)心斎橋 CLUB QUATTRO
10/15(金)渋谷 DUO MUSIC EXCHANGE
詳細:SMASH

MONOBRIGHT
10/13(水)渋谷 CLUB QUATTRO
10/16(土)名古屋 CLUB QUATTRO
10/17(日)心斎橋 CLUB QUATTRO
詳細:モノブライト・オフィシャル・サイト

THE VELVET TEEN【new!!!】
10/13(水)18(月)渋谷 O-NEST
19(水)大阪 鰻谷 SUNSUI
詳細:SMASH

!!!【new!!!】
10/14(木)大阪 BIG CAT
10/15(金)渋谷 O-EAST
詳細:BEATINK

OVAL【new!!!】
10/15(金)代官山 UNIT
詳細:UNIT

ADMIRAL RADLEY / MOOOLS
10/15(金)渋谷 O-NEST
10/17(日)大阪 鰻谷 SUNSUI
10/18(月)京都 CLUB METRO
10/19(火)名古屋 HUCKFINN
10/20(水)松本 ALECX
10/22(金)渋谷 O-NEST
詳細:7 E.P.

TEENAGE FANCLUB
10/19(火)渋谷 O-EAST
10/20(火)渋谷 O-EAST
10/21(木)名古屋 CLUB QUATTRO
10/22(金)心斎橋 CLUB QUATTRO
詳細:CREATIVEMAN

TELEVISION PERSONALITIES / THE LOTUS EATERS
10/24(日)下北沢 GARDEN
10/26(火)高田馬場 AREA
10/27(水)大阪 MUSE HALL
詳細:VINYL JAPAN

CHARLOTTE GAINSBOURG【new!!!】
10/24(日)東京国際フォーラムA
10/26(火)大阪 IMPホール
詳細:CREATIVEMAN

22-20S
10/25(月)心斎橋 CLUB QUATTRO
10/26(火)名古屋 CLUB QUATTRO
10/27(水)、28(木)渋谷 CLUB QUATTRO
詳細:SMASH

VAMPIRE WEEKEND【new!!!】
10/29(金)新木場 STUDIO COAST
10/31(日)大阪 BIG CAT
11/1(月)名古屋 CLUB QUATTRO
詳細:CREATIVEMAN

PUPA
10/29(金)大阪 サンケイホールブリーゼ
11/3(水)東京国際フォーラム ホールC
詳細:PUPA オフィシャル・サイト

ROX【new!!!】
10/30(土)大阪 BILLBOARD LIVE OSAKA
11/1(月)東京 BILLBOARD LIVE TOKYO
11/2(火)東京 BILLBOARD LIVE TOKYO
詳細:BILLBOARD-LIVE

Parabolica Jam '10【new!!!】
Featuring MIKE WATT + THE MISSINGMEN,
LOU BARLOW, ADEBISI SHANK, LITE

11/1(月)心斎橋 CLUB QUATTRO
11/2(火)名古屋 CLUB QUATTRO
11/4(木)渋谷 CLUB QUATTRO
詳細:Parabolica Jam '10 オフィシャル・サイト

REAL ESTATE / WOODS【new!!!】
11/2(火)渋谷 O-NEST
11/3(水)大阪 鰻谷 SUNSUI
詳細:CONTRAREDE

Gan-Ban Night Special【new!!!】
Featuring EROL ALKAN

11/2(火)渋谷 WOMB
11/5(金)名古屋 MAGO
11/6(土)大阪 ONZIEME
詳細:SMASH

OWL CITY
11/4(木)大阪 アメリカ村 BIG CAT
11/5(金)名古屋 CLUB QUATTRO
11/6(土)渋谷 AX
詳細:SMASH

BUFFALO DAUGHTER
11/15(月)恵比寿 LIQUIDROOM
11/16(火)心斎橋 CLUB QUATTRO
11/17(水)名古屋 CLUB QUATTRO
詳細:SMASH

THE FLAMING LIPS / MEW
11/15(月)大阪 なんば HATCH
11/17(水)東京 ZEPP TOKYO
11/18(木)東京 ZEPP TOKYO
詳細:CREATIVEMAN

ASH【new!!!】
11/22(月)23(火)恵比寿 LIQUIDROOM
11/24(水)名古屋 CLUB QUATTRO
11/25(木)大阪 BIG CAT
詳細:SMASH

MANIC STREET PREACHERS【new!!!】
11/26(金)新木場 STUDIO COAST
11/27(土)横浜 BAY HALL
詳細:CREATIVEMAN

TOM VERLAINE / JIMMY RIP【new!!!】
11/29(月)下北沢 GARDEN
11/30(火)下北沢 GARDEN
12/2(木)大阪 MUSE
11/30、12/2のみSpecial Guest ヤマジカズヒデ
詳細:VINYL JAPAN

JONSI【new!!!】
12/1(水)難波 ハッチ
12/2(木)名古屋 CLUB DIAMOND HALL
12/3(金)恵比寿 THE GARDEN HALL
12/4(土)新木場 STUDIO COAST
詳細:CREATIVEMAN

SHONEN KNIFE【new!!!】
12/5(日)新宿 REDCLOTH
12/6(月)名古屋 APOLLO THEATER
12/12(日)大阪 十三 FANDANGO
詳細:SMASH


【モノクローム・セット来日公演が中止となり、代わりにテレヴィジョン・パーソナリティーズの来日が確定した件について、主催者側からのお知らせ】

既にご存知の方もおられると思いますが、ザ・モノクローム・セットのビドが、7月30日に、ある死に非常に高い確率にいたる病気で倒れ、一時危篤状態になりました。6時間以上の手術の結果、今では会話ができるまでに回復しましたが、医師より今年いっぱいの休養を命じられています。このような状況下のため、10月のザ・モノクローム・セットの公演は中止となりました。なお、病床のビドから8月11日付けで来年の春に来日公演を行うとのメールが来ましたので来年の4月に会場は押さえてあります。来年4月に、ビドの健康状態が戻り次第、ビドや私たちのためにも来日公演を実現させますのでそれまでお待ち下さい。最後に、ビドの健康回復を心よりお祈りします。

振替、払戻について

2010年9月14日

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2010年9月14日更新分レヴューです。

インターポール『インターポール』
2010年9月14日 更新
JENNY AND JOHNNY『I'm Having Fun Now』
2010年9月14日 更新
ブランドン・フラワーズ『フラミンゴ』
2010年9月14日 更新
RATATAT 『LP4』
2010年9月14日 更新
DISCLOSURE「Offline Dexterity」7"
2010年9月14日 更新
ゴタン・プロジェクト『タンゴ3.0』
2010年9月14日 更新
ROSE ELINOR DOUGALL『Without Why』
2010年9月14日 更新
ロックとファッションの連関性を巡る歴史、またはその論考
2010年9月14日 更新

2010年9月11日

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一度でも訪れた事のある方はご存知だろうが、シアトルは雨の多い都市である。一年のほとんどを霧雨に包まれて過ごすのが、シアトル・ライフだ。

そんなシアトルで、最も大規模なアート・フェスティヴァルであるBumbershootも現地の人によると「傘」を表す意味だそう。例年、世界各国から多数のアーティストを招き、雨の中で開催されるのが恒例のフェスティヴァルだが、今年は40周年を祝福してか、幸運にも3日開催の内の2日は晴れのち曇りで雨は降らなかった。その中でも、最も天気の良かった2日目についてレポートしたい。

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vaselines.jpg 全然音沙汰のなかった友達が20年ぶりに姿を現して「やぁ」なんて言ってくる。しかもその友達は全然変わってなくて、なにやら最近新しいことを始めたという。それがまた最高にかっこいいことだったりする。このグラスゴーのポップ・デュオ、ヴァセリンズが届けてくれた21年ぶりのセカンド・アルバム『Sex With An X』は、例えて言えばそんなアルバムだろう。

 ユージン・ケリーとフランシス・マッキーにより結成されたバンドは、80年代後期に3年だけ活動し、同郷のパステルズのレーベル〈53rd and 3rd Records〉からシングル2枚と〈Rough Trade〉からのデビュー・アルバム『Dum Dum』1枚を残して解散。その後、有名なニルヴァーナのカート・コバーンによる一連のカヴァーと「世界中で一番好きなバンド」という発言による90年代の再評価はあったものの、ユージンとフランシスはそれぞれユージニアスやサックルといった自身のバンドやソロ活動を続けヴァセリンズが再結成されることはなかった。そんな2人が地元のチャリティー・イヴェントをきっかけに再結成を行なったのは(ちなみにイヴェントを企画したのはフランシスの妹だそう)2008年のこと。続く2009年には初来日となった〈サマー・ソニック〉と〈ブリティッシュ・アンセムズ〉で立て続けに日本のファンの前でライヴを披露してくれ、それだけでもファンはびっくりだったのだが、まさか新作まで作ってくれるとは、本当にうれしい驚きだ。そして、その新作『Sex With An X』にはこれぞヴァセリンズ!というサウンドが詰まっていて、さらなる驚きと喜びに満ちている。

 アルバムを聞いて一番に感じるのは、彼らが当時のヴァセリンズの音を忠実に再現しているということだ。それは、プロデューサーをファースト・アルバムと同じジェイミー・ワトソンに依頼していることや、当時と同じくテープによる録音方法をとっていることなどからもあきらかなのだが(これらレコーディングの経緯についてはヴァセリンズのインタヴューに詳しいのでぜひそちらで彼らの生の声も聞いて欲しい)、パンキッシュなギターが爆発する一曲目の「Riuned」から、グラスゴー印のキャッチーなメロディーラインにシンプルでエネルギッシュなギターをメインにしたインディ・ロックというヴァセリンズのサウンドを構成する要素が詰まった楽曲が並んでいて、この20年のブランクはいったいなんだったのか?と驚いてしまう。もちろんそれは懐古主義的な意味合いではなく、20年経ったこの今も、彼らが当時と変わらぬロックへの初期衝動を心の内に秘め続けてきたということの証明に他ならない。一口に20年っといってもそこには大きな時代と環境の変化があるはずなのだが(子供が生まれていれば成人してしまうほどの時間の流れだ)、その中においてユージンとフランシスの2人が音楽へのピュアな想いを失っていないことが、この新作を聞くと強く感じられ、またそのピュアさがカートらを魅了した彼らの大きな魅力なのだと気付かされる。
 
 とはいえ、人が全く変わらないわけはなく、アルバムでのもうひとつの驚きは、彼らがそのピュアなヴァセリンズのサウンドを、自分たちの20年のキャリアでさらに磨きをかけているということだ。ともすれば特に演奏とプロダクション面においてヘタウマ/ローファイ的だった彼らだが(当時のグラスゴー・バンドはほとんどそうだった)、その20年の経験からくる自分たちの目指す音への自信とミュージシャンとしての成長で、プロダクション面においての音の完成度は当時とは比較にならないくらいに向上している。それは、ゲストとして参加しているベル・アンド・セバスチャンのスティーヴィー・ジャクソン(ギター)とボビー・キルディア(ベース)、1990sのマイケル・マッゴーリン(ドラム)という地元グラスゴーのミュージシャンの功績によるところも大きいだろう。再結成後のツアー・メンバーともなっていた(現在はベル・アンド・セバスチャンの2人はツアー・サポートからは離れている)彼ら若いミュージシャンが加わることによって、よりサウンドにはフレッシュな響きが加わっている。特に昨年の〈サマー・ソニック〉でのライヴでも感じたことだが、収録曲の「Overweight But Over You」や「Mouth To Mouth」あたりでのスティーヴィー・ジャクソンの唸るギター・プレイはこの新生ヴァセリンズのサウンドの大きな要素となっていて、魅力的だ。
 
 そうした新旧2つの軸からなるヴァセリンズのサウンドが詰まった作品だが、やはり中心にあるのはユージンとフランシスの歌声だ。時にユニゾンで時にハーモーニーで重なる2人のヴォーカルからは、ヴァセリンズとして音楽を作り歌うことへの楽しさと喜びがダイレクトに伝わってくる。再結成だけであれば古い曲だけを演奏することも可能だし、実際そうしているバンドも多い。けれど、彼らはこの新作を作ることによって、音楽を作る楽しさを再び手に入れたのではないかと思う。そしてその音楽の楽しさというものは、いくら年月が経っても色あせることはないものだろう。

 冒頭の例えに戻ろう。その20年ぶりに会う友達としばらく話をしていたら、きっと自分の中にもなにか変わらないものが宿っていることに気付くはずだ。そして忘れていた当時の楽しい気分が戻ってくるのではないだろうか。そうした気持ちと楽しさをこのヴァセリンズの新作でぜひ感じてみてほしい。

(安永和俊)

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mp3_killed_the_ cd_star.jpg 日本においては、まだまだDJのみで生活していくのは厳しい。DJの文化的価値や地位が認められているヨーロッパでは、スーパースターDJなんて呼ばれる存在もいるし、その中の一人であるティエストは、オリンピックでもプレイした。しかし、日本では大きな興行収入を得られるイベントやパーティーは少ないし、そもそも、DJという肩書きへの世間的評価も低い(そういう意味では、興行として成り立ってないとも言える)。そんななか、イベントやパーティーの主催側から、「DJをDJだけで食わしてやろう」と頑張っている人も出てきたと思うし、その動き自体は良いと僕も思う。DJだけで食わせてやるためには、当然DJのギャラを上げなきゃいけない。そのギャラを上げるためには、興行収入を増やさなければならない。そして、興行収入を増やす手段として目立つのが「イベントやパーティーの大衆化」だと、僕は思う。

 僕なりに、いろんなイベントやパーティーに行かせてもらって思うのは、「面白いDJ」よりも、「盛り上げるDJ」を数多くブッキングしたイベントやパーティーが多いということ。「盛り上げるDJ」というのは、良い意味で客を裏切るプレイよりも、なるべく客のニーズに応えるプレイをするDJのこと。もちろん、DJの本質は、エンターテイメントであるし、盛り上げることが悪いとは言わないけど、「イベントやパーティーの大衆化」によって、「面白いDJ」(つまり、ときにはファンの批判なども受けながら、常に前を向いて、変化することを恐れない向上心と勇気を併せ持ったDJのことだ)が、「盛り上げるDJ」が増えすぎることによって、なかなか日の目を見ないことが多い。主催者側からすれば、客の入りが計算しにくいDJをブッキングするのには躊躇してしまうし、たとえ出演させたとしても、時間的に人が少ない22時や23時に配置して、結果、多くの人の目に入ることは、少なくなってしまう。良くも悪くも、盛り上げ重視のイベントやパーティーには、音楽的教養に優れた人は少ない。普段熱心に音楽を聴かなかったり、頻繁にクラブへ遊びに行かない人も来てくれるから、ナイトライフの入口にはいいけど、その分音楽的な面白さや冒険的な試みはどうしても減ってしまう。僕がそんな最近の傾向に疑問を持っていたのは、隠しようのない本音である。

  先日、宇都宮で開催されたクラブ・スヌーザーに行ってきた。クラスヌって、僕にはどちらかといえば盛り上げ重視の「みんなで盛り上がろうぜ!」というパーティーなんだけど、結構好きで何回か行かせてもらっている。でも、好きになれない部分もある。盛り上がることを強要してくる雰囲気になることも多くて、そういうことを求めてくる客も多い。実際一人で踊っていたら、やたら絡んできたり、なぜか突き押してきたりする客が何人か居て、「初の宇都宮開催だし、盛り上げよう!」とするのはいいけど、一人で居るから盛り上がってないと決め付けて、半ば強引に輪に入れようとするのは迷惑。まあ、「俺は俺の踊りを踊ってるんだ!」と言ったら、「すいません」と引き下がって行ったからいいけど。一体感は、「生みだすもの」ではなく、「生まれてくるもの」だから、「自分の踊り」を踊ればいいと思う(タナソウの「Born Slippy」と「Strings Of Life」のマッシュアップで踊り狂いました。そして、タナソウはDJ上手い)。

 話が逸れたな。僕はここ一年意識的に、地方のイベントやパーティーに遊びに行っている。そして、そのイベントやパーティーに来ている客に、「どんな音楽を聴いているの?」と訊いて回っている。すると不思議なことに、イベントやパーティーが流している音楽以外の音楽を好む人達が、予想以上に多かった。はっきり言って、「分断化するクラスタとかないんじゃない?」と思わせるほど、音楽的知識や幅広さがあった。それが一回や二回だったら偶然で片付けられるけど、それがここ一年ずっと続いたから、「最早偶然ではないのではないか?」と思い始めていた。そしてそれは、宇都宮でのクラスヌで確信に変わった。宇都宮という場所は偶然だけど、僕が知る限り、クラスヌに来る客は、音楽の好みが偏っている傾向がある(まあ、スヌーザーがやっているんだから、スヌーザーが取り上げるアーティストやバンドが好きな人が集まるのは、当然といえば当然か)。だけど、ここ最近のクラスヌに集まる客の音楽的な趣味の幅広さは凄い。スヌーザーが大嫌いであろうアーティストやバンドを好む人もたくさん居たし(ちなみに、宇都宮ではミューズが好きな人がいました)。よく、「リスナーには、もっといろんな音楽を聴いてほしい」みたいな発言をするアーティストもいるけど、僕が思うに、リスナーの準備は既にできている。あとはアーティスト(そして、そのアーティストを押し出すレーベルやメディアも)が、リスナーをもっと信用して、好き勝手やって、冒険心溢れる音楽をたくさんやってくれたら、日本の音楽シーンも、もっと面白くなりそうな気がする。「それぞれの分断化するクラスタを無理やり横断しよう」としなくても、リスナーの足枷は外れている。どこへでも行けるのである。

 そして『MP3 Killed The CD Star?』は、アーティスト側から発せられた自由の宣言だと思う。『MP3 Killed The CD Star?』は、マルチネ・レコーズにとって初のフィジカル・リリースで、それまでは、すべてのリリースを無料ダウンロードで配布していたという太っ腹なネット・レーベルである。しかも『MP3 Killed The CD Star?』はちょっと凝った仕組みになっていて、一応ミックスCDなんだけど、ミックスされているオリジナル音源をダウンロードするためのコードが記されたカードと、そのダウンロード音源用のCD-Rが同梱されている。

 参加アーティストはマルチネ・オールスターズといった感じで、Quarta 330やパジャマパーティーズにTofubeatsなど、まさにマルチネを知るにはうってつけのアルバムになっている。僕が特に好きな曲について書いていくと、まずはパジャマパーティーズの「MP3」。音はまんまヒップ・ハウス。セカンド・サマー・オブ・ラブ期の音が好きな僕としては、かなりツボ。でも、歌詞がたまに「えっ?」となる部分があってそこが気になるけど、それを補って余りある熱がある。Gassyoh「Scandinavia」も素晴らしい。ディープ・ハウスなんだけど、ベースが鳴り始めた瞬間から「グッ」と引き込まれる。美しい。あとはTofubeatsのヴォーカル・ハウス「朝が来るまで終わる事の無いダンスを」も!

 他にも三毛猫ホームレスやokadadaとか、ダブステップ以降の音や、少し先の未来の音も鳴っていて、本当に素晴らしい曲が揃っている。要は、全部良いんですよね。すべての曲に、アーティストそれぞれの思いや熱が詰まっていて、昔親父とお袋に聞かせられた、セカンド・サマー・オブ・ラブ期のミックステープを思い出した。そして、「これが俺達の音楽だ!」という強すぎる主張もない。本当に軽やかというか、上の世代や、他のクラスタを寄せ付けない近寄りがたさというのがない。それは、彼等自身が、tomadによるライナーノーツから引用すると、「クラスタからクラスタへと自由に闊歩する」からだろう。つまり、彼等のほうから、リスナーの元へ出向くのである。そして、「面白そうな所には何処にでも行け」なのである。さらに彼等は、自らその「面白そうな所」を作り出している。その作り出した「面白そうな所」に、既に準備ができているリスナーが集まりつつある。僕と同世代や、その下の世代は、すべて自ら捜し求め、作り出す。それは反骨精神とかいうよりも、純粋に「楽しいから」という思いが、突き動かしているのではないか?

「楽しいところがなければ、探そうじゃないか。探してもなければ、作ろうじゃないか」、『MP3 Killed The CD Star?』からは、そんなアーティストとリスナーのポジティブな声が聞こえてきて、僕は嬉しくなる。ここにあるのは、そんな時代の最先端を行く若者達の行進する姿である。そして、その行進と共に鳴らされているのは、紛れもないソウル・ミュージックである。

(近藤真弥)

*近日中(1週間〜10日以内くらいかな?)には、この3月におこなったマルチネ・レコーズ主宰者tomadのインタヴューを「同人音楽」コーナーにアップする予定です。【編集部補足】


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in_mantra.jpg 1963年に白人テナーサックス奏者スタン・ゲッツはブラジルのピアニスト、アントニオ・カルロス・ジョビンとジョアン・ジルベルトと共に1枚のLPを創る。その中に含まれていた「イパネマの娘」は全世界的に持て囃されることになる。LP盤では途中までジョアンが途中まで歌い、アストラッド・ジルベルトが途中から歌い出す流れになっていたが、EPとして尺を切られた際はアストラッドが全面的に、そのたどたどしい歌声と共に前面にフィーチャーされていた。ボサノヴァ。ブラジルナイズされたジャズという大方の見方に比して、クラウス・シュタイナーはその著作で「ジョビンはボサノヴァがジャズの影響下にあったというのを強く否定している」と述べ、ボサノヴァというのはロック趨勢の中にあったブラジル音楽の中での、カウンターでもあったという見解を示唆する。

 ボサノヴァ(Bossa Nova)とはそもそもサンバの新しい感覚に依拠する。ショーロ、ノエール・ローザ、カルメン・ミレンダを経ての、静謐で上品で野卑な「新しい音楽」と定義付けは今でも可能だろうか。単なるミドルクラスの御洒落なロビー音楽として消費されるか、チルアウト・ミュージックとして受け入れられるのだろうか。

 今、ミナス出身の夫婦デュオ、へナート・モタ&パトリシア・ロバートはジョアン・ジルベルトやアントニオ・カルロス・ジョビン、イヴァン・リンスなどの正統的なブラジル音楽を継承しながら、新しいトライアルをはかっている。

 振り返るに、99年のデュオ名義初の『Antigas Cantigas』における18~20世紀初頭の古典をカヴァー(例えば、カエターノもカヴァーした「プレンダ・ミーニャ」など)の再構築のスマートさは話題になった。以降、世界的にジャック・ジョンソンやサーフ・ミュージック系の緩やかな流れと「共振」しながらも、あくまでMPBの正統的な音楽の後継者として良質な作品群を紡いできた。途程、ブラジルの作家ジョアン・ギマランイス・ホーザにオマージュを捧げた内容のエレガンスが話題になったこともあった。

 マリーザ・モンチ的な麗しさとヒタ・リーのような繊細さを行き来しながら歌唱するパトリシアと、柔らかくマルコス・ヴァーリのように絡むヘナートの囁くようなハーモニーは作品毎に研ぎ澄まされ、他の追従を許さないサブライムな何かを帯びてきた折に、インドのマントラを演奏するプロジェクトを進行させたのは周知だろう。有名な、マントラ・セッション。インドのマントラ(聖句・祭詞)にアンビエント的な「揺らぎ」を持たせ、演奏する試みを07年に行ない、それを纏めた作品は環境音楽やアンビエント音楽、チルアウト・ミュージック、アフタアワーズ・サウンドと同じ遡上に並び、「癒し系音楽」の最筆頭として熱狂的に受容されたのは記憶に新しい。

「マントラ・セッション」の段階ではもう、彼等の純然なMPBの影は仄かに潜めたが、その代わりに「刷新性」ではなく、「ポスト性」がそこにあった。なお、刷新性とポスト性は違う。刷新性は前史を弁えているがゆえ、時に身動きがきかない部分があり、ポスト性は逆に野蛮に脱構築的に対象を解体し、それらのうち有用な要素を用いて、新たな、別の何かを建設的に再構成する要素因を孕み、積極的に意義の解体を見出すために使われる事が多い。ポスト的にマントラへ飛び込んだ彼等の音は「前史は弁えている」が故に、独特の新しさを帯びた。個人的に、07年の『サウンズ:平和のための揺らぎ』のときも驚いたのはマントラ解釈の中に、フュージョンを可視化出来たことがある。ちなみに、パトリシアはクンダリーニ・ヨガの講師資格を持つほどインド哲学やヨガに深く傾倒している。だからこそ、単純な「模倣」で、マントラを解釈するものにはならないし、成り得ないのかもしれない。

 今回の新作『In Mantra』は09年4月26日に鎌倉の光明寺で行われたセッションを収めたもので、優美にして荘厳なサウンドスケイプが拡がっている。ヘナートはギターを、パトリシアはタブラを叩きながら歌い、ショーロクラブの沢田穣治氏のコントラバス、ヨシダダイキチ氏のシタールがそれを支える。『サウンズ:平和のための揺らぎ』からの過去の曲も大胆にリメイクされ、新曲の5曲も深遠な奥行きを持っている。個人的に、新曲群の中でもまるで教会音楽のような「Ang Sang Guru」の上品な美しさとシガー・ロスの残影もちらつくような透明感には唸らされた。

 少し補足しておくと、『In Mantra』内のサウンドスケイプはデヴァ・プレマール(Deva Premal)のマントラ作品に代表されるフラットなものにはない、前衛的なものも含んでもいるのも面白い。宗教性と結びつく様な取っ付き難さよりも、ライヴ・レコーディングという形式を取った作品ながら、演奏の巧さと、行間に鳴る「見えない音」が受容側を魅了させつつ、スタジオ・レコーディングにはない生々しい即興的な部分が聴き手のイマジネーションを刺激するのだ。今年の10月の来日公演で麗しい音を聴かせてくれるのは期待してやまないところだろう。

「これはもはや、ブラジル音楽ではない」という意見もあるかもしれない。但し、ここでの音が還りつく場所はやはり、彼等の故郷ミナスが可視化出来るのは聴いたら分かると思う。

 もう一度、引用してみる。クラウス・シュタイナーの「ジョビンはボサノヴァがジャズの影響下にあったというのを強く否定している。」というコンテクストを彼等に対して今敷いてみるに、『In Mantra』はブラジル音楽を「内破」しながら、教会音楽、ヨガ・ミュージック、マントラを跨ぐ新しい(Nova)隆起(Bossa)が浮き出て「視」える何かがある。

(松浦達)

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esperanza.jpg ふと目に付いた扉を開けてみる。そんなふうに、ジャケットを手にとり眺めてみると微笑んでいる彼女がいる。どうして微笑んでいるんだろう。よく見るとエスペランサの目は恐ろしい程うつろだ。たぶん彼女は知っている。「ようこそ」と言いながらも、やがて自分がこの部屋から出て行かなければならないことを。そして僕も出て行かなければならないことも。
 
 エスペランサは若くしてパット・メセニーやパティ・オースティンなどのツアー/レコーディングに参加した早熟のベーシスト/シンガー・ソングライターだ。20歳になった05年にバークリー音楽院で講師を務め、世界中で活動し、去年はオバマ大統領から直々の招待を受けてノーベル賞の授賞式の場で演奏した。でも、幼い頃の彼女は通常の授業に適応できず長い期間、家庭で勉強しなければならない状況だった。部屋に篭り、学校に通う学生とは違う生活を送った。けれども、チェロ奏者のヨーヨー・マを見て自分の道を自覚し、音楽的才能ある彼女は篭っていた自分の部屋から出ていった。いや、出ていくべきだった。
 
 過去二作のアルバムを経て、彼女は『Chamber Music Society』という、本当にいまの自分にとって大切だと思える部屋を見付けた。ミルトン・ナシメントやグレッチェン・パーラト、リカルド・ヴォートをゲストに招き、チェロやバイオリン、ピアノなど、様々な楽器に溢れるその部屋で、彼女は自由奔放に歌い、ベースを奏でる。スキャットもフェイクも素晴らしい。迫力があり艶があり、わずかに妖しい雰囲気を醸し出す。室内音楽的な響きを持った音の全てが次々にエスペランサの歌に吸い寄せられていく。それはさながら歌が音を吸収し、膨張していくように感じられる。エスペランサは『Chamber Music Society』という部屋の中に招いた僕を音で圧倒し、吹き飛ばすかのように堂々と歌う。どこまでも伸びていくような歌声。
 
 でも、やがてこの部屋も出て行かなければならないことを彼女は知っている。音楽的アイデアに溢れる彼女は扉を開け、次のステップへと、別の場所へ行ってしまうのだろう。僕はこの部屋の居心地の良さに安住してしまうかもしれない。結局いまも僕はこの部屋から出ることができないままでいる。だが、エスペランサ自身がそうだったように、彼女は僕にいつか出て行かなければならないと訴える。「善悪の知識」も「無意味な風景」も受け入れて、様々な音楽家たちが新たに創出する未知の音に触れるべきだと。エスペランサは音楽的に人と人との関わり合いの中で成長した。だから彼女の音楽は強い。スペイン語で希望の意味を持つ「エスペランサ」だが、希望を持つことが強さではなく、強さが希望を生む。嘆いている暇はないのだ。僕らも扉を開け、まだ見ぬ未知の音楽世界へ飛び込むべきだと思う。その最初の扉に本作は成りうる。
 
 本当に大切なこととは何だろう。帰る場所があることなのか、ないことなのか。数年後、エスペランサが音楽性に迷い、ふと過去を振り返ったとき、彼女にとってこの部屋はひとつの帰る場所なのかもしれないし、帰ってはいけない場所なのかもしれない。スティーヴ・マルクマスはペイヴメントという帰るべき場所を見付けた。グレアム・コクソンはブラーという帰るべき場所を見付けた。カート・コバーンは何も見付けられなかった。けれどもエスペランサは? きっと、どこにも帰らない。帰る「べき」場所はない。いくつもの楽器が鳴っていてもシンガー・ソングライターとして自立した姿、それが本作で叫ばれている。素晴らしい感動作。

(田中喬史)

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goldmund.jpg キース・ケニフのピアノ・ソロ・プロジェクトであるゴールドムンドの3枚目のアルバム。過去2枚のアルバムといえば、ポーンと鍵盤を叩いたらそのまま5秒間は無音が続き、その余韻を味わうような、音と音の間をすくい取る作品であった。それに対し本盤は、メロディを味わえる程度には音数が増え、ノスタルジーな空気感、匂いはそのままに、曲調に明るみが帯びている。
 
 音楽性でたとえるなら、アンビエントに近かった過去の作品よりも、純粋にポスト・クラシカルとしての側面に重心を傾けている。そして、よりクラシカルな詩情を携えているにもかかわらず、潤沢なラップトップ・サウンドは以前にも増して空気中を舞っている。
 
 本盤では、寂しさと明るさが見事に調和を成し、共存している錯覚に陥る。錯覚というのは、実際には共存しているわけでも中庸に立つわけでもなく、未だ言語化されていない感情がたまたまそれに酷似していただけにすぎないような気がするからだ。文字通り、悲しくも喜びに満ち、矛盾しつつも美しい。静かな教会でのびのびと子守唄を弾くような、パーソナルなアルバムだ。
 
 息子が生まれたから明るいアルバムになったというのは面白いことだ。仕事に私情を堂々と挟んでいるし(そもそも仕事という括りもどうかと)、そうやってパーソナルなアルバムを作ると、私のような人間達から大絶賛される。奇妙な界隈だ。

(楓屋)

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rega.jpg「ギターの四本晶が加入後初めての音源だったので、前のギタリストが抜けて晶が入って、レガとしての1stアルバムぐらいの気持ちだったんですね。勢いのあるテンションで作ったので、そういうところからエッジの効いた作品になったのかも知れません。」(Gu、井出竜二)

 期待を上回るテンションの高い2ndフル・アルバムを発表した愛媛出身東京在住の4人組レガ(rega)。一応プログレッシヴ・ジャム・バンドってことになってはいるが、その単語だけを聞いて彼らの音楽を聴かないなんて勿体ない! 絡みつくようなグルーヴ、高揚感を煽るメロディー、色気のあるギター。重厚なベースとドラムスが緩急を付けながら次第に沸点へと昇りつめていく際の、めくるめくような快感!

「竜二がギターでメロディーを弾いていて、前の(もう一人の)ギタリストも単音弾きで、前は単音弾き同士の掛け合いだったんですよ。それが晶が入って、彼が弾くコードとかアルペジオの広がりに対して竜二が単音のメロディーをぶつけるので、以前より音の厚みが出たと思う。」(Ba、青木昭信)

 常に変化し続けるエモーショナルなツイン・ギターと、思い切り絡んでくる(笑)ベースが、扇情的なメロディーへさらに複雑なコントラストを付けていく。

「(アルバム・タイトルについて)ちょっと斜に構えたんですかね。インスト・バンドで『リリックス』って捻くれてるじゃないですか?歌詞がないのに『リリックス』って。歌詞ってメロディーに乗って伝わるものだと思うんですけど、そのメロディーの強さは今回の作品に凄くあると思うんですよね。」(昭信)

「他人と同じじゃ嫌っていうのもあるし、インストって枠に収まる気もさらさらないし。俺らの曲には歌はないけど、でも(想いを)届けたいって気持ちが凄くあるんですよ。」(竜二)

 それまでサポートギターだった四本晶が正式メンバーとなり、今作では、より、メンバー4人のバンドに対する偉大な自信と信頼が素晴らしい化学反応をもたらしたのではないだろうか。

「レガに入って最初にスタジオ入って曲作りする時に、作り方が面白いなって思って。前まで歌ものバンドにいたので、順序立てて曲作りしてたんですね。でもレガって、コラージュみたいにペタペタ素材を貼って曲を作っていくんですよ。それが衝撃でしたし、面白かったです。僕も(曲作りの時に)フレーズを持っていって『これじゃないかな?』って思いながら弾いたんですけど、それを使って曲にしてしまうっていうようなこともあって、凄いなって思いました。」(Gu、四本晶)

「晶は一発録り初めてやったし(レガのレコーディングはいつも一発録り)、割と『どうしよ、どうしよ』言うタイプなんですけど(笑)、1曲目で緊張ほぐれて、後は順調にいけましたね。頑張ってくれたなって思います。あと彼は前作の『ミリオン』(1stフル・アルバム)のツアー中にサポートで入ってくれて、そこから100本ぐらいライブをやった後に正式メンバーになったんですけど、そのツアーを重ねた時間がデカかったですね。そこがなかったら『リリックス』は出来てなかったと思います。」(竜二)

 レガの曲は一定の形に留まらず、一曲の中でも変化していくことがユニークなのだが、こういった感覚はどこからきているのだろう?

「俺ら別にインスト・バンドを聴いてきて演奏やってるわけでもないし、より、グッとくる方向に持っていこうとしたら、ああなるっていうか...。狙って変なことしようとは思ってなくて、よりメロディーを引き立たせようと思ったら、そのメロディーに行く前にこういうクッションがいるな、とか。それだけなんですよね。」(竜二)

 また、前作には感じていなかったトリップ感、サイケ感がありつつも、キラキラしていたりヘヴィーメタルな趣があったり...。そういったものが共存しているのは何故?

「自分の作ったものから刺激を受けてるっていうのが大きいかも知れない。自分が作ったものに刺激を受けつつ、さらにそれを裏切ろうっていうのがあるかな。曲が出来た時に次の欲求と次のイメージとそれに対する自分の裏切る行為がまた新しい曲を作って、それに対してメンバーが反応して。その繰り返しが無限の可能性を生んでるんだと思います。」(昭信)

 多様な音楽性を折衷する洗練されたアレンジ能力とバンドとしての半端ない熱量は勿論、それぞれに自立し、主張する音を聴いて欲しい。ギリギリなまんまだから。

*rega「Mr.MARLOWE」Music Video

(粂田直子)

2010年9月7日

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2010年9月

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  • エドウィン・コリンズ

    レコーディングのやり方からも、本当にオリジナルな音が生みだされてきてると思う

  • マニック・ストリート・プリーチャーズ

    俺たちの音楽には、ポジティヴな憂鬱とでも呼ぶべきものが入ってると思う

  • フラン・ヒーリィ

    今回は、途中で失ってしまったものがなかった

  • スーパーチャンク

    9年間あまり活動していなかった間もサポートしてくれたファンを、驚かせてエキサイトさせるようなものを作りたかった

  • ティーンエイジ・ファンクラブ

    長い間レコードを作っていなかった僕らの新作を作る喜びが反映された結果じゃないのかな

  • ザ・ヴァセリンズ

    聴いたらすぐに「これはヴァセリンズだ!」って思ってもらえるようなアルバムを作りたかったんだ

  • OMD

    年寄りがつまらないレコードを作るのは、彼ら自身がつまらない気持ちでレコードを作るからだよ

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PARAELE STRIPES

音楽がないと生きていけないというのが当たり前の世界で
何をするにつけても音楽が必要だなというか


音楽シーンの中心から遠く離れた福岡で、とびきりハイテンションなダンス・ミュージックが鳴らされている。アメリカ帰りのイケメン・Marsと、実に今の日本らしいオタク・松下の二人組によるパラエル・ストライプスが先ごろリリースしたミニ・アルバム「feyz」は、ポップのときめきと独立独歩な姿勢の逞しさが共存するたまらない内容だった。そんな充実作を引っ提げてツアー真っ最中の彼らだが、ヴォーカルのMarsに電話インタヴューを敢行した。

PARAELE_STRIPES_1008_A1.jpg

イルリメ

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ILLREME

音を出して、レスポンスを受けて、また自分が反応する
そんな音楽の空間を作っていってる感じ


リリースから数ヶ月たったイルリメの最新5曲入りミニ・アルバム「360° Sounds」だが、未だにその新鮮さはまったく色あせないどころか、彼の最近の活動ぶりを見聴きしても(していなくても)、「新しいフェイズ」のスタート地点としての重要度をますます増しているように感じられる。

<夢中になったら始めとけ。その気があるやつ音鳴らせ。次の時代がやってくるぜ。新しい音が見たいんだ>

収録曲「We Are The Sound」の一節。これは、まさにそんな姿勢のトリガー(引き金)となる音源(レコード)ではないか。数ヶ月前、「360° Sounds」リリース直前(このサイトが「プレ・オープン」する少し前)のイルリメに話を聞いた。話の内容としても全然古くなっていない(というか、オープンに際するドタバタによりアップが激しく遅くなってしまい、本当に申し訳ありませんでした...)のみならず、そこで語られている姿勢を捕捉するような、最新情報も添えてお届けしよう。

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interpol.jpg インターポールは世界最高のバンドである。それは今までのリスナーにも本作が初購入の方にもだ。何故か? 魂がそこにはある。そしてバンドとして4枚目という新しい段階に踏み出したのだ。今までにあって今までにないインターポールの快進撃だ。Bのカルロスが脱退し、今回はポスト・ロック界でお馴染みデイヴィッド・パホをサポートB.に迎え、ダニエルとポールのツイン・ギターのノイズをフィーチャーさせる新しい形に仕上がっている。「オールウェイズ・マライス(ザ・マン・アイ・アム)」はゴッドスピード・ユー!・ブラック・エンペラーの「ストーム」を思い起こさせるほどだ。

 プロデューサーにナイン・インチ・ネイルズやスマッシング・パンプキンズ、ブロック・パーティなどデジタルかつギター・ロックな仕事で知られるアラン・モルダーを起用し、ジャケットのようなオルタナティヴ・ニューウェイヴ要素を残しながら、過去マタドールにいたときのようなインディペンデントな音作りをしているのがポイントの一つ。また、Vo. ポールはよく"Light"という表現を使う。今回も「ライツ(Lights)」という曲が収録されているが、これまで「ターン・オブ・ザ・ブライト・ライツ」「ザ・ライトハウス」などこの単語を多用してきた。その言葉にはポールにとって特別な意味があると断言できる。 リズミカルであり、インディーであり、オルタナティヴであり、ニュー・ウェイヴであり、ダークでありながら光を研ぎすます、まさに待ち望んだ音がやってきたというのが実感だ。

 また、若干余談ではあるが筆者とインターポールは交流が深い。2ちゃんねるで彼らは"インポ"などと略されているようだが、筆者とポールの共通の知人女性の家に一緒に遊びに行ったとき、その女性とポールが「ちょっと話してくるね」と言って別室に移動し、戻ってきたら何とパンツ一枚だったという経験がある。ポールは決してインポではない。故、この表現はなるべく避けていただきたい。

 それはさておき、この高揚感といい、こんな最高な音が他に何処にあるというのか! もうザ・ドラムスなどがちっぽけな存在に見えてくる一枚。是非これまでのファンも初挑戦の方もお手に取ってほしい。

(吉川裕里子)

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jenny_and_Johnny.jpg リラックスして横たわる二人。淡く気怠げなトーンに加工されたジャケット写真。裏ジャケットでは二人は腰に手を寄せ見つめ合っている。キス5秒前のポーズ。二人の名義はジェニー・アンド・ジョニー。タイトルは『I'm Having Fun Now』。なるほど、ずいぶんお楽しみのようじゃないか。勝手にしてくれよ...。いやいや、仲良きことは睦まじきことかな。

 子役としてのキャリアがあったことも頷ける美貌の持ち主にして、世界的な成功も収めたバンド(日本では未だ地味な扱いだが...)、ライロ・カイリーの花形ヴォーカリストで最近はソロ活動も活発なジェニー・ルイスと、才能溢れるシンガー・ソングライターであり、ハンサムな顔立ちながらここ数年は少しポッチャリしてきたお腹もチャーミングなジョナサン・ライス。既によく知られているように、2005年にブライト・アイズのコナー・オバーストの紹介で知り合ったという二人は、お互いのソロ作品における共同作業や、ジェニーのツアー・バンドとしてのジョナサンのバックアップ(06年のフジロックや去年のサマーソニックでの来日にも彼はもちろん同伴している)などの過程で愛を育み、今ではUSインディー・ロック界を代表するベスト・カップルっぷりだが(※憎たらしい参考動画)、まさかここまでおしどり夫婦っぷりをアピールする作品がリリースされるとは(つうか、もう結婚しなさいよ)!

 僕は日常生活でライロ・カイリーのバンドTシャツを愛用しているような人間なのでここからはジェニー贔屓の目線で書かせていただくが、本作はほぼ全編において実に軽快なロック、それこそパワーポップと分類してもよさそうなほどの小気味いい演奏が鳴らされている。ルーツ・ロック回帰していたジェニーの過去二作に比べてサウンドはグっとモダンでエッジの効いた触感となり、昨年のジェニーのツアー(日本でのサマソニやその後の単独公演も、パワフルで本当に本当に素晴らしかった...)でも既に披露されていた「Just Like Zeus」などの楽曲も含め、アルバムを通して二人はデュエットし、パートを交換し合い、絶えず息の合ったハーモニーを重ねている(実際、この名義でのツアーにおいても、現在は本作から全曲と、ジェニーのソロ前作『Acid Tongue』収録の「Next Messiah」と、ジョナサンの07年作『Further North』収録の「What Am I Going to Do?」からなるセットリストが組まれているようだ。その二つの曲にはもともと二人が掛け合うパートが用意されており、要するに...ラブラブってことですね)。

 カリフォルニアチックな太陽の匂いとストイックなまでのシンプルさに支えられたこのポップネスは、前者はウェイヴス、ベスト・コーストといったオプスティミスティックな新興パンク勢、後者は初期REMを初めとする80年代USカレッジ・ロックにおけるバンド・サウンドや、彼女たち自身も交流のあるエルヴィス・コステロとそれぞれ近似性も指摘できるのかもしれないが、それよりは二人が互いのフィーリングを一致させ、長所を両立させながらノビノビと発揮できる理想的なスタイルが結果的にコレだった、というだけのことのような気もする。作曲に関しても二人の立場は平等で、むしろどちらかといえば本作からはジョナサンのソロ作のほうを強く彷彿とさせられる。最近のジェニーの嗜好やソングライティングにシンプル・ロックンロールな彼のスタイルが大きく影響を与えているのは『Acid Tongue』の時点で明らかだったし、このパワー・バランスも必然かもしれない。

 限定版ではCD・LP・EPの他にもカセットテープでのリリースまでされたようだが、たしかにカセットをデッキに突っ込んでドライブに出かけたくなるほどアッパーにさせられる(We're Having Fun Now! な)音楽だし、優秀なミュージシャン二人がタッグを組んだだけあってメロディ・センスも文句なし。今のところのライロ・カイリーの最終作『Under the Blacklight』における、バッキンガム/ニックス期のフリートウッド・マックにも譬えられたメジャー感溢れる端正なポップスからはずいぶん遠いところにきてしまったようにも映るが、しかし歌詞のほうは相変わらず鋭い切れ味もときおり垣間見せる。イーグルス「Hotel California」が告発したアメリカ/カリフォルニア幻想の崩壊から30数年が経過した「いま」の世界について歌っている「Big Wave」での、"living your life in the gray is the new American way"というフレーズから続けて描かれる、経済の不安定から個人的なインソムニアに至るまでの「アメリカの病理」を"大波がやってくる!"となぞらえてしまう辺りは、詩人としてのジェニーの健在ぶりを象徴するようである(楽曲自体はサーフ・ロックのマナーに忠実な軽やかさと爽やかなコーラスが印象的で、この味わいこそアメリカン・ロック!)。他の曲のリリックでも、随所に機知に富んだ箇所が見受けられるあたりはさすが。

 イチャイチャぶりをアピールするだけの作品とイタズラに揶揄するのがナンセンスな聴きどころの多い作品であり(でも収録時間は36分! 最高!)、「Switchblade」や「While Men Are Dreaming」などスローな楽曲の(ジャケの淡さに通じる)美しさも息を呑むばかり。もう一押しほしかったところもあるにはあるが、けっきょく最後はジェニーのスウィートで色っぽい歌声に毎度のごとく心をキュっと鷲掴みさせられてしまう(ジョナサンだって素敵よ)。それにしても、本作にはライロのメンバー、ピエール・デ・リーダーも参加しているし、メインでドラムを叩いているのは同じくライロのジェイソン・ボーセル(超余談だが、彼がキルスティン・ダンストと交際しているという噂は本当なんだろうか)。ファン心理としてはそろそろバンド名義の新作も恋しくなってきたが、各々がソロ活動にご執心なところを見ると「次」はもう期待しないほうがいい...のかな? The Electedも素晴らしかったギター弾きの色男、ブレイク・シュネットの動向についてもパッタリ話を聞かなくなったし...。

(小熊俊哉)

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brandon_flowers.jpg かつてデイヴィッド(キラーズのギタリスト)はとっておきのアイデアが詰まったテープを用意して、地元の情報誌に「バンド・メンバー求む!」の告知を出した。そのアイデアのなかには一瞬にして全世界を80年代ポップ・リヴァイヴァルの渦に巻き込んだ「Mr. Brightside」のデモも含まれていた。そして遂にリリースされたファースト・アルバム「Hot Fuss」は空前の大ヒットとなり、誰もが煌びやかでスケールの大きいシンセ・サウンドの虜になった。だがヴォーカルのブランドンは故郷であるラスヴェガスへの想いを断ち切ることができず、セカンドの「Sam's Town」では一転してアメリカン・ロックへの接近を試みた。歌唱法をブルース・スプリングティーンに似せて、リリックはより抽象的になった。彼らの代名詞でもあったシンセサイザーは少しばかり後退し、代わりにスタジアム・ロックの風格を獲得した。しかし、最も理解して欲しかったはずのアメリカでは不評だった。これにはブランドンも落ち込んだ。やはり自分たちのサウンドを変えるべきではなかったのか、と。しかし、その後彼らはスチュアート・プライスというプロデューサーと奇跡の出会いを果たし、セカンド・アルバムのアンセミックな感触はそのままに、ダンスの要素を再び全面に押し出して「Human」という一生ものの名曲を書き上げた。その「Human」を収録したサード・アルバム「Day&Age」は彼らの復活作として各国で大絶賛され、キラーズは名実ともに世界一を誇れるバンドになった。

 ふむ、これだけ見ればハッピーエンドの、素晴らしいバンド・ストーリーということになるだろう。だが、ちょっと待ってくれ。アメリカの雄大な大地の香りがプンプンしてくる「Sam's Town」はそんな簡単に失敗作で片付けられるべき作品では断じてない。現在のライヴでも盛り上がりまくるスタンダード・ナンバーを多数生み出しており、サウンドの広がりという点でも特筆すべきアルバムだ。これがなければサードの「Day&Age」は絶対ない。「Day&Age」はファースト回帰などではなく、「Sam's Town」の空気もたっぷり吸っている。なぜこれだけセカンドの重要性を説いているかというと、ブランドン・フラワーズのソロ作がこの「Sam's Town」で扱ったテーマと深く関係しているからである。アルバム・タイトルの「Flamingo」とはラスヴェガスの中心部を走るフラミンゴ・ロードにちなんでつけられており、大仰なシンセサイザーとどっしりとしたテンポが予感的な冒頭曲のタイトルもまた「素晴らしきラスヴェガスへようこそ」なのである。ブランドンはキラーズのアルバム用に書き溜めた楽曲を使って、もう一度ソロでラスヴェガスという街を「擁護」しようと心に決めた。そこがいくら悪名高い地であろうと、彼にとってはかけがえのないホーム・タウンであり、「Sam's Town」に失敗作のレッテルが貼られていることは我慢ならなかった。そう、だからキラーズは今でもライヴの最後にセカンドの「When You Were Young」をプレイする。

 長くなってしまったな。では、その肝心のブランドンのソロ作の内容はどうなのか。サウンド的にはキラーズと何ら変わりない。感触レベルではやはりソロ作の趣も感じ取れるが、あり得ないくらいどの曲もアンセミックで、私のようなキラーズ・ファンであれば間違いなく心の中で拍手喝采だろう。私なんかテンション上がり過ぎて一晩中踊り狂ったぞ。うわーまじで日本来てくれよー! って切実に願ったぞ。野心ムンムンで結構。童顔に髭で結構。実はシャイで結構。ハード・ロックに勘違いされるのも結構。日本で売れないのは駄目だけど。さて、ここまで読んでくれたあなた、是非このアルバムを手にとってくれ。両極端にあるはずのジャンル、アメリカン・ルーツとUK的キラキラが当然のように共存する最高のアルバムだ。何だかよく分からないし、説明できないからこそ、ブランドン・フラワーズというアーティストは、あるいはキラーズというバンドはあなたにとって生涯最高の音楽体験になる可能性を十分に秘めている。私は本気で言ってるんだ。聴いてくれ、この機会に。

 ブランドンはいまもラスヴェガスの地平線のはるか向こうを見つめている。そのハートは熱く熱く燃えている。

(長畑宏明)

RATATAT 『LP4』(XL)

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ratatat.jpg 邦題を付けるなら、やっぱり「インコ大集合!」でしょう。ヴァンパイア・ウィークエンドの1stアルバムに付けられたトホホな邦題をあえて引用してみたくなる。そんなジャケットが素敵なラタタットの4thアルバムは、その名も『LP4』。前作が『LP3』だから当然なんだけれど、投げやりなのか周到に練られたコンセプトなのか、今のところ謎だ。1、2、3、4、...総勢11羽。覚めた目のインコたちがシンメトリーを描くジャケットの裏には「LET YOUR BIRD EAT ITS BEAK」の文字が踊る。「お前の鳥にくちばしを食わせろ」って、謎が深まるばかり。

 ヒップ・ホップのビートに乗っかるマイク・ストラウドの歌っているようなギター・リフとエヴァン・マストによるビンテージ・シンセのキャッチーなフレーズが相変わらず気持ちいい。今までは、ダフト・パンクに影響された「人力エレクトロニカ」という感じだったけれど、この「インコ大集合!」ではなく『LP4』では、よりアレンジの幅が広がって表現力がアップした。音を聞いていてイメージできる世界が本当にカラフル。だからライブやクラブで大音量で聞くと楽しいと思う。そして、ヘッドフォンでじっくり聞くのにもおすすめ。

 アルバム全体がちょっとユルめのBPM。アコギ、パーカッション、アナログなハンド・クラップなどが飛び交うサウンドにストリングスが奥行きを持たせる。サンプリングにも遊び心がいっぱい。虫の音や映画の台詞(ヴェルナー・ヘルツォークだって)、そしてインコたちの可愛らしいさえずり。音のレイヤーが本当に美しい。繰り返し耳を傾けていると実験的、というよりも音を楽しんでいる感じが伝わってくる。ライブで盛り上がりそうな「Drugs」では、泣きのギターとビュンビュン唸るシンセが炸裂。トロピカルなメロディの「Mahalo」(ハワイの言葉で「ありがとう」の意)は、なごみ系の小さな曲。アルバムは後半になると、どんどんトライバルでポップになる。ラスト3曲「Bare Feast」から「Grape Juice City」、「Alps」への流れが僕は大好きだ。この辺りが次のアルバム(LP5?)の布石になるのかな。

 ラタタットが鳴らす音楽には歌詞がなく、曲名も記号的。ビジュアル・イメージは極端にミニマル。テクノ/エレクトロニカのアーティストには多い手法かもしれないけれど、彼らの場合はどこか無邪気で人懐っこい。歌詞はないけれど、曲を聞けば思い浮かぶ風景や色がある。ニューヨークの賢くて意地悪な2人組は、僕たちのイメージを刺激する。しかも、踊れるんだから最高だと思う。でも、やっぱり11羽のインコたちが意味することって何だろう?それを思い描きながら聞くのも楽しい。

 僕がこのレビューを書いている今日は9月11日。あの出来事から9年がたった。偶然にも今こうして、ニューヨークから鳴らされるサウンドを聴きながら色々なことを考えた。忘れないこと。 

(犬飼一郎)

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disclosure.jpg 僕は最近「なぜインターポールを好きになれないか?」が分かった。インターポールがゼロ年代の音楽シーンに与えた影響は認めるし、彼らは商業的な成功も収めている。でも、僕にはインターポールがポストパンクのコピーバンドに見えてしまう(特に『Turn On The Bright Lights』期は)。ちなみに、「コピー」と「パクリ」は違う。「コピー」は文字通り複製だけど、「パクリ」は拝借、若しくは「引き継ぐ・受け継ぐ」といった意味合いがあると思う。そういう意味では、音楽の歴史はパクリの積み重ねで作られてきたともいえる。ルーツ・ミュージックと言われているブルースやカントリーだって、20世紀の発明品に過ぎないし、当然ブルースやカントリーの前にだって、音楽はあった。

「コピー」は音楽を広めることはあっても、発展させることはない。その「コピー」する対象に「なること」が目的だからだ。そういう意味で、僕はインターポールを好きにはなれない。しかし「パクリ」は、パクる対象の音楽を「やること」が目的だ。その「やること」には、「自分」が入り込む隙間があると思う。だから「パクリ」は音楽を発展させるのだ。そしてその「パクリ」に入り込んだ「自分」が、やがてオリジナリティを獲得していく。ビートルズだってレディオヘッドだってそうだ。みんなパクリなのだ。

 そしてディスクロージャーのデビュー・シングルである。はっきり言って、ツッコミどころがありすぎるくらいたくさんのパクリがある。UKガラージを基本として、エイフェックス・ツイン、オウテカ、オービタル、ジ・オーブなどなど。でも、お茶を濁す的に誤魔化して、「なんちゃってオリジナル」になることもなく、「だって好きなんだもん」というふてぶてしい感じも(アーティスト自身がふてぶてしい性格かは分からないけど)、好感を持てる。なんだか、ケミカル・ブラザーズをパクッたアトミック・フーリガンを思わせる(まあ、彼らの場合パクるセンスがイマイチだったけど)。グローファイやチルウェイヴに多く見られがちな、「好きなことをやってやる!」と肩を張りすぎて、結果的に趣味性が強すぎる内省的でつまらない音楽をやるバンドやアーティストが多いなか、こうした「軽さ」というのは、新鮮に映る。肩の力を抜いて、新しいセンスを見せつけてくれるのは、最近だとハドソン・モホークくらいでは?

 音自体は、決して新しいというわけではないのだけど、圧倒的なセンスが、すべてをOKにしてしまっている。そして、そのセンスというのが、なんとなくインディ的な香りを漂わせている。そこが、クッキーシーンの読者の琴線に触れるかも。「センスが大部分を占めている音楽は好きじゃない」という人もいるだろうけど、そこは大目に見て、まずは聴いてみてください。先に挙げたビートルズやレディオヘッドだって、最初はセンスが大部分を占めていたんだから。

(近藤真弥)

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gotan_project.jpg「世界は人間なしに始まったからこそ、人間なしに終わるだろう」とは、レヴィ・ストロース「悲しき熱帯」でのフレーズだが、果たして初めから人間は在るべきなのか、「在る」からこそ、喪失の儀式付けを行なうべきなのか、と考えるときに、「ダンスと貧困と愛的な何かの連関的な切なさ」が演繹される。私的にスクワット・パーティー的な瀬戸際の場所でふとマッシュアップで流れたゴタン・プロジェクトの音の破片は何故か、とても優しく悲しく、冒頭のような言葉を想い出さざるを得なかった。

 タンゴとは、そもそも19世紀末頃に生まれた混血音楽で、港湾町の貧しい一角で、キューバのアバネラのリズムなどを援用しながら、ブエノスアイレスの娼家や酒場でのダンスの伴奏としての音楽だった。ブエノスアイレスという街は、南米でも大きい港で、貿易に使われるだけでなく、ヨーロッパからの移民が上陸する場所でもあった為に、兎に角、様々な人種が行き交った。しかし、当時、本当は「アルゼンチンの白人」と言えば、スペイン人を指した。勿論のこと、19世紀の移民にはイタリア人、ドイツ人、ユダヤ人も、そして黒人も多かった。また、港湾町にはよくあるヤクザや娼婦の溜まり場にもなっており、そこで粗雑に酒場で「踊るための、あくまで伴奏」としてタンゴという形式が形作られていった。なお、1910年代後半に初めてタンゴに「唄を持ち込んだ」のはカルロス・ガルデルというのは周知だろう。カルロス・ガルデルは所謂、「歌謡タンゴ」と言うような域を越えていないものの、民謡にもいかず西洋にも被れず、独自の歌唱でアンソロジーとして纏められるような始祖にもなった。

 タンゴというのは、ベースはフルート、ギター、ヴァイオリンを用いて、リズムはどちらかというと「前のめり」で、20世紀に入ってからドイツからアコーディオンの一種という「バンドネオン」が入ってきたのもあり、それこそピアソラのような巷間的に通じる「タンゴ」の形式の鋳型が取られることになる。そして、結果的にフルートはなくなり、ピアノが導入されるものの、基軸はバンドネオンが担う事となり、あの重厚で哀愁なリズム感が産まれることになる。それと呼応するように、ブエノスアイレスではその頃、ヨーロッパ諸国からの貧しい移民の流入が相俟って、移民の持つ「悲しみ」とタンゴの、バンドネオンの持つ「悲しみ」はシンクロした。

 そして、第一次世界大戦の影響でアルゼンチン自体が好況にもたらされる中、パリジャンがタンゴに興味を示し、西洋諸国でもタンゴが用いられるようになり、結果として、タンゴは1920年代から1930年の間で洗練化されることとなりながらも、よりヘビーになる。

 そんなタンゴの歴史を踏まえ、エレクトロニカ的要素を加え、クールに上品に折衷させたのがゴタン・プロジェクトだった。兎に角、センスの良さもあり、デビューしてから映画、CMまで世界中で引っ張りだこになったので存在は知っている人は多いだろう。前作の『Lunatico』に至っては世界で200万枚をもセルアウトした。今回、彼等の4年振りのサード・フルアルバム『TANGO 3.0』が届いたが、良くも悪くも相変わらずの流麗な内容に終始しており、抜本的な梃入れや冒険は為されていない。ファースト・アルバムの中の「Epoca」のような決定的な曲がない分、地味だとも言えるし、生粋のタンゴ・リスナーからは相変わらず拒否される表層性と、ダンス・リスナーからは無視されるファッショナブルさが仇にもなっている。挑発的なアルバム・タイトル含め、フェイクを意図したスノビッシュさに溢れている。例えば、「La Gloria」では一瞬、「スラム」のスタイルを思わせる部分があるし、ストリート・ミュージックへ目配せをしてみせた部分も間接的にあるのも確かだが、あくまで「借り物」を自覚したシックな諦めが初めから投企されている。

 今回のゴタン・プロジェクトの提示する音像はファッショナブルに消費されてゆくだろう。その消費される場所は、もはや以前のようにダンスフロアーでも、インテリア・ミュージックでも、BGMでもないかもしれない。つまり、この音楽は別に「客体を求めていない」からだ。個人的に聴いていて、これだけの空虚性を感じた音楽は久し振りとも言える、意味も残響も何もない「無ではない」音楽。以前にあった、狙い済ましたようなフェイクネスさえも自らの力で、メタ的にフェイクで捩じ伏せた「人間のいない音楽」として現代的なフォルムを描く。

(松浦達)

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rose_elinor_dougall.jpg 水玉模様の服を着て、「Judy」や「Dirty Mind」でリード・ヴォーカルをとっていたのはもう3年前。ピペッツは分裂し、オリジナルメンバー3人はそれぞれ別の道へ。そして、ローゼイこと、ローズ・エリナー・ドゥーガルはソロとしての道を選び、ついにデビュー・アルバムが完成した。元気一杯なかつての音楽性は跡形もない。代わりにあるには、愁いを帯びた彼女のルックスにふさわしい作品だった。

 基調となっているのは、ロネッツやシャングリラズといった60年代ガールズ・グループのポップネスと、モータウン風のリズムセクション。だが、ピペッツとの音楽性を避けるかのように、やんちゃなポップ・ソングは一切ない。何より違うのはヴォーカルだ。「等身大の女の子」だったピペッツ時代とは違い、一貫して気品が漂っている。そのちょっぴりさびしそうな歌声は、花に例えるならコスモスといったところだろう。

 また、「Come Away With Me」や「To The Sea」を始めとする、収録曲の多くではスコット・ウォーカーやアーサー・リーを思わせるバロック・ポップの要素を導入、結果、まるで夜のメリーゴーラウンドのように幻想的なきらめきをたたえている。もちろん、楽曲のバラエティはそれだけにとどまっていない。「Carry On」ではロックに振り切ってくれているし、「Another Version Of Pop Song」ではオ・ルヴォアール・シモーヌを思わせるキーボードが歯切れよくメロディを刻んでいく。

 クラシックさにこだわりつつ新たな挑戦が感じられる、ソロとしての活動が実りあるものであったことを証明するアルバムと言えるだろう。最近ではマーク・ロンソンと共演し、着々とソロとしてのキャリアを築いている彼女。もう「ローゼイ」とは呼ぶなかれ。今の彼女は以前とはまったく違うのだから。

(角田仁志)

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rock_fashion.jpg パスカルは「人間は死と不幸と無知を癒すことができなかったので、幸福になるためにそれらのことについて考えないことにした」と言った。これは簡単に「根源的に、不幸にならないために考えることにした」と翻訳し直すならば、ロックが反射させるファッション性は「幸福を目指す」というより、「不幸を避ける」為の何かに転回する。この場合のファッションは、時代の風俗性を描写する鏡でもあるから、「流行」と捉えるのも、そのまま今様に「服装」と捉えても問題は無いと思う。
 
 この10年、モード・ファッション界隈で「ロック」の文字を見ない事が難しくなり、ジョイ・ディヴィジョンやらキース・リチャーズやラモーンズ、ボブ・ディラン、果てはカート・コバーンからヴェルヴェット・アンダーグラウンドまでネタ「探し」に奔走しているのはそこまで現場を知らなくても、感得出来る。
 
 衣服史的に、昔、「衣装とはその人の生業を示すアウラ」だった。騎士、農民、僧侶諸々を指し示す体現記号として。ただ、1950年代以降において、特に若者の間で、同じ嗜好・思考をシェアするツールとして衣服を纏いだす。
 
 衣服史としてのロックで有名なのは、60年代のモッズだろうか。ジャケットの襟幅に拘り、ボタンの数に執着し、カーキのパーカーにヴェスパ。イタリアの服飾の美しいフォルムや美学を模範した形で、ロウワー・ミドルクラスの人達が「中心」を担い、ロンドンで火がつき、そのまま、富裕なワーキング・クラスにも「自然」とパスティーシュされるようになった。ザ・フー、スモール・フェイセス、そして、ザ・ジャム。また、ザ・ジャム、スタイル・カウンシル、ソロとしてロールし続けるポール・ウェラー。

 元々、モッズの必須アイテムであるフレッド・ペリーの月桂冠マークに強い「思想」が帯びていたのは周知だろう。ロッカーズとの「対立」軸を置いた時に見える差異。ロッカーズとは、今のヘビメタ勢に引き継がれるバイクメンたちの集まりで、イギリスだと北部の地方労働者に当たる訳だが、革ジャン、ジーンズのスタイルをベタに示唆する。モッズの人たちは基本、聴く音楽でもクール・ジャズやスウィングを好んでいた訳だから、「洗練された感性VS日常の野放図さを愛する人たち」の明確な対立図式は「今も」あるのかもしれない。「色彩鮮やかな服」対「黒」。「カラフル・ライフ」対「モノクローム・サンセット」。モッズは「頭も良く、財力もあったりする」ものから、それなりにサヴァイヴの導線とか体制との折り合いを付けていくのだけれども、ロッカーズは「外れ者」の道筋を行った。
 
 そして、ロンドンからはモッズのよりやわらかなものとして、「サイケ」というものが現れる。スウィンギン・ロンドン。サージェント・ペパーズの世界。そう、色鮮やかなスーツや、花柄のシャツに代表されるスタイル。ただ、「サイケ」と音楽の共振は存外なく、それだと、「ヒッピー」というウッドストックから出てきたスタイルの方が、ロックとのユーフォリックな邂逅だったかもしれない。ジェファーソン・エアプレイン、ジャニス・ジョプリン等の示したルーズで、ダラっとしていて、でも、少し褪せた色目の服装。つまりは、「BACK TO THE NATURE」。自然に還ること。今ならば、「森ガール」的なものは違う位相での「自然」を希求したが、それは「自然体」と「自然」の差くらい歴然と離れている。加え、モッズが「消費社会の到来の中で、消費社会を逆手にお洒落に生活をおくろう」としていたのに比して、ヒッピーは清潔性や消費社会なんかスルーして、そもそも人間なんて自由にある「べき」だという流れを汲んでいたと言えるかもしれない。
 
 その後、「ロック的ファッション」は百花繚乱になり、リバイバルに次ぐリバイバルなど、再・分化の波に攫われていくが、セクト化はあまり為されなかったり、「如何にも、ロック」というファッション性はなくなる。その中で、今でもフェスでの服装含め根強いのは、AC/DC等の流れを経てのハード・ロック・メタル・スタイルの「黒・革ジャン・鉄鋲・長髪」かもしれない。ロッカーズなどの流れを踏まえながらも、70年代以降はそれなりに高級志向にも選別思想に走り、逆にそのスタイルを纏う事が選民性を強めた。逆エリーティズムの観点から、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドなどのNYファクトリー界隈の低温でクールなスタイルは外せない。黒の革のパンツに白いシャツ。今現在でも、これは多く、そのNY発の小綺麗なものを安全ピンで繋ぎ直したのが、ロンドン・パンクと言える。

 90年代、グランジが世を席巻した際、「汚い恰好」と「カーディガン」が流行り、ブリット・ポップにより、フレッド・ペリーのポロやベン・シャーマンのシャツがハイブロウにクールに蘇り、00年代ではリバティーンズやストロークスの絡みで、スリムで洗練的でエッジなファッションが最尖鋭を極め、当時のディオール・オムを手掛けていたエディ・スリマンというカリスマの所為で、ハイ・ファッション界の方が「ロック」的になり、ストリートは古着「以前」のレベルまで落ちてしまったという反転現象が起きたのは奇妙だった。

 今はどうなのか。ロック的ファッションはここに来て、バブル、インフレ状態にある。「モードとしてのロック・ファッション」を競い合うその瀬に、遂には「LOVELESS」という名前のセレクト・ショップが生まれ、独自の目線からのセレクションで、世界中のファッショニスタから注目を受けている。

 最後に。文中では詳しく触れられなかったが、アディダスのスニーカーを履くイアン・ブラウンやアークティック・モンキーズの面々の在り方も「思想」だし、一つのメッセージだ。ファッションの在り方を考え、そこに働いたエントロピーを「確かめる」作業も肝要なことだろう。それこそ、今のロックとファッションとの「繋がり」を掘り下げていくことで、ぼやけていた音楽の鳴り方も明確になり、また、気にしていなかったかもしれない彼等の服装の意味にも視線が行くようになるのは実はとても意義のあることと思う。ロゴ・マークは決して商業的な罠だけではないのだ。

 筆者自身、フレッド・ペリーのポロシャツを着てモッズ・コートを着る意味は決して酔狂ではなく、ロックに受けたスティグマを自分なりに表象するための明確なメッセージでもある。

(松浦達)

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I AM KLOOT

曲の主人公たちは、夜空を見上げながら、多くの場合は
まだ答えを探している段階で、結論まで至っていない


現代きっての吟遊詩人...もしくは孤高のソングライターと評されてきたジョン・ブラムウェル率いるバンド、アイ・アム・クルート。2001年にウィー・ラヴ・ユー・レコーズからファースト・アルバムをリリースした頃は、キングス・オブ・コンビニエンスやコールドプレイらと並ぶ「ニュー・アコースティック」勢のひとつにカテゴライズされていた。彼らはマンチェスター出身。当時その町で話題になっていたアーティストにたとえるなら、バッドリー・ドローン・ボーイに通じる部分も。当時クッキーシーンに掲載されたインタヴューで、ジョンはこんなふうに語っている。

「ソングライティングを始めたきっかけのひとつは、ブレヒトの『Mack The Knife』(注:クルト・ワイルが作曲を手掛けた『三文オペラ』劇中歌)。あの曲は、まるで自分の一部のように思える。泥棒や、くず拾いや、ヤクザものが、一斉に迫ってきて、うなったり、ささやきかけてくる。俺は、伝統の中でいつの間にか埋もれてしまい、あまり顧みられなくなった音楽を現代によみがえらせたい。棍棒や、銃や、レンガをかざして。そういった曲は、松葉杖をついているか、車椅子に乗ってやってくる。以前、俺のことを、病気によるひどい内股のジーン・ヴィンセント(注:波乱の人生を送った50年代のロックンローラー。露悪的だが真摯な"うた"を不自由な身体で歌いつづけた故イアン・デューリー、も彼に捧げる『スウィート・ジーン・ヴィセント』という曲をやっていた)と形容するレヴューを見たけど、すっげえ気に入ったよ(笑)」。

あれから、もう10年近く。その志向性にふさわしい渋みや年輪も身につけたアイ・アム・クルートが、明らかに最高傑作と思える5作目のオリジナル・アルバム『Sky At Night』を完成させた。同じマンチェスター出身の盟友エルボーのメンバーがプロデュースを担当している。日本にはあまり情報が広く行きわたっていないようだが、エルボーは本国では相当の人気バンドだ。そして、これまでイギリスやヨーロッパで着実に評価を高めてきたアイ・アム・クルートの道程を祝福するかのように、『Sky At Night』は全英トップ20に迫るヒット・アルバムとなり、マーキュリー・プライズの「2010 Albums Of The Year」にも選ばれてしまった。いや、そんなことより、あるビッグなアーティストがこんなふうに語っているという事実のほうが、アイ・アム・クルートの魅力を日本のロック・ファンに伝える手段としては、より適確なのかもしれない。

「ジョン・ブラムウェルは、この10年でこの国が生み出した、最も優れたソングライター4人のうちの1人である」(ピート・ドハーティ)

アコースティックかつソウルフルな魅力にもあふれた『Sky At Night』は、なぜ「深遠でありながら同時にポップであり、不思議な軽やかさ...風通しのよさを感じさせる」のか? その「塩梅」の秘密に少しでも迫るべく、ジョンに聞いた。

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COOKIE SCENE NIGHT
Paraele Stripes "feyz" release party



というわけで、久々にクッキーシーン・ナイト、やります! 編集部の小熊&伊藤がぞっこん惚れ込んでいるパラエル・ストライプスのニュー・ミニ・アルバム「feyz」のリリース・パーティー in 名古屋とドッキング! ってな感じで(伊藤の一身上の都合により、今回は名古屋のみ。他の場所の方々、すみません!)。

以前たしかエックスオーエックスオー・パンダ(ハー・スペース・ホリデイ)名古屋公演のフロント・アクトで見て、すっげーいいポップ・バンド! と思ったカレシ、そして地元期待の新世代バンド、フームー(fu-mu)と<水面あがる。>もかけつけてくれます。さらにはワン・バイ・ワン・レコーズの芝山順次氏もゲストDJにフィーチャーされるという、なんとも豪華なラインアップです。

なによりライヴを見ることを楽しみにしているぼくも、もちろんDJやらせていただきます。どっちかっつーとアッパーな曲を、がんがんかけますよー!

ギリギリのお知らせになってしまい申し訳ありませんが、当日は盛りあがること間違いなし(と言えるのではないかと思います:笑)! 楽しみましょう!

9月16日(木)名古屋 今池 CLUB UPSET
開場:18:00 開演:18:30

出演バンド:

PARAELE STRIPES
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MySpace

FU-MU
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公式サイト, MySpace

水面あがる。
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公式サイト, MySpace

DJ:伊藤英嗣 (COOKIE SCENE)
Guest DJ:柴山順次 (ONE BY ONE RECORDS)

料金:2,000円+ドリンク代500円


チケットびあ:P-CODE: 118-204, ローチケ/Loppi:L-CODE: 46451, イープラス

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qururi_kotobani.jpg 前作の『魂のゆくえ』やツアー、それを巡る周縁状況、京都音楽博覧会に向けてのクエストや、携帯サイトなどに関しては、僕自身は辟易する部分があった。彼等なりのセルアウトの試みというよりは、これまで信頼してきたファンにはせめてレールを敷いてあげたい、というまるで、一種の運命共同体的なスタンスを打ち出してきたという追い込まれ方には苦い想いが響いたからなのもある。

 くるりの「モード」とはファッション業界の「波を読む」のと似ており、時折、急速な転回と分裂が為されるが着地するポイントは外していない、という奇妙な美しさと鮮やかさがあった。巷間的なピークは『ワルツを踊れ』でのウィーン録音、クラシック×ロックの折衷などという意見は個人的にはどうでもいいし、その都度のピーク・ポイントを「更新」するように表象するのが巧みな彼等はいつでも「さよなら」や「離別」をモティーフに新しい風景を見たいが為に加速し続けてきたバンドだったから、いつでも過渡期をアフォードして生真面目にワールズエンドで踊っていた無様さを追認出来ればそれで良かったのもある。

 初めに言うと、今回のアルバム『言葉にならない、笑顔を見せてくれよ』にはこれみよがしなフェイクも意匠も無い。メジャーデビューアルバムの『さよならストレンジャー』でさえ平熱のようで「気負い」はあったのに、そういったものさえも無い。もっと言うと、岸田氏、佐藤氏、BOBO氏の3人のアンサンブルによるバンド・サウンドが余計な情報量を排除しながら、健康的に鳴っている「それだけ」のアルバム。くるりでなければ、今の時代において、ギミックなしのどれだけ飛距離を延ばすのかが視えないシンプルな内容のものも作れないだろう。出てくるテーマも「温泉が心地よい」、赤塚不二夫的な「これでいいのだ」、「男女間の微妙な行き違い」、「麦茶の美味しさ」とかほんのささやかな、目の先5m程の日常といつもより捌けた希望的な何かが描かれており、ここには彼等の曲ではお馴染みかもしれないブレーメンもピーナッツもジョニーも悲惨な目には合わない(「犬とベイビー」での、不甲斐ない男性側に対する女性のモノローグなどは「らしい」ことにはなっているが)。

 透き通った景色に透き通った筆で描く所作の難しさを簡単に行なっている部分はくるりとしか言いようがない流石に凝ったプロダクションで、『Harvest』期のニール・ヤング、60年代のR&Bに則ったストーンズ的な野卑なロックンロール、ボ・ガンボスやSFUが持っていた辺境の音楽への愛、または岸田氏自身の嗜好が如実に表れた70年代のヘヴィー・ロック、また、彼等特有のはっぴぃえんどをメタ解釈したフォーキーな風情のもの、前作からのブルーズ・ロック路線のものまで相変わらず幅広いヴァリエーションの曲が入っている。「色々と入っている」と言っても、例えば、『THE WORLD IS MINE』の頃のような散らかった印象を全く感じさせないのは彼等自身が今、「くるり」の身の丈を弁えているからだろう。ゆえに、10代~20代前半の若いリスナーにはこの程良い温さはどこまで届くか、分からない危惧もある。

"さよなら さよなら 再起動
やり直しはきかないから"
(「コンバット・ダンス」)

 ましてや、今、「くるり」という記号を巡る磁場はB面集のベストがオリコンで1位になるという捻じれの位置にいる。それはつまり、まだ「身銭を切ってパッケージCDを買う世代」のギリギリの命綱的な何かであるとも換言出来るだろうし、だからこそ、積極的に「ラジカルな事をする」必要性は無いのかもしれないし、岸田氏がMySpaceといった媒体でふと「東京レレレのレ」を発表したり、Twitterにおいて急にUstreamを始めたり、高度情報時代への目配せをしても、総てはオプション的なものに過ぎず、逆説的に本アルバムでは余計な外部情報や雑音を拒否した、どちらかというと、人肌通うウォームな肌触りと肌理細やかさを孕んだタイトなものになっているのも自明の理と言える。反動の反動。加え、いつも、くるりの歌に出てくる「君」や「空」は儚くて所在無げだったが、それは、いずれその「君」も「空」も移ろうという瞬間に自覚的だったからで、今回は普段通り見える「青い空」にミサイルは飛んでいない。星条旗の先の不条理さを解明して「さよならアメリカ」と言いながら、僕は「ここにいる」と言う潔さもある。何だか、これだけ聴いて切なくならない、くるりのアルバムというのは初めて聴いた気がする。「僕」も「君」も等換可能な記号範囲内でもがき苦しみながら、「コンバット・ダンス」をするしかない悲しい檻に閉じられているとしても、"涙など流しやしない"(「目玉のおやじ」)と表明する明るさは非常に強い意味が宿って響く。

『図鑑』にあった閉じ方やシーンへの葛藤、『TEAM ROCK』にあった強引なダンス・ユーフォリアへの接近、『THE WORLD IS MINE』の茫漠とした風景、『アンテナ』のプログレッシヴな男気溢れる音の饗宴、『NIKKI』の3分間のポップの連弾から持ち上がるポップのマジック、『ワルツを踊れ』の荘厳さ、『魂のゆくえ』の剥き出しの痛々しさを経て、現在進行形でフラットに日々の「生活」と「コミュニケーション」に回帰しようとするくるり『言葉にならない、笑顔を見せてくれよ』は本質的にとても野蛮だ。だからもし、このアルバムで繋がれなくなっている受容側が居るとしたら、それも一つの正解でもあると言える。数多の化学調味料とバイアスが混じった視界で、外を歩き回って飲む麦茶の美味しさが素晴らしく、目の前に在る君の笑顔ほど、リアルなものはないと言い切れる自信は僕には無いのも事実であり、一通のメールや電子媒体を通してのヴァーチャルな遣り取りや難解で抽象的な記号論にだって、救われる瀬があり、そうなると、これはくるり流のレイドバックを企図したとも言える。

「春風」に漂っていたような万能的な幸せは無いが、その尺度を用いるに相応しい「優しい日常」をコンパクトに描いた作品の温度に対して、このアルバムを聴いた人たちが言葉にならない笑顔を、見せるのか、非常に興味がある。君と世界との闘争では世界につくのだろうか、まだ。

"泣かないで ピーナッツ"
(「魔法のじゅうたん」)

(松浦達)

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ogre_you_asshole.jpg "ここまでの君はどうかしてる"
(「バランス」)

 要は、「僕」ではなくて、どうかしてるのは君だという訳だ。このクールな突き放し方に、日本の新世代勢の表現者の一部が共有している感性のヒップな優しさを受容してしまって、グッときてしまった。ポストモダン的に「僕」を消すことを厭わないが、モダンでは「僕」は書き換え可能だということ。

 最近、個人的にエッジがあると想う日本のバンドの中、ザ・ミイラズモーモールルギャバン、踊ってばかりの国、そして、今回のオウガ・ユー・アスホール(OGRE YOU ASSHOLE)といい、彼等は積極的に「自死」の翳を散りばめる。しかも、そういった表現を覆うサウンド・テクストは意外と「ベタ」なギターロックだったり、ファンク、レゲエ、ローファイだったり、意匠は違うものの、脱力した生真面目なリアリティからの脱却の回路が敷かれているのが僕にはフラットに新しく映る。もうわざわざ「表現のために音を選ばなくてもよくなった」、つまりは「この表現にはこの音でしかフィットしない」、という規範となるレールからの外れ方が予め内在化されており、彼等の背後にはぼんやりといつも今は亡きフィッシュマンズやゆらゆら帝国などの存在が亡霊として平然と歩いている。それは、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の中でマルクスが、「人々は自分自身の歴史をつくる。だが、思うままにではない」として、人々を動かす「過去の夢魔」を分析したように、夢魔をそれぞれなりに嚥下して、今ここで起きる白昼夢をリアルに生き抜ける。
 
 彼等のキャリア自体は決して短くなく、また既に一定の評価を受けているバンドだが、今年の春から八ヶ岳の麓にスタジオを構え、そこで活動を始め、今回の『浮かれている人』に繋がった流れでは確実にパラダイムのシフトが起きている。森での空気感が融け込んでいるかのように何処か隙間のあるサイケデリアの中に鳥の声や葉の擦れ合う音さえ「含まれている」ような、柔らかさと緩さを孕んでおり、そこにペイヴメントやモデスト・マウス、ビルト・トゥ・スピル等が持っているUSローファイ感があり、DFA界隈が持っていたハンドメイドのダンス・ビートが揺れている。その「誤差」分をゆらゆら帝国『The Sweet Spot』以降の「隙間が埋め立てている」とでも言おうか、bonobosの光も乱反射している不気味さがある。スイートだが、毒を孕んだ甘さがある。

 キルケゴールは、人生には三つの有り様と段階があると考えた。ここで言う「段階」には、どの有り様に置かれようと、どんな人間もより高い「段階」に飛ぶことが出来るという意味が含まれている。しかし、多くの人々がある一つの段階で一生を過ごしてしまうとされてもいる。まず、この段階の人が殆どだろうが、「美的実存の段階」にいる人間は刹那的に生きていて、楽しむ機会ばかり希求して、躍っている。「感覚」の世界に浸かり、自分の快楽や気分に隷属して、面倒なことには一切、乗らない。懊悩にしても、美的、或いは鑑賞的な態度を取るだけだ。そこで軸になるのは「虚栄心」。「虚栄心」は人を多弁にさせ、「自尊心」は人を寡黙にするというアフォリズムが有効ならば、例えば、オウガ・ユー・アスホールは饒舌を気取らないのか、理由が分かると思う。

 簡単に言えば、「美的実存の段階」にある場合、人は虚無に囚われやすくなる。しかし、このような感情が故の希望の矢印を視る事が出来るとキルケゴールは考える。「不安」への肯定性。今の時代、「死に至る病」なんてもう、前提条件であれども、わざわざコース料理のメインディッシュになる程のものではない。「不安」は個人が「実存的な状況」にあると気付いた証左だとしたら、「レースのコース」に一瞥するだけなのだ。

 そういう意味に沿うと、彼等はこのミニアルバムを経て、「美的実存の段階」から「倫理的実存の段階」へと跳躍するように促す「選択」をしようとしているのかもしれない。ソクラテスの「本物の認識は自分の内側からやってくる」、という言葉に沿うならば、「実存的な空洞」を非・実存的な筆致とサウンドスケイプで脱臼させてみせた、自己における「実存的な状況」への"気付き"が、別方向に捩れるならば、次の作品はカント的なものとして「倫理的実存」に着地してしまう憂慮もあるのだが。何故なら、カントの倫理学では、道徳律や努力といった言葉が蠅のように観念を飛び回るからだ。

 彼等は果たして、「深淵への跳躍」は可能なのか、俄然興味が尽きない「過渡期の一枚」にして、「変化の橋」としてキャリアにおいて何らかの楔になる鮮やかな美しさを持った「理知的な」作品になった。「生ける理知に飛び込む」ことによって、人間がサルヴェージされるのは、本当は実存なのかそうではないのか、を露わにすることになるだろう。

 反復されるミニマル・ビート、ローファイネスと60年代のような甘いポップネス、かといって、回顧主義にはならないように仕組まれたコーラス・サンプリングとエフェクト処理、そして、ふと挟まれるシニシズムの視線が容赦なく、借り物の実存を対象化しながら、フィッシュマンズが『空中キャンプ』で提示した「夏休み」なんて何処にでも転がっているものさ、というスタイリッシュな冷酷さが「夏休みを終わらせない」という反転現象を示唆させる。でも、そこで「浮かれる彼 背に浮かぶ」と歌うように、背中合わせで、僕たちが体験しようとしている夏休みではないところが彼等のまた良い所だと思う。

(松浦達)

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world's_end_girlfriend.jpg 最近のワールズ・エンド・ガールフレンドを知っている人ほど驚くと思われる、自身が設立したレーベルから出される新作。
 
 今作は、ワールズ.エンド・ガールフレンド初期、または変名で出されたワールズ・エンド・ボーイフレンドの作品に顕著な、エイフェックス・ツインを髣髴とされるブレイクビーツが前面に出ており、おそらく筆者含む多くがイメージしているであろう美しく叙情的で大きなスケール感を持ち、そのなかに狂気や恐ろしさ が、絶妙なバランスで同居する感触は、影を潜めているといっていい。レーベルの紹介文には「破壊と構築、愛と間違いに満ち満ちた異形のポップミュージック・アルバム」とある。まさに言い得て妙。
 
 さらにこの作品が他のどの作風とも異なるように聞こえるのは、それまでと全く異なる楽曲の組み立て方によるものだろう。一般的なメロディ付きの構成で曲を組み立て、そこから歌メロを全て排除してアレンジを加えていったという。それにはどこかゲーム音楽を彷彿させる部分もある。そして何よりそのような「構築と 破壊」を地で行きながら、いちど聴いてわかるようなワールズ・エンド・ガールフレンド独特の旋律は失われていない。特に6曲目から8曲目に続く『Bohemian Pargatory』でそれが感じられる。
 
 しかしいずれにせよ全体を通してそれこそ異形のモンスターを感じさせるような、異彩を放つアルバムである。

(藤田聡)

 

*9月14日リリース予定です。【編集部追記】

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mirraz.jpg 以前に読んだ元格闘家の須藤元気著『風の谷のあの人と結婚する方法』という本に『守・破・離』の法則がわかりやすく書いてあった。以下引用。

 学びの基本は『守・破・離』の法則。守って破って離れる。最初は先生の教えを忠実に『守』ります。そこで物事の基礎を身につける。それができたら次は、基礎を『破』りつつ、そこから自分の色をつけていく。いわばアレンジ。アレンジができたら先生から『離れて』完全にオリジナル化する、それが『守・破・離』の法則。

 全ての創作はこれに当てはまると思う。完全なオリジナルというものはいろんなジャンルにおいてないだろう、基本がない人間はアレンジとか言ってる場合でもない。

 そんなわけでザ・ミイラズ(The Mirraz)の3rdアルバム『TOP OF THE FUCK'N WORLD』の話を。彼らミイラズはアークティック・モンキーズのパクリバンドと批判されてもいる。まあ、ボーカルの畠山も自ら公言している。ミイラ取りがミイラになるなんて事はあるのかないのか? 

 なんて事も思ったりするのですが、世界的に大ヒットしたアークティックモンキーズのファーストアルバム『Whatever People Say I Am,That's What I'm Not』の有名な煙草を吸ってるおっさんみたいな若者のジャケットがあります。ミイラズの0thアルバム『be buried alive』のジャケットは包帯をぐるぐる巻きにされたミイラさんが煙草を吸っている。もう超が付くほどに自覚的にパクって出てきたのがわかる。あまりにも意図的に。戦略的になのかもしれない。

 ゼロ年代以降に洋楽ロックフォロワーでもろにそれらの音楽を真似て出てきた日本のバンドなんてそれよりも前の時代よりも少ないわけで、洋楽ロック市場は縮小傾向だし、いろんなジャンルが細分化して多様化してジャンルがクロスオーバーしなくなっている、幅広くいろんなジャンルを聴く人は聴いているとしてもそれは音楽マニアのごく一部だと思う。
 
 情報が溢れすぎていろんなジャンルを横断する事は困難になってきている。一般的にはもはや細分化された小さな枠の中でそれぞれがそれぞれの好きなものを愛でるという状況だ。他の枠の中の事は知らないのだ、それをネット社会は完全に完璧に可能にした。

 洋楽聴かない人が増えてて元ネタのアークティック・モンキーズ自体を知らないんだからね、ミイラズがパクってると言っても本家の事を邦楽ロックだけ聴く人は知らない。だから洋楽ロックをまんまやっても邦楽ロックしか聴かない人にはわからない。

 3rdアルバム『TOP OF THE FUCK'N WORLD』はどうなのか? 『守・破・離』の法則のように自分の色をつけてオリジナル化できているのかということだが、完全に離れているわけではないが、完全ってのは無理だろうけども、彼らは自分たちのスタンスをきちんと打ち出している。

 ミイラズを最初聴いた時の印象はラッドウインプスみたいだなあと思った。早口でまくしたてるボーカルが。情報過多な世界みたいな早口で一気に溢れんばかりの詞を歌う。ある種のこの世界の過剰さを体現してる。ミイラズもラッドウインプスも歌詞の内容的には「キミとボク」のセカイ系の感じで、ミイラズはそれもあるけど外部を持ち込んでそこで留まっていないなって思った。そこにしか可能性がないと思っていたので僕は聴き始めた。歌詞は言葉の量の過剰さ、そして固有名詞が多々出てくる。

 江戸川コナンに刑事コロンボ、ドラゴンボールにジャンプにワンピース、ジュダイにエイトフォーに逆襲のシャアとか諸々。

 歌詞に『逆襲のシャア』って!って思ったけど。まあ、ジャンプのくだりは二十代男子の日常みたいな感じで親近感。永遠に続きそうだったドラゴンボールも終わって終わりそうにないワンピースもいつかは終わってしまうんだろう、ずっと続くものなんてあるのかなっていう、「ああ、それ思った事あるわあ」と。「終わらない日常」や『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』のような同じような毎日の繰り返しに見える僕らの人生も終わって行くんだろうなあ、でもそれでも続くものってあるのかなっていう、その感覚だけが現実感のようなリアル。

 そして自分の痛みをひたすら訴えて悲観的なものやそういうセカイ系とかなんかもういいっすわみたいなのが小説にしろ、音楽にしろ、映画にしろ、溢れまくったゼロ年代はもう終わらせて、きちんと次に向う姿勢がこの十年代には求められる創作の形で、それらが新しい時代を作るのだと思っていた。彼らは外部を取り入れて「キミとボク」の閉じたセカイではなく開かれた世界に対峙しようとしているのが伝わる。

 先日、クラブイベントで初めて観たミイラズのライブはどことなく儚い感じがした。今、自分たちの方向性を見つけて、真似してた影響された部分から少しずつ脱してオリジナルに向っていこうとしているのがわかる、3rdアルバムを聴くとそれは確信に変わった。でも何か今にも崩壊してしまいそうな、そんな空気やロックンロールの儚さが僕には感じられた。

 そのギリギリの所でやってるからこそ突き抜けれるのかもしれない。彼らのドキュメンタリー的な要素も極めて含みつつ、自分たちが好きなものや影響されたものから脱して飛び立つ瞬間、メタモルフォーゼするその瞬間がこのアルバムには収められている。

 ミイラズがきちんと自らの羽で飛び立って行くのか、落下してしまうのかはわからない。だけども飛び立つ瞬間は全ての希望と絶望を含んでいる。そんなドキュメンタリー。

(碇本学)

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2010年9月1日

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2010年9月1日更新分レヴューです。

キリンジ『Buoyancy』
2010年9月1日 更新
クラクソンズ『サーフィング・ザ・ヴォイド』
2010年9月1日 更新
ヘラジカ「Herajika Test 01」CDR
2010年9月1日 更新
ナターシャ・アトラス『写し鏡』
2010年9月1日 更新
COMPUTER MAGIC「Hiding From Our Time」EP
2010年9月1日 更新
MIRRORS「Ways To An End」7"
2010年9月1日 更新
SALYU「Life」CDS
2010年9月1日 更新
ジャン=ピエール・ジュネ『ミックマック』映画
2010年9月1日 更新

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dark_night_of_soul.jpg このアルバムの発売を一度は見送ろうとしたレコード会社の人たちは頭がおかしいのかも。素晴らしい作品をどんなことがあってもリリースすることがレコード会社の役割だとしたら、なおさらだ。そして今、ようやく僕たちの手にこのアルバムは届いたけれど、それまでに色々なことがありすぎた。失ったものが本当に大きすぎる。このアルバムのメイン・ソングライターであるスパークルホースのマーク・リンカス、そしてゲストとして参加しているシンガー・ソングライターのヴィック・チェスナットの2人は、リリースを見届けることなく自ら命を絶ってしまった。僕たちの心を揺さぶった2つの悲しい出来事が、このアルバムに暗い影を落とすのも事実。でも、それ以上にここで鳴り響く13曲は美しくて、皮肉にも生命力に満ちあふれている。

 ゴリラズのプラスティック・ビーチへの冒険のように音楽ファンをワクワクさせるアルバムとして、この豪華なコラボレーションはもっと注目されるべき。ただし、冒険の行き先は南の島ではなく、「魂の暗夜」だけれども。『Dark Night Of The Soul』は、ナールズ・バークレイやブロークン・ベルズでの活躍も素晴らしいデンジャー・マウスが、映画監督のデヴィッド・リンチとスパークルホースことマーク・リンカスとスタートさせたユニット。デヴィッド・リンチが視覚化するビジュアル・イメージ、スパークルホースが紡ぐ優しいメロディ、そしてデンジャー・マウスによる繊細なプロデュース・ワークが呼応し合って、美しくも深遠な世界を描き出している。耳を澄ませてみよう。

 フレーミング・リップスが元恋人への復讐を歌い、スーパー・ファーリー・アニマルズのグリフがそれに続く。ストロークスのジュリアンにはローファイなサーフ・ポップがぴったりだ。ピクシーズのブラック・フランシスはいつもよりキーが低い。イギー・ポップはファズで歪んだギターと共に舞台へ登場する。音楽を聴きながら、ジャケットやブックレットを眺めてみる。自分の気持ちのコンディションによって深みが違う闇と生々しい原色が混ざり合う。それはデヴィッド・リンチの「ツイン・ピークス」や「ブルー・ヴェルベット」そして「マルホランド・ドライブ」での時間軸の歪み、観念の揺らぎを思わせる。どの曲も残酷なほどメロディは優しく、ハーモニーは儚い。ヴィック・チェスナットの歌はホラー映画の1シーンのよう。元グランダディのジェイソン・ライトル、スザンヌ・ヴェガのアコースティック・バラードも素晴らしい。

 僕はこのアルバムをCDショップで手に入れてから家に帰り着くまで、iPodでオアシスを聞いていた。「Whatever」とか「Live Forever」とか。ずっと聞きたかったアルバムなのに、2人の大好きなミュージシャンの死が重すぎて、びびっていたのだ。オアシスというバカみたいなバンド名、ほとんどの曲から漲る生命力に心を預ける。ベタだけど、僕はそうした。数年前、僕が同じように大切な人を失った時もそうだった。フレーミング・リップスが「Do You Realize??」で歌っていたように、幸せな時に泣きたい。でも、「知っている人だって、いつかみんな死ぬ」ってことを、僕はまだ「Realize」できていないから。

 もう一度、再生ボタンを押して『Dark Night Of The Soul』を聞く。マーク・リンカスがカーディガンズのニーナとデュエットしている「Daddy's Gone」がいちばん好きだ。「目を閉じて。夢がやって来るまで」と歌われる父と子の歌。僕はこの歌を、このアルバムをずっと聞き続けるだろう。デヴィッド・リンチ、デンジャー・マウス、スパークルホースと彼らのもとに集まった仲間たちの想像力(=創造力)こそが生命力だ。僕はそこに助けられた気がした。ひとりでも多くの人に、この音楽が届きますように。

(犬飼一郎)

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underworld.jpg カール・ハイドという人は、やはりロックだ。というか、やっぱりロックをあきらめきれてないんではないか? カール・ハイドのロックスター願望が、アンダーワールドをロックな存在にしていると僕は思う。リック・スミスは、フロントマンの役割をほぼカール・ハイドに任せているように、自分から積極的に前へ出る人ではなく、ひたすら音を生み続ける、プロデューサー的な性格の人だし、そういう意味でも、アンダーワールドは、やはりカール・ハイドの存在によって、ロック的な文学性やポップ性を獲得している部分が大きい。それでも、アンダーワールドがフロアの最先端とリンクして、所謂「現場」と呼ばれるところや、そこに属する人達から一定の評価を得ていたのは、二人が(ときにはダレン・エマーソンも)、常にアンテナを張って、時代やフロアの感覚を感じ取って吸収し、それをアンダーワールドなりの返答(曲)として作り上げるのがリック・スミス、その返答をより分かりやすく、より多くの人々に届ける役割を、優れたバランス感覚でもってこなすのが、カール・ハイド。これがアンダー・ワールドのメカニズムだと僕は思う。

 『A Hundred Days Off』のときから、僕はアンダーワールドに対して「あれっ?」と思い始めていた。ダレン・エマーソンが脱退してから初のアルバムということで迷いがあり、その影響からか、内省的な雰囲気が強く、様々な音を必死で集めた感が、少し痛々しくもあり、その必死さが、ギリギリのところで自分の心を惹きつけるエモーションとなっていた。次の『Oblivion With Bells』は、さらに内省的な内容になっていて、分かりやすさという点では、過去のアンダーワールドのアルバムと比べて、お世辞にも分かりやすいというわけでもなければ、とっつきやすいわけでもない。しかし、クリック・ハウスやミニマル系など、当時注目され始めていた音楽を取り入れたり、少し先を予見したワールド・ミュージック系のテクノなんかもあったりして、「調子戻してきたかな?」と思っていたのだけど、最新作『Barking』を聴いて、僕は複雑な気持ちになってしまった。

 『Barking』は、外部の人材を多く招き制作された。でも、その割には、あまりにも統一感がありすぎると思う。もっとアレンジなんかに影響があってもいいし、何より影響がないほうがおかしい人達と組んでいるんだから。新しい空気を入れて、ポジティブな気分になるために、外部から人を招いたとすれば、それは安易に思えてしまう。アンダーワールドは、さながらフェリーとイーノのように、カール・ハイドのひたすらポップであろうとする姿勢と、リック・スミスの趣味性が高い曲、それらがせめぎ合い融合し、音のシャワーとなって放出される。それがアンダーワールドというバンドマジックであったと思うし、僕もそのマジックから生まれる「無血的にあらゆる人を支配しようとする幸福感と恍惚感」が好きだった。しかし、『Barking』には、そのバンドマジックはなく、あるのは、ひたすら上機嫌なアンダーワールドの姿である。そして、その上機嫌さというのは、アンダーワールドの昔からの本質であり、わざわざ外部から人を招くまでもなく、持っていたものだった。つまり、「こうまでしなければ、こうしたヴァイヴを持ったアルバムを作れなくなってしまったのか?」という確信に近い疑問を、『Barking』を聴いて抱いてしまったのである。

 決して駄目なアルバムではないし、音作りの技はさすがだと思うし、カール・ハイドの力ある歌声は、過去最高と言えるかも知れない。ライヴで鳴れば、アンセムになるであろう曲もある。なんだかんだ言っても、愛聴するだろう。しかし、しばらくは、『Barking』を聴くたびに、「もはや、好きだったアンダーワールドは戻ってこないのか? だとしたら、なぜ僕は今でも、アンダーワールドを聴いているのだろうか?」という複雑な感情と疑問に向き合わなければならないだろう。

(近藤真弥)

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les_savy_fav.jpg 快進撃はまだまだ続いている。

 2007年の『Let's Stay Friends』がUS/UK両方から絶賛されたレ・サヴィ・ファヴ。このアルバムのエッジの立ちっぷりは尋常ではなかった。その後、バンドはフェスティヴァルの常連になり、フロントマンのティム・ハリントンはテレビ出演もこなすようになった。90年代半ばから活動し、活動休止期間を挟んだ6年ぶりのこの作品まさにブレイクスルーしたわけだ。

 とはいえ、彼らは名声にどっかりとあぐらをかくような連中じゃない。特に、ベースのシド・バトラーはレーベル、フレンチキッスのオーナーとしてパッション・ピットやドードーズ、ローカル・ネイティヴスなどを世に送り出しているだけあり、多くのバンドの兄貴分であろうとしているのだろう。3年ぶりとなる今作『Root For Ruin』でもクオリティの高さを見せつけてくれた。

 まず印象的なのは、2人のギタリストによる技巧的なプレイ。時に轟音をまき散らし、時に緻密なメロディを鳴らす共演にはぐいぐいと引き込まれてしまう。ドラムだって負けてはいない。地響きの力強さで曲を鼓動させる。そして、何よりティムのヴォーカル。パワフルなハイトーンや落ち着いた歌いぶりなど、そのレンジの広さには驚かされる。

 方向性は前作と基本的に変わらないものの、不穏なギターのイントロからシャウトが印象的なコーラスになだれ込む「Poltergeist」、ミドルテンポでしっとりと聴かせる「Dear Crutches」、そして群を抜いてキャッチーなメロディの「Let's Get Out Of Here」など傑出した楽曲揃い。確かに、『Let's Stay Friends』のときの衝撃はないかもしれない。だが、変わらずクオリティの高い作品であることは間違いない。

 このアルバムの曲をひっさげて、彼らは相変わらず熱狂のライヴを繰り返すのだろう。そして、ティム・ハリントンは嬉々としてカオティックなパフォーマンスをするのだろう(半裸でオーディエンスにキスしまくるからね)。ライヴバンドとしての名を馳せた彼らが、再び渾身の作品を届けてくれたのだから、ぜひここ日本でも早く彼らが見れる日が来るといいな。切に願っています。

(角田仁志)

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kisses.jpg「誰ひとりとして他人が現実に存在することを本当には許さない、と私には思われる。他のひとが生きており、私たちと同様に感じたり、考えたりしていることは認めることができるだろう。だがつねに、自分とは異なるという匿名的な要素なり、物理的なハンディキャップが残るだろう」(フェルナンド・ペソア)

 「アメリカのバンドは僕らがファンとして夢中になるようなメロディーや音楽により才能があるように思えるよ。イギリスのバンドは大抵悪い真似に聴こえたり、そんなに誠実や特別には聴こえないな。」とは、アメリカのアーティストを中心に良質なインディ・サウンドを掘り下げて現在の「シーン」を牽引する、イギリスはロンドンにあるトランスペアレントの創設者の一人の言葉である。「僕らは特定のジャンルとだけ関わったり、リリースしたいというのはないんだ。素晴らしい曲を探しているんだよ。」--音楽のジャンルの壁を「transparent(=透明)」にしようという意図から命名されたというこのレーベルのロゴはしかし、「今」は兎角、よく目に入ってくるような気がする。

 「この1年半くらい、僕はプリンストン(Princeton)にありがちなフィーリングとは違う曲を書き始めている。元々はストリングスやホーンが入ったディスコ・レコードをやろうと思ってたんだけど、お金もないから自分の家のガレージで録音することにしたんだ」--ジェシー・キヴェル(Jesse Kivel)

 プリンストンといえばカリフォルニアはサンタモニカで育った双子のキヴェル兄弟をco-フロントマンとし、アーサー・ラッセルの紆余曲折と暗中模索にニュー・オーダー的なニュー・ウェーヴ、電子音楽のエッセンスをマッシュアップした浮遊感のあるシンセ・サウンドにジルベルト・ジル的トロピカリアの風を吹かせたような、幅広い参照点を折衷した音楽性を持つインディ・ニューカマー・バンドの旗手だが、マット・キヴェルがサイドプロジェクトとして始めたミステリー・クロウズ、スリーピング・バッグスでそれぞれ、リアル・エステイト、ビッグ・トラブルド的な「古き良き、ギターポップ」への憧憬と、マイブラ、ライド的なシューゲイズ・サウンドを展開する中、双子の片割れであるジェシー・キヴェルはキッシーズとして、自身のパートナーであるジンジー・エドモソンとフォーキーでトロピカルなサーフ・ポップを始めたというのが面白い。

 最大公約数的なメタディスクールが社会の中で成立している状態の崩壊、或いは理想が共有されている状態としての集団的転移の衰退が現代だとするならば或いは、小崎哲哉氏が指摘するような「浮遊するジェネレーション」的な「地に足が着かない、漠たる不安」を私たちは「現在」、抱えている状態にある。そうした条件下においてMGMTがソニック・ブームをプロデューサーに迎えたのも、或いはビン・ジ・リンのような軽やかなディスコ・サウンドの希求が為されているのもだからある意味では、「そういう時代」の起こした因果なのかもしれない。
 
 そうなるとウィークエンド、スミス・ウエスタンといったシューゲイザーのフォロワーや、或いはウォッシュト・アウト、アクティヴ・チャイルドのようにフォグでアンニュイなヴォーカルに空間を含ませるようなシンセサイザーが乗ったフローティングなブリージン・ディスコ然としたアーティストが大半を占めるトランスペアレントから今年5月にリリースされたキッシーズ「Bermuda」EPの即日ソールド・アウトという反響の大きさも頷ける。それに、今回のアルバム『The Heart Of The Nightlife』の配給元がシミアン・モバイル・ディスコ、リトル・ブーツ、ブラック・ゴースツ等のディス・イズ・ミュージック・リミテッド、更に世界に先駆けて発売された日本盤が100%オレンジのジャケットと共にカイト、ヨット、タンラインズらの作品を扱う本国インディ・レーベルの雄、金沢のラリーからとなっていることも実にリマーカブルである。

 「きみと踊っていたら何だか、友達がいなくなっちゃったような気がするよ/ああ僕は独りだよ」--「Bermuda」に於ける「きみ」は最早「人間としての君」の実体を失っていて、センチメンタルなビートに乗って一人称の彼は記号と手を繋いでいる。「何だかもう、よくわからないんだよ/きみは何者なの?(People Can Do The Most Amazing Things)」「恋人のために時間を潰さないようにしなきゃ...だってもう、十分な気がするんだ/もう飽きちゃったよ/ねえ、でもきみが恋しいんだ(Kisses)」--キッシーズが謳う「人間が二人居る」というこの事実は、かくも切実にリスナーの胸に突き刺さってくる。

 地に足の着かない不安を真っ直ぐに見据える「そこ」に真新しさはそれほど感じられない。しかし、パウル・ベッカーは言う―私たちが「他者」という異物の中に見出すのは常に自分自身である。足場を失った「若者」は、不可知で不安定な視座に立って、「そこに、在る」ものとしての交わされることの無い情報、即ち「空洞」を見つめる。

 そういった意味でも、本作を聴くにつけ、閉塞する自意識のセカイを謳うジェシーの「時代を感知する優秀なアンテナ」と、ウエスト・コーストから押し寄せるその「波」をサーフする音が「今」、メランコリックな響きと共に視えて来るのではないだろうか。

 グローファイ/チルウェーヴというタームの胎動が確認されてから約1年、ブルックリンのネオ・サイケデリアや新世代のノイズ・ポップ、或いは「国境の垣根を越える象徴界のスマートなロック」のウェイヴスを踏襲しつつ、キャッチーなメロディ・ラインはそのままに、ファジーで温度感のあるオーガニックなダウン・ビートがオーヴァーグラウンドに出て来たのは私はだから、偶然ではないと思っている。

(黒田千尋)

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drivan.jpg なんだかんだで人は宗教的とも言える自分だけの世界を持っていて、それは誰にも言えない、または言いたくない類のものであったり、人には理解されないものであったりする。とは思うのだが、現在では、その自分だけの世界がオタクという言葉で称され、フランクに誰にでも提示できる環境が整っていると感じる。思えば少し前ならば、人をオタクと呼ぶことには蔑称の意味も含んでいたが、今ではオタクであることがカッコいいという風潮がある。その風潮が出来上がったからこそ、エレクトロニカ・アーティストの機材オタク的な音楽世界や自己満足的な世界観がここ日本で受け入れられる環境が整ったのだと感じる。

 例えば一部のクラブ・イベントにおいて、アンダーワールドでもダフト・パンクでもなく、オウテカを流す方が、場が盛り上がるという状況は何度か目にしたし、ヤン・イェリネクやハーバートといった、盛り上がるというよりは音マニアあるいはオタク的な側面が強いアーティストの楽曲しか流さないことを強調し、それらの音楽がオシャレであることを強調したイベントも存在する。もう「オタク」も「マニア」も蔑称ではなく、カッコいいものなのである。少し前の書籍になるが、菊地成孔の『聴き飽きない人々』という対談集において、音楽評論家の岡村詩野氏と菊地成孔氏の対談で、最近の若いリスナーは聴きやすいポップスを知らず、聴こうとせず、やや難解な音楽を聴きたがる傾向にある、という旨の発言があったが、それはリスナーの、オタク属性化を示しているように思う。そこには音楽によって誰かと繋がることは頭になく、自己の世界にどっぷり浸かりたいという欲求があるように僕には思えた(僕にもそういうところはあるのだけど...)。

 ドライヴァンの本作『Disko』は、ノルウェーを代表するデザイナーであり、エレクトロニカ・アーティストであり、音楽オタクでもあるキム・ヨーソイが結成した北欧の女性3人を加えたバンドのデビュー作である。北欧だからなのか、ムームの2ndや3rdと似た雰囲気を持つ。どの楽曲もクオリティは高く、ヴァリエーション豊かとは言えないが、寂しげなこの音楽はひとりだけで聴きたいと思わせる。もともとダンス・パフォーマンスにキム・ヨーソイが楽曲を提供したのがバンド結成のきっかけらしいが、4つ打ちのダンス・ミュージック的なところはなく、どちらかと言えばフォーク・ミュージックと表した方が適している。歌詞は全てスウェーデン語で女性ヴォーカルの涼しげな歌声が全曲つらぬかれているが、プロデュースも務めたキム・ヨーソイは女性ヴォーカリストの最も深くにあるもの、つまりはヴォーカリストの宗教的なまでの深い部分を引き出そうとしているかのような音響処理や暗いトーンの音色を配置している。そしてそれが奏功している。まるでつぶやいているような歌声。冷酷で淡白。しかしだからこそ迫ってくるものがある。どうしようもなく寂しいがゆえに、歌に、音そのものにすがろうという姿が見える。

 TVゲームであろうと漫画であろうと、いわゆるオタクと呼ばれる人々がそれらに夢中になるのは何かを得るためではなく、自身を満足させるための救済の行為なのかもしれない。それがドライヴァンの場合、音楽に身を預けることだったのではないだろうか。音楽をまず鳴らしたいという欲求よりも、音楽によって自分で自分を認めたいという欲求。そんなことを聴いていると思うのだ。「認められなくてもかまわない。音楽はわたしを救うのだ」と。音楽家は自分の音楽によって救われる。聴く側は音楽を聴いて浸り、分析し、または批評し満足することで救われる。それらは誰にも理解されないものかもしれない。しかし、そうしなければオタクは自分を保てない。本作はそういう類の音楽であると僕は思う。もはや音楽オタクという言葉が一般化し、ブログやツイッターなどで批評する環境が整い、作品をどう受け止めて、どのように評するのかが意識的にも無意識的にもオタクにとって自分の存在価値を示すものになった現在、需要のある一枚に成りうる作品かもしれない。

(田中喬史)

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garda_die_technique_die.jpg 知る人ぞ知る良質のインディー・バンドの産地、ドイツのドレスデンを拠点に活動するバンド、ガルダ。ヴォーカリストのリーマンと、ドラマーのロニーの二人を中心に、流動的にチェロやトランペットを含む最大9人のミュージシャンがライヴやレコーディングに参加している。 
 
 リーマンのアコースティック・ギターの弾き語りを中心に、多くの楽器が重なり合いながら、時に静かに、時にエモーショナルに展開する楽曲は、かつてのブライト・アイズや、カリッサズ・ウィアード(バンド・オブ・ホーセズやグランド・アーカイヴスのメンバーが所属していたシアトルのバンド。少し前に再結成して現在も活動中。)を彷彿させる。マーク・アイツェル率いるアメリカン・ミュージック・クラブのドイツでのライヴのサポートをつとめたこともあるというのにも、納得だ。 

 その美しいメロディーと、繊細な響きを持ちながらも力強く響くリーマンの歌声は、スロウで静かな音楽を愛するリスナーの皆さんの琴線に優しく触れるだろう。

(山本徹)

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viridian.jpg ポップだけど強さもあって、ピュアでロマンテイスト。そして、どこか品格のようなものもあるビリジアンの2ndミニ・アルバム。

 「やり手側としては、気合いだろ!! みたいな感じだったので、そういう解釈は嬉しいですね。前作出してから人間的に成長したので、そういうのが音に表れたんだと思います。凛としたところとか。」(Dr、神谷佑。以下K)

 愛知県在住の3ピースバンド、ビリジアン(viridian)。エコ・バニからtoe、soulkidsまで幅広いバンドをフェイバリットにあげる彼らは地元のライブハウスで知り合い、約5年前から現在のメンバーで活動しているという。「バンド名決める時に色の名前も良いなってなって、好きな色が深緑色と紫色だったんですよ。ビリジアンとモモーヴで迷って、最後は音の響きで決めました。」(Vo/AG、佐野仁美。以下S)というバンド名もナイーブさと鮮烈さが同居していてかっこいい。

 今作は前作よりサウンド面で大人っぽく、そして小気味よくなっているのだが、何か意識していたのだろうか。「ライブ感と衝動、これは意識してましたね。レコーディングのやり方もそういう風にして、フレーズとかもきっちり決めずに勢いで。それが十二分に発揮された作品になってると思います。」(K)

 ライブ感と衝動、それに直結するような歯切れの良いリズム・セクションも素晴らしく、佐野仁美の歌声に絡み付く哀愁のメロディもまた鳥肌もの。ヴォーカリストである佐野仁美の書く詞には出会いと別れ、君と僕の距離、孤独など目に見えないものが描かれていて、それを聴く度に私たちは勇気をもらう。「前は聴き手を意識してキャッチーなものとか、覚えやすいものを作ろうとしていたんですけど、今回は内から出るものを一方的にぶつけています。どうしようもなくて吐き出したって感じなんです。」(S)

 表情豊かな女性ヴォーカルとフォーキーで透明なバンド・サウンドは、年齢にたがわずかなりの本格派志向。そして、激情と乾いた詩情を往復しながら昂っていくその歌世界は強烈な訴求力を放っている。シンプルでありながら印象的なタイトルについて。「シグナルは信号や合図って意味があって...。タイトルとして僕的にしっくりきたんですよね。(この作品が)何かの合図になるのかな、と。」(EG、宮地貴史)

 絶え間なく進歩を続ける彼らの現在を映し出す一枚。これからにも勿論期待なのだが、まずはこれを聴くべし。

(粂田直子)

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prince.jpg 初期のロックンロールにおいて、「弾圧」というものは白人優越主義のヘゲモニーが強く動かされたために、暴力的装置が働いたとヘゲモニー論で解釈出来る。僕はロックンロールという言葉を聴くと、ふと彼のこの歌詞を思い出す。

"赤ん坊が会話して 
スターウォーズが飛び交い 
近所は暗号で合図 
もし夜が来て爆弾が落ちたら 
誰か夜明けをみることはあるのだろうか"
(Sign O' Times)
 
 まだまだ夜明け前。19世紀半ば~後半にアメリカの芸能でミンストレル・ショウというものがあったのを知っているかもしれない。ミンストレル・ショウとは「白人が黒人に扮して」歌入りの演芸会を開くというもので、顔を「黒く塗った」白人の芸人たちが歌い踊り、そこを濾過して伝達されるのは「南部の黒人の実態などを知る由もない北部の白人たちのバイアスのかかった"黒人らしさ"のモティーフ」でしかなく、そこには無論、今も根付く「白人/黒人」の差別構造に依拠した上でのエキゾティシズムが前景化される訳だが、そういうのはスティーヴン・フォスターなんて歌手を問わずよくあるものでもあり、「声大きい者」達の偏見と歪曲によって幾つもの歴史は捻じ曲げられてきているというのは音楽史を除いても常だ。逆説的に、例えば、白人のエミネムが「ヒップホップ」という分野で上を向こうと思った時にどうしようもなく立ちはだかる障壁、それは形容し難い暗黙にして歴史の桎梏だったりするのだ。

 奴隷制度が堅固だった時期は、黒人と白人の実質的接点などないに等しかったが、差別意識や優越意識は温存されたまま、一般社会的に問題はなかったものの、南北戦争の時と言えるだろう、数多の奴隷が「自由の身」となったことで、紛糾する瀬は凡そ推測の通りになった。ま、現代でもそうだが、既得権益を護ろうとする人たちの根深さは革命や政治システムの変化を先刈りするからだ。

 勿論、常識的にミンストレル・ショウの場所に、観覧者としても、黒人は居なくて、白人の下層労働者達は息抜きの為にそういった道化を笑い飛ばし、日々の生活のガソリンに充てていたという見方は出来る。そこでは、19世紀後半に増えたアイルランド、ドイツ、イタリア、東欧系などからの「新移民」層によって支えられていたというのは紛うことない。白人たちが顔を黒く塗り、パフォーマンスするという行為性を通じて、連帯し、アメリカ人としてのナショナル・アイデンティティを保持しようとしていた文脈を僕は否定出来ない部分があるし、昔、大阪の劇場とかで見ていた景色というのは、僕は鮮明に覚えていて、「此処」でしか現実感がない人達も居るのだろう、と思った事もあったし、彼等の居すまいは凛ともしていた。

 この「黒人のイメージ」は、ミンストレル・ショウだけではなく、このアメリカの大衆芸能のルーツから枝分かれし、発展していったヴォードヴィル、バーレスク、ミュージカル、ダンス、映画などにも引き継がれた。今でも、「一方的な黒人描写」が多いのは一概に言えないにしろ、知らず知らずのうちに、芸能が巻き込んでしまった「暗部の舞踏会に僕達が無意識に足を運ぶこと」によって、礎が築かれていっているかもしれない。そんなイメージと現実。そのイメージとしての自分を時に「記号」に変えたりして、シーンを攪乱させ、自分の前さえ呼ばせないようにするエゴというより、信念を持ってブラック・ミュージックの刷新を試みたアーティストにプリンスが居る。

 彼のこの10年の動きの凄さは寧ろレディー・ガガなど比べ物にならないくらい芳醇で、広がりのあるものだったことは知っているだろうか。00年代のプリンスの速度と強度は凄かった。1作品毎に色を変えてくるクリエイティヴィティ。01年の『Rainbow Children』ではジャジーに生音のバンド形式でネオ・フィリーソウルへの回答とも形容できるスムースな演舞をしてみせながらも、歌詞はスピリチュアルで内省的という面白い作品だった。03年の『N.e.w.s』までにはサイト会員への限定のアルバムやライヴ盤もあったが、この作品は長尺のインストが代表するように兎に角、グルーヴがうねっていた。06年の『Musicology』ではロックチューンからメロウなバラッドまで網羅した盤石な内容で、グラミーにおけるビヨンセとの共演やツアーも成功して、完全にプリンスは「過去の人」ではないことを巷間に知らしめた。引き続いての『3121』、更に07年の『Planet Earth』の多種多様な曲を縦横無尽に捌いてみせ、08年のコーチェラでは「Creep」をカバーするなど盤石のステージを見せた。

 そして、この新作『20Ten』はニューウェーヴとポップ・ファンクのケミストリーが生まれている好盤と評していいだろう。10曲40分というコンパクトさながら、オープニングの「Compassion」なんてまるで「Let's Go Crazy」のようなキラキラしたシンセが遠景化して聴こえ、彼自身のギターのリフも格好良く、敢えて狙ったのだろう80年代的な音に仕立てあげた手腕は功を奏している。過去の名盤『Sign O'Times』辺りの重厚さはないが、音はかなり絞られており、ストイック。白眉は「Future Soul Song」で見せる伸びやかなバラードだろうか。オールド・ファンは「相変わらずの殿下」として、ここから入るファンは普段聴いているものとは、少し違うキュリアスなブラック・ミュージックのバネを少しは感応出来るかもしれない。ディアンジェロの沈黙がいつの間にか、忘却にしか繋がらないのではないか、という危惧があっても、プリンスはまだまだ手綱を緩めない。

 惜しむらくは、ヨーロッパでのみ新聞・雑誌の付録CDとして無料配布され、その他エリアでのリリースは限定状態であることだ。80年代回帰がヒップな今にこんな新作を出してくる彼のセンスこそがまたもや評価されるべきであるし、今はあの黒と白の垣根を越えようとした偉大なポップスターも居ないのだ。居ないからこそ、プリンスには黒や白の軸を対象化するべく、精力的に真摯に思いっきり弾けて欲しい、と希ってやまない。まだ、「夜明け前」なのだから。

(松浦達)

 

*本文中でも触れられているとおり、本作品は通常の販売ルートでのリリースではなく、イギリスの新聞デイリー・ミラー紙(Daily Mirror)の付録CDだったと思しきものが輸入盤として日本にも限定入荷されていた模様。以前はAmazonやHMV、タワーレコード等で購入可能であったが、今現在は在庫切れの状態が続いているようである。また、プリンス本人の意向によりインターネットによる本作品の楽曲配信は一切行われていない。【編集部追記】

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tokimonsta.jpg 音が古い。いや、悪い意味じゃなくて古い音をどのように新しく聴かせるか、ということに意識的だと思えるエレクトロニカを鳴らすトキモンスタことジェニファー・リー。フライング・ロータス率いるデイデラスやガスランプ・キラーが所属するレーベル、Brainfeederの紅一点。LAを拠点に活動するコリアン・アメリカンの彼女の『Midnight Menu』、これはもうやっちゃった者勝ちみたいなところがある。音の質感自体は古いエレクトロニック・サウンドに琴や韓国伝統音楽を大胆に取り入れ、「マイナス×マイナス=プラス」、みたいな、「古いサウンド×古いサウンド=新しい音」という具合に音楽を構築し、ひょいと自然に差し出された音に、嗚呼、これは気持ちがいいや、となって新しいとも感じてしまう。もちろん古けりゃ悪い、新しけりゃ良いってもんでもないのだが、エレクトロニカにアジアの古き音楽性を取り入れることは誰かがやりそうでやらなかったことではある。キワモノ的と言ってしまえばそれまでだけれど、いやいや、ファースト・アルバムならキワモノ的でもいいじゃないか。逆に流行に忠実な作品がファーストならばむずむずするよ。
 
 童顔、眼鏡女子という、もうそれだけで萌え要素たっぷりな彼女。眼鏡を外しても美人。どうせなら顔写真をジャケットにした方が売れるんじゃないか、などと、余計なお世話を言いたくなってしまったけれども、「リスナーの為に音楽作ってるわけじゃない」という旨の発言は、ツンとして媚びない彼女の姿勢を端的に表している。そう、傲慢でいい。匿名性の高いエレクトロニカにルックスは関係ない。いや、ちょっとあるけど...。エレクトロニカは売れない音楽であるわけだし。4千枚売れれば大ヒットらしいし。でもツンとしていながら綿菓子のような甘さが口の中で溶けていく。そんなふうに感じられる本作はやっぱり女の子だなあと思わせる。理詰めではなく、あくまで感覚で作っていると思える本作は過剰にアート志向でもなく、複雑でもなく、とにかく大音量で聴けば最高だろうな。フジのフィールド・オブ・へヴン辺りで鳴っていたら、さぞ気持ちいいであろうという音に溢れる。しかもポップなこの音楽はけっこう売れる作品なんじゃないかなと、これまた余計なことを言いたくなった。音がとっても緩やかで、奇をてらっていないのです。だからいい。ボーズ・オブ・カナダから哀感を抜き取ってスウィートにしたようなエレクトロニック・サウンドは何かに誘惑されているみたい。その何かはちょっとだけセクシャルな甘くて酸っぱい恋の味というやつで、いや、まあ、その、かなり、萌える。それはさておき。
 
 ツンとした彼女であるが、しかし、音楽そのものは実にリスナー・フレンドリー。ビートの弾力は柔らかく、ヒップホップ的であったりランダムだったりと、工夫があり、メロディとビートをはっきり別けた音楽性はその両方が同時に耳に入ってきて少しだけ混乱しながらも、こりゃあトリップ感が心地いいや、という、混乱が心地の良さに繋がるパラドックスが良いじゃないか。さらには先に記したようにアジア伝統音楽の要素が強調された音が鳴る。「韓国伝統音楽の深みを知った」と言う彼女が鳴らすその音は奥が深くエキゾチックで神秘的。やはりその伝統音楽の奏でと、音楽性が相反するエレクトロニカと同時に雄弁に鳴らされているところが本作の良さで面白く、コリアン・アメリカンの彼女にとって自分の中に流れている血には逆らえないところもあったのだろうさ。そりゃもう否応なしに。
 
 そもそも本作以前に創作されたアルバム以外の作品が、ジャジー・ヒップホップと捉えられていたことに嫌悪感を露にしていた彼女が別の新たなサウンドを創作しようとしたのは必然で、多くのリミックスやプロデュースで知名度とともに実力を上げ、現在はLAに限らずアジアやヨーロッパまでツアーを周り、ハドソン・モホークと共演する予定もあるとかないとか。唯一無二とまではいかなくとも、ビート・ミュージックとしても面白い。そんなこんなでこの作品、とても気持ちがいいんです。ゆらゆらと揺らされるんです。良作です。

(田中喬史)

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russian_pianism.jpg 「音とは顕われた瞬間に消えていくものだ、そしてその音の連続が音楽である」とは、ピアニストのアファナシェフの言葉だが、記憶の中で点が散在しながらも結び合わない「あったはずの記憶」を現前化させるデモーニッシュな引力がロシア・ピアニズムと言われる(些か、ジャンル内ジャンルとも言える)一連の音色、旋律には宿っている気がする。例えば、ショスタコーヴィッチ『自作自演集』を聴いたときに感じる「有得ない重厚さ」、とは社会主義圏の持つあの特有のストイシズムと暗がりの美はハイパーキャピタリズムの進捗してしまったこの世界では最後のローファイ(人工的技巧主義)だとも言える。

 91年にソ連が崩壊してから、そこまで保存されていた貴重な音源が全世界に知られることになったが、ホロビッツやリヒテル、ソフロニツキーなどのピアノ演奏が「再発見」され、更にはモスクワのグネーシン・アカデミーは或る種の聖地化をしたのは記憶に新しい。近年では、「のだめカンタービレ」やアーノンクール評価、クラシック・ブームの翳で、ロシア・ピアニズムと呼ばれる静謐にしてオルタナティヴな流れはより美しく深度を増していた。ロシア・ピアニズムにあって、他にないものと言えば、「歌」と「エレガンス」と言えるかもしれない。カンティレーナを特徴として、ロマンティシズムに殉ずるべくフォルテさえもエレガントに弾く。その隙間に零れ出る過剰な表現欲求はなかなか味わるものではない。

 僕自身とロシア・ピアニズムの出会いは佐藤泰一氏の『ロシアピアニズム』(ヤングトゥリー・プレス)だった。関係資料と膨大な歴史背景と取材を合わせて、書き進められるダイナミクスを帯びた本で読んで、ここに載っているレコードは欲しくなるくらいの熱量を含んだ良書だった。

 この書物でも触れているが、ロシア・ピアニズムという「歴史」はそんなに旧くはない。

 アントン・ルーゼンシュタインが音楽院を創設してから30年でロシア革命がおき、作曲家やピアニストの大半が流出したり、亡命してしまった訳だが、WW2後、リヒテル、ギレリス、ユーディナのような腕利きのピアニスト達が世界コンクールで注目される事になった。例えば、ポーランド・ピアニズム等は演奏技巧優先主義を厭うが、ロシアの技巧レベルは教育システム含めて、かなり高度なもので、ただそれが故の前衛性は乏しいかもしれない部分はあった。でも、「良い譜面をより良く演奏する」という、素晴らしさこそが大事なときもあり、ロシア系ピアニストのあの重厚なタッチには音楽が本来持っていた「何か」があるような気もするという意見もまだ多い。
 
 しかし、残念なことに現在、ロシア・ピアニズムは衰微の段階に入っている。その代わり、再発見の循環構造の中で、アレクサンドル・スクリャービン、ゲンリッヒ・ネイガウス、セルゲイ・プロコティエフ、ショスタコーヴィッチなどは特に別分野のリスナーの耳も捉えて離さない状況も生んでいる。「ロックだからロックを聴く」という規律は今はなく、かといえど、精神性と音楽の繋がりは心理学的に確実にある訳だから、クラシック音楽のジャンル内ジャンル、とも言えるロシア・ピアニズムへ魅かれるオルタナティヴで貪欲なリスナーが居てもおかしくないとしたら、その音楽の持つロマンティシズムと重さに、他のジャンルにはない別の哲学を視ているのかもしれない。分かりやすいことはなんて分かりにくいのだろう。また、分かりにくいことは何故に分かりにくいままなのだろう。

 最後に、「ロシア・ピアニズムを想う」とき、僕はバタイユのこういう表現を想い出す。生の根底には、連続から不連続への変化と、不連続から連続への変化とがあり、私たちは不連続な存在であって、理解しがたい出来事のなかで孤独に死んでゆく個体である。だが他方で私たちは、失われた連続性へのノスタルジーを持っている。私たちは偶然的で滅びゆく個体なのだが、しかし、自分がこの個体性に釘づけにされているという状況が耐えられずにいる。それに耐えられる人なら、必要の無いものなのかもしれない。少なくとも、僕は耐えられないが、皆はどうなのだろうか。

(松浦達)

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