September 2010アーカイブ

2010年9月7日

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2010年9月

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  • エドウィン・コリンズ

    レコーディングのやり方からも、本当にオリジナルな音が生みだされてきてると思う

  • マニック・ストリート・プリーチャーズ

    俺たちの音楽には、ポジティヴな憂鬱とでも呼ぶべきものが入ってると思う

  • フラン・ヒーリィ

    今回は、途中で失ってしまったものがなかった

  • スーパーチャンク

    9年間あまり活動していなかった間もサポートしてくれたファンを、驚かせてエキサイトさせるようなものを作りたかった

  • ティーンエイジ・ファンクラブ

    長い間レコードを作っていなかった僕らの新作を作る喜びが反映された結果じゃないのかな

  • ザ・ヴァセリンズ

    聴いたらすぐに「これはヴァセリンズだ!」って思ってもらえるようなアルバムを作りたかったんだ

  • OMD

    年寄りがつまらないレコードを作るのは、彼ら自身がつまらない気持ちでレコードを作るからだよ

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PARAELE STRIPES

音楽がないと生きていけないというのが当たり前の世界で
何をするにつけても音楽が必要だなというか


音楽シーンの中心から遠く離れた福岡で、とびきりハイテンションなダンス・ミュージックが鳴らされている。アメリカ帰りのイケメン・Marsと、実に今の日本らしいオタク・松下の二人組によるパラエル・ストライプスが先ごろリリースしたミニ・アルバム「feyz」は、ポップのときめきと独立独歩な姿勢の逞しさが共存するたまらない内容だった。そんな充実作を引っ提げてツアー真っ最中の彼らだが、ヴォーカルのMarsに電話インタヴューを敢行した。

PARAELE_STRIPES_1008_A1.jpg

イルリメ

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ILLREME

音を出して、レスポンスを受けて、また自分が反応する
そんな音楽の空間を作っていってる感じ


リリースから数ヶ月たったイルリメの最新5曲入りミニ・アルバム「360° Sounds」だが、未だにその新鮮さはまったく色あせないどころか、彼の最近の活動ぶりを見聴きしても(していなくても)、「新しいフェイズ」のスタート地点としての重要度をますます増しているように感じられる。

<夢中になったら始めとけ。その気があるやつ音鳴らせ。次の時代がやってくるぜ。新しい音が見たいんだ>

収録曲「We Are The Sound」の一節。これは、まさにそんな姿勢のトリガー(引き金)となる音源(レコード)ではないか。数ヶ月前、「360° Sounds」リリース直前(このサイトが「プレ・オープン」する少し前)のイルリメに話を聞いた。話の内容としても全然古くなっていない(というか、オープンに際するドタバタによりアップが激しく遅くなってしまい、本当に申し訳ありませんでした...)のみならず、そこで語られている姿勢を捕捉するような、最新情報も添えてお届けしよう。

ILLREME_1004_A1.jpg

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interpol.jpg インターポールは世界最高のバンドである。それは今までのリスナーにも本作が初購入の方にもだ。何故か? 魂がそこにはある。そしてバンドとして4枚目という新しい段階に踏み出したのだ。今までにあって今までにないインターポールの快進撃だ。Bのカルロスが脱退し、今回はポスト・ロック界でお馴染みデイヴィッド・パホをサポートB.に迎え、ダニエルとポールのツイン・ギターのノイズをフィーチャーさせる新しい形に仕上がっている。「オールウェイズ・マライス(ザ・マン・アイ・アム)」はゴッドスピード・ユー!・ブラック・エンペラーの「ストーム」を思い起こさせるほどだ。

 プロデューサーにナイン・インチ・ネイルズやスマッシング・パンプキンズ、ブロック・パーティなどデジタルかつギター・ロックな仕事で知られるアラン・モルダーを起用し、ジャケットのようなオルタナティヴ・ニューウェイヴ要素を残しながら、過去マタドールにいたときのようなインディペンデントな音作りをしているのがポイントの一つ。また、Vo. ポールはよく"Light"という表現を使う。今回も「ライツ(Lights)」という曲が収録されているが、これまで「ターン・オブ・ザ・ブライト・ライツ」「ザ・ライトハウス」などこの単語を多用してきた。その言葉にはポールにとって特別な意味があると断言できる。 リズミカルであり、インディーであり、オルタナティヴであり、ニュー・ウェイヴであり、ダークでありながら光を研ぎすます、まさに待ち望んだ音がやってきたというのが実感だ。

 また、若干余談ではあるが筆者とインターポールは交流が深い。2ちゃんねるで彼らは"インポ"などと略されているようだが、筆者とポールの共通の知人女性の家に一緒に遊びに行ったとき、その女性とポールが「ちょっと話してくるね」と言って別室に移動し、戻ってきたら何とパンツ一枚だったという経験がある。ポールは決してインポではない。故、この表現はなるべく避けていただきたい。

 それはさておき、この高揚感といい、こんな最高な音が他に何処にあるというのか! もうザ・ドラムスなどがちっぽけな存在に見えてくる一枚。是非これまでのファンも初挑戦の方もお手に取ってほしい。

(吉川裕里子)

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jenny_and_Johnny.jpg リラックスして横たわる二人。淡く気怠げなトーンに加工されたジャケット写真。裏ジャケットでは二人は腰に手を寄せ見つめ合っている。キス5秒前のポーズ。二人の名義はジェニー・アンド・ジョニー。タイトルは『I'm Having Fun Now』。なるほど、ずいぶんお楽しみのようじゃないか。勝手にしてくれよ...。いやいや、仲良きことは睦まじきことかな。

 子役としてのキャリアがあったことも頷ける美貌の持ち主にして、世界的な成功も収めたバンド(日本では未だ地味な扱いだが...)、ライロ・カイリーの花形ヴォーカリストで最近はソロ活動も活発なジェニー・ルイスと、才能溢れるシンガー・ソングライターであり、ハンサムな顔立ちながらここ数年は少しポッチャリしてきたお腹もチャーミングなジョナサン・ライス。既によく知られているように、2005年にブライト・アイズのコナー・オバーストの紹介で知り合ったという二人は、お互いのソロ作品における共同作業や、ジェニーのツアー・バンドとしてのジョナサンのバックアップ(06年のフジロックや去年のサマーソニックでの来日にも彼はもちろん同伴している)などの過程で愛を育み、今ではUSインディー・ロック界を代表するベスト・カップルっぷりだが(※憎たらしい参考動画)、まさかここまでおしどり夫婦っぷりをアピールする作品がリリースされるとは(つうか、もう結婚しなさいよ)!

 僕は日常生活でライロ・カイリーのバンドTシャツを愛用しているような人間なのでここからはジェニー贔屓の目線で書かせていただくが、本作はほぼ全編において実に軽快なロック、それこそパワーポップと分類してもよさそうなほどの小気味いい演奏が鳴らされている。ルーツ・ロック回帰していたジェニーの過去二作に比べてサウンドはグっとモダンでエッジの効いた触感となり、昨年のジェニーのツアー(日本でのサマソニやその後の単独公演も、パワフルで本当に本当に素晴らしかった...)でも既に披露されていた「Just Like Zeus」などの楽曲も含め、アルバムを通して二人はデュエットし、パートを交換し合い、絶えず息の合ったハーモニーを重ねている(実際、この名義でのツアーにおいても、現在は本作から全曲と、ジェニーのソロ前作『Acid Tongue』収録の「Next Messiah」と、ジョナサンの07年作『Further North』収録の「What Am I Going to Do?」からなるセットリストが組まれているようだ。その二つの曲にはもともと二人が掛け合うパートが用意されており、要するに...ラブラブってことですね)。

 カリフォルニアチックな太陽の匂いとストイックなまでのシンプルさに支えられたこのポップネスは、前者はウェイヴス、ベスト・コーストといったオプスティミスティックな新興パンク勢、後者は初期REMを初めとする80年代USカレッジ・ロックにおけるバンド・サウンドや、彼女たち自身も交流のあるエルヴィス・コステロとそれぞれ近似性も指摘できるのかもしれないが、それよりは二人が互いのフィーリングを一致させ、長所を両立させながらノビノビと発揮できる理想的なスタイルが結果的にコレだった、というだけのことのような気もする。作曲に関しても二人の立場は平等で、むしろどちらかといえば本作からはジョナサンのソロ作のほうを強く彷彿とさせられる。最近のジェニーの嗜好やソングライティングにシンプル・ロックンロールな彼のスタイルが大きく影響を与えているのは『Acid Tongue』の時点で明らかだったし、このパワー・バランスも必然かもしれない。

 限定版ではCD・LP・EPの他にもカセットテープでのリリースまでされたようだが、たしかにカセットをデッキに突っ込んでドライブに出かけたくなるほどアッパーにさせられる(We're Having Fun Now! な)音楽だし、優秀なミュージシャン二人がタッグを組んだだけあってメロディ・センスも文句なし。今のところのライロ・カイリーの最終作『Under the Blacklight』における、バッキンガム/ニックス期のフリートウッド・マックにも譬えられたメジャー感溢れる端正なポップスからはずいぶん遠いところにきてしまったようにも映るが、しかし歌詞のほうは相変わらず鋭い切れ味もときおり垣間見せる。イーグルス「Hotel California」が告発したアメリカ/カリフォルニア幻想の崩壊から30数年が経過した「いま」の世界について歌っている「Big Wave」での、"living your life in the gray is the new American way"というフレーズから続けて描かれる、経済の不安定から個人的なインソムニアに至るまでの「アメリカの病理」を"大波がやってくる!"となぞらえてしまう辺りは、詩人としてのジェニーの健在ぶりを象徴するようである(楽曲自体はサーフ・ロックのマナーに忠実な軽やかさと爽やかなコーラスが印象的で、この味わいこそアメリカン・ロック!)。他の曲のリリックでも、随所に機知に富んだ箇所が見受けられるあたりはさすが。

 イチャイチャぶりをアピールするだけの作品とイタズラに揶揄するのがナンセンスな聴きどころの多い作品であり(でも収録時間は36分! 最高!)、「Switchblade」や「While Men Are Dreaming」などスローな楽曲の(ジャケの淡さに通じる)美しさも息を呑むばかり。もう一押しほしかったところもあるにはあるが、けっきょく最後はジェニーのスウィートで色っぽい歌声に毎度のごとく心をキュっと鷲掴みさせられてしまう(ジョナサンだって素敵よ)。それにしても、本作にはライロのメンバー、ピエール・デ・リーダーも参加しているし、メインでドラムを叩いているのは同じくライロのジェイソン・ボーセル(超余談だが、彼がキルスティン・ダンストと交際しているという噂は本当なんだろうか)。ファン心理としてはそろそろバンド名義の新作も恋しくなってきたが、各々がソロ活動にご執心なところを見ると「次」はもう期待しないほうがいい...のかな? The Electedも素晴らしかったギター弾きの色男、ブレイク・シュネットの動向についてもパッタリ話を聞かなくなったし...。

(小熊俊哉)

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brandon_flowers.jpg かつてデイヴィッド(キラーズのギタリスト)はとっておきのアイデアが詰まったテープを用意して、地元の情報誌に「バンド・メンバー求む!」の告知を出した。そのアイデアのなかには一瞬にして全世界を80年代ポップ・リヴァイヴァルの渦に巻き込んだ「Mr. Brightside」のデモも含まれていた。そして遂にリリースされたファースト・アルバム「Hot Fuss」は空前の大ヒットとなり、誰もが煌びやかでスケールの大きいシンセ・サウンドの虜になった。だがヴォーカルのブランドンは故郷であるラスヴェガスへの想いを断ち切ることができず、セカンドの「Sam's Town」では一転してアメリカン・ロックへの接近を試みた。歌唱法をブルース・スプリングティーンに似せて、リリックはより抽象的になった。彼らの代名詞でもあったシンセサイザーは少しばかり後退し、代わりにスタジアム・ロックの風格を獲得した。しかし、最も理解して欲しかったはずのアメリカでは不評だった。これにはブランドンも落ち込んだ。やはり自分たちのサウンドを変えるべきではなかったのか、と。しかし、その後彼らはスチュアート・プライスというプロデューサーと奇跡の出会いを果たし、セカンド・アルバムのアンセミックな感触はそのままに、ダンスの要素を再び全面に押し出して「Human」という一生ものの名曲を書き上げた。その「Human」を収録したサード・アルバム「Day&Age」は彼らの復活作として各国で大絶賛され、キラーズは名実ともに世界一を誇れるバンドになった。

 ふむ、これだけ見ればハッピーエンドの、素晴らしいバンド・ストーリーということになるだろう。だが、ちょっと待ってくれ。アメリカの雄大な大地の香りがプンプンしてくる「Sam's Town」はそんな簡単に失敗作で片付けられるべき作品では断じてない。現在のライヴでも盛り上がりまくるスタンダード・ナンバーを多数生み出しており、サウンドの広がりという点でも特筆すべきアルバムだ。これがなければサードの「Day&Age」は絶対ない。「Day&Age」はファースト回帰などではなく、「Sam's Town」の空気もたっぷり吸っている。なぜこれだけセカンドの重要性を説いているかというと、ブランドン・フラワーズのソロ作がこの「Sam's Town」で扱ったテーマと深く関係しているからである。アルバム・タイトルの「Flamingo」とはラスヴェガスの中心部を走るフラミンゴ・ロードにちなんでつけられており、大仰なシンセサイザーとどっしりとしたテンポが予感的な冒頭曲のタイトルもまた「素晴らしきラスヴェガスへようこそ」なのである。ブランドンはキラーズのアルバム用に書き溜めた楽曲を使って、もう一度ソロでラスヴェガスという街を「擁護」しようと心に決めた。そこがいくら悪名高い地であろうと、彼にとってはかけがえのないホーム・タウンであり、「Sam's Town」に失敗作のレッテルが貼られていることは我慢ならなかった。そう、だからキラーズは今でもライヴの最後にセカンドの「When You Were Young」をプレイする。

 長くなってしまったな。では、その肝心のブランドンのソロ作の内容はどうなのか。サウンド的にはキラーズと何ら変わりない。感触レベルではやはりソロ作の趣も感じ取れるが、あり得ないくらいどの曲もアンセミックで、私のようなキラーズ・ファンであれば間違いなく心の中で拍手喝采だろう。私なんかテンション上がり過ぎて一晩中踊り狂ったぞ。うわーまじで日本来てくれよー! って切実に願ったぞ。野心ムンムンで結構。童顔に髭で結構。実はシャイで結構。ハード・ロックに勘違いされるのも結構。日本で売れないのは駄目だけど。さて、ここまで読んでくれたあなた、是非このアルバムを手にとってくれ。両極端にあるはずのジャンル、アメリカン・ルーツとUK的キラキラが当然のように共存する最高のアルバムだ。何だかよく分からないし、説明できないからこそ、ブランドン・フラワーズというアーティストは、あるいはキラーズというバンドはあなたにとって生涯最高の音楽体験になる可能性を十分に秘めている。私は本気で言ってるんだ。聴いてくれ、この機会に。

 ブランドンはいまもラスヴェガスの地平線のはるか向こうを見つめている。そのハートは熱く熱く燃えている。

(長畑宏明)

RATATAT 『LP4』(XL)

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ratatat.jpg 邦題を付けるなら、やっぱり「インコ大集合!」でしょう。ヴァンパイア・ウィークエンドの1stアルバムに付けられたトホホな邦題をあえて引用してみたくなる。そんなジャケットが素敵なラタタットの4thアルバムは、その名も『LP4』。前作が『LP3』だから当然なんだけれど、投げやりなのか周到に練られたコンセプトなのか、今のところ謎だ。1、2、3、4、...総勢11羽。覚めた目のインコたちがシンメトリーを描くジャケットの裏には「LET YOUR BIRD EAT ITS BEAK」の文字が踊る。「お前の鳥にくちばしを食わせろ」って、謎が深まるばかり。

 ヒップ・ホップのビートに乗っかるマイク・ストラウドの歌っているようなギター・リフとエヴァン・マストによるビンテージ・シンセのキャッチーなフレーズが相変わらず気持ちいい。今までは、ダフト・パンクに影響された「人力エレクトロニカ」という感じだったけれど、この「インコ大集合!」ではなく『LP4』では、よりアレンジの幅が広がって表現力がアップした。音を聞いていてイメージできる世界が本当にカラフル。だからライブやクラブで大音量で聞くと楽しいと思う。そして、ヘッドフォンでじっくり聞くのにもおすすめ。

 アルバム全体がちょっとユルめのBPM。アコギ、パーカッション、アナログなハンド・クラップなどが飛び交うサウンドにストリングスが奥行きを持たせる。サンプリングにも遊び心がいっぱい。虫の音や映画の台詞(ヴェルナー・ヘルツォークだって)、そしてインコたちの可愛らしいさえずり。音のレイヤーが本当に美しい。繰り返し耳を傾けていると実験的、というよりも音を楽しんでいる感じが伝わってくる。ライブで盛り上がりそうな「Drugs」では、泣きのギターとビュンビュン唸るシンセが炸裂。トロピカルなメロディの「Mahalo」(ハワイの言葉で「ありがとう」の意)は、なごみ系の小さな曲。アルバムは後半になると、どんどんトライバルでポップになる。ラスト3曲「Bare Feast」から「Grape Juice City」、「Alps」への流れが僕は大好きだ。この辺りが次のアルバム(LP5?)の布石になるのかな。

 ラタタットが鳴らす音楽には歌詞がなく、曲名も記号的。ビジュアル・イメージは極端にミニマル。テクノ/エレクトロニカのアーティストには多い手法かもしれないけれど、彼らの場合はどこか無邪気で人懐っこい。歌詞はないけれど、曲を聞けば思い浮かぶ風景や色がある。ニューヨークの賢くて意地悪な2人組は、僕たちのイメージを刺激する。しかも、踊れるんだから最高だと思う。でも、やっぱり11羽のインコたちが意味することって何だろう?それを思い描きながら聞くのも楽しい。

 僕がこのレビューを書いている今日は9月11日。あの出来事から9年がたった。偶然にも今こうして、ニューヨークから鳴らされるサウンドを聴きながら色々なことを考えた。忘れないこと。 

(犬飼一郎)

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disclosure.jpg 僕は最近「なぜインターポールを好きになれないか?」が分かった。インターポールがゼロ年代の音楽シーンに与えた影響は認めるし、彼らは商業的な成功も収めている。でも、僕にはインターポールがポストパンクのコピーバンドに見えてしまう(特に『Turn On The Bright Lights』期は)。ちなみに、「コピー」と「パクリ」は違う。「コピー」は文字通り複製だけど、「パクリ」は拝借、若しくは「引き継ぐ・受け継ぐ」といった意味合いがあると思う。そういう意味では、音楽の歴史はパクリの積み重ねで作られてきたともいえる。ルーツ・ミュージックと言われているブルースやカントリーだって、20世紀の発明品に過ぎないし、当然ブルースやカントリーの前にだって、音楽はあった。

「コピー」は音楽を広めることはあっても、発展させることはない。その「コピー」する対象に「なること」が目的だからだ。そういう意味で、僕はインターポールを好きにはなれない。しかし「パクリ」は、パクる対象の音楽を「やること」が目的だ。その「やること」には、「自分」が入り込む隙間があると思う。だから「パクリ」は音楽を発展させるのだ。そしてその「パクリ」に入り込んだ「自分」が、やがてオリジナリティを獲得していく。ビートルズだってレディオヘッドだってそうだ。みんなパクリなのだ。

 そしてディスクロージャーのデビュー・シングルである。はっきり言って、ツッコミどころがありすぎるくらいたくさんのパクリがある。UKガラージを基本として、エイフェックス・ツイン、オウテカ、オービタル、ジ・オーブなどなど。でも、お茶を濁す的に誤魔化して、「なんちゃってオリジナル」になることもなく、「だって好きなんだもん」というふてぶてしい感じも(アーティスト自身がふてぶてしい性格かは分からないけど)、好感を持てる。なんだか、ケミカル・ブラザーズをパクッたアトミック・フーリガンを思わせる(まあ、彼らの場合パクるセンスがイマイチだったけど)。グローファイやチルウェイヴに多く見られがちな、「好きなことをやってやる!」と肩を張りすぎて、結果的に趣味性が強すぎる内省的でつまらない音楽をやるバンドやアーティストが多いなか、こうした「軽さ」というのは、新鮮に映る。肩の力を抜いて、新しいセンスを見せつけてくれるのは、最近だとハドソン・モホークくらいでは?

 音自体は、決して新しいというわけではないのだけど、圧倒的なセンスが、すべてをOKにしてしまっている。そして、そのセンスというのが、なんとなくインディ的な香りを漂わせている。そこが、クッキーシーンの読者の琴線に触れるかも。「センスが大部分を占めている音楽は好きじゃない」という人もいるだろうけど、そこは大目に見て、まずは聴いてみてください。先に挙げたビートルズやレディオヘッドだって、最初はセンスが大部分を占めていたんだから。

(近藤真弥)

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gotan_project.jpg「世界は人間なしに始まったからこそ、人間なしに終わるだろう」とは、レヴィ・ストロース「悲しき熱帯」でのフレーズだが、果たして初めから人間は在るべきなのか、「在る」からこそ、喪失の儀式付けを行なうべきなのか、と考えるときに、「ダンスと貧困と愛的な何かの連関的な切なさ」が演繹される。私的にスクワット・パーティー的な瀬戸際の場所でふとマッシュアップで流れたゴタン・プロジェクトの音の破片は何故か、とても優しく悲しく、冒頭のような言葉を想い出さざるを得なかった。

 タンゴとは、そもそも19世紀末頃に生まれた混血音楽で、港湾町の貧しい一角で、キューバのアバネラのリズムなどを援用しながら、ブエノスアイレスの娼家や酒場でのダンスの伴奏としての音楽だった。ブエノスアイレスという街は、南米でも大きい港で、貿易に使われるだけでなく、ヨーロッパからの移民が上陸する場所でもあった為に、兎に角、様々な人種が行き交った。しかし、当時、本当は「アルゼンチンの白人」と言えば、スペイン人を指した。勿論のこと、19世紀の移民にはイタリア人、ドイツ人、ユダヤ人も、そして黒人も多かった。また、港湾町にはよくあるヤクザや娼婦の溜まり場にもなっており、そこで粗雑に酒場で「踊るための、あくまで伴奏」としてタンゴという形式が形作られていった。なお、1910年代後半に初めてタンゴに「唄を持ち込んだ」のはカルロス・ガルデルというのは周知だろう。カルロス・ガルデルは所謂、「歌謡タンゴ」と言うような域を越えていないものの、民謡にもいかず西洋にも被れず、独自の歌唱でアンソロジーとして纏められるような始祖にもなった。

 タンゴというのは、ベースはフルート、ギター、ヴァイオリンを用いて、リズムはどちらかというと「前のめり」で、20世紀に入ってからドイツからアコーディオンの一種という「バンドネオン」が入ってきたのもあり、それこそピアソラのような巷間的に通じる「タンゴ」の形式の鋳型が取られることになる。そして、結果的にフルートはなくなり、ピアノが導入されるものの、基軸はバンドネオンが担う事となり、あの重厚で哀愁なリズム感が産まれることになる。それと呼応するように、ブエノスアイレスではその頃、ヨーロッパ諸国からの貧しい移民の流入が相俟って、移民の持つ「悲しみ」とタンゴの、バンドネオンの持つ「悲しみ」はシンクロした。

 そして、第一次世界大戦の影響でアルゼンチン自体が好況にもたらされる中、パリジャンがタンゴに興味を示し、西洋諸国でもタンゴが用いられるようになり、結果として、タンゴは1920年代から1930年の間で洗練化されることとなりながらも、よりヘビーになる。

 そんなタンゴの歴史を踏まえ、エレクトロニカ的要素を加え、クールに上品に折衷させたのがゴタン・プロジェクトだった。兎に角、センスの良さもあり、デビューしてから映画、CMまで世界中で引っ張りだこになったので存在は知っている人は多いだろう。前作の『Lunatico』に至っては世界で200万枚をもセルアウトした。今回、彼等の4年振りのサード・フルアルバム『TANGO 3.0』が届いたが、良くも悪くも相変わらずの流麗な内容に終始しており、抜本的な梃入れや冒険は為されていない。ファースト・アルバムの中の「Epoca」のような決定的な曲がない分、地味だとも言えるし、生粋のタンゴ・リスナーからは相変わらず拒否される表層性と、ダンス・リスナーからは無視されるファッショナブルさが仇にもなっている。挑発的なアルバム・タイトル含め、フェイクを意図したスノビッシュさに溢れている。例えば、「La Gloria」では一瞬、「スラム」のスタイルを思わせる部分があるし、ストリート・ミュージックへ目配せをしてみせた部分も間接的にあるのも確かだが、あくまで「借り物」を自覚したシックな諦めが初めから投企されている。

 今回のゴタン・プロジェクトの提示する音像はファッショナブルに消費されてゆくだろう。その消費される場所は、もはや以前のようにダンスフロアーでも、インテリア・ミュージックでも、BGMでもないかもしれない。つまり、この音楽は別に「客体を求めていない」からだ。個人的に聴いていて、これだけの空虚性を感じた音楽は久し振りとも言える、意味も残響も何もない「無ではない」音楽。以前にあった、狙い済ましたようなフェイクネスさえも自らの力で、メタ的にフェイクで捩じ伏せた「人間のいない音楽」として現代的なフォルムを描く。

(松浦達)

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